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「日本で育つ資本主義の新しいカタチ“承認”」

2014-09-11 09:00:33 | 日本

藤 和彦さんの論文「日本で育つ資本主義の新しいカタチ“承認”」が実にいい。新しい時代を見据えた内容である。
以下、要約し記す。



ドイツの長期金利(10年物国債利回り)が初めて1%を割り込んだのに続き、日本の長期金利も1年4カ月ぶりに0.5%を下回ったことから、「世界経済の日本化が進んでいる」との懸念が高まっている。

『資本主義の終焉と歴史の危機』の著者である水野和夫・日本大学教授は、「資本を投下し利潤を得て資本を自己増殖させることが資本主義の基本的な性質であるが、利潤率(国債利回り)が極端に低いということは資本主義が資本主義として機能していない兆候である」として「資本主義の死期が近づいているのではないか」と警告を発する。

そもそも「資本主義」という言葉は19世紀中頃から英国で使われ始めたと言われている。

19世紀中頃は、重厚長大産業の勃興期である。この時期に、巨大資金を確保するためこれまで市場化されていなかった生産要素(土地・労働)が強引な形で流動化させられた。そのことにより、労働者をはじめ一般の人々が将来の見通しを失い「根無し草」化するなどの弊害が一気に噴出した。そこで、マルクスは『資本論』を出版してその問題点を鋭く追及した(第1巻の刊行は1867年であり「資本主義」の命名者はマルクスかもしれない)。

リーマン・ショック以降、世界の市場参加者が疑心暗鬼になり、市場の信頼が失われたままの状態が続いている。人や将来に対する信頼が欠落したら経済活動はうまくいかない。各人が自己防衛のために合理的に行動することで社会全体の厚生が下がる「合成の誤謬」の罠に陥ってしまうからだ。

新自由主義派が処方する経済政策は人々の「期待」に働きかけることを主眼としているため、その効果が疑問視され始めているが、このような状況下で資本主義があくまで利潤追求に走れば、中間層を没落させ、国家の内側に「中心/周辺」を生み出していくシステムと化してしまう。

民主主義は、価値観を同じくする中間層の存在があって初めて機能する。このままでは「資本のための資本主義」によって民主主義が崩壊させられるとの危機意識も高まっていることから、「信頼で成り立つ公益資本主義」への期待が各方面から高まっている。

公益資本主義を提唱する代表的論者である経済学者の中谷巌氏は、「資本主義以後の世界を主体的に構築できるかどうかは、もっぱら市場を通じた『交換』を軸にして成長を実現してきた資本主義世界を『贈与の精神』をキーワードに利他の精神を組み込んだ新しい体制に転換できるかどうかにかかっている」と主張している。

近代以前の人々は、贈与という行為を通じて人と人とのつながりを生み出す共同体を作り上げていた。しかし近代になると、贈与の精神は忘れられ、人々は交換だけで世の中が運営できると錯覚してしまった。「功利主義的な交換だけでは人間が互いに依存し合うことができる社会が形成されず、個々の人間が孤立してしまう。だから、社会が荒廃した」との認識から、「今こそ贈与の精神を復活すべし」とのかけ声は勇ましいが、「贈与の輪」は広がらない。


◎「承認」されることを求める若者たち

贈り物を受け取ると、私たちは通常、お返しをする。お返しをしなければ共同体内における贈与の連関が途絶えるからである。だが、贈り物をする際に「必ず贈り物を返してくれる」と期待すれば、そのような行為は真の意味での贈与ではなくなる。つまり、単なる交換にすぎなくなる。真心から行う自発的贈与ならば、相手から等価の返還を期待してはいけないのだ。ところが、何の見返りもなければ、贈与が社会制度として定着しない。これがいわゆる
「贈与のパラドックス」である。

ここで最近日本の若者の間で興味深い現象が生じていることを紹介したい。

今、「海外旅行には興味がない」と言う学生は多い。そんな中で、学生に人気の海外旅行ツアーがある。それはボランテイア旅行だそうだ。例えば「ベトナムの孤児院に行って子供と遊んで、おむつを洗う」「南の島の珊瑚礁の海に潜って、ゴミを拾う」などボランテイアとセットにした旅行ツアーを組むと学生が多く集まるのだという。「他人の役に立っている」という体験を通じて「自分が必要とされている」という実感を持つことで幸福感が得られるというのが人気の理由である。

本来のボランテイアは自主的に無償で社会活動などに参加することであり、一種の贈与である。一方、彼らは「他人から“承認”されるという実感」という見返りを求めてお金を使っている。承認を得るためにお金を使う行為のことを、社会学者の山田昌弘・中央大学教授は「アイデンティティ体験消費」と命名している。


◎しかし、なぜ今「承認」なのか。

近代以前は宗教やコミュニティがあって、その中で日常生活を送っていれば自然と承認が得られた。しかし、近代以降はコミュニティ等が衰退したために承認を自動的に得られなくなり、自らの手でこれらを掴み取る必要が生じたのである。その際、「お金」が介在するというのが資本主義というシステムの特徴だ。

戦後の日本は1980年頃までは「豊かな家庭生活を作ればハッピーになる」という物語の下、「家を建て、家電製品を揃え、レジャーに 出かけ、子供を大学にやる」という行為にお金を使う「家族消費」の時代だった。その後、社会の成熟化に伴い、家族とは別に個人の消費が顕在化した。

その代表がブランド消費である。ブランド物を持っているとみんなから評価される(承認される)満足感を得られるが、バブル崩壊後、収入が将来にわたって低下していく社会では、幸福を生み出すと期待されるブランド商品を買い続けることができなくなってしまった。

さらに、「職業を持ち、収入があるということはその人物が社会的に承認されていることの指標になる」という不文律が絶大な力を誇る日本では、ちゃんとした正規の仕事に就いていないと「自分は社会にとってどうでもいい存在である」と思い込み、「承認されていない」感覚が生じて社会的に孤立するケースが多いと言われている。

山田氏は、追い詰められた若者たちは「家族とかブランドとか、そういうまどろっこしい回路を通さず、直接に承認や評価を買ってしまおうという幸福への新しい試みが始まった」と言う。

承認を得ることに直接お金を使うという新しい幸福の物語を日本で作り、それを皆で共有し深めていくことが、新しい資本主義の1つのヒントになるかもしれない。

資本主義の「強欲」はしばしば反道徳的と非難されているが、「成長」という前提の下で不確定な未来のために自分を懸けるという意識があった。「成長する」という感覚がなくても未来に対する配慮を持つためには、「歴史が醸成してきた自らの国民性や国柄」を振り返る姿勢を、私たちはこれまで以上に強めていく必要があるのではないだろうか。

マズローの欲求段階説ではないが、「生理的」「安全」の欲求を満たされた私たちは、「承認」に対する欲求の価値が飛躍的に高まっている。私たちの「承認」に対する希少性は、19世紀末の「資本」のそれに匹敵すると言っても過言ではない。

水野氏は、「次の覇権は資本主義とは異なるシステムを構築した国が握るが、その可能性をもっとも秘めている国は近代のピークを最初に極めた日本である」と予言する。私たちは過去の叡智も総動員して、「承認」をうまく回していくシステムを導入することで新たな資本主義社会の可能性を世界に提案しようではないか。