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埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

権田本市『吾が「人生の思い出」』(1989年8月)目次

2010年12月26日 | 権田本市『吾が人生の想い出』(1989)

●吾が「人生の想い出」1 はじめの言葉

●吾が「人生の想い出」2 幼年時代

●吾が「人生の想い出」3 子守り奉公に出される

●吾が「人生の想い出」4 少年時代  手伝い

●吾が「人生の想い出」5 少年時代 家庭教育

●吾が「人生の想い出」6 少年時代 関東大震災

●吾が「人生の想い出」7 少年時代

●吾が「人生の想い出」8 少年時代

●吾が「人生の想い出」9 少年時代

●吾が「人生の想い出」10 少年時代

●吾が「人生の想い出」11 少年時代

●吾が「人生の想い出」12 少年時代

●吾が「人生の想い出」13 少年時代

●吾が「人生の想い出」14 青年時代 徴兵検査

●吾が「人生の想い出」15 青年時代 入隊通知

●吾が「人生の想い出」16 青年時代 入隊通知

●吾が「人生の想い出」17 青年時代 入隊通知

●吾が「人生の想い出」18 軍隊入隊

●吾が「人生の想い出」19 軍隊生活

●吾が「人生の想い出」20 軍隊生活

●吾が「人生の想い出」21 軍隊生活 外泊

●吾が「人生の想い出」22 軍隊生活

●吾が「人生の想い出」23 軍隊生活

●吾が「人生の想い出」24 軍隊生活

●吾が「人生の想い出」25 軍隊生活

●吾が「人生の想い出」26 軍隊生活

●吾が「人生の想い出」27 軍隊生活

●吾が「人生の想い出」28 軍隊生活

●吾が「人生の想い出」29 軍隊生活

●吾が「人生の想い出」30 軍隊生活

●吾が「人生の想い出」31 軍隊生活

●吾が「人生の想い出」32 軍隊生活

●吾が「人生の想い出」33 軍隊生活

●吾が「人生の想い出」34 軍隊生活

●吾が「人生の想い出」35 余裕の無い行動で失敗

●吾が「人生の想い出」36 盧溝橋事件勃発、日本鋼管に就職

●吾が「人生の想い出」37 軍隊生活 召集電報

●吾が「人生の想い出」38 軍隊生活

●吾が「人生の想い出」39 軍隊生活 召集解除

●吾が「人生の想い出」40 海軍航空技術廠に就職

●吾が「人生の想い出」41 自動車教育班

●吾が「人生の想い出」42 間違いの召集電報

●吾が「人生の想い出」43 第二トラック班

●吾が「人生の想い出」44 親子三人でアパート暮らし

●吾が「人生の想い出」45 大空襲

●吾が「人生の想い出」46 疎開電車

●吾が「人生の想い出」47 いよいよ終戦

●吾が「人生の想い出」48 帰郷後の生活

●吾が「人生の想い出」49 岡村かじ屋で働く

●吾が「人生の想い出」50 青木木工所で働き我が家を建てる

●吾が「人生の想い出」51 露天商をはじめる

●吾が「人生の想い出」52 キャンデー屋をはじめる

●吾が「人生の想い出」53 左官に転職

●吾が「人生の想い出」54 駐留軍で運転手となる

●吾が「人生の想い出」55 乳牛を飼う

●吾が「人生の想い出」56 タクシー会社同盟交通誕生

●吾が「人生の想い出」57 家を新築

●吾が「人生の想い出」58 子ども達の独立

●吾が「人生の想い出」59 歳月は流水のごとし

●吾が「人生の想い出」60 光陰矢のごとし


吾が「人生の想い出」60 光陰矢のごとし 権田本市 1989年

2010年12月26日 | 権田本市『吾が人生の想い出』(1989)

 七十三才を迎え今も元気に活動出来得る事は、多くの方々からの御声援の賜と心から感謝申し上げると共に私権田本市の人生のあらましを想い出しながら書いてみたと云う次第である。
 尚、終りに当って、身体の健康は私の財産でもありました。今でも二十数年続けている体操は実行中です。
 昭和六十二年(1987)三月五日

   権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 77頁


吾が「人生の想い出」59 歳月は流水のごとし 権田本市 1989年

2010年12月26日 | 権田本市『吾が人生の想い出』(1989)

 同盟交通開業十五年余。昭和四十九年(1974)十二月、二つの営業所が合併する事になる。練馬営業所は解散、従業員は移転又は退職して他の会社に勤務した人もあり。私の場合若し通勤するとしたら三時間余。年は六十才、其のため定年退職にしてもらった。しかし、白内障手術の関係で五十年(1975)一月迄で延長勤務。お蔭で目の方も現在コンタクトを使用だが車の運転も続けられている。
 昭和五十年(1975)五月十九日、外孫の正寿誕生。有子は働いていた。しかし少しでも早く家を作る可く、我が家の方でも最大の援助をしてやろうと思った時だが金銭がある訳でなし、そこで正寿は我が家で見て有子も働く事にした。出勤前連れて来て退勤時迎えに来る。このような毎日が繰り返されていた。五十年はたまたま私が退職していた関係で子守も出来た。夏の甲子園など私が抱いてテレビ観戦した事など、いい思い出の一つ。正寿は内孫同様である。
 この年九月に入ってと記憶する。和子がパートで働いていた時、伊藤さんから女子高の話をしてもらい早速伺ってみた。仕事の内容は鍵の開閉で、朝八時迄に開錠し又鍵を返して夕刻再度出勤、全員退勤後鍵を閉めて帰宅。こうして幾日か過ぎた或る日、古橋校長先生から毎日勤務してくれないかとの話になった所で、実はこれこれの事情で家の中は保育所同様の件をお話したところ、それではといってとりあえず育子を保育園に入れるよう取り計らって戴き、お蔭様で育子は即入園する事が出来ました。私は五十年十月一日から正式に勤務する事になる。勤務する以上頑張ろう。そして他から喜ばれる人になろう。又、この人間は絶対必要である。そう知ってもらう可く行動に心掛けた。勤務して間もなく生徒募集時、教頭先生の車を運転し各方面の中学校を訪問した事もあった。私にとって世間の様子を知る事も出来て誠にいい勉強になった。嵐山町に住んで恥しい話だが大妻女子高校のあった事さえ知らなかった位である。結局自分の仕事に追われ通しの毎日でいたと云うのが実情である。又、私の子供も四十六年(1971)有子高卒を最後に学校関係から遠ざかった事にもある。然るに定年の年再度就職。しかも近くで女子高校であり、私にとって誠に恵まれた条件であった。それ以来毎日の仕事も楽しく働く事が出来た。五十六年(1981)には老いての勉強で国家試験にも挑戦し、お蔭様でボイラー技師免許も取得する事も出来た。資格持っての作業は無い時の事を思うと、ほんとに良かった。そう感じさせられた年でもあった。これにはと云うと、ボイラーには年に一度性能検査がある。その折、資格無しでボイラー運転は良くないとこっ酷く怒られた。五十六年(1981)夏の経験があったのでそう感じさせられたと云う訳である。

   権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 75頁~77頁


吾が「人生の想い出」58 子ども達の独立 権田本市 1989年

2010年12月26日 | 権田本市『吾が人生の想い出』(1989)

 頼子は高卒後、東松山比企文化社に勤務。後、職場を変えて坂戸日本シールオール会社に入社中職場結婚。有子は高卒後富士銀行成増支店に就職。一時は身体を壊して休職した事もあり。しかし支店長始め行内の方々よりの声援もあって暇を取る事も無く続勤務。これには私の想い出があるので敢えて記してみたいと思う次第である。訳というのは身体を壊し休職した時、私が暇をもらいに行った所、支店長課長関係上司の方々が次々と見えられ、暇はあげられない。銀行の仕事で壊した身体です。全治するまで給料は支払います。どうか丈夫になって今一度勤務して欲しい。こうした声援に対し子を持つ親として涙の他返す言葉も無かった。有子も期せずして、再び勤務出来た事は家族一同大きな喜びでもあった。やがて四十九年、結婚のため退職。此の折、成増商店街のお客様始め他の会社からも餞別など戴いた想い出こそ本人にとっては特に新生活への最高のスタートが出来たのではなかったろうか。結婚後、知人のお世話で小川信用金庫に就職となる。

   権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 74頁~75頁


吾が「人生の想い出」57 家を新築 権田本市 1989年

2010年12月26日 | 権田本市『吾が人生の想い出』(1989)

 ここで話は前後するが我が家の二軒目が出来る迄を説明してみよう。昭和四十年(1965)九月三十日上棟した。それまで義父が丈夫での折、前の家の件に関して色々と相談させてもらい、内々の中で土地売買の形を取って置いた。と云うのは対外的に考えた時、将来他人が入ればやはり出入りする人の事も思い現在の所では不合理をきたす。そう思ったから機会あったら地所を交換して欲しい。そうお願いしていた。理解ある義父のお蔭で現在の土地に上棟出来たと云う事にある。なお後で困る事のないよう土地の譲渡に関しても登記所を通じて総てを完了させた次第である。話は変るが義父は良く働いた人で大変な財産も作られた人だが、その娘夫婦である私達には特に好意的であった。こうした事などが大きな援助につながった訳である。
 なお、関係各位の人達からの応援のあった事も申すまでもない。新築時の壁等義弟の援助は一番力づけてもらったものだ。ありがとう。その義父は私達の家土台を見て一言「良かったなぁー」を最後に、昭和四十年(1965)九月二十五日永眠となる。今も其の義父が我が家を見守って下さると思うと先祖に対し感謝の念を忘れないよう心掛けて居る次第である。家の方も出来上り、愈々跡継ぎの話も出る頃となり、昭和四十三年(1968)四月、吉沢さん達の紹介で忠志を養子縁組で我が家に迎えた。四十四年(1969)六月忠明誕生、四十七年(1972)九月五日育子誕生。我が家にも明るい家庭生活のスタートが始まっていた。

   権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 74頁


吾が「人生の想い出」56 タクシー会社同盟交通誕生 権田本市 1989年

2010年12月25日 | 権田本市『吾が人生の想い出』(1989)

 さてその後駐留軍労務者も大分整理があるようになり、国・県など失業対策に色々の話が出るようになった。ブロック積みの講習も其の一つで私も川越で受講した。熔接免許もそうである。浦和まで行きその資格も取得した。
 なお、運転手の方はタクシー会社の設立を考えるようになり、幾つかのブロックが合同して申請する事になり、其の方面に希望者を集めた。資金は退職金を持ち寄って会社を作る事になる。だから退職金を得るため整理になる人の代りになって退職した。会社の出来るまで数週間あった。たまたま保険の資格が失われて居た時、六年生の頼子が盲腸炎になって随分苦しんだ。暮れから正月、家族五人で正月を病院で過ごした思い出など、今は忘れられようとしている昨今である。
 その年二月、タクシー会社同盟交通が出来たと記憶する。一人三十五万円の出資で始まり、練馬営業所と杉並営業所であった。私は練馬営業所勤務。会社にも色々の出来事があったがどうにか落ち着いた。

   権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 73頁~74頁


吾が「人生の想い出」55 乳牛を飼う 権田本市 1989年

2010年12月24日 | 権田本市『吾が人生の想い出』(1989)

 キャンプ内の様子は長くなるので中止して、今度は家庭内の様子を思い出して説明する事にする。昭和二十七年(1952)八月一日、有子誕生。三人娘となる。勤務の関係で時間に余裕が出来たので乳牛の子育てを思い付いたのである。当時乳牛ブームで一寸した農家ではほとんど飼っていた。私は農家出身。草刈りでも何でも経験あったので其の方面は困らなかった。そこで小屋も自分で全部作った。場所は家続きである。たまたま早くから実家の畑一反余を耕していた関係で子牛に与える冬場の青物は麦など作って刈り取っては与えた。その刈り取りがかえって良い結果をもたらした思い出がある。なん年だったか記憶はないが四月一日、春の重い大雪で農家の伸びた麦は全部倒れてしまったと云うより折れてしまい、肝心の出穂に悪影響となって皆無の状態であった。ところが私の所では刈り取っては子牛に与えたお蔭で異常なし。普通以上の収穫。農家の人達も驚いた。そんな想い出もあった。勤務明けには午後草刈り、翌朝は四時起床草刈り。尚、私が勤務に出る前鎌二丁程といでおく。妻が草刈り。そうした幾日かのうち妻も自分でといで刈れるようになった。こうして一人前の牛にして他の農家にゆずったが、後で会いに行った思い出もある。娘を他にくれた時と変らない可愛さもあり、乳牛も家族の一員であった。元をと云えばこうした事もどうにかして多分の収入を得んがための試みから生れた考えでもあった。然るに世の中は甘くなかった。乳牛も草だけでは育たなかった。やはり栄養ある物も与えない事には。そこで終りの頃には乳牛用の飼糧も買ってくれた。人間生活の中にもよく云われる。バランス取れた食事等理想はそうであってもなかなか思うように行かないのが普通である。金銭問題又は好ききらい等様々である。此の時得た収入差引一万円だった。細かく計算した結果である。たとえ幾らにせよそれだけ浮いたと云う事は如何に努力が必要かと云う事を知らされた訳である。
 しかし、金銭以外で得た収入もある。作物の出来なかった畑が乳牛の堆肥のお蔭で立派な畑地となり、何を作ってもよく出来るようになったと云う事は莫大な収入ではなかろうか、こんな事を家族で話し合った。
 そして有子が三年生頃になっていたと記憶する。姉妹で私達二人に対し其の一万円で伊香保温泉にでも行ったらと勧められた事も忘れる事の出来ない想い出の一つである。子供達から優しい言葉を初めて親に対して掛けられた其の気持ち。又、私達も決して無駄には出来なかった。たまたまピアノ練習中の有子のためにピアノは買えないがオルガンを買ってやる相談が出来、川越の栗原楽器店で買った。其のオルガンが今もある。有子から育子へ、そして今は有子の子供良子の処へと廻って居り、かなり縁のある品物でもある。三代使えば惜しくもないがね。旅行がオルガンに変ったお話である。

   権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 72頁~73頁


吾が「人生の想い出」54 駐留軍で運転手となる 権田本市 1989年

2010年12月23日 | 権田本市『吾が人生の想い出』(1989)

 そこで望んで居らなかった駐留軍キャンプで働いてみようと決心したのである。八月、当時日本人が多く働いていた。二度とハンドルを持たないと決心していた頃だったが金の欲しさに再び車の方に挑戦してみようと思い受験した。アメリカ兵の試験管「ユー、ナイス」。合格した翌日から来て下さい。通訳の話。ところがたまたま朝鮮動乱時で忙しく今すぐ働いてくれとの事。その日から働いた。運転手は一般労務者より給料も良かったが仕事も忙しかった。とにかく言葉にも不自由したが通訳も居り自分の勘でも働けた。二年も過ぎた頃は夜勤AとB班に分れて働いたが、時間的にはかなり余裕が出来た。夕刻十六時出勤、明朝九時退勤。そして翌日の夕刻十六時出勤と云う変った勤務であった。

   権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 71頁~72頁


吾が「人生の想い出」53 左官に転職 権田本市 1989年

2010年12月22日 | 権田本市『吾が人生の想い出』(1989)

 そしてこの期を最後に職を変えて、義弟が駒込で左官をしていたのでそこで働く事にした。重労働だが金が欲しかった。昭和二十五年(1950)二月五日、最も寒い時期から毎朝一番で上京した。あの頃の車中は暖房も余りきいて居らず非常に寒さを感じさせた。今のように着る物も余りない。ただ気が張っていたから風邪も引けなかった。こんな事別かもしれんがね?。二月八日、私が出掛けた後だと思う。現在米寿しに居る君子が誕生。訳あって百日目で米山に嫁ってしまった。可愛そうだったが他人でない姉親の懐に抱かれて大事にしてもらえる事を信じたからである。実は義父の口添えがあっての事。詳細については現在みんな知っている通りである。東京迄通い重労働の割に金にはならなかった。作業する道具にしても移動する時はリヤカーを自転車で引いたが此の自転車とリヤカーと云ったら満足の物は無かったのである。自転車はチェンがはずれたり、リヤカーのホイルは飛行機用で古く重い事此の上なし。思った免許はある。現在のように車があったらアクセル一つで苦労もしなかったろうにと当時の状況であった。しかし私は性質上やる事はやり通したつもりである。然るに生活の方は安定どころが一層不安になり出した。

   権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 70頁~71頁


吾が「人生の想い出」52 キャンデー屋をはじめる 権田本市 1989年

2010年12月21日 | 権田本市『吾が人生の想い出』(1989)

 そんなある日、近所の戸野倉さんから今年の夏はキャンデーが売れると思うからどうかと声掛けてもらった。溺れる者は藁をもつかむ思いに是非と云う事でアドバイスを依頼した。先ず、自転車が必要である。ところが自分には余りいい自転車も無い。早速隣の自転車屋に行き相談した。とにかく三百本入る箱を積んで走る商売である。タイヤが悪かったら仕事にならない。そう思ったから車体は古くともタイヤだけは新品にする事にした。此の代金は金で無く米二斗だったと記憶する。一応準備も出来て出られるようにした。昭和二十四年(1949)三月末頃だったと思う。小川町の奥田屋に案内され、多くの売り子の仲間に入れされてもらった。そして四月早々には売りに出始めたように思う。果して自分のキャンデー買ってくれる人がいるだろうか。そんな思いを胸にひそめながらカネを鳴らしてスタートしたあの時の気持ちも今はただ過去の記憶にすぎないが涙の物語でもある。
 やがて五月六月と田畑が忙しくなり汗も流れる頃となればカネの音を聞いて五本十本と買いに来る人、待っていて買ってくれる人も出るようになった。真夏の頃には味を覚えて客は何処のキャンデーが美味しいとか云うようになった。私の店のキャンデーは割合人気があったのでかなり遠くまで行っても売れた。自分が行商した方面も早めに流して居ったのでキャンデーの味も知ってもらえた事にもある。終戦後の祭りは戦前に戻ってあちこちがにぎわうようになったお蔭でキャンデー売りに行くとよく売れた。心配した借金もどうにか一夏で返済の見込みもつくようになった。やる気になればと思うが終戦時ならではこんなにも色々の事が出来たのかも知れない。
 夏も終って再び行商などに出かけたが明けて二十五年(1950)一月から二月の年取りまで行商しながら年取り用の魚の注文も取った。お蔭で七箱分、数は覚えていないが早朝から配達始め終終ったのが夕刻一番遅く。配達した方は大分心配していたとか。しかし貴方はうそを云う人ではないなんてかなり信用もあった。これはほんと?後で聞いた話だがとても魚が美味しかったという伝言もあった程。幸いでした。

   権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 69頁~70頁


吾が「人生の想い出」51 露天商をはじめる 権田本市 1989年

2010年12月20日 | 権田本市『吾が人生の想い出』(1989)

 家が出来て間もなく車で出る仕事も余り無くなったように思う。こうしては居られない。ヨシ何でもやろう。そこで思い付いたのが商売である。早速知人から聞いて露天商の許可をもらった。たまたま義理の姉宅が青果物店であった関係で品物を売らしてもらい何ぼかの賃金を戴くようにした。魚類もあって行商にも出た。しかし、一番恥かしいと云うかよくもやる気になれたと思ったのが初めて夜店に出た時、昭和二十三年(1948)十月十三日と思うが場所は今の嵐山町杉山薬師堂の縁日の晩、りんごを持って出店した。この頃は今と違って寒さも厳しかったように思う。灯りと云ってもまだガス燈(カーバイト)を使ってするもの。又はローソクの光などだから薄暗いし、まったく夜店と云った感じである。地元での商売、自分は恥しさの方が多く感じられたが、客の方は同じ買うなら知っている人がいい。何処も同じ情状のお蔭で随分商いが出来た事も想い出の記憶である。
 二度目は根岸の観音様、そして三回目が小川町中爪の大師様である。此の時は真逆である。現役当時の戦友、彼は二中隊で北支には行かなかったが同郷の誼(よし)みで知り合っていた訳である。その彼が「あっ、権田君ではないか。いや、暫らく。実は二中隊に居た誰々だよ」其の彼が親分株で店割りしていたのである。いいよ、何処でも好きな所に店を出せよ。でも此の辺がいいでと云って場所迄わざわざ教えてくれた。知人ってどんなにか有難かった私の想い出でもある。
 露天は此の位で止め、後は行商だけにした。たまたま終戦時は昔に戻って衣類などは染め替えして使うようになり、一時は其の染料が大人気となった。其の折隣同士だった根岸さんが染料の良い物がある所を知って仕入れてくれたので二人で行商に出る。かなり遠くまで歩いた。しかし其の日暮らしの行商では返済金どころか四人家族の生活にも危ぶまれる状態となった。染料を売りながら反物を延ばす道具も自分で作って売った事もある。

   権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 68頁~69頁


吾が「人生の想い出」50 青木木工所で働く我が家を建てる 権田本市 1989年

2010年12月19日 | 権田本市『吾が人生の想い出』(1989)

 菅谷にも大分馴れた或る日、私を訪ねた人あり。話は代燃車が平沢で故障して動かない。君は代燃に経験あると聞いたので来た。見てくれないかとの事。このように話されては断る事も出来ず、早速承諾して出掛けた。暫らくしてエンジンも始動、車も動いた。
 それ以来話も変って、運転手は居るが車を見るだけに乗ってくれないかとの事に熔接の方も有り困ったと思った。でも熔接の方は若い衆が少しは出来るようになって居り、それではと云う事で次のように話をきめた。難しい修理の時は声掛けてもらう事にして車の方に便乗することにした。二足のわらじ、此の時位困惑した事は無かった。でも結果的には良かったのかもしれない。同じ町内の青木工場であったが知人も多く出来、木工場で働いて居るうち関係者から家を造ってはと声掛けられた。予期しない話である。でも多くの方から応援を得て造る事にした。
 それには色々と想い出話がある。取あえず出来る迄の経過を思い出して説明する事にする。私には勿論金は無い。手持ちは当時二百円。一体幾らの家と云うと二万円である。建坪は六畳一間と三畳の間、土間六尺奥行八尺、三畳の間の外に廊下等後で増築する。以上で敷物は古いたたみとむしろを敷く。然らば二万円。だが妻の父が出してくれた。他から借りるのがきらいな父は私達のために立替えてくれたのである。非常に嬉しかった。
 話は前後するが土地は妻の実家の裏で、畑地を貸してくれた。初めて持てる自分の家。上棟は昭和二十三年四月二十三日(1948)と記憶する。以来之に報ゆる可く少しでも早く返済する事に努力しようと心掛けた。

   権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 67頁~68頁


吾が「人生の想い出」49 岡村かじ屋で働く 権田本市 1989年

2010年12月18日 | 権田本市『吾が人生の想い出』(1989)

 そんな或る日、菅谷のかじ屋(昔からの商売として農具等作って居った通称かじ屋、岡村さん宅)には若い衆が何人も働いていた。戦時中は何事も軍関係にとられていたので農具も余り出来なかったのかもしれない。終戦と同時に田畑用の農具が急に必要に迫られたらしく、其の製作に忙しくなった時だったと思う。どんなはずみか。私がガス熔接の出来る事が知られたので働いてくれないかとの話。早速通って働く事にした。たまたま熔接の道具も少しだが私が引揚げ時戴いた物などもあり、又、岡村さんの舎宅に疎開していた方が酸素会社の人で、其の方面の資材も思ったより早く整ったと云う事である。
 作業の内容だが、以前は全部鉄を焼いて熔かし付けたものだが、能率上やりにくい取付け部分を熔接で付けると云う作業である。こうした数日が続く中、出入りする人達などの話からかじ屋で熔接をすると云う事が広まり、色々の物が持ち込まれた。鉄ビン、釜、鍋、昔で云ったいかけ屋仕事などなど。私も何かをやって人に喜んでもらえる様心掛けていたので、色々と工夫もした。そうしてどうにかやりとげた。又、出来た時の自分の気持ち、此の満足感こそ言葉に云い表わせないほどだった。言葉を返せば敗けずぎらいだったのかもしれない。
 ある日、小川に出張を頼まれ農作業用の水揚げポンプ修理で何処に出しても直らないとか。私にやってみてくれと云われ私独得の方法で使えるようにした。こうした仕事の出来るようになったのも航空廠で覚えさせてもらった熔接技術で彼の飛行機作りに必要な熔接の一部だが教習受けた尊い技術面のお蔭でもあった訳である。初めて私が教習受けた時の教官曰く「机上の計算と技術では違いが有る」事を話してくれた。其の違いのある事を知って作業する事こそ大事な計算と云うのではないだろうか。いずれにせよ技術と云う事は難しい。
 この頃給料は日増しとまで行かないがどんどん変っていた。額に覚えがないがかなりいい線戴けたと思う。若い衆も何時しか一寸した修理位出来るようになり、従って私にも多少の暇があるようになった。
 その頃、仕事の関係もあり菅谷に越す事になる。二度目である。木村さん宅の物置小屋を借りた。障子は私の手作り。夜になると土間にねずみの親子連れも出た?所だったが、こちら親子三人楽しくもあった。リヤカーで運んだ家財道具はまだ少なかった。昭和二十二年(1947)年九月十五日、次女頼子が誕生。忘れもしない大雨で川は大洪水。其の中大蔵の産婆さん宅に自転車で急いだ。そして、翌日月田橋が流されたが、若し一日遅かったら渡る事が出来なかったかもしれない。今はどの橋も整備されそんな心配もいらない。頼子の誕生日は特別で忘れられない。二十二年九月十五日朝七時頃と記憶する。

   権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 66頁~67頁


吾が「人生の想い出」48 帰郷後の生活 1989年

2010年12月16日 | 権田本市『吾が人生の想い出』(1989)

 それでは引揚後の様子から想い出してみる事にする。前に疎開した妻子は実家(今の嵐山町菅谷)に居たが、今度は私の実家(嵐山町広野)に住まう事にした。たまたま実家には前に述べたが機織した時の別棟があった。そこを改造して住まったが一足先に疎開した兄貴の方に便利の所。私達弟はその奥一間に住む。
 先ず食糧の事だが、先に送り届けた二斗タルの米。愈々手をつける事になる。まさかと思った農家に米は無かったのである。供出に出して作った人もその日の食べ物に事をかき、代用食サツマ・ジャガイモ等ある物で過して居たのかと思った。あの時の米一俵でもいい。確保しておいたらなぁ。しかし少しの米とは云え私達家族も幾日かの日が過ごせた事は無い人達より幸せだった事に感謝しなければならないと今になっても想い出す次第である。
 さて、住まいは出来たがこれから先の生活である。先の事など想像もつくはずがなかった。恐らく私だけではない多くの人達の考えも変りなかったと思う。とにかく戦に敗けたら、男は殺され女は自由にされるなど、此のように思い込まされていた時である。ところが敵が上陸してみると別に変った話は聞かない。一体どうなっているのかそれとなく命に心配もなければ女も自由にされた話も聞かない。そんな幾日かを過ごすうち、よし何かを考えるようになった。世間の人達もそう思ったに違いない。それ故にあの闇市たるものも出来たのではないだろうか。軍の流れ物資や食糧に替えた衣類、アメリカ人から出るチョコ・ガム・タバコ等、なんでも屋の店。又、かしこい人は何処からと無く色々の物を集めて来ては売ったり買ったりしていた。
 そこで私も暫らくした或る日航空廠で働いていた知人が横須賀に居たので何か無いかと思って久し振り訪ねた。ありました。一馬力のモーターである。重量は五十キロ。いや重い事この上もない。しかし、どうにかして持たなくては。そこでリュックに入れて背負った。歩きにくい事でも人間必死の気持ちになれば、いや、ならずには居られなかったのである。彼の所から駅まで割合近かったので大いに助かった。電車に乗る時は片腕にぶらさげて行動した。無事嵐山駅まで着いた。駅から家まではどうして運んだか記憶にない。早速モーターの稼ぎ先も見つけた。現在杉山の人の宅に条件は確か金が一千円にサツマ芋一俵。だが、サツマも苗を取った後の甘藷で十二貫。水に入れると浮いてしまう物。それでも食べ物が無い時である。洗って煮ても味も無い。只満腹感が得られれば良かった時である。今思えば浮浪生活に過ぎない。でも終戦時の日本と云ったらほとんどの人達の生活ではなかったのではなかろうか。当時を想い出してみた。
 現実に遭遇して来た私達自身も今は過去の出来事として忘れかけようとしているが、いや忘れてはならないのである。徴兵で満四年六ヶ月、二十一才から二九才、現役応召此の間十年。三十才、ようやく世帯持つ。だがもっと不幸な人達の居られる事も忘れられない。戦死、戦病死、そして其の人達の遺族の方々。何がそうさせたのか。戦争である。だから絶対に世界平和を願う人々の気持ちを無駄にする事なく、願わくは子孫を再び戦場に送り度くないものである。
 さて、話は変って、外に出て働く前に「サツマあめ」などを作るために、兄貴と二人で「くずカマド」など作ったりして大分アメも作った。そしてそれを知らない店に持って行き売ってもらった。恥かしいとかいやだなんて云っていられなかった時で幾らでもいい。金さえ出来れば。当時の世相であった。今でも想い出す事は和子を背中にねんねこ着てアメを運んでくれた愛妻の姿が終戦時とは云え苦労させた想い出が改めて涙の物語として記憶する次第である。

   権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 64頁~66頁


吾が「人生の想い出」47 いよいよ終戦 1989年

2010年12月06日 | 権田本市『吾が人生の想い出』(1989)

第一部 幼年時代
第二部 少年時代
第三部 青年時代

第四部 終戦後

 二十年(1945)八月十三日だったと記憶する。私は海軍の青年将校(中尉)と講習出の若い運転手三人で福島県の福島市にあった軍工場に出張命ぜられ、代燃車(トラック)に薪を積んで出張した。どんな用事だったか解からんだったが、翌十四日は一日当工場に居って近くのりんご園で青いものだったかを買い入れたり炭も何俵かも買った。それを「トラック」に積んだがボデーから余り高くならないよう将校から指示され、荷造りなどをしていた。又、友人で菊地さんの実家が山形の米沢で福島の駅から一つ先だったから立寄ってくれ、そしてブドウ酒を貰って来てほしいとの伝言を実行したが大変だった。駅に行った時空襲になり、余程戻ろうかと思った。でも行って来られたが今でもあの時の行動は忘れられない。私としては家人に近況を知らせてやりたい一心からでもあった。だから友人の伝言も実行出来たと思う。
 そして八月十五日。支度も出来上り愈々横須賀に出発。直前午前十時頃だったか、重大放送があるからそのまま待機して居るよう指示された。何事?十二時、それが彼の終戦放送だったのである。無論、放送内容は吾々に解かる文句ではない。しかし、誰からともなく、遂に戦争に負けたと云う事だった。其の夕刻福島を出発して横須賀に向った。此の時の焦りの気持ち、御想像下さい。ハンドル持つ人なら大よそ判断が着くでしょう。ガソリン車なら思うスピードも出ると云うもの。ところが代燃車である。最高速度50キロ。調子良好の時である。アクセル勿論使用するが、チョークに依るエーアの調整もあり、うっかり焦るものならエンスト。代燃車経験者でなければ知らない事でもある。夜通し走って、翌十六日午前十一時頃航空技術廠に着いた。
 話は前後するが、帰りの夜道は燈火管制解除。私個人の判断でした。将校は心配して、アメリカ軍が既に上陸したらしい。暗くした方がいいのではと云っていたが、代燃で走る気持は恐いもの無し。年の関係もあったように思う。燈火管制とは戦時中夜間走る車はヘッドライトに黒いきれをかけてほたるの光のように他から敵機に解からないよう警戒した事を云った。帰りの出来事色々あったが長くなるのでペンを置く。
 さて、横須賀に着いてからの様子は一段と又大変だった。順を追って説明すると、廠内の合言葉は次のようである。陸軍は降伏したが海軍はまだ之から戦うと云うのである。其の意気込みたるや?工場内での作業は一変して一斉に短剣作りと変っていた。驚いたね。其の短剣で上陸する敵と相対するとの事。今考えたら此の上もない幼稚な事。
 しかし、当時の戦況からして我が国には何も無かった。気持ちだけは負けられない。大和魂だったのである。誰がそう思い込ませたのか、神国日本。飛行機に竹槍で向ったりしてね。勝てる訳も無い。此の頃敵機が上空に飛来すると数発の高射砲も撃ち上げられたが余り効果は無かったようだ。
 一方池子にあった弾薬庫からはガソリン車にしたトラック幾台かで横須賀一帯に弾薬配備の仕事もあった。若い運転手活動、そして敵の上陸に備えたと云う訳である。
 しかしこんな騒ぎも何時しか次の行動に変っていた。敵の上陸が早かったのだろう。明け渡しの準備に変ってしまったのである。幹部の一人だったと思う。曰く、追浜から逗子までトラック一台行ってくれないか。一万円出す。そんな話に気の小さい私は、その仕事に返事も出なかった。出なかったと云うより恐いと思う方が先立っていた。当時の給料一ヶ月七十円だった。終戦になって使える金だろうか。色々考えさせられた。敗戦断末魔の一節である。
 では米軍が上陸する前まで私達が行動した様子も想い出してみる事にする。とにかく自動車教育班に居た関係で仲間にたまたま海軍出の人が居り、此の話は前に述べた通り彼は海軍に長く勤務していたので顔がかなりきいていた。だから横須賀終戦同時追浜航空隊に行き、航空ガソリンをドラム缶数本戴いて来た。そして幾台かのトラックに一本ずつ積んだ。代燃からガソリンキャブに取替え、次の行動に移った。
 私も一緒に行動した時もあったので、特に想い出の一つを紹介する事にしよう。まだ敵の指令が伝わらないうちだったので、あの厳しかった横須賀海浜団の営門も敬礼一つで往来出来た。と云うのも吾々も軍属で海軍のマーク付の車であった関係が大いに役立ったと云う事にある。やはり彼は海浜団でも顔がきいていた。米カマス入り数十俵と砂糖も少しは戴いて来たと思う。そして彼は二俵位確保した。私にもと云われたが、自分は農家生れ、帰ればどうにかなると思い込み、たまたま二斗ダル一パイだけ戴いた。其の時のタル今もある。想い出の米が入れられて私達家族の命をつないでくれた尊い物であった事忘れられない。いや忘れてはならない。あの時である。
 一旦話を変えて、残った米の始末について説明しよう。キープした米以外は私達が朝に夕に往復した追浜駅前通りの人達に全部分け与えてしまった。食糧難の時である。此の時位喜ばれた事は無かった。終戦時のねずみ小僧とでも云うか?(笑)
 そして日々の行動にも特に指示する人も居なくなってしまったように思う。そんな或る日、私達も家財の疎開と云う事を計画した。たまたま私達の方から秩父で一人、嵐山から私、松山一人、計三人居った。そこで荷物を積み合せて横須賀出発。運転は交代で秩父、嵐山、松山の順に荷物を降し、再度横須賀に向って帰る折、陸軍のトラック現役兵三人乗車と出会った時の出来事である。場所は二五四号、東松山市から川越に向って間もない所に橋あり。其の所に近づいた時対向車一台、陸軍のトラックが見えたと思う間もない一瞬の出来事が起きた。私は驚いた。たまたま私はトラックの荷台に居て此の起り得る様子を始めから見て居たからである。私達の車が此の橋に進入した時、相手の車を待つ事なく進入。しかし二台は無理。直感した矢先、橋の上流に「ジャボン」。荷の上に居た兵も川の中。又運転手と助手台に居た下士官二人もはい上って来た。怪我は下士官一人で済む。しかし歩けたので近くにあった産婦人科医で手当をしてもらったと思う。其のトラックには食糧が積んであったが余程忙しい疎開品だったかも知れない。車はそのまま応援を得るとの事で別れる。終戦時の出来事。相手はかなり慌てていた様子だった。
 尚横須賀に戻った所、軍関係の書類等焼却するようにとの伝達あり。私も軍隊生活の書類中、履歴書等総て焼却してしまった。誠に惜しい事をしたと思うが、後の祭り。有ったとしても今では余り用をなさないのではなかろうか?こうして居るうちアメリカ兵のジープが街の中を走るようになった。もう吾々も居るわけに行かず我が故郷に引上げたと云う訳である。

   権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 60頁~64頁