GO! GO! 嵐山 2

埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

吾が「人生の想い出」41 自動車教育班 1989年

2010年08月26日 | 権田本市『吾が人生の想い出』(1989)

 やがて太平洋戦争の方は日増しに激しくなり、従業員にも召集が来るようになった。特に運転手に多く来たので車の運転に困って来た。そこで今度は運転手作りも始められる。既に徴用で色々の人が来て居った関係で従業員の中から募集する条件は女子又は十八才以下の召集されないような人達を目標に人員数は三十人、一期間三ヶ月だったと思う。そして自動車教育班と名付けられ、廠内でも随分有名になった。なぜかと云うと、もともと軍の仕事。総務部長は海軍少佐、其の人直轄で運営されて居り、だから教官、主任も海軍出の兵曹長。他は陸軍出五人。私も命令で教育班に廻され教官の一人となる。とにかく軍隊式の教育で実施されたのだが、私は此の時位悲哀を感じた事は無かった。二度と軍隊教育はやりたくない、そう思って居ったからだ。しかし命令では已むを得ない。生計を立てる上に於いて其の一員として働いた。私は昭和十七年(1942)、今の愛妻と結婚して世帯を持って居たのである。

   権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 52頁~53頁


吾が「人生の想い出」40 海軍航空技術廠に就職 1989年

2010年08月10日 | 権田本市『吾が人生の想い出』(1989)

 昭和十五年(1940)十二月進級、陸軍砲兵軍曹。当時現役兵は進級も六ヶ月だが吾々召集兵は一ヶ年余でようやく進級である。そして平穏の連隊には以前編成されて大陸に渡った兵隊が時折還って来ては召集解除になっていた。こうなると自分達も解除になりたい、そう思う毎日だ。だがやがて二度目の誕生日、桜の花も咲いたが昨年に見た花のようには考えられる事も無くすぎて三度目の夏が来た。半ばあきらめようと思った矢先、昭和十六年(1941)九月三十日、ようやく召集解除の命令が出た。現役で還る時と違ってそんなにさわぐ事もなく、又盛大なる除隊風景も余り見られなくなった頃であり、喜んだ事は確かだったが当時の様子は余り記憶に無い。
 召集解除は同時応召になった三人で、全員材料廠勤務前に話した教育にも参加していた。一人は横浜、一人は横須賀で自分は横須賀の戦友の紹介で海軍航空技術廠に就職した。これには理由があった。たまたま彼の知人が航空廠に居た事と軍の工場で召集延期も少しは効果ありとの点である。血気にはやった現役当時とは心身共に考えにも変って来た頃である。戦友もそう言葉にも現わして居た。最も彼には妻子が居たが自分でも決して戦争なんて行きたくない、そう思うようになったからである。
 いずれにしても就職が決まり総務部の自動車修理班に入った。修理の経験はないが職を覚えるため希望したのである。
 ここで戦時中の航空廠とはどのような所だったか説明してみる。廠長は海軍中将和田操閣下。仕事は海軍の飛行機を作る研究と飛行機も作った。終戦末期には桜花という戦闘機も作り敵の飛行機が上空に見えてから攻撃出来る速さだったと聞いたが使わず終戦となる。従業員は一万人から居て、あらゆる部門の作業が行われて居た。
 こうした作業に必要なのが足。自動車が最も必要でバス、トラック、乗用車とかなりの台数があった。とにかく戦時中で物は不足するばかりである。飛行機はガソリンでないと飛べない。そこで自動車には代燃が使われるようになったわけである。種類は薪、木炭、カーバイト、プロパンガス、コーライト等。自分はコーライトには覚えが無いが、他は全部経験して居る。特に何処にでもある薪は一番使われて居た。
 終戦になってトラックの無い頃、嵐山町で二年程取扱ったがつい最近のような気がしてならない。もう四十年にもなるがね。現在はスタンドに行き車に乗ったままガソリンを入れて貰い、金を払えば車が動く時代。真黒になった手で車を動かした時代とは雲泥の差。正に時世は移るである。しかし、これ等の苦労を無駄にしてはならない。何も無い戦時中を経験した自分は何時もそう心掛けている。だから貧しい生活の中にも丈夫で楽しい毎日が過せる事で家庭内でも朗らかである。
 話は戻って就職から終戦迄の間を想い出してみる事にする。私は戦友の計らいで十日ほど泊めて貰った。寝具から一切お借りしてである。大変迷惑をお掛けしたので済まない事をした。此の間、勤務終了後と休日を利用し、湘南杉田駅近くにアパートを借りる事が出来た。四畳半一室十二円位だったと記憶する。今でも想い出すが火鉢が五十銭。鍋・釜はセト引きと土で出来た物。今のように便利の物が有る訳で無い。これはと思う物は配給制度でなかなか手に入らない。独身の私は自炊でスタートした。
 駅には一分とかからないが混む電車には閉口した。しかし馴れたもの。戦時中の車掌は女だったがチョイチョイ置いて行かれたが、私は乗れなかった事は先ず無かった。軍隊のめしは只喰って来なかった(笑)。杉田・富岡・金沢文庫・金沢八景・追浜往復の毎日が続けられた。駅から航空廠に入る迄で万人の従業員が行動する訳で、随分混み合って大変だった。
 さて、職場の内容だが、今の修理と違って車の修理と云えば誠の修理で、一つの部品を作って修理すると云うシステム。今思えば考えられない事ばかり、総てがそうであったから当時とすればそんなにも苦にならなかったがね。尚、飛行機を作るにも色々の技術面に分れて居て、其の場其の場の技術養成も実施された。其の一つでガス熔接などあり、実は私も自動車修理班から派遣され熔接見習い。実習一ヶ月一所に見習いしたが、なかなか大変な仕事だった。ニュームの熔接など特に技術を要した。でもお蔭で熔接士の技術を身につける事が出来て、終戦後も大いに役立った事を後に説明させて貰う事にして次に移らせて頂く。

   権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 50頁~52頁


吾が「人生の想い出」39 軍隊生活 召集解除 1989年

2010年08月03日 | 権田本市『吾が人生の想い出』(1989)

 部隊は高橋連隊長に変って国府台の営庭には四月の桜が満開に咲いた。四月十日自分の誕生日である。二十六才其の日の桜の花が押し花にして今も保存してある。宝物のような記念の花である。此の想い出を書くに当ってたまたま其の年に限って書いた日記を引出して見た。昭和十五年(1940)、紀元二六〇〇年、観兵式も行なわれ自分達も参加、二時間も立通しで大いに疲れた事も想い出す。尚、東京は式典で花電車も出て市内は非常ににぎやかだった。記念の「切符」一枚もある。東京には近いので外出して此の様子を知る事が出来た。
 さて平穏の続く軍隊生活だが吾々は召集兵であるが、何時解除になれるかの話も出る所でない。厳しい隊長は色々の事が好きで、現役以上の教育である。下士官クラスは週一回書道提出。軍人に賜わりたる勅語など二千六百有余字も書かされ、その提出。又寒稽古は下士官以上全員である。だから鬼の「十八」仏の十七なんて連隊語の出た時もあった。十七、十八と云うのは国府台は道路を挟んで一時だが野戦重砲兵十七連隊と十八連隊当時あり、其の後変って東部七十三部隊と七十四部隊となる。
 このように普段と変らない軍隊生活で日曜、祭日などは外出、外泊など出来たので小遣いには誠に不自由でした。吾々が召集で再度軍隊生活中、二千六百年祭に当り昭和十五年(1940)十一月、観兵式参加で中野に宿営した事も想い出す。二泊位したと記憶する。あの頃の東京と今では雲泥の差である。此の祭り中、外出の折、浅草の食堂に入って食事中、何処かの方が兵隊さん御苦労様と云ってお酒三本自分にくれた。此の件で面白い一時々があったが長くなるので解説は止める事にする。

   権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 49頁~50


吾が「人生の想い出」38 軍隊生活 1989年

2010年08月02日 | 権田本市『吾が人生の想い出』(1989)

 さて話は前後するが応召当時のノモンハン事件だが出動した部隊は凱旋ならず敗戦との事。第二回編成して出動した部隊は終戦で戦闘する事なく、外地見学で済んだなんていっていた。恥しい話だが先発隊は敵の奇襲作戦、戦車の攻撃にあい火砲は取られてしまい、自分の身体を守って逃げるのが精一杯だったとの事。タカツカサ部隊だった。自分の戦友もいたので細かく聞く事が出来た。ノモンハン終戦で同時召集された者達はほとんど解除、しかし自分達は材料廠で解除になれない。最も三ヶ月教育もあり一応技術下士官として働いていた。
 しばらくして再び召集が始まった。今度は秘密動員である。さわぐ事なく赤紙が来ると一人でこっそり入隊して来る仕組である。先にノモンハンで召集解除になった人達も自分等のいる所これまた入って来た。「あれ?又来たのか。」「何まだいたのか。」「そうだよ。今度は帰れないぞ、大陸に行くんだから。」こんな会話をするようになってしまった。要するに部隊を編成しては送り出す仕事が吾々の仕事であった。これが支那事変拡大中の時だったと記憶する。自分達は間に合わぬ兵器があると直接兵器廠に行ったり、無線会社などに行ったりして完全装備に努めるなど、かなり忙しい時期もあった。何組かを編成して送り出した後は平穏の連隊に戻った。と思って居る時、又しても、早く大陸に渡った組は凱旋の型で連隊に還り、召集解除になった者も居り、自分達と違って出入りの激しい人も居った。ある准尉は帰還した時戦況の様子を話してくれたが、日本軍が中国の大陸で最も有利にある時だったように想う。

   権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 48頁~49頁


吾が「人生の想い出」37 軍隊生活 召集電報 1989年

2010年08月01日 | 権田本市『吾が人生の想い出』(1989)

 折りも折り来るものが来た。「召集電報」である。朝五時頃だと記憶する。電文は「明日午後一時国府台野戦重砲兵第七連隊に入隊す可し」である。初めての給料貰ってみない中に……。此の時の気持ち、御想像にお任せします。今まで召集の来た人は一週間位の余裕があった。それなのに自分の場合は今朝来て明日午後一時とは忙しい話。誰に挨拶する暇もない状況。とにかく会社で別れの挨拶。川崎の駅まで友人数人の見送りを受け、一路我が家に帰る。
 たまたま大雨の日、我がは当時二十軒あり、そこを一軒一軒歩いて挨拶した。翌日早朝、次兄の付き添いで国府台入隊。その時撮った写真もある。連隊に入ってみると北支帰りの戦友がいた。今回はみんな召集されたのかと思った。召集受けて来た人達も自分達が最も若い方で、他は三十~四十才の年を増した人が特に多かった。
 急動員である。連隊に入りきれず応召者は松戸の町、民家に数人ずつ分れ、泊めて貰った。自分はお医者さん宅に二人で宿泊させて貰った。約十日位。この間先発隊は戦地に出発、かのノモンハンである。自分の戦友も先発隊に加わった。自分達は再度連隊に入って第四中隊となる。戦闘は決して有利でない様子。第二回目の編成が始められた。この時自分も加わるところだったが、今回は特別の編成を組む事で自分ははずされたらしかった。
 応召受けて間もなく伍長に任官。そして材料廠付きに任命された。理由は技術官士官養成の目的らしかった。他にも一名本科から来る。材料廠にも一名おり、下士官三名と将校一名が世田谷野砲一連隊に派遣、三ヶ月間の教育受ける事になる。一師団管区から集った人員は下士官将校で七十名位いたと思う。教育の内容は兵器を作る会社工場などに行き、専門家の講義など受けたが、吾々の頭では誠に解からない方が多かった。特に無線工場しかり、弾薬作る工場も行った。でも実務を見学しただけでも勉強になった事は確かだった。お蔭で普段行く事、入る事も許されないところまで拝見出来たのである。こうして三ヶ月の教育も卒業して連隊に帰り材料廠勤務となる。その頃部隊の名称が変って東部七十四部隊となる。

   権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 46頁~48頁