GO! GO! 嵐山 2

埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

私の思い出 金井倉次郎

2009年06月03日 | 嵐山町議会史

 1955年(昭和30)10月16日~1959年(昭和34)10月15日

  合併後初の議員選挙
 私は嵐山町が合併して三二年、町政施行二〇年記念事業として発刊する嵐山町議会史に一言集の原稿を書く機会を得まして大変光栄に思っております。私は市町村合併促進法が施行され菅谷村、七郷村二ヶ村合併が出来、新しい菅谷村の議会議員になりました。当時の私のことを述べてみます。大蔵地区の皆さんの、すいせんを受けましたが、農家に生まれ、中間は戦地の生活が多く、政治にはうとく、幾度も辞退いたしました。後日強い要請がありまして、立候補となりました。その時、菅谷地区で青年団主催の候補者立会演説会が計画されました。
 私は演説のことを少々書いてみます。私は順番が二番でした。一番は志賀の大野幸次郎氏がベテラン政治家の口調で演説されたあとでした。私は合併当初の政治は両地区公平な政治を行う事が第一スローガンと考えました。自分の持時間五分、登壇すると講堂内一同の注目、拍手を受けました。少々沈黙ののち自己紹介から、演説主旨の発表には公平な政治を行うため、七郷地区の精通であると黒板に座布団ぐらいの二字を書きました。この事が受けたのか、大きな拍手が起こりました。持時間内に終了しました。選挙戦は簡単でおにぎり弁当少々で実施、議員となりました当時、村長は高崎達蔵氏でありました。

 議会は議長一年交代でした 当初栗原侃一氏
  委員会 総務 民生文教 土木産経
 町の予算総額二二四五万五〇〇〇円

  小団地開発事業の施行
 今見ると余りにも小型のようですが、菅谷村の政治が一切執行されました。なお私が身近な事業の実施について書きたいことがあります。大蔵鎌形地区合せて三〇ヘクタールの水田があります。この潅漑用水は都幾川の水を利用しますが、毎年大蔵地区では用水路が悪く水不足でなやみました。町でも大変心配され、補助事業を考えていました。昭和三一年度小団地開発事業の施行が予定されました。この事業を実施することを耕作者と話し合いましたが、今迄の鎌形地区(上流)、大蔵地区(下流)の住民感情と申しましょうか、古い云い伝えなどがからみ事業の話し合いが四一回目にまとまりました。内容が工事費、補助金交付、永年の返済金、条例の了解ができなかったわけです。工事は東松山市伊田組、設計通り竣工。延長一〇〇〇メートルのコンクリートの用水路が、両地区に用水を送りました。両地区の耕作者が政治の有難さを感じ完成を祝いました。今では構造改善事業が実施され、用水路は改善されてなくなりました。昭和三一年(1956)から五七年(1982)迄両地区に与えた恩恵は多大で、地域の和にも大きな力となったことを忘れることはできません。菅谷村議員となり、七郷地区の灌漑用溜池の改修工事と併せ公平な政治の一たんを書きました。以上をもって終わりとします。
     嵐山町議会史編さん委員会『嵐山町議会史』 1987年(昭和62)3月 454頁~457頁

※小集団地開発事業による潅漑用水路に改修については、「小集団地開発事業で石代堰からコンクリート用水路が出来る」を参照。


議会在職当時の思い出 山岸宗朋

2009年06月01日 | 嵐山町議会史

 1953年(昭和28)3月7日~1955年(昭和30)4月15日
 1955年(昭和30)4月15日~1955年(昭和30)10月15日
 1963年(昭和38)10月16日~1967年(昭和42)10月15日
 1967年(昭和42)10月16日~1971年(昭和46)10月15日
 1971年(昭和46)10月16日~1975年(昭和50)10月15日
 1975年(昭和50)10月16日~1979年(昭和54)10月15日

  大字菅谷は議員が六名
 議員在職中のことを現在考えてみると、長い期間つとめて来たが、目立った活動をしたことが思い出となるような事件はまことに少ないことに気がついたものである。五期二十年間在任中は熱心に、他の議員に負けまいと自ら自負してやって来たと思っていたのに、現在に至って思い出せない事に今更強く反省しているものであります。一期間(四年間)に一件位はと考えたところ、一年議員の当時のことであった(旧菅谷村の時代)。当時大字菅谷に六名の議員が選出され米山永助氏以外は全員が新人であった。皆良く議員として勉強もし、また六名が良く会合し協議しあった。意思統一して議場にのぞんだ。したがって、議会の原動力となった。現在の商工会、観光協会も菅谷の議員が議員提案により議決され出来たものである。初代商工会長は根岸義次氏であった。

  町村合併のこと
 当時町村合併が行政指導されたが、当時の村長は合併に意欲はなかった。各町村長は各々思惑を持っていて、合併のむずかしさをつくづく味わった。行政指導は旧菅谷部会、菅谷村、七郷村、宮前村、福田村の四ヶ村合併が理想とされた。議会に町村合併促進特別委員会を設置し強力に合併を推進した結果、旧七郷村と合併の話し合いができた。

  菅谷中学校の敷地決定
 現在の中学校の敷地決定もむずかしかったが菅谷の議員の強力できまったのであった。当時一年生議員は青木高、根岸巷作、山岸宗朋、福島秀雄、中島勝哉の五名であった。

  駅東区画整理事業
 駅東区画整理事業のことについて、嵐山町も都市計画の指定を受けることを議会で決定した。昭和四〇年代に区画整理を取上げた。
 定例議会において町長と論戦を交した。強力に区画整理を推進した、都市計画の指定は区画整理実施が目的であるのに何んのために指定を受けたのかと。町長は国土法に基づく一筆調査を実施したいとの答弁である。区画整理と一筆調査とで、かみ合わない論戦に終わってしまった。申訳的に区画整理調査費を計上したが毎年不用額したのであった。一筆調査を実施したので区画整理は棚上げの形になってしまった。やむなくその後において議員提案により区画整理を実施すべき議案が議会満場一致可決決定したのであったが、当局はなかなか活動を始めなかった。その後、当局も重い腰を上げて啓蒙を始め、ようやく五七年(1982)に組合事業による区画整理事業組合が発足した。一筆調査か区画整理かの功罪を知る人は何んと評価するであろうか。

  菅谷小中学校の区域外就学問題
 菅谷小学校増築にからんで、区域外就学が問題となった。二七〇名余の児童、生徒が東松山市、滑川村から小中学校に越境就学していた。当時小中学校の一人当たりの平均町費は小学校で二十数万円、中学校は四十数万円の町費負担であった(教育委員会事務局調査)。多額の町費負担であるにもかかわらず一人一万円の委託料を取って教育委員会の承認で就学を許可していたのであった。区域外就学児童生徒の受入は議会の議決事項であるが嵐山町は長い間、議会が見過して来たのであった。
 定例議会において私は、地方自治法には区域外就学は議会議決事項である。何故教育委員会相互の協議で就学を許可しているのかと質問した。
 阿部教育長は法に違反して取扱ったことを認めた。次は町長に質問である。区域外就学の委託事務は議会の議決事項である事件を長い間、地方自治法に違反して来たことは議会軽視も甚だしい、加えて多額の町費を負担しているのに一万円の安い金で就学許可してきたことを町民に対し何んと申訳するのか、町税の無駄使いも甚しいことである。嵐山町において負担している経費同額を委託料として相手の自治体より納入させるべきであると質問した。
 町長は現在まで見過して申訳ない、来たる定例議会迄に東松山市長、滑川村長と協議して正常にもどすとの答弁でまがりなりにも決着した。
 その後東松山市、滑川村の児童生徒の父兄から従来どおりの形で嵐山町の小中学校で就学させよと各教育委員会に強い要求が再三出された。各新聞、テレビ等で再三報道されたのが、この時であった。
 各関係団体は現在就学中の児童生徒は卒業する迄とし、新たな就学は各自治体の学校に入れることで決着した。
 決着したかに見えたがまた問題が発生した。東松山市の父兄から訴訟が提起された。また各新聞は一斉に報道を始めた。問題が一変したこの時点であった。嵐山町長は議員各々の説得を始めた。町長の態度に私は大いに怒りを感じ奮起した。町のため奮然と立ちあがろうと決意し町長に絶縁を申し入れた。町民にこの実態を知らせて町民大衆が決起することを考えた。愛町の精神に燃える人を集め愛町同志会を発足し組織を作った。
 〝町長急変し町税無駄使いするか〟 町民の力でこれを阻止しようと趣意書を急ぎ一万枚印刷、町長、議長に一枚ずつ渡し町民全員に配布することを申し入れ町民が実態を知り立ちあがる迄何回でも繰り返すと言明した。一大社会問題を巻き起こそうと重ねて決意したのであった。
 議長は町長及び各委員長諸君と協議を重ねた結果、幸か不幸か印刷物は町民に配布せずに終った。その後様々な問題を起こしながら逐次解決方向に向かい区域外就学の問題は終わりをつげた。現在一万枚の印刷物は我が家の片隅に保管され続けている。
 その当時の決意は、現在思い出の大きなものである。よくもあのような奮起が生じたものだと。
 つるぎの下は地ごくなり身を捨ててこそ
   うかぶせもある
 義を見てせざるはゆうなきなり
     嵐山町議会史編さん委員会『嵐山町議会史』 1987年(昭和62)3月 454頁~457頁

※収録にあたり、小見出しを新たにつけた。文脈が不明な部分があるがママとした。
  武蔵嵐山駅東区画整理事業については、「武蔵嵐山駅橋上駅舎が完成 2002年」参照。
 区域外就学問題については別稿を準備中。