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埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

軍隊見学の感想 栗原正敏 1928年

2009年09月30日 | 栗原正敏(日記、作文)

   軍隊見学の感想
            三乙十八号 栗原正敏
 あこがれてゐた軍隊を見学した僕の心には何が一番深くきざみこまれたらう。
 感想とは一がいに言ひないが兵隊と一しょに宿泊したのでまあ感じたこといろいろを記す。
 初め隊に入った時にはどこを見てもカーキー服の兵隊さんばかりが目に着く。会ふ度毎に先生に敬礼する。なんだか僕等が敬礼されてゐるような気がして妙にむづかゆいような気がする。これだけでももはや得るところはあった。
 上官に対する礼儀。まったく規律正しいものだ。僕等は学校で先生に会ってもなるべくならば礼をもうけようとする。まったくもってはづべき次第だ。至ってもってにぶい僕の頭にもこれだけは残った。残ったから得る所はあったのだ。
 庭で各中隊に分けられていよいよ兵舎に入る。まだ各班には分れない中にまた庭に集合し機関銃教練見学に向ふ。広い所で教練をやるのかと思ったならまったく広くないところだ。ここで感じたのは兵隊の手の振り方の面白い事だ。後には少しも振らないで前にばかり振って丁度玩具の人形の手の振り方見たいだ。
 然し兵隊さんは真じめだ。本気だ。そして汗みどろになって練習してゐる。僕等も笑ふわけにはいかない。一生懸命見てゐた。すると教練をやらせてゐた眼鏡をかけた軍曹ぐらいの兵隊がどうしたのか知らんが矢庭に一人の兵隊を列中よりずりだした。どうするのかと見てゐると大きな声で今のあるき様はどうしたのだといってつゝついた。兵隊は足がゐたいでありますといった。軍曹は足がゐたければ事務室に行けといってつつついた。兵隊は行って参りますと云って出掛けた。目には涙をためてゐる。
 僕の頭には釜のしりにすすがついた如くに此の事はきざみ込まれた。軍曹の奴生意気だ。
 あんなにまでしなくても良いだらう。僕は軍曹の仕打がにくくてたまらない。後で少尉殿の機関銃の説明があったがにくくてまらない軍曹の方にばかり気を取られて又伝書鳩がゐたのでそれにも気を取られて半分以上聞き落したかも知れぬ。何にしても一番忘れられないのは此の一事だ。○○少尉の説明終って、誰かかついで見たいものはないかと云った。僕は早速かついで見た。とても重い。肩が折れてしまひそうだ。下そうと思ったらかけ足前といふ号令が下った。命令かしこまってかけ足したがずいぶんと重かった。 次に軽機関銃の教練を見た。別に何も感じなかった。ただ服のよごれたのを着てゐたといふことが目に残っただけだ。
 各中隊に帰って昼食を食った。弁当を食ひ終ったならそこに昼食が運ばれた。
 可笑しい、可笑しいと思ってゐる中に伍長が来て早く食ひといふわけだ。いくら食ひといったって今弁当を食ったばかりだ。然し軍隊に往ったら何でも命令を聞けといはれたので食った。然しほんの手をつけたに過ぎなかった。
 一人軍曹が来てこの位食ひなければ教練をしてゐる甲斐がない。兵隊になれないなぞと云った。僕は軍隊では昼食を二度食ふのかと思ったらば命令のあやまりだそうな。なんだ僕だって弁当を食はなければ此の位の飯は二人分位食へると思ったが弁当を食ったので食ひきれなかった。然し腹一ぱいの上に少しでも余分に兵隊の飯を食ったので腹をこはしてしまった。其のために目指してゐた夜の飯はこれ又ほんの手を付けたのに過ぎなかった。夕食後入浴にゐった。浴室には数人の兵隊さんがはだかになってゐた。僕も兵隊の気になって共に湯に入った。話をしてもいつも兵隊は気持のよいものである。
 班に帰って寝てよいのか悪いのかもぢもぢしてゐると中隊長代理だといふ伍長が来ていろいろの事を話してくれた。なかなか親切な人であった。そして終に寝台のね方を説明してくれた。誰かねて見る者はないかといったので僕は早速入って見た。きうくつなものである。
 時間が来て点呼を受けて寝台にもぎり込んだ。すると班長が来て兵隊を全部起していろいろと学課の試問をやった。なかなか元気のあるものである。できなければできませんと答へる。僕等の様にぐつぐつはして居ない。
 成程ああゆうにやれば三年生は意気地がない、元気がないなどといはれなくもよいと思った。其の中に寝てしまった。朝の起床時間前十分ばかりに目がさめた。六時一分前位の時に起きろと大きな声で兵隊さんが廊下をどなってあるいた。僕は飛び起きた。いつも家にゐては起されてから一時間もぐつぐつしてゐるのであるが其の朝は自分も兵隊の気でゐたから起きられた。点呼を受けてから顔を洗ひ湯に入った。
 七時に朝食。朝食後一時間ばかりして軍隊の各部を見学した。靴屋もゐれば服屋もゐる。なるほどこうゆうにやれば戦時に便利だと感じた。
 十時別れをしき第二聯隊を去った。

全体ヲ通シテノ感ジ
 一、規律正シイ
 二、厳格デアル
 三、上官ニ対スル礼儀厚イ
 四、元気デアル
 五、器具ヲ大切ニスル


谷川の朝 栗原正敏 年欠

2009年09月29日 | 栗原正敏(日記、作文)

 ごうごうといふ流の音に目覚めた。
 起き出て見れば天幕の中なり。あ、そうだ。私等は奥秩父探検の途中なる谷川に露営したのだ。
 友はよくねむってゐる。時計を見れば午前の二時。明るく見えたのは月の光であった。
 月は青い光を私等の天幕の上に投げてゐる。なんといふ淋しい明け方であらう。山には猿のなき声が聞える。キーキーキー。
 私は思はず友を起した。友も寒さのために眠られぬといった。実は私も非常に寒かったのだ。そこで蒔木(まき)を集めてどんどんもした。
 なんといふ淋しい明け方であらう。
 あのキーキーといふ猿の声はまだ止まない。
 キーキーといふ猿の声に、ごうごうといふ流の音。淋しげになくかじか蛙の音、淡き月影。
 人里離れた谷川の明け方は静じゃく其の物であった。淋しい谷川の朝はこの語より外に形容することは出来ぬ。猿の音、かじかの音、月影、水の流、山、川。  大尾(たいび)*

*終り。おしまい。


健康は成功の基なり 栗原正敏 1929年6月

2009年09月28日 | 栗原正敏(日記、作文)

   健康は成功の基なり  昭和4年(1929)6月5日
              第4学年乙組14番 栗原正敏
 頭のよい秀才が体の弱いために学校を卒業すると病気になって国家のためにつくすべき務を果さずに、又希望をいだいたまま死んでしまふというのはよく聞くことである。此のやうな秀才が若し健康な体の持主であったなら、国家のため、いな人類社会のためにいかにか役立つことをするであらう。死んで行く身になっても、いかに残念なことであらう。それにひきかへ、学校はやっと卒業しても、成功するものは少くない。それらは皆健康な体の所有者である。
 総理大臣田中義一を見よ。彼は健康なるがために実に今日をきづきあげたとしても過言ではあるまい。彼が運がよかったとしても、彼にあの体がなかったなら、今日の位置は得ることは出来なかったらう。
 又、彼の伊太利首相のムッソリニを見よ。彼は十幾つかの大臣を一人で兼任してゐるではないか。そして事務の急がしいために、僅か四時間とかきり寝ないといふ。若し彼の身体が弱ければ、彼の命は一月もつづくまい。彼は健康なるがために伊太利を一人で背ってゐるのである。
 又、我が県出身の渋沢栄一にしても、あれだけの体に、無理をしても病気にならぬといふは、彼の体の健康の然らしむるところである。体が弱くて出世したといふものは、まだ僕は聞いたことがない。健康なればたとひ失敗してもまだ望はある。死んでから成功したものは、まだ僕は聞いたことがない。先づ健康、健康は成功の基。実によく言い表はした言葉である。

  評:体が弱くても成功した、貝原益軒先生の如き、或は高山樗牛の如き人もあるが、これは例外とすべきであらう。


朝顔に 栗原正敏 1928年11月

2009年09月27日 | 栗原正敏(日記、作文)
   朝顔に  昭和3年(1928)11月10日
        第3学年乙組18番 栗原正敏
  朝顔につるべとられてもらひ水 加賀の千代
 昼間は百度近くもある暑さの夏も朝は涼しい。
 そよ風が吹いてまことに良い気持がする。日は将に出でなんとして東の山は赤くなりはじめた。
 顔をあらはうとしてつりに手をかけた。が、手は自然につるべよりはなれた。はなさざるを得ない光景を発見したからである。朝顔はつるべにつるを巻きつけて長からぬ生命の花を三つばかしつけてゐる。昼間にはしぼむ生命をも知らないかのように。ほほえみさへうかべながら。
 此の様を見てどうして水を汲むことが出来よう。
 水をくもほうとすれば朝顔のつるは切れる。そっとつるをほどこうとしてもほどけない。ほどかうとするのは無理だ。此の花とて長くの生命はないのだ。みぢかき生命をなほもちぢめるといふ無慈悲なことが出来ようか。
 もしも切ったなら、上に残りしつると下に残りしとはさぞかし別れを悲しむであらう。
 さう思ふと妙に朝顔にしたしみがわき出てくる。
 そして終に隣にもらひ水に往ったのである。
 家に帰りつるべを見れば、朝顔は感謝の心をあらはすかの如く、ゆらゆらとゆらめいていた。

化けものの 栗原正敏 1928年11月

2009年09月26日 | 栗原正敏(日記、作文)

   化けものの  昭和3年(1928)11月10日
           第3学年乙組18番 栗原正敏
  化物の正体見たりかれ尾花 横井也有(よこいやゆう)*
 村の社に祭あり、余興ありといふ。出ることのきらひでない僕は、明日の試験をも一点のくもりまなく十五夜の月のようにからりと忘れ、見物にぞ行く。
 田舎の祭はなかなかに面白い。あまりに広くもない社の庭は老幼男女が一ぱいだ。
 若き男女の行き交ふもあり、子どもの手を引いた老人もある。余興も村人がやること故、面白さも一しほ加はる。
 面白さのために時のたつのも忘れて十二時近くになった。其の中、明日の起床時間が気になり出した。
 然し人々はまだ帰らない。僕の家の近くの人にはまだ帰りそうな顔をしてゐる人はまだ一人もゐない。
 帰るのをさそうわけにはいかない。が、帰りたいと思ふともうたまらなく眠たくなる。然し一人で帰るだけの勇気はない。その中にねむけはさす。とてもたまらない。
 思い切って社を出た。あれ程のにぎやかさも社の石段を降りるとしんとしてしづまりかへってゐる。
 僕の臆病神はそろそろと出現し出した。路もよくは見えないくらいの暗さである。僕はずんずんと急いできた。
 と道傍にちらりと動いたものがある。化物だ。僕の神経はさえた。が、どうも化物にしてはをかしいとよくよく見るとなんのことだ。かれたすすきであった。それを見てからはびくともせずに家に帰った。

*1702年(元禄15)-1783年(天明3)。尾張藩の武士、国学者、俳人。俳文集『鶉衣』(うずらころも)。「化物の正体見たり枯尾花」「枯れ尾花」は、枯れたススキの穂。
  参照: 竹内睦夫さんのHP『俳句の森』「横井也有
   HP『
小さな資料室資料282 横井也有「奈良団賛」
   HP『名古屋なんでも情報27 横井也有-鶉衣の世界


別れし先生に送る 栗原正敏 1928年6月

2009年09月25日 | 栗原正敏(日記、作文)

   別れし先生に送る  昭和3年(1928)6月30日
             第3学年乙組18番 栗原正敏
 ああ私は四月十日を永遠にうらみます。四月十日よ、私の暦よりなくなれ。四月十日、四月十日、私は此の日に悲しい事実を知ったからであります。私はなんといってよいか分りません。四年の昔、先生*1は丁度私の尋常五年の時に私の学校*2に新任されました。それから四ヶ年、私を弟の如く愛してくれました。小学校在学中はもちろん、中学校に私が入学してからも、私は先生が小学校にいたために、よけいと母校にも足を向けたのです。今、其先生は遠い大里の小学校に転任されました。四月十日をもって、私の母校を去ったのです。
 今四年の昔をふりかへって見ますと、様々な楽しかったことが目に浮かびます。或時は花の熊谷に、又或る時は海岸の北條*3に、私の生涯にとって、此の四年は楽しかった時でせう。然しもはや四年は過去の事実となりました。
 現在より見ますと花の熊谷が何でせう。皆過去の事実に外ありません。然し私は過去の四年を永久に愛すでせう。
  私の未来に、また先生の未来にどんなことが起るか分りません。然し私にとっては過去の四ヶ年間程のものは未来に来ないと信じます。然し仕方がありません。皆運命であります。私は先生にいただいた写真を形見に大切にしておきます。どうぞ先生も、あの七郷の片すみに栗原正敏といふもののいたといふことを忘れないで下さい。さようなら。
 さようなら、七郷の片すみにて先生の健康をお祈りします。

  *1:市川清先生カ。
  *2:七郷尋常高等小学校(現・嵐山町立七郷小学校)。
  *3:南房総、館山市の北條海水浴場(鏡ヶ浦)。


旅行の思ひ出 栗原正敏 1928年6月

2009年09月24日 | 栗原正敏(日記、作文)
   旅行の思ひ出   昭和3年(1928)6月16日
             第3学年乙組18番 栗原正敏
 私は今、韮山城址に立って韮山中学の国語の先生の指さす方向を見てゐる私自身を見出します。私は会い変ずぱかんとしてをります。私の目のとどく所には箱根山があります。電車が走ってをります。目の下には韮山中学の小さな校舎があります。
 生徒が運動場でリレーをやっております。あ、一人ころびました。丈の高いのが抜きました。埼師の生徒が「速い、速い」などとはやしたててをります。私はぽかんとしたかほつきでいろいろと見入ってをります。私の目には見るもの聞くもの、皆めづらしく見えます。終業のラッパの音があたりの静かさを破ってなりひびきます。生徒がどやどやと運動場に出てまいりました。体操は終へました。鉄棒にぶらさがるものもあります。キャッチボールをやるものもあります。おや、一人の生徒がボールをにがして追ひかけてゐきます。やがて私等は城址ををりて校庭で辨当をひろげてをります。辨当のうまさはかくべつです。私には次々といろいろなことが想ひ出されます。あたかも走馬燈のやうに。私の目には何十里はなれた韮山中学の様子が目にうかびます。私は辨当の包んであった紙を捨てました。考へて見ると私は今松山にゐるのか、韮山中学校庭にゐるのか分らなくなってしまひます。然し教壇に山本先生がゐるからには松山に相違ありません。今春の旅行は終りました。そして、もはや思ひ出になりました。あゝ来年の旅行が待ちどほしい。

ある朝 栗原正敏 1928年4月

2009年09月23日 | 栗原正敏(日記、作文)
   或る朝  昭和3年(1928)4月3日
         M・K
 春のまだ浅い春の朝。或貧乏な家にさはがしい音がする。三吉は学校に行くとかばんを肩にかけた。然し弁当を持たない。「おっかあ弁当は何持ってゐぐんだ」といふ。彼の母は「別に何にもない。割飯でももっていげ」といふ。「割飯じゃ、いやだい。丸山の武ちゃんは毎日白いまんまに卵焼きだい」「そんなこといったって丸山の家は大身。家なんか学校にやるのがやっとだ。じゃ、さつまのやいたのでももっていけ」まだ物分らぬ三吉「いやだ、いやだ」といふ。之を寝床で聞いた彼の父、起き出で「何、割飯がいやだ。そんなら学校へ行くな」まだ三吉は泣きじゃくってゐる。「野郎なぐるぞ」と父は息巻く。然し三吉はまだ家を出ようともしない。彼の父の怒はばく発した。いきなりかけより泣きじゃくる三吉をつかまひ、ところきらはず打った。然しどうしても三吉は家を出ようともしない。ますます父は怒り、荒縄でしばり打った。母は止めようとおろおろごえで「父っやかんべんしてやらしゃあ」といえども、■■のことと止める能はず。三吉終に泣き声で「何もいはねいからかんべんしろ」といふ。「きっとか、きっとか?」と父はいふ。そして縄をほどいた。するとばらばらかけだし「馬鹿野郎、馬鹿野郎」といって逃げる。父は「何だ、やらう」と後を追ふ。手には金火箸を持って。どんなに逃げても、大の男にはかなはない。「野郎待て。今日は助けないぞ」とやがて追ひつく。母は近所の人を呼ぶ。だんだんにその声を聞きつけて走りつけた人々は、またその後を追ふ。「何だか知らないが狂人じみたことはよせ」と人々はさけぶ。三吉の父、いっかなきかず、泣きわめくを捕らひ、さんざんに打つ。火箸はまがる。その中に丸山の旦那かけつけ「何するだ。見っともない。よせ」としかる。地主の■■■にきいたか、三吉の父は「どうもすみません」とわびる。
 「分ったらよい。三吉もよく言ふことをきいて学校にいけ」といふ。三吉「あい」と答へる。彼の父はまだ身体の怒がおさまらないらしく、手足をぶるぶるさす。三吉はしくりしくりと泣きながら、その場をさる。人々は思い思いに元来た方に去る。
 三吉の父はいつまでも首をうなだれてゐる。丸山の旦那も去る。彼の父はきっと此の時、いつもより以上に貧乏の悲哀を■じ得たであらう。どこかでそんなことにはとんちゃくなく、はとの声がする。 終り

元旦日記 栗原正敏 1928年1月

2009年09月22日 | 栗原正敏(日記、作文)

   元旦日記
         二乙・栗原正敏*
 ココケーコウといふにはとりの鳴声があたりの静けさを破って聞えた。
 にはとりまで昭和三年になったと思って、いやに大きい声をする。
 僕も飛び起きた。起きて見ると天気は清恵、風和なようだ。けれども相変らず寒い。顔を洗ってしまうと縁先にお早うと郵便屋さんの声がした。行って見ると年始状を一たばほほりこんで行ってしまった。
 およそ五十枚ばかりだ。大抵は父の名あてだ。僕のは五、六枚きり無かった。僕はほっとした。何故といふのに返事をたくさん書く必要がなくなったと。
 朝飯はお雑煮であった。僕は一ぱい食べた。諸君僕のような鎌足公の後エイ【後裔】がたった一ぱい切りかと思って心配するには及ばない。実は腹一ぱい食べたのだ。何でも回を重ぬること五、六回だったろう。次に便所に行った。お正月でも便所は例年の通りくさかった。
 それから学校の四方拝の式に行った。友達は皆楽しさうな顔をしてゐた。
 中には私は雑煮を食って来ましたとわざわざ御ていねいに口のまはりにのりをつけて来たものもあった。僕はあまり楽しかったので、式のときに豆フ【豆腐】の始は豆であるを思はず歌ってしまった。又校歌を二番と三番をとり違へて歌ってしまった。然し校長先生のお話は例年の通りあまりに面白い話ではなかった。
 式を終へて家に帰る時に、私は何かお忘れものはないかと思った。何故かといふと一月元旦の四方拝にもちなり、みかんなりをくれると思ってゐたのに、何もくれなかったからである。帰る途に小学生がみかんをむきむき帰るのを見ると小学生がうらやましくなった。僕なんぞ中学校に入学せず、小学校の高等二年に行っていれば、うんといばれておまけに、式の時なぞは残ったみかんはたらふく食ふことが出来たものをと。
 午後は風が少し吹いてたこ上げにはもってこいだ。僕は近所の子供を引きつれ、田んぼにたこ上げに行った。初めはたこは宙返りばかりしてゐて、うまく上らなかったが、だんだんにあがりはじめた。
 上がると面白くなって来て、たこ糸を子供にもたせてをいて自分は糸買いに行くさはぎだった。面白い、面白い。上る、上ると思ってゐる中にとうとう糸代金五銭也を不意にしてしまった。といふのは、時に強い風が吹いて来て、たこ糸もろとも天高く上げてしまった。大方今頃は浅間山のフン火口【噴火口】にでも入って鉄道自殺より首かかりよりもっと面白い死に方でもしてゐるだらう。
 何にしても一月元旦は面白い日であった。此の分なら今年は余程面白い年だらう。
 然し心配なのは一月一日は此の様に日記には書ききれず、他の紙にまで書いたわけだが、これが十二月三十一日まで続くか否かだ。
 去年も一月一日は書ききれなかった。二月一日頃は約半分きり書けなかった。三月の終り頃は何を書いたのか、ただ白い、そしてすぢのある日記帳が机のすみにほほり込んであっただけである。  終り

*1913年(大正2)7月、七郷村(現・嵐山町)広野に生まれる。1926年(大正15)3月七郷尋常高等小学校卒業、同年4月埼玉県立松山中学校(現・埼玉県立松山高等学校)へ入学。二年乙組在学中の作文である。


見たまま 栗原正敏 1928年3月

2009年09月21日 | 栗原正敏(日記、作文)
   見たまま  昭和3年(1928)3月1日
                 第二学年乙組 栗原正敏
 ぶうんぶうんといふ飛行機の音と同時に始業のラッパがなりひびいた。皆窓の方に走りよった。先生の来られたのも知らずに。
 然し級長は目のきいたものだ。先生がくるとすぐに起立をした。皆元の場にもどって礼をした。その時に誰かがとっぴな声でまたまたとさけんだ。先生も笑った。生徒も笑った。僕も笑った。然し礼はしてしまっても生徒の心は飛行機に向いてゐた。その中にがたがたといふ音が学校の屋根の方にひびいた。皆ずいぶん下りたものだと考へた。まだ授業は始めなかった。すると突然何ともいひない大きな音がした。下りた、落ちたと南の側のものはさけんだ。それといふと窓より飛び下りるものもあり、ドアを開けるにいそがしいものもあった。僕も皆の後につづいた。現状に到着するとはいふものの、現状はここから百米もはなれてゐない。柵は倒されてあり、飛行機は「しゃちほこだちでござい」そっくりだった。
 僕等は一様に飛行士はどうしたと声を発せずにはいられなかった。すると飛行機の下からもくもくとはひ出たものがあった。我が松中のほこり(ほまれ及びほこり(砂ぼこり))をあびて。それは飛行士であった。皆自分のことかのように無事でよかったといひ合した。このやうに飛行機といふものは危険なものだ。それを何んとも思はず、いな一命をなげうって、国のためにつくすために練習していられる飛行士に対して、私はなんともいはれない畏敬の念がおこった。

米集め 栗原正敏 1928年3月

2009年09月20日 | 栗原正敏(日記、作文)
   [米集め]  昭和3年(1928)3月13日
           [二乙 栗原正敏]
 今日はと戸をあけると、ああお坊ちゃんですか、米集めですって、路の悪いに御苦労さんです。まあお上りなさいと下にもおかぬ鄭重(ていちょう)ぶりだ。私は言はれるままに上に上った。
 さあとお菓子を出す。お茶を出す。お茶はきらいですといふと砂糖湯をこしらへてくれる。私は思ふ。人といふものはまったく親切をしておくにかぎると。今も私は父が親切に家に使ってくれた人の家で鄭重にあつかはれた。また思ふ。人といふものはいつどうなるか分らないものであると。私の家も田も五、六町もあって、作男の五人もゐた当時を思い出して、今の身にくらべて、栄ふれば必ずおとろうの話のうそではないことを知る。しばらくしてここを去る。
 次の家に入るとここの家では私をじろりと見て、いやな顔つきで出してくれた。なんでもこの家では他日の衆議院の総選挙に私の父と反対の候補者をたてたところから、折り合いがよくないそうな。この家を出るともう袋は重くてたへられなくなった。まだ集める家は十軒位あるが、一先づ家に帰った。家の門の前で南京袋に米を入れたのを背おったいらいかっこうで、余りものを下さいと物貰ひのまねをすると、おばあさんが妹に米を出してやりなといったので、私は思はずふき出すと、また例のいたづらかと笑った。

春 栗原正敏 1928年3月

2009年09月19日 | 栗原正敏(日記、作文)
     昭和3年(1928)3月12日
       第2学年B組 栗原正敏
 ああ待ちに待った春はおとづれた。庭の梅も今満開だ。
 春は我々人間にたとひて見れば丁度十五、六の将に青年期に達せんとする少年である。彼の少年は人々のすくようなきれいな衣装を身にまとって、さもじまんげにこれ見よがしにやってくる。木々の芽は生えはじめた。
 谷川の水もさらさらと流れ出した。地上のあらゆるものは皆春の着物を着つつある。小鳥は谷川の水にのどをるほし、さもたのしげに歌ってゐる。人々の口びるにはかすかなうごめきがある。空はよく晴れてゐる。
 私は用事があって外に出た。風もさほどつめたくはない。子供らはきゃきゃとあそび、たはむれてゐる。私の眼中にはそれれの子供が尊い神の童でもあるが如くに見えた。
 私はこれらの少年の如く思ふままに無邪気に遊んだ五、六才の頃が眼に見えるやうな気がする。母もゐる。私はやんかんでさんざん母を手古(てこ)ずらした。母は病身であっただけに又それだけ私を愛した。私が六つの時にあのやさしい母は、私等兄妹を残してあの世に旅立った。私の眼には当時がまざまざと浮んだ。どこやらでほうほけいきょとうぐへすの声がした。私にはうぐえすの声があのやさしい母が私をよんだ最後の時の声のやうな気がする。またうぐえすはなく。

紅葉散る 栗原正敏 1928年10月

2009年09月18日 | 栗原正敏(日記、作文)
   紅葉散る  昭和3年(1928)10月20日
        第3学年乙組18番 栗原正敏
 秋となった。木葉はだんだん紅葉した。妙にさびしいやうな気持がする。私は秋の紅葉を思ふと母を想ふ。たそがれ近き日、私は庭の紅葉を拾ひ集めてゐた。近所の子供等と共に。紅葉はちらちらと散る。私等は無心に紅葉をひろひあつめて客遊びなどをしてゐた。
 庭先に人力車が着いた。私は妙な気をもちながら見守った。中から出て来たのは私の家に度々くる医者であった。
 此のとき幼なごころにも胸のどよめきはあった。私の目は医者のあわてた如き様を見逃しはしなかった。
 母は病気で長く床についてゐる。一日をき二日をきには医者が来てくれたが、いつも今日のやうにあわてた様子をしてゐたことはない。突然家の中から「早く早く」とあわてふためいた父の言葉がする。医者は急いで病室に入った。
 「正敏も正敏も」といふ父の言葉。私は夢中で病室にかけ入った。医者は母のやせおとろひた手をにぎってゐる。私等は皆病床近くをとりまいた。皆すすりないてゐる。私も泣いた。
 医者は「残念ですがだめです」とおごそかな口調で云った。母に対する死の宣告である。母は目を開いた。そして私の手をにぎった。口を開くことすら出来ない。私は声を上げて泣いてしまった。母はしづかに目を閉ぢた。水は人毎に母の口に注がれた。飲み込むことは出来ない。私の手をにぎったまま、母は静かに永遠のねむりについたのだ。庭の紅葉は風もないのにちらちらと散った。

七郷村長市川武市、役場吏員から出征兵士への慰問文 1943年10月29日

2009年09月16日 | 戦争体験
外地で御奮戦の諸君、又内地で御奉公する皆さん、御元気のことと推察申上ます。
新聞ラヂオで報道さるる戦果の度毎に、我々は感謝と感激をすると共に、皇軍の労苦や如何と案じて居ります。
戦塵を洗ふ一時、塹壕の中で見る中秋の月、或は兵舎の窓から諸君は故郷を偲ぶでありませう。その七郷村は何の変りもなく一同元気です。枯影を慕ふ暑さも過去って秋風が西から吹き、心配した稲熱病も案外軽く済んで、青黄い稲穂が南に向って首を垂れ、もづの鳴く声も一きわ高く、栗の実の熟する秋の風景を呈して居ります。若人の心を集むる十三夜も今日です。一昨日来降り続いた雨も晴れて、雲足も早く青空となって名月が眺められます。
諸君の揚げた戦果に答えんと、全村民心を合せ一体となって、生活戦に、増産戦に、貯蓄戦に奮闘を致して居ります。諸君から御便り戴く度に返信は差上げて居るつもりですが、雑務に取まぎれ失礼したこともあると思います。御許しを願って、今度軍人援護強化運動の展開せらるヽに当り、隣組の慰問文を取纏めて村の近況と合せて報導し諸君の労を慰め致します。
本年の麦の供出割当二八〇〇石も美事に完遂。晩秋蚕も極めて成績良く、五二〇〇貫、一昨日出荷終了。今月三日大雨があったが本村は被害も少く、米も平年作は獲れるでせう。甘藷の供出割当十万貫餘、薪炭二十万束、藁工品一万八千貫の大任も果したいと考へて居ます。
国民貯蓄も十二万円(総額四十八万七千国債五万八千円)も、九月迄五万二千二百八二円各団体の総力で完遂の見込です。
青年学校の査閲も十月三日に宮前校で、宮前、福田、七郷の三ヶ村で受閲しましたが成績極めて良好(特に銃剣術)。体力検査の結果、弱者十九名が高見の明王寺で九月二十五日より十一月二十五日迄県民修練を行って居ります。体力テストも十月十六日に行なひました。今年は女子百餘名も行ひ、上級一名、中級廿二名、初級六十三名の良成績を挙げました。村のニュースも後便にゆづり、本日はこれで筆をたち、諸君の武運長久を吏員一同にて御祈り申します。
          村長 市川武市
          助役 阿部宝作
             船戸恒作
             藤野菊司
             ■田健吾
             馬場芳治
             杉■松雄
             馬場ミツ
             福島富
             小林政市
             安藤弘

海軍入隊大塚新作さんへの慰問文 1 1943年6月頃

2009年09月15日 | 戦争体験

新ちゃんお変わりありませんか。希望に満ちた一日を送っていらっしゃる事と遠察します。
さあどんな姿でせうね。想像がつきませんね。
学校の教材にも沢山海軍思想涵養につとむるものがあります。
一年では工作でお舟や軍艦を作らせ、二年では軍艦の歌があり、遊戯あり、その他落下傘部隊あり、各教材とも完璧を期してゐます。
今年は大変に先生方が変りました*1。私は相変らず古だぬきで暮しています。
新ちゃんの組からは井上朝恵*2、強瀬良晴さんが出願し■て征途につきました。
今年は高二女の担任でしてね、実に珍風景を呈してゐます。
大きい子供、小さい先生、殊に体操の時などは相当閉口します。
馬力ある子供の指導ですから、へばりますよ。
こちらはいよいよ農繁期に入らうとしてゐます。毎年勤労奉仕とし東京の家政学院生徒を迎へますが、本年は自力だけで行ふさうです。
蚕も四眠起きてゐます。何時から休みにしようかと調査中です。
山本元帥の国葬も目前に迫りました*3。
悲しいのか憎いのか惜しいのかはっきりと名状し難い気持です。
航空戦力の偉大さは世界人類の認むる所です。
この複雑にして変転極らない戦々に於て、山本元帥の如き作戦家を失ふ事はほんとに惜しくて惜しくてたまりません。
新作さんしっかり頼みますよ。
山本元帥の悲報に又してもアッツの血戦。
仇敵米英一日も早く打のめさねばなりません。
アッツの悲報*4には子供と泣きました。
憎悪の念はむらむらと燃え上って来ましたよ。
ほんとに自重なさいまして御推進下さい。
及ばずながら私も教育道を通して米英撃滅に拍車をかけてゐます。
では又の日に
 六月一日        かしこ
            金子ひさ
大塚新作様


新作君元気で軍務につくしてゐることでせう。
しばらくお便もやらず古里を心配してゐることでせう。
もう麦も刈るばかりに伸びてゐます。かひこも大きくなって来ました。四月の遠足は長瀞でした。
八郎さんも勝一君も元気であそんでゐます*5。
新作君も軍艦に乗って南太平洋や北太平洋ばかりでなく印度洋まで乗出すことでせう。
一生懸命軍務に精励し早く帰って僕等に戦闘状態を聞かせてくれ。僕等も必勝の信念をもって勉強します。ではこれからはなほしっかり軍務につくして下さい
           さやうなら
大塚新作君
 埼玉県比企郡七郷学校安藤向*6候

※大塚新作。1925年(大正14)9月21日、古里に生まれる。1938年3月七郷尋常高等小学校高等科卒業。1944年(昭和19)3月6日、横須賀市海軍病院で病死。海軍水兵長。
  *1:「七郷国民学校職員より出征兵士への慰問文 1943年6月1日
  *2:井上朝恵。1925(大正14)9月16日、広野に生まれる。1938年3月七郷尋常高等小学校高等科卒業。1944年(昭和19)11月29日、フィリピン方面海上で戦死。海軍水兵長。
  *3:1943年(昭和18)4月18日、連合艦隊司令長官・山本五十六戦死。5月21日、大本営、戦死を発表、6月5日、国葬が行われる。
  *4:5月30日、大本営、アッツ守備隊が「全員玉砕」と発表。
  *5:大塚八郎、大塚勝一。大塚新作の弟。
  *6:古里向イ(むかい)の安藤義雄?。