龍の声

龍の声は、天の声

「美濃の剣術家のブログ②」

2014-09-01 22:41:23 | 日本

【技 法】


◎足遣いの大事

触刃の間合から左足を送り出し打ち間となり、右足を踏み込んで打突する。これは「歩み足で愉しむ剣道」の攻めから打突に至る基本動作のひとつです。触刃から打ち間となる過程で、相手の太刀を擦り押さえる、払う、巻き落とすといった仕掛けをおこないます。あるいは、触刃の間合で正眼に構えていた剣先を、打ち間に入りながら青眼(相手の左目につける)に変化させて、相手が出頭に打突してくるように誘引して応じ返す、いわゆる後の先の遣いもあります。もちろん常に左足と右足の関係を固定しているわけではありません。左足を送り出して小手を打つような業も遣います。送り足や継足や開き足を臨機応変に半ば無意識に遣っています。さらに付け加えると、打突時に右足を踏み込む時はドンッではなくタンッと軽くおこなっていますが、擦り足で送り出し踏み込まないこともあります。要するに彼我の関係において、臨機応変に足を遣うように修練しています。

足遣いは修業の大事です。大正初期から昭和初期の剣道普及期に、『剣道』をはじめとする教本で、著者の高野佐三郎講師(当時は東京高等師範学校の教員)は送り足を主体にすることを奨励しました。それは初心者を対象とした指導法の一環であったのです。修業が進む過程でさまざまな足遣いを臨機応変に駆使できるようにすることが必要だと解説しています。剣道の基本的な足遣いは、とりもなおさず大日本帝国剣道形(現日本剣道形)に継足以外は盛り込まれています。剣道の伝統を問題にするならば、剣道が編まれた明治末期から大正初期まで遡ることが必要です。先日、記しましたが、いわゆる浅薄な伝統に縛られてはなりません。刻一刻と変化するのがこの世のあり方です。剣道においても基本というお手本を参考にして、ひとりひとりが修業をいかに工夫するかが大事なのです。新陰流の三摩の位の教えのごとく、習い、稽古、工夫を循環させましょう。

足遣いを自由自在に駆使できるようになれば、高齢になっても若手と稽古をおこない、道を歩み続けることができます。初心者向けの足遣いに束縛されていては、修業を深めることはできません。送り足が基本であるという指導法には、「初心者においてはまず送り足を修得すること」という言葉が抜け落ちています。送り足こそが伝統に基づく足遣いであるという誤解が流布された結果、全剣連通達の「剣の理法の修練」でさえ忘れ去られています。

そもそも昭和56年に全剣連が、剣道とは「剣の理法の修練による人間形成の道である」という通達を発する必要があったのは、昭和40年代から剣道が一挙に竹刀道に変質したことに、当時の役員諸氏が強い危機感をもったからです。それまではさまざまな足遣いが並存していた剣道界でしたが、この頃から送り足こそが伝統的な足遣いであるという誤解が広まり始めたのです。昭和40年代に活躍した若手の剣士が後年剣道界で指導的立場になった時、剣道は送り足でおこなうものという誤解の固定化が始まりました。戦前まで隆盛を誇っていた神道無念流の中山博道一門が、歩み足を主体とする足遣いであったことは周知のことです。軍刀術の研究等で帝国陸軍と強く関係していた中山範士は、敗戦後、占領軍政下で一挙に影響力を喪失しました。門人の多くは中山範士のもとを去りました。歩み足を主体とする「剣の理法」にかなう剣道は、急速に廃れてしまいました。

こうして剣道は競技性を強く帯びた竹刀道に変容しきったのです。現在指導的立場にある剣道家の大半は、ご自分たちの竹刀道こそが“伝統”に裏付けられた剣道であると信じているのですから、これほどの矛盾はありません。

足遣いは道理にかなうように自然であることが大切です。


◎足攻めと太刀攻めの連動

足攻めと太刀攻めを連動させる基本的な身体操作を教えて下さいました。それは送り足を主体とするものでしたが、先生ご自身は大人同士の地稽古では歩み足を遣うこともありました。特に上段に構えた相手には、足攻めと太刀攻めを上手に遣う必要があると。上段の相手に対して間合を詰める際、左右の足の動きと剣先の動きを連動させて、誘い引き出して応じ返す。相手が間詰を嫌って間を切ろうとする動きの始動に、左足を送り出して左片手突き。この遣い方は絶妙。足攻めを先行させ相手との位置関係を変えながら、太刀攻めで制しあるいは誘い引き出して打突の機会をつくる。

◎足遣いを錬る
攻めが誘いになり、誘いが攻めになる足の遣い方はいくつかありますが、よりよく錬りあげるためにさらに掘り下げてみたい。臨機応変に足を遣うために、送り足で攻める、歩み足で攻める、送り足で誘う、歩み足で誘う。歩み足は剣術の理法を色濃く残す足遣いです。左足を送り出して打ち間を制して相手の動きに乗って打突するのですが、このあたりの足遣いをもっと掘り下げてみたいと思います。


◎足の遣い方

私の足の遣(つか)い方を観察してくださった方からコメントを頂戴しました。
・3つの遣い方がある。① ひとつめは、送り足で攻め合い、機をみて左足を送り出し打ち間に入りながら打突の機会を作り打突する。② ふたつめは、小さな歩幅の歩み足で進退して相手を誘い出して応じ返す。③ みっつめは①と②を混合して遣う。

おっしゃるとおりです。おおよそこの3つの遣い方に収斂してきました。

『兵法家伝書』や『五輪書』には異口同音に、相手の意表を衝(つ)き動揺を誘い勝つべし、との教えがあります。相撲の猫だましのように業前(わざまえ)に意表を衝くのです。えっ、なに、なにをするんだと、一瞬にして相手を迷宮にお連れするのです。わたしはそんな騙し合いみたいな剣道って嫌いです。堂々と構え合い、中心を取り一足一刀の間合から捨て身で正面を打つのです・・・ということが通用する相手はそうそうありません。攻めが誘いになり、誘いが攻めになる、攻め誘い意表を衝く。今後も3つの足遣いを錬りあげつつ修業してまいります。


◎左足前の霞の構え

相手が左上段や二刀であるならば、霞(かすみ)の構えが効果的です。対二刀では正逆ともに有効です。左足を前に右足を後にして、左拳はおおよそ鳩尾(みぞおち)の前に拳4つ分にとります。刃を右斜めに少しばかり傾け剣先は相手の右目につけます。誘いが攻めになり、攻めが誘いになる「先の先」と「後の先」は表裏一如と心得て、両方の足を歩み足、送り足、開き足と自由自在に遣い、ユルユルと間合を詰めます。間合を詰め攻める時は、剣先を相手の左目に移しながら右足をユルリと送り出します。チャカチャカと足を微動させ、調子をとりながら打突の機会を窺(うかが)うのでありません。足遣いも太刀遣いもユルリサラリと遣います。


◎左足前の霞の構え

修業は一人一様です。独りよがりになるのは愚かですが、付和雷同して右顧左眄(うこさべん)すれば、修業は空転します。習い、稽古、工夫という修業の循環の中で、すべては自律してなすべきことをなせばよいのです。他者の評価は参考にすればよいものであり、影響されてはならないと思います。


◎歩み足で攻め打突する

中段から歩み足で攻め打突する基本を記します。まず、両足裏三点に加重することが必要です。つぎにゆったり歩く速さで左足を前に擦り足で送り出し、間境(まざかい)を越えます。間境を越えるまで剣先は振り上げません。あるいは間境を越える直前にゆらりと下段に落します。後は右足を送り出し軽く踏み込み、左拳を自分の口の前まで振りかぶり切りつけるような手の内で打ちます。突く場合は中段の構えから左手を引き右手を送り出すように手の内を遣います。試してみて下さい。


◎歩み足のおもしろさ

日常生活では歩み足を使い、送り足はまず使いません。剣道では送り足を主体にして、歩み足は間合が遠く離れた時に使うなどと指導されています。しかし、剣道においても歩み足を主体に遣(つか)う理(ことわり)を正しく認識し、稽古すればだれでも業前(わざまえ)に強くなれます。送り足を前後に小刻みに遣いながら打突の機会を窺(うかが)う剣道ではなく、歩み足で間境(まざかい)を越えつつ、相手の構えを崩し、意図した打突動作に誘引して応じ返すなど、理合の通った遣い方を実践できるようになります。結果として立合に強くなります。

左踵を上げ浮かせ蹴り跳ぶ剣道で身体を痛めた方は多いですね。痛い目にあってはじめて、一般的に正しいとされる足構えが身体構造と相いれないものだと、私は45歳でまさに痛感しました。歩み足主体に切り替えてみると、「剣の理法」の構成要素である呼吸、目付、間合、拍子の遣い方が少しずつみえてきました。むろん、剣道は近代に編まれた競技ですから、ルールの下(もと)で勝敗を競います。しかし、歩み足を主体にすると武術的な遣い方が身体操作に現われてきておもしろい。剣道はこういうものだと決めつけないで、呪縛を解き放ち、創意工夫すること。これ、すなわち、一人一様の道。歩み足を遣っても一本の要件を満たした打突であれば、当然一本になります。ここに実践している人がひとりおります。要は必要があれば実践すればよいのです。


◎足遣いのひとり稽古

足遣いがしなやかになめらかにできるようになると、剣道の修業はおもしろくなります。足を遣って、打突の機会をつくり、足を遣って打突するのですから、理合に沿った足遣いができることが肝心要。この理(ことわり)が骨身にしみてわかっているといないとでは、修業のあり方に大きな差が生じます。

大鏡の前で、木刀を持ってひとり稽古をします。まずは一人の相手を想定して、さまざまな理合を思い浮かべながら、さまざまな足遣いを自在に遣い、崩し打つ、突く。誘引して応じ返す。つぎに二人、三人、四人、五人と相手を増やして稽古を重ねます。相手の人数が増えると、円転や切り上げが有効だということに自然に気づきます。こうなると剣道ではなく剣術のような状態になります。味方も二人、三人・・・と増やして連携して複数の相手を制し勝つ想定もおもしろい。30分もおこなうと、近代剣道の呪縛から心身が解き放たれる感覚を味わえます。自由自在に身体を躍動させることが、いかに人間の心身の可能性を引き出すか、頭であれこれ考えるよりも、実際にやってみればよいと思います。

木刀を刀(ここでは模擬刀)に持ち替えて、同様にひとり稽古をおこなうとさらにおもしろい。無理無駄のない動きを身体感覚が求めてくるのが実感できます。小太刀を遣ってみると、さらにさらにおもしろい。日本剣道形の小太刀の形三本にその一端が示されている体術主体の遣い方を体感できます。

こうしたひとり稽古を重ねつつ、形稽古や竹刀による稽古をおこなうと、どのような感覚がほとばしるか。それは実践した経験がない方々には想像もできないほど、豊かな世界です。混乱などしません。彼我の関係を見通すことができるようになります。打った打たれたに執着しないで、稽古を愉しめるようになります。いわゆる「正しい基本」の世界だけに留まることなく、剣術や体術を、たとえ生兵法(なまびょうほう)であっても実践すると、修業にひろがりと深みが宿ります。

どのように剣道の修業をおこなうか。それは自由です。「正しい基本」から逸脱すると悪癖が着いてしまうのではないか、と危惧する方はそのまま「正しい基本」の世界で完結した修業をお続け下さい。
いずれにしても修業のあり方は一人一様(いちにんいちよう)です。









「美濃の剣術家のブログ①」

2014-09-01 08:03:49 | 日本

現代でも、美濃の国には大した剣術家がいる。剣一筋の凄い人物である。この剣術家のブログには学ぶところが多々ある。われもまた、人生の修行に日々をおく身。しっかりと学び、精進を期す。
以下、要約し4回にわたり記す。


【心 法】

◎捨てること

恐れや迷いからいかにして脱却するか。たとえば、仏陀オリジナルの教えを記録したとされる『スッタニパータ』や『ダンマパタ』には、日常的な場面に即して、無理なく安寧の道を歩む知恵が集められています。生存欲に起因する我欲が人を苦しめる。思いどおりにならないと失望する。失望が怒りに転じる。怒りは恐れを呼び、迷いを深め心身の柔らかさを失わせる。

数多(あまた)の武の教えは、仏陀の教えから導き出された「捨てること」を核にしています。究極は生存欲を捨てること。誤解してはなりません。生存の欲求を捨てることは、自らの命を絶つことではありません。生きて存在することになりふり構わず執着しない。捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ。

意志堅固に清らかに生きることを指針にして、我欲の執着を捨てた生き方を実践すること。歴史をひも解けば、我欲の執着を捨てきって、大事を成し遂げた人々に出会えます。この時代にも大勢いらっしゃいます。

一方、徹底的に我欲に執着し、金融の仕組みを編み出しグローバル・ネットワークを構築して、舞台裏から操作しながら世界を牛耳っている人々の系譜も連綿と存在しています。そうした系譜の存在を知った40歳の頃、暗然としました。金融操作プログラムの犠牲になった膨大な人々の無念を思う時、怒りがこみあげてきました。しかし、怒りは捨てました。捨てましたが容認はしません。この世のあり方を非力ながら模索しています。


◎自信を育てるために

自らを信じることは大事です。自信過剰になり少々暴走するのも、状況によってはよしとすべし。自信をもって生きたい。たとえば自信をもって立合に臨み、自由自在、臨機応変に業(わざ)を駆使したい。そのためには、他者に対してもそうですが、自分自身もほめて育てることが必要です。小さな進歩でもよし。あるいは失敗しても失敗から学び得たことを生き方に活かすことができたら、ほめてあげましょう。自信とは自らを認めることです。自らを認めることができる人は、他者にも寛容です。人は認め合うことで心を育て合うのです。人の心の悪も大事なものです。正視してしっかり認識しましょう。悪は悪として認めてあげましょう。正しきことと悪しきことはメビウスの帯のごとく表裏一体です。世の中はきれいごとではないからこそ、自信をもって柔軟に生きていくことが大事ではないかと。


◎信頼の力

相手を信じ頼みにする関係から生まれる力。それこそが世の中を成り立たせているもの。相手の正邪を見極めることは状況によっては必要です。邪であれば、当然のことながら信頼しません。しかし、あらかたは信頼関係の中で生活は成り立っています。

剣道の修業を通じて、信頼関係の大切さを幾度も痛感しています。
剣術の修業を通じて、先人たちも同じような感慨を抱いたことでしょう。

私の身内や地域の方々、剣の道でご縁を結んだ方々とは概ね信頼し合えています。
ありがたいことです。このありがたさがあるがゆえに、時に困惑するような事態に遭遇しても、ひるむことなく対応していけます。


◎自然と共に生きる

川合玉堂は達人です。当ブログのプロフィールに作品をひとつ掲示しました。いかがでしょうか。彼の作品には自然と人が融和して生活していた時代の美しさと知恵が描き出されています。私はかつて郷里で、田植えを手伝ったり、錦秋の頃になると朝霧の中を家族と連れだって持ち山で松茸狩をしたり、春夏秋冬、自然に抱かれるようにして暮らしていました。剣道の稽古後、静座の最中(さなか)に、こうした光景が浮かんでくることがあります。それは、リラックスした状態をもたらします。人類は自然を簒奪(さんだつ)して生きる道を歩んでいます。自然と融和しながら暮らす道はないものでしょうか。


◎覚悟の力

打たれたくない、負けたくない、と思う気持ちはだれにでもあります。しかし、その気持ちが空回りすると、結果的に打たれ、負けてしまいます。深い呼吸で執着を離れ、よりよい稽古、よりよい試合をすることに集中する覚悟をきめる。こうした姿勢を堅持して修業のあり方を一歩一歩深めていきたいものです。我欲に執着すれば、次第に心身のあり様に狂いが生じてきます。執着を捨てる覚悟を持てば、心に妄想が巣食わなくなります。執着を捨てなすべきことを一歩一歩着実に。


◎空のこと

空(くう)とはおもしろい考え方です。執着がさまざまな苦しみを生む。この世の本質は空だと考えれば、執着は消えて苦しみを感じることもなくなる。なかなか、そのように素直になれないので、効き目があるとされる言葉を唱えて、心の中を空っぽにする。一時しのぎであっても、たとえば呪文や真言や念仏を唱えて、心の中に居座る苦しみを消し去ろうとする。穏やかな境地になれるのであれば、アルコールやドラッグに依存するような危険を冒すよりも、よっぽどよい。これは生きがたいこの世を、前向きに生きる知恵です。

剣道の稽古をしていて思うことがあります。修業に執着してはならないということです。その佇まいや所作や業の遣い方が、やわらかくしなやかでありたい。なかなか、まだまだ、空にはほど遠い。


◎播磨武蔵研究会

ネットの播磨武蔵研究会の論文を丹念に読むと、新免玄信(通称宮本武蔵)の実像が浮かびあがってきます。武蔵は播磨の生まれで同族の美作新免氏に養子に入ったと認識していたのですが、そうではないようですね。播磨で生まれ、成人前に九州の豊後に在住していた武芸者の新免無二の名跡を継承し、京に上って以降は数多の立合を重ね・・・最晩年に後世『五輪書』と名付けられた兵法書の草稿を書いた、という。美作の宮本村で生まれ云々は、所有者がいなくなった土地をわが物にする意図をもった人物が後世に捏造した伝承であることは承知していました。そもそも宮本村という村名は近世末にやっと登場するといった傍証も理にかなっています。播磨の印南郡米田村の赤松支流田原氏の出身という説が、半ば意図的な誤伝であるということも、綿密に論証されています。『五輪書』の現代語訳と解説も秀逸です。


◎円明流継承者が読み解く武蔵『五輪書』の剣術

剣道と剣術の術理は大きく乖離していますから、武蔵の説く術理をダイレクトに一般的に正しいとされる剣道に適用することはできません。ただ、私は両足の足裏三点(拇指球・小指球・踵前)に加重し歩み足を主体としているので、武蔵の説く身体操作法のいくつかを適用することができます。上記のように、私は、剣道の基本として普及している、左足の踵を浮かせ拇指球に荷重して、一足一刀の間合から跳びこんで打突するという身体操作法から脱却しています。そうしたことから、本書で読み解かれた武蔵の術理を「歩み足で愉しむ剣道」に適用してみることができます。とはいうものの、二刀でもなく、下段から切り上げて打つこともなく、表面的には剣道なのですが。