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埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

講和記念アンケート「よりよい村にする為の具体的方策」 1951年11月

2008年09月14日 | 報道・よりよい村にするために 1951年
 想ひおこせば十一年前の秋、国を挙げての大祭典が展開された。紀元二千六百年を寿ぐ世紀の祭典である。菊花薫る日比谷の原頭に蝟集(いしゅう)せる朝野の縉紳名士も紅葉散る山間の陋屋に日の丸を掲げた無名の民草も誰がその後十年間の世の転変のはげしさを予想し得たろう。必勝不敗の態勢から無条件降伏へ、今又希望の首途へ、余りにはげしい世の移り変りに、民族にも歴史にも、希望も建設も、あらゆる人の営に対してすっかり自信を喪失し、この十年間に国民思想にも大きな変化が齎(もたら)されたやうである。果してさうか。それは長い歴史のみがこれを知る。しかしここに掲げた二十余篇の論説は、このはげしい世相をくぐり抜けた人々が果してども方向に動いて行くか、それを示唆する貴い指標である。何故なら今や漸く我々は自らの目で見、自らの心で考へ、自らの口で喋る時期に到達したと考へられるからである。論説中に見られる過渡期的溷濁(こんだく)は読者の良識により払拭(ふっしょく)せらるべきものである。
     『菅谷村報道』17号(1951年11月10日)掲載

よりよい村にする為の具体的方策(菅谷・松浦博) 1951年11月

2008年09月13日 | 報道・よりよい村にするために 1951年
 菅谷村でなすべき事柄はまだまだ多くあってそれを列挙すればかぎりありませんがその一つ二つをあげてみませう。例へば村の公民館、娯楽設備、衛生問題があります。この中で直接私生活に関係があるのはなんと云っても衛生問題でありませう。一口に衛生問題と云っても色々ありませうがまず第一になすべきは蝿蚊退治でせう。然しそれは個人個人で行ったのでは絶対に出来ないと云う事は多くの人々の経験してゐる事思ひます。やはり村のあるいは区の仕事として行うべきではあります。その方法としては特別の衛生委員を設けて一週に一度ぐらい戸別に巡視して便所、下水、豚小屋等を消毒する事にして村民は極力これに協力し一ヶ月に一度ぐらいは日を定めて村民全体が各自の責任に於て下水等を掃除したならばよいと思ひます。この様にして蝿蚊の居ない村や町を作った所は全国では何ヶ所もあります。菅谷村も是非そうしたいものです。
私達の村から蝿や蚊を徹底的に駆逐したならばそれ自身が文化生活に一歩でも近づいた事になります。そして住みにくい此の世の中をすこしでも住みよくする為に村民がこぞって協力しようではありませんか(18才・松山高校3年生)。
     『菅谷村報道』17号(1951年11月10日)掲載

よりよい村にする為の具体的方策(川島・森田與助) 1951年11月

2008年09月13日 | 報道・よりよい村にするために 1951年
 講和講和、待望の講和は締結され我が国は漸く独立することが出来た。我々国民は大いに祝福して止まぬと同時に茲に認識を新たにし日本人としての覚悟をせねばならぬと思ふ。言ふ迄もなく我が国の前途は多事多難なものがある。自衛権の確立、賠償問題、人口問題、食糧問題等々枚挙に遑(いとま)なく、国際情勢の如何によっては大なる犠牲を払はねばならぬと思ふ。だが私はこう言ふ国家的問題に触るるものでなければこれら大問題は先人に託して先づ自分を省み自分の家を視(み)、自分のを知り、自分の町村と先づ自分の周囲を知ることが尤も大切なことではなからうか。国の細胞たる町村が堅実でなくては国家の繁栄は望み得ぬものと思ふ。
 茲(ここ)で菅谷村を良くするにはどうしたら良いかと言ふ事を考へる時、私は教育であると言いたい。そして其の補助機関なるPTAにお願ひする。言ふ迄もなく今迄の教育は先生任せ学校任せであった。それではならぬ。如何しても学校と家庭が一体とならねばよい教育は出来ぬと言ふ見解から教師と父兄の会(PTA)が組織され、幾年か過ぎたが果して全般の方々がPTAを理解されて居るだろうか。特に家庭に於ては婦人の力に依る処が大きい。父兄とし母姉としどれだけ理解し認識されて居るだらうか。疑はしいものである。
 されば真に理解させその有りかたを知らせるには字毎に懇談会等数多く開きお話しすることが尤も効果的ではないかと思ふ。されば先生諸兄の一段のご努力をお願ひしPTA本来の道を進みたいものである(民生委員、46歳)。
     『菅谷村報道』17号(1951年11月10日)掲載

よりよい村にする為の具体的方策(志賀・出野好) 1951年11月

2008年09月13日 | 報道・よりよい村にするために 1951年
 敗戦後の我国は国土の四五%を失い而も人口は八千万を擁し十年後にはやがて一億に達せんとする趨勢である。昔ならば之を国運隆々たるものとして大いに中外に誇示する処であるが、今は敗戦国のかなしさ、限られた四ツの島にとじ込められて此のぼう大なる人口を如何にすべきかヾ頭痛の種となっている。されば朝野の識者の間に於て此の問題がさかんに論議されている事は、つとに世人の知る処であるが、之が対策として産制が取り上げられているのは誠に尤もな事である。これはたヾに国家問題であるばかりでなく各個人の家庭に於ても真剣に考ふべき事であると思ふ。昔から貧乏人の子沢山とゆう諺があるが、多産の家庭が如何に経済的に苦しんで来たかは我々の身にこたえて見聞し且体験している事である。我々農村の中産以下の家庭に於いて特に然りである。かかる家では明けくれ食ふ事のみに没頭し教育等も閑却せられ只々子供の養育丈が精一杯で、ほっと息つく間もなく尊い一生を終って了ふのが今の世である。是が人生なりと諦観すべきであろうか、否こんな意味のない一生は人生ではない。そこで私は識者の口真似をする訳ではないが声を大にして産制を叫びたい。良い子を少く産んで丈夫に育てる計画産児、これこそ我々の最も理想とする処である。産めよ殖せよとか又子供は授かり物だから仕方がないと矢鱈に生み出して無意味な苦しみをする時代は正に過ぎた。私は先ず子供は三人位が適当だと思ふ。結婚後五年目に一人宛生む様にすれば生活にもさしたる支障を来たさず従って十分な養育が出来るから親子共に幸福である。宜しく自分の好む時に生み欲せざる時には造らない事である。かくする事によって国家百年の大計にも順応し又自己の幸福をも招来する唯一の手段ではなからうか。かゝる方策は国家が取り上げて実施すべきは勿論であるが先づ手近な処で村あたりでも一応考慮に入れて何等かの手を打つのも決して徒事でないと思ふ。例えば保健婦をして各家庭を訪問せしめ、性知識を啓発して、正しい避妊の方法を授け、しかも節度ある性生活を営ましめ、或いは婚姻の届出に対し御祝ひとして相当量の避妊薬を贈呈するなど面白いと思ふ。又薬店と提携して避妊薬及び用具の半額購入券を発行し民生委員の手に依って無償交付するなども妙であろう。之を要するに人間は食足りて礼節を知る動物である。彼の終戦直後に於ける怖るべき様相も衣食たらざる動物本能の一断面ではなかろうか。生活にゆとりがあれば自然精神的にも余裕を生じ即ち謙譲の美徳を備えた最良の国民となるのである。
 斯く観じ来れば産制を実行する事に依って国民個々の経済破綻を防ぎ、民生を安定し、生活を向上せしむる事が出来るのである。産制こそ救国の根本であり、平和の基調であると云っても過言ではないと思ふ。
 卑見を述べて大方識者の批判を竢つ次第である(村会議員、56歳)。
     『菅谷村報道』17号(1951年11月10日)掲載

よりよい村にする為の具体的方策(志賀・高橋亥一) 1951年11月

2008年09月13日 | 報道・よりよい村にするために 1951年
 村をよりよくやってゆこうと云ふ事は講和以前にくらべて一層容易でないことは云ふ迄もない。まだ講和と云っても各国の批准が済んでゐる訳ではなく、それは早晩解決するとしても、その後に来る問題は国家の政治経済にどう響いてくるかと云ふことである。
 第一に東南アジア諸国との関係、比島、濠州、ビルマその他の国から多額の賠償の要求も考えなければならない。然し、それを米国が如何に調整してくれるかである。更に外債の支払援助資金の返済等。弗不足の現在亦将来を如何にして支払得るか。政府は自立の範囲内で支払ふと云ってゐるが、果してそれんに先方が応じ得るどうか。侵略をうけた幾つかの国が日本の再軍備を不能ならしめんとする意図から多額の賠償を要求してくるかも知れない。第一次大戦後のドイツが賠償支払の為に百十六兆億マルクと云ふ通貨の乱発となり、従って大インフレとなり、新通貨切替の直前、二十三年の十月二十日には一弗の相場が実に四兆二千億マルクと云ふ全く想像もつかない迄に暴落して通貨は殆ど無価値なものになってしまったのである。
 故に政治経済と云っても講和後の問題である。資源の乏しい我が国が、若し貿易の何十パーセントを賠償、外債、援助資金等に振向けなければならない。然し亦それ以前に爆弾の洗礼をうけるやうな場合がないとも言ひ得ない。それこそまさに御破算である。
 こうした国家の興廃を決す如き重大な問題が重積してゐる。国家の一細胞たる、一町村はその一挙一動によりて直に明暗となって響いてくることは云ふ迄もない。故に末端の指導者は与へられた範囲その枠内を巧みに運営すると云ふ外にないと云っても良いのである。只具体的に云ふならば政府の行政整理の尻馬に乗りて予算の何十パーセントにのぼる人件費の削減、それに付随する冗費等に充分検討考慮すべきである。
 一方農業経営の面から云ふならば現在の無計画経済による過剰生産時代(多角経営)にあっては多少危険をおかして尖端をゆくか、或は殿(しんが)りをゆくかである。然し最近は尖端と尖端がぶつかり合ひ、殿りと殿りとがぶつかり合って結局採算破れの生ずる場合が少なくないのである。然し斯く行き詰った農村も国際情勢の如何によっては、或は再びインフレの波に乗ってバックする時がくるのではないかと思ふ。それは兎も角、拡大再生産のきかなくなった資本主義の末期時代に何等かの一大変化が起こらない限り自滅への一途を辿ると云ふ以外にないのである。故によりよき村をつくる具体案と云っても状勢の変化に対応し善処すると云ふ事であると思ふ(村会議員、57歳)。
     『菅谷村報道』17号(1951年11月10日)掲載

よりよい村にする為の具体的方策(志賀・水野利男) 1951年11月

2008年09月13日 | 報道・よりよい村にするために 1951年
 農村には今尚迷信因習が多くこれらが如何に保険衛生に悪影響を及ぼして居るが、これら迷信因習を根本から打破し正しい衛生知識を普及しなければならぬ事は郷を同じくする誰もが心を痛めて居る問題であると思ふ。昨年今年に於ける伝染病の発生は郡下でも、上位にあると云ふ不幸な結果で有る。
 無医村であれば、まだしも他村に例を見ない医院数、立派な医師が居る本村に於て病人の続出は何を意味するか。この埼大の原因たるや各戸各人の衛生に対する知識の足りぬ為と云っても、敢て過言ではないと信ずる。此の機会に是非婦人会の活動を希望する。衛生知識の普及は主婦であり、子供の母親である。皆様にお願ひする普及の一方法として立派な医師が居られるのだから各医院を訪問して、四季に多く発生する病気の種類、家庭で出来る手当等お伺しパンフレットを作製、これを各戸に配布し病気の早期発見に、手当に役立たせ、合せて一般の衛生知識の向上を計り明るい家庭、愉しい村にする様、共に努力すべきだと思ふ(青年団文化部長、22歳)。
     『菅谷村報道』17号(1951年11月10日)掲載

よりよい村にする為の具体的方策(平沢・山田巌) 1951年11月

2008年09月13日 | 報道・よりよい村にするために 1951年
 国民待望の講和条約は締結された。然し乍ら国民待望の講和はこのやうな安保条約主、講和条約従のものではなく、交戦国全部との真の講和一本槍であったのである。斯る講和後に於ける政治経済上の問題誠に軽視すべからず。講和により国民経済、国民生活は安定と向上の一途を辿(たど)るかに楽観視する者少しとせず。然し事実はその逆を行くと考へて敢て過言ではないであらう。今や講和インフレは必至の状態にあり国家財政又窮迫の度を加へつつある政情の下に於ては地方自治行政も複雑至難イバラの道の続きである。世間の流言はいざしらず今消防ポンプ購入に見らるるが如き軽率なやり方は戒めねばなるまい。「失敗は成功の元」、褌しめかえ堅実な行政を願ふ者である。今や終戦後の農民景気は何処へやら……農産物価格の後を追った諸物価は農産物価を尻目に上昇の一途を辿り、之と逆に農産物価は下向きの形勢にある。米麦の統制は外れんとしてゐる。斯(かか)る今日程経営の合理化に迫られていることはないであらう。真剣に考ふべき秋(とき)である。経済の健全性は収支の均衡であることは云ふまでもない。一町足らずの農産物に依る現金収入は見るべくもない。ここに農業と一番関連深い畜産の方途を見だすことが出来る。酪農、養豚、養鶏により現金収入の道を打出し、それに依り出来た堆肥の金肥の節約を計ることが可能であり、牛乳、卵等は特に農村に事欠く栄養の補給源となり、一石二鳥の効果を収め、一年生計費の何割かを占める医療費の節約を計ることも出来る。幸にして当地は立地条件に恵れ、有畜農業の前途又は有望と云ひたい。人間は総て共同の社会に住む。郷土を愛することは人間の常なり。教へ教へられてよりよき社会の建設へ(25歳)。
     『菅谷村報道』17号(1951年11月10日)掲載

よりよい村にする為の具体的方策(千手堂・高橋正忠) 1951年11月

2008年09月13日 | 報道・よりよい村にするために 1951年
 わが菅谷村をより美しく住みよい豊な村にするために私は次のようなことを考へてみた。具体的な方法は心ある有志で会合し、話し合って研究して行きたい。
 一、農業生産を高めること。
(1)適地適作の研究(2)品種の改良(3)施肥の研究(4)土地の改良(5)農業の機械化(6)農業技術の向上(7)農業経営の合理化(8)農業の協同化(9)(協同作業協同経営協同炊事等)
 二、家庭生活の改善
(1)衣生活の改善(合理的作業衣の研究普及)(2)食生活の改善(誰でも出来る而も理想的な献立表をつくって各戸に配付、農繁期に特に必要)(3)住生活の改善(勝手、風呂場、便所、井戸、作業場)(4)リクリエーション(健全娯楽)(5)衛生と健康の問題(又は休隣組単位に村内の専門家を招いて講演会等)(6)家庭経済の研究(家計簿を付けて計画的に)
 三、各種委員会並に団体の活動と村民の協力
(1)農業委員会(増産と村経済樹立)(2)選挙管理委員会(民主社会における選挙の重大性を徹底)(3)民生委員会(村に不幸な人間をつくらない相互扶助の精神を徹底)(4)農業協同組合及び生活協同組合は定款により最大の活動(5)婦人会(家庭改善と婦人の向上)(6)青年団(堅実な思想と協同の精神)(7)4Hクラブ(健康と知性と技術と精神を尊び増産運動をなす)(8)文化会(農村文化の向上のため復活することを望む)
 四、設置を要する機関
(1)公民館(図書館の併設)(2)託児所(だけで農繁期だけでよい(3)映画館(企業を目的としたものでなく社会教育と健全娯楽を考慮したもの)(4)観光施設により村経済を負担する方法(国保運営委員、47歳)。
     『菅谷村報道』17号(1951年11月10日)掲載

よりよい村にする為の具体的方策(千手堂・瀬山修治) 1951年11月

2008年09月13日 | 報道・よりよい村にするために 1951年
 待望の講和はすんだ。然しお隣りの支那印度等は不参加、賠償額のきまらない何となく不安な講和である。吾々に課せられる責務の重大さを痛感する。今後、平衡交付金の減額は予想され村民負担の増大は覚悟しなければならない。これに対しては村民の一致協力こそ村づくりの推進力である。生産の面に於ては労働力を検討して高度に利用すべきである。戦後急激に盛んになった酪農はこの現れで立地条件に恵まれた本村では尚一層増加すべきである。養豚、養鶏等の家畜も増加すべきで、本年より僅かながらこの方面の助成を始めたが非常に有効と思ふ。家畜の増加は自然生産量を増加する。土地改良の事業は農業発展の基礎である。従来実施して居る農道改修の補助に加へて出来る限り助成し生産条件を改良すべきである。文化面に於ては公民館を建設し文化生活を向上すべきである。小中学校の施設に対し出来得る限り予算を計上し、生徒児童の教育に遺憾なく力を注ぐべきである。次の世代をよりよくする為に(村会議員、46歳)。
     『菅谷村報道』17号(1951年11月10日)掲載

よりよい村にする為の具体的方策(千手堂・吉野ナヲ) 1951年11月

2008年09月13日 | 報道・よりよい村にするために 1951年
 私達此の度恐れ多くも皇居を拝観さして戴きました事は村民の皆様の御陰と深く感謝致す次第で御座います。此の旅行に付きついに家庭に反対され不幸にも希望を満たす事の出来ぬ婦人が沢山御有りの様でしたが、少しは親としての理解を以つて戴きたい思ひます。此れに反して此の節の嫁はどうも姑を何んとも思はず却って姑の頭に登らんばかりの態度をする方が有るなどたまたま聞き入れる場合が御座います。私は唯今では姑でもなければ嫁でも御座いませぬが、どちらが良悪しとも言ひませぬが私が考へましては親有って初めて子ですから一歩降って親に随って鄭重に取扱ったならばお台所の改善に付きましても気持よく可愛い嫁の為にはある程度の理解を以って戴けるのではないでせうか?菅谷村婦人会が生れたのは遅かったですが、講演講習会を開き洩なく出席して他に負けない婦人会を育て上げたい事を希望する次第で御座います(婦人会役員、45歳)。
     『菅谷村報道』17号(1951年11月10日)掲載

よりよい村にする為の具体的方策(千手堂・瀬山芳次) 1951年11月

2008年09月13日 | 報道・よりよい村にするために 1951年
 時間の厳守 村の会議或はの集会に於て、一時間若しくは、二時間位遅れなければ、会議を始める事が出来ないのが現在の状態である。そこで、召集した者は必ず、定刻に定めた場所に行き、一人でも二人でも集った人員に関係なく、定刻に会議を始める。遅刻した者には、既に議決した事に対して異議の申立は出来ない事とする。極端過ぎるかも知れないが、これ位にやらなければ、時間を守る事は出来ないと思はれる。
 二、国旗の掲揚 日本古来の伝統を生かし、国土発展の為国民の進むべき目標として、祝祭日に戸毎に国旗を掲げる事は講和後の日本国民としての義務であると思ふ(消防分団長、28歳)。
     『菅谷村報道』17号(1951年11月10日)掲載

よりよい村にする為の具体的方策(鎌形・山下欽治) 1951年11月

2008年09月13日 | 報道・よりよい村にするために 1951年
 先づお互の心を豊にする事である。如何にその智識が発達しても心が貧困であると決して良い結果となって現れない。それには各人が信仰を持つ事である。ここに云ふ信仰とは所謂御利益本意の宗教に対する信心ではない。神の存在を確信し、聖哲の教を守り、国家社会に尽した人に対し崇敬の念を持つことを正しいと信ずる信念を謂ふ。
 信仰の確立、是が高揚の為には色々な事が考へられるであらう。たとへば国旗の掲揚とか各神社寺院の祭事の振興とか、又は宗教人の宗教活動への協力とか、時に永年荒廃してゐる菅谷城跡の忠魂祠を復旧せしめ、年一回位盛大に祭祀を営む事等、祭典祭祀は一面村民の慰安、娯楽の行事たらしめる様に心掛ける事も大切である。
 二、次は経済生活の向上である。一般的なことは先ずおいて広く社会的に何かの特産物のある所は概してその経済も豊である。当村でも何かの特殊な産物があると良いと思ふのだが、どうかその道の人達に大いに研究してもらいたいと思ふ。
 是は私のほんとうの思ひ付きだが ─ 何かの団体が中心となって、各家庭で二坪か三坪のフレームを作り切花の栽培をして、是を販路を研究して共同出荷したらどんなものかと思ふ。勿論それには栽培上特別の技術家の指導を必要とするが ─ 花を作ることそれ自体が情操の育成であり、平和的で然も何処の家庭でも出来る事だと思ふ。そうして是が村の特産物となり、花なら武蔵嵐山の花と社会に知られる迄になったならば以て経済的にも必ずや得る処大であると思ふ(村会議員・農業委員、42歳)。
     『菅谷村報道』17号(1951年11月10日)掲載

よりよい村にする為の具体的方策(鎌形・杉田二三雄) 1951年11月

2008年09月13日 | 報道・よりよい村にするために 1951年
 私達が事業を計画し之が具体化する場合いつも一大難関に逢着するのは資金面に於てで有る。如何なる名案賢策も資金の面を閑却し、その裏付がなければ一場の夢物語と化してしまふ。村の事業でも同じ事が言へる。
 扨(さ)て与えられたテーマと合致せぬかも知れないが、幸に私は日頃から雄大なる構想の下に理想郷建設の具体案を計画中で有るが、本村の現状では、勿論実現不可能な事で有り痴人の夢と冷笑される位が関の山で有るからその全貌は、後日機会を得て発表するとして、その一環たる、実現の可能性濃き二三を挙げてみな様の参考に供したい。
 先づ第一に公民館の建設で有る。本件については村議会の議題となってゐるやに仄聞(そくぶん)してゐるが一日も早く実現させてほしいもので有る。そしてこれが運営は識者にお委(まか)せしその成果を期待するものである。
 第二に甘藷を原料とする加工場の建設である。本村は県下でも有名なる甘藷生産村で有りながらも澱粉工場も酒精工場もなく、甘藷は原料用として比較的安価に売却される。加工場建設の場合は生産過剰の時でも商人に買叩かれる心配はなくなり農民の利潤は倍加されて農民の生活向上の為に村がそれだけ明朗になる。
 最後に希望するところは全村各字に一個又は数個の電話の架設で有る。殊に鎌形将軍沢遠山等は、役場、農協等より遠く離れて居る為に、電話で事足りる簡単な用件でも一々出掛けなければならず農繁期や悪天候の時は非常に困難する。又電話は、防犯、防火や病気の時の保険衛生上にも火急の場合利便この上なく、利用範囲も広いものです。
 電話の架設により連絡は緊密となりスチーム村政は自ら実現する。以上三件とも実現の可能性濃きとは言ひ乍ら冒頭に述べたように、莫大なる資金が必要で有り又法規其の他細部の点は考慮してない。然し一つでも実現すれば理想郷へ数歩前進する事は信じて疑はない(25歳)。
     『菅谷村報道』17号(1951年11月10日)掲載

よりよい村にする為の具体的方策(鎌形・長島近治) 1951年11月

2008年09月13日 | 報道・よりよい村にするために 1951年
 明るい村、よりよき村を礎くのは何時も我々の理想とするところでありますが、さてどの道を歩んだのが一番よいのでせうか。各々の皆違った御意見により色々の道があると思ひます。私は先づ健康から明るい家庭が生れ、明るい村が築かれるを信じ、一片の衛生の面を申上げまして皆様の御批判を仰ぎ度くペンを取りました。私達勤労者が日常生活して行く時、何時如何なる時が一番楽しく又幸福でせう。それは先づ健康で有る時だと思ひます。たまに病に罹り床の中に臥って居る時などつくづく働く楽しさがわかります。又家中に病人有る時は何となく憂鬱で心配計りが先に立つものです。まして夏季に於ける伝染病程恐しいものはありません。是を防ぐには常に各人が注意して蝿や蚊の発生を防ぐと共に時折に本村医師の伝染病に対する予防座談会を開き一般の注意を促して戴きたいと思ひます。本年も春季清潔法前に殺虫剤を分配致しました。そして数回に分け撒布して戴く様お願いしましたが、面倒と思ったのか間違て撒布してしまった人も有る様です。是れでは貴重な薬がなん度分かたヾ捨てられた様なものです。「それだったら衛生委員が撒いて歩け」と云ふ方が有るかも知れませんが、皆さんよく考えて下さい。自分の為でもありまた人の為でも有ります。こんな細事を怠ったため病気になったとしたらどんなに近所の人が迷惑するでせう。一昨年も昨年も村から三十名余りの患者が出ました。松山保健所管下でも一位か二位を示す程の伝染病患者の発生率だそうです。こうした汚名を一日も早く挽回する様、皆さん今年こそ衛生に注意致しませう(衛生委員、32歳)。
     『菅谷村報道』17号(1951年11月10日)掲

よりよい村にする為の具体的方策(鎌形・簾藤惣次郎) 1951年11月

2008年09月13日 | 報道・よりよい村にするために 1951年
 講話締結は表面的には主権を回復し独立国家として国際社会の一員として復帰したが、その一面、政治、経済、思想文化と世界の荒波の中に押出された日本農民の将来に容易ならぬものがあると思ふ。一例を取れば日本農民一人で一・九人の食糧生産するに対し、アメリカ農民は四三人分の食糧を生産すると云ひ、東南アジアの農民は日本農民の三分の一の生産費で米を作ると云ふ。量的にも、生産費の点についても是等他国の農民と自由競争しなければならぬ立場にある日本農民の将来、楽観したものではない。又現金収入の太宗たる生糸が人絹、スフ、ナイロン、ビニール等々合成化学繊維の現状及び将来を考へた時、まさに古典繊維の感を深くするものである。是等化学繊維と養蚕業の競争を考へた時、相手に不足はないと云ふことが出来るが農民の前途は決して楽観は許されない。いかにして困難を打開し、よりよい村作りをするか?
 一、農村はもっと知性を尊重しなければならぬ。
 一、旧来の陋習弊風を断乎改め生活を合理的、能率的、科学的に切り替えること。
 一、消費経済を切りつめ、生産経済に注入して再生産を盛にするよう指導する(大河中学校長、43歳)。
     『菅谷村報道』17号(1951年11月10日)掲載