スヌスムムリクの生々流転日記

過ぎ行く日々の風景(2012.5.4~)ご訪問ありがとうございます。

宮城氷川神社「浅間神社」

2013-10-16 22:30:00 | 富士塚

富士塚No.59

さて、足立区最後の目的地である宮城氷川神社へやってきました。

所在地:足立区宮城1-38-6

宮城氷川神社由緒

祭神素盞嗚尊、例祭毎年九月十五日 当社の由緒は旧記を欠きその詳細は明らか ではない。しかし按ずるに南北朝時代(一 三一八ー九二)の昔武蔵国豊島郡一円を領 していた豊島重信の子重中が新たに足立郡 宮城の地を開発し、宮城八郎と称して居館 をこの地に構えたとき守護神として足立郡 大宮郷(現埼玉県大宮市)に鎮座する式内 社(延喜式神名帳記載)武蔵一ノ宮氷川神 社の分霊を勧請して祀ったのが始めであ る。そのころ宮城の地名はすでに足立姫に よる姫の父足立庄司宮城宰相の名に基づ き、地名として存在していたものと考えら れるが伝説による人物は、人皇四十八代聖 武天皇の神亀天平時代(七二四ー四八)の 人なれば、その実在必らずしも信ずべきに あらず。重中の後四代の子宮城泰業のころ 泰業は相州小田原(現神奈川県小田原市) の北條氏に属し、武蔵国岩槻城(現埼玉県 岩槻市)にあったが天正十八年(一五九 〇)七月北條氏政が豊臣秀吉によって滅ぼ されたとき宮城氏も亦北條氏と共に滅び た。しかし守護神は宮城氏没落後も猶この 地に鎮座し、江戸時代宮城の地が近世村落 として成立したとき、改めて鎮守社として 之を祀り、十一面観世音菩薩を本尊とし た。蓋し神仏習合によるものである。 その後、大正二年三月、荒川河川改修工事 が行わるるや、工事遂行のため社殿移転の 議が起り、その結果現在の宮城一丁目三十 八番六号の地に遷座することになった。し かしその社殿も昭和二十年四月十三日の戦 災により焼失したので、昭和二十年十月旧 地に再建した。しかるにその後該地に宮城 公演が設置されることになったので、境内 の一部と公園敷地一部を交換して昭和三十 年十月現在の地に新築移転することにな り、今日に及んでいるのである。因みに境 内には伊弉諾尊伊邪那美尊を祭神とする三 峰神社、木花咲邪媛命を祭神とする浅間神 社、宇迦御魂命を祭神とする稲荷神社、が 摂社として祭祀されている。昭和六十二年 正月朔日(境内掲示より)

宮城氷川神社鳥居

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宮城氷川神社拝殿

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水天宮と稲荷社

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浅間社鳥居

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三峰社と浅間社

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浅間社右側より撮影

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裏側から撮影。

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浅間社祠

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おそらくこちらで足立区の富士塚はほとんど回ることができたかと思います。

しかし足立区は溶岩石を積んだ立派な富士塚が多かったです。

それに足立区なんてこんなに歩いたのは初めてだったので景色がとても新鮮でした。

今度はどこら辺を歩こうかな・・・。


千住神社「千住宮元富士」

2013-10-15 23:00:00 | 富士塚

富士塚No.58

勝専寺から少し歩き千住神社へやってきました。

所在地:足立区千住宮元町24-1

 

由緒

およそ一千年前、この地は千崎という丘陵 で、原始的森林地帯であった。やがて開拓 民がここに住みつき、延長4年(926)に稲 作の神を勧請し、石造の祠を建て、千崎稲 荷神社として五穀の豊作を祈願していた。 弘安2年(1279)氷川神社を勧請したので、 二つの神社が原始林の中に並び、「二ツ 森」とも言われて、住民の信仰を集めた。 江戸時代の初期、日光街道が開通すると、 千住は初宿となり、宿場の西方にある神社 ゆえ、西の森と唱えられた。明治6年千崎稲 荷神社と氷川神社を合祀して、 西森神社と 号し、大正4年に千住神社と改称した。 祭神は、須佐之男命と宇迦之御魂命の二神 を祀り、明治7年に区内唯一の郷社に列せら れた。当社殿は、昭和20年4月13日の空襲で 焼失したが、氏子の厚い信仰と熱誠により 昭和33年9月、現在の社殿(権現造り・流れ 作り・神明作りの三者混合)が完成した。 (足立区教育委員会)

千住神社鳥居

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千住神社拝殿

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松尾芭蕉の碑

ものいえば 唇さむし 秋の風

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千住神社神楽殿

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千住神社延命稲荷社

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廻転恵比寿社と後方に天満宮

廻転恵比寿

「千寿七福神」の一神。もともと境内末社の恵 比寿神社より分霊された。恵比寿像を3回まわ し、祈願によって定められた像の部位を白いハ ンカチで撫でて祈願するという一風変わった参 拝の仕方が特徴的。

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千住神社境内社

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千住神社経王稲荷社

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千住神社浅間社

残念ながら登ることはできません。

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時計回りに撮影。

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左側から撮影。下の丸い石は力石でしょうか?

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左側後方。石の階段があります。

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後方より撮影。

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右側後方。こちらにも石の階段がありました。

どちらの階段も昇り降りが大変そうです。

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この穴はご胎内でしょうか?

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左前方より撮影。石碑がたくさんあります。

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山頂の浅間社祠。高さ4mくらいですかね。

こちらも立派な富士塚でした。

そういえば由緒が書かれた看板がなかったな・・・。

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寒桜が2~3輪ほど花を咲かせていました。

なんか儚いですね~。

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これで足立区の目指す富士塚はあと1基になりました。

少し離れてるんですよね~これが・・・。


大川町氷川神社「大川富士」

2013-10-14 22:30:00 | 富士塚

お祭りを眺めながら河川敷に沿って大川町氷川神社へやってきました。

富士塚No.57

所在地:足立区千住大川町12-3

概要

大川町氷川神社は、足立区千住大川町にある氷川神社です。大川町氷川神社は、永仁年間の創建とされ、千住七福神の布袋尊です。

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左側に柱のようなものが見えますね。

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なんと旧千住新橋の標柱を移してきたとのことです。

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千住七福神布袋尊

なんか見たことある?皆さんの周りにも似た方いらっしゃいませんか?

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紙すき碑

足立区は、江戸時代から、紙すき業が盛ん であり、新編武蔵風土記稿にも、各村の項 でそのことが述べられている。 この歌碑は、天保14年(1843)6月晦日、 幕府の命により、地すき紙を献上した時の 喜びの記念碑である。 碑文の上部に、永(永続連、同業組合の 印)の題字があり、「水無月のつこもりの 日公より岳のすき立仰付られる時」という 前書きが続く。歌は「すきかえしせさする わさは田をつくるひなの賎らにあにしかめ やも」「天保十あまり四とせ癸卯四角斉丸 勇」と刻まれている。 紙すきが、稲作にも劣らない仕事であると いう自讃の歌である。台座石に二十一軒の 問屋石が記されている。 荒川放水路開削のため、この碑は、大正6年 に移転し、再建された。 足立の紙すきを物語る貴重な資料である。 (足立区教育委員会)

大川町氷川神社拝殿

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大川富士

 

 千住川田浅間神社富士塚 富士塚は文政7年(1824)築造。最近木花開 耶姫命。現在地に移築される以前は、町の 西北(元宿)川田耕地に、氷川社、稲荷社、浅間社が同じ境内に鎮座していた。 明 治44年荒川放水路開削工事開始に伴い、大正5年5月、現在地よりやや西側に移築され た。その後、東京都の水道幹線工事のた め、昭和43年6月現在地に移築復元され、今日に至っている。 塚は、富士山の溶岩を積み上げ、固めて築造され、高さ3mである。 山頂に、天保2年(1831)銘の石祠が安置さ れている。塔碑が多く、最古の碑は、文政7 年(1824)のもので丸藤惣同行富士33度大 願成就とある。 この講社は、高田(早稲田)の身禄同行の枝講で、講名を、丸藤千住13夜同行と呼 ぶ。講中は、千住5丁目と、千住大川町全域 に及び、かつては、対岸の埼玉県を含む広 範囲な地域の農民中心の講社であった。 毎年7月1日祭礼が行われる。(足立区教育委員会)

富士塚は本殿の左側にありました。教育委員会の説明のとおり移築されたみたいです。

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それでは今回は時計回りに撮影してみました。

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左後方から撮影。

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ちゃんと道がありますね。

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それでは登ってみましょう。

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大川富士山頂浅間社

下には小御嶽神社の岩があります。

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祠前からの眺め。

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こちらも溶岩石でできた立派な富士塚でした。

北千住を散策しながら次は千住神社を目指しました。。

 

 


北千住散策

2013-10-13 23:00:00 | まち歩き

連休、北千住の街を散策しました。とても似賑わっている街です。

千住は徳川家康によって千住大橋が架けられたころから、魚や野菜が集まり、

東照宮へ続く日光街道・奥州街道の宿場として賑わいはじめたそうです。

また、松尾芭蕉が「奥の細道」の旅を出発させた場所としても有名です。

行く春や鳥啼き魚の目は泪

お祭りの看板が掛けられています。どこでやっているのかな~?

とりあえず進んでみましょう。

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千住宿には本陣が2ヵ所あったそうですが現在はこの「千住本陣跡」の石碑が100円ショップの前にポツンとあるだけです。(上の画像の左下あたり)

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しばらく歩くと古いお家が2件見えてきます。

千住絵馬屋・吉田家

千住絵馬屋(吉田家) [吉田家は、江戸時代 中期より代々絵馬 をはじめ地口 行灯 や凧 などを描いてき た際物問屋である。手書きで描く絵馬屋は都内にほとんど見掛けられなくなって、希少な 存在となった。当代の絵馬師は8代目で、先代からの独特の絵柄とその手法を踏襲し、江 戸時代からの伝統を守り続けている。縁取りした経木に、胡粉と美しい色どりの泥絵具 で描く小絵馬が千住絵馬である。絵柄は、安産子育、病気平癒、願掛成就、商売繁盛など 祈願する神仏によって構図が決まっており、三十数種ある。これらの代表的絵馬が、現在 吉田家に一括保存されている。時代ごとの庶民の祈願を知るうえで貴重な民族資料であ る。

平成4年3月 東京都足立区教育委員会

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横山家住宅

伝馬屋敷(横山家)(Panoramio) [宿場 町の名残として、伝馬 屋敷の面影を今に伝える商家である。伝馬屋敷は、街道 に面して間口が広く、奥行きが深い。戸口は、一段下げて造るのが特徴である。それは、 お客様をお迎えする心がけの現れという。敷地は、間口が13間、奥行きが56間で鰻の寝 床のように長い。横山家は、屋号を「松屋」といい、江戸時代から続く商家で、戦前まで は手広く地漉紙(じすきがみ)問屋を営んでいた。現在の母屋は、江戸時代後期の建物で あるが、昭和11年に改修が行われている。間口が9間、奥行きが15間あり、大きくてどっ しりとした桟瓦葺の二階建である。広い土間、商家の書院造りと言われる帳場二階の大き な格子窓などに、一種独特の風格を感じる。上野の戦いで、敗退する彰義隊が切りつけた 玄関の柱の傷跡や、戦時中に焼夷弾が貫いた屋根など、風雪に耐えてきた百数十年の歴史 を語る住居である。

平成2年10月 東京都足立区教育委員会

右側のシャッタの中に彰義隊の刀跡が残っているそうです。

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槍かけ団子で有名な「かどや」さん。

昭和22年創業の老舗。備長炭で軽くあぶっている団子はもちもちと香ばしい。

名前の由来は、なんでも水戸徳川家二代藩主光圀が江戸と水戸との往来のために千住宿をよく通り、『槍』を近くの清亮寺にあった松の木に『立て掛けた』、 その『松の木』の前にあった団子屋なので『槍掛け団子』と言うようになったそうです。

それにしても・・・建物が新しくなっている~以前は西新井大師でご紹介したかどやさんと似た建物だったのに三階建の建物になってます。

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あんことタレをいただきました。やわらくて美味しいです。

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名倉医院

江戸時代に「骨接ぎ」を開業し、名医として名を馳せたそうです。

もちろん現在も開業中です。

建物に歴史と風格を感じますね。

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隅田川の河川敷に出るとお祭りが行われていました。

ちょっと覗いでいきたかったのですが富士塚巡りもあるので河川敷から眺めながら歩き 大川町氷川神社の「大川富士」を見てまた歩き始めました。

銭湯があります。立派な建物ですね。

「大黒湯」さん。

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石黒のあめ

創業は昭和8年で手作りの飴100gから売ってくれます。

木枠の中に25種類の飴が並びます。

以前に訪れた際ははミックスされた袋を買いました。

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しばらく歩くと神社が見えてきました。

千住本氷川神社

概要

千住本氷川神社の概要 千住本氷川神社は、足立区千住にある氷川神社で す。徳治2年(1307)に千葉氏によって、牛田に 千葉山西光院と共に、氷川神社として創建され、 江戸時代初期、当地に分社として建立しました。 明治43年(1910)荒川放水路建設のため、牛田 氷川神社を合祀し、さらに昭和45年に社殿を新 築して現在に至っています。千住七福神の大黒天です。

足立は氷川神社が多いですね。

千住本氷川神社鳥居

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千住本氷川神社拝殿

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千住本氷川神社旧社殿

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千住本氷川神社三精稲荷神社

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そして今度はお寺さんが見えてきます。赤い門が特徴です。

勝専寺

「赤門寺」という通称で親しまれている浄土宗寺院で京都知恩院を本山とする。寺伝 では文応元年(1260)勝専社専阿上人を開 山、新井政勝を開基とし草創されたとい う。 江戸時代に日光道中が整備されると、ここ に徳川家の御殿が造営され、徳川家忠・家 光・家綱の利用があった。また日光門主等 の本陣御用を勤めた記録も見られ、千住宿 の拠点の一つであったことが知られる。 加えて当寺は、千住の歴史や文化に深くか かわる多くの登録文化財を今に伝えてい る。木造千手観音立像は千住の地名起源の 一つとされ開基新井政勝の父正次が荒川か ら引き上げたという伝承を持つ。 ほかに1月と7月の15・16日の閻魔詣で知ら れる寛政元年(1789)の木像閻魔大王坐像、巻菱潭の筆による明治12年(1879)の 扁額「三宮神山」を山門に掲げるほか、千 住の商人高橋繁右衛門の冑付具足を伝来し ている。いずれも足立区登録文化財となっ ている。(足立区教育委員会掲示より)

徳川家ゆかりのお寺のようですね。

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本堂

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このあと千住神社「千住富士」を見てさらに南下しました。

白幡八幡神社

概要 白幡八幡神社は、足立区千住仲町にある八幡神社 です。白幡八幡神社は、源義家が奥州征伐に赴く 際、渡裸川の渡し場に白幡を立て戦勝祈願をし、 その白幡が名称の起源となり祀られることになっ たといいます。千住七福神の毘沙門天です。

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千住七福神毘沙門天

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千住大橋

家康が作らせた橋は現在地より200mくらい上流にあったとか。

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芭蕉が旅立った場所もそうなのでしょうか?

大橋公園の壁

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奥の細道はよく読み返しました。久しぶりに読み返そうかな~なんて思いながら、足立区で残りの富士塚へ向かいました。