龍の声

龍の声は、天の声

「中国 十八史略とは、」

2021-03-07 08:43:46 | 日本

中国 十八史略について学ぶ。



『十八史略』(じゅうはっしりゃく)は、南宋の曾先之によってまとめられた中国の子供向けの歴史読本。三皇五帝の伝説時代から南宋までの十八の正史を要約し、編年体で綴っている。「十八史」とは、『史記』から『新五代史』までの17史に曾先之が生きた宋一代を加えたものを意味している。


◎内容

最も古い刊行時期は至治年間(1321年 - 1323年)である。曾先之がまとめたものは2巻本だが、その後、明の陳殷によって帝王世紀や朱子学の書を元に注釈を加えられ、現在と同じ7巻本となった。さらに明の中期、劉剡が(朱熹の『資治通鑑綱目』に従い)三国時代の正統王朝を魏から蜀とするなどの改変を行なった。登場人物はおよそ4,500人。
陳殷は中国の歴史を簡単に理解するために正史の中から記述を抜き出して作られたものと述べているが、現在の研究では『資治通鑑』などからの抜き書きも多いことが判明している。野史(勅選書以外の民間人によって書かれた歴史書)も多く取り入れられている。特に北宋・南宋に関しては曾先之の在世中に『宋史』が完成しなかったため、野史類や著者・関係者の保有する記録類に頼るところが大きかったと考えられている。
その内容・性格は、子ども向け教科書的なものであり、今の日本で言えば「少年少女 日本歴史ものがたり」といったふうなものである。現代中国の歴史書としては、宋代までの歴史の抄本という事で価値は失われており、著者の曾先之の名も忘れられているのも当然である。
日本では、たいへんよく知られた書物だが、中国では、ほとんど知られていない。これは他の中国古典と大きく違う点だ。その理由は、この書が、当初は田舎の塾の教科書として、もっぱら子ども用に使用されたからである。しかも、著者が自分の見識によって書き上げた専著ではなく、『史記』や『漢書』など、有名な歴史書の要所を切ってつないだだけの、今風に言えばノリとハサミで作られた書物だった。だから、中国では、固有の価値を持った古典としては認められなかったのである。


◎日本での受容

日本には室町時代の後期、1526年(大永6年)に、上杉憲房が足利学校にこの書を寄進したのが最も古い記録である。
江戸時代を通じて幼年就学者のための読本として正しく認識されていた 。しかし明治以降、漢文教科書に多く採用されると、左伝や史記のような権威のある古典籍との区別を日本人は認識できなくなってしまった。
幸田露伴は、孫の青木玉が大学(東京女子大学国語科)で十八史略を学んでいると聞いて、「お前、十八史略なんざ、俺は五つくらいの時焼き薯を食べながら草双紙やなんかと一緒に読んだが、お前の大学はそんなものを教えるのか」とあきれ返り落胆したとのエピソードがある。
明治時代の前期には爆発的な流行となった。明治期に刊行された東洋史の出版数466点のうち、「十八史略」は136点と三分の一近くを占めている。しかし、1887年(明治20年)を境に東洋史の新たな通読書(田口鼎軒「支那開化小史」、那珂通世「支那通史』)が登場してからは尻すぼみとなっていった。その後は初学者用の歴史書としてではなく、漢文学習用のテキストとして確たる位置を占めることになった。そして昭和時代の後期には、経営者やビジネスマン向けの啓発や哲学を紹介するための本として出版されることもあった。
中国文学者の高島俊男は、中国では古くから子供向けの書籍であることが正しく認識されていたが、日本人はこれを典拠たりうる歴史書と勘違いしてきたと批判している。
戦後に陳舜臣の『小説十八史略』が人気を博したが、これは『十八史略』で扱われている範囲の時代を小説化したものであり、創作した部分も多く、別の書というべきものである。


◎貧賤(ひんせん)の交わりは忘るべからず。糟糠(そうこう)の妻は堂より下さず
(貧しいときの友人は出世をしても忘れてはならない。生活の苦労をともにした妻は偉くなっても家から追い出してはならない)

◎天知る、地知る、子知る、我知る。何ぞ知るなしと謂わんや
(「天が知っている、地が知っている、そなたが知っている、私が知っている。どうして知っている者がいないなどと言えようか」――後漢の楊震がある郡の長官として赴任した際に、その配下が訪ねて賄賂を差し出してきたことがあった。楊震が受け取りを拒むと「このような夜更け、他に知る者はいませんから」と言ったため、楊震が返したのがこの言葉である)

◎虎穴に入らずんば虎子を得ず
(後漢の班超が西域の国を服属させるときに言った言葉。危険を冒さなければ成功を勝ち取ることはできないという意味で厳しい決断を下すときに使われる)

◎士別れて三日なれば、即ちまさに刮目(かつもく)して相待つべし
(「ひとかどの人物は分かれて三日も経てば、それなりの成長を遂げているはずだから、目を見開いて評価しなければならない」――呉の武将である呂蒙は、かつて武略には自信があったが学問は苦手だった。その後、一念発起して勉学に励むようになったある日、先輩の魯粛が呂蒙の家を尋ねたことがあった。呂蒙のあまりの変貌に驚いた魯粛に対して呂蒙が語ったのがこの言葉である)

◎一利を興すは一害を除くに若(し)かず。一事を生ずるは一事を減ずるに若かず
(「有益なことを一つ始めるよりも有害なことを一つ取り除くことの方が大切である。新しいことを一つ始めるよりも余計なことを一つ減らすことの方が重要である」――大帝国を築き上げた元の名宰相・耶律楚材が政治の要諦について語った言葉)













最新の画像もっと見る