ニュース雑記帳

日々のニュースからテーマを拾い雑考してます

戦争法案に反対の人たちは、本当に安倍さんが戦争をしたがっていると思っているのかな

2015-08-05 16:53:13 | Weblog
安倍政権が、なんとしても通そうとしている安保関連法案・・・色んな立場の人が、それぞれに反対を表明していますね。

大方は、もっとちゃんと議論を尽くそうよってことなんだと思うので、もっともな意見だと思うんですが・・・なんか、"日本は戦争に向かって突き進もうとしている"的な煽りも感じる時があって・・・それって戦略なのかな、それとも本気でそれを懸念しているのかな、どうなのかなって思ったりします。

わたしはね・・・今の日本で、「もっと領土を増やしたいから、気に入らない国を潰してやりたいから、国際社会でイニシアチブを取る力を手に入れたいから、そのために必要な戦争ができるよう、下準備として法律を変えておこう」って思っている人は、ほとんど居ないって思ってるんですよ。

安倍さんだって、安倍政権の人だって、日本を含めた世界の平和を望むからこそ、「今しなくちゃいけないことは我が国の法整備だ」って思ってやっていると思うんですよ・・・違うのかな。

だから、みんな望んでいることは同じだけど、その時に、しなくちゃいけないと信じていることが違うんじゃないかなって思うんです。

だとしたらね・・・話し合い方とか、議論の仕方って、なんか違うんじゃないかって思うんです。で・・・多くの人は、それを分かっているのに、感情的な対立だったり、ただのディベート合戦だったりに甘んじているように思えるんです。で、それに巻き込まれて、ただただ感情的になっている人たちも多くいるように思えるんです。

人の感情って、恐ろしいというか、すごく力をもっているでしょ・・・だから、それを利用しようということなのかもしれないけど・・・利用しようとすると、逆に飲み込まれてしまうこともありますからね・・・ほんと恐ろしいですよ、人の感情っていうのは。

卑怯な言い方かもしれませんが・・・きっと、冷静に考えたら、安倍さんたちの言っていることにも一理ありますよ、反対している人たちにも一理ありますよ・・・で、目指しているのは、同じところですよ、きっと。

ただ、方法の好き嫌いを、わたしたちは選択しなくちゃいけないのだと思うのですよ。平和な世の中を作るためにどういう方法を選ぶのか・・・どちらが正しいのかではなく、どちらが好きなのかだと、わたしは思うのですよ。

極端に言うなら、平和を勝ち取るためには闘うこともじさないのか・・・武力による平和しかないのなら滅びることも辞さない強い決意をもった平和への路を選ぶのか・・・今の我々は、そのどちらも選ばず、あいまいな今の日本の平和を維持したがっているように思えるんですよね。

ちなみに、わたしは後者が好きです。誰かを殺して生き残るより、殺された方が・・・でも、それだと、きっと滅亡しますよね。それで生き残れるほど、人類って優しい生物じゃない。

それに・・・殺すより殺された方がイイと思うのは、あくまでも冷静に頭の中だけで考えたときのことで、実際に凄く嫌な奴に殺されかけたら、きっと反撃してやっつけようという気になるだろうなも思います。こんな奴に殺されたくない、やってやるって思いますよね、きっと。

ましてや、そいつが、わたしの大切な人たちを傷つけようとしたなら、迷うことなくやりますよ。

正当防衛・・・愛するものを守るため・・・結局、これが出てくると、人を傷つけるくらいなら自分が傷つきますなんて甘い考えは、一瞬にして吹っ飛びますしね。ああ~、欲得づくだけじゃなく、こうして人は戦争に行くのか・・・

それとは別に、やっぱり人の根底には、権力欲とか支配欲といった欲が潜んでいますし、闘争心や競争心のようなものが機動力や推進力になって頑張れるわけですし・・・妬みや嫉みといった感情も捨てきれませんから・・・そもそも人は戦いたがる生き物だということも踏まえた対策も必要ですしね・・・

っと・・・なんだか、話が迷宮にはいってきましたが・・・・だからこそ、間違いのない正解なんてないと思うわけで・・・議論する時は、相手を非難するのではなく、より我々の生来そなえた邪悪さや弱点をカバーし、我々のもつ善性を活かした方法はないかを、共に模索して欲しいのですよね。

我々が為政者を選ぶとき、「この人ダメだから別の人を」というのではなく、「この人より、あの人の言っていることの方が、より自分の望むことに近づく道を指し示しているな」って思って選べるようだといいですよね。

支離滅裂になりましたが・・・なんとなく、そんなことを思う、今日この頃なのでした。

大阪市の『特別教室』について

2014-06-18 07:36:09 | Weblog
大阪市教育委員会が、重度の問題行動を繰り返す生徒を一般生徒から引き離し、別の場所に集めて専門的に指導する「特別教室」を設置しようと動いてますね。

わたしの基本的な考えからからすると、反対の立場にたたなきゃならんのかなと思います。教育に限らず、出来る限りノーマライゼーションが好ましいと思ってますから。

学校で学ぶべきは学業だけじゃない・・・むしろ集団の中で生きるすべこそ学校で学ぶべきことだと思いますし・・・学校が地域や社会の縮図だとすれば、そんな状況の中で生き抜かなければならないのが、子どもたちの現実だとも言えますから。

それに、問題児を教室から引き離して一か所に集める、そして指導する・・・それって可能なのだろうかという心配もしてしまいます。鑑別所だとか少年院だとか、犯罪を犯したと認定され、矯正施設に隔離されている少年たちに対しては、かなり厳しい指導が許されていると思うんですが、特別教室があくまでも通常の教育の範囲だとされるなら、ここで指導を担当する先生に、かなりの負担がかかるのは目に見えてます。なんだか、特別教室で学ぶ生徒のレベルとやらをみると、もはや犯罪じゃないかってレベルですし・・・彼らが集団になってるのに、それを指導できるだけの技量をお持ちの先生が、どれだけいらっしゃるんでしょうか。

でも、先生の負担とか、先生の資質とかのことを考えるなら・・・そうですね、むしろ特別教室やむなしということにもなるんですよね。若い先生になると、二十代前半・・・一般企業での勤務経験もなく、学生からいきなり先生になった人が多いでしょうし・・・大人数の未成熟な子どもたちの集団を指導していくって、本来すごく難しいことですよ。親なんて、ほんの数人しかいない我が子、この子のためなら何でもできると思うほど愛してやまない我が子の育児にさえ悩んで失敗を繰り返すんですから。

昔はまだ、親や地域がフォローしていたので、多少先生もやりやすかったでしょうね。先生は立派な人で、ちゃんと言うことを聞かなきゃダメだって、大人たちが寄ってたかって先生の権威付けを行っていましたから、子どもたちも先生には従わなくちゃいけないと刷り込まれてましたよ。

もちろん、それにも弊害があって、絶対に良いことだと思いませんが・・・今のように、学校の外の大人が先生たちにとって警戒すべき相手になってしまっていては、子どもに向き合う以前に心が擦り切れちゃいますよね。

きっと、実際、地域によっては、特別教室でも作らないとどうしようもないほど、現場の先生たちは追いつめられているのかもしれません。だとしたら、学校の現状をしらない人間が、理想論だけで特別教室案を簡単に拒否してしまうのは申し訳ないことです。

もし、特別教室を担当する先生方が、問題行動をとる生徒たちの心情を理解しようとしてくださる方たちで、愛情をもって真剣に彼らと向き合い、その上で厳しく彼らと接してくれる、情熱と経験のある先生方なのなら・・・お任せしてみるのも良いのかも・・・。

もちろん、問題行動をとる生徒を追い出した教室に問題が無くなると油断してはいけませんよ。次の特別教室行きの生徒を作り出さないよう、見直したり改善したり、すべきことはたくさんあると思います。また、特別教室を担当する先生たちのストレスをどうするのかとか、担当できる先生の数が確保できるだろうかとか、その養成育成はどうするのとか・・・解決すべき問題はたくさんあるでしょうね。

ゆとり教育もそうでしたけど、考え方の根本は悪くないんですよ、誰もが真剣に考えて出した案だと思うし。でも、それを実践して効果を得るには、それを行う人の育成が必須なんです。指導出来る人がいないのに、システムだけ作って実行してしまうから機能しないんですよね。教育って、まず教える側を育てなきゃいけない・・・だから一朝一夕でできることじゃない。でも、まずは始めなきゃいけない・・・失敗しても、とにかく始めなきゃいけない・・・う~ん。

そういう意味では、特別教室というのも、無為無策でいるよりは、提案として出てきたことは評価しなくゃいけないのだと思います。誰かが提案してくれたことは、まずその良いところを見る、そして弱点や穴を見つけ、それを補い策を共に模索する・・・その上で、問題点が改善できなければ案自体を却下する・・・いきなり欠点ばかりを突いて潰すのでは、せっかくの提案が無駄になるし、次の提案を生み出さなくなりますからね。

「障がい者なのにスゴイ!」は差別ではなくて評価だと思う

2014-02-19 06:37:56 | Weblog
聴覚障害者なのに素晴らしい作曲をしていると評価されていた人が、実はゴーストライターに依頼して作曲させていたと暴露され、大いに話題になっていますね。

わたしは、書籍のゴーストライティングもしてきた人間なので、「音楽の世界でもしてるんだ」という程度の感覚で受け止めましたが、「それにしても、障害を売り物にする商売はアクドイな」とは思いました。ただ、知名度だとか肩書だとかを売り物にして商売するのと、障害を売り物にするのとの間に、それほど大きな差があるのかなと考えると・・・ん~、どうなんだろうなと、改めて考え込んでしまいました。

そして以前、銀行の担当さんと商談終りの雑談をしていて、わたしの仕事の話になり「金融系の書籍も何冊が書いたけど、酷い時には本人からの指示や聞き取りなんか一切なく、別人の著作を何冊か渡されて、これで上手く纏めてくれ、くれぐれも著作権侵害には気を付けてと言われたこともあったよ」と言ったら、「僕、けっこうビジネス本を買って読んでるんですけど、ショックです」と凹んでいたのを思い出しました。もちろん、ご本人の原稿を書き直すようなリライトに近いゴーストライティングもあれば、長時間のインタビューを文字化して一緒に造り上げていく感じのゴーストライティングや、ご本人の過去の著書を改定するようなタイプのゴーストライティングなど、あくまでも表に出る著者さんを補う形の、決して読者を裏切らないようなゴーストライティングも多いんですが・・・中には関わりながら「ヒドイな」と思うようなこともありましたっけ・・・

けど、まっ、今回お話ししたいのは、ゴーストの存在の是非ではなく、障害をもった人の創作物や創作活動に対する評価ということに関してです。

今回の騒動の中で、「CDを買った人に対しての詐欺行為だ」「いや、音楽への評価と作曲者の情報は切り離すべきだ」など、さまざまな意見を耳にしました。で、後者の考え方をする人たちの中には、「障がい者なのにこんな曲を作れるなんてスゴイというのは、障害者には大した曲は作れないということを前提にした考え方で、むしろ障害者に対して失礼だし、それで作品を持て囃すなら、健常者の作曲家たちに対する逆差別にもなる」という人もいるようですね。

たしかに、純粋に曲に向き合った時の個人の感想ということだけなら、作者の個性や属性は考慮されるべきものではないのかもしれないですね。背景を何も知らず出会って、それでも共感出来たり感動出来たりする曲は沢山ありますし・・・せっかく、そういう曲に出会えているのに、よけいな付加価値や、逆に水を差すようなマイナス情報を聞かされると、すごく腹立たしいかもしれません。作品を作った側の人たちも、そう思っているのかもしれない。

けれど、人の頑張りに対する評価というのもまた、同時に存在しているのは確かなんですよね。今、ちょうどオリンピックですが・・・我々は、結果だけでなく過程にも大いなる感動を与えられますからね。そして、その感覚は、決して悪いことではないと、わたしは思います。

そういう意味では「障がい者なのに」というのは差別ではなく、むしろ評価の前提なのだと思うのです。だって、走る競技をするのに足に障害があるのは、明らかに大変なことでしょ。見ることが大切な創作活動をするのに、目が見えないというのは絶対に大変ですよ。耳を使う職業につくのに耳に障害があることもまた、とても大変なことのはずだし。健常者の何倍も何十倍も努力しなければ、健常者と同じ成果が獲られない個性であるにもかかわらず、健常者同様の、時には健常者を凌ぐ成果を出したことに対して、プラスαの評価を下するのは、決して差別ではないと思うのです。

障害を特別視しないで個性と見てくださいと仰るのは、とてもよく分かるのですが・・・個性だからこそ、ちゃんと頑張ったってことは評価していいんじゃないでしょうか。だから、障害認定を受けていなくても、苦手なことを一生懸命頑張っている人も、同様に評価すべきということでもあります。

最近は、ゆとりバッシングが酷いですが、準備不足理解不足による間違った方法による実施だっただけで、"ゆとり教育"の基本的な考え方は間違っていないと信じている私は、相対評価と並行して個人の努力や成果を個別評価すべきと思っているので、そういう意味でも、障害があろうとなかろうと、努力は正当に評価されて欲しいと思うのです。そして、評価される立場の人にも、差別だなどと思わないで、その評価を受け取ってもらえたら嬉しいと思うのです。

ただ・・・そう・・・確かに、その評価が雑音となって、作品を通じた純粋な出逢いが阻害されることは、大いにあることで・・・それを嫌う障害をもった創作者はいらっしゃるだろうな・・・そこは、ふむ、難しいなぁ~。別の個性が先だって、見て欲しいモノを見てもらえないモドカシサ・・・ふむ、難しいなぁ。

ただね・・・イイものを作っても、それを発表できなければ、誰のところにも届かないという大きな問題もあって・・・嫌かもしれないけど、まず知ってもらえる機会となるなら、それを利用するというのも一つの選択肢ではある・・・だから、それを勧める人もいると思う。もちろん、単なる金勘定の場合で、利用されることになる危険性もあるけど・・・ふむ、難しいな。

結局ね・・・障害があるなしに関わらず、他人は色んな考え、色んな気持ちで、色んなことを言ってきますが、あまりそれに惑わされないことしかないと思います。悪意あるものも、好意からのメンドクサイ意見、そして無関心、嬉しくないことも多いでしょうが・・・それもまた、いろいろ在るってことの、一つの形なのかもしれません。酷いと思うような言葉だって、角度をかえれば別の意味をもっているかもしれないし・・・振り回されて、怒り疲れたり、悲しみ疲れたりしないよう、自分の気持ちをうまくなだめてあげられるといいなと思います。

なんだか支離滅裂になってしまいましたが・・・そんなことを思いました。

非嫡出子の相続差別について・・・

2013-10-30 18:52:16 | Weblog
少し前ですが、結婚していない男女間に生まれた、いわゆる非嫡出子の相続分を、法律上の夫婦の子どもである嫡出子の半分と規定した民法が、法の基の平等をうたった憲法に違反するのではないかという裁判で、違憲との判決が下ったことがありましたね。

たしかに、非嫡出子とされた子どもの立場からすると、すごく納得できないというか・・・自分の存在を酷く軽んじられて感じる、嫌な決まりだと思います。人はみな平等だとかいっても、それはあくまでも建前で・・・現実には色んなところで扱われ方の差はあるもので・・・ある程度、それは仕方ないというか、本人がそれに耐えたり乗り越えたり戦ったりしていくのが人生だとも言えるんですが・・・建前のところでまで差別されちゃ、耐えがたい屈辱感がありますよね。

ただ・・・結婚している男女の間に生まれたかどうかで、子どもの存在価値に差ができるとは絶対に思いませんが・・・資産を築くにあたっての親の貢献度によって、その親の子どもが受け継ぐ資産に差があるのは、差別とは言えないとは思うんですよ。

だから、状況によっては、法律上の夫婦ではない間の子どもの方が、法律上の夫婦の間に生まれた子どもより、多くを相続すべきじゃないかと思うような場合もあると思うんですよね。

たとえば、わたしの実家は、お金は全く持っていませんが、農家なので農地を所有しています。もともとは小作の家ですから、戦後の農地改革以降、わたしの祖父母の世代と親の世代が、一生懸命に働いて守り増やした農地です。両親が他界したら、一人娘であるわたしが、その全てを相続しますが、わたしが夫より先に他界したら、夫と子どもたちが、その農地を引き継ぐことになります。そして、もし夫が私の死後に再婚して子どもができた場合、夫が相続した農地は、わたしと彼の間の子どもだけではなく、彼と再婚相手の間のお子さんにも相続されることになります。

この場合、婚外子ではないわけですが、それでもわたしは何となく納得出来ないんですよね。きっと、わたしの父母も納得できないと思います。もちろん、わたしの死後、彼と新しい奥さんとで築かれた資産については、わたしと彼との間の子どもたちに譲ってくれなくてもいいです。また、彼とわたしが築いた資産であっても、預貯金など現金の場合は、わたしの子どもたちと新しい奥さんの子どもたちと、同様に分割されても平気です。でも、わたしが父母から相続し、それを彼が相続した農地に関しては、わたしの子どもたちに譲って欲しいと思うんです・・・妙な執着ですけどね。

で・・・非嫡出子の相続差別に関しては、絶対に、この執着の感情が大きな要因になっている思うわけです。決して、婚外子のお子さんを蔑ろにしたいわけじゃなくてね。だから、平等がどうとか、人権がどうとかだけじゃなく、この感情をちゃんと救済する方法を考えてもらわないと、判決や法律だけでは押さえつけられないものがあると、わたしは思うのでした。

ちなみに、わたしは、夫に、そのことについては気持ちを伝えています。もし、わたしが先に逝った場合、あなたはよく考えて、みんなが傷つかないような分配方法を考え、コメントも付けた遺言書を残してねと。現金があれば、単純に割ればいいと思うんですが、現金化しづらい農地しかないって、なかなか厄介です(^^;。


『OBERON日記』
http://blog.goo.ne.jp/oberon-p/

『てんちゃん日記』
http://ameblo.jp/oberon

『映画鑑賞感想文』
http://blog.goo.ne.jp/rotten-b/

『旅日記』
http://star.ap.teacup.com/oberon/

『プチ幸せ日記』
http://hello.ap.teacup.com/oberon/

『A SCRAP』
http://moon.ap.teacup.com/oberon/

『AINA(藍那)』
http://v-diary.at.webry.info/

『夢日記』
http://angel.ap.teacup.com/oberon/


金持ちが喧嘩しないのは、その必要がないから

2013-04-02 11:30:24 | Weblog
ニュースを見てというのではなく・・・どちらかというと映画などを見て、という方が適切だと思うのだけれど・・・とにかく、映画などを見ていると、戦争を扱ったものに遭遇することは少なくない。911同時多発テロ以来、テロ組織を相手にした話も少なくない。どっちにしろ、見ていて楽しいものではないし、映画の出来不出来に関わらず、どの立場で描かれているにしても、ものすごくシンプルに「戦争は嫌だ」「暴力は嫌だ」「人が殺されるのは嫌だ」と思う。それはもう、心から思う。

だから、紛れもなく私は戦争反対派だし、テロ反対派だし・・・誰かが誰かを力で捩じ伏せようとするのは、それがどんな形であっても快く思わない。

ただ・・・核はもちろん最新の科学兵器を山ほど所有する巨大な軍隊をもつ強国が、自分たち意外の国は核兵器を持つな、軍隊を大きくするな、テロ行為など以ての外だと声高に言っているのを聞くと、どうしても違和感を感じてしまう。

彼らより数も少なく力もない者たちが、自分たちの主張を通したいとき、どういう手段があるのだろうと考えると・・・一番最初にたどり着く答えがテロであることは・・・良い悪いは別にして・・・決して特別な発想ではない気がする。

金持ち喧嘩せずという諺があるが・・・それは金持ちが人格者だからじゃなく、喧嘩する必要がないからだ。弱い犬ほどよく吠えるという諺があるが、強い犬が吠えないのは、やはりその必要がないからだ。欲しいものをすでに手に入れているもの、それによって自分に自信がもてるようになったものは、喧嘩する必要も吠える必要もなく、喧嘩をふっかけてくる相手や吠え付く相手を下品だ無作法だ馬鹿だ愚かだと蔑みながら、権力を使って処理すればいいだけなのだから。

だから、弱者や少数派や負け組が、自分の主張を堂々と訴え、耳をかしてもらえる仕組みがないと、勝者の正義で裁くだけでは解決できないことは少なくないと思う。そんなことが出来るかどうか分からないけど、自分たちが信じている正義だけが、唯一無二の絶対的正義ではないことだけは、理解しておかなければいけないと思う。


『OBERON日記』
http://blog.goo.ne.jp/oberon-p/

『てんちゃん日記』
http://ameblo.jp/oberon

『AINA(藍那)』
http://v-diary.at.webry.info/

『映画鑑賞感想文』
http://blog.goo.ne.jp/rotten-b/

島田紳助さんの引退ニュースを聞いて思い出した自分の体験(^^;

2011-08-24 07:10:06 | Weblog

タイトルにも書きましたように、島田さんのことについて意見や感想を言うわけではありませんので、彼の引退についての世間の反応の収集にお越しくださった方は、読みとはしてくださいね(^^;。

なんていうのかなぁ~・・・悪いとされていることを、どこまで拒否すればいいのか、どこまで受け入れればいいのか・・・本音と建前に関して、どうしていいのやら困ってしまうことって、ありませんか?

建前では、ちょっとしたルール違反も駄目じゃないですか。でもね・・・実際には、杓子定規に正論を振りかざすと、逆に顰蹙を買うような場合も少なくないでしょ・・・でしょ。

それが、業界に新規参入しました的な立場だと、ほんと、どうしていいのかなって思うわけです。新人であることを武器に悪しき慣例をブチ破っていくべきなのか、郷に入れば郷に従うべきなのか。

実はですね・・・少し前に、新規事業の計画に関して、弁護士さんやらコンサルさんやら建築関連の方やら、その業界の先輩やら、いろんな人に引き合わせてもらったんですが・・・彼らの口から出てくる言葉に、わたしは一人、ドン引きだったことがあるんですよ(^^;。

認可事業はしたことがあるというか・・・今もしていますが・・・ちゃんと書類を整えて申請すれば、必ず通して頂ける・・・それ以降、悪いことをしなければ、ずっと認可を取り消されることもないタイプの仕事なので・・・いわゆる難しい認可を通す術みたいなものとは無縁だったんですが・・・

地域によって認可件数の枠が決められているようなものの場合・・・やっぱり出てきたかって感じで登場するのが、「代議士さんに頼む」って話だったりするわけです。市会議員に知り合いはいないか・・・市会より県会の方がいいだろう・・・けれど、地元選出の市会議員に横槍をいれられた場合、国会議員の方が確実だ・・・まっ、ちょっと金は必要だけれど・・・おいおい(^^;。

そんな会話が飛び交う中で、わたしは一人、ほんとに引きまくってたんですが、みなさん、あたりまえみたいに、そんな話に終始してました(^^;。

で、あとで、仲介の労をとってくれている人に、素直に「引きました」って言うと、彼は「あなたはスレてないですからねぇ」と、大人が子どもをみるように微笑んで仰いました。なので「いや、お金を渡すとか、やっぱり・・・」と言うと、「ちゃんとした献金ですよ。額も多くないです。違法なことじゃありませんよ」って仰いましたが、見返りを求めてお金を受け渡ししたら、それはやっぱり贈収賄だろうって思うんですが(^^;。

けど・・・彼らの雰囲気から、ほんとに、そういうことって、この人たちにとっては日常茶飯事というか・・・普通の段取りの一つでしかないのかなって感じました。だとするなら、そういうことが、何の罪悪感もなく、当たり前にできなきゃ、この手のタイプの仕事は取れないってことになるんじゃないでしょうか・・・ふむ。

だから、思ったわけです・・・いわゆる清濁併せ呑むってやつの変形なのかな、こういうことって・・・って。悪いことじゃなく、良いことをしようとしているんだし・・・建前のところでツベコベ言って立ち止まってないで、必要なら泥だって飲んで、前に進んでいくべきなのかなって。

でも、結局は・・・わたし、駄目ですね、そういうの。お嬢さんだからとか・・・世間知らずだとか・・・甘いとか・・・青いとか・・・そう言われてもいいので・・・やっぱり、そういうの駄目です・・・わたし。

ただ、なんとなく・・・周りがみんな「こんなの当たり前だよ」「だれでもやってるよ」って言うことを拒否するのって・・・みんなが快調に車を走らせている中で、一人法定制限速度を守って交通渋滞の原因になっている車の運転手の気分になっちゃうんですよね。どうしたもんなんでしょうね(^^;。



『OBERON日記』
http://blog.goo.ne.jp/oberon-p/

『生声日記』
http://v-diary.at.webry.info/

『映画鑑賞感想文』
http://blog.goo.ne.jp/rotten-b/

『あるといいなぁ』
http://h-voice.at.webry.info/

送り火の薪…個人で考えるのと、公共を考えるのとでは・・・

2011-08-16 13:33:49 | Weblog
岩手県陸前高田市の被災松から作った薪を、京都の大文字送り火で燃やすのが取りやめになったでしょ。たしか、その薪からは、放射能などは検出されてなかったんですよね、違いましたっけ。

で、ものすごく沢山の批判の声が起こって、現地から別の薪を送ってもらって燃すことにしたら、今度は、その薪から放射性セシウムが検出されて、これもやっぱり燃せなくなったと。

なので、今度は、京都産の薪や護摩木へ、京都の人たちが、被災地の人たちへの思いを書いて燃すということにしたと・・・

正直、最初のニュースを聞いたとき、ものすごくガッカリしたんですよね。人というものにガッカリした・・・残念でならなかったです。だから、その後のことには、ただ情けない気持ちになっただけでした。

ただね・・・もし、自分が、それを決断する立場だったら、どうしただろうとは思うんですよね・・・それはねぇ~、そんなに単純なことじゃないかなって。

個人として動くなら、まったく迷いませんよ。最初の放射能が検出されなかった松はもちろん、放射性セシウムが検出された薪だって、わたし個人のことなら、バンバン燃します。それくらいのこと、何~んにも怖くないし・・・もし多少なりともリスクがあるとしても、それっぽっちりリスクを負って悔いない大切な意味があると思うから。

けどね・・・それが、わたし個人のことでない場合・・・イヤだという他人に強要できるかと考えると・・・それは、やっぱり難しいですよね。うん、難しい。

だから・・・もし、わたしが保存会で決断する立場の人間だったら・・・彼らと同じ判断を下したかもしれないなと・・・そうも思うのです。頑張って、説得して、会の中で多数決で勝って実行できることになったとしても・・・京都に一人でもイヤだと思う人が居るなら、その人に我慢させていい問題だろうかと・・・そんなことを考えると、やっぱり出来なくなっちゃうかなと。

何事も全員一致で決めなきゃだめということじゃないんですよ。だって、ほとんどのことで、全員一致なんてありえませんからね。けど、中には、一人でもイヤだという人が居れば、強要すべきではないこともあると思うんですよね。この場合は・・・ふむ・・・どうだったんだろうな。


『OBERON日記』
http://blog.goo.ne.jp/oberon-p/

『生声日記』
http://v-diary.at.webry.info/

『映画鑑賞感想文』
http://blog.goo.ne.jp/rotten-b/

『旅日記』
http://star.ap.teacup.com/oberon/

『夢日記』
http://angel.ap.teacup.com/oberon/

『一切合財・言葉考』
http://wind.ap.teacup.com/oberon/

『教訓カレンダー』
http://www.21styles.com/mydiary/likehate/index.html


大阪府が府立学校で国歌斉唱時に教職員に起立を義務づけたことについて

2011-06-09 14:44:52 | Weblog
自分の人生の中で、国歌とか国旗について考えた最初って・・・う~ん、たぶん、大学の時です。

小学校のときは、歌ったかなぁ~、『君が代』。ほとんど記憶にないんですが、今、わたしは『君が代』が歌えるので、きっと小学校のときに歌っていたのだと思います。中学から大学までは、ずっとミッションだったので、式典で『君が代』を歌うことはなかったですから・・・そう、きっと小学校の時に覚えたんだと思います。その頃、「君が代問題」とか「日の丸問題」って、そんなに取りざたされてなかったと思うなぁ。

で・・・そう、大学になって、とある先生が『君が代」斉唱反対論者だったんですよね。で、授業のたびに、その話をしてらした気がします。学生たちは、反発もせず賛同もせず、先生の必死の主張を軽く流していた、そんな印象です。

わたしも、そんな無関心な学生の一人でしたが・・・今となっては、その先生が何の授業を担当していらしたのか、まったく覚えていませんが、その先生の『君が代』に対する主張だけは、何となく覚えています。その意味では、先生の努力は、少しではあるけれど、報われているのかな(^^;。

で・・・その先生が駄目だと主張していたのは・・・たしか・・・主権国家が国歌や国旗をもつことや、国民がそれに対して敬意をはらうことではなく、『君が代』&『日の丸』に象徴される天皇制そのものだった気がします。「君たちは、『君が代』の歌詞を理解して歌っているのか」と・・・「『君が代』の君は天皇だ。だから君が代とは天皇家が支配する国体ということだ。君たちは、天皇の支配する世を永遠に続かせるために、わが身を投げ出せといっている歌を歌っているんだぞ」と。

たしか・・・公式の見解では、「君が代」というのは「天皇が支配する国体」つまり太平洋戦争で日本が負ける以前の国体ではなく、「象徴天皇をいただく現在の日本の国体」ということになっていると思うのですが・・・その先生に言わせると、それは詭弁なんだそうです。だから、彼としては国歌を作り変えろと、そういうことだったように思います。

まっ、主張としては、一理あるというか・・・共感するとかしないとかとは別に、主張してはいけないことではないと思います。彼の主張の後半の「君たちは、天皇の支配する世を永遠に続かせるために、わが身を投げ出せといっている歌を歌っているんだぞ」というのは、少し見当違いだと思いますが、自分が所属する集団が、どうあって欲しいか・・・各人は、それを主張してもよい国に、わたしたちは住み暮していると思いますから、天皇制を否定する意見をもち、それを主張するもよしだと思いますし・・・象徴天皇以前の、天皇が主権をもっていた頃を引きずっているような歌詞の『君が代』を変えろと主張するのもよしだと、わたしは思います。

そして、もちろん、今の象徴天皇制を支持するもよし、以前の天皇に主権をもたせる体制を蘇らせたいと主張するもよし・・・なんでも主張できなくては嫌だなと思います。

そして、それは、公務員であっても同様だと思います。現体制に、まったく異議がない者しか、公務員になっちゃいけないということではないと、そう思います。

ただ・・・多種多様な意見があったとして・・・それを、どういう形で主張するかということですよね・・・問題は。

そして・・・わたしが思うに・・・公務員であれ、非公務員であれ、公式行事で、現行国歌や国旗に対して、礼を失した行動をなすことにより、自分の考えを主張するのは、いささか子どもっぽいやり方で、好きではないです。しかも、公務員という、主催者側に所属している場合は、それはすべきでないと思います。

きっと通らないとは思うので、虚しくは感じられるでしょうが・・・式の打ち合わせの度に、「この国歌は、わが国に相応しくないと思いますから、斉唱を止めましょう。そして、新しい国歌を作ることを提案しましょう」と主張するのは、公務員として、してはいけない行為ではないと思うんです。というか、それが正しいと思うなら、どんどんしていくべき行為だと思うのです。また、職務時間以外で、国歌や国旗を変えよう運動を積極的に展開したとしても、まったく構わないことだと思うんです。もし、それが罰せられたら、わたしは罰した方を非難したいと思います。

けれど・・・そういう努力の甲斐もなく、式典で国歌斉唱と国旗掲揚が決まったなら、それは組織の一員として、その式が滞りなく進行されることに尽力すべきだと思うのです。それが、集団に属するものに課せられたルールだと思うのです。

組織に属したものは、すでにある組織の決まりに異を唱えてはいけないということはありません。むしろ、組織の決まりを、より良く変えていく努力をする義務を負っていると思います。けれど、その変えていく方法にも、ルールがあります。少なくても、礼節をもって、行動して欲しいと、そう希望します。

****************************************************

mixiの方にも、同文をエントリーしてるんですが・・・そちらで、コメントを頂戴しました。そのコメントは掲載できませんが、それに応えた、わたしのレスポンスを載せておきます。言い足りなかったことが、フォローされていると思います。

****************************************************

中学校から、ミッションに通ったというのは、今回のエントリーにも書いたのですが・・・学校では、君が代の斉唱がないかわりに、何かにつけ賛美歌を歌わされました。賛美歌それ自体は、歌として好きでしたし、歌うことも好きでしたが・・・何か違和感があり・・・たぶん、今考えると、それが強制ってことなんじゃないかと思うのですが・・・最後の「アーメン」だけ言わないという、奇妙な抵抗を、こっそりずっと続けていました(^^;。そんな人間なので、それがどんなことでも強制されることに違和感を感じるという、〇〇さんのお考えは、わたしなりに、とてもよく分かると言わせてください。

けれど、やっぱり「嫌だ」と主張するにしても、ヨシと思える方法と、好ましいとは思えない方法があると思うんです。

ちょっと話が横道に逸れますが・・・小学生のときは超優等生だった娘が、中学に入ってから人並みに反発心を表現するようになり・・・校則というものに対して、若者らしい嫌悪感を見せるようになりました。

中学のときは、通学鞄にマスコットを一個しか付けちゃ駄目だという決まりに、猛反発していました。マスコットを沢山つけたかったからじゃなく、何故、そういうことを強制されなきゃいけないのかということに反発していました。で、その時、わたし、彼女に言ったんです。何故、マスコット1個が許可されているのか・・・それは、君たちの先輩が、学校と話し合いを重ねて、マスコット完全不可だったところから、1個だけならOKを勝ち取ったからなんだよ・・・だから、君たちも、先輩たちを見習って、学校側と交渉して、主張を通そうとしてみなさいって。

その娘が、高校に入ってからは、髪を染め始めたり、化粧をしはじめたりして・・・またまた、校則に反発して・・・なんでオシャレする事が高校生らしくなくて駄目なのか分からないって言い出したんですね。わたし個人は、前出の賛美歌を歌わせる母校が、ほとんど校則らしいものがない学校だったし・・・髪を染めることも、化粧をすることも、人に迷惑をかける行為じゃないし、禁止される意味が分からないとの娘の主張も分かるので・・・彼女にこう言いました。中学生のときと同じことを言います・・・納得できない校則だと思うなら、変えるように学校に働きかけなさい・・・それが面倒で嫌だというなら、自分の判断で髪を染めても好いし、化粧をしても好いでしょう・・・お母さんも、それが悪いことだとは思っていないので、わたしから君に止めなさいとは言わない・・・けれど、そういう校則があり、それに対して君がアクションを起こしていないのなら、学校から罰則を与えられても、わたしは親として文句を言いにいったり、君を庇ったりはしませんよ・・・叱りもしませんが、庇いもしません・・・だから、自分の思うようにしなさいって。

なんだか、長々と訳のわからない例をひっぱりだして話してしまいましたが・・・わたしは、やっぱり、式典で国歌斉唱のときに起立しない公務員さんの主張の仕方は、好きではないのです・・・そう、好きではないのです。

それとは別に、なんていうんでしょう・・・思想の問題とは別なところで・・・礼儀というか・・・そういう部分での、なんとも言えない不快さみたいなものは・・・公務員さんではなく、一般の保護者の方でしたが、式典で起立されない方を目撃した時に、感じてしまったことがあるんですね。

〇〇さんの仰るように、少数派が自分の意見を人に届かせるって、とっても難しいことで・・・アメリカが、テロを非難しているのに、何か居心地の悪さを感じている部分もあって・・・わたし言っていることって、所詮、多数派に居るからいえる綺麗ごとの正論もどきなのかもしれないんですが・・・

戦う相手であっても、否定する相手であっても・・・まず最初は、立って礼をするところから始まるみたいな・・・そういう相手を尊重する姿勢があって欲しいと思うんです。

なんだか、見当違いのレスポンスでしょうか。それに、フォーラム時代から治らない悪癖の長文で・・・大変、失礼致しました(^^;。

***************************************************

なるほどねぇ~・・・と、思いました。要するに、わたしは、比較的、国歌や国旗に無関心な人間だから・・・それに強い拘りをもっている人の心情が理解できず、「それくらいのこと」って思っていたということだと思います。

□□ちゃんが、お父様が「他国の国歌や国旗に対しては、敬意を払うと思います。」と書いてくれました。そう、そうなんです・・・わたしの感覚なら「どんなに好意をもてないと思っている国の国旗や国歌対しても、式典などの場合、敬意をみせることくらい、大人ならする・・・それと同じことを、日本の国旗や国歌にもして欲しいな」と思ったんです。でも、嫌いな他国のことなら我慢もできるが、自国の国旗や国歌だからこそ、その思想的背景によっては、どうしても敬意を払いたくないという人がいらっしゃるということなんですね。

それから、□□ちゃんは、「世間で話題になること自体が、条例を決めた人達の思う壷」って言ってくれていますが、わたしは、むしろ、今の国旗や国歌が今の日本に相応しくないと思っている人たちにとってのチャンスだと思うんですよ。〇〇さんが最初のコメントで、仰ってくださっていたように「日の丸を拒否する人はかなりの少数派です。多数決では確実に常に負けます。」という現実の中で、きっと、わたしを含めた一番多くの層であろう無関心派の人たちは、彼らが何故、国歌斉唱を拒否するのか、起立を拒否するのかの、真意を知らないですよ。「日本人のくせに、日本という国が嫌いなんだ、変な人たち」くらいの認識なんだと思うんですよ。でも、そうじゃないでしょ・・・たぶん。きっと、わたしの大学の先生のように、相応しい国歌・国旗に変えなきゃ駄目だっていう主張なんでしょ・・・ちがうかな。だとしたら、それをちゃんと伝える機会でもあるんじゃないかな。変えたいことがあるなら、変えるべきだとおもうことがあるなら、変えていく努力をしなくちゃしかたありません。きっと、その道は遠くて・・・誤解されたり非難されたり揉み消されたり・・・でも、それでも頑張るしかないわけですから・・・その為の、よい機会だと思いますよ。

とある人は、「会社の式典で、社歌を歌うことを拒否したり、起立を拒否したら、すぐに辞めさせられるだろう。朝礼で、納得できない妙な社是を唱和しないだけでも、辞めろと言われるだろう。公務員は、わがまま出来ていいなぁ」って言っていましたが・・・その人の意見は、ある部分では間違っていて、ある部分では正しいと思います。間違っているのは・・・国のことと会社のことは違うということ。会社の方針が気に入らないなら、働く人のほうから、合わないから辞めますっていう選択があっていいわけですが・・・国の事に関しては、公務員を辞めたから、その問題と関係なくなるわけじゃないってことですからね。けど「公務員は、辞めさせられないからいいなぁ」っていうのは、確かにそうだと、わたしは思うんです。それは、上記の人のような皮肉な意味ではなく・・・条例があろうとなかろうと、いえ罰則のない条例があるならさらに、辞めさせられない限り主張する機会があるということですから。

正直、この話題について書くことに関しては、ずいぶん迷ったんですよね。だって、とっても面倒な話題でしょ(^^;。それに、何故か、わたしの周りには、大阪の例の方が大嫌いな人も多いけど、大好きな人も少なくなくて・・・それはまあ、わたしが明確な政治的信条をもっていなくて、ふらふらしているからだと思うんですが・・・何を言っても、親しい人を不愉快にさせるだろうと思ったからなんですが・・・でもね・・・やっぱり、意見は、ちゃんとした形で、表現していくことが必要だと思ったわけです・・・それは、君が代が大嫌いな人も、大好きな人も、どっちでもいいけど今の争い方は綺麗じゃなくて好きじゃないから何とかならないかと思っているワタシも含めてね・・・通る通らないに関らす、ちゃんと表現しておく方がよいと思ったのでありました。

なので・・・どっちの立場の方も、いろいろと不快に思われたとは思います・・・それに関しては、表現が下手で、大変に申し訳ないと思うのですが・・・言っちまったことに、後悔はしていないんですよ(^^;。

***********************************************

△△さん

ご無沙汰ですね(^^)。あまり吞み過ぎないようにね。
それから、コメント、ありがとう。

でもね・・・今、わたしは、ちょっと残念です。なぜなら、△△さんのコメントを読んだ、多くの人は、あなたを誤解しただろうなと思うから。あなた自身は、自分は、信じることを言葉にしただけだから、それで誤解されてもいいって言うかもしれないけど・・・わたしは、嫌だな、あなたが誤解されることが。

わたしは、あなたを良く知っているつもりです。誰よりも優しい人だし、人一倍男気も正義感もあるし、先輩に対する礼儀もわきまえているし・・・やんちゃしてきた経験も含め、わたしは、正直、あなたみたいな人に、地方自治に携わる政治家になって欲しいと思うくらいなんですよ。

それに、この問題に関しては、あなたなら、そう考えるだろうとも思っていました。そして、その考えを変えろとも言いません。それは、今回、コメントを書き込んでくださった、〇〇さんに対しても、□□さんに対しても、同様です。

ただね・・・期待するあなただから・・・政治家にでもなって欲しいと思うあなただから・・・まったく違う意見をもった人と、しっかり意見交換できるようになって欲しいと思うんです。自分の考えを伝え、相手の考えを知り・・・それでも、相容れないなら仕方ないけど・・・精一杯、努力する習慣を身に付けて欲しいんです。

場所によっては、今回、書き込んでくれたような口調や内容でもいいとこもあると思うんですよ。ネットには、いっぱいありますよね、そういうところが。でも、ここでは、今回・・・式典で国歌斉唱のときは、歌わなくても起立はして欲しいなって思っているワタシと、その必要はない、もしくは少なくてもそれを府の条例で決めて強制するのはどうかと思うという、相対する意見をもつ人が、(自分で言うのもなんですが)比較的冷静に意見交換していたでしょ。だとしたら、そこに入ってきてくれるなら、断固式典で起立して国旗に礼をし国歌を斉唱すべしという意見で、ぜんぜん構わないから、そう思う気持ちを、冷静にちゃんと伝えて欲しかったと思うんですよ。

今回の、△△さんのアプローチでは、わたしは、国歌斉唱時に起立しない人は減らないと思うのね。だって、お互いが「お前らなんか」って背を向け合っているだけだもん。

△△さんなら「決まりだから従え」なんていうの、ほんとうは人の上にたつ能力がない人間が力をもった場合の、一番愚かしい発言だって、誰よりも分かるでしょ。

だから、△△さんが、国歌や国旗を大切にしたい気持ちには、ちゃんとした理由があるはず・・・公務員に、それを尊重させたいのにも、ちゃんとした理由があるはず。それを、伝えて欲しかったな。

そして、君が代や日の丸を、今の日本に相応しくないと考えている人たちにも、それなりの考えや理由があると思うのよ。それを知りたいと思って欲しいなって思うのよ。

そこからしか、日本の国をよくすることって、始まらないと思うよ。

ある意味、君が代や日の丸を拒否している人たちは、わたしなんかより、よほど日本という国のことを真剣に考えていると思う。それは、日の丸や君が代に拘っている人と同じくらい。一番問題なのは、わたしのような無関心層だろうね。だから、どんなに考え方が違っても、最終的には、やっぱり相容れなくても・・・まずは、向かい合うことをしていかない?

なんて理想論なんだろうなとは思うんだけど・・・わたしの知っているあなたは、人の話に、ちゃんと耳を傾けられる人だから、そして、ほんとうに人一倍優しくて正義感が強い人だから・・・だから、その正義感と優しさを、もっともっと成熟させていって欲しいなと、わたしは思います。

*****************************************************



『OBERON日記』
http://blog.goo.ne.jp/oberon-p/

『生声日記』
http://v-diary.at.webry.info/

『映画鑑賞感想文』
http://blog.goo.ne.jp/rotten-b/

『旅日記』
http://star.ap.teacup.com/oberon/

『プチ幸せ日記』
http://hello.ap.teacup.com/oberon/


公務員に求められることって・・・

2011-05-10 12:46:32 | Weblog
茨城県土浦市が、原発事故による被爆が怖いからと、数日の休暇をとって県外に出た市職員数人を、訓告や厳重注意処分したとニュースで言っていましたけど、これって・・・処分されるべきことなのかなぁ~。

そりゃあ、決して美しい行為だとは思わないし、褒められたことだとも思わないし・・・普通の会社にお勤めの人じゃなく、市の職員さんだということだから、多少特別なものを求めたい気持ちが皆無ではないんですが・・・それでも、こういうことって、言ってみれば、個人の勝手ですよね。休暇願いを出すことも、許可された休暇中にどこに行こうと・・・雇い先に、とかやく言われることじゃなくないですか?

市は「全職員が24時間体制で働いていた中で、このような行為は市民からの信用失墜を招きかねない」、だから処罰したと言っているそうですが・・・それなら、休暇届が出された時点で、その職員さんと話し合われたら良かったんじゃないかと思います。「こんな時だ。そして、われわれは公務員だ。今こそ、市民の為に働くときなんじゃないか」って。でも、それでも嫌だって言われたら、それは仕方ないですよね。いくら公務員といえど、そこまで強要できないんじゃないですか。逆に、公務員だから強要できないなんてことはないですか。

それにね・・・なんていうのかな・・・「こんな時だ。そして、われわれは公務員だ。今こそ、市民の為に働くときなんじゃないか」って発想も、実は、ちょっとなぁ~と思うところもあるんですよね。

いえね・・・そう思って欲しいという気持ちはある・・・っていうか、そう思う気持ちの方が強いんですよ。けどね・・・こういうときって、なんとなく世間全体で、美談を強要しているようなムードがあるでしょ。でも、それって違うんじゃないかと・・・天邪鬼なワタシは思わずにいられないんです。っていうか・・・こんな時だからこそ、自分の価値観や美意識から外れたことであっても、個々人の判断は尊重しあわなきゃって思うんですけど・・・そういうのって、間違った個人主義ですかね。

一つになることや、思いやりを持つことは、もちろん大切だけど・・・それが、強要されちゃだめだと思うんです。そういうことって、一人ひとり心の中から、自発的に沸き起こってくるものでなくちゃいけないんだと思うんです。

だから、勤務中に仕事を放棄しただとか、仮病を使って休暇申請をしただとかってことなら、処分止むなしだと思うけれど、ちゃんと休暇願いを出して、それが受理されたのなら、休暇中に県外に行こうと、その理由が被爆が怖かったからだろうと、とやかく言うべきことじゃないんじゃないかなと思います。そんなことないですかね。

『OBERON日記』
http://blog.goo.ne.jp/oberon-p/

『生声日記』
http://v-diary.at.webry.info/

『映画鑑賞感想文』
http://blog.goo.ne.jp/rotten-b/

『旅日記』
http://star.ap.teacup.com/oberon/

『月下小夜子編』
http://oberon1.cocolog-nifty.com/word/

『月下推敲(槙編第二稿)』
http://oberon4.cocolog-nifty.com/oberon4/

『月下推敲(依編第三稿)』
http://oberon5.cocolog-nifty.com/etc/


悲観と楽観・・・どっちが良いのか分からない

2011-03-22 11:37:23 | Weblog
有事の際の姿勢というか、立ち居地をどこに置くかって、その後にも影響する重要なことだと思うんですが・・・正直、どうすれば良いのか、何がベストか、分かりませんよね。

個人の場合、それはもう、何が良いかどうか以前に、個々人の性質の問題だったりしますよね。備える場合には幾分悲観的寄りな方がいいような気がするし、何かが起こってしまった後では多分楽観的な方がよいように思いますが・・・何が良いといわれても、個人の性格だから仕方がない部分が大きいですよね。

けれど、政府機関だとかマスコミだとかの“伝え方”に関しては・・・何が良いだろうかということは、考えなきゃいかんことなんでしょうね。

たぶん・・・政府機関は、無意識に楽観的に捉えたいという祈るような思いがあるだろうし、国民がパニックを起こさないように、自分たちが責任を追求されないように、楽観的に伝えたいという気持ちが強く働くだろう思うんですよ。けど、彼らは逆に、あえて悲観的な予測をもとに対応しなくゃいけないし、パニックを恐れず悲観的なことを伝えなきゃ駄目なんでしょうね。そして、その分、どう頑張るかも、大げさに言えばいいんじゃないでしょうか、どうでしょうか。

逆にマスコミは、ここぞとばかりに悲観的なことを伝えがちなところがありますよね。よりドラマティックを求め、誰かの責任を声高に追求したい性を持っていますものね。けど、むしろ彼らには、未来に向かう力を与えるようなことを沢山発信して欲しくはないですか、そんなことないですか。災いが現在進行形なのに、明るいことなんて伝えられないのは尤もとは思いますが。

何が発信されとき、それを受け取る人間が多ければ多いほど、何がベストなのが揺らぐと思うんです。だから、全員に好ましいと感じさせる伝え方なんてあるはずもない。それはそうですよね・・・ええ、そうだと思います。

だからこそ、多種多様ってことが活きてくるんじゃないでしょうか。政府が有事に多種多様じゃマズイですが、報道機関などは、多少批判をうけたとしても、自分たちのスタンスというのをもって、独自の視点や独自の切り口、独自の主張をもって伝えてもいいんじゃないでしょうか。自分たちは中立で公平で無色なんですって逃げ道を作るより、自分たちのかけている眼鏡の色を自覚して、それを押し付けるのではなく、受け取る側に役立ててもらえるような伝え方ができると良いんじゃないでしょうか。

何を言いたかったのか、自分でも分からなくなりました(^^;。ただ、楽観的であることも悲観的であることも、両方必要だと思うのです。それを適切に使い分けていけることこそがベストなのだと思うのです。だけど、自分一人だと、なかなかそれが出来ない。巧くできないどころか、楽観的であるべきときほど悲観的になってしまい、悲観的であるべきときに楽観的になってしまいがちな気がするのです。だから、役割分担じゃないですが・・・他者と助け合って、フォローしあわなきゃって、そんな風に思うのです。

『OBERON日記』
http://blog.goo.ne.jp/oberon-p/

『生声日記』
http://v-diary.at.webry.info/

『映画鑑賞感想文』
http://blog.goo.ne.jp/rotten-b/

『あるといいなぁ』
http://h-voice.at.webry.info/

『書くことのあれこれ』
http://oberon26.cocolog-nifty.com/etcetc/

『A SCRAP』
http://moon.ap.teacup.com/oberon/

『月下対話編』
http://oberon5.cocolog-nifty.com/etc/

『死について』
http://ameblo.jp/oberon

『個の成熟を目指して』
http://ameblo.jp/oberon-a

『民生・児童委員 日記』
http://ameblo.jp/oberon-b