龍の声

龍の声は、天の声

歴代天皇&三輪族⑥」

2018-01-13 06:10:10 | 日本

「第106代 正親町天皇&三輪三人衆」


◎三輪三人衆入国

室町幕府末期、すなわち正親町(おおぎまち)天皇の時、天皇の女御が病気になられたのを、大和国三輪社家(神主)の三人が祈祷によって全快させたので、その褒美として美濃国 時、多良郷(現在の岐阜県大垣市上石津町)を賜い、永禄六年(1563年)に、三輪三人衆として、この地へ入国した。その後、三輪筑後は小山瀬、三輪佐渡は樫原、三輪豊前は名及に居住し、頗る村民を愛撫せしがば、良領主の名、今に伝わる。
この小領主、三輪三人衆は、一向宗の信仰厚く、浄徳寺、稲荷社などの建立、住民の信望も厚かった。

特に、三輪三人衆は、その支配下にあった名持百姓(頭百姓)二十一名による合議制により行政を推進した。「多良古郷禄」に「天正元年(1572年)之歳より名頭人あり、万事多良山中の儀は此名頭弐拾壱人寄合、談合相定り申候」と記している。そして政治向きの事は、城山前の辻堂に、仏事、神事向きの事は禰宜村の念仏堂に寄り合い協議して決定するという。すなわち、村落共同体(三輪氏を中心に惣村を結成し、百姓たちによる自治)が行われていた。

政治向きの事は城山前の辻堂に、仏事・神事向きのことは禰宜(ねぎ)村の念仏堂に寄り合って何事も相談の上決めていた。三人衆は仏法を深く信仰し上原に浄徳寺を建立し、仏像名号を寄進した。また、堂場を取り立て、貧しい人に衣食を施し、鳥類虫類をあわれみ、時多良と共に三輪の行く末長く続けと願っていた。しかし、織田信長の計略によって討たれてしまった。三輪の屋敷に押し入った丹羽金吾を大将とする兵は、屋敷の家財を残らず壊し、上原に入り稲荷堂まで打ち壊し、浄徳寺で酒食を調え休憩した。その時に、丹羽金吾は「この門は田舎に似ず立派である。山中よりの土産にする」と、山門を解体して大垣へ持ち帰ったといい伝わっている。三人衆が切腹の後、百姓の代表が辻堂に集まり寄り合いをしているところに、三人衆の奥方と若様姫君がこられ、今までの皆の厚情に感謝を述べ、三殿の辞世の短冊を見せられた。

「身輪行けど残る輪人にかた見なり  いづれにきに輪破られはせぬ」 三輪筑後

「名残とて露も結ばぬ前ぞかし ちりては花も色のなきもの」 三輪豊前

「何をかも形見とやせん此の里の  思うぞ名残りなき後の人」 三輪佐渡


以来この地には代々、三輪の一族が住んでいる。



                                                     <了>












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