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埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

戦争体験:従軍看護婦として中国で働いて 嵐山町根岸・小沢スミ 2009年

2010年01月01日 | 戦争体験

  従軍看護婦として中国で働いて
       中支派遣登一六三四部隊日赤本部班 小沢スミ*
 昭和二十年(1945)一月四日召集。この召集令状をもって東京都芝区芝公園五号地日本赤十字社に出頭すべしとの召集令状、赤紙を受け取りました。隣組の人達が集まってお米で作ったお酒ドブロクをのんでお祝いをしてくれました。春日神社に参拝して明覚駅まで送ってくれました。同級生二人が高麗川まで送ってくれました。
 日本赤十字社(日赤)本社についた。婦長と二十名一組、東京駅から汽車にのり下関についた。関釜連絡船(かんぷれんらくせん。下関-釜山)にのりました。玄界灘に近づくと救命胴衣を持って集合との部隊長の声にみんな走りました。波もおだやかで無事に過ぎました。
 それからどう行ったか、朝鮮、満州、北支に入る。ここが国境かなと思った。行く先はわからない。向うの人がここはホコウって云う所だよって言った。揚子江を渡ると南京だよと教えてくれた。私達は南京に行くのかなと思った。船で揚子江を渡って第一陸軍病院についた。そこには日赤本部班は居るから私達は第二だよと言われ、ようやく南京第二陸軍病院に着いた。紫金山のふもとでした。
 そこは廣い病棟でした。結核病棟、外科、内科、伝染病棟でした。私達はそこでそれぞれの科に別れました。私は伝染病棟勤務を命ぜられました。熱が高くて脳症を起してわめいて居る患者さんも居ます。腸チフス、赤痢、アメーバー赤痢の患者さんが多く居ました。オムツ交換が一番大変でした。クリークの氷で熱の高い患者さんを冷しました。

   淋しげに唯淋しげにひびくなり夜間のしじまに氷かく音

 クリークの冷たい水で洗たくをしました。先生は三人、毎日忙しく診察をして居ます。
 やがて春がきておタマじゃくしも出てきました。

   クリークのオタマじゃくしを手に取ればほのぼのこいし前髪の頃

 大きなかごをかかえて薬室へ通いました。患者さんが体温計をこわすと始末書をかかせられ叱られました。

   今日も又我通ふなり薬室へ

 何度(いくたび)ともなく朝早く飛んで行く飛行機は内地に空襲にゆくのかも知れないと不安な気持で心配になりました。
 天津についた患者さんを船で揚子江を担架(たんか)でかついで護送しました。その帰り、みんなでトラックがくるまで思い出の唄など歌って故郷を忍びました。また病院に帰り、忙しい看護が始まりました。
 八月十五日熱い日でした。私達は患者さんの看護の合間をみて廣い草原でベッドを作る為カヤを刈って居ました。すると全員集合の部隊長の声。それは悲しい敗戦の知らせでした。みんなだきあって泣きました。敗戦となると向うの態度ががらりと変り、亡くなられた兵士達を外の火葬場までつれて行く事が出来ず白木の箱で家族に届ける事が出来なくなりました。悲しいことに髪の毛と爪位しか家族に届ける事が出来ませんでした。仕方なく部隊の中に大きな穴を掘って一人ずつかごに入れて安らかに眠ってもらいました。
 九月になって私達は上海青葉病院にうつりました。そこで患者の看護をしながら帰る日を待ちました。やがて帰国命令が出て私達は汽車にのりました。貨車に荷物をのせました。出発前になると向うの人達が貨車の荷物を盗(と)りにきました。長い棒やひっかけるカギを持って迫ってきました。私達は貨車の周りに立って荷物を守りました。出発前、荷物が盗(と)れなくて、石など色々な物が投げつけられました。けがをした人もいました。
 帰り道、広い所で荷物の検査がありました。イイダ桟橋についた連絡船に乗り、その夜出発した。甲板に出ると見渡す限りの海ばかり。カモメだけがすいすいととんで居るだけで何も見えない玄界灘(げんかいなだ)も波もおだやかでよい航海でした。
 四日目、ようやく博多につきました。あゝ日本の子供がいるとほっとしました。又汽車にのりました。行く時はきれいだった広島の町も、帰りは見渡すかぎりの焼け野が原と変っていました。原爆のおそろしさを知りました。私達は十二月末それぞれ別れをつげ家に帰りました。
 六十年たった今、部隊の中に残してきた兵士達。戦後の遺骨回収員の手で無事に故郷へ帰り、安らかに眠って居る事と思います。
 戦争のない平和な世の中が続きますやう祈って下さい。
 本当に御苦労様でした。有難うございました。

*:小沢スミさん(旧姓・根岸)は玉川村(現・ときがわ町)玉川、和田に1924年(大正13)2月生まれた。これまで保存していた日記などを2009年に筆写し提供された。その文章を原稿とした。


七郷村長市川武市、役場吏員から出征兵士への慰問文 1943年10月29日

2009年09月16日 | 戦争体験
外地で御奮戦の諸君、又内地で御奉公する皆さん、御元気のことと推察申上ます。
新聞ラヂオで報道さるる戦果の度毎に、我々は感謝と感激をすると共に、皇軍の労苦や如何と案じて居ります。
戦塵を洗ふ一時、塹壕の中で見る中秋の月、或は兵舎の窓から諸君は故郷を偲ぶでありませう。その七郷村は何の変りもなく一同元気です。枯影を慕ふ暑さも過去って秋風が西から吹き、心配した稲熱病も案外軽く済んで、青黄い稲穂が南に向って首を垂れ、もづの鳴く声も一きわ高く、栗の実の熟する秋の風景を呈して居ります。若人の心を集むる十三夜も今日です。一昨日来降り続いた雨も晴れて、雲足も早く青空となって名月が眺められます。
諸君の揚げた戦果に答えんと、全村民心を合せ一体となって、生活戦に、増産戦に、貯蓄戦に奮闘を致して居ります。諸君から御便り戴く度に返信は差上げて居るつもりですが、雑務に取まぎれ失礼したこともあると思います。御許しを願って、今度軍人援護強化運動の展開せらるヽに当り、隣組の慰問文を取纏めて村の近況と合せて報導し諸君の労を慰め致します。
本年の麦の供出割当二八〇〇石も美事に完遂。晩秋蚕も極めて成績良く、五二〇〇貫、一昨日出荷終了。今月三日大雨があったが本村は被害も少く、米も平年作は獲れるでせう。甘藷の供出割当十万貫餘、薪炭二十万束、藁工品一万八千貫の大任も果したいと考へて居ます。
国民貯蓄も十二万円(総額四十八万七千国債五万八千円)も、九月迄五万二千二百八二円各団体の総力で完遂の見込です。
青年学校の査閲も十月三日に宮前校で、宮前、福田、七郷の三ヶ村で受閲しましたが成績極めて良好(特に銃剣術)。体力検査の結果、弱者十九名が高見の明王寺で九月二十五日より十一月二十五日迄県民修練を行って居ります。体力テストも十月十六日に行なひました。今年は女子百餘名も行ひ、上級一名、中級廿二名、初級六十三名の良成績を挙げました。村のニュースも後便にゆづり、本日はこれで筆をたち、諸君の武運長久を吏員一同にて御祈り申します。
          村長 市川武市
          助役 阿部宝作
             船戸恒作
             藤野菊司
             ■田健吾
             馬場芳治
             杉■松雄
             馬場ミツ
             福島富
             小林政市
             安藤弘

海軍入隊大塚新作さんへの慰問文 1 1943年6月頃

2009年09月15日 | 戦争体験

新ちゃんお変わりありませんか。希望に満ちた一日を送っていらっしゃる事と遠察します。
さあどんな姿でせうね。想像がつきませんね。
学校の教材にも沢山海軍思想涵養につとむるものがあります。
一年では工作でお舟や軍艦を作らせ、二年では軍艦の歌があり、遊戯あり、その他落下傘部隊あり、各教材とも完璧を期してゐます。
今年は大変に先生方が変りました*1。私は相変らず古だぬきで暮しています。
新ちゃんの組からは井上朝恵*2、強瀬良晴さんが出願し■て征途につきました。
今年は高二女の担任でしてね、実に珍風景を呈してゐます。
大きい子供、小さい先生、殊に体操の時などは相当閉口します。
馬力ある子供の指導ですから、へばりますよ。
こちらはいよいよ農繁期に入らうとしてゐます。毎年勤労奉仕とし東京の家政学院生徒を迎へますが、本年は自力だけで行ふさうです。
蚕も四眠起きてゐます。何時から休みにしようかと調査中です。
山本元帥の国葬も目前に迫りました*3。
悲しいのか憎いのか惜しいのかはっきりと名状し難い気持です。
航空戦力の偉大さは世界人類の認むる所です。
この複雑にして変転極らない戦々に於て、山本元帥の如き作戦家を失ふ事はほんとに惜しくて惜しくてたまりません。
新作さんしっかり頼みますよ。
山本元帥の悲報に又してもアッツの血戦。
仇敵米英一日も早く打のめさねばなりません。
アッツの悲報*4には子供と泣きました。
憎悪の念はむらむらと燃え上って来ましたよ。
ほんとに自重なさいまして御推進下さい。
及ばずながら私も教育道を通して米英撃滅に拍車をかけてゐます。
では又の日に
 六月一日        かしこ
            金子ひさ
大塚新作様


新作君元気で軍務につくしてゐることでせう。
しばらくお便もやらず古里を心配してゐることでせう。
もう麦も刈るばかりに伸びてゐます。かひこも大きくなって来ました。四月の遠足は長瀞でした。
八郎さんも勝一君も元気であそんでゐます*5。
新作君も軍艦に乗って南太平洋や北太平洋ばかりでなく印度洋まで乗出すことでせう。
一生懸命軍務に精励し早く帰って僕等に戦闘状態を聞かせてくれ。僕等も必勝の信念をもって勉強します。ではこれからはなほしっかり軍務につくして下さい
           さやうなら
大塚新作君
 埼玉県比企郡七郷学校安藤向*6候

※大塚新作。1925年(大正14)9月21日、古里に生まれる。1938年3月七郷尋常高等小学校高等科卒業。1944年(昭和19)3月6日、横須賀市海軍病院で病死。海軍水兵長。
  *1:「七郷国民学校職員より出征兵士への慰問文 1943年6月1日
  *2:井上朝恵。1925(大正14)9月16日、広野に生まれる。1938年3月七郷尋常高等小学校高等科卒業。1944年(昭和19)11月29日、フィリピン方面海上で戦死。海軍水兵長。
  *3:1943年(昭和18)4月18日、連合艦隊司令長官・山本五十六戦死。5月21日、大本営、戦死を発表、6月5日、国葬が行われる。
  *4:5月30日、大本営、アッツ守備隊が「全員玉砕」と発表。
  *5:大塚八郎、大塚勝一。大塚新作の弟。
  *6:古里向イ(むかい)の安藤義雄?。


海軍入隊大塚新作さんへの慰問文 2 1943年6月頃

2009年09月14日 | 戦争体験

暫く御無沙汰致しました。
其の後お変り有りませんか僕も毎日元気にて学校に通って居りますから御安心下さい。
家の方はもう蚕も発生しました。さうして大変忙しくなりました。
此の頃は雨が降らないで井戸水に大変困って居ります。そうして苗代を作るにも一所にまとめて作る事になりました。此の間は内出(うちで)の中村勝君の家が焼けました。水がないので容易に消えませんでした。
此の間は新ちゃんの家の正市さん*1に手紙をもらひました。
元気で居るさうですから御安心下さい。
僕はスマトラと言ふ当て名を見る度に椰子(やし)が食べたくなります。
暑くなりますから伝染病や何かの病気にかからぬやうに気を付け一生懸命軍務に盡くして下さい。終りに新ちゃんの御健康をお祈り致します
          さようなら


拝啓長らく御無沙汰致しました私も元気で通学してをりますから御安心下さい。兵隊さんも元気で御奮闘の事と思ってゐます。苗代にはもう種を蒔いてしまひ、桑もすじょうよくのびてまひりました。蚕も大きくなって桑くれも間に合ない程大きくなりました。学校の学園の花も、家の花も、今年も此の夏を仰いでゐるやうに咲いてゐます。今は菜の花や麦の緑が黄になり始めました。たんぼを見ると苗代一面に種を蒔いた所が水にひたひたとなってゐます。私達は麦をよく育上げて、りっぱな麦や稲にしてお国の為に忠義を盡すつもりです。兵隊さんも一生けんめいに働いてお国の為にお盡し下さい。私達も精神を以てお国に御奉公をしたひと思ってゐます。では兵隊さん御身大切にしっかりお働き下さい。
          さようなら
兵隊さんへ
        比企郡七郷国民学校
             高一女 杉田キミ子

  *1:大塚正市。大塚新作の兄。


郡下学生傑作集 冬の朝 菅谷国民学校高等科1年生 1944年

2009年09月13日 | 戦争体験

  冬の朝
    菅谷国民学校高等科一年女子 M
 月日のたつのは、夢の様とはよく言つたもので私も十五回の冬を迎へたのだ。
心好い眠りからふとさめた。なんと窓のガラスが白くなつてゐる。ほゝがすーとつめたくなる。あゝ冬だ。冬がくれば、夏がこひしい、夏がくれば冬がこひしい。
となりの屋根も真白である。青白い月の光がさして光つてゐる。もう雀が起きてゐるのであろう。家の屋根で時々雀の足音の様なことことことと音がする。裏の桐の枯れ葉や何か落るのであらう。かさかさとして一そう冬らしく、又寒いやうな感じが身にしみる。店の時計が四つなつた。まだ四時である。冬の四時では、まだ一面星でうずまつてゐるが、夏ではもう東の方が白くなるであろう。どこかで戸をあける音がする。あつ-そうだ今日は十四日ではないかあすは小正月だ。母も起きた。私も起きようと思つたがあまり寒いので狸寝入をしてゐた。餅をつく音に、目をさまされた。うとうとしたのだなと感じ又家でも餅をついてゐるのに感じた。私も起きて手つだつた。六時半だつた。餅つきを終つてかたづけをしてゐた。すると前の通りを十人位ではあはあしながら通つた。町の工場へ行く人だなとすぐ感じた。下駄の音だの、息をはずませたり歌をうたつたりとても一時にぎやかになつた。あれこれしてゐる内に七時半になつてしまつた。「行つてまゐります」の声も元気よく兄弟三人家を出た。皆あつまつた霜柱をふみながら登校だ、皆のはく息が白く煙のやうにはつきりとわかる。北風が私たちのほゝを無断でなぜて行く。時々は畑の土をまぜてもつてくる。あゝいやな冬だ。早く裸で居られる夏がやつてくるのがまち遠しい。秩父山が西の方にうねうねとして、寒がつてゐる私達を笑つてゐるやうである。からりと晴れた日本晴の日だ。たゞ一点西の方から東にかけての雲が、今日も寒い風を吹かせてやらぞと言つてゐるやうである。
   前線慰問誌『比企』第1号 1944年5月

前線慰問誌 比企  (非売品)
 昭和十九年五月一日印刷納本
 昭和十九年五月五日発行
  編輯責任者 埼玉県比企郡松山町日吉町 大木友造
  印刷者 東京都小石川区指ヶ谷町一四六 大森清一
  印刷所 東京都小石川区指ヶ谷町一四六 大森印刷所


郡下学生傑作集 俳句 菅谷国民学校6年生 1944年

2009年09月12日 | 戦争体験

  俳句
    菅谷国民学校初等科六年男子
庭先にこうろぎ鳴いて夜露おり    K
涼み台北極星を見つけけり
稲を刈る頭上にとんぼ限りなし
奥山の紅葉にかゝる時雨かな     N
大霜に音なく落ちる木の葉かな
霜晴れや木から木へとぶ小鳥たち   Y
日あたりで拾ふ落葉や冬の山
年暮やマキンタラウに花と散り    N
元日や初日に浮ぶ大八州       Y
冬の夜や兄弟二人で縄なひり     N
田圃路一人で通る寒さかな      T
十二月 皇太子様 御誕辰      O
残月に露ある草を刈りにけり     G
大らかに初日は出でぬ大八州
明月や蟲鳴く声にひきづられ     S
冬の日や遠く見えるは雪の山     K
ゐろりばた泣き泣きあたる子供かな  T
南天の実をつゝきゐる雀かな     U
冬山の炭焼き煙昇り立つ
放課後やしんとしづまる校舎かな   O
冬小春汽車の笛聞く山の上
道ばたにぱさぱさ落ちる木の葉かな  T
霜晴れやくつきり見える赤城山    N
放課後に撃ちてし止まむの寒稽古
秋風にさそはれさうに使かな     N
初霜の寒さ知らるゝ長大根
雪の日や窓に飛び入る雀かな     F
月冴えて手桶の水にうつりけり    N
道端に青々と見る麦のさく
戸の穴にぼろをつゝこむ寒さかな   S
よその田も追つてやりたい村すずめ
あの山この山みんな淋しい冬木立   T
わらにゆのもみをつゝつく雀かな
北風に負けるな雀飛び廻れ      O
正月やイロハがるたの面白さ     M
寒稽古戦地を思へばなんのその
そよ風にゆられてこぼるすゝきのみ  Y
   前線慰問誌『比企』第1号 1944年5月

前線慰問誌 比企  (非売品)
 昭和十九年五月一日印刷納本
 昭和十九年五月五日発行
  編輯責任者 埼玉県比企郡松山町日吉町 大木友造
  印刷者 東京都小石川区指ヶ谷町一四六 大森清一
  印刷所 東京都小石川区指ヶ谷町一四六 大森印刷所


郡下学生傑作集 元日の朝 鎌形国民学校5年生 1944年

2009年09月11日 | 戦争体験

  元日の朝
    鎌形国民学校初等科五年男子 N
紀元二千六百四年の元日の朝、僕は早く起きました。すぐ着物を着かへて顔を洗ふと、神だな、仏様、氏神様にお参りしました。それから、家中そろつておざうにをたべました。今年のお正月は決戦下のお正月ですから、配給になつた物きりありません。僕の家の方へは、数の子とますが配給になつたのでお正月にたべました。おざうにをたべてから学校へ行きました。学校で新年の拝賀式の列につらなりました。畏くも両陛下の御影を拝しまして此の日本の国の尊いことが深く深く感じられました。校長先生のお話しによりまして決戦下の私等少国民の行ふべきことを年の改まりと共に脳にきざみました。式が終りますと全校児童打ち揃つて鎮守八幡神社に行き神社の歳旦祭・祈願祭に参列致しました。先づ 天皇陛下の弥栄と皇軍将士の武運長久と必勝を祈りました。終つて通学団毎に列を正して家路につきました。
   前線慰問誌『比企』第1号 1944年5月

前線慰問誌 比企  (非売品)
 昭和十九年五月一日印刷納本
 昭和十九年五月五日発行
  編輯責任者 埼玉県比企郡松山町日吉町 大木友造
  印刷者 東京都小石川区指ヶ谷町一四六 大森清一
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郡下学生傑作集 麦蒔 七郷小学校4年生 1944年

2009年09月10日 | 戦争体験

  麦蒔
    七郷国民学校初等科四年男子 K
きのふは日曜なので一日麦蒔の手伝ひをした。僕のしごとはねえちやんとたいひ(堆肥)を畠へ運ぶことであつた。
お父さんはため(溜)を前の畠へ出すしおぢいさんはさくをこまんがで引きました。
おばあさんはたねまきをするし大きいねえちやんはさくへ肥料をひいてあるきました。
あ母さんは共同作業に出ました。
たいひをかごにいれてリヤカーにつんでは僕が引いて小さいねえちやんはおしてをしました。
僕が一生けんめいにしたので大きいねえちやんが「よくあきづにするなあ」といつたから僕は「大きいねえちやんだつてよくあきずにするではないか」といつたらおばあさんが「だつてねあちやんはおとなだもの」といつたのでみんなが笑つた。
夕はんの時「よく働いたね」とお母さんにもほめられた。
   前線慰問誌『比企』第1号 1944年5月

前線慰問誌 比企  (非売品)
 昭和十九年五月一日印刷納本
 昭和十九年五月五日発行
  編輯責任者 埼玉県比企郡松山町日吉町 大木友造
  印刷者 東京都小石川区指ヶ谷町一四六 大森清一
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郡下学生作文傑作集 元日の朝 七郷小学校4年生 1944年

2009年09月09日 | 戦争体験

  元日の朝
    七郷国民学校初等科四年女子 T
 元日の朝はいつもより早く起きて国旗を立てました。その時は何とも言へないよい気持がしました。それから天じんやまへ廻文を持つて行きました。にはとりがわらの上で鳴いて居ました。池や堀にはうすい氷が張つて居ました。私はいかにもお正月らしい気がしました。
 家中そろつて宮城*1えうはい(遥拝)*2ときねん(祈念)をしてからおざうに(お雑煮)をいただきました。その時私はこのお餅を兵隊さんにあげたいなあと思ひました。
 もう神社参拝に行く頃だと思つて、みんなを待つて居ました。そのうちにみんなが来ました。私はみんなと一しょに神社へ行きました。神社にはまだ一人も来て居ませんでした。少したつと向ふから大澤先生が来られました。みんなそろつて「明けましておめでたうございます」と言ひました。そのうちに安藤先生も来られました。
 大澤先生が「みんなそろひましたからそろそろ始めませう」と言はれました。みんなそろつた宮城えうはいをしました。それから戦死された兵隊さん、マキン、タラワで戦死された兵隊さんに、かんしやのもくたう(黙祷)をささげました。その時目にあつい涙がいつぱいになりました。それからいろいろ先生のお話を聞きました。そのまま並んで学校へ来ました。ちやうどこうしん様(庚申様)の所へ来た時先生が「ここで、えうはい(遥拝)を致しませう」といはれたので、みんな宮城の方に向つてえうはい(遥拝)をしました。又並んで歩き出しました。
 学校へ来て式をしてから教室でいろいろ、先生のお話をを聞きました。
 家へ帰つて兵隊さんにあげるゐもん文(慰問文)を書きました。
   前線慰問誌『比企』第1号 1944年5月
  *1:1888年(明治21)旧江戸城の皇居を宮城と称して以来、1946年(昭和21)までの皇居の称。戦後は皇居を使う。
  *2:遥拝(ようはい)。遠く隔たった所から神仏を拝むこと。宮城遥拝は皇居の方向を望み、頭を下げて敬礼をすること。
  *3:マキン・タラワ島の日本軍玉砕。1941年(昭和16)12月日本軍が占領したギルバート諸島のマキン島、タラワ環礁に、1943年(昭和18)11月米軍が上陸、24日日本軍マキン島守備隊が殲滅され、翌25日タラワ島守備隊も殲滅された。12月15日大本営は、「タラワ島およびマキン島守備の帝国海軍陸戦隊は3千の寡兵(かへい)をもって5万余の敵上陸軍を邀撃(ようげき)、奮戦したが、11月25日最後の突撃を敢行、全員玉砕(ぎょくさい)した」という趣旨を発表した。

前線慰問誌 比企  (非売品)
 昭和十九年五月一日印刷納本
 昭和十九年五月五日発行
  編輯責任者 埼玉県比企郡松山町日吉町 大木友造
  印刷者 東京都小石川区指ヶ谷町一四六 大森清一
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郡下学生作文傑作集 新年を迎へて 鎌形小学校3年生 1944年

2009年09月08日 | 戦争体験

  新年をむかへて
    鎌形国民学校初等科三年男子 I
 初日の出もしずかなお正月です。雲一つありません。国旗を立ててからおぞうにをたべて学校へ新年祝賀しきに行きました。おしやしん*の前にしせいを正しくさいけいれいをしました。この時ぼくはしずかに考へました。私達は忠義をつくすことの、ほかに自分のつとめはないと思いました。しきがおはつて家にかへりました。あたたかい日なので何げなく梅を見ますと芽の出はじめたのや花のさいたのがいく枝かありました。友達がたこをあげてゐたので私は戦地の事を思ひ出しました。はげしい飛行機のたたかひや兵たいさんたちの事を思ふと私は一生けんめいべんきやうをしなければならないと思ひました。兵隊さんはお正月もなく戦かつてゐることを思ふとおもちをたべてしずかなお正月ができることをありがたく思いました。米英をやつつけてみんなたのしいお正月をするやうに氏神様にお祈りして家にかへりました。
   前線慰問誌『比企』第1号 1944年5月
*:「御真影」のこと。

前線慰問誌 比企  (非売品)
 昭和十九年五月一日印刷納本
 昭和十九年五月五日発行
  編輯責任者 埼玉県比企郡松山町日吉町 大木友造
  印刷者 東京都小石川区指ヶ谷町一四六 大森清一
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町村だより 菅谷村(現・嵐山町) 2 1944年

2009年09月07日 | 戦争体験

 第一線に日夜御活躍の兵隊さん明けましておめでとう御座居います。
 聖戦第三年の新春を迎へ皆さんますます張り切って居ることゝ存じます。こちら菅谷村民一同も皆様に負けぬ心持で増産に励んで居ります、御安心下さい。今日は本村の最近の景を片言集と題しお知せ致します。
 旧臘十二月十日、農業推進隊員に選ばれた松本利次(大字鎌形陸軍兵長)氏は本村の農家を代表し内原の訓練所に入所十九年の一月下旬まで全国より選ばれた若人と共に農業魂を養って来る。
 一月八日大詔奉戴してこゝに二度目【ママ】の日を迎へた。本村に於ては、聖戦達成、皇軍将兵の武運長久祈念其の他の記念行事を行ふ。この日、在郷軍人分会、壮年団青少年団青年学校(男女)国民学校等々各種団体は暁天動員を字神社で行ひ、次いで八時より郷社八幡神社に各団体集合荘厳な式を行ふ。一〇時に忠魂碑前に集合殉国の英霊に対し感謝の報告を行ひ一層敵米英撃滅、撃ちてし止まんの決意を新に致しました。
 決戦に休暇なし多忙を極めてゐる役場其の他諸官庁公所等々休暇返上し三十一日まで職務励行、次に役場内の景を、大東亜戦下人的資源の確保は絶対に必要なり、されば結婚適齢者を登録し之が確保に万全を期するやう係りの助役さん其の他一同大童で活躍してゐます。一ケ年の決算調査に目もまはる程忙しい収入役さんは、ソロバンと猛烈にとつくんでゐる。パチパチと気持よい音を立てゝ之又ソロバン玉が動いてゐる税務係りの机上。藁工品増産に関する件云々などの文字が墨痕鮮やかに残されてゆく農会技術員の机上。或は次の時代を背負ふ子供-出生届書には「征雄」などと命名されてある。戸籍係の机上電話のリンはうるさく鳴つて来た。調書らしきものを持ち県庁へ報告の統計係の姿等々、決戦下の有様が僅か○坪の役場内ではつきりわかる。
 一夜明ければ元日-昭和十九年の新春は明け離れた家毎に立てられてある国旗、言ひ知れぬ感が身体全体にみなぎるやうだ。
 青年学校新年式場-冷風に吹かれつゝ助役殿の祝詞を聴く、「徴兵年齢が本年は一年低下した。諸君の内上級生はことごとく本年内に晴の徴兵検査を受け第一線に馳るのである。諸君思ひを新にせよ」と力強い言葉が響いてゐる。農士学校検校の筆、菅谷青年学校の門札が厳としてゐる独立校として最初に向へるお正月だ。
 ヨイショ、ヨイショと元気一ぱいな声が聞へる。こゝは菅谷国民学校の校庭だ。一年生より高学年二年生まで全員、上半身裸体になつて乾布摩擦をしてゐる。可愛い一年生の身体、チヽがポツンとゴマ粒程だ、ニコニコしながら上級生に負けるものかとやつてゐる、実にたのもしい景だ。(関根記)

   前線慰問誌『比企』第1号 1944年(昭和19)5月

前線慰問誌 比企  (非売品)
 昭和十九年五月一日印刷納本
 昭和十九年五月五日発行
  編輯責任者 埼玉県比企郡松山町日吉町 大木友造
  印刷者 東京都小石川区指ヶ谷町一四六 大森清一
  印刷所 東京都小石川区指ヶ谷町一四六 大森印刷所


町村だより 菅谷村(現・嵐山町) 1 1944年

2009年09月06日 | 戦争体験

 御国の為に出兵の皆様方に御便りを私も乱文乍ら御仲間入させていただきます。決戦の新しき年を迎へまして銃は執らなくとも我が菅谷村民は職域奉公に邁進しつゝ朝な夕なに皆様方の武運長久を祈り毎日を送って居ります。多事なりし昭和十八年も夢の如く過ぎ去り戦局は日を遂うて凄愴苛烈を加へつゝあるこの秋、私達村民は皆様方の御苦労を感謝し食糧増産貯蓄増強等に驀進しております。
    ものゝふの大和心をより合せ
            ただ一筋の大綱にせよ
 銃後の誉れの家の方々も大和心を更に更により合せて一本の大綱(おおづな)にして米英に最後のとゞめさす迄はと頑張り抜く意気です。
 村民各位始め吾々はこの君国に生れてこの大戦争を戦ひ乍ら安らかな毎日を送ることの出来ると言ふことはなんと言ふ有難いことでせう。常に感謝に生き感謝の毎日を送り「聖戦へ民一億の体当り」此の意気で精出して居ります。国民学校の生徒も「肩をならべて兄さんと今日も学校へ行けるのは兵隊さんのおかげです」と歌ひながら木枯吹き荒ぶ昨今元気で通学して居ります。
 来る二月七日には玉川に分会査閲があります。兵役法の改正で仲間が多数となり、皆々様の仲間入が出来ると期待しつつ戦力増強に努めて居ります。
 本日役場の掲示板にも米供出完了の書出し報告を貼りました村民各位の粒々辛苦を御報告申上ます。
    うき事の猶此の上に積れかし
            力ある身の力ためさん
 一月一日            役場内  根立生

   前線慰問誌『比企』第1号 1944年(昭和19)5月

前線慰問誌 比企  (非売品)
 昭和十九年五月一日印刷納本
 昭和十九年五月五日発行
  編輯責任者 埼玉県比企郡松山町日吉町 大木友造
  印刷者 東京都小石川区指ヶ谷町一四六 大森清一
  印刷所 東京都小石川区指ヶ谷町一四六 大森印刷所


七郷村長栗原侃一、役場吏員から七郷村出身将兵への慰問文 1937年(昭和12)夏

2009年08月29日 | 戦争体験

 国防の第一戦御活躍の皆さま此の暑さにもめげず益々元気旺盛で皇国の為め御奮闘の段洵に感謝に堪えません。役場もなかなか忙しいので知りつつ皆さまに筆を執る事が出来ずに御無沙汰致して居ります事は御赦しを願いたい。近頃変った事も少いが本年四月全国農産物販売協会主催の農会産業組合連絡協調販売統制優良村として農林大臣より表彰されました。然かも全国第二位でした。農林大臣官邸で表彰式がありました。体験談の発表をやりました。愈々全国に名を挙げました。是で表彰式が三回続きました。御喜び下さい。 継に役場は栗原喜十郎貯金王が四月より県庁の役人となりまして会計課に勤める事になりました。其の代りに太郎丸の中村嘉一郎君が入いりました。然し五月末より本月二十六日迄二ヶ月間勤務招集で入隊して居ります。ぢきに長い剣を吊るす様になります。田島上等兵も家庭の都合で四月限りで退職、其の代りは安藤文雄坊ちゃんが入りました。中村武一ちゃんが経済更生事務の為めに臨時に出て居ります。 学校の方は四月の異動で石川剣道三段が野本校へ転任しまして、其の代りに小川の御令嬢が来ましたが、僅か二ヶ月で四百四病の外の病気とかで当年二十三才の花盛りを無惨にも自ら散らしてしまいました。多分ままならぬ浮世とでも感じたのでせう。其の代りは引導の必要あってかの駒澤大学卒業の春日康明禅師。お蔭で生徒もお経を覚えるでせう。まあ変った事は是の位でせう。 今年は天候がよいからお米はうんと取れるでせう。繭も高かった小麦もなかなか値がよい。これで百姓も浮はれるでせう。然し浮いては居られないのです。時将に国家存亡の非常時です。お承知の通り北支の問題が重大性を帯びて来ました。一触即発の危機も孕んで居ります。否パンクしそうです。是で露満国境と北支と満洲の保安と国を挙げて緊褌一番の重大時局に直面して居るのであります。幸ひ露国の内争は幾分意を安うする事が出来るが油断は禁物です。皆様第一線はお願ひいたします。 銃後の守りは吾々が引受けます。後顧の憂無く帝国軍人として関東男子として将亦本村の代表として一層の御活躍を御願いたして筆を止める次第であります。さらば。                                       七郷村長栗原侃一

私も皆さんに一と言御挨拶を申上たいと存じます。諸君には過ぐる日なづかしき故郷を後にして遠い遠い満洲と云ふお国でお働きになって居ります事は誠に邦家の為め何とも言いない感が致します。お苦労様の事と深く感謝致します。諸君とトラホームの健診や徴兵検査には小川の小学校で一所に顔を合せたのは何時だったでせうか…… 諸君には立派なお体を持ちまして首尾能く甲種合格となりまして、徴募官殿からお褒めになられました皆さんであります。其の時皆さんの喜びの面影は今でも私にはありありと目の前に見えて居ります。愈々抽籤に依りて各々現役証書が参りまして其れ其れ所定の部隊に入営せられたのであります。歩一の留守隊へ入営したお方もあります。直接満洲に入隊したお方もありましたが、現在では歩一に入った方も満洲の野で働く様になりまして、お満足の事と存じます。申上げる迄もなく、現下北支問題は日に増し混沌たる情勢でありまして、諸君には定めしお緊張の事と存じます。何卒時節柄暑い時であります故、ましてや満洲方面は気候の調子も変調子と聞いて居ります。どうぞお体を大切に邦家の為め後顧の憂なく帝国軍人としての本分を全うせられん事を切に切にお願い致します。併て諸君のお健康をお祈りして暑中の御伺いと致します。                                        兵事主任藤野菊次郎

 東亜の風雲急を告ぐ時故郷遠く離れて国防第一線に皇国の為めに奮闘活躍する皆様の健康をお祈り致ます。尚銃後に於ては薄弱の身なれども引受け身心の続く限り努力奮闘致す心算で居ります。御安心下さい。そして故郷七郷の名誉の為、否、皇国の為めに御精進致されん事を御願い致します                                            安藤富彦

前略 第一線を守って居られる諸兄先般は暑中御伺い有難ふ。皆さんの精神集中の為か役場の者村長さん始め皆元気です。北支の方が大分ラージポンポンだそーですね。前線はしっかり頼だよ。僕も第一線に立てる様心待ちして居る。村の人も皆元気です。臍下の呼吸により石の様に充実し居る。これで銃後も不動の信念がある。安心して呉れ。中央にて一筆諸君の奮闘を祈る。                                            安藤文雄

 第一線の皆なの健康を祈る。補充兵の俺ではあるが召集令状の来るのを待って居る。                                            中村武一


七郷村長栗原侃一と役場吏員から七郷村出身将兵への慰問文2 1937年(昭和12)11月

2009年08月29日 | 戦争体験
 日増に寒さが加はります。支那大陸も定めし寒い気候となったでせう。戦線の各位に手紙を出す事を控へてくれとの注意があったので遠慮いたして居りましたが、最早や北支も上海方面も徹底的大勝を博したのでもう手紙を出してよからうと思ひ筆を取ります。 先づ銃后の吾々が新聞を便りに各位の動静を注視しつつある折柄、最も驚かされたのが加納部隊長の戦死の報と共に部隊全滅の流言に胸を打たれた事です。加納部隊には本村出征者の大部分が居るのであります。其后幾数日を経て本村出身の各位が無事なる事を知り欣喜雀躍いたしました。然し北支に於いては田島伍長、島田上等兵の両人が悪戦苦闘の結果皇軍の華と散った。両勇士共武人の鑑として武勲永へに赫々たるものあると又遺憾とする所である。さりながら皇国に身を捧ぐる軍人として本懐ならんと存じます。今や日支事変も戦線に於いては八分通り戦果を収め、全支那軍の命脈も旦夕に迫りつつあるは各位御奮闘の賜と感銘いたし居る次第であります。 然し英国や露国との関係が今后如何な風になるか憂ふべきではあるが、日、独、伊、三ヶ国防共協定も出来た今日、我国としては意を強うし日支問題を徹底的に解決し、東洋永遠の平和を築き上げることが出来ると信じます。そして各位等皇軍大奮闘活躍の成果を発揚されるものと存じます。 銃后の護りは充分に遂行して居ります。各位の御家庭も何等顧慮する所はありません。どうぞ御安心下さい。そして益々元気を揮ひ御奮闘の程御願いたします。 時将に向寒の砌り御自愛の程切に御願ひいたすと共に武運長久を御祈りいたします。さようなら   昭和十二年十一月二十日                                    七郷村長 栗原侃一                                            外吏員一同

大東亜戦フィリッピン奮戦記(越畑・久保寅太郎) 1995年

2008年12月05日 | 戦争体験

 昭和十九年(1944)九月十日召集令状を受け十五日歓呼歓声に送られ愛する妻と別れをつげ嵐山駅を出発征途についた。そして赤坂の部隊に入り三日後に部隊にて妻の姿を見た。その時の心境たるや言葉にいえないものがあった。部隊名は威一四二〇八部隊であり、そして秋とはいえ夏服が支給された。同志達はすぐに戦火の激しい南方戦線なることを口々にした。そしてまもなく品川駅より戦争物資と共に東京を後に列車にて広島に到着し早速輸送船に乗り込み二昼夜位であったと思ふ。到着した処は中国のウースンであった。そこに一夜停泊して満州孫呉よりマニラへ向ふ東京出身の第一師団と合流し船内は身うごきも出来ない程の超満員となった。再度出発目的地は大東亜戦最激戦地フィリピンのマニラであった。そしてこの船団は五千屯級の五隻の船団であった。十九年の秋といえば最悪の激戦区台湾沖を通過ですから広島を出発してよりマニラまで二十八日目にて無事五隻共到着した。その間五隻は敵船団ではないかと友軍機が哨戒したら驚くことに遊軍船団とのこと当時はいくら内地より送り出しても一隻としてマニラに到着しておらず驚かれた。当時は制海権は米軍に握られていたことが想像できると思います。そして軍団は一たんマニラに上陸したが第一師団は再度乗船しすでに米軍が上陸を開始しているレイテイ島へと向けられ水際で玉砕されたことを聞いた。我々の部隊はマニラのリザール公園野球場スタンドで戦地の一夜をすごしたが早速米軍戦闘機グラマンにより機銃掃射を受け驚いた。それより南部ルソン島を轉戦、始めてマラゴンドンと云ふ町を襲撃したが実弾の下異国の夜をさまよい身の危険と恐ろしさを痛感した。ひたすら神に祈るのみであった。その時始めて戦友の一人が戦死した。その遺体を私と戦友二人で後方友軍まで運び隊長より表彰を受けた。始めて見た敵弾には想像もしなかった閃光弾がまじり飛んで来るので敵からこちらが昼のよう丸見えになるのには驚きの一語であった。そして命からがら駐屯していた地に戻った。何しても常夏の国であり馴れない野戦場の毎日が続く。それより強行軍がつゞき南部ルソン島の町レガスピーに到着した。戦火をのがれ町は人気のない無気味な町であった。その間何回ともなく空襲を受けた。レガスピーよりマニラを目ざし轉戦となりその中間位と思ふテルナテと云ふ町に陣地をかまえてしばらくの間この地ですごした。この頃はまだ戦火が余り激しくなかった。そして内地では想像もできない裸での一月をすごした。近くの田圃は稲穂に又空田にと色々の状態であり南方常夏の国ならではの風景であった。しばらくして戦火も激しさをましこの地を後に強行軍が開始された。この時負傷した者あるいは病弱者は少量の食糧を受け涙の生別れを告げ、さらに敵中突破の強行軍が続いた。いよいよ米軍の攻撃は日に日に激しさを増す。天下無敵の軍教育を受けた我々には夢にも思はぬ米軍の威力を目の当たり見たとき驚くばかりであった。土民軍及び米軍のすべてが小銃を始め自動式及びそれ以上のすぐれたものばかり。我が日本軍とは装備に於て雲泥の差であり話しにならない。ただ大和魂のみであった。ある台地での応戦の時であった。長い南方一日中朝から晩まで呑まず食はず。飛行機からは機銃掃射又海上からは艦砲射撃。これが一番おそろしい。なんとしても一発ごとにおちる処が違ふからであり互いに声をかけても返事のない者はごみと一しょに空中に散ってしまふ。それに対して野砲の弾は一ヶ所にきまっているので安心だ。たゞ最後に焼夷弾がうちこまれ一面火の海となり、身体のおき場のない程であった。あの手この手の攻撃に戦友達もどんどんと消え恐ろしい毎日が続いた。長い一日が終り夕暗やみがせまると生残り同志で明日も又生きようと誓ふけれど野辺の露みたいのものであった。この時の戦友達の年令は二十六才と二十七才の新婚さんばかりであり、毎日のように戦死及び病死で消えて行く。我々数少ない部隊もそれより山中にたてこもり戦火をのがれ、今までから思えば静かな日々を送った。しかし食糧がなく遠くはなれたの夜襲等又は畑作物の陸稲及びさつまいもの盗み取りをして毎日を送るこれ又命がけであった。此の頃だと思ふ。米軍よりポツダム宣言のビラ、それに東京大空襲の焼跡の画報、いづれもカラーであり無数に空からまかれ、中には捕虜になった戦友達の楽しげな生活の写真あり、お前達も早く投降してこのようになりなさいと書いてあるけれど誰一人と信ずるものはなかった。そして又兵隊さん御苦労様今より砲撃しますからとのビラが舞ふと同時に激しい砲弾が身辺に炸裂する話のようであった。そして此の地に居ることは出来ず又死の行軍が始まり最後の地マニラ湾入口にあたる右側の山深い通称三〇〇高地と云ふ深山にたてこもる。此の頃よりフィリピン戦線も終盤を迎え日ごとに米軍の攻撃の激しさは空と海上共にマニラ湾をうめつくした。対岸あった最後の要塞コレヒドールは二回に渡り猛攻により全島火を吹き陥落しそして友軍の玉砕の姿を目の前で見た。此の時のマニラ湾は空は限りない空軍機又海上は艦船であふれんばかり猛攻撃を受けた。米軍の威力にはたゞ驚くの一語である。そして間もなく我が方に攻撃が向けられ命からがら逃げるのみであった。大東亜戦争の最大の激戦地であったと思う。旧満州関東軍の精鋭部隊及び内地から等百万人近い軍を向け内地への侵略をくい止めようとしたが及ばず、終戦の連絡を受け収容してみたら二十万人位であったとのこと。如何に激戦であったことが察しられと思います。この終戦の連絡も一ヶ月遅れの九月十五日頃であったと思ふ。しかし敗戦とは誰れも信じられず米軍の謀略と思っていたら心実であり驚くばかりであった。そして収容所生活を一ヶ月ばかりして帰還となりマニラ港より迎えの紫雲丸に乗船し久し振りに見る海上からの富士山を見た時は感激そのものであり涙が浮かんだ。そして浦賀上陸したが米軍支給の服にPWと書いてあり子供達にもPW*が帰って来たと笑はれた。そのまゝ変り果てた列車に乗り夜遅く夢の我が家に到着家族に泣いて迎えられ長い一年二ヶ月であった。帰還は昭和二十年十一月二十五日。


  *Prisoner of War。戦争捕虜。
     筆者は1919年(大正8)生まれ。嵐山町報道委員会が募集した「戦後50周年記念戦争体験記」応募原稿。『嵐山町博物誌調査報告第4集』掲載。