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阪神淡路大震災から19年を経て

2014年01月16日 | その他

平成7年1月17日阪神淡路大震災の発生から19年の年月が経ちました。

あれから19年が経過した今、もう街には震災直後の爪あとを見ることはできません。しかし、今でもその瞬間、あの大地の鳴動、恐ろしいほどの揺れ、当時の記憶は薄れることはありません。
生まれ育った街が、いつも当たり前にあった風景が、一瞬のうちに破壊されてしまった悲しみはなんとも言い難い深い悲しみを感じました。

私達家族も地震直後からしばらくは避難生活を経験しました。幸いにして、親族や家、仕事を失うこともなくあの震災を無事に乗り切ることができました。19年が経った今、どのように街が変ったのか残しておこうと、当時撮った写真とほぼ同じアングルから今の阪神間を撮影してきました。

写真、左側は1995年、地震発生直後から半年あまりに撮影したものです。ネガが色あせてきたので2009年にスキャンしてデジタル保存しました。
写真、右側は2014年、正月に帰省した際、ほぼ同じ場所を撮影した写真です。クリックすると拡大します。

倒れた石壁。左手のお屋敷は直後から避難して一度も戻らず。その後しばらくして9区画ほどに細かく分譲されました。


倒れたブロック塀で路上駐車破壊。地所は左右ともにマンションに。


良く見ると住所表記は当時のものがそのまま残っていました。


その先、JR寮。火の手こそ見えませんでしたが、地震直後から煙が上がっていました。今はマンションに。


こちらも火災で失われたマンション。終日、消防車が来る事無く自然に鎮火。現在はほぼ同等のマンションに建て替えられています。


斜めに見える屋根は1階エントランスのひさしです。当時、1階が駐車場になっている「下駄履きマンション」が多かったですが、さすがに震災以降の建物はこのような構造のマンションは見かけなくなりました。


宮川に倒れこむ民家。現在は立派なお屋敷に。歩道沿いにある桜の木がだいぶ成長していました。


一番変ったのがここ。倒れているのは「通用門」、奥は白壁が崩れ落ちた「蔵」。古くから残る立派な御屋敷町でしたが区画整理され幹線道路が貫通しました。震災以前から道路計画はあったのですが、立ち退きと移転が難しく「絶対完成しない道路」と言われていたのですが・・・。


上宮川交差点。トラックには「第10師団災害派遣隊」とあります。愛知県からの応援ですね。恐らく震災後2週間以上経ってからの撮影だと思われます。右側写真の一番手前のビル、震災直後は残った燃料店だったのですが、その後、地震とは関係ない火事で消失し建て替えられました。


災害派遣で集合した自衛隊のトラック。ピシリと揃ったみごとな駐車。
現在では「ありがとう自衛隊」の声も多く聞かれるようになりましたが、当時は自衛隊の災害派遣がまだ広く望まれていませんでした。このような大災害が発生するまで、行政が行う防災訓練には地区の自衛隊が一切呼ばれていなかったのが救助活動の遅れを呼んだとも言われています。

当時、法律で許されていた「偵察行動」と「近傍出動」を目一杯拡大解釈して初期行動に出た自衛隊に感謝しています。この時、自由に動けなかった事がのちの法律改正、整備に繋がりました。
※阪神淡路大震災での15分以内即死率は50%、東灘区から芦屋市にかけて一番ひどい地区は90%という集計があります。もしそうだとしたらいかに早く出動できたとしても間に合わなかったのかもしれませんが、災害後、72時間以内に救出する大切さは広く認知されるようになりました

上宮川交差点横の商店。以前はメインストリートだったこの道も、今は裏通りになってしまい交通量も大きく減りました。建物こそ新しくなりましたが、地区全体で再開発されることもなく、小規模商店のままです。


外観以上に内部は破壊されました。長らく大規模修繕か建て替えか検討が続き、結局は新しく建て替えられました。年代も家族構成も年収も違う世帯同士が同じ結論に至ることはありません。建て替えが全ての人にとって最善策とはなりません。マンションなどの集合住宅では震災後も長く悩みが続きます。


神戸市役所。6階で折れました。撮影は1ヶ月以上経ってからだと思います。今は24階建の高層建築と、その周りに防災センターなどが建ち並ぶ市の拠点に生まれ変わりました。
神戸市は、古くは「山、海に行く」と言われた大規模な埋め立てによる都市開発でそのインフラを整備してきました。しかし、防災という観点が抜け落ちていたことは否めません。
百年千年といった単位で、「万が一」という視点で防災面にも投資する市政を、市民が理解し応援する必要があります。


道路の向いにある安田生命ビル。このような新しいビルが一瞬にして座屈する現象は想定外の現象だと聞きました。阪神淡路大震災以降に建築されたビルは、はたしてこれから起こりうる南海トラフ地震などの長周期振動に耐えられるのでしょうか。


JR三ノ宮駅から、神戸のメインストリート「フラワーロード」を南方向にみたものです。右手前のビルの1階にはゲームセンターがありよく通いました。今は雑居ビルとその奥にはおしゃれなマルイが建っています。全面ガラス張りのマルイ、耐震対策は十分なのでしょうか。


逆方向。フラワーロードから三ノ宮北方向を撮った写真。さくら三神ビル、当時は左に傾いたのかと思いましたが、現在もそのまま解体されずに残っています(写真ではわかりませんが、一番上に「三井住友VISAカード」と大きな看板が掲げられたビルです)


ポートライナーの橋脚が落ちました。また持ち上げてちゃんと戻るもんなんですねぇ。


報道でも大きく取り上げられた阪神高速道路が倒壊した地点。倒壊部分は既に撤去されてからの撮影です。地震の十数時間前に、この倒れた高速道の下、国道43号線を車で走って家に帰りました。数十年、数百年単位で動く地震が、もしわずかに早く発生していたならば私はちょうどこの下を走っていた訳です。
現在の様子を撮影してくるのを忘れましたので、ストリートビューから今の風景を拝借しました。


街が復興して綺麗になっても、家族や友人を失った方にとってその悲しみが癒えることはないでしょう。阪神淡路大震災で行方不明の方が未だ3人いらっしゃるそうです。
神戸新聞「失踪宣告遺族になりきれず

平成7年1月17日、大きな災害に見舞われ、その瞬間、その場に居た私達にとっては一生忘れることができない出来事でした。そしてその2ヵ月後には東京で地下鉄サリン事件が起き、マスコミの報道が一斉にそちらに振られる中でも被災者達の生活は変る事無く続いたのです。

阪神淡路大震災も、年々マスコミで取り上げられる事は少なくなり、その報道は毎年1月17日を中心に年に数回という状況になりました。神戸市民も半数が「震災後」の住人になったそうです。
その後起きた東日本大震災も、発生から早くも3年になろうとしていますが、未だ仮設住宅で暮らし未だ以前の生活を取り戻すことができない多くの人が居ることを忘れてはなりません。

微力ながら、少しでも長く記録を綴りたいと思います。

阪神淡路大震災から18年
震災の教訓
一喜一憂しない
M8.8の巨大地震
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阪神淡路大震災の記録

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