GO! GO! 嵐山 2

埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

蝉の鳴声が印象的であった(越畑・福島 和) 1975年

2008年07月29日 | 戦争体験

 連日連夜の空襲警報で肉体的に特に精神的にくたくたと綿のようにつかれた体を、あの夜もすぐ飛び出せるようにズボンをはいたまま、巻脚絆を巻きつけたまま、うとうとするうち空襲警報のサイレンの断続的なウウーウウーウーに、ああ、またかと云うようなすてばちな気持のうちに、ねぼけまなこで反射的に飛び起きる(当時は夜は電灯を全部、布でおおいをして真下でないと本も読めなかった)。灯を消してあるのだが暗さには目は、なれていた。身支度を整えながらラジオに耳をそばだてる。 当時はラジオの性能は敵に電波をキャッチされないようにとかで厳しい電波管制がしかれていて音、感度も最悪でブツブツといったような雑音の中に「ガー東部軍管区情報、東部軍管区情報、敵B29何機は……」と聞き終わらぬうちに何時もとは違ったあわただしい雰囲気の中にドドドドーンという爆発音と共にあたり一面が急に真昼のように明るくなった。 急いで家の北側の防空壕(どこの家でも当時は必ず一つは防空壕を掘らされ、この中にちょっとした衣服や非常食糧を入れてあった)に飛び込む。それ迄は一度も壕に入らず遠くの空襲で燃えている光景を近所の人々と共になんだかんだと噂しながら眺めていたが……。続けざまにゴーッというものすごい爆音と共に(多分B29が相当低空から爆撃したのだろう)、壕のわきに作付けてあった唐もろこしがザザザーッと横になびく。雨が降っていたような気がしたが、急にガソリンの匂いが強く感じられる。真昼の如く青白く、そしてゆっくりとあたりを照らしながら落ちてくる閃光弾。三〇乃至五〇平方米に一本位づつと考えられる。油脂焼夷弾が次から次と落下し、家々の屋根をつきやぶり、丁度床の上で止まり、またたく間に、燃え拡がる。当時私は敵の心神経戦略であると知らされていた。連日の本土襲来にすっかり神経が疲れ果てて(襲来する時間は人々が丁度寝込む一〇時頃あたりから)、すべての感じ方がなんとなくにぶくなってしまったのか、しばらくの間、身の危険も考えず燃え広がる光景を見まわしていた。 その中に家の南へ二軒目の家だったと記憶するがガラス戸越しに床のまん中に焼夷弾が一本、それこそ発煙筒のようにもえ始めているのを発見。家の前に積んであった砂袋をいくつか投げつけてみたが効果がなく、バケツで水をかけて見たが全然消えるどころか、ますます火勢は強まるばかり(当時は隣組、班単位で防空演習が毎日の如く行われていたが、若い男は勿論、男という男はほとんど見ることはまれであった。今回は前の○○さん、次の日は横の誰々さん、それも体格が誰が見てもとうてい兵隊さんにはなれないと思われる人にも召集令状が来て日本の窮状をまのあたりに見る状態であった。故に女、子供で主に行われた。時たま憲兵が視察に来て何かと注意していた。又毎戸強制的に貯水槽、バケツ、砂袋を備え置くことが義務づけられていた)。そのうちに家の人の呼び声で初めて危機感を憶え、布団をかぶり、有明荘の裏、桐の木のそばの壕に避難した。 その時に雨がふっていたのか?服と布団のぬれていたのが避難する途中、まわりの焼ける熱で乾いていた。又有明荘のわきで若い女の人三、四人バケツで一生懸命ハシゴを使い、チョロ、チョロもえ始めていた火を消していたのが思い出される。壕の所は、表通りから約五、六〇メートル離れた処で、ついたとたん左足がづぶりと土の中へ、とたんに「あゝっ」声が下から聞えた。壕のそばには一二、三人位だと記憶する。 又多分弁天町あたりの人だと思うが、子供の「母ちゃんがいないよう、いないよう」と泣きわめきながらもえさかる方へ行こうとするのを「大丈夫!後でみつかるよう!必ず見つかるよう!」と無理に引き止めていた声が今も耳にこびりついて離れない。 それと現在の八木橋の右よりあたりと記憶するが、まるで仕掛花火のようにくっきりと鮮明に屋根の形もそのままにすべて骨だけが赤く燃えさかり、ものすごくきれいであったことが眼の底に焼きついていて忘れられない。悪夢のような一夜もこれ以外のことは全然記憶にのこっていない。 八月十五日、あの日は昨夜の出来事をまるですっかり忘れたかのように晴れ渡った。そして真夏の太陽がじりじりと照りつけあたり一面すっかり焼け野原と化し、鎌倉町から熊谷駅の一部が良くみえ、そしてガチャンポンプだけがニョキッと取残され、これからはき出た水の冷たくうまかったこと。家の裏にある桐の木にどこから来たか蝉が我が世とばかりミンミンと鳴いていたのが印象的であった。 正午過ぎ、誰とはなしに陛下の玉音放送で戦争が終った。アメリカ軍がやって来て皆殺しにされてしまう筈のデマが伝わったが、何かほっとした気分であった。 艦載機P51一機がものすごく低空で飛んできて飛行帽をかぶったアメリカ兵の姿がはっきり見えたのを茫然と見送ったのを憶えている。 数日後荒川へ行ってみると、五、六平方米に一本ぐらいづつ焼夷弾の、又わけのわからぬ金属の破片があたり一面に散らばっていた。これらを町の中にまともにうければおそらく熊谷市も全滅であったに違いないと思った。自転車のパンクをはるのに油脂焼夷弾の生ゴムをひろって来るのだといっては、危険をおかして拾いに行った人もいた。 あれから三〇年、整然と区画整理され近代的なビルの立ち並ぶ大都市熊谷から戦災の姿を見出すことはむづかしいが、これまで断片的に思い出すままに綴って来た戦災の体験を我が子、現代の人々にとっていくらかなりとも参考になり、再びこのような悲惨な歴史をくり返さないよう御役にたてば幸いである。
 
熊谷市文化連合発行『市民のつづる熊谷戦災の記録』(1975年8月刊)316頁~318頁より作成。筆者は1928年生まれ。当時、熊谷市鎌倉町四丁目在住。1945年(昭和20)3月、熊谷商業を卒業、東京製綱(株)熊谷工場の試験部に勤務していた。


君の名は(越畑・福島和) 2005年

2008年07月29日 | 戦争体験

「忘却とは、忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」 懐かしい連続ドラマ「君の名は」の冒頭のナレーションである。 敗戦色濃厚の昭和20年(1945)6月頃、私が勤務して間もない軍需工場、東京製綱(株)熊谷工場の試験部(現在の熊谷商業高校や広瀬住宅団地)にも、学徒勤労動員された熊谷桜雲女学校の生徒さんがワイヤーロープなどの試験業務に従事されていた。ある日、空襲警報と同時に、アメリカの小型戦闘機P51により突然機銃掃射を受けたことがあった。ダダダーンと耳をつんざくような激しい銃声に防空壕に逃げ込む間もなく、皆、工場の片隅に防空頭巾で耳をふさぎ、互に身を寄せ合い恐怖におののいていた。 しばらくして銃声が止み爆音が遠のくと、ほっとして我にかえり、生徒をかばっていた手をはなした。ほんのりとほほを紅(あか)らめ、そしてにこっと微笑(ほほえ)んだその清純な顔、今も忘れられない。激動の青春時代を過ごさざるを得なかったあの生徒さん達は、その後、幸せな人生を送っているのだろうか。 なんだか、「君の名は」のストーリーがだぶっているような我が人生。忘れ得ないでこれからも有意義な日々を送っていこうと心がけている毎日である。(参考)右の工場は軍事秘密保持のために「皇國四五九三工場」とされていた。                                                               
     熊谷商業卒業写真(1945年3月28日)

  『朝日新聞』声欄に投稿(平成16年11月24日)した原稿を平成17年(2005)7月24日に改稿。筆者は1928年生まれ。当時、熊谷市鎌倉町四丁目在住。1945年(昭和20)3月、埼玉県熊谷商業学校第23回卒業(甲種第6回4年制)。東京製綱(株)熊谷工場の試験部に勤務していた。


私の軍隊日記(勝田・伍長・田中隆次)

2008年07月28日 | 戦争体験

  「は号研究」班
 昭和十五年(1940)三月一日、千葉県市川市国府台の独立工兵第二十五聯隊に現役兵として入隊、この中隊は電気中隊で一万ボルトの発電車を持ち前線基地に電流鉄条網の敷設或は破壊された市街等の電気設備の復旧等前線に於ける電気設備一切の作業に従事する部隊であり、第三中隊は写真中隊で主として航空機による撮影写真を地図に作る作業に従事する部隊であります。私の入隊しました第二中隊は作井中隊で前線或は駐留地区に於けるボーリングに依る部隊用水の確保が主でありましたが国際情勢風雲急を告げる昭和十五年夏、即ち私の入隊した年に於て参謀本部より機密指令として「は号研究」を下命され、これに基づいて訓練が行はれた訳であります。この「は号研究」とは、東南アジアに於ける石油資源の確保及びこれに附帯する諸施設に関する研究であります。今少し具体的に申しますと、当時蘭領印度支那(今のインドネシア)には年間約三〇〇〇万屯、又その他の地区に約二〇〇〇万屯の石油資源が産出されて居り日本の軍部がこの資源を対象として研究を命じたものであります。斯く私達の部隊で、幹部以下全員が何等かの技術を持った者で構成され我々はその第一回目の初年兵として教育を受け、特に内務班の教育を受け、特に内務班の教育に就ては他の部隊とは比較にならぬ程に峻厳を極め、又専門教育も非常に多く我々初年兵は戸惑うばかりでした。
   流れも清き江戸川の富士が嶺仰ぐ台の上
   秀麗の地に皇軍の重き使命を但いつつ
   科学の粋を集めきて生れ出でたる吾が部隊
 部隊歌に唄はれて居る様に、東京の街を越えて富士を眺む国府台の地に初年兵として、そして教育隊員として、或は教育掛班長として満三ヶ年を経過致しました。その間、小川町日赤病院、大宮市日赤病院、参謀本部、陸軍省、茨城県勝田の日立製作所等関東全域に亘り重要施設の作井、又静岡の相良油田、新潟の新発田油田、千葉の茂原天然ガス油田等に於て石油資源の研究実習を重ねた次第であります。

  パレンバンの生活
 昭和十八年(1943)三月一日補充兵五十四名と共に野戦作井第五中隊に転属を命ぜられ広島宇品港を出航、台湾、シンガポールを経て四月十二日スマトラ島パレンバンの任地に到着、戦地に第一歩を印しました。このパレンバンには精油所が二ケ所有りまして私の部隊のおりましたKPM精油所は開戦間もなく落下傘降下で有名であり、私の部隊も当時ムシ河より敵前上陸を敢行しこの地区を占領した部隊でありました。一辺十粁以上もある整然と区画された広大な地域に精溜塔を始め諸設備、貯汕タンク等が無数に並び大した戦禍も受けずに占有されており偉観を誇っておりました。この地に於ける生活は誠に快適であり、食料を始め全ての物資が豊かであり、敵の攻撃もなく我々はひたすら石油の生産に励げんでおりました。ただ私の任務は一日一万余の出入者のあるこの広大な地域の衛兵であり盗難、謀略等には細心の注意を要し、非常に神経を使った訳であります。

  チモール島の採油作業
 昭和十八年(1943)七月中隊より選抜された我々六十三名は採油隊を編成し濠北派遣軍の直属部隊としてジャワ島を経て小スンダ列島の最東端にあるチモール島に於ける採油作業及び油田開発を命ぜられ、その任に着く事になりました。このチモール島とは濠州大陸の北端より約六〇〇粁の地点にあり東西約五〇〇粁、南北約一〇〇粁の細長い島で南緯十二度の線上にあり日本軍進駐の最南端に位置し所謂最前線だった訳であります。全島珊瑚礁で出来、これと云った産物もなく当時の人口二〇万足らずの土着民が居住しておりました。この土人達の生活の一端を申しのべて見ますと、衣類は男女共ほとんど裸で褌一枚と云う程度、地質の関係上水が少く従って体、頭髪、顔等は洗う事はありません。食料はとうもろこしのお粥を一日二食少量づつ、その他山の芋少々程度。住居は竹の柱に茅の屋根、部屋の間支切りはアンペラ一枚、床は竹の割ったもの。普通は土間に寝起きするのがほとんど。文字、絵等は知らない者が大部分で、村、区等の行政の制度は有りますが全部土候の専制支配下に置かれており先づ世界最低の生活程度であったろうと思はれます。島を離れる迄の丸二年間の我々の生活も、これらの者達を使って居った関係上似たり寄ったりであった訳であります。
 このチモール島に到着したのが七月二十五日夕刻、我々の下船を待たず爆撃機十数機による歓迎の御挨拶、命からがら上陸、我々の乗って来た五千余屯の船はその場に沈没され、斯くしてこれから満二ヶ年間は朝に、昼に又夜に毎日欠かす事のない爆撃の連続を見舞はれる次第となった訳であります。

  爆撃で足を負傷
 確か九月初旬の或る夕刻、船の到着により資材揚陸のため、クーパンの港は兵員、土人等五百人程で相当混雑しておりました。然も揚陸作業は夜間のため仲々に捗らず、敵の爆撃機がこれを見のがす訳はありません。早速十数機によるお見舞です。兵員の行方不明者続出、折角の荷揚げ物資も粉々と散り、火の海と化し、我々はこれが消火作業に懸命となっておりました。敵は波状爆撃を繰返して来ます。その間約六時間、延べ六、七十機は来たであろうと思はれます。至近距離に爆弾の落下する事数回、我々は夢中で働きました。東が明るくなる午前四時過ぎ敵機も去り、我々も部隊員掌握のため集合致しました。「分隊長、足を如何しました」、云はれて左足を見ると軍袴も袴下も巻脚胖も股から下はぐっしょりと真赤にぬれ膝の上が二〇糎程破れ、肉がパックリと口を開けておるではありませんか、私は少しも知らなかったが爆弾の破片による動脈切断だったのです。その後爆風による気絶三回、防空壕の中に生埋め二回延べ被爆八〇〇回程は有ったろうと思はれます。

  斬り込み隊を編成
 任地に着いた我々は先づ精油所の開設、油井の復旧、又油田がほとんど山岳地帯で作業機が運搬不可能のため手掘りによる油井の開発、被爆による復旧作業或は全島に亘る油資源の探索等日夜を分たず採油作業に努力して参りました。昭和二十年(1945)に入るや味方の航空機は全然姿を見せず、我々採油隊と河を隔だてた向う山には敵の陣地が出現夜などは電灯の光が煌々と輝き時には濠州兵の姿も散見する事もありました。又島の周辺には敵の潜水艦が平然と浮上し、爆撃機の編隊は悠々とフィリッピン方向を目ざして飛行して行きます、時々威嚇射撃をする程度でもう爆撃は致しません。この様な情況下で食糧補給の途は断たれ、従って食料も日々少なくなり、野草、野生動物が栄養の補給源となった次第で、これにより病気も益々猛威を振い、一時は作業員三名という最悪の事態ともなり、能率も低下の一途を辿り任務の遂行も危ぶまれる結果となって参りました。四月に入るやニューギニアのビアク島に転進した中隊本部は長以下全員戦死の報も伝わり、フィリッピン戦線その他の地区の情況等も風の便りに聞え始め、幹部以下心の動揺を覆いきれないものがありました。
 昭和二十年(1945)七月十三日軍司令官の命により我々は任務を解かれ全ての採油機材を海中に沈めジャワ救援のため斬込隊を編成しチモル島を離れました。これより島伝いにジャワに向け行軍が始まりました。即ちバンタル島、ウエタル島、フロレス島、スンバワ島と島の間は小舟を利用、他は全部徒歩、然も爆撃を避けるため夜行行軍です。同じ命を受けた各部隊が入り交り蛇々と列は続きます。体力の衰えた兵員はばたばたとたおれます。終戦を聴いた九月始めには我々の部隊は私以下八名となりフロレス島に到着致しました。ここに於てオランダ軍の下に武装を解かれ収容地であるスンバワ島に向け行軍、十二月二十三日目的地であるスンバワブッサルに到着、終戦処理事務に入りました。この行軍の間、私の任務である命令受領、伝達、人事功績関係連絡事務のため行軍距離三〇〇〇粁以上に及んだものと考えられます。現在では到底考えられない行軍だった訳であります。

  紺碧の海よ南十字星よ
 斯くして昭和二十年(1945)も暮れ、この地に集結した人員は約四万、その三分の二は病人、ここに於て病気栄養失調等で斃れた者約半数近く、何時帰国出来るかも解からぬまま現地自活を余儀なくされた訳であります。
 【昭和二十一年】五月に入るや帰国の報も伝はりその準備事務のため私も選ばれ毎日の司令部通い、和、英文による留守宅名簿及び乗船名簿の調製です。就中乗船名簿は一字の訂正も許されず、通し番号で五通のコピー取りです。この仕事を八名の書記で行った訳ですが、死亡者の出る度毎に全部書き替えを要求され三万に近い人員ですので徹夜作業も幾回となく繰返される事がありました。併し我々は書類不備のため帰国出来ない人の無い事を願いつつ、薄暗いローソクの灯の下で懸命の努力を続けました。
 五月十三日乗船名簿に私の名が記される時が来たのです。一字一句も間違いのない様に書きました。五月十五日乗船、師団長以下数名を残し残留者はおりません。我々は任務を完遂しました。再び訪れる事の無かろうと思はれる南の島スンバワ島を後にしました。
 フロレス海の碧かった事、南十字星が次第に水平線に近くかくれて行った事、忘れる事の出来ない人生の一駒です。私の軍人としての任務はここに全く終りました。南冥の島々に永遠に眠る戦友達の冥福を祈りつつ筆を擱きます。
     嵐山町報道207号(1970年9月25日)「終戦二十五周年記念特集号」掲載


第二十七師団極二九〇二部隊記 長台関の悲劇(古里・兵長・田島 菊)

2008年07月28日 | 戦争体験

  南満から北支の前線へ
 中国を北から南に縦断し更に中支まで戻った時、突然思いもかけぬ終戦を迎えた、おまけに約一ヶ年半誰も外部からの通信を出すことが出来なかった。農村や職場を離れ、日夜顔を合せていた肉身とも別れて遠い異国の大陸で私達が個々に体験した事柄は私の記憶からうすれるにつれ歴史から消へ去って行くのである。その事を少しずつ思い浮かべて書いて見る事にしました。昭和十八年(1943)一月東部八連隊に入隊、下旬には釜山から京城奉天を通り北支唐山に下車こゝで約半年教育を受ける、十九年(1944)三月綿洲から少し西に当る綿西という所に二ヶ月ばかり南満とは言へ大陸の寒さは万物を凍結し尽くし零下二十度の中で毎日戦闘訓練だ。ある日訓練が終って半土窟式の兵舎についた時出動命令と云う事で緊張と多忙の日が三日程続いた。兵営の附近の民にも平常と何ら変りなく事を運ばなければならない。いよいよ出発の日だ。各隊は黙々と集結する。真夜中の十二時月の無い小雪模様の晩だった。氷点下二〇度車中には敷藁が充分入れてあって客車より楽だと思った。京漢線を南下して居るかソ満国境か、それとも支那に行くのか見当がつかなかった輸送列車からおりた場所は泌陽城外だった。さすがこの辺は満洲と違って、もう麦が四、五寸に伸びていた。久しく緑の色彩に飢えていた私達をこの上なく楽しませてくれた。故郷を思いながら露営に移った。三日ほどでまた移動命令。この辺からはもう鉄道も道路もところどころ寸断されて居る。時々銃声も聞えて来る。道傍には人間の屍体、牛車が転がって居る。中には一部白骨となって居るのもあり実に異様に感じられた。には一人前の男は先づいない。皆支那軍にとられ、日本軍の苦力にされてしまった。ただ老人子供がうずくまって行軍を見つめて居るだけ。食糧がないのか柳の木に登って若芽を食って居るのもあり馬ふんを水でこし麦を出しそれを食べて居る。本当に悲惨な土民の有様だった。後で聞いた話だとこれらはすべて餓死者、または寸前の者とわかった。

  ずぶぬれの強行軍
 一昼夜七十五粁の強行軍完全軍装をすると三十五粁位あろう。夕方出発し翌日夕方迄に宿営地につくという、毎日で五分間の休けいでも皆心身ともつかれ、所かまわずどっかとこしをおろし出発といっても背のうが重く一寸では立上がれない。ただ気力だけで、落後者も続出する。其の後二十三日すぎて、私は中隊の命令で連隊本部の計理に勤務するようになった。戦地での計理はあ宿営地につくと糧秣の分配内地からの慰問文、下給品等の分配で休むまもない。ほっとすると出発準備。いよいよこの頃になってからは通信も内地からの便りも遠ざかってしまう。なんといっても一番難関だったのは長台関である。京漢線が淮水を渡る地点が長台関である。前日夜行軍で予定より朝早くこの地点に着いて夕方迄休養し再び夜行軍で前進する筈だったところが物凄い雨にあい泥濘の通りが難渋を極め昼間一ぱい歩いて漸く夕方になってたどり着いたのだった。全員ずぶぬれのまま一昼夜歩きどうしで疲れきって居た。それでも淮河を渡れとの事情けないが己むを得ない。雨の中で一時間ばかり休んだきりで直ちに出発。鉄橋に通ずる道幅は十米位、師団の各部隊でごったがへして出発の時刻がメチャメチャになってどの部隊が先やら分らないどんどん横を通って追い抜いて行く部隊もある。真暗の中雨はザアザア降るし道いっぱいに部隊が並行して進んで行く其の内に段々先がつかえて前進できない。早く進めとどなる者もいる。前から後へ自動車部隊が前方でつまって居て前進出来ないと伝言されて来る道の両側は水田らしい、あたりは墨を流したような真の闇だ雨は相変らず衰へない。五月というのに腹の底まで冷えきって皆ガタガタふるえている。時々睡魔がおそって来て気が遠くなりそうだ。皆足ぶみを止めるな、軍歌を歌へと互にはげましあう。

  豪雨と暗黒の一夜
 天に代りて不義を撃つ、から露営の歌、歩兵の歌、愛馬進軍歌、師団、連隊、皇軍の歌等々。あとから軍歌が出るが皆疲れきってしまって、時々足下の水たまりにしゃがみ込むものが出て来た。隣の兵隊が激しくどやしつけて立たせるが自分もポーツとして生命も何もいらなくなってしまいそうだ。一時間、二時間それからどの位経ったろう、精神力も限界に達しかけて来た。遂に大隊長も意を決して田圃にはまらぬようにをさがして避難せよ。明るくなったら道路上に集合せよ。という命令が出された他の部隊との連絡が全くとれないし、その上雨にうたれじっとて居れば全員死ぬより他はない。前々日から歩きづめの疲労、二日間の徹夜、ズブぬれ、暗黒の不安、長時間の停止で実に百万の敵より恐しい事だった。然しこの豪雨と暗黒の中で民家をさがす事も容易でなかった。漸く水をかぶった畦道を見付けて田にはまらぬように家をさがしに行った。全く個人行動だ。どの位歩いたか、フト目の前の闇の中に家らしいものを感じたのでホットしてそこにとびこんだ。勿論中はまっ暗、それでも先客が何人か入っていた。マッチをぬらさずに持って来たらしく時々すってくれた。小屋は二間、三間位で小さな納屋だった。その中には馬も一頭兵隊が五、六人入っている。私が入った後からも続々とつめ込んで来て、せまい納屋の中にズブぬれの兵隊が二、三十人はいってしまった。馬が真中に居るのにその肢の下から腹の下迄人でつまってしまった。それでも後から後から入って来るが誰も断る者はなかった。ずぶぬれの身をうごかす事も来ずうつらうつらとして居るうちに、外の方が白んで来た道路上に出てみると全く目も当てられぬ悲惨な情景だった。各隊の捨てた荷物、ろ馬の屍体、それと牛の屍体少し行くと兵隊もいた。私の隊にもかえらぬ人もあった。他の中隊には相当の死者があったらしいとの事だ。私の戦友もかへって来なかった。どちらかといえば弱いほうで時々荷物を持ってやった。連日の雨で濁流が渦を巻いて居た。鉄橋の一部が敵に破壊されて自動車が渡れず、あとからあとから、たまったのだ。から身でも闇の中では渡れないはずだと思った。長台関の悲劇は陸軍の戦史でも珍らしい事だといって居た。この事は今でも時々思い出す度に身がちぢむようだ。
     嵐山町報道207号(1970年9月25日)「終戦二十五周年記念特集号」掲載


王家集陣地の防禦戦斗(菅谷・陸軍大尉・反町幸作)

2008年07月28日 | 戦争体験

  懸命に防禦陣地作り
 昭和十八年(1943)、中支派遣軍、十一軍主力(五個師団)は、ビルマ方面と対する中国軍の、兵力転用を索制して、南方作戦を容易にする為、中支の要衝である常徳(洞庭湖の西方)攻略戦の為、十一月二日より揚子江右岸から、攻撃を開始して、十二月四日、常徳を占領し、九日反転を初め、二十四日に旧態勢に復帰した。この軍を、あげての作戦に、一一六聯隊(新潟県新発田)は警備地の関係上、聯隊長の指揮する。第一大隊が参加し、第二、第三大隊は、聯隊警備区域全線を警備する事になり、十月二十五日頃から、それぞれの新警備地に移動して、敵の反攻作戦に備え、陣地の補強作業を実施した。この時私の属していた、第七中隊の一部は、中隊長の指揮する七十三名(重機関銃一個小隊、迫撃砲一個分隊、工兵一個分隊、通信一個分隊、配属)は、旅団司令部正面の、面積約一〇〇〇平方メートルの王家集陣地(沙市東北方約二〇〇キロの小丘陵地)を守備することとなった。守備隊は、「今流す汗と脂は、自分の命を守り、守備の任務を全うする事となる」をモットーに、連日朝早くから、夜遅くまで、地元民の協力を得て、約二〇〇〇メートル離れた山から、人力で運ぶ可能な限りの大木を伐採運搬して、配属工兵隊を中心にして、全員の創意工夫の限りを尽し、陣地の根本的補強工事をすると共に、防禦戦斗の訓練に全力を尽し、又陣地補修用の予備材も十分集積して、敵の来攻に対して、周到な準備を続けた。

  敵の夜襲を撃退
 十一月十三日頃から、地元民より敵の反撃の情報を得てから、の人が次第に少なくなって来たので、攻勢の近い事を知って、お互いに励まし合って、仕上げ作業を急いだ。十一月十七日頃から敵の姿が見える様になり、愈々来る者が来たと一同覚悟を新たにして、万全を期した。
 十一月十八日、十九日、威力偵察程度の攻撃を受けて、二十日から二十五日の間約三〇〇〇メートル、左方の第六中隊の陣地と、当陣地は山砲、重迫撃砲の集中砲火を受ける様になり、陣地内の諸施設はかなり破壊され、敵の反覆突撃を受けたが、その都度至近距離に引きつけて、予め計画準備した、重小火機の集中射撃で、多くの損害を与えて撃退した。
 十一月二十六日、当陣地への攻撃が急に撃滅すると共に、隣りの第六中隊への攻撃が激しくなり、特に二十七日は早朝から日没まで間断なく立ち登る砲煙につつまれている。陣地を望見して、苦斗の様子がうかがはれた。夜半に「守備隊長、松原少尉重傷、守備隊員全員戦死し、撤退せり」の報を無線で知り、思はず、カタズを呑んだ。この勢いで、愈々攻撃の全力が、当陣地へ来る事は必須なので、全隊長集合して、死守の覚悟を新にして配備の一部を変更し、交代で夜を徹して、陣地の補強に努めた。
 十一月二十八日、夜明けと共に陣地は全く敵に包囲されていた。八時頃から砲火の集中射撃は、愈々熾烈を極めて来て、陣地後方大隊本部との連絡路、及び最も大切な飲料水補給用のクリークが陣地後方三十メートルの場所に有ったが、これも総て、敵に占領されてしまった。日没になり、雨の降りそうな天候で真暗になったので、警戒を厳重にして、陣地の補修作業を実施していると、二十一時、二十二時の間に、陣地後方の鉄条網の数ヶ所にわたり、布団をかけて、反覆突撃をして来たが、その都度有効な集中射撃を浴せて撃退した。この夜襲で数回壕の直前まで突撃して来る。勇数な敵兵も居て白兵戦となった。

  精神力で頑張る
 十一月二十九日、黎明と共に集中砲火は終日甚だしく、陣地内の炊事場、食糧倉庫、貯水槽等が次から次と完全に破壊されて、貯水は一滴も無くなり、又連日の戦斗で戦死者五名、重傷者一五名となったので、大隊本部へこの収容と兵力の補充、弾薬、資材、食糧の補給と、水確保の為、来援を無線で連絡した。夜半大隊主力は猛烈な敵の抵抗を排除して、二十四時頃陣地近くに到着して、守備隊と手を握り、「御苦労さん、有難う」と声を交し、目的を達して引揚げた。この間守備隊は、かねて準備してあった。予備の材料で掩蓋及鉄条網の補修を能率的に実施して「よ―し、これで又やれるぞ」と斗魂を愈々高揚したが兵力の補充は五名であった。十一月三十日、敵は更に兵力、重火砲(特に山砲)を増加し、終日集中砲火を浴せて、根気強く反覆突撃をして来たが、前日の陣地補修作業が大変功を奏し、又防禦戦斗にも馴れて、敵の攻撃の方法に従って戦斗方法を変えて撃退したが日が重なるに従って火砲の数が増し、又突撃して来る敵の数も多くなり、一方守備隊は限られた陣地で、約十三日間の激戦が続き兵数は次第に減り、防禦施設は破壊されて、戦斗は愈々苦戦が増すばかりで、これを補うのは、不屈不撓の斗魂と苦しさをのりこえるねばり強さであった。夜になり激しかった砲火反覆突撃も一時止むと一瞬急にシーンと静かになり、硝烟の残った塹壕から思はず天を仰ぐと、祖国と変わらぬ星がまたたいている。この星を仰いで、同じ東洋民族同士がどうして、こんな死斗を続けなければならないのかと思いに耽けっていると又陣地の一角で、手留弾の爆発音が聞えて戦いが初まっている。

  死闘につぐ死闘
 十二月一日朝もやをついて、再び山砲、重迫撃砲等一〇数門の猛烈な集中砲撃が始まり、陣地は連続砲弾の炸裂で、黒煙と土煙に全くつつまれ、皆どこでどうして生きているかを、疑う程であったこの砲撃に加えて、一〇時頃から掩蓋の銃眼にブスードーンと云う未だ受けた事のない砲撃を受けて肝を冷やした。速射砲の目つぶし射撃で銃眼からの射撃は全く出来なくなった。
 又この猫額大の陣地へ、集中砲火は益々数を増し、丈余に掘った塹壕も、匍匐をせねばならない程に埋められた。又この集中砲火に膚接して、突撃に続く突撃を受けたが、陣地内の重、小、火機は全く使用出来なくなり、又戦死傷者も続出したが、自ら仮繃帯をし、戦死者の屍を乗り越え乍ら、手留弾と白兵戦で防戦する外なかった。
 特に十一時三十分頃から十三時までの、反覆突撃は、執拗物凄く終に陣地に一部に敵が侵入し、指呼の間に突進して来た。この時配属重機関銃小隊長、市橋少尉は附近の兵を集めて、目前の敵に七秒で爆発する手留弾を投じて、突撃を敢行し、主力もこれに続いて撃退した。日没と共に、敵の攻撃は小康状態となったので早速今日の戦斗の教訓を生かして、鉄条網の附近にタコツボ陣地を作り、陣地え侵入する前に手留弾で撃退することを考えて、作業にかかったが度々夜襲を受けて作業は思うように進まなかった。

  敵住民の食糧差入れ
 こうしている時、誰であろうか闇の中から「シーサン・シーサン」と兵を呼ぶ声がして、鉄条網のそばに大きなカゴを置いて去る人が居た。このカゴの中には温い御飯と豚肉の煮たのが一杯に入っており受け取った兵は私の処へ持って来た。この時は夢のようで、手を出す者もなく。暫くボンヤリしていた。ふと気を取り直し、これは敵の謀略で、毒が入っているか捨てる様に命じたが、餓鬼同様の状態なので一兵が、無意識であったろう、手握みで口の中に入れた暫く沈黙が続き、何の変化もなかったので、「ウアーすごい」という歓声と同時に、思はず手を合せた。この死を賭しての差入れに感泣すると共に、支那民族の不思儀な程の心境に驚嘆した。この後もこの様な事が二回程有った。先づ戦死者に供え、全員で分け合って、深く感謝していただいた。勿論腹を満す事は出来なかったがこの一粒の、一片の肉で元気百倍愈々斗魂を燃やした。こんな事をしている内に又夜は明けて、十二月二日となった。敵は連日の失敗にもかかわらず、あくまでも王家集陣地を撃破占領して、荊門(旅団司令部)を奪還しようとしたのであろう。更に重火砲を増加して九時頃から今迄以上の集中砲火が始まり、三重、四重に積みあげて作った掩蓋も到る処破壊されて、毎夜補修した。
 鉄条網も到る処、寸断され、陣地はその面影を全く一変し、戦死傷者は前日に続いて続出した。一三時頃からこの集中砲火に膚接して、陣地の三方から前日以上の反覆突撃をして来た。この中には長い竿の先に爆薬をつけて、掩蓋銃眼に突込む、勇敢な敵も居て、守備隊は一進一退の死物狂いの防戦を続けた。この戦斗の支那軍は、未だ経験した事のない、又終戦まで経験した事のない、日本軍でも余り良く出来ない、模範的な歩兵、砲兵の共同戦斗でありその勇敢な事、装備の優れている事等真面目な戦斗ぶりには、敵乍ら感心した。

  突撃また突撃
 十五時頃から、重砲火の集中火は、最後の力を振り絞る如く、狂気じみた猛烈さで加えて突撃に続く、突撃はまさに入海戦で我が方の手留弾でバタバタ倒れるが、これを乗り越え、乗り越え突入して来て、守備隊も文字通り死斗を続けたが、戦死傷が続出して終に陣地の一角再び占領され、この勢いに乗じて後から後からと突入して来る戦況となった。この最悪な状態の時に使用する為、かねて準備してあった。赤筒(催涙ガス)と手留弾を交互に投擲して、敵の狼狽に乗じて、全力を振って突撃し、白兵格斗によって、漸く撃退して、最悪の危機を脱した。
 その後敵は防毒面を着用して再度突撃して来た。この戦斗中、誰云うとなく「敵も苦しんだぞ、頑張れ頑張れ」の合言葉が生まれ既に少くなった守備隊は、一騎当千の勇を振って戦った。十七時頃集中火は更に熾烈を極めて、陣地中央部に、最も堅固に構築してあった、無線隊の掩蓋に、直撃弾が連続的中して、通信所は完全に破壊されて、通信分隊長、無線手、暗号手は生き埋めとなり、土の中から救いを求める声が聞えるが、連続突撃の防戦の為どうにも出来なかった。
 陣地一帯が次第に暗くなると共に、陣地前の凹地えへばりついていた敵も態勢を取り直す為であろう。後退した様子で漸く静寂になった。早速生き埋めになった無線隊の壕を掘り起し救出したが、二名は戦死して一名は軽傷で、早速手当てをした。現在新潟県柏崎市で元気で活躍をしている。御互に顔を見ると連日の不眠不休の死斗で、ひげは伸び、頬はげっそりとなり、ただ血走った目だけがギョロリと底光りして、合はす目に心の通うものを感じ、思はずニッコリした。一息する間もなく、負傷者の手当をし、戦死者を三十日以来の仮埋葬したかたわらに埋葬したが、匂いが陣地全体を覆うようになった。
 今夜は小雨がシトシトと降り、敵もかなりの損害を受けた様子で夜襲もなく静かな夜であったので働ける者は全員で、一本の棒、ずたずたになった鉄条網の一辺でも手さぐりで拾い集めて、敵が真直ぐに、突進して来れない様に、障害物を低く数条に作り、又形の無くなった壕を掘る等の作業に死力を尽した。

  恩賜の煙草に感激
 明日も又今日のような攻撃を、再び受けるなら、玉砕と云う、最悪の事態になる事を考え、各隊長集り暗号書、重要書類等を焼却した。一兵になるまでも、死守するのが任務であるが、最後に敵に一物もあたへず、玉砕する時機はどんな戦況だろうか、と話し合ったが結論は出なかった。最後は生き残った最上級者の判断で、陣地中央部に集合し、手留弾で自爆する決意をし、全員最悪事態に処する為の整理をする事とした。
 各掩蓋陣地では、最後まで大切にしていた。三人で一本の恩賜の煙草を廻していただいた。この時の感激と味は言い表す事が出来ない。一人一人身辺の整理、階級章の処分等を黙々と実施したが暗い気持は無く、今日までの戦いを反省し、又来襲する敵を撃退する為の、王家集戦法を話し合った。人間は最後の腹が決まれば、予想も出来ない落着きと元気が湧出し、良策が生まれるものである。一方この状況を大隊本部へ連絡し重傷者戦死者の収容、弾薬、資材等の補給を受ける為、決死の伝令を出す事とし、大矢兵長、長橋上等兵、庭野上等兵三名を呼び、この主要な任務を命じ、途中敵の発見を恐れて、軍服を土民の服に着換え、攻撃用一発、自決用一発の手留弾の携行を命じた。が三人は「最後と思いますから、日本軍服を着用させて欲しい、又手留弾は一発でも陣地に必要ですから、自決用一発でよろしいです」と固い決意の程を述べ、側に居た戦友一同は思はず、垢と土だらけの手を目に当てていた。一本の恩賜の煙草を出て行く兵、留る兵と交互にいただき固い握手を交わし、折からの冷たい小雨の中を、陣地後方から、敵の重囲の中に、はって出て行く三人の後姿に、一同合掌して、成功を祈った。三人は多くの敵の中を時には川にもぐり、時には山のジャングルに迷い乍らも、磁石を頼りに多くの障害を克服して、十二月三日、大隊本部との中間友軍陣地へやっとたどり着き、大隊本部へ無線で連絡し、その使命を果した。なほ三人は十二月五日大隊命令により、無線機を携行して、無線手と共に再び陣地へ帰着重責を全うした。この行為は警備隊の危急を救い、皇軍伝令の精華を発揮したものとして、師団長から表彰状を授与された。

  大隊主力も後退す
 十二月三日、決死の伝令の通報を受けた大隊主力は、急援の為八時頃王家集陣地附近に到着して、陣地周辺の敵を撃退する為、攻撃を開始した。守備隊も勇気百倍、今日こそ陣外を大いに飛び廻り、一矢酬ゆる心算で一部を残し主力は大隊主力と共に、最も悩まされた陣地前二〇〇メートルの焼払うべく出撃したが、敵の数、装備は急援隊よりはるかに優勢で遂に陣地へ攻撃して来るような状況なので急いで陣地へ帰り防戦した。
 この出撃で、慶応大学出身の優秀な岡田少尉以下二名を失った。大隊主力も山砲の援護射撃で攻撃を開始したが、優勢なる敵の挟撃を受けて、山砲等を土中に埋めて後退せねばならないような状態となり、多くの損害を受けて日没となった。
 折から大隊本部方向に銃、砲声が聞えて本部附近の反撃のような状況となり、大隊長は小生の手をしっかり握り「宿命と思ってくれひたすら隊員の健斗を祈る」と涙して言はれ、多くの負傷者を担架に乗せて闇の中に消えて行った。
 この日弾薬、資材の補給を受け又水も補給したので、守備隊の志気は旺盛であった。当夜は敵も昼の戦斗で損害を受けた様子で、一度も夜襲をして来なかった。十二月四日、朝方友軍の飛行機が一機、高度約二〇〇〇メートルで旋回して去った。以後七日まで間断的な攻撃を受けたが、前の様な事は無かった。守備隊は、敵の攻撃部隊の交代と判断して、陣地の補強作業に努めると共に、愈々警戒を厳にしていた。この頃、常徳は落城し、軍主力の反転が始まっていた。

  敵戦死者の霊を祭る
 十二月八日から敵の大軍は、潮の引くように陣地の両側から、後退を初めて、一〇日まで続き、この間、いやがらせ的な、射撃を受けたが、防戦する程の戦いは、無かった。十一日頃から、急激に数が減り、二十五日、作戦参加の聯隊が警備地に復帰したので、敵の影は全くなり、王家集守備の任務を全うする事が出来た。この時の守備隊員の負傷しない者は一人もなく、最初からの兵は二十名で、戦いの途中で補充された者を入れ、四十七名であった。
 戦いが終って、陣地前に出て見ると多くの遺棄死体が有った。調べて見ると、一連から十二連までの隊号が判明した。この事から想像すると、当時の支那軍としては一個師団の火砲の集中火の下で、歩兵一個聯隊が反覆突撃したものと思はれる。この死体を集めて、隊員全員で厳粛な慰霊祭を行い、あの勇敢な突撃精神をたたえて、警備交代するまで、懇に御祭りした。地元民に深く感謝したが、あの激戦中、死を賭しての差入れの御仁は、最後まで分らなかった。この後、この戦斗の教訓を生かして新しく陣地を拡大構築して「止まって良民に慕われる隊であれ」をモットーに警備を続け、又は進攻作戦にも参加した。

  軍旗を奉揮して涙つきず
 十九年(1944)四月この思い出多い陣地を、次の警備隊と交代して、南支軍と手を結ぶ、大陸の大作戦に出発し長沙東方―衝陽―零陵―桂林―柳州―柳城―宜山―独山(貴州省)と約三〇〇〇キロの間を十二月まで幾転戦して多くの戦果を収めると共に、多くの戦友を失った。その後、米軍の上海附近えの逆上陸の情報で、この要撃部隊として上海附近へ反転、集結する為の作戦が初まったが、途中八月二十日頃、終戦を知って愕然とした。
 九月二十六日、衝陽城外に聯隊全員集合し最後の軍旗を「君が代」のラッパで奉拝し、上陸以来約六ヶ年間の多くの戦斗、失った多くの戦友を次から次と思い出し涙の尽くるを知らなかった。祖国の必勝を信じ、隆昌を祈って多くの教訓を残し、戦死した英霊の冥福を祈ると共に、この魂を生かして、「治に居て乱を忘れず」に真の平和を確立せねばならないと思う。
     嵐山町報道207号(1970年9月25日)「終戦二十五周年記念特集号」掲載


支那大陸へ(菅谷・砲兵伍長・山岸宗明)

2008年07月28日 | 戦争体験
  高射砲隊として乗船
 昭和十三年(1938)八月十三日召集により浜松の高射砲隊に入隊した。嵐山駅を出発の時は見送の人々で駅前広場はうめつぶす程であった。当時軍人でなければ味う事の出来ない境地であった。大蔵の金井倉次郎君とは現役を三島野戦重砲兵第二連隊六中隊に二人が入隊した戦友である。亦召集が、二人一っしょであったが所属する隊は別々になった。野戦重砲兵の観測班を金井君と二人で現役、当時は受持ったのであったが此の度の召集は高射砲隊であるので勝手が違う。高射砲の扱い方を特別勉強することになった。三方ヶ原の演習場で毎日操砲の演習であった。野戦に出発は何日何日と待ちつつ、演習の連続であった。いよいよ野戦に出発の命令が隊にあった。兵隊は皆勇み立った。浜松駅に於て器械車輌其の他の物資の積載は完了した。当時高射砲は新兵機の様に一般から思われていたので兵隊は特に胸を張っていた。人員、大砲車輌を積載した軍用列車はいよいよ出発した。軍用列車を見送る人々は万才の歓呼に満ちて送ってくれた。遠く田畑で作業している農夫からも手を振って送ってくれた。すでに何回も浜松駅から高射砲隊の軍用特別列車は出発したことであったろう。大阪港より軍用船に乗り込むことになったが我々は作業が開始される毎に行先をあんじているのであった。三方ヶ原の演習場で期待して居た時に、地元の婦人会の方々に度々慰問を受けた事などが船の内で戦友達との話に花が咲いた。船が内陸から離れる頃になった時には私ははずかしい事だが死んだ人の如く船よいでつぶれてしまった。何日も死人の様な状態で過ぎた。陸で元気であったの事は船の内ではどうしようもなかった。気持が快復した時には船は支那大陸の見える島陰に停泊していたのであった。船内は活気付いている。島かげに軍艦や輸送船や様々の我が軍の船が停泊しているのを見た。上陸だぞと戦友達は口々に話している。此の輸送船は我が砲兵隊の外に軍属が乗込んでいたのであった。
     嵐山町報道207号(1970年9月25日)「終戦二十五周年記念特集号」掲載

北支より南方へ 荒波に七時間の漂流記(古里・軍曹・吉場雅美)

2008年07月28日 | 戦争体験

  髪と爪を故郷へ
 昭和十九年三月十五日、入隊以来満一ヶ年風土にも慣れた、我が懐しの北支派遣部隊を後に、懐慶の町を遠さけて、昼夜通して、三日間の転進、十八日山東省屈指の都青島に到着し、夏服を着装、寒風をついて二十日間行く先は何処へぞ、一向に知れない。四月八日、髪と爪を故郷へ送る。支那の春はまだ浅く揚柳の芽ゆるむ頃、私物は全部故郷に送れと命令は下った。戦々日ごと激化する中に、隊員一同はこれぞ最後かと髪や爪を手紙と共に包装した。燃ゆる希望を胸にして国家の干城として憧れていたが胸中圧迫するものがあった。そして青島を後に岸壁は次第に遠さけて行く。名残も惜しくいよいよ船団は黒潮をついて白波を引き、煌く星座は静かな海面を反照し、夜の潮風をついて十日満支国境山海関を通過、十一日鮮満国境安東通過、十三日朝鮮釜山港に到着、波止場の灯は若芽を冴えて寄せ来る波も美しく、その光景に包まれて、三日間滞在各部隊は次々に集結した。
 船倉内は兵器弾薬糧末を始め自動車等大小物資は揺蕩作業によって満積された。四月十六日、入隊時上陸したゆかりの深い町を出航半島民は日の丸の手旗を振って、胸にもえたつ愛国婦人会の名入れの白タスキに、男女青年団から小学生に至るまであの旗波に包まれ見送られた。感激歓喜は血にもえて、皇国日本茲にあり白いテープは次第に遠く波間に消えていった。これぞ永遠の別れと覚悟を定めて戦斗帽や小さなハンカチを大きく振ってさらば祖国よ栄えあれ。船行は再び始まった。三十五師団我が派遣軍は八隻の輸送船団に編成此の廻りを三隻の駆逐艦は前進し又後退して護衛してくれた。

  マニラの美観
 四月二十五日、我が船団は夕日をあびて空高く日章旗はひるがえり緑りの眺めも美しき台湾海峡を通過。二十六日午後九時二十分、船団の一隻はマニラ海峡に於て撃沈された。油を満載していたため爆発音と共に真夜の大海は火の海と化し千数百名一人残らず絶命した。護衛の海軍艦隊は之を攻撃深夜の静海を破った。夜明けと共に砲声も遠く絶えて、二十七日マニラに上陸した。市民の半数は日本人のようで感激も又新たに意気揚々と上陸した。流石に熱帯三伏の暑さ。照りつける太陽に酷しくやけて一日二回位強烈な雷雨がある。我が部隊は現地民に引卒され水浴場のシャワーにて汚体を流し身は清く生気に復した。故国日本は心に度々浮んで来る。立派な街路より比島を遠望。茂る青葉、緑の島々実に見事な美観である。五月一日都、マニラも残日にして出港密林の島づたいに航行は又も開始された。

  亜丁丸の最後
 我が部隊の乗船は亜丁丸といって三千トンの古々しい船である。船団中力も最低、時速八ノットで三千人の兵士が乗り組んでいる。伏して休養も取れず、いつも大半は甲板に居た艙内は狭く暑く大体一度は酔ってしまった。
 私は船員とひと時を話し合った。老船員はこう語った。「この船は大正三年製造されたもので高く翻えっている三角の旗は人間で申せば金鵄勲章だ海戦の度毎に手柄をたてて沈まない船だ」と激励してくれた。今や島一つ見えないセレベス海で深度七千米荒波高く、時正に零時十五分警報は鳴り出した連日の厳しい警報訓練と思った其の瞬間である。私は第二船倉内に於て、初山上等兵(川口)に下熱剤注射をしていた、刹那である。敵潜水艦は魚雷を発射。左側の護衛艦は素早く方向回転し弾丸をさけた。其の瞬間誇った我等の亜丁丸の先端に命中大きな振動がガクンと一発。これぞ最期か見るみるうちに船内は闇となった。煙の中に火薬のはねる音、硫黄のような臭い咽喉や眼鼻の刺激全く死闘につぐ死斗。助けてくれ、助けてくれ悲壮な誰かの声。中にはあわてるな、と大胆な叫びは暗をつく。戦友の異様な声は血ばしった。我も治療のうを片手に飛び出した勇士も無我夢中。爆風は身をさすように鳴り響いて来る。階段を我れ先にとよじ上る。私も二三段昇って一面に浸水して来る。なんと大混乱に振り落ちた。ああこれぞ最後かと思う瞬間少しの明るみより綱ハシゴが下っている。これぞ命の綱しっかと手はついたこれを頼りに甲板にと、よじ上った。既に甲板と海面は水平である。ザブンと一歩で海中に飛び込んだ。を後見ると船首は今や四十五度位に傾き先端の兵、ははや海中深く沈んでいる。教訓に従い先ず巻き込まれぬよう離船が肝要と全力で離れた。船尾は五十米以上も高く突っ立ち兵隊は成り下ってバラバラと落下する。不用物も落ちる遂に三分間亜丁丸の姿は荒波深く消え去ったのである。

  船長、船と運命を共にす
 折角海に入った兵も大きなウズ巻と共に引込まれる者実に悲惨なものであった。その時六本の青竹が機銃二丁縛られイカダ流れに浮いていた。ここにしっかりと抱き着いた。持ちよりの細引で体を、ゆるく結んだ。フカよけの赤い下帯を流して海面を見ると溺れゆく中に他の輸送船三隻も今や傾き沈まんとしている。我が駆逐艦は猛攻撃を開始した。沈み行く中の一隻丁海丸は航行は全く途絶され船長はボートや救命具を海中に下し乗組員全員救助した。三十分後である船長自からこの船に火をつけ船と共に海中に没す。この責任感実に皇国日本の鍛えた大和魂の現われであろう。こうして、この絶海に惜しくも四隻の船団を失なったのであった。この一帯に戦士は波広く散って上っては下り下っては返り死体は次第に広範囲に増えて来た。生き残った戦友達は点々と固まり海難を逃れんと奮励している。この時こそ仇は陸だ、と敵愾心を持たずには居られなかった。我等の固まりは長少尉(朝鮮)以下二十数名波にもまれ食は全部吐出し海面次第に蒼白、全く悪戦苦闘に強度に鳴り響く爆雷に遂に波にもまれて七時間。日も水平線に沈み捜索著しく困難疲労つきた。この時八千トン級の輸送船より数本の麻縄やハシゴが下った併し持つ事さえ出来ず、疲労こんぱいその極に達し、やっとの事で救助船にと引き揚げられた。南方暖海ならず。骨まで冷え込んで来た。救助隊は豆電池で深夜まで捜索に当っていた模様である。救われた兵も一枚の毛布に数名伏して一夜は遂に一睡も出来ず、不安な夜を送ったのである。

  郷土の戦友とあう
 船団は夜明けと共に航行開始、荒れ狂った海面には多くの不用物が散乱。この中に離ればなれの二人の戦友は、かすかに手を動かし合図をしたようだ。二度と返えらぬ人生の若き世代を若き力で良く頑張ったが、先急ぐ船団は停止の影もなく悲壮な二人に次から、つぎにと麻ヒモを放つもいつこう届かない。鼻先の縄輪も取る意気もなく心の叫びは良くわかるがその尊い人命もいたし方なく、遂にわめく彼は真綿の浮袋にガックリ精と根はつきたのである。甲板の兵士は叫び合ったが、むせぶ涙をこらえて遂に曉の深海に消えていった。溺れゆく友よ、永遠にさようなら。我も左胸部打撲は強度だが衛生兵の任務は重く傷者の看護に気力で当った。この時である。幼な友達の千野元君と出合った。君もやられたか、俺もボカ沈だ。と丁海丸の最後を語るも二、三分惜しくも唯、一言共に元気で頑張ろう。と右に左に後姿を見送った。暫らくすると今度は勝田の杉田松夫君と対面、彼は非常に元気一杯で三分程話し合った。吉田の好田年一君、栗原進一君等も航行中の船団に居るとの事だ。杉田君は語ったが、四人とも南国の土と化し悲しき運命に終ったのである。

  五月九日ハルマヘラ島上陸
 四国ほどの島でハルマヘラの「ワシレ」に上陸。我が飛行場も完備され、三年前より海軍陸戦隊もかなり居る模様。陸海空皇軍力はいよいよ充実南端には多数の土人もいた。
 並木に植林された椰子やバナナ等道路両端に無数にあった。アタップや大樹の影に素朴な楽器をもって日本民謡等音楽に乗せて流れ来る唄声も聞いた。体力回復も束の間二十二日間にして又も転進武装整備したのである。

  五月二十七日西部ニューギニヤソロン島に上陸
 環境は世界一悪いとの話、赤道越えて何百里二十七日夜間雨の中での上陸である。三隻の船はやっとの事で岸に着いた岸通りには半年前に上陸した友軍が道路を作ってくれた。丸太を並べた悪道である。物資揚陸作業は夜通し密林にと運搬した。けものも住まない無人島である。この島の生命は五十五日だと乱れとぶ情報に生き残る同期生は三十六名になり生きる気力唯一念にもえた。

  北岸作戦の死闘
 昭和十九年八月十五日終戦一ヶ月前の事である。北岸作戦の出動命令は出た。皆兵器弾薬食糧等五十キロ以上の物資を携帯私も薬剤糧秣を四十キロ程背負い、新地名武勇山の大樹の下に集結した。岩村部隊長は命令を下した。戦場はサンサポールを拠点に六十里、ジャングルを伐採し第一機関銃中隊より更に前進、四ヶ中隊二百八十五名は花と桜の合言葉に発した。湿地に橋をかけ又ドブに入り道なき道を伐開し一ヶ月近く九月十三日疲れきって敵陣地に到着遂に食糧は全部つきて敵陣糧秣確保に突入の時目前に迫る。準備万端の敵陣は次第に近くなって来る。

  二十六才の部隊長壮烈な戦死 深夜の突撃岩村中佐の最後
 各兵士は手留弾を抱き機関銃隊を先頭に広範囲に散開。部隊長は軍刀の指揮に入った。寝耳の敵陣も気づいたらしく光々たる電灯が消えて又輝いた。隊長は電気を打て、命令一下各中隊長は距離三百打て、一勢に発射撃剣も鋭く敵陣中忽ち暗黒遂に三時間位で陥落万才の声天高く響いた。完備の兵舎に傷兵を運び多数治療した。生気養う八日間、罐詰等好き程食べた綿羊の舌入かん詰が何千とあるのに驚いた。久し振りに満腹感を覚ゆ併し敵機連日来襲、十日後敵反撃情報入るや艦砲射撃は次第に集中し、我が軍素早く密林に後退唯呆然自失虚脱の数時間、筆記難きあり。敵戦車次第に接近隊長再度攻撃に「てき弾筒」の反攻破竹の勢い弾丸雨中を前進、遂に岩村部隊長は突撃命令発声、この時である。隊長の大腿部貫通し衛生兵前へ号令は出た。我等は佐藤軍医の指揮で仮り包帯、担架の隊長は進めと軍刀のきらめき、くつせずすると又も両腕に貫通銃創全くダルマ姿の部隊長はまだ進め、三度胸部貫通銃創により天皇陛下万才と正に軍神の如く壮烈な戦死を遂げ二階級上進中佐となったのである。

  ああ戦友よ
 先頭部隊はいよいよ敵陣四十米に突入その瞬間火煙を砲射され一面火の海を浴びて八割の兵力は枕を並べ無残にも戦死を遂げられたのであった。そして、二ヶ月余り姿バラバラで山越え谷渡り敵の目をさけ裸一貫衰えて我が隊に到着バッタリ倒れ遂に高熱を発し三ヶ月の療養生活に入った。残留者もマラリヤ、脚気、皮膚病、栄養失調等に一個中隊四名も六名も一日に病死して行く悲愴な姿、髪も殆どなくなり我が生死は刻一刻と運命の日を待った。そして昼尚暗きジャングルの中に白木の墓標は日一日と増えて行く。あわれに誰もあの大海に船と共に散りたかった。と合言葉の如く申された。死の寸前には又、何か食べたいと言う。最後、平和建設の日を誓って永遠に別れ行くあまたの兵士に今や声なき戦友よ、遂に我が同期兵六十七名は残るは私唯一人全員若き人生の春にして祖国のために五尺の身は永遠に帰らぬ南方の露と化し今や声なき戦友に対し真の平和を祈るものである。
 食と戦った苦難についても泣けるものが多いが紙面の都合上あら筋にて失礼いたします。二十一年(1946)五月二十七日復員。

     嵐山町報道207号(1970年9月25日)「終戦二十五周年記念特集号」掲載


阿賀野川のほとり(千手堂・陸軍少尉・浅見覚堂)

2008年07月28日 | 戦争体験

  敗戦後に新潟へ転属
 七月十日から始まった見習士官の教育も終りに近づいていた八月十五日、終戦の玉音放送は千葉県習志野の宿舎前に整列して聞いた。よくはききとれなかったけれど戦争がこれで終ったことを知った涙が頬を伝って流れた。八王子の聯隊本部にその夕方帰り聯隊長に帰隊の報告をすませ翌朝すでに転属の決定していた新潟市の照空中隊に向った。
 終戦になってから軍服を着て歩くことのなんと肩身のせまく感ぜられたことであろうか。敗戦の責任を問はれているような身のちぢむ思いをこれからしばらくつづけるのである。新潟市外の浜辺の村の分隊生活をきりあげて阿賀野川の堤の下の隊長位置に集結したのは、八月も終りの頃であったろうか。
 中隊全員の集結と共に私はそこから三百メートルばかり離れた大きな寺院の本堂に百人ほどの兵士ととまることになった。
 広い本堂も兵士と荷物で埋まっていた。そこに集った兵士の中には半月ばかり一緒に暮らした顔なじみの兵士は一人もみあたらなかった。

  週番士官が分隊長をなぐる
 九月七日に中隊全員帰郷することときまった六日の午後、各集合所に酒がくばられ、夫々別れの宴を開くことになった。
 その日の夕方のことである。十坪ばかりの中隊事務室には電灯が点いていたが、外はまだ顔のわかる明るさであった。週番士官の遠山少尉が点呼から帰って来て、「点呼をとったがあつまりが悪いので、浅見少尉、君のところの増田分隊長をなぐってしまった。あの分隊長なら、なぐったおれの気持も、わかってもらえると思ったからな」困ったことが起きた、そう思っていた時電灯が消え、何かが投げこまれ、あたって音をたてた。
 遠山少尉は私より先任の士官ではあるが彼が幹部候補生の時、私は軍曹で助教として手をとって教えた親しい仲であった。
 私は入口に出た。入口までつめかけた兵士たちで入口の戸に私は押しつけられて動けなかった。一人の兵士が私の頬をなぐった。
 それはうちの隊長殿ではないか、後からどなる声がとび、勢よくなぐったものの、あとをつづくものはなく、自分のところの隊長とあっては面目をつぶし、いくども頭を下げてあやまっていた。
 めあてが私でなかったらしく、私を押しつけていた兵士たちはいつのまにかいなくなり、只、分隊の矢内兵長が一人残り、分隊長殿がなぐられてしまったと、私にだきついて泣いていた。
 遠山少尉は週番士官ではなかったのを自ら最後の週番士官を買って出たものであった。なぐられた分隊長はどこにどうしているのか兵長はくやしがって泣き、分隊の兵士たちはどうしているのであろうか。
 私も又どうしてよいかわからなかった。私をなぐった兵士たちは遠山少尉を探していたのであったろうか。

  兵士隊が不穏な空気
 暗くなって遠山少尉がどこにもいないということがささやかれ、それが私たち事務室に集った者に伝わった時には、遠山少尉が新潟憲兵隊に中隊の秘密を知らせに行ったらしいという内容のものになっていた。
 すぐ追いかけて連れて来るようにとの隊長の言葉で、A軍曹運転の発電車の助手席に乗り、軍曹と二人で憲兵隊の前まで行って見たが遠山少尉の姿はなかった。憲兵隊へ行くには自転車か徒歩より外なく、少尉は来ていないということで急ぎ帰隊した。
 遠山少尉は中隊の広場の中央に独りでいたのである。遠山少尉の心配もなくなった頃、兵士の一団が丸太棒を持って指揮小隊長をぶちころせと叫びながら、こちらにおしよせてくるという知らせが入った。席にいた某准尉が「寺と他の一ケ所の兵士たちに不穏な空気があったので、私と曹長の二人で手わけしてゆき、一緒に酒を飲んで、何んとかして事のないようにと思って努力してみたのです。浅見少尉殿に出かける前に、行って来ますと申しあげたのは、実はこうしたことを防ぎたかったからなのです。」と私に言うのである。
 転属して来て日も浅く終戦後に任官した私より年は若くても先任将校として遠山少尉の外に山田少尉がいた。年の功で私が頼りにされたのであろうか。
 准尉と曹長にはすでに兵士の不穏なあ空気がわかっていたのであり私も知っていると考えていたのであろうか。もし将校たちが、このことを知っていたならば、帰郷前夜の点呼には別の方法を考えたであろう。点呼をとっただけであったらまだよかったのかもしれない。
 遠山少尉の点呼に出た分隊長をなぐったことが、点呼に出なかった兵士たちに伝はり、准尉たちの恐れていたことが、思いもよらぬところから起きてしまったのである。

  激昂した兵を説得
 指揮小隊長をぶちころせ!
 隊長と准尉と曹長と私と四人、私の記憶には四人だけしか残っていないしなんとか静めようと話しあった。私の宿舎であった寺院は国道の向う側にあり国道を左に五〇米もゆけば阿賀野川であった。
 国道の真中で私は寺院の方から歩いて来た兵士の集団と向いあった。私には、私を一つなぐらせたために一人の上等兵を軍法会議にまわしてしまった、悲しい想い出がある。上官に暴行をやらせてはならない、暴行をやった者は必ず処罰されねばならないから。この二つの決意が私にはあった。
 私は、兵士たちの前に立ちふさがり、終戦になったけれども軍の規律は守らねばならぬこと、上官に対する暴行は、軍法会議にかけられて処罰されるということを、私は私が幹部候補生時代に直面した事件をそのまま話をし、帰郷を目前にしながら一時の激情にかられて上官に暴行を加え、帰るべき時に帰れなかったならばどうするのか、切に自重を望むということを、一生懸命に説いてみた。
 その時、大勢の中から、この場を私たちにまかせて下さいと、古い兵士たち数人が、私に呼びかけてくれた。私はほっとして、彼らに後をまかせ、隊長にさわぎの終ったことを報告することが出来たのである。
 あのさわぎのあとのことは私の記憶にない。しかし、埼玉県人として私は矢内兵長一人しか知らなかったが、このさわぎの翌日十三人の埼玉県人が私を中心に集り、帰郷後の再会を約束して、名簿を十三通作って分けあったことはなつかしい想い出である。
 私に呼びかけて呉れた古参兵は勿論この人等だったのである。

     嵐山町報道207号(1970年9月25日)「終戦二十五周年記念特集号掲載