GO! GO! 嵐山 2

埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

「報道」三〇〇号に寄せて 報道委員会会長・関根昭二 1981年

2008年12月22日 | 報道

 「報道」は今号をもって三〇〇号に達した。昭和二十五年四月に第一号を発行して以来三十一年の歳月が流れている。第一号以来、引き続いてではないが関係してきた者として深い感慨を覚えざるをえない。今でも当時の文章を読み返してみると私も若かったなあという感情が甦(よみがえ)ってくる。情熱を傾けて「報道」に取り組んだ時代のことが思い出されてくる。
 今、手もとにある創刊当時の記事を読みながら往事を回想してみると、それは私にとって見果てぬ夢であり、青春の一頁でもある。
 第五号に『山王台上絢爛(けんらん)の偉容成る!!』という見出しで菅谷中学校新校舎の竣工を記事にした。この校舎は新制中学の発足にともない菅谷小学校の木造校舎に付属して建てられたもので、当時は立派な建物に感じられたが、「絢爛な偉容」とはオーバーな表現でありすぎた。今この校舎は取り壊されてない。
 第八号は「熱戦敢闘第三回村民体育大会終る」の記事。
『澄み切った青空、紫紺の秩父連山、黄金なす畑々、秋の香り冷やびやとする大気、白きライン、万国旗のいろどり、緑の大アーチ、そして青空をとどろかす花火の音。すべてがこの日、山王台上に繰りひろげられる精鋭五百の菅谷健児の敢闘に相応(ふさわ)しきものばかりである』
 何という若々しい稚気に溢れた文章であったことだろう。
 第九号に『昔を今に、めぐりあるき』という題名で連載ものを書く予定にしていた。しかし長く続かず、将軍沢の巻その一、その二、思想の巻その一、大正時代。で終ってしまった。その序文に云う。

 …今日生きている年老いた人々は、明治の代に生まれた人々ばかりである。でもそれらの人々に私たちはありし日の私たちの村の姿を尋ねることができるであろう。更にはそれらの人々が遠い日のこととして語り伝えられてきた数々の物語を聞くことができるであろう。そうして私たちは、私たちの郷土の歩みを云わば歴史の影の部分を知ることができるであろう。こうした歴史の影の部分を記録に留め、更にその生活史的意義を解明してみたい念願でこの「めぐりあるき」の企てを起こしたのである。
 これは一つの「思い出の記」である。村人の心の奥底に秘められたささやかな懐古録である。
 そうして菅谷村の現代的風土記である……。

 続いて書いた「将軍沢の巻 その一」は関根【茂章】町長に称讃されたものであるがその一部を紹介する。

 私はある晴れた晩秋の一日この笛吹峠を訪れてみた。将軍沢から亀井村須江に通ずる幅二間ほどの林道は松葉がこぼれ、くぬぎの枯葉が散って歩く度にかさかさと鳴った。焚木でも取っているのか枯枝を折る音が聞える。松とくぬぎの山が幾重にもかさなり、その谷間は田圃になって稲が掛けてあった。松林を抜け坂を上ると道は平になり、行手に石碑が見えた……。
 千軍万馬の関東武士達が鎧甲(よろいかぶと)に身を固め、白刃(はくじん)をひらめかして戦ったのであろうか。どよめく人声、乱れる馬の足音、鬨(とき)の声、太鼓の音、鐘の響、ほら貝の音、そして剣撃の響と人々のうめき声--それらはこの谷々に響き渡ったことであろう。だが今聞くべくもなくしのぶよすがすらない。ただ颯々(そうそう)たる松籟(しょうらい)の音とささたるすすきの揺らぎとちちたる小鳥の囀(さえず)りのみである。この峠に生い繁っている松やくぬぎはそして道ばたの小草は古き日の面影を語ることができるであろうか。
 その昔、どこからともなく聞こえてきた笛の音を今もなお秋風の中にささやくことができるというのであろうか……。
 この碑の建っている所は私の今上って来た道ともう一本の道とが交錯(こうさく)している四辻(よつつじ)になっている。この道は岩殿観音から平村慈光寺観音へ通ずる道で巡礼街道と呼ばれている。白い脚絆(きゃはん)にわらぢを履き遍路笠をかぶった巡礼達が鈴を鳴らしながらこの道を通って行ったことであろう。この道を少し行くと学有林があるが私は亀井村の方へ下りて行った。眼の前が急に明るくなると、よく開けた田圃が見え稲はすっかり刈りとられてきれいに掛けてあった。藁屋根の人家からは炊煙(すいえん)が上り、大きな沼が鈍く光っていた。そうして銀色の鉄柱が果(はて)しもなく小春日和の中に続いていた。遠く秩父の山波は薄紫に煙り、近くの山は青く或は紅葉に色どられていた。日だまりに腰かけてこれらの景にみとれていた私は正午近いのを感じて峠を下ることにした。同じ道を帰るのも愚だと思い途中の分れ道から左へ降りて行った。もとの上り口へ出ると思っていた私は全く見なれない光景に出逢ってしまった。左手は丘ですすきが一面に白くほほけ、右手は松林でその谷間に田圃があり、その向うはスロープをなした畑が続き、さらに笠山が見えるまことにおだやかな自然の美景である。それは嵐山のごとくはなやかではない。云ってみれば素朴の美景とでも云うのであろうか。然しここは一体どこであろう。田圃で稲を刈っている人に尋ねたらオオガヒだという。オオガヒとは何村ですかとさらに尋ねたら菅谷村の鎌形だという。私は驚いて今一度この景を見直してみた。菅谷村にもこんな平和な美しい地があったのかと思わずにはいられなかったのである。

 私がこれを書いたのは昭和二十五年(1950)の秋である。今この文章を読むと当時の光景がありありと脳裡(のうり)によみがえってくる。一人カメラを肩にあの峠道を歩いた頃がなつかしい。しかし、すべてが茫々(ぼうぼう)たる過去の世界であり、吾が青春の形身である。
     『嵐山町報道』第300号、1981年(昭和56)9月25日。


民主主義とはなにか 関根昭二 1975年

2008年12月17日 | 戦後史

 昭和の年代が五十年を迎えた。前半の二十年は戦争の時代であり、後半の三十年は平和と民主主義の時代であった。 私は戦争を体験し、さらに敗戦という悲劇を目のあたり見てきた。全く歴史的にも精神的にも大きな転換を余儀なくされたのである。 戦後三十年たった今日、吾々は民主主義について深く考えてみる必要があるのではなかろうか。 吾々が敗戦後、自由と平和の理念にもとずく民主主義というイデオロギーを知ったとき、それは実にすばらしいものに思えたのである。言論の自由、表現の自由、信仰の自由など多くの自由が吾々のものとして、しかも侵すべからざるものとしてそこにあった。 このような民主主義の社会は果して吾々国民の期待に応えうる社会制度をもたらしたであろうか。例えば教育はどうか。学歴偏重の社会を打破しようとする考え方は戦前にもあった。学校を出なくても実力があればいくらでも世に認められる社会を望んでいた。だが平等を口にする民主主義の時代になっても何ら解決できないでいる。それのみか却って学歴を一層尊重する傾向になった。中学を卒業して高等学校へ入学しようとする人は九十%を超えると言われている。吾々の時代には旧制中学へ行く人は村でも一人か二人にすぎなかった。しからば高等学校へ行く人がこんなに多くなって、この社会は前より良くなったと云えるであろうか。東京家裁の調査官によると昭和四十一年(1966)に家庭裁判所に面倒をみてもらった非行少年は中学生の十六%・高校生二十%であったものが四十八年(1973)には二十六%・三十三%にそれぞれ増加し非学生は六十二%から三十六%に激減した。しかもこれらの高校生は国語で「暴行」の「暴」の字が書けない。英語では学校というスペルが書けない。というおどろくべき学力低下が示されている。 一体、民主主義の教育とは、このように非行少年を増加させ、勉強もろくに出きない生徒のために高校は存在しなければならないのであろうか。どうして学力がなくて卒業証書だけくれる学校のために国民は税金を払わなければならないのであろうか。こんな民主主義こそ愚者の民主主義でなくて何であろう。今の日本を支配しているのはまさに愚劣なる民主主義であり、吾々にはこのような民主主義を打倒しない限り理想の社会を築くことはできないであろう。
     『興農ニュース』第2号(嵐山町興農青年会発行。1975年3月)。筆者は嵐山町議会議長。


1952年開始の埼玉県海外派遣農業実習生制度も見直し期に 1978年

2008年12月12日 | 戦後史

   海外派遣農業実習生 27年目 見直し期に
 来年三月、アメリカヘ出発する海外派遣農業実習生三人が決まった。二人は県派遣。一人は県海外派遣農村青年協議会(経験者OBの組織)の推薦だ。この実習生制度、スタートしたのは昭和二十七年(1952)。当時は「大学卒。妻帯者に限る」などの条件で、戦後の農村復興期のリーダーづくりがねらいだった。いわば食糧増産をアメリカの開拓者精神の移入で切り抜けようとしたもので、競って応募したなかから県が厳選した農村青年を送り出した。それから二十七年たったいま、農村から青年の姿は消え、「農業後継者育成」を国や県が行わなければならない時代に。海外での農業実習生制度も見直し期にさしかかってきたようだ。

  むしろ後継者育成 応募が激減 開拓魂移入も今や昔
 今年の県募集は二人。旅費などはアメリカの受け入れ農家が一年間の実習手当を「先払い」の形で世話する。そのほか、事前費用二十万円のうち十五万円を県が負担するから自己資金五万円で一応一年間のアメリカ実習が実現するわけだ。
 今回の応募者は三人だった。県農業経営大学校から二人(上尾、秩父出身)と川口市の一人。いずれも男性で二十一歳-二十五歳までの人たち。県のワクは二人だけだったため一人はOB会推薦で合格一〇〇%。
 送り出し機関は、社団法人の国際農友会。三人は先月十六日-廿九日まで東京で行われた合宿講習会に参加、あとは来春出発前に行われる講習会を受けるだけだ。アメリカの場合は、酪農、肉牛、養豚、養鶏から果樹、柑橘(かんきつ)、野菜、花き、飼料作物が実習内容だ。どれでも希望するものを選び、農家に泊まり働きながらアメリカ農業を体験する。
 県農業経済課の調べでは、二十七年(1952)以来一年間の農業実習生としてアメリカに渡ったのは六十二人。ほかにヨーロッパが九人。四十一年(1966)からスタートした二年間の農業研修生の方は五十二人で、三十二年(1957)から三十八年(1963)まで行われた農業労働者派遣(三年間)では十七人がアメリカに渡っている。
 こうした海外実習、研修の経験者たちは、帰国後、「県海外派遣農村青年協議会」を結成している。経験者のほとんどが参加しており、今年五月の総会で来年二月、関東地方を中心にした海外研修生、実習経験者たちを集めた「営農研究会」を入間市で開くことを決めた。「海外から日本の農業を見直すということは、日本にいてはとてもわからないこと。仲間がどんどんふえれば、農業後継者不足なんてことはなくなります。自分の力を十分発揮できる農業は、サラリーマンにはかえってうらやましいことでは」と、会員の一人は自信たっぷり。かつての開拓者精神の移入からもうかる農業としてのアメリカ式経営法を学ぼうという意欲が満ちている。

  農村復興の指導者養成 ねらいは成功したが
 二十七年(1952)、たった一人選ばれた県派遣の第一回農業実習生はどうしているのか。その人は嵐山町の関根茂章町長(五三)だった。二十六年(1951)、サンフランシスコ講和条約で、やっと日本が戦後の独り歩きを始めた時期に、アメリカ式農業、開拓者精神の移入をめざし、全国から選ばれた二十六人が海を渡った。当時は横浜から十二日間の船旅だった。
 条件は二十五歳-三十五歳までの大学卒の妻帯者。九州大学農学部を卒業後、同町で農業をしていた関根さんは二十六歳。二十六人の中で三人だけだった独身者の一人。「町にあった日本農士学校(現在の県農業経営大学)で講師をしていました。日本の農村の民主主義のリーダー養成の意味もあったようです」と当時をふりかえる。
 カリフォルニアの酪農家のところで三カ月、日系二世の開拓地で三カ月働いたあと、国務省の映画づくりに一カ月間“主演”させられた。「カリフォルニアからの便り」というタイトルのこの映画は、日本の農業実習生がアメリカに到着、高層ビルのまちに驚いたりしながら、農場での仕事をおぼえるまでを描いたPR映画だった。
 完成後、日本に送られ、各地のアメリカ文化センターで、アメリカ紹介用として上映された。「当時驚いたのは一世、二世の必死の活躍ぶりと日本人に対して残る差別感でした。日本への愛国心というものがアメリカヘ渡って逆にわいたような気がします」と関根町長。
 一緒に渡米した全国の仲間たちの中には、その後、国連のコロンボプランでエチオピア、パキスタンなどへ米づくりの指導に行ったり、南米開拓で活躍した人たちがいた。帰国後、外国から日本農業の視察団や研修生が県にやってくると、「農業実務者で英語が自由にできる」と、案内者の役がよくまわってきた。
 所沢市で養豚業を経営する平田昇さん(三七)の場合は、四十年(1965)の派米農業実習生。倍以上の応募者の中から三人が選ばれた。「私が実習した場所は五大湖に近い地方で冬場はマイナス三〇度にもなるところ。きびしい気象条件の農場でがんばりました。その時の苦労が役立っています」という。でも、最近は、外国へ行こうと思えば手軽に行ける時代。海外へ出てじっくり外国の農業技術を学ぼうという若者たちはめっきり減って、この制度も曲がり角に来ていることは関係者みんなが認めていた。

『朝日新聞』1978年(昭和53)10月12日記事。1952年(昭和27)5月の『菅谷村報道』21号に「関根茂章君渡米」の記事がある。22号の「論壇」には小林博治「関根君の渡米」、24号には「永光の門出 関根茂章君壮行会」の記事が掲載され、7月11日に高崎達蔵菅谷村長が発起人となり、「明治、大正、昭和の三代に亘る、各界、各層の人々が一堂に会して盛大な壮行式」が菅谷中学校で開催されたことを伝えている。http://satoyamanokai.blog.ocn.ne.jp/rekisibukai/2008/12/post_cd15.html


農村の子等と共に 1956年

2008年12月06日 | 戦後史

   農村の子等と共に 〈子どもと取り組む青年教師〉
 教職員の異動で予想することもできなかった菅谷小学校へ転任になった。電車でほんの一区間の、さして遠い村ではなかったが、部会が異なり、名前はおろか顔も知らない教師が殆どというほど接触のない村であった。
 何もかもなれないさ中に担任が決まった。四年梅組、以前中学校が使っていたとも言う、一番東の端の教室があてがわれた。一学級増の学年とかで、机椅子はおろか、教壇も何もない教室に紙くずがちらばっていた。天井のはめ板がずれてできたすき間、よごれてぼろぼろ落ちる壁。隣りの教室との境にはめこんである板戸。のぞけば隣りが見通せるふし穴がいくつもあった。少し大きな声を出せば隣りへつつぬけという。以前勤務していた学校では、高学年担任の特権で、近代的な設備の整っている新校舎にはいり続けていた。掲示物一つなくても、さびしさを感じさせない。明るいそんな教室での何年かが、雨戸のようなとりはずしのきく板戸を境にした教室をすっかり忘れさせてしまっていた。かけてなくなった窓から入る風をうけながら、ここでこれからくらすのか……さすがに胸がつまった。しかしこんな私の感傷も、子供の机が四列に並べられてから、すっかり吹き飛んだ。二つ組み合わせの教壇は片方が五糎ほど低いちんばの物であったが、一おうこれで教室の形がととのった。どんな子供がここへはいってくるのだろうか。やがてはいってくる子供たちのために、汚れた壁も模造紙でかくした。痛んだ床から出ているくぎも押さえた。机の上もふいた。そんな準備が、ここで腰をおちつけてやる私の心の準備にもなった。
 四年生は松、竹、梅の三クラスだった。その梅組そうした組の名前も奇妙に聞こえたが、漸次なれて梅組の先生になりました。生徒は三十九人、以前の学校では五十三、四人が平均だったし、随分楽のように感じられた。しかしそれがそんなに楽でないことは、一週間もすればわかった。
 一人としてつながりのない村人の中に、どうして結びつきのきっかけをつくろうか……。受持の子供を通し、受持の母親と先ず仲よしになることだ。担任のあいさつと、つつましやかな教育の抱負をガリ版にすって子供に渡した。「先生はみんなのおかあさんと仲よしになりたいのです」ということばを添えて、そんな一片の紙きれぐらいで反響のあろうはずはない。すぐ家庭環境の調査をしてみた。あまりペンなど持ったことのない母親が書いたのであろうか。たどたどしい文字の「家庭しらべ」が集ってきた。むさぼるようにそれを見た。家庭の構成を見ても殆どが、七人、八人、九人の大世帯、職業別に見ると農業二七、商業五、大工二、会社員二、くず屋一、無職一。「現在の家庭の経済状態はいかがでしょうか、ありのままにお書きいただきたい」この露骨の質問に対して農業の殆どが、「最低のくらしをしています」「耕地面積の割合に支出が多いので、暮しは楽ではありません」「働き手が少ないのに子供が多く経済は困却をきわめています」これらの回答がすべてにあてはまるものではないが、たどたどしい字の「貧困」の二字は私の顔を覆った。「担任への希望がありましたら遠慮なくお書き下さい」の項も、前のに関連しているのが目についた。「別に希望はありませんが、家庭の貧困をお考えに入れておいて下さい」「金銭の徴収はなるべく間をおいてして欲しい」給食も何もないこの学校では集金と言っても、月々集めるものは学級費の二十円か、その他臨時のいくばくの金にすぎないのであるが、こうした訴えをせずにはいられぬ農村の生活が思いやられた。
 わが子をどのように育てるか……より、どうやって毎日を過ごそうか……の方が切実な問題なのであろうか……。その他聞き集めた話のもようからみると、三度目の母親を持つ子、二度目の母親を持つ子、妾の子、生まれた時から父親がなく祖父母に育てられている子、父親が家を出てしまったために、母親が働きに出ている家の子、父親が病気で働き手のない家の子、四十人足らずのこの集りの中にも、さまざまな生活のかげを身につけている子供たちがいるのだった。どうにかしてこの子供たちを明かるく、まっすぐに育ててやりたい。貧しさに卑屈にならない子に。そしてやがてはこの農村の生活の貧しさはどんなところに基因しているか……分析できるまで物を考える子に。そして新しい村つくりにいそしんでくれるような青年に……。窓外に広がる景色を見つめながら、私はあれこれ考えた。ところが現実はそんな考えはまだ遠い夢にすぎなかった。私がすぐに力をいれなくてはならない事がほかにたくさんあるからだ。
 子供たちの学科がまことに遅れているのに気づいた事がその一つ、本を読ませてもろくに読めない。新出文字ならとも角、二、三年で習った漢字もろくに読めない。ひらがなの語群もしどろもどろの子が多かった。九九も満足に言えない子もあった。算数の時間、かんでふくめるようにくり返し説明し「じゃあ一人でやってごらん」と言ってやらせると、ノートにやっと問題をうつしとるのが、せいいっぱいな子が何人もいるのだった。これでいいのだろうか……。私は時々考えこんだ。「町の子供とはだいぶちがうんですよ」同僚のことばも慰めにはならなかった。「それにしても、もっと何か……」こうした焦りが単に学科にとどまらず、いろいろな躾の面にまで、我慢ならないものを感じさせた。弁当の時早く席についた男の子が、級友の揃う一ときを待ちかねて、弁当箱のふたをたたき出すのだった。「腹がへった……。腹がへった……」と歌いながら。「先生くっていい」「いいえ、あと少し待ってましょうね。まだみんなそろわないから」「ちえっ」そのうちこそこそ私の顔を盗み見ながら、二口、三口はしでかきこむのだった。そして弁当箱のふたの穴にはしを立てかけて、遅れて教室に入ってくる級友をどなりに廊下へ出て行く。「おめえたちが来ねえから、飯がくえねんだど……」そんな時私はきまって前の学校を思い出した。四年と六年のちがいはあったが、給食当番が全員に配り終える。かなりの時間を静かに待っていたあの教室、みんなでそろってたべ、全員が食べおわるまで席をはなれるものでないようにしつけられていた町の子供達。そうした礼儀正しさをこの村の子供達にそのまましつけこもうとしたのであった。「おらあ方べー、損なんなー」人のことなどおかまいなしに、どんどん自分勝手に先に食べて、そのまま運動場にかけ出していくことに馴れていた子供達はぶすぶす不平を言った。そうした不平を耳にしながら私はさびしかった。こんな小さな事一つが子供たちにぴったりこないのか。そんな思いにかられている時、はっと脳裡にかすめるものがあった。手を洗うどころか、台所に腰をかけて飯をかきこむ農家のくらし、高学年の子供たちの表現を借りれば、町から来た気どった先生である私には、百姓の子供達の生活環境が全然理解できなかったのである。勉強ができない事だって、本をひろげる机も無い家が多いんだろう。焦っては失敗する。子供達の生活をみつめながら、少しずつ手をつけることだ。
 その後、一緒に「いただきます」をして食事をすることもなれてきた。そろってふたをとった弁当箱のおかずのまずしいこと……。みるからに塩からいこぶのつくだ煮が殆どを占めていた。鶏を飼う家は多いのだろうが卵を持ってくる子は少い。魚などなおのことだ。似たりよったりのお菜のくせに人のおかずのことはとやかく言う。「あやちゃんは年中こうこべえな……」くらしが極度に貧しいこの子供は、ある日、まわりの子供に意地悪く言われて机につつ伏して泣き出してしまった。とうとう一口もはしをつけずに。ところが数日して、この子を泣かせたらんぼうな男の子が、弁当の時どうしても机の上に自分のを出さないのであった。人にみられるのがいやなものを持ってきたのであろう。どう言っても食べようとしないで、全部外へ出してしまった後、一人で食べさせた。こんな事が何回かあって、どうにかしなくては……と思い続けた。学級会をうまく生かせて、子供達自身の問題として考えさせたかった。ところが話す事が下手で、誰がどうした、こうしたの発言をすることがせいいっぱいの学級会は、私が思うような方向になかなかいかないのである。とうとうこうきり出してしまった。「あやちゃんのお弁当のおかずがわるいからって、あやちゃんのせい……」「あやちゃんちがびんぼうだからだんべ」「おとうさんなんかなまけてて働かないの……」「みんな働いているんだいなあ」「みんな働いていてどうしてびんぼうなんだろう……」ここではたと行きづまる。これでいい。四年生ではこの位でたくさん。この疑問がやがて心に育っていく子もあろう。こんな話し合いから、人のおかずをどうこう言いっこなしにしよう。というとりきめもできた。その後ぴったり口にしないところを見ると、子供心にもいくらかわかったようだ。自分のくらしだってたいしたことはないくせに、(それだからこそ)人の不幸は興味をひく。こうした大人どもの心理に似通ったものをここの子供達は持っている。
 人へのいたわりやあたたかさがわりに少いのだった。教具の何もないのを見た一人の母親が「先生がお困りだっておっしゃいましたので……」と言って水槽を贈ってくれた。その水槽を見て、「先生学級費で買ったん」「先生いくら」とやつぎばやに質問がでた。そのほか、花びんや本を持っていくたびに、「先生いくら……」が飛び出した。農民の生活感情の底を流れる勘定高さが子供達にしみこんでいたのだ。「農村の子は思ったより純朴でない」小さな分教場へ勤務した女教師がよく言ったが、そうかも知れない。しかし、そうした純朴さを要求する前に、そんな純朴さがかき消されてしまった、農村の生活の実態をつかまなければなるまい。それが、はじめて村の先生になった私に与えられた課題でもあるわけだ。
 【前略】 「家庭しらべ」をめくってみると、「四月三日父ちゃんが病気でたおれ、大ぜいの子どもをかかえ、とてもとても困っています」十五の長男を頭に六人の子、下は三つ。家庭訪問もしてなかった怠慢を責め、すぐ自転車を走らせた。ひどいところだった。中風で動けない父親がきたないふとんにくるまっていた。【中略】排便一つできない病人の世話と六人の子供を抱え、この母親は言うに言われぬ苦労を味わったらしい。それでも「生活補助がいただけるようになってどうにか息をつなぐことができました」何か言っても私のことばが空々しくなって、自分の胸にかえってくるようで慰めのことばも出なかった。「おかあさんあと少しのしんぼうですよ。この子供たちが大きくなったら……」しかし子供たちが大きくなれば、そのままこの家庭に幸福が到来するのだろうか----。教師としての無力さを痛感させられた。そしてなお「教育」の力を期待せずに居られぬのであった。
 いろいろな環境の子供たちをかかえ、よたよたとよろめきながら私は歩んで言った。子供たちはガサツでこすっこいところはあったが、元気がよく可愛かった。文化の恩恵に浴することの少い子供たちは、暇を見てはしてやる紙芝居をとりわけうれしがった。その紙芝居を見ながら「先生まだあといくつある。いくつ」と心配そうに聞くのである。度々せがまれるたびに、以前の学校から紙芝居を借り出した。本を買って持って行くと、いち早く見つけ、「あ、先生が本買ってきた」と叫び手をたたくのであった。休み時間は私の机をとり囲みいろいろな話をした。そして必ず女の子のだれかが、かがみこんで、「先生のあしすべすべする」と言いながら、ナイロンの靴下をはいた私の脚をさも大切そうにさわるのであった。 村のようすも大体わかってきた。西に東に広がりを見せる九つの字(あざ)、せちがらい世相をよそに、四季折々の自然は美しかった。この山坂を越えて子供たちが学校へ通って来る。勉強は嫌っても、めったに休むことはしない。五十分もかかる遠い字から、橋を渡り河原をよぎり、少しぐらい頭の痛む日も子供たちはやってくる。心にかけながら家庭訪問がなかなかできない。雑事に追われてばかりいることと、自転車も役に立たない。遠い家が多いからだ。それでも今までに三分の二の母親や、父親と話し合う機会を得た。何一つ覚えない学習遅延児の母親とも家庭訪問を通じて仲よしになった。授業参観にこの母親の姿を見ないことは一度もないほどに。
 誰一人として知る人もいない、四月当初のあの孤独感は今は失われかけている。広い山村のあちこちにぽつん、ぽつんではあるが、心の通う母親たちができつつあるからだ。(菅谷小学校)
     埼玉県教育局『埼玉教育』1956年(昭和31)12月掲載


大東亜戦フィリッピン奮戦記(越畑・久保寅太郎) 1995年

2008年12月05日 | 戦争体験

 昭和十九年(1944)九月十日召集令状を受け十五日歓呼歓声に送られ愛する妻と別れをつげ嵐山駅を出発征途についた。そして赤坂の部隊に入り三日後に部隊にて妻の姿を見た。その時の心境たるや言葉にいえないものがあった。部隊名は威一四二〇八部隊であり、そして秋とはいえ夏服が支給された。同志達はすぐに戦火の激しい南方戦線なることを口々にした。そしてまもなく品川駅より戦争物資と共に東京を後に列車にて広島に到着し早速輸送船に乗り込み二昼夜位であったと思ふ。到着した処は中国のウースンであった。そこに一夜停泊して満州孫呉よりマニラへ向ふ東京出身の第一師団と合流し船内は身うごきも出来ない程の超満員となった。再度出発目的地は大東亜戦最激戦地フィリピンのマニラであった。そしてこの船団は五千屯級の五隻の船団であった。十九年の秋といえば最悪の激戦区台湾沖を通過ですから広島を出発してよりマニラまで二十八日目にて無事五隻共到着した。その間五隻は敵船団ではないかと友軍機が哨戒したら驚くことに遊軍船団とのこと当時はいくら内地より送り出しても一隻としてマニラに到着しておらず驚かれた。当時は制海権は米軍に握られていたことが想像できると思います。そして軍団は一たんマニラに上陸したが第一師団は再度乗船しすでに米軍が上陸を開始しているレイテイ島へと向けられ水際で玉砕されたことを聞いた。我々の部隊はマニラのリザール公園野球場スタンドで戦地の一夜をすごしたが早速米軍戦闘機グラマンにより機銃掃射を受け驚いた。それより南部ルソン島を轉戦、始めてマラゴンドンと云ふ町を襲撃したが実弾の下異国の夜をさまよい身の危険と恐ろしさを痛感した。ひたすら神に祈るのみであった。その時始めて戦友の一人が戦死した。その遺体を私と戦友二人で後方友軍まで運び隊長より表彰を受けた。始めて見た敵弾には想像もしなかった閃光弾がまじり飛んで来るので敵からこちらが昼のよう丸見えになるのには驚きの一語であった。そして命からがら駐屯していた地に戻った。何しても常夏の国であり馴れない野戦場の毎日が続く。それより強行軍がつゞき南部ルソン島の町レガスピーに到着した。戦火をのがれ町は人気のない無気味な町であった。その間何回ともなく空襲を受けた。レガスピーよりマニラを目ざし轉戦となりその中間位と思ふテルナテと云ふ町に陣地をかまえてしばらくの間この地ですごした。この頃はまだ戦火が余り激しくなかった。そして内地では想像もできない裸での一月をすごした。近くの田圃は稲穂に又空田にと色々の状態であり南方常夏の国ならではの風景であった。しばらくして戦火も激しさをましこの地を後に強行軍が開始された。この時負傷した者あるいは病弱者は少量の食糧を受け涙の生別れを告げ、さらに敵中突破の強行軍が続いた。いよいよ米軍の攻撃は日に日に激しさを増す。天下無敵の軍教育を受けた我々には夢にも思はぬ米軍の威力を目の当たり見たとき驚くばかりであった。土民軍及び米軍のすべてが小銃を始め自動式及びそれ以上のすぐれたものばかり。我が日本軍とは装備に於て雲泥の差であり話しにならない。ただ大和魂のみであった。ある台地での応戦の時であった。長い南方一日中朝から晩まで呑まず食はず。飛行機からは機銃掃射又海上からは艦砲射撃。これが一番おそろしい。なんとしても一発ごとにおちる処が違ふからであり互いに声をかけても返事のない者はごみと一しょに空中に散ってしまふ。それに対して野砲の弾は一ヶ所にきまっているので安心だ。たゞ最後に焼夷弾がうちこまれ一面火の海となり、身体のおき場のない程であった。あの手この手の攻撃に戦友達もどんどんと消え恐ろしい毎日が続いた。長い一日が終り夕暗やみがせまると生残り同志で明日も又生きようと誓ふけれど野辺の露みたいのものであった。この時の戦友達の年令は二十六才と二十七才の新婚さんばかりであり、毎日のように戦死及び病死で消えて行く。我々数少ない部隊もそれより山中にたてこもり戦火をのがれ、今までから思えば静かな日々を送った。しかし食糧がなく遠くはなれたの夜襲等又は畑作物の陸稲及びさつまいもの盗み取りをして毎日を送るこれ又命がけであった。此の頃だと思ふ。米軍よりポツダム宣言のビラ、それに東京大空襲の焼跡の画報、いづれもカラーであり無数に空からまかれ、中には捕虜になった戦友達の楽しげな生活の写真あり、お前達も早く投降してこのようになりなさいと書いてあるけれど誰一人と信ずるものはなかった。そして又兵隊さん御苦労様今より砲撃しますからとのビラが舞ふと同時に激しい砲弾が身辺に炸裂する話のようであった。そして此の地に居ることは出来ず又死の行軍が始まり最後の地マニラ湾入口にあたる右側の山深い通称三〇〇高地と云ふ深山にたてこもる。此の頃よりフィリピン戦線も終盤を迎え日ごとに米軍の攻撃の激しさは空と海上共にマニラ湾をうめつくした。対岸あった最後の要塞コレヒドールは二回に渡り猛攻により全島火を吹き陥落しそして友軍の玉砕の姿を目の前で見た。此の時のマニラ湾は空は限りない空軍機又海上は艦船であふれんばかり猛攻撃を受けた。米軍の威力にはたゞ驚くの一語である。そして間もなく我が方に攻撃が向けられ命からがら逃げるのみであった。大東亜戦争の最大の激戦地であったと思う。旧満州関東軍の精鋭部隊及び内地から等百万人近い軍を向け内地への侵略をくい止めようとしたが及ばず、終戦の連絡を受け収容してみたら二十万人位であったとのこと。如何に激戦であったことが察しられと思います。この終戦の連絡も一ヶ月遅れの九月十五日頃であったと思ふ。しかし敗戦とは誰れも信じられず米軍の謀略と思っていたら心実であり驚くばかりであった。そして収容所生活を一ヶ月ばかりして帰還となりマニラ港より迎えの紫雲丸に乗船し久し振りに見る海上からの富士山を見た時は感激そのものであり涙が浮かんだ。そして浦賀上陸したが米軍支給の服にPWと書いてあり子供達にもPW*が帰って来たと笑はれた。そのまゝ変り果てた列車に乗り夜遅く夢の我が家に到着家族に泣いて迎えられ長い一年二ヶ月であった。帰還は昭和二十年十一月二十五日。


  *Prisoner of War。戦争捕虜。
     筆者は1919年(大正8)生まれ。嵐山町報道委員会が募集した「戦後50周年記念戦争体験記」応募原稿。『嵐山町博物誌調査報告第4集』掲載。


知らなかった終戦の日(菅谷・村瀬信子) 1995年

2008年12月05日 | 戦争体験

 日本橋にあった父の店と、祖母の家が3月10日の大空襲で焼け、その悲惨さにおどろいた父母と3姉妹は、とりあえず我孫子のゴルフ場近くの農家に疎開した。1ヶ月近く家財道具や布団まで背負って何度か往復している中に、今度は4月13日田端の住居も焼けてしまった。その夜は我孫子から東京方面の空がまっ赤な炎に包まれているのを見て半ばあきらめながら明くる日、田端へ行った。
 見渡す限りの焼野原、まだ残っていた家財は防空壕に入れたり井戸にしきりをして入れた細々とした物以外はすっかり焼けていた。その後暫く焼け跡でドラムかんのお風呂に入ったりして過したが今度は爆弾や機銃掃射がおそって来た。あきらめて山の中に東京の借家2軒をこわして小さい家を建てた。大工さんも見つからないは、知り合いの人に強引に泊りこんでもらって私達も手伝ってやつと形が出来上りかけたのが昭和20年の8月だった。近所の左官屋さんが約束の日を過ぎても来てくれず父が様子を見に行くとその人いわく「もうがっかりして何も手につきませんよ」それで初めて、天皇の詔勅があって戦争が終った事を知った。今では駅や学校も近くに出来て家が沢山建っているが、その頃は山の中の一軒家でまだ電気も入らず情報が全然伝わらなかった。
 家はどうにか出来たし、田端の土地は小学校に近いので半分緑地帯に取られると云われそのまま東京へはもどらなかった。あの頃は早い者勝ちで居すわってしまうと争ってもなかなか勝てなかったようで父母の苦労は大変だったと思う。
 あの難解な詔勅を初めて聞いたのは、それから何年かたった後の事でした。


     筆者は1926年(大正15)生まれ。嵐山町報道委員会が募集した「戦後50周年記念戦争体験記」応募原稿。『嵐山町博物誌調査報告第4集』掲載。


戦後五十年に思う(古里・吉場雅美) 1995年

2008年12月05日 | 戦争体験

 思えば昭和十九年(1944)同期兵百七十人の寄せ書を頂き各部隊にと別れ南国に又大行山脈の岩肌に多くの戦友は若い命を散らした。
 特に十九年濠北戦線に転進後は征空征海権の全く無い戦場に特に徒手空挙に等しい劣装備のまま優勢なる連合軍の真正面に投入され戦友の実に九十五パーセントを失ったのである。三大隊も「ビャック島」で玉砕して戦友飢えて密林を沈んだ戦友の思えば五十年忌に当る意義ある年である。
 昭和十九年三月南方派遣の命を受け青島に集結のち陸路朝鮮釜山港より私物に髪や爪等を同包手紙も家族に送った。三日間の揺揚作業で八隻の輸送船に物資満積し、我等第一大隊は任地西部ニューギニアに向け前進しました。
 四月二十六日真夜 バーシャル海峡にて楓部隊は雷撃にて撃沈さる。海面火と化し全滅した。
 五月六日 我々の乗船亜丁丸七、五〇〇トンはセレベス海に於て敵潜水艦の雷撃を受け二分間にて沈没す。同時但馬丸と天津丸にも命中共に火炎に包まれ瞬時にして沈没した。救助は七日朝まで績行され少人数や単独で漂流した者は発見し難く犠牲者となった痛ましい場面も見えた。難を免れた船は海難者の救助につとめた。
 五月九日 ハルマヘラ島「ワシレ」に入港して生気をたくわえた。再軍備してニューギニアに配置された。半年前に上陸した兵士は湿地帯に丸太を敷き歩道を造ってくれた。暗闇の中で揚陸開始となり密林を七〇〇米以上集積所まで必死で運び疲労も後まで績き思考力も気力も喪失し樹木の中で仮寝した。物資も下し過ぎ船にもどす有様。命により如何に作戦が混乱していたかが想像出来るが何を云っても命令は命令そのうち北岸作戦目指して進行とか其の後二大隊と三大隊共に応援支援と合流奮闘したが支隊と共に連合軍の猛攻を受けビアック島でも玉砕の報も入り、第一大隊は主力が北岸作戦に出撃したが後方からの補給も全く絶えた。次から次にと病人も蔓延し尊い命が失われました。本隊もジャングルの陽も見ない湿地帯で食と戦い兵士は脚気、マラリヤ、赤痢や皮膚病等にかかり一個中隊で四名も五名も病死し悲愴な姿。髪も殆どぬけて我が生死は刻一刻と運命の日を待つ有様であった。白水の墓標は日、一日と増え一寸角の箱に名記し親指のみ切断し焼いて納め他を埋葬しました。
 死の寸前には何か食べたいと云い残す者も多く見られ、我が同期兵も六十七人いたのが残るは唯、私一人となり若くして祖国のため全員が帰らぬ南方の土と化した。これらの戦友に対しても真の平和を祈るものである。
 実は本年二月二十六日の事、滑川町の松寿荘に於て戦友会の席に、姉妹会を四人で開き嵐山町の勝田の杉田松夫という者の様子を御存じの方は居ませんか、と急報あり折よく同町の私はこの旨を告げた。松夫さんとは救われた船内で数分話した時の様子を申すと四人の方は何時かは話の聞ける日もあろうと心境を語った。今晩皆様に話し合えたのも亡き兄の導きであろうと、五十年間も身から離さず持ち績けた入営当時の写真に向って咽び泣きながら報告した。兄思いの妹さんの清い心根に一同感動したのであった。松夫さんの死の様子は分かりませんが、北岸作戦の際サンサポールに於て本県熊谷市宮町出身の大隊長岩村宕郎二十六才の戦死の時敵の猛攻により多数の犠牲者が出た。その時ではないかと云う者がいた。この作戦では殆ど全滅した。本隊復帰された大隊副官の永田隊長以下二十八名のやせきった姿などを思う時、二度と戦争を起こしてはならないという願いを強くする。
 当時の暗黒な思いを決して風化せず過去を反省し、学校に社会に伝え、具体的な平和教育を通じ明るい未来が見える様努力する事を心よりお誓い致します。


     筆者は1922年生まれ。嵐山町報道委員会が募集した「戦後50周年記念戦争体験記」応募原稿。『嵐山町博物誌調査報告第4集』掲載。


嵐山町が戦場になった話(広野・宮本敬彦) 1995年

2008年12月05日 | 戦争体験
 「嵐山駅銃撃さる!」今の時代ならば新聞やテレビなどマスコミが大騒ぎするであろうこの事件も当時ではあまりにもありふれたこと、新聞にものらず、まして五十年たった今日では人々の記憶もうすれて銃撃事件を知っている人も少ないのではないかと思います。
 昭和二十年七月中旬のある晴れた日【7月28日】、私は家で晝食をたべておりました。と広野の上空に突然はげしい飛行機の爆音、と同時にバリバリバリというすざましい機銃掃射の音、私は思わず座ぶとんを頭に外にとび出しました。しかし敵機は一撃だけで飛び去ったらしく機影は全く見あたりません。
 丁度このとき近くの田んぼで田の草取りをしていた永嶋慶重さん、白い帽子に白いシャツ、一番敵機にねらわれやすい姿でしたが、あわてて水田に伏せたので、ずぶ濡れの泥だらけ、それでも元気な声で「金鵄勲章もらいそこなったい!」(注1)といったので心配して集って来た皆、安心したのとそのかっこうのおかしいのにドッと大笑いしました。
 このときの敵機は硫黄島からやって来たP51で、嵐山駅をねらったようでした。私の七小同級生松本勇君は嵐山駅に勤務中この事件にあいました。たまたま貨車の入れかえ作業中だったからたまりません。射抜かれて蒸気を吹きあげる機関車!彼の走る先々に土煙をあげる機銃弾!それでも幸い肩に銃弾による擦過傷を受けただけで国民義勇隊員(注2)として戦死することはまぬかれました。
 今は亡き永嶋さんや松本君にこのときの話を直接語っていただけないのが残念です。それにしてもあれから五十年!今しみじみと平和の尊さをかみしめているこの頃です。
(注1)金鵄勲章=軍功のあった軍人軍属が受賞する勲章で受賞者は戦死者に夛い。
(注2)国民義勇隊=昭和二十年七月頃(?)発足した制度で鉄道職員は全員隊員とされた。
     筆者は1929年生まれ。嵐山町報道委員会が募集した「戦後50周年記念戦争体験記」応募原稿。『嵐山町博物誌調査報告第4集』掲載。