GO! GO! 嵐山 2

埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

ローマクラブの警告 嵐山町長・関根茂章 1974年

2009年01月23日 | 戦後史
   ローマ・クラブの警告
     人口と食糧生産のアンバランス

 ローマ・クラブ【以下ローマクラブ】は一九七〇年に設立された民間組織の研究機関である。そして先進工業国の経営者、経済学者、科学者などをメンバーに加えている。日本からは日本経済ケンキュウセンターの大来佐武郎(おおきたさぶろう)氏、経団連前会長植村甲午郎(うえむらこうごろう)氏、日本電気社長小林宏治(こばやしこうじ)氏、東電会長木川田一隆(きかわだかずたか)氏等がメンバーとして参加している。 ローマクラブは一九七二年三月に報告書をまとめた。『成長の限界』と訳され刊行されている。 「世界の人口増加と経済成長の悪循環にブレーキをかけることが、世界中の国の経済発展の現状を凍結してしまう結果をもたらしてはならないという主張を強く支持する」として、先進諸国が物的成長をダウンさせ、発展途上国の経済成長に対して援助、協力していく必要を力説している。しかし、この表面の言葉とは別に、人口増加のアンバランスに関心がよせられ、発展途上国の「人口爆発」が、世界の食糧危機を、招いているという議論が極めて強く主張され、人口増加と利用可能な資源の問題で、よく引用され著名になっている。 「一六五〇年には、世界の人口は約五億、年率一・三%の割で増加していた。一九七〇年には、世界人口は三六億となり、成長率は年間二・一%であった。この成長率で三三年後に、七二億となる。」 このような人口の増加に対して食糧供給はどうであろうか。地球上の潜在的な農耕適地は最大限に見積って約三二億ヘクタールである。その約半分は現在すでに利用されている。残りの土地は開発するのに巨額の費用がかかるが、巨費を投じて耕作可能地を開拓し、そこから可能な限りの食糧を生産したならば、どれ程の人口を養うことが出来るだろうか。ローマクラブはこう設問して、現在の生産力水準では、約七〇億の人口、即ち二〇〇〇年の時点までであり、生産力を二倍にあげても三〇年しか先に伸ばすことは出来ず絶望的土地不足。従って食糧の不足が到来するであろうと報告している。 更に土地、食糧だけでなく、水についても大きな制約要素になっている。 日本の食糧の自給は総エネルギーに於て、四三%にすぎない。輸入する食糧と飼料の総面積は日本の耕地面積七〇〇万ヘクタールに相当する。然も輸入路は長距離である。だれがこの海の保全を保証しているであろうか。オイル・ショックが経済と心を撹乱したことを想起すれば、食糧飼料が国際外交戦略に用いられたらと想像すると慄然たるものがある。 土地があれている。心が荒(すさ)んでいる。やがてこのままでは日本沈没である。 民俗の保全と定義して、農村の振興に最大のエネルギーを投ずることが、国政の第一義であろう。ギリシャやローマの滅亡をくり返してはならぬからだ。農村と農民、土地と心を軽んじた文明は、すべて亡び去っている。
     嵐山町興農青年会『興農ニューズ』創刊号 1974年(昭和49)9月1日

民主主義とはなにか 関根昭二 1975年

2008年12月17日 | 戦後史

 昭和の年代が五十年を迎えた。前半の二十年は戦争の時代であり、後半の三十年は平和と民主主義の時代であった。 私は戦争を体験し、さらに敗戦という悲劇を目のあたり見てきた。全く歴史的にも精神的にも大きな転換を余儀なくされたのである。 戦後三十年たった今日、吾々は民主主義について深く考えてみる必要があるのではなかろうか。 吾々が敗戦後、自由と平和の理念にもとずく民主主義というイデオロギーを知ったとき、それは実にすばらしいものに思えたのである。言論の自由、表現の自由、信仰の自由など多くの自由が吾々のものとして、しかも侵すべからざるものとしてそこにあった。 このような民主主義の社会は果して吾々国民の期待に応えうる社会制度をもたらしたであろうか。例えば教育はどうか。学歴偏重の社会を打破しようとする考え方は戦前にもあった。学校を出なくても実力があればいくらでも世に認められる社会を望んでいた。だが平等を口にする民主主義の時代になっても何ら解決できないでいる。それのみか却って学歴を一層尊重する傾向になった。中学を卒業して高等学校へ入学しようとする人は九十%を超えると言われている。吾々の時代には旧制中学へ行く人は村でも一人か二人にすぎなかった。しからば高等学校へ行く人がこんなに多くなって、この社会は前より良くなったと云えるであろうか。東京家裁の調査官によると昭和四十一年(1966)に家庭裁判所に面倒をみてもらった非行少年は中学生の十六%・高校生二十%であったものが四十八年(1973)には二十六%・三十三%にそれぞれ増加し非学生は六十二%から三十六%に激減した。しかもこれらの高校生は国語で「暴行」の「暴」の字が書けない。英語では学校というスペルが書けない。というおどろくべき学力低下が示されている。 一体、民主主義の教育とは、このように非行少年を増加させ、勉強もろくに出きない生徒のために高校は存在しなければならないのであろうか。どうして学力がなくて卒業証書だけくれる学校のために国民は税金を払わなければならないのであろうか。こんな民主主義こそ愚者の民主主義でなくて何であろう。今の日本を支配しているのはまさに愚劣なる民主主義であり、吾々にはこのような民主主義を打倒しない限り理想の社会を築くことはできないであろう。
     『興農ニュース』第2号(嵐山町興農青年会発行。1975年3月)。筆者は嵐山町議会議長。


1952年開始の埼玉県海外派遣農業実習生制度も見直し期に 1978年

2008年12月12日 | 戦後史

   海外派遣農業実習生 27年目 見直し期に
 来年三月、アメリカヘ出発する海外派遣農業実習生三人が決まった。二人は県派遣。一人は県海外派遣農村青年協議会(経験者OBの組織)の推薦だ。この実習生制度、スタートしたのは昭和二十七年(1952)。当時は「大学卒。妻帯者に限る」などの条件で、戦後の農村復興期のリーダーづくりがねらいだった。いわば食糧増産をアメリカの開拓者精神の移入で切り抜けようとしたもので、競って応募したなかから県が厳選した農村青年を送り出した。それから二十七年たったいま、農村から青年の姿は消え、「農業後継者育成」を国や県が行わなければならない時代に。海外での農業実習生制度も見直し期にさしかかってきたようだ。

  むしろ後継者育成 応募が激減 開拓魂移入も今や昔
 今年の県募集は二人。旅費などはアメリカの受け入れ農家が一年間の実習手当を「先払い」の形で世話する。そのほか、事前費用二十万円のうち十五万円を県が負担するから自己資金五万円で一応一年間のアメリカ実習が実現するわけだ。
 今回の応募者は三人だった。県農業経営大学校から二人(上尾、秩父出身)と川口市の一人。いずれも男性で二十一歳-二十五歳までの人たち。県のワクは二人だけだったため一人はOB会推薦で合格一〇〇%。
 送り出し機関は、社団法人の国際農友会。三人は先月十六日-廿九日まで東京で行われた合宿講習会に参加、あとは来春出発前に行われる講習会を受けるだけだ。アメリカの場合は、酪農、肉牛、養豚、養鶏から果樹、柑橘(かんきつ)、野菜、花き、飼料作物が実習内容だ。どれでも希望するものを選び、農家に泊まり働きながらアメリカ農業を体験する。
 県農業経済課の調べでは、二十七年(1952)以来一年間の農業実習生としてアメリカに渡ったのは六十二人。ほかにヨーロッパが九人。四十一年(1966)からスタートした二年間の農業研修生の方は五十二人で、三十二年(1957)から三十八年(1963)まで行われた農業労働者派遣(三年間)では十七人がアメリカに渡っている。
 こうした海外実習、研修の経験者たちは、帰国後、「県海外派遣農村青年協議会」を結成している。経験者のほとんどが参加しており、今年五月の総会で来年二月、関東地方を中心にした海外研修生、実習経験者たちを集めた「営農研究会」を入間市で開くことを決めた。「海外から日本の農業を見直すということは、日本にいてはとてもわからないこと。仲間がどんどんふえれば、農業後継者不足なんてことはなくなります。自分の力を十分発揮できる農業は、サラリーマンにはかえってうらやましいことでは」と、会員の一人は自信たっぷり。かつての開拓者精神の移入からもうかる農業としてのアメリカ式経営法を学ぼうという意欲が満ちている。

  農村復興の指導者養成 ねらいは成功したが
 二十七年(1952)、たった一人選ばれた県派遣の第一回農業実習生はどうしているのか。その人は嵐山町の関根茂章町長(五三)だった。二十六年(1951)、サンフランシスコ講和条約で、やっと日本が戦後の独り歩きを始めた時期に、アメリカ式農業、開拓者精神の移入をめざし、全国から選ばれた二十六人が海を渡った。当時は横浜から十二日間の船旅だった。
 条件は二十五歳-三十五歳までの大学卒の妻帯者。九州大学農学部を卒業後、同町で農業をしていた関根さんは二十六歳。二十六人の中で三人だけだった独身者の一人。「町にあった日本農士学校(現在の県農業経営大学)で講師をしていました。日本の農村の民主主義のリーダー養成の意味もあったようです」と当時をふりかえる。
 カリフォルニアの酪農家のところで三カ月、日系二世の開拓地で三カ月働いたあと、国務省の映画づくりに一カ月間“主演”させられた。「カリフォルニアからの便り」というタイトルのこの映画は、日本の農業実習生がアメリカに到着、高層ビルのまちに驚いたりしながら、農場での仕事をおぼえるまでを描いたPR映画だった。
 完成後、日本に送られ、各地のアメリカ文化センターで、アメリカ紹介用として上映された。「当時驚いたのは一世、二世の必死の活躍ぶりと日本人に対して残る差別感でした。日本への愛国心というものがアメリカヘ渡って逆にわいたような気がします」と関根町長。
 一緒に渡米した全国の仲間たちの中には、その後、国連のコロンボプランでエチオピア、パキスタンなどへ米づくりの指導に行ったり、南米開拓で活躍した人たちがいた。帰国後、外国から日本農業の視察団や研修生が県にやってくると、「農業実務者で英語が自由にできる」と、案内者の役がよくまわってきた。
 所沢市で養豚業を経営する平田昇さん(三七)の場合は、四十年(1965)の派米農業実習生。倍以上の応募者の中から三人が選ばれた。「私が実習した場所は五大湖に近い地方で冬場はマイナス三〇度にもなるところ。きびしい気象条件の農場でがんばりました。その時の苦労が役立っています」という。でも、最近は、外国へ行こうと思えば手軽に行ける時代。海外へ出てじっくり外国の農業技術を学ぼうという若者たちはめっきり減って、この制度も曲がり角に来ていることは関係者みんなが認めていた。

『朝日新聞』1978年(昭和53)10月12日記事。1952年(昭和27)5月の『菅谷村報道』21号に「関根茂章君渡米」の記事がある。22号の「論壇」には小林博治「関根君の渡米」、24号には「永光の門出 関根茂章君壮行会」の記事が掲載され、7月11日に高崎達蔵菅谷村長が発起人となり、「明治、大正、昭和の三代に亘る、各界、各層の人々が一堂に会して盛大な壮行式」が菅谷中学校で開催されたことを伝えている。http://satoyamanokai.blog.ocn.ne.jp/rekisibukai/2008/12/post_cd15.html


農村の子等と共に 1956年

2008年12月06日 | 戦後史

   農村の子等と共に 〈子どもと取り組む青年教師〉
 教職員の異動で予想することもできなかった菅谷小学校へ転任になった。電車でほんの一区間の、さして遠い村ではなかったが、部会が異なり、名前はおろか顔も知らない教師が殆どというほど接触のない村であった。
 何もかもなれないさ中に担任が決まった。四年梅組、以前中学校が使っていたとも言う、一番東の端の教室があてがわれた。一学級増の学年とかで、机椅子はおろか、教壇も何もない教室に紙くずがちらばっていた。天井のはめ板がずれてできたすき間、よごれてぼろぼろ落ちる壁。隣りの教室との境にはめこんである板戸。のぞけば隣りが見通せるふし穴がいくつもあった。少し大きな声を出せば隣りへつつぬけという。以前勤務していた学校では、高学年担任の特権で、近代的な設備の整っている新校舎にはいり続けていた。掲示物一つなくても、さびしさを感じさせない。明るいそんな教室での何年かが、雨戸のようなとりはずしのきく板戸を境にした教室をすっかり忘れさせてしまっていた。かけてなくなった窓から入る風をうけながら、ここでこれからくらすのか……さすがに胸がつまった。しかしこんな私の感傷も、子供の机が四列に並べられてから、すっかり吹き飛んだ。二つ組み合わせの教壇は片方が五糎ほど低いちんばの物であったが、一おうこれで教室の形がととのった。どんな子供がここへはいってくるのだろうか。やがてはいってくる子供たちのために、汚れた壁も模造紙でかくした。痛んだ床から出ているくぎも押さえた。机の上もふいた。そんな準備が、ここで腰をおちつけてやる私の心の準備にもなった。
 四年生は松、竹、梅の三クラスだった。その梅組そうした組の名前も奇妙に聞こえたが、漸次なれて梅組の先生になりました。生徒は三十九人、以前の学校では五十三、四人が平均だったし、随分楽のように感じられた。しかしそれがそんなに楽でないことは、一週間もすればわかった。
 一人としてつながりのない村人の中に、どうして結びつきのきっかけをつくろうか……。受持の子供を通し、受持の母親と先ず仲よしになることだ。担任のあいさつと、つつましやかな教育の抱負をガリ版にすって子供に渡した。「先生はみんなのおかあさんと仲よしになりたいのです」ということばを添えて、そんな一片の紙きれぐらいで反響のあろうはずはない。すぐ家庭環境の調査をしてみた。あまりペンなど持ったことのない母親が書いたのであろうか。たどたどしい文字の「家庭しらべ」が集ってきた。むさぼるようにそれを見た。家庭の構成を見ても殆どが、七人、八人、九人の大世帯、職業別に見ると農業二七、商業五、大工二、会社員二、くず屋一、無職一。「現在の家庭の経済状態はいかがでしょうか、ありのままにお書きいただきたい」この露骨の質問に対して農業の殆どが、「最低のくらしをしています」「耕地面積の割合に支出が多いので、暮しは楽ではありません」「働き手が少ないのに子供が多く経済は困却をきわめています」これらの回答がすべてにあてはまるものではないが、たどたどしい字の「貧困」の二字は私の顔を覆った。「担任への希望がありましたら遠慮なくお書き下さい」の項も、前のに関連しているのが目についた。「別に希望はありませんが、家庭の貧困をお考えに入れておいて下さい」「金銭の徴収はなるべく間をおいてして欲しい」給食も何もないこの学校では集金と言っても、月々集めるものは学級費の二十円か、その他臨時のいくばくの金にすぎないのであるが、こうした訴えをせずにはいられぬ農村の生活が思いやられた。
 わが子をどのように育てるか……より、どうやって毎日を過ごそうか……の方が切実な問題なのであろうか……。その他聞き集めた話のもようからみると、三度目の母親を持つ子、二度目の母親を持つ子、妾の子、生まれた時から父親がなく祖父母に育てられている子、父親が家を出てしまったために、母親が働きに出ている家の子、父親が病気で働き手のない家の子、四十人足らずのこの集りの中にも、さまざまな生活のかげを身につけている子供たちがいるのだった。どうにかしてこの子供たちを明かるく、まっすぐに育ててやりたい。貧しさに卑屈にならない子に。そしてやがてはこの農村の生活の貧しさはどんなところに基因しているか……分析できるまで物を考える子に。そして新しい村つくりにいそしんでくれるような青年に……。窓外に広がる景色を見つめながら、私はあれこれ考えた。ところが現実はそんな考えはまだ遠い夢にすぎなかった。私がすぐに力をいれなくてはならない事がほかにたくさんあるからだ。
 子供たちの学科がまことに遅れているのに気づいた事がその一つ、本を読ませてもろくに読めない。新出文字ならとも角、二、三年で習った漢字もろくに読めない。ひらがなの語群もしどろもどろの子が多かった。九九も満足に言えない子もあった。算数の時間、かんでふくめるようにくり返し説明し「じゃあ一人でやってごらん」と言ってやらせると、ノートにやっと問題をうつしとるのが、せいいっぱいな子が何人もいるのだった。これでいいのだろうか……。私は時々考えこんだ。「町の子供とはだいぶちがうんですよ」同僚のことばも慰めにはならなかった。「それにしても、もっと何か……」こうした焦りが単に学科にとどまらず、いろいろな躾の面にまで、我慢ならないものを感じさせた。弁当の時早く席についた男の子が、級友の揃う一ときを待ちかねて、弁当箱のふたをたたき出すのだった。「腹がへった……。腹がへった……」と歌いながら。「先生くっていい」「いいえ、あと少し待ってましょうね。まだみんなそろわないから」「ちえっ」そのうちこそこそ私の顔を盗み見ながら、二口、三口はしでかきこむのだった。そして弁当箱のふたの穴にはしを立てかけて、遅れて教室に入ってくる級友をどなりに廊下へ出て行く。「おめえたちが来ねえから、飯がくえねんだど……」そんな時私はきまって前の学校を思い出した。四年と六年のちがいはあったが、給食当番が全員に配り終える。かなりの時間を静かに待っていたあの教室、みんなでそろってたべ、全員が食べおわるまで席をはなれるものでないようにしつけられていた町の子供達。そうした礼儀正しさをこの村の子供達にそのまましつけこもうとしたのであった。「おらあ方べー、損なんなー」人のことなどおかまいなしに、どんどん自分勝手に先に食べて、そのまま運動場にかけ出していくことに馴れていた子供達はぶすぶす不平を言った。そうした不平を耳にしながら私はさびしかった。こんな小さな事一つが子供たちにぴったりこないのか。そんな思いにかられている時、はっと脳裡にかすめるものがあった。手を洗うどころか、台所に腰をかけて飯をかきこむ農家のくらし、高学年の子供たちの表現を借りれば、町から来た気どった先生である私には、百姓の子供達の生活環境が全然理解できなかったのである。勉強ができない事だって、本をひろげる机も無い家が多いんだろう。焦っては失敗する。子供達の生活をみつめながら、少しずつ手をつけることだ。
 その後、一緒に「いただきます」をして食事をすることもなれてきた。そろってふたをとった弁当箱のおかずのまずしいこと……。みるからに塩からいこぶのつくだ煮が殆どを占めていた。鶏を飼う家は多いのだろうが卵を持ってくる子は少い。魚などなおのことだ。似たりよったりのお菜のくせに人のおかずのことはとやかく言う。「あやちゃんは年中こうこべえな……」くらしが極度に貧しいこの子供は、ある日、まわりの子供に意地悪く言われて机につつ伏して泣き出してしまった。とうとう一口もはしをつけずに。ところが数日して、この子を泣かせたらんぼうな男の子が、弁当の時どうしても机の上に自分のを出さないのであった。人にみられるのがいやなものを持ってきたのであろう。どう言っても食べようとしないで、全部外へ出してしまった後、一人で食べさせた。こんな事が何回かあって、どうにかしなくては……と思い続けた。学級会をうまく生かせて、子供達自身の問題として考えさせたかった。ところが話す事が下手で、誰がどうした、こうしたの発言をすることがせいいっぱいの学級会は、私が思うような方向になかなかいかないのである。とうとうこうきり出してしまった。「あやちゃんのお弁当のおかずがわるいからって、あやちゃんのせい……」「あやちゃんちがびんぼうだからだんべ」「おとうさんなんかなまけてて働かないの……」「みんな働いているんだいなあ」「みんな働いていてどうしてびんぼうなんだろう……」ここではたと行きづまる。これでいい。四年生ではこの位でたくさん。この疑問がやがて心に育っていく子もあろう。こんな話し合いから、人のおかずをどうこう言いっこなしにしよう。というとりきめもできた。その後ぴったり口にしないところを見ると、子供心にもいくらかわかったようだ。自分のくらしだってたいしたことはないくせに、(それだからこそ)人の不幸は興味をひく。こうした大人どもの心理に似通ったものをここの子供達は持っている。
 人へのいたわりやあたたかさがわりに少いのだった。教具の何もないのを見た一人の母親が「先生がお困りだっておっしゃいましたので……」と言って水槽を贈ってくれた。その水槽を見て、「先生学級費で買ったん」「先生いくら」とやつぎばやに質問がでた。そのほか、花びんや本を持っていくたびに、「先生いくら……」が飛び出した。農民の生活感情の底を流れる勘定高さが子供達にしみこんでいたのだ。「農村の子は思ったより純朴でない」小さな分教場へ勤務した女教師がよく言ったが、そうかも知れない。しかし、そうした純朴さを要求する前に、そんな純朴さがかき消されてしまった、農村の生活の実態をつかまなければなるまい。それが、はじめて村の先生になった私に与えられた課題でもあるわけだ。
 【前略】 「家庭しらべ」をめくってみると、「四月三日父ちゃんが病気でたおれ、大ぜいの子どもをかかえ、とてもとても困っています」十五の長男を頭に六人の子、下は三つ。家庭訪問もしてなかった怠慢を責め、すぐ自転車を走らせた。ひどいところだった。中風で動けない父親がきたないふとんにくるまっていた。【中略】排便一つできない病人の世話と六人の子供を抱え、この母親は言うに言われぬ苦労を味わったらしい。それでも「生活補助がいただけるようになってどうにか息をつなぐことができました」何か言っても私のことばが空々しくなって、自分の胸にかえってくるようで慰めのことばも出なかった。「おかあさんあと少しのしんぼうですよ。この子供たちが大きくなったら……」しかし子供たちが大きくなれば、そのままこの家庭に幸福が到来するのだろうか----。教師としての無力さを痛感させられた。そしてなお「教育」の力を期待せずに居られぬのであった。
 いろいろな環境の子供たちをかかえ、よたよたとよろめきながら私は歩んで言った。子供たちはガサツでこすっこいところはあったが、元気がよく可愛かった。文化の恩恵に浴することの少い子供たちは、暇を見てはしてやる紙芝居をとりわけうれしがった。その紙芝居を見ながら「先生まだあといくつある。いくつ」と心配そうに聞くのである。度々せがまれるたびに、以前の学校から紙芝居を借り出した。本を買って持って行くと、いち早く見つけ、「あ、先生が本買ってきた」と叫び手をたたくのであった。休み時間は私の机をとり囲みいろいろな話をした。そして必ず女の子のだれかが、かがみこんで、「先生のあしすべすべする」と言いながら、ナイロンの靴下をはいた私の脚をさも大切そうにさわるのであった。 村のようすも大体わかってきた。西に東に広がりを見せる九つの字(あざ)、せちがらい世相をよそに、四季折々の自然は美しかった。この山坂を越えて子供たちが学校へ通って来る。勉強は嫌っても、めったに休むことはしない。五十分もかかる遠い字から、橋を渡り河原をよぎり、少しぐらい頭の痛む日も子供たちはやってくる。心にかけながら家庭訪問がなかなかできない。雑事に追われてばかりいることと、自転車も役に立たない。遠い家が多いからだ。それでも今までに三分の二の母親や、父親と話し合う機会を得た。何一つ覚えない学習遅延児の母親とも家庭訪問を通じて仲よしになった。授業参観にこの母親の姿を見ないことは一度もないほどに。
 誰一人として知る人もいない、四月当初のあの孤独感は今は失われかけている。広い山村のあちこちにぽつん、ぽつんではあるが、心の通う母親たちができつつあるからだ。(菅谷小学校)
     埼玉県教育局『埼玉教育』1956年(昭和31)12月掲載


硫黄島での遺骨収集(菅谷・内田忠次)

2008年06月15日 | 戦後史

 硫黄島の概況。硫黄島は東京の南方約一・二五〇キロメートルにあって、緯度は台湾の台南とほぼ同じである。島は、摺鉢山をかなめとして北東に八・三キロに伸びる最大幅約四・五キロの扇形をなしていて、島の面積は約二二五平方キロメートルである。標高は摺鉢山が一六九メートル、河川湧水は全くない。
 植物はバナナ・ヤシ・パパイヤ・パイナップル等が散見された。動物類は鳥・ねずみ・むかで・さそり・アフリカマイマイなど生息している。が注意をすれば危険は少ない。
 今年は硫黄島が玉砕して三十三年忌にあたる。奇しくも遺骨収集奉仕に参加出来た事に、この上もなき喜びをかみしめています。しかし至って地味な仕事探壕調査である。
 毎日ジャングルを切り拓き濡れて転んで、雨の日も風の日も断崖を登り降りして、今はない戦友の遺骨を探して、歩けばいくらもある壕、要するに断崖のつぶれた処は十の内七、八は人工か自然壕である。戦斗中から壕口と言う壕口は全部爆破された体験を記憶している。
 この様なことから、三十三年経過した今、地形の変化は激しく当底玉砕時の地形との調和はとれず労多くして実りの薄い調査行であった。それでも各調査班の努力により、著名な壕をかなりな数を発見している。
 この度、何よりの戦果は、四年越に調査をしていた南方諸島海軍航空隊本部壕が、(南方空壕と云う)一部開壕となった。この南方空壕の規模の大きいことを紹介しますと、壕内には工作自動車が入っていたことです。しかしわずか一部分の開壕で、壕内は熱気物凄く、焦熱地獄、なかなか温度が下らない。六〇度~六五度、壕の奥には御遺骨がうず高く見える。
 七月十七日収集奉仕期間も切迫したので、奉仕団員全員を集結して収骨作業に取組むことになった。この収骨作業の主力は、遺族会日本青年遺骨収集団の方々、六〇度の熱気の中に突撃する。服装は全学連よろしく、体全体を覆って目だけ出して、軍手は二重にはめ、三人一組、器具は懐中電灯と手箕縄梯子を下げるだけで息苦しい。入って熱気を吸うと息がつまる様だ。御遺骨を■きよせ手箕に入れる。時間は二、三分。それ以上は耐えられない。それ上がるぞ。大きく息がしたいが出来ない。大きく吸うと咽喉を焼くからである。耐えられない。小走りに外の光りの見える処まで上って一息、衣服はびっしょり、正にミイラ取りがミイラになる様だ。
 こんな熱い熱い壕に三十三年間も苦しみ続けられた英霊。内地にお連れしますと念じながら、若い方々に伍して熱い壕に六回入った高齢者は無理だと言われながら、そうせずにはいられない気持である。こうして収骨された御遺骨は一二三柱、うち身元判明六柱。収骨された御遺骨は、宿舎の南にある霊安室から、厚生省事務室阿部団長の先導で、御遺骨捧持者一同静々と進み、「国のしづめ」の幽かな吹奏楽のかなでられる中を司令室に至る。
 今抱いている御遺骨の箱、三十三年前のあの修羅の巷、生と死の境を彷徨したあの凄惨な光景を思う時、慟哭を押えることが出来ない。硫黄島海上自衛隊員の見送りを受けて輸送機に乗り込んだ。長い長い感じの二週間も過ぎ去った。様々の事を思えばなつかしく轟々と轟く爆音とともに離陸したさよなら硫黄島、未収骨の英霊よまた来ます。全員の収骨出来ない事に心を残して帰る。
 奉仕団は二時間十五分で入間基地の帰搭、基地自衛隊、厚生省協会員の方々の出迎えの中を、厚生省差廻しのバスに乗り午後三時三〇分厚生省に向けて出発、四時二〇分厚生省着御遺骨の授受を終り厚生省大臣出席のもと解団式、帰宅したのが七月二十七日午後八時三〇分であった。


川島開拓の思い出(川島・森田与資)

1970年03月05日 | 戦後史
 現在明星食品株式会社が建築されて居る土地は川島地区の山林地帯であった。昭和二十三年(1948)三月末私用にて小川町に行き帰りの電車を待つべくホームに立って居た。すると、いきなり後より「君大変なことが起きましたよ」との声驚いて振り返ればそれは平沢の村田康利さんであった。当時村田さんは地主層より選出された農地委員の一人であった。君々のの山林全部が三月一日付けを以て、農林大臣が開墾予定地として指定してしまいましたと言う。私も一瞬驚いたが、「はあ」そうですかと返すしか言葉はなかった。川島地区の山林とは、新田前、清水、市海道天沼、岩鼻長山、屋田、赤坂下の約二十五町歩であった。
 当時政府としては食糧増産と海外から引揚者の入植を目的として各地を選んだのであった。
 特の高崎村長さんも、これは大変な事になった。(私)君これは大字川島の問題ではない、菅谷村の大事件、入植者に来られると村政がやりにくく最小限度に止めなければならないと言う、それにはどうしたらよい良いかと私は問うた。君こうなったらいたし方が無い、調査に来た役人に出来るだけ御馳走することさ、それにはそれなりの道が有るものさと大笑し、何時の時代でも変りはないとのこと。そして忘れもしない八月十三日真夏の太陽が容赦なく照りつける中を、県の開拓課より調査団が乗り込んできたのであった。
 村長自ら案内役として、陣頭に立ち最初の日は、新田前、清水地区を一廻りして河野社掌の経営する浴場付料亭に連れ込み(今の嵐山荘の所)舞台付き大広間にて呑めや唄への大騒ぎ、第一番に入浴して猿又一つで出て来た村長さんの姿が今でもちらついて思い浮ばれるのである。それから幾日か経った日曜日こんどは鮎猟鎌形八幡橋下にて、網打ち、とった魚を調理して、又一騒ぎ、かくして一週間の日程は過ぎた。
 その間村長さんは調査団の宿泊して居る小島屋に調査団と一杯呑んで入植されては困るからと、膝談判、自分も度々同席したことがあった。調査員も村長の気持が分ったのか他の地区には殆んど足を入れなかった。
 かくして調査は一応終り年の瀬も押し迫った十二月二十八日(現今なら御用納め)県の開拓課に開拓審議会が開かれ、川島地区の問題も提案されるから傍聴に来るようにとのこと。村長さん都合悪く君行ってくれないかとのことにて初代農地委員会長でもあった長島さん今の農協組合長と出席した。御承知の通り当時県庁は焼失して各課とも散在して居た。今思へばお寺のような事務所に行き其の旨を告げると審議会は新田道に面した県南水道事務所とのこと探し当て入場した当時国道の両側には家は何軒もなかった。やがてぞくぞくと委員が入場して来た。聞く所によると県議さんも多数居り二十二名の委員とのことであった。やがて開会が告げられ第一番に我が地区の議題が提案され調査資料の朗読が有り終って調査員としての意見が付け加えられた。
 川島地区は帯状にして狭過ぎ入植の余地はない増反で行くのが尤も理想であると述べた一同賛成報告終って僅か十分足らず偉い人の会議はこうゆうものかと思った。それもその筈恐らく川島地区の様子を知った委員は一人として居なかったと思った調査員の一人が長島さんと私の所にて肩を叩いて御苦労様とオーバーをかけてくれたことを記憶して居る。冬の日足は早く薄暗くなったバスに揺られて志木駅に着き東上線の人になって帰宅した全地域が指定を受けながらニ地区に止まり然も増反として村人に与えられたことは当時村長高崎さんのお力であると感謝するものであり生涯忘るることの出来ない。
 現在面目を一新して工場事業所等建立されて居るが時代の要請であり開けつつあることも嵐山町の誇とする所であろう。
          『嵐山町報道』202号(1970年3月)掲載

封建社会の克服(菅谷村青年団菅谷支部・中島時次)

1952年05月31日 | 戦後史

 いよいよ講和条約が発効した。今後は日本も自立して行かなければならない。従って、我々青年には幼い日本を背負っていく重大な義務がある。かかる重要な時期に於て我々は古い考えをすてる事が先決問題だ。
 但し青年層の中にすら未だに封建的思想の抜け切らない者も居る。
 おそらく今の若い者ならば誰しも多少なり民主的に目覚めている筈だ。
 菅谷村ばかりでなく農村に於ては封建的思想がかなり強い。湧き上がる青年層の新しい思想もむしろ阻止されてしまっている。都会に於てはこんな例は少いが、特に農村では親兄弟が封建的な為に自分が思う事も出来ずに居る人があると思う。とにかく農村には昔からの「しきたり」だから仕様がないと云う観念が相当強く頭にこびりついてしまって居る様だ。
 迷信は封建社会には付き物であるが一つ二つ例を拾って見よう。
 ある家では先祖からの言い伝えで正月中は絶対風呂に入る事ができないと言う家がある。又、同じく正月に餅を食う事が出来ないなんて情けない家風もある。もしこれに違反すれば家中病気になって死絶えてしまうそうだ。結婚問題など特にうるさい様だ。年が悪いとか家の方向がどうだとか、一体何処に科学的根拠が有るものやら判らなひ。昔からの言い伝えでもはっきりした根拠があるものも有る。親が言うから兄弟がうるさいからと言って泣きねいりしてしまう様では、新日本を背って立つ事は出来ない。
 我々は進んで新しい民主主義と云うものを封建的な人達になっとくせしめ常に先に立って菅谷村民主化の為の運動を起すべきである。
 講和条約発効の時 今こそ我々を旧ひ時代の流れに逆行させんとする封建的思想をくちくせよ。
                                菅谷村青年団『文化の窓』創刊号(1952年5月)より


鬼鎮神社の参拝者

1951年07月07日 | 戦後史
  昔の光今いずこ 菅谷村の鬼鎮神社
      アルバイトで細々 万を超した参詣者無し

 比企郡菅谷村の鬼鎮神社は武の守護神として県下はおろか全国に鳴り響いた神さま。戦争中は日に二、三千、多いときは万を超す参詣人で文字通りおすなおすなの大盛況であった。かくも盛になった原因は今を去ること七百六十余年の昔秩父の庄司畠山重忠が菅谷城を築いた際、城門大手の東北に、鬼門除けにこの社を祭ったという縁起もさることながら、神官河野氏の奮戦よろしきを得た結果だったらしい。
 時あたかも日支事変の初期、青壮年が続々と召集されていくとき河野氏がほん走してベタ金(将官)を主体とした鬼鎮奉戴会を起した。将官連が参拝すれば何ごとも上へ、右へならえのときとて「余程ご利益があるのだろう」というウワサはウワサを生んで応召者はもちろんのこと、家族友人知己に至るまで参拝に次ぐ参拝、遠く関西、北海道方面からの信者もおしよせた。
 また東武鉄道と組んで往復の運賃祈願料をかみ合わせたクーポン券を発行、戦争末期乗車制限時代にも「鬼鎮さまへお参り」とあれば切符も買えるし特別電車も出したというから肥ったのは神社のふところのみでなく東武電車も余程ご利益のお裾分けにあずかったらしい。神社の周囲に参拝者目あての宿屋、飲食店が十一軒に及んだのも当時の豪盛さがしのばれよう。
 調子にのった同神社では満州独立守備隊全員に守り札を送るべく付近の女子青年団を動員、徹夜作業を続けたり、満州に分社を建てる計画を立てたが、この夢は実現せず終戦、八月十五日を境として参拝者はパッタリ途絶えてしまった。工場ならとにかく神社とあって急に転向というわけにもゆかず、八人の職員を半分に減らし封鎖された金の引出しに苦心しながら居食いを続け、これではならじとアルバイトに力を入れてどうやら今日に及んたわけである。
 祈願料百円、月詣祈願料五十円、特別祈願料二百円と明記した紙はぶらさがっているがせいぜい一日二、三人しかない。「これではとても四人の職員は食べて行けません。徳川時代武士から寄進された鉄棒も三万貫もあったのですが献納してしまいましてナ、今の相場では百五十万円位にはなるんですから惜しかったですよ」これから外祭(神主が信者の家を回って祭りをする)でもさせようかと思っていますが」とは河野氏沈痛のことばだった。(終)
                  『埼玉新聞』1951年(昭和26)7月7日

昭和21・22年(1946・1947)の菅谷村農民組合の活動報告(大蔵・金井元吉)

1948年12月31日 | 戦後史

   埼玉県比企郡菅谷村に於ける農民組合と農業協同組合(大蔵・金井元吉)
 村の概要 当村は比企郡菅谷村で、東上線武蔵嵐山駅を下車すれば、この村である。畠山重忠、晩年の居城の地であり、荒川の上流都幾川をはさんだ丘陵村で「菅谷」「志賀」「川島」「平澤」「千手堂」「遠山」「鎌形」「大蔵」「根岸」「将軍澤」の十よりなる、世帯数一〇四九、うち農家六四四で残り四百戸の二分の一は兼業農村労働者であって、兼農商人は二百戸未満である。水田一四一町、畑二六〇町、桑園八四町で主として畑と山林の村であります。
 昭和二十年(1945)の収穫量は、およそ米二五〇〇石、サツマイモ三六万貫、ジャガイモ一二万貫などである。田畑二町歩以上の経営者は大経営で、全村三戸に過ぎず、普通の農家は七反前後を耕作して生計を維持しているので、一町以上の耕作農家は中堅だといわれている。農地改革の対象となって買上げられる農地をもつ地主は、約百戸におよびその面積は田八町、畑一三八町である。大きな地主はたいてい山林をもってゐる。自作農は二八二戸、小作農二一七戸で自作地面積は田四七町歩、畑九一町、小作地面積は田九四町、畑一六九町で農地の五五%は小作地であり、小作農及び農村労働者の圧倒的な農村ということが出来る。
 したがって牛馬耕が実行されている田は、九八町であるが畑は九一町で、わずかに三〇%たらずである。貧農な生産手段の現状をものがたる要約として村は、麦類とイモ類と煙草を主とする小作農、農村労働者の比較的多い農山村であります


 農民組合の歴史と現在の勢力 小作農兼農的労働者の比較的多い農山村であるから、この村は農民組合が発達する客観的な諸条件をととのえている。菅谷村の農民組合は、この様な村の諸条件のもとに敗戦後の民主化運動の火によって点火されて成立した。その前身は菅谷民政会として昭和二十一年(1946)二月に誕生し、この会が母体としてその年の八月に、日本農民組合菅谷支部が成立した。民政会結成以来の主なる運動は次の五点である。

(イ)火災復興対策 昭和二十一年(1946)三月八日に大火があり、一四戸六三人の罹災者を出したが菅谷民政会は、軍所有の材木を一戸当り二〇石ずつ特配し、又軍服一揃、針、カヤ等まで特配する事に成功し信用を高めた。
(ロ)昭和二十一年度小作料を公定価格金納で断行 この村は畑領であるので畑の小作料は、小麦でおさめる習慣であったが俵当一九円四八銭の公定小作料で統一して運動したので、九月二十五日には全部完納した。
(ハ)政府買上食糧の合理化運動 割当は米一四二石(干サツマ、生サツマ、大豆、トウモロコシをふくめ)、救国米二五石(同上)で計一六七石あったが実際は二〇〇石をこえた割当を、坪刈その他の方法で一四二石にへらした。この収穫予想にたいし実数量はやや多かったこととサツマイモの代替によりって全農民の支持をえ、米三八〇俵、干サツマ三六九俵、生サツマ六六八俵その他で計二八八石を売上げ、その成績は一七二名に達した。
(ニ)増加所得税引下運動 本年四月自作農組合員を主とした運動があったが、全免さえもあり平均して三〇%減に成功した。
(ホ)村自治体えの進出 村会議員二二人中一〇人(ほかに平澤農民組合より一人)、農地委員小作五人、自作二人、農業会理事三人、組織の中心は「大蔵」「根岸」「将軍澤」の三であって、その組織員は一一〇人におよんでいる。現在の組合員数は四五〇人をこえ、全農家の七〇%が組織されている。とくに小作人は全戸加入の現状であり、自作兼地主さえも加入している。この組合の組合員は、共産党の支持が強く党員五〇名をこえている。その勢力の伸長度をみるに村会議員に七名立候補して、全部当選し農民組合員三名をあわせて一一人に達し、二二人の半数をしめていて、共産党中心の農民戦線が成立している。農業会理事一人、農地委員小作人一人も共産党員である。目下のところ農民組合と農業会との対立抗争はなく、農地改革も比較的円満に進んでいるが、それはこの組合の態度と村の共産党細胞が、農業会と農民組合とにそれぞれ独自の政策をもち、それぞれの団体の自由な発達をはかっているからである。したがって農民組合と農業会は対立せず農民組合は農業会役員の乗っ取りという積極性を示さないのである。


 同細胞の両団体にたいする意見はつぎのとおりである。

(1)農業会(農業協同組合)と農民組合とは両立すべきものである。  農民組合は小作人組合から発達した、土地革命を完成する小作農中心の大衆団体で、この目的に従って広く自作農の利益をも守るものである。農業協同組合は広汎な農民の商品生産を発達させる目的をもち、販売組合が中心で金融組合、購買組合が付随し、経営規模の大きさに正比例して農民の利益が守られる。農民組合は農地改革で小作人組合的な性格をなくするから、農民組合すなわち農業協同組合であるという理論は、社会党的な幹部乗っ取り政策と、土地革命における働く農民の熱意を失わせる誤った理論である。したがって農民組合と農業協同組合とは、別な目的をもつたふたつの大衆的な経済団体である。
(2)農業協同組合の組織運動  一村一組合主義総合経営で、有資格者の全部加入の方針をとり中富農の利益を完全に守る。そして農協組の経営を強め完全な発達をはかる。ただし官僚の直接支配と官僚的な経営に反対すると共に、農産物価格とその販売手数料を合理化する運動をおこすこの運動は、政治的であるからその主体に貧農がいなければ強力にならない。
(3)現在「菅谷」「唐子」「宮前」「七郷」「玉川」「八和田」「小川」の七町村を地域にしている酪農組合を強める運動をおこす。
(4)地主に対する態度
  地主制度(政府の大地主化を含めて)は、あくまで廃止する方針であるが個々の地主については弾力性をもってのぞむ。戦争中男子働きての不足で田畑を小作にだしたために、地主になったり女ヤモメで土地を貸しつけた場合などは地主とみないで保護する(二、三の実例あり)。


 農業経営の現状  農民組合および共産党細胞が、このように農業会の即時解体とか幹部乗っ取りを計画しないで、その農業協同組合的な発展をはかっている。そこで現在では、この勢力からおされた理事もたんに、農業会の経営の監視と官僚化を是正するにどどまり進んで販売組合としての農業会の役割の強化には、力をそそいでいない。したがってこれらの左翼的な影響は実際には農業会経営にはあらわれていない。 これを金融の面についてみるとおよそつぎのとほりである。預り金の推移。二一年(1946)八月一日、三、九一七千円、二二年(1947)一月末四、二一二千円(財産税で約五〇万円引出)、三月末三、七三二千円、四月末三、六八九千円、五月末四、一二〇千円(この増加は原因不明)。この数によっても農民組合ならびに共産党の進出は、農業会経営に悪影響をおよぼしていないことがわかる。なお購買事業は主として県農[県農業会カ]の物資をとりあつかい系統外からの仕入は、品質を厳選して現品引換えで代金を支払っているので、サギにかかったこともなく、外国有価証券投資が、三千円にとどまりその損失が少ないので、経営に悪影響がなかったので農民組合がわの反感を買わなかったもののようである。
 総じて販売も利用も手広く経営することをさけ、地味に堅実主義で経営したことが、この農業会経営の今日の安全性を確保したとみられる。
 農業会長は村内の旧家で声望が高いので、諸勢力を協調す[る]包容力があり、専務理事は堅実な経営手腕の所有者であったこともこの農業会内に抗争をおこさなかった原因とみられる。なお五月三十日夜の農業会、農民組合の幹部との座談会席上、両者の一致した意見は次の諸点である。

(1)農民組合と農業会(農業協同組合)の任務はそれぞれ別である。
(2)新農業協同組合は全村一組合、全資格者加入各種事業の兼営。
(3)従業員の待遇改善、技術員の駐在制を廃止して、農協職員とする。
(4)農産物価格および運賃保管料、手数料の引上げ。
(5)農民組合は農業協同組合の設立を積極的に援助する優秀な経営者を、理事に送る。
(6)農業会財産を分割しないで、農業協同組合に譲渡する。

 農業会経営が堅実であり、農民組合および左翼政党員が農業会にたいし、正しい理解をもっておれば両者の対立抗争はさけられると思う。 その結果新農業協同組合設立は全村一組合で堅実な経営が予想される。農民組合は農業会の幹部と経営の乗っ取りに行きすぎなければ、農民組合、左翼政党の強いことは両者をたがいに緊張させるので、それぞれの発達を促進させる。


昭和21年1月~4月の新聞記事から 1946年

1946年04月29日 | 戦後史

   比企の供米成績
比企郡下各町村の供米成績は農民の理解により逐次上昇しつつあるが前年度末における各町村の成績は平村の完納を始として次の通り。
平(百%)玉川(72)竹沢(69.5)大河(62.4)唐子(59.9)七郷(59.2)宮前(57.7)八條(57.3)東吉見(52.4)松山(50.0)八和田(49.2)南吉見(48.7)高坂(43.8)北吉見(42.4)伊草(42.9)三保野(41.2)福田(40.9)出丸(40.3)明覚(40.1)西吉見(40.0)菅谷(35.5)中山(31.0)小川(29.8)亀井(23.3)今宿(22.1)大岡(20.5)小見野(17.8)
     『埼玉新聞』1946年1月10日


比企文化会発会式 仝郡下各町村に支部を設けて新発足した比企文化会は十日午後一時から松山町松山神社社務所で役員会を開催、十三日午後一時松山箭弓記念館で発会式を挙行準備打合せを行ふが当日は式後室伏高信氏の講演、引続き会員の雄弁大会を行ふ。
     『埼玉新聞』1946年1月10日


 村政公吏粛正へ 七郷青年団員起つ
比企郡七郷村男女青年は下からもり上る青年団を去る十五日結成し団長に市川紀元君を、副団長に千野久雄君を推薦して発足した。団員は男女合せて六百名を網羅し、新生日本の建設を目指して自己の修養練磨と、手近の明朗村建設に着目、従来稍(やや)もすれば高圧的に村民に接した不浄公吏の退陣、粛正から第一歩を踏み出す。
     『埼玉新聞』1946年1月26日


 行き過ぎた文化運動
比企郡下では松山町を中心に付近隣村にまで文化運動の興隆を見せ大事の食糧増産の勤労態勢が崩れかけてゐる。日常の勤労もそこそこに薄暮から夜更まで一定箇所に青年男女さては学童までが押しかけて郷土の芸術とばかり歌舞音曲に踊り狂ってゐる傾向はゆき過ぎだと心ある人々をひんしゅくさせてゐる。
     『埼玉新聞』1946年1月30日


  鬼鎮社節分
 『福は内福は内悪魔外』と変った呼称で節分豆撒きを行なふ比企郡菅谷村川島鬼鎮神社の節分祭は、[不明]二千五百名が参集して盛大に[不明]当日午後二時と八時の二回に亘って散豆式が行はれるが、年男には親米博愛党総裁小川万三氏が参列する。
     『埼玉新聞』1946年1月30日


 農村の伝統を尊べ 大和町新倉地方有志
政府が金納制にしたため、地主は還元米を貰ふようになり、これを嫌ふ地主は小作地の返還を迫り、かへって小作人に苦労をかける恐れがある。かうした条件の下では供米意欲は起るまい。しかも農民には永年の伝統や人情もからんでゐるから法的処置のために、地主も小作も不満足を感じ政府に協力出来なくなるのは当然である。
     『埼玉新聞』1946年2月11日


菅谷民生会誕生 比企郡菅谷村大字菅谷根岸丑太郎外二十二氏が発起人となって菅谷村民生会を組織すべく七日午後一時から菅谷農業会内で結成式を挙げ総則、趣旨、綱領を決定。引続き座談会を開催して五時散会した。
     『埼玉新聞』1946年2月11日


けふの話題 ▽私は虎屋の小僧です。この間ある官庁の注文で羊羹を約二万八千本作って納めました。その大部分は大臣以下のお役人が食べ中には自分の家へ持ち帰った人もゐました。その費用はそこの機密費のなかから出てるさうです。
▽うちの近くでは乳が足りなくて死んだ赤ン坊もゐます。また子供に飴一本買ってやれない人もゐます。かういう勝手な人達を早く日本からなくしたいものです。
▽悪い人をやっつけて下さいと題して右のやうな貼紙が街の電柱にはってありました ― これは東京の話 ―
     『埼玉新聞』1946年4月29日


 松山で農組連合結成
松山町を中心として付近町村に結成された農民組合の連合結成式は一日午後一時から松山町箭弓神社記念館で開催されるが、主宰は野本農民組合長金井塚勇一氏で高坂、菅谷、宮前、福田、大岡、唐子の各農民組合員多数が参集して規約、綱領等を決議し共同戦線を張る。当日社会党県支部からも幹部が出席して指導、講演がある。
     『埼玉新聞』1946年4月29日