GO! GO! 嵐山 2

埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

時の人 議長になった山下欽治氏 1956年

2009年06月06日 | 報道・ひと
 議長になっての感想はと問うと「どうもよわったことになったと思った」と答へた。彼自身も議長になろうなどと考えてもいなかっただろう。
 とに角、村長選挙には前議長栗原侃一氏の選挙事務長となって最高の責任を負っていたのだから、その選挙に敗れたとあっては、前議長に対する手前もあり、大いに気の引ける話であったろう。
 鎌形地区が分村するという騒ぎが起こった時、弁が立つのと実行力があるので推されて二十四年(1949)三月の選挙に出たのが村政に関係した始まり。議会でも注目される人間となり、二十八年(1953)に再選、三十年(1955)十月合併後の選挙にも三選して副議長となった。
 身体は小型だが熱があり、理論的なタイプなので、政治家としては将来性があろう。然し、彼の言は往々にして相手の感情を害するような鋭く強いところがあるので嫌われている点もある。野党派議員の総師としての彼が議長になって、どれだけ青木村長とこれら議員との間をうまく調整させて行くか、彼の出処進退は今後の村政に大きな影響を与えるだろう。
 明治四十一年(1908)生、四十八才、鎌形出身。
     『菅谷報道』75号 1956年(昭和31)11月10日

時の人  村長になった青木義夫 1956年

2009年06月05日 | 報道・ひと
 開票の歳には三百人もの人が彼の家へ詰めかけてゐたというから、彼の人気はたいしたものである。当選の報を聞いた時にも、彼は普段と少しも変わらなかったという。当落は、全然考えてゐなかったと、彼自身が語った。
 過去の経歴はとも角として浪人生活の彼が現議長や現議員の大物級を向うに廻して当選したのは、彼の若さと新人に対する期待とによる人気の故であろう。彼は人当たりがいいので、一般的なうけはいい、その反面にシンが弱く頼りないという評もある。彼は社会教育家的タイプであり、政治家として手腕は未知数である
 二十五年(1950)に七郷村の議員となり、翌年(1951)議長に選ばれ、二十九年(1954)無投票で村長になった。三十年(1955)の四月に合併して助役となったが、村長在職期間は僅か一年であり、その功罪を論ずるにはあまりにも短かすぎる。高村政の業績を継いでどこまでこれを発展させるか、「明るい家庭、明るい社会」という社会教育的スローガンが現実の村政の上に如何なる具体的政策となって実行されてゆくか、村民はこの新人を注視してゐる。
 彼は熊農を卒業すると青少年指導ということに志をたてゝ上京、府立の青年師範学校(現学芸大学)に入った。卒業するや府下の東村山町の青年学校兼小学校の教師となり、約十六年この地に在職した。学校の校長が社会教育の大家であったところから、影響と指導を受けその道に専心するようになた。この間、九州から北海道まで全国の優良市町村を視察したが、婦人の協力のない村は駄目だということを悟った。彼が婦人団体に力を入れてきたのはこういう自身の経験によるものと思はれる。
 又、自転車の事故防止という考へから出発して、自転車体育、レクリエーションから国防訓練にまで発展して「自転車の青木」という名を売った。「自転車訓練指導草案」「自転車訓練精義」などの著書さへある。 
 昭和十四年(1939)三十五才で東京市の大泉青年学校長兼大泉実践女学校長になった。三十五才の若さで奏任待遇でとして文部省から辞令をもらったのだから出世の早い方である。この学校で専修科を設け母親学級をというものをつくった。これは生徒の母親たちを集めて被服、料理茶、活花など特別に教へていたわけである。彼はこゝでも婦人を指導すること忘れなかったのである。
 二十年(1945)に東京都から教職員としては最高の栄誉である表彰年金を受けたが、終戦になると両親の膝下で孝養を尽くしたいとの念が起こり職を辞して帰郷した。
 戦後の混乱状態を見るにしのびず社会教育の必要を痛感して一青少年団や婦人団体の結成に努力した。
 二十五年(1950)には比企郡代表として埼玉県の社会教育委員となった。彼の歩んできた道は社会教育の一語に尽きる。彼の信念も亦これである。政治は社会教育と異なる。過半数の野党議員を有する議会と村民の絶対の支持ありと自信する間に立って如何なる政治手腕を発揮するか。今後の一年間が大きな山であらう。
     『菅谷報道』74号 1956年(昭和31)9月20日

時の人・助役になった小林博治 関根昭二 1956年

2009年03月22日 | 報道・ひと
 彼が収入役になって三年後、村の批評家が「理知的な彼の瞳、インテリと云に相応しい彼のタイプが何かしら村民に冷たく感じる」と評したが、それから六年後の今でも猶一般的にそう見られている。彼はお世辞の云へない性質であり、理知的に物を考える方である。だから世間的な人間気はそれ程ないが事務的手腕は認められている。
 高崎村長の下で六年間助役をしてきた功績と能力を高く買はれて、今度また助役に選任された。助役は村長のような政治家ではないので、特に自己の抱負を実現させるというようなことはしていないが、二十五年(1950)に報道委員会を発足せしめてその初代会長に選ばれた。「報道」をして今日の如き姿にまで発展せしめることができたのは、彼の熱意と努力によると云っても過言ではない。
 彼は小学校を卒業するとすぐ上京して青山師範普通科に入学し、東京高師文理大と教員専門のコースを進んだ。文理大では日本史を専攻し、特に徳川時代の社会経済を研究して卒業論文には「入会地の研究」という地味な勉強をしたが、戦時中には文部省の国民精神文化研究所の一員として迎へられ、国体明徴運動に参加し日本精神を大いに鼓吹した。
 この時、橋田文相の弟子杉靖三郎の影響で道元禅師の研究もした。彼は山形の新荘女学校を振り出しにして都立第十一中学校で終戦を迎へた。終戦は彼の歴史教育を根本から覆してしまった。彼の天皇中心主義の考え方は否定されてしまった。戦いの終りは同時に彼の歴史教育の終りであった。良心的な彼は教育者としての責任を感じ恩給を目の前にして失意の心を抱いて故郷に帰ってきた。先祖伝来の畑を耕す百姓となったがこの浪人中、図らずも東洋精神の唱道者安岡正篤と相知るに至った。彼の日本精神的教養は忽ちにしてこの安岡氏の東洋倫理観と一致して深い影響を受けた。彼の物の考え方が東洋的なのは彼自身の歩んだ人生コースによる。二十二年(1947)に収入役となり、二十六年(1951)兼任したが政治的方面は全くの素人である。
 然し助役としては一流の人物であり、高崎村政の強力な推進者である。村長の信任も厚いので仕事もやり易く、働き甲斐もあろう。教育委員会が出来ると同時に教育長になり、川越農高菅谷分校の設置、中小学校長の大移動など行ってその面目を発揮した。彼にとって教育行政はお手のものであろう。教育的理想をいかに政治に反映させるかヾ彼に負わされた課題である。
 趣味はこれと云ってないが酒が好きで気の合った連中と飲んで語るのが楽しみというところ。酔へば若い者に負けない程の議論を吐く。 
 明治四十年(1907)生、四十九才、鎌形出身、教育長  (S)
     『菅谷村報道』72号 1956年(昭和31)7月20日