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埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

吾が「人生の想い出」27 軍隊生活 権田本市 1989年

2010年03月19日 | 権田本市『吾が人生の想い出』(1989)

 昭和十一年(1936)一月二十日、自分達が入隊した時と同じように部隊は活気付いていた。自分は一中隊三班の先任上等兵として勤務する。そして初年兵入隊、一ヶ月後一大事件発生。例の二、二、六事件である。二月二十六日の事、東京は三十センチの積雪だったと聞く。三島の方も大雪だった。朝の馬の手入中先に話した旅団長の馬丁が来て昨夜東京で大事件が起き、現在も軍人同士が戦闘中と話した。なんの事か解からないまま。処が間もなくして自分達にも召集がかけられた。直ちに戦地に行かれる支度するよう。「数十人」だった。早速、一装用の支度をして次の命令を待つも、暫らくして解除となる。実は熱海とか湯河原に閣僚が来ており、そこの警備として出動す可く準備させられた訳である。しかし収まって其の必要もなく済んだ。当時の軍隊にはテレビ、ラジオも無く世の中の様子はまったく解からなかった。
 初年兵教育は続けられていた。そして其の四月、第一期の検閲のため富士演習場に行って居た時、またまた命令が降された。第一中隊直に原隊三島に帰営す可し。又何事が起きたのかと思った。実は北支駐屯軍として派遣の大命降下である。愈々自分達も外地に行くのだ。再度生きて帰れるかは予測もつかない時代となっていた。部隊は自動車隊として発足するため、運転要員は先に反乱軍であった国府台野重七連隊【野戦重砲】の兵士と混成となり派遣という訳。
 だから我が中隊の家族には反乱軍で北支に行かされるのではと一時はそう思われたようだ。此の知らせが家族に伝えられ、面会日に来た家族と話してはっきりした事である。何日かの面会期間に自分の所にも伯父と兄が面会に訪れた。入隊以来外泊で一晩家に帰ったのみ、久し振りの対面である。初めの一言は今でも忘れない。「お前が上等兵になれた」と云う事と「護衛所で一中隊の権田に面会と云ったら、ハイ権田上等兵殿ですかと云って歩哨が中隊迄案内して来てくれた」との事。前にも書いたが自分は進級した事を家に知らせてなかった。これは自分なりの考えだが、現役兵の二年間が無事に終った時の楽しみとしてとって居たからである。ところが時局は一変して北支駐屯軍派遣であった。要は既に第二次大戦の下準備でもあったように思われた。
 面会の話だが、我が家から面会に来る迄の出来事を一言思い出したので、話してみる事にする。厳格の家庭の中に女親がわれわれを育てて来ただけに、派遣と云う言葉も単に奉公人が他所へ奉公に行く位しか考えていなかったらしい。だから小遣いの少しも送ればいいと思ったという訳。郵便局に行く可く家を出て歩く中、たまたま妹に会い、何処へと聞かれ、これこれと話した所、馬鹿を云って、二度と帰れるか解からないのになぜ面会に行かない。そこで急きょ変更して伯父と兄の代表二人が面会に来てくれたのである。なぜこんな事を此々で書かねばと思うだろうが、子供の頃から離れて過ごした親子関係ならではである。普通の家庭に育った者だったら先ず親が真先に面会に来るのが常識、どの戦友見ても親兄弟が来て居た。しかし味も無いように育ち過ごした自分にはこんな出来事もあったわけである。でも早くから他人のめしを喰わねばと云われながら過ごした入隊前の生活も軍隊に来て大いに役立ったように思う。お陰でビンタの数も少く済んだのかもしれん……。

   権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 36頁~38頁


吾が「人生の想い出」26 軍隊生活 権田本市 1989年

2010年03月17日 | 権田本市『吾が人生の想い出』(1989)

 十一月から一月に初年兵が入営するまでの間に、予備兵を召集して教育する期間が三週間位あったと思う。教官の助手として手伝いさせられたが、始めは号令も満足にかけられなかった。ずっと年上の兵隊、しかも社会人の臨時入隊である。従って現役の将校も余りうるさく云わなかった。此の頃の自分は軍隊生活という事に特に考えさせられた時である。名誉ある軍人となり二年兵となる。今予期もしなかった上等兵に選ばれたが、知らず知らずの中にも他人に認められる様な行動が出来たのだろう。入隊当時からの毎日を振り返ってみるに、苦しまぎれというか、こうすればビンタが来る、又来ても少くて済む。そんな事位だと思うが、自分の頭の働きをさせてくれた始まりであったのかも知れない。
 一例を説明すると入浴に行く時など、行進中に上衣のボタン以外は全部外しておく。しかも人に知られないようにね……。だから解散して湯に入るのは何時も先頭。他の人が入る頃は石けん使って洗い終り、出るのも早い。だから馬の水くれも遅い事無し。
 これも一例だが自分だけが良ければでは団体生活は成り立たない。細かく説明すると長くなるが、先ず一ヶ班で(一ヶ分隊の話を前にしたが)馬装などとても大変な仕事がある。軍隊語で「非常呼集」がかかると戦闘準備が如何に早く出来るか、その時の下準備を責任者は常に考えて置かねばならない。自分一人でなく分隊をも良くする事で中隊も良くなる。常にそう心掛けていた。至然【?】の行動を自分なりに覚えさせられた軍隊生活で得た収穫であったように思う。即ち実行力である。部隊は砲兵隊、砲手は火砲の準備、観測班、通信班、無線班は器材の準備等だが、其の火砲を牽引(けんいん)する馬十二頭の支度如何に依って早くも遅くもなる。馬部隊の悩みである。
 馬の装備の話だが初年兵当時自分と同じ馬具の責任者だった二班のある兵隊が大失敗を演じてしまった思い出を一寸説明してみる事にする。彼は和歌山県出身、そして自分と同じ馬具の責任者として第二班にいた。或る夜突然非常呼集が掛けられた。ところがたまたま馬具が分解されていた。急いで組立て馬装してもかなりの時間を要してしまった。戦闘に間にあうはずがない。分隊は全滅。此の時の分隊長は軍曹。怒った事、軍隊ならではの制裁である。あの広い革のバンドでどの位打たれたか。今思い出してもぞっとする。なぜ馬具を分解したかというと、初年兵同士で分け合って磨くからである。其の場で組んで置けば失敗も無く済んだ事である。此の時自分は、途中で中止してはいけない、やる可き事は必ずやらねばならないと身を以って得た教訓である。
 やがて召集兵(予備役)は教育も終って除隊。隊は初年兵受入の準備をする。

   権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 33頁~35頁


吾が「人生の想い出」25 軍隊生活 権田本市 1989年

2010年03月15日 | 権田本市『吾が人生の想い出』(1989)

 次は自分個人の事である。夜、入隊も間のない頃消灯後トイレに行き、帰りうっかりして歩く時、上履の音をさせてしまった。とたんに隣の班二年兵に呼ばれビンタを大分喰った。静まった頃でよく響いた。涙を呑んで班に戻った時、班の二年兵が自分を呼び今うたれたろう?…と聞かれた。しかし自分が悪かったのでと云ったが、其の二年兵の名前知るやよしおれの班の初年兵に手を出したと云って、逆にその二年兵にビンタをくれた一件もあった。有難くもあったが後日が恐いとも思った。でも後で知ったが此の二年兵は連隊きっての名男、恐い者なし我が班の「護り神」のようにも感じられた。だからと云って安心は出来ない。一歩外に出たら彼の目が届くわけでない?…これが軍隊と云う所である。
 こうした日々が続けられ、前にのべた訓練と合せて第一期の検閲が終る訳である。これらが初年兵にとって最初の運命と云うか別れ目になる時期でもある。先ず上等兵候補が指名される。中隊で十四、五名位だったと思うがはっきりした記憶は無い。そして七月頃には一等兵に進級、精勤章が腕に一本着く。肩の星は二年兵と同じだが腕の一本が違って来る(多い)。そこで衛兵勤務の方もつかされたり、又此の時期に各部所行きもきめられる(工場、医務室、炊事場など)。先発一等兵になると先ず衛兵勤務も早くから着かされる。厳しい規則に泣かされるのも此の頃からである。とにかく衛兵勤務と云ったら軍隊で一番大事の勤務でもある。交代は毎夕で二十四時間勤務。これに立会うのが週番司令(少、中、大尉位)である。勤務の構成も説明すると、衛兵司令は伍長勤務上等兵以上の下士官、歩哨係上等兵一、他に兵数名だったと思う。仮眠時間もあるが初めはなかなか眠れるものでない。失敗したら重営倉が待っている……。平日勤務も去る事ながら日曜祭日ともなれば余り有難くも無かった。人の外出が羨ましくてね。
 とにかく他の部隊と違って馬部隊位大変な所もない。相手が生き物だけに自分達の事より先ず馬からである。外出は朝食時限から夕食時限と記憶するが、馬の手入等は普段と変る事無く実施される。初年兵は外出しても天候が悪くなると馬のねわらが気になっておちおち遊んでもいられない。出るのも遅くなるが帰営は早くなる……。最も馬部隊で云う言葉に「人間は葉書一枚で来るが馬は葉書一枚では買えないぞ」。人権無視も甚だしい軍国の世……。
 何かと云いながらも初年兵が受継いで出来るようになった頃、二年兵は満期除隊の時となる。確か十月三十日が除隊だったと思う。やれやれの気分だが人員も少くなれば勤務は多くなる。楽は出来ない。そうして居る中、先任上等兵が発令された。中隊で十三名だったと思う。自分も其の一員になれ、うれしくもあったが心配でもあったというのが実感であった。とにかく今少し学が欲しかった。自分の生立ちからして気は敗ずと思えど後悔は先に立たずである。今少し勉強して置けば良かったなあー。前にも述べたが足りないものは、自覚をもって努力する他ないと自分にいい聞かせた。だから名誉の上等兵に進級したが家に報告する事も無く、軍隊生活の毎日を失敗の無いようひたすら努力したつもりである。

   権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 33頁~35頁


吾が「人生の想い出」24 軍隊生活 権田本市 1989年

2010年03月13日 | 権田本市『吾が人生の想い出』(1989)

 尚、前は入隊時から一期までの様子を説明したが、今度は初年兵から二年兵になるまでのあらましを思い出してみる事にする。
 先ず平日の日課は前にも一寸述べたが訓練が終ってからの様子などから説明する。夕食後は毎夕靴磨き、兵器の手入銃剣等靴も自分と戦友そして班長。当番につかされると班長の分全部で六足になる。長靴編上靴一人二足ずつである。しかし此の手入時は兵舎の外で初年兵に取っては唯一の息抜きの場でもあった。
 たまたま自分達の中隊は側が酒保であった関係で初年兵同士で話し合っては「まんじゅう」などよく買って来た。そして無言でほおばったあの時の満足感は経験した者でないと一寸通じんかもしれん。そして入隊間もなく三種混合の接種あり。此の時は終日ねかされる。熱の出る者もあるがほとんどの者は特に変る事なく退屈の一日である。そんな時申し送りのように戦友「二年兵」が酒保から「まんじゅう」を買って来て、そっと毛布の中に差入れてくれる、これも又うまかった。注射で食べてはいけないので粥食の一日、上官の目を盗んでくれる訳である。
 「まんじゅう」の話で大分それたが夕食後入浴から馬の水くれなどの仕事もある。入浴も交代制で早い時と遅い時がある。時間は厳守、しかも石けん、タオルは必ず使用、時折り検査あり。我が中隊は風呂場とかなり離れて居り、従って上等兵の指揮で軍歌などうたいながら行進もさせられた。そして風呂場の前で解散、先ず人より先頭切る事に心掛けねばならない。
 と云うのは次の仕事、馬の水くれがある。ただくれるだけではない。一個班三十人中十五人の初年兵に馬は二十頭居る。若し二年兵が二頭も水をくれて初年兵が一頭もくれられないとしたら後が恐い。中には呑みの悪い馬もいる。そんな時は点呼後、再び水くれに馬舎へ行く。こんな時普段目をつけられていると、待ってたとばかり当番「二年兵」などから色々な罰則をやらせられる。内容は取りどりだが、歌、ビンタ、かけ足等。こうした「いじめ」は馬舎だけでない。炊事場と来たらもっとひどい。食缶返納に行き置く所が違えば先ず食缶をかぶせられ、虚無僧(こむそう)のようにさせられ炊事場を巡り終って、ビンタが少くて三~四位である。悔しくもどうにもならない軍隊生活であった。

   権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 32頁~33頁


吾が「人生の想い出」23 軍隊生活 権田本市 1989年

2010年03月11日 | 権田本市『吾が人生の想い出』(1989)

 然らばどのようにして訓練されるのか、入隊初期に戻って話を進めてみる事にする。最初は全員乗馬出来るような訓練から始められたと思う。馬部隊で馬に乗れないと馬部隊の行動が出来ない。此の訓練だが裸馬こそ乗せなかったが鞍だけで鐙(あぶみみなし。要するに鐙があると脚の締めかたが覚えられないという話。経験者は解かると思う。自分は前にも話したが初めて馬に接したわけでどんなにか恐いと思っていた。此の上から落ちたら大変だ、一人気を悩んで居たものだった。それだけに云われる通りに実行した。又自分なりに研究もしたつもり。要は少しでも人より早く会得して自分を知って貰う可く努力にも常に心掛け。そしてビンタが少ないようにね……。
 お陰様で他の兵より少しは上達した。其の証拠としておしりに「ヨウチン」つけた事ほとんどなし。ひどい人はおしりがただれ、しかも入浴後毎夜ヨードチンキをつけられるあの時の顔。一寸した負傷でもヨードチンキはかなりきくよね。此のようにして苦労もあり初めて一人前に馬にも乗れるようになり、しかもあの重い火砲を乗馬して曳く事が出来るようになったのである。
 全員が一人で乗馬出来る頃には各部に別れ、其の任務につかされたと思う。大別すると次の通り。砲手班、馭者(ぎょしゃ)班、観測班、通信班、無線班、等である。各部を説明すると余り長くなるので、とりあえず自分が教育受けた様子を思い出してみる事にする。前に述べたが週番下士官から伝えられた前夜の指令で馬もきまり、其の日の訓練が開始される。先ず先任上等兵の号令で練兵場に引卒されて行く。人間と同じ号令を使うのだが馬部隊の号令は少し長ーくかけられる。此の点人間と違う訳である。このようにして毎日の訓練が続けられる中で色々の乗馬方法など覚えさせられる。そして一期の検閲になる頃には自分も乗馬してもう一頭の馬をも共に操って自由に馭せるようになるのだから、自分でもよく出来るようになれたとつくづく感じたものだった。しかし上達すれば其の上の高等技術をやらせられる。自動車の運転免許試験では無いが、同じようにコースの中に二頭の馬で一頭に自分が乗り火砲曳(ひ)く前車をつけて前進バックなどまったく車のコース以上に苦労もいる。相手が生き物だけにね……。
 これ等は試験とまったく同じで合格すると初年兵でも馭術徴章が与えられる。誠に名誉の事なのだ。自分もお陰様で初年兵第一号頂いたが此の時のうれしかった事、今でも忘れられない過去の思い出の一つでもある。

   権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 30頁~32頁


吾が「人生の想い出」22 軍隊生活 権田本市 1989年

2010年03月09日 | 権田本市『吾が人生の想い出』(1989)

 それでは前に戻って入隊時から一期の終る間の訓練の様子など細かく思い出してみる事にする。
 先ず野戦重砲兵連隊の編成から説明する事にする。第一中隊から第六中隊まであり、半分の第一中隊から第三中隊までを第一大隊、第四中隊から第六中隊までが第二大隊と呼び、合わせて連隊となる。一ヶ中隊の人員は百二十名。一ヶ班から四班まであり、一ヶ班三十名。そして二年兵と初年兵半々。其の他に班付伍長、班長は軍曹と二人入る。中隊には隊長、準尉、曹長もいる。尚三島には野戦重砲兵二連隊もあって旅団司令部もあり、将官の馬が一中隊に配属されており、馬を世話する馬丁も居た。
 昔の階級制度も思い出してみる事にする。二等兵、一等兵、上等兵、伍長勤務上等兵、伍長、軍曹、曹長、准尉、少尉、中尉、大尉、少佐、中佐、大佐、少将、中将、大将、元帥。他に見習士官*があった。以上が旧軍人の階級だった。
 普段の訓練そして演習時は一ヶ中隊で四分隊が出来る。一ヶ分隊とは火砲一門に砲手八人、馭者六人、馬十二頭。その他に分隊長及び補佐。いずれも乗馬して居る。
 今少し細かく説明すると火砲は砲身と砲架と云って、常に分解されて居り挽馬に依って移動する。一旦射撃の際はこれを連結して射撃するのである。四ヶ班四分隊に対し観測通信、無線など敵陣を探知する観測班なるものが常に中隊長の指揮下に居る。以上があらましの説明であるが一期の終る迄には一人前として活動出来るよう訓練されるのである。

   権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 29頁~30頁

*:士官学校・航空士官学校・予備士官学校を卒業した者が少尉に任官する前、曹長の階級で本務に必要な勤務を習得する期間の職名。


吾が「人生の想い出」21 軍隊生活 外泊 権田本市 1989年

2010年03月07日 | 権田本市『吾が人生の想い出』(1989)

 第一期の検閲が終ると初めての一泊二日の外泊が許可される。此の時の気持ちは昔の嫁さんが初めて里帰りと云って嫁いだ先から実家に帰る時と同じようだったかも。いやそれ以上の気持ちになったのではないかと思う。
 昔の武士ではないから手甲(てっこう)こそしないが、脚絆(きゃはん)、ゲートルを巻き、肩には外套もこれ又巻いて持ち、服装に関しては誠に厳しかった。それと礼儀である。自分達より下の階級の兵隊はいないわけだから、相手を見れば挙手の敬礼して置けば間違いない。敬礼の話が出たので一言。一人で歩く時と隊伍組んで行動する時は違うが、直属系統の上官で中隊長以上には停止敬礼させられたように思う。
 さて外泊時の様子を思い出して見る事にする。当日朝食時限を以って外出が許されたと思うが、営門出た瞬間、足の早い事、篭の鳥が追い放されたかのように。そして誰の顔見ても微笑んでいた。三島の駅には大勢の初年兵である。上り下りみんな故郷の事思いながら来る汽車の待ち遠しかった事。当時三島から東京迄三時間位かかったと思う。東京から嵐山までも三時間は充分かかったように思う。こうして家に帰った訳だが東京で戦友と別れる時早くも帰営の打ち合せもした。帰営に遅れたら重営倉が待つ事になる。自分も家に帰った喜びは確かだったと思うが、どのようにして過したかは今になっては記憶になく、思い出せないのが残念である。

   権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 29頁


吾が「人生の想い出」20 軍隊生活 権田本市 1989年

2010年03月05日 | 権田本市『吾が人生の想い出』(1989)

 愈々軍隊の訓練を始まりから思い出した順に説明する事にする。とにかく五十有余年前の事で話も大分前後すると思うが了解を願っておきたい。
 先ず一日が終ると夕食。その後、週番下士官の集合がかかる。その時明日の訓練の編成及び工場などに行く者等が通達されるのである。此のようにして第一期までの訓練が行なわれる訳であるが、第一期と云うのは三島では、一月に入隊し、四月に入って富士演習場に行って来る間の三ヶ月間を云ったように思う。演習場では実弾射撃も行なわれ、初めて一人前の兵士となる。
 次に一期が終ると色々の部所入りもきめられたと思う。軍隊だって裁縫工場もあれば靴工場、鉄工場、医務室、炊事場、連隊本部などなど。一寸思い出せない程数多くある。男世帯で全部やらねばならないのである。一寸考えると、軍隊とは訓練して戦闘に備えるだけと思うだろうが、軍隊は本科の直接戦闘要員と各部所の軍人が一体となって初めて其の目的を達成出来る訳である。此のような事はここ軍隊ばかりか今の時世にも通じ得る事ではないだろうか。

   権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 28頁~29頁


吾が「人生の想い出」19 軍隊生活 ビンタ 権田本市 1989年

2010年03月03日 | 権田本市『吾が人生の想い出』(1989)

 先ず一日の日課から紹介する事にする。起床ラッパで営庭に集合。点呼、朝の体操等終って炊事当番各班二名、週番上等兵の指揮に入る。尚、火砲手入二名位、その他は全員馬舎に行く。先ず一頭ずつ引出して馬に水を呑ませるのだが、馬は人を見ると云うが初年兵だと馬鹿にしてなかなか呑まない馬もいる……。呑ませた馬と数を報告するのである。数と云ってもぴんと来ないだろうが呑ませる時。馬ののどに手を当てているとよく解かる。こうして馬は外につなぎ次の作業。二人で担架を持ち、ねわらを外に出し、終日乾燥させる。夕刻にもくり返される作業となる馬の手入が始まる。これが大変であった。初めての馬に近づいての作業。恐かったね……。教えられた通りやらないと鞭が飛ぶのである。それから三日目の朝、分担した作業が終ったので初年兵同士で手伝いをしてしまった。これが班長軍曹に見つかり三人に集合が掛けられた。二人は東京出身だった。誰の命令で作業したのか聞かれた。自分は背が低いので一番左翼に並んだ。「ハイ、自分の場所が終ったので手伝いました」と云う。その一言に鞭が二ツ、三ツ、ピュウ、ピュウ。次も同じ事を云って、又ピュウ、ピュウ。自分の所へ来た。それ迄に自分は心にきめていた。同じ事云って鞭で打たれるのなら云わない方がいいやと思ったから、「ハイ」と大きな声で一声。鞭が一つで済んだ……。軍隊でよく云ういい訳という事になるのかなと思った。一寸痛かったね。一ツで済んだが今だって忘れないあの一パツ……。
 馬の手入が終ると班に戻って朝食となる。二年兵より早く食べ終わらせる。遅いと目をつけられ何かのついでに「ビンタ(ピンタ)」が多くなると云う事。初年兵の神経は早くも戦々恐々となる。

   権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 27頁~28頁


吾が「人生の想い出」18 軍隊入隊 権田本市 1989年

2010年03月01日 | 権田本市『吾が人生の想い出』(1989)

 やがて一月二十日。村人に送られて故郷後に三島野戦重砲兵第三連隊第一中隊に入隊する。今は日記も書き続けているが、当時はそんな思い付きも無かった自分である。其の日の天気とか細かい状況など思い出せないのが残念である。只東京まで東上線。そして東京から三島まで二、三時間もかかったように記憶する位である。
 軍隊生活に入る。先ず軍隊語とでも云うのか、「私」は使わないで、「自分」は第一中隊第三班に所属する。先ず隊内の案内から炊事場、馬小屋、馬具。砲廠火砲のある所。自動車は一台も無い。人間が馬を使って大砲運びも射撃もする。一切の仕事が馬に依って行なわれる。
 此々で入隊時の印象として残った事を思い出したので紹介しておく。先ず驚いたのが言葉遣いである。普通の会話がまるで喧嘩しているかのように思えた。又、一ツ年上の先輩がものすごく年上の人に感じられた。だから二年兵から云われる事も上官から云われるような気になってしまう訳である。さて班には初年兵に一人の二年兵が戦友として当てがわれる。今日からおれがお前の戦友だ。解からない事、困った事などあったら何でも話せと親切にしてくれ、しかし同じ二年兵でも余りたよりにならない人も居たように思う。結局自分は自分としての自覚を持つ事が大切である。と云う事。つくづく考えさせられた入隊時の感想でもあった。
 此の部隊は特殊部隊の関係で色々の県から集って来ていた。隣村では、今の滑川町が一人、玉川村が一人、秩父の方から二名と埼玉からも大分多かった。あとは千葉、山梨、東京、静岡、愛知、和歌山方面はかなり多かった。中隊は違っていたが小川町の人も居た。要するに混成部隊である。

   権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 26頁~27頁