GO! GO! 嵐山 2

埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

思ひ出 大蔵・村田ふみ 1958年

2009年07月28日 | 菅谷地区婦人会『つどい』

 漸く愛らしさを増して来た生後五ヶ月の長女と共に夫を中支の戦線に送ったのは十八年(1943)の秋九月中旬だった。無事復員する迄の二年八ヶ月は忘れ難い思い出を残して……。

  我暫しと吾子を抱きて佇(たたず)めど見返りもせで夫征きたり
  われ父の愛情其のまま受けつぎて吾子慈しむ夫征きてより
  待ちわびし征きたる夫の初便り心せわしく開きてぞ読む
  日に増していとしさ増す吾子いだき一目なりとも見せ度しと思う
  逝く秋にはらはらと散るわくらばのなぜか淋しく夫の偲ばる
  暫し見ぬ夫の写真なつかしく今宵しみじみ灯下に見る
  冷えびえと夜気をふるわす汽笛に遠く思いは夫の身にやる
  なつかしき夫の俤(おもかげ)しのびつつ溢れるこころに便りしたたむ
  ばんざいの声みやしろにこだまして今日も出で征く召されし兵は
  軍事便久しく絶えし此の日頃古き便りをくり返し読む
  万感を捨てて励まんひたすらに軈(やが)てあぐべき勝鬨(かちどき)のため
  我が希望ほほえむ春は遠くとも貫き抜かん心の冬を
  よちよちと歩く姿も愛らしくあゆみおぼえし今宵嬉しき

 種々の思い出を心の内に残して、早や終戦後十三年、戦争の面影すら感ぜられない此の頃、でも私達の心の内には、あの恐ろしい悲惨な戦い、そしてあの出征時の悲しい切ない別離のつらさ等々、第二の誕生日とも言うべき無事復員したあの日の喜びと共に生涯忘れる事は出来ない。
 二度とあの戦いのもたらす悲しみは味わいたくない。特に農村の家族制度と忠義の押しつけの様な軍国主義との板挟みにとなって、可弱い女の心と肉体とで体験したあの頃の思い出、もう私達だけで沢山だ。我が子にも孫にも永久にあの戦いの怖さ辛さを味わいさせたく無い。少しは物資に不自由はしても、明るく楽しい民主主義、そして戦争の無い平和な日々が続いて欲しい。永くながく永久に平和で有ります様にと願わずには居られない。
     菅谷地区婦人会『つどい』創刊号 1958年(昭和33)11月


古くさいポスト 志賀・八木原くに 1958年

2009年07月27日 | 菅谷地区婦人会『つどい』
 私は字の一番はづれの山の中の一軒家の農家の婦人で有ります。昔者故に自転車には乗れないし、又乗物は電車や自動車は大嫌いです。其の為に出巡り用は、主人や子供達に頼み、私は家にくすぶって農事にはげんで居りました。今迄は婦人会の事等あまり気にもとめなかった私に、今度婦人会の組の役が巡って来ました。はなれ家の為に今迄役を受けなかったので、今年は組の役をいさぎよく引受けて来ました。次に各組で役員が十名きまりました。新役員の会合がありました。一名支部の係を選ぶ事に成りましたが、今年の役員の方は私を始め、年寄の方や手間の少い方ばかりなので、何度会合してもだめだ、だめだで会散してしまい支部の係を引受けて呉れる方が有りません。手間の関係上、私にやれと言われたのですが、無学故に自分の切なさを感じ、変事をする事が出来なかったのです。でも仕方が無いので本部から連絡を受けるだけのポストに成りました。でも仕方が無いので本部から連絡を受けるだけのポストに成りました。なんだか奥歯に物がはさまった様な気持、其の気持は誰にもおわかりの事と思います。
 スピード時代の世の中に、自転車にも乗れない昔者の私が此の役を受けたなら皆さんにもめいわくを掛ける事とはしりながら、今更これをどうする事も出来ません。若い皆さんに手を引いて戴き、そしてむつまじい婦人会として新生活運動にはげみたいと思います。
 支部会員の皆さん、どうぞ古くさいポストの私に御協力をお願い致します。
     菅谷地区婦人会『つどい』創刊号 1958年(昭和33)11月

随想 遠山・杉田な美 1958年

2009年07月26日 | 菅谷地区婦人会『つどい』
 生々しい爪跡を残して立去った廿二号台風、今宵は又仲秋の名月、考えると自然のおそろしさそして自然の美しさ、只一しをと言いたいですね。以外に暑かった夏も過ぎ、考えて見ると五月の蚕、麦、田植、そして再び夏秋蚕と息つく暇も無い私達でした。やれやれ一息と言った所です。黄ばんで来た穂波を眺めて居ると忙しかったあの頃が夢の如く思出され感慨無量です。
 農家はこうも忙しく働かなければならないのでしょうかね。苦しみ働いただけの良き収益が有ればともかく、現在は全く農家経営も考えねばならない有様です。考えてもどうにもならないと思いながら、毎日の生活にもっと魅力を持ちたいものです。計画的に仕事をしたい。それには月一回或いは二回(農繁期は別として)農休日を定めたらどうでしょうね。私達主婦は家庭に入れば洗濯、裁縫なんでも山の如く仕事は有ります。外の仕事は忘れて家の中の仕事をゆっくりする。或いは行楽季節であったら家中で出かけ一日を楽しく過す。或いはテレビでも見る。此の様に自由な一日を得られる事が出来たらどんなにか幸でしょうね。味気ない現在の生活がそうした事によって明日への仕事の能率が上り、自然、計画的になるのではないでしょうか。子供達の為にも休みには勉強しても良いでしょう。よく「負うた子に浅瀬を教わる」とか言いますけれど、それでは困ると思います。子供と共に学びあらゆる面に知識を向上させて行きたいと思います。休みもなければそんなことも出来ませんね。あったとしたら一日が良きお母さんになれるのではないでしょうか。無理な願いかも知れませんけど密かに願っている私です。
 婦人会の大きな力で私の願がかなったなら、どんなに喜ばしい事か。外は中秋の名月、十時が鳴って居ます。降る様な虫しぐれが何か物悲しく聞こえて参ります。
     菅谷地区婦人会『つどい』創刊号 1958年(昭和33)11月

結婚十年 平沢・西いね 1958年

2009年07月25日 | 菅谷地区婦人会『つどい』
 月日の流れは早いもので返り見れば生れた懐しい家や幼なじみの友と別れて嫁いだのは、ついこの間のやうな気がするのにもう十年は何の事もなく過ぎた。嫁いで一、二年は実家にゆくのばかり楽しみにし、何時になったらこの土地の人と生れ故郷の人達のように話したり笑ったり出来るのかしら、どこえ行っても嫁と言ふ言葉に身が引けるような気持で居たが、間もなく婦人会が発足し、近所の人達と一所に入会し、年重なる毎に出席する数も多くなり、その度毎お母さんに「早く仕度をして行きなさい」と気持よく出して戴き、交はる人の数も多く、その度毎何かと雑談も交はせるやうになった。総会や料理の講習又秋のレクリェーションと皆待遠しい。一年、一年と深い親しみの湧いてくる村の皆様、いつしか実家へ行くのも遠くなり、日々の仕事に張合のある今日この頃です。今は全く働く喜びがしみじみと胸に泌(し)み、本当に主婦としての幸福を感じて来ました。一日の除草を終えて汗にぬれたブラウスに夕風を受けて家路へ急ぐ。「母ちゃん」と迎へる我が子に笑顔を返へし夕飯も済み風呂に入り、ひととき望みは山とありますが何時も和やかなふんい気の流れる我が家を持った事をこの上もない幸せと心に感謝して居ります。お父さんにお母さんそして私達親子、健康で明るく働けるこの家庭、いつまでもいつまでも限りなくつづくよう知らず知らず神に願はずには居られない気持です。
     菅谷地区婦人会『つどい』創刊号 1958年(昭和33)11月

先づ心の改善 根岸・福島くら 1958年

2009年07月24日 | 菅谷地区婦人会『つどい』
 今の農村では井戸は水道になりお勝手万端改善され、姑も嫁も差別なく発言するというのな、まだ心の改善が一向に進まないように見受けられます。朝々のラヂオや新聞で見聞きする事ですが農家の姑さんは封建的だとか嫁を解放せよとか云われる事が絶えないようです。どうして早くよいお姑さんという事が出来ないのかと気の毒でたまらない気が致します。
 それには色々の理由もある事でしょうが、過ぎし日学校時代に「お母さん」という作文でやさしいお母さん、よいお母さん、一日として母親なくして過し難い母と子だったのに、姑嫁となると一変に裏返えしされ、ひどい姑、わるい嫁と言われるのは本当に申訳のない悲しい事です。時代は変っても心は同じです。実母以上に慕えるお姑さんと皆してよべるようそれこそ「姑の解法」に力をつくしたいのが私の願です。誰しもらくで楽しい生活は好ましいものです。然しふとした記事にも農家の嫁はドレイだと書いてあります。どうして嫁だけがドレイでしょう。一家全体が苦楽を共にしているのが農家の実情ではないでしょうか。昔からの鍬鎌農業、肉体労働から解放されつつある現在、科学のこうした進歩と共に農民の考え方も大きく変って、合理的な農村の建設が進みつつあるのひ、社会にはまだ姑と嫁の話題が絶えないのは不思議なような気がします。私達のでは、まづ心の改善を第一にして、姑も嫁も仲良く、住みよい農村、明るい家庭の建設に向って進んで居ります。私ども若い嫁の立場として社会のあちこちから聞える農家の姑さんに対する見下げた言葉は止めて下さいと云いたいのです。そして美しい夢を未来に描きながら、平和で文化的な農村の建設に微力をつくしたいと思います。
     菅谷地区婦人会『つどい』創刊号 1958年(昭和33)11月

病気 志賀・多田げん 1958年

2009年07月23日 | 菅谷地区婦人会『つどい』

 今思ひだしてもぞっとするやうである。今年の五月は干ばつで梅雨時期になってもかんかん照りの毎日がつづいた。農家の誰もが雨の降る事を願っていたが、六月中にはとうとう降らず、毎日畑仕事をしながら、今年は田植は出来そうもないと、半ばあきらめていたところ、七月四日の夕方大雨が降り一家の喜びは大変なものであった。五日には早朝から田んぼへ出かけた。どこの家も競争の様であった。田んぼにいる人も、行き合ふ人も「良い雨が降ってよかったね」と喜びにみちみちていた。家でも新宅から手伝いに来てくれたので私も文字通り夢中で働いた。そのかひあって、予定の仕事も出来、明日は夫の会社が休みなので田かきが出来る重い足を引きづって家にたどりついた。ところが床について、どの位たったか、私は胸の苦しさで目がさめた。じっとがまんしていたが十分、二十分たつにつれ動悸ははげしく胸はしめつけられるようで、どうにもがまん出来なくなった。夫を起し、医師を迎えに行ってもらった。診察の結果は、体がつかれているところへむりをしたので、心臓を悪くしたと診断された。一晩中苦しみつづけ、家中さわがしてしまった。明朝には、すっかり体がつかれて考へていた。田植どころかお茶の仕度もできなくなってしまった。それから一月余りも仕事が出来ず、年取った父母があせまみれになり、つかれた様子で帰る姿を見るたびに、早くよくなって、かわりたいとあせればあせるほど病気の方ははかばかしくなく一人でじれてしまった。子供達も私が病気になってからは、みちがえる程よく手伝ってくれた。父母も大切なところがわるいのだから、すっっかりよくなってから仕事に出るようにと言ってくれ、夫も出勤する時「気をつかわず早く体をなおすようにしろ」と言って出かけるが、私は気書きではなかった。やがて体がよくなり、畑に出て、草取りが出来た時の嬉しさはたとえやうもなかった。ここへ嫁いで以来十五年、体の事など考へず、ただ嫁として、もくもくと働きつづけて来たが、今度病気をして初めて、健康で働けてこそ、幸福な家庭生活が営まれるのだと強く強く感じた。これからは充分体に注意し、子供達の成長を祈りつつ明るい家庭を維持できる様にしたいと思ふ。

     菅谷地区婦人会『つどい』創刊号 1958年(昭和33)11月


働き者の惣さん 千手堂・中島初子 1958年

2009年07月22日 | 菅谷地区婦人会『つどい』

1.八十越した惣さんは     村一番の働き者
  未だに野良へ出ていって   畑の草をむしってる
  とんびが飛ぼうが輪をかこが そんなことは知らん顔
2.若い時から右も見ず     左も見ないで一すじに
  百姓一本生きて来た     我家のため村のため
  近所づきあいなごやかで   こんな惣さんめずらしい
3.この頃いくらかだるそうだ  けれども惣さん野良へいく
  杖をつきつき野良へ行く   畠のあぜで腰おろし
  草をむしって一休み     その内惣さんうとうとと
4.米のなる木の真中で     黄金の波にゆれながら
  過し昔を思ひ出し      米の子供があらわれて
  惣さん惣さん歌おうよ    声をそろえて歌おうよ
5.畠たがやし蚕飼い      種を蒔いたり手入れして
  夏は草刈り冬木の葉     家に居る時ナワをない
  ばあさん一所にたすけあい  本当に惣さんえらい人
6.あまりあたりがにぎやかで  惣さんびっくり目をさまし
  あたりを見れば誰も居ず   今のは夢かと苦わらい
  昔も今も変らない      働き者の惣さんよ

     菅谷地区婦人会『つどい』創刊号 1958年(昭和33)11月


短い糸屑 千手堂・高橋さき 1958年

2009年07月21日 | 菅谷地区婦人会『つどい』
 一寸買い物をしても紙に包んでくれます。紐をかけてくれます。近頃は商人が人の気分をよくするため此の紙や紐にもこまかな注意をしてをります。勿体ないほど立派なものを使ってあります。心掛のよい方は其の紙も紐も決して粗末にしません。どんな糸屑でも始末をするくせをつけましょう。そうするには始末する入れ物と其の置き場を定める事が大切です。糸屑は此の箱へ。そうしてここへ。紙屑はこのかご、小切は此の抽き出しときめて置けば誰でも気のついたものが入れられます。日本の凡ての家庭がこんな心掛をもちましたならば、之による節約だけでも大したものと思います。
     菅谷地区婦人会『つどい』創刊号 1958年(昭和33)11月

希望 志賀・内田豊子 1958年

2009年07月20日 | 菅谷地区婦人会『つどい』
 毎日の仕事に追はれて居る私たち農村婦人は、一日のうちに本をよんだり新聞を見る時間がどれだけあるでしょうか。わづかな時間があるのは夜だけで、それでも一日の激しい労働のために夕食を食べてふろから出るともう床に入るのが精一ぱいです。本を読み物を考える事もなく、ただ牛か馬のように働くことで過ぎて行き、眼まぐるしいやうに進歩して行く社会の流れから自分だけが取残されて行くやうなきがします。電化、機械化と叫ばれる今日、婦人に取っては一ばん身近な台所改善すらもはかばかしく行かないのです。自分だけが苦しみ悩んでいても仕方がありません。あきらめたり絶望したりしないで、社会へ送り出す子供たちのためにも、良き事は日常生活に取り入れてお互に話合をしてみたいと思って居ります。ともすれば私達婦人会員が会合に行くのを白い眼で見られ、つい出足がにぶり、人眼をさけて行くやうになります。隣近所さそいあって、婦人学級や料理の講習に行けますやう家族の協力を希望致します。
     菅谷地区婦人会『つどい』創刊号 1958年(昭和33)11月

にがいことば 遠山・山下藤 1958年

2009年07月19日 | 菅谷地区婦人会『つどい』
 先日夕飯の時四才の子が、「母ちゃん今日ね、どこかのおじさんに嵐山へ行く道を聞かれたんだけど皆が黙って居たらね、やっぱり遠山の子は駄目だなあ、って云ったよ、今度は教えるんだい」と、ほほをふくらませ乍ら、いくらか恥かしそうに私に話しかけた。
 「それじゃあ馬鹿みたいね、今度は教えてあげなさいね」と子供に云いながら、私自身も一寸恥かしい思いがした。その場には小学二年の姉の方も居たと云うし、もっと高学年の子供も数人いたらしかった。私はその晩床に就いてから、夕飯の時の子供の話を思い出していろいろ考えさせられた。知りながら教えなかった子供もさる事ながら、「やっぱり遠山の子は駄目だなあ」と云って立去ったと云う大人の言葉に一矢報いたい気持が動いた。幸い子供心にも今度は教えてやろうと云う気持が起きた事は多少でも進歩した事である。それを思えば、にがい言葉も薬になるが、若しそれが大人の言葉に対する反抗であるとすれば、にがい言葉も薬と云うわけにはゆかなくなる。
 問はれて答うるは人の情であり大人の社会では常識である。又云はずに済む事は云はずに通す事も人情ではないだろうか。大人だからと云って重宝な言葉の濫用(らんよう)は子供でなくも御免蒙(こうむ)りたいだろう。二十年前小学校の先生に三匹の猿の話しを聞かされた。世相の移り変りのはげしい現在、みざる、いはざる、きかざるの戒(いましめ)はそのものずばりで受入れる事はできないだろうが、その教えも又忘れてはならないと思う。いろいろ考えて、昔の人は修身科なるものから道徳教育を受け、今の子供達も社会科などで、さりげなく正しい道を教えられて居ると云うのに、どうして一寸した道徳が守れないのだろうか。結局大人も子供も共に教科書の上だけでない日常の身近なそして庶民的な道徳を少しづつでも身につけてゆかなければ、すべての社会の矛盾はなくならないのではないか、と思う。
     菅谷地区婦人会『つどい』創刊号 1958年(昭和33)11月

終戦記念日に憶ふ 志賀・高橋りせ 1958年

2009年07月18日 | 菅谷地区婦人会『つどい』
 終戦後早十三年の歳月は流れた今日、あの恐ろしかった戦争、忘れようとしても昨日の出来事のように頭に浮かんで来ます。都市にあっては空襲の為、家を焼かれ死んで行く人、親子ばらばらになった人等、又農村にあっては食料に供出に労働に、苦労や悲しみの事がはっきり目に浮かんで来ます。皆一生忘れる事の出来ない苦しみを味わって来た事と思います。赤紙一枚で召集され戦地に送られ、一人として知人も頼る者とてなく、空しく死んで行った人の事を思いますと身も心もぞっと引きしめられます。人間と言う者は苦難を味わってこそ其の中から真に自分の生きる道を発見するものである事を身にしみて考へられます。今生きておられる人で自分を幸福だと思っている人はほとんど少数であると思われます。不幸の原因は其の大部分がお互の不信にあるのではないでしょうか。終戦後特に利己主義にはしり、自分の利益自分の幸福のみを第一に考へると言ふのが今の世の人々の多くの考へではないでしょうか。私達婦人会の皆様特に此の点に留意せられて今後の婦人会をより楽しい集いの場所にするにもこうした利己的な事のみにはしらず、「世の中は持ちつ持たれつ立つ身なり人と言う字を見るにつけても」と言う事わざのようにお互に信じ助け合って進んで行けたならと思います。
     菅谷地区婦人会『つどい』創刊号 1958年(昭和33)11月

短歌 根岸喜・高崎静子・大野春枝 1958年

2009年07月17日 | 菅谷地区婦人会『つどい』

          根岸・根岸喜
遠き記憶さくら若葉の教会に蒼き少女のわれがゆきしは
祈ある生活をゆく人等にて守られてしづかな朝の礼拝
キリスト者蘇轍の隙(あひ)に隠見し今聖餐のワイン配らる
裸樹に觸る雪の素性あらわにてキヤコルの後に来たるさびしみ
椎の実の堕ちくる日に邂逅ふ駅のひさしにただ泪ぐみ
拗ねながらゐたりし稚さ雲白くあかざ花咲く丘の草原
淡き記憶松虫草のおもい出は桜樹の下に君が右手に
会合に赴かむと託す洋傘の下耳朶かすめ吹く迅き風あり
雨気孕む風にあふられ飛び込める蛾よいましばし助(いた)はられ居む
抗(あがら)ひはひそまりながら消えてゆくドームに高く日の堕つる頃
とざされて光る窓あり夕映のビルの高さの彩雲ひとつ

          志賀・高崎静子
歌の会終えていづれば甘やかに銀座は夜の雨となりをり
手折らむとしてためらいつ朝霧をふくめて匂う白き椿を
久に見る夕月のかげさやけくて紅ばらの花暮れ残りたり
音もなく雨降るなつのひるさがり白きダリヤのうなだれた咲く

          志賀・大野春枝
台風に打ちひしがれしコスモスもやがて自ら起きて花咲く
秋の夜を夫と向いて物言はず心淋しくこうろぎを聞く
修学旅行より帰りたる子をかこみ粗末乍らも夕餉は楽し

     菅谷地区婦人会『つどい』創刊号 1958年(昭和33)11月


俳句 高崎静子・大野春枝 1958年

2009年07月16日 | 菅谷地区婦人会『つどい』

        志賀・高崎静子
早春の眠れる庭や一休寺
短日の山なみ暗く村を秘め
終着は小諸と呼べりそばの花
ゆきづりの人と汽車待つ秋日和
ニコライ堂近き学窓つた紅葉

        志賀・大野春枝
コスモスに雨のささやく宵なりし
コソモスの庭に受取る便りかな
コスモスや涙あらたに墓詣づ

     菅谷地区婦人会『つどい』創刊号 1958年(昭和33)11月


俳句・短歌 1960年

2009年07月15日 | 青年団鎌形支部『心の集い』

   俳句
水ばんの上に春待つ日ざしかな

桑つみの歌声高く人見えず


   短歌
経営に頭をなやます我が父を
 俺は笑ってさぼるばかり

我一人たたずむ畑のキュウリ見て
 まぶたに浮ぶ未来の希望

何ごとも支出にこまかい父なれば
 養鶏経営の夢はるかなり

鍬を手に働くことの楽しさは
 今日一日につきることなし

秩父の山々はすでに日はくれて
 家の中には灯はともり

     菅谷青年団鎌形支部文化部『心の集い』第8号 1960年


嵐山町歌応募入選作品 1967年

2009年07月13日 | 文芸

  入選第二席

    羽尾 小久保佐一郎
一、都幾 槻の流れ清らに
  山青く 町は豊かに
  栄えゆく あすがある町
  嵐山 嵐山
  ああ われらが 嵐山
二、先人の偉徳たたえて
  うけつがん文化めぐりて
  のぞみある 歴史ある町
  嵐山 嵐山
  ああ われらが 嵐山
三、日に月に ひらけゆく町
  和で結ぶきずなほこりて
  ともにゆく 歌がある町
  嵐山 嵐山
  ああ われらが 嵐山

    志賀 滝沢利男
一、西にとき川流れは清く
  北にそびえる遠のひら
  歴史は古し武蔵野の
  その内に立つ
  われらの郷土
  いつでもみなみな
  明るく生きる
  明日へ躍進 嵐山町
二、栄ゆく産業未来に向かい
  夢は広がる かなたまで
  かがやく光をあびながら
  手をとり行こうよ
  いつまでも
  いつでもみなみな
  明るく生きる
  明日へ躍進 嵐山町

    菅谷 片田真造
一、都幾の川風さわやかに
  武蔵嵐山 冬の月
  菅谷城跡の山桜
  菅谷原の黄金の波よ
  栄え嵐山 弥栄嵐山

    古里 吉場雅美
一、東に朝日西秩父
  恵みおおきく地にもえて
  雲のたなびく奥武蔵
  強く伸びよ嵐山
二、若草もえる岡の上に
  おりなす錦も美しく
  水のただよう奥武蔵
  清く伸びよ嵐山
三、花は昔のそのままに
  重忠の園めぐらして
  すごもる雛の奥武蔵
  若く伸びよ嵐山
四、あしたは遠くせせらぎの
  聞けば木の間も
  こだまする
  文化をきづく奥武蔵
  高く伸びよ嵐山

    菅谷 関根ひろ子
一、みんな明るく 元気よく
  大空のもとで 働く姿
  それは 尊い歴史を守り
  立派な歴史を
  つくり上げる
  ああ……働くことは
  宝なり
  若人 勇気を持って
  元気に進もう
二、みんな明るく元気よく
  ファイトマンマン
  頑張る姿
  町の産業を盛り上げ
  明るく住みよい町をつくる
  ああ ……楽しい生活は
  努力から
  みんなの手で
  嵐山町を盛んに

    鎌形 小林儀作
一、秩父の嶺の空晴れて
  武蔵野原は春匂う
  花咲き鳥啼き風光る
  ああ美しき山と川
  ながめて生きるわれら幸
二、ゆたかに稔る黄金いろ
  稲田に明るく 秋の陽は
  山と積れた 繭の荷の
  走る自動車照らすなり
  平和な郷を照らすなり
三、産業 文化 中心の
  嵐山駅は 人の波
  つながる心 輪になって
  あしたのまちを築きゆく
  たのしい町を築きゆく
四、歴史は遠きそのむかし
  重忠公の館跡より
  湧き出る清水はこの町を
  文化の波でつつみゆく
  情の清水でつつみゆく

    菅谷 内田喜平
一、わが民のぞむ町づくり
  すべての民が手を合せ
  清く明るくたのもしく
  二十世紀の町光る
二、秩父連山西に見て
  南都幾川清流の
  重忠公の徳を受け
  二十世紀の町光る

    吉田 藤野豊吉
一、秩父嶺の東に展く丘陵の
  まろき姿に かこまるる
  平和の里に雄々しくも
  今建築の鐘がなる
二、古き館の影とめて
  清き流れの都幾川に
  武人の心 受け継いで
  なりわいの道いそしめる
三、清き自然と美しき
  心はぐくむ 町人の
  手と手結びて いざ共に
  明日ののぞみに進まなん

    小川町 江原婦美
一、武蔵の丘を ばら色に
  染めてあらたな朝がくる
  わららの町よ 嵐山は
  小鳥のうたも 咲く花も
  若い希望を はずませて
  あかるいくらしひらく町
二、都幾川清く 山青く
  風はみのりを告げてくる
  われらの町よ 嵐山は
  もえたつ意気と人の和に
  自治のよろこび
  みなぎって
  たのしい夢が 育つ町
三、ほまれの歴史いまもなお
  戸毎戸毎に 灯をともす
  われらの町よ 嵐山は
  産業文化 かがやかに
  伸びて栄えて明日を呼ぶ
  平和の鐘が ひびく町

    広野 杉田朝光
一、秩父高根を西に見て
  此処ぞ名におお比企の丘
  重忠公の館跡
  昔を偲ぶ山や川
二、里は開けてお蚕と
  田圃の続く米どころ
  祭太鼓の音を聞けば
  秋は黄金の稲穂波
三、天下の景勝嵐山
  流れも清き槻川は
  文化の流れそのままに
  永遠に栄えんわが町よ

    菅谷 飯島留一
一、わが町に ひびく槌音
  高らかに 力強く
  あすを開く音だ
  さあ みんなで力を合わせ
  あしたの町を築こう
  産業の町 嵐山 嵐山
二、わが町に 遺る あの跡
  名も高き数々の人
  歴史の跡だ
  さあ みんなで腕くみ合って
  あしたの町を育てよう
  歴史の町 嵐山 嵐山
三、わが町に 文読む声
  学舎に 町なかに
  遍く広がる
  さあ みんなで身を高めつつ
  あしたの町を夢見よう
  文化の町 嵐山 嵐山

    志賀 大野角藏
一、嵐山いよいよ文化は進み
  今やすべてが進みに進み
  産業ぼっこう 限りなし
  町に流れる 限りなし
  町に流れる 平和の声は
  すみずみまでも 行きわたり
  住みよい心地 明朗に
  時は流れて 幾千代までも
  盛んなるかな
  すすめ嵐山 すすめ嵐山

    中尾 保泉一生
一、秩父嶺高く 雲白く
  仰ぐひとみに 澄むところ
  見よ新生の 大嵐山
  夢と希望の 花咲いて
  ああ はてしなく
  ひらけゆく
二、都幾川清く 水青く
  幸と恵みの 満つところ
  見よ躍進の 大嵐山
  汗と力と 人の和に
  ああ かぎりなく
  のびてゆく
三、歴史は古く 新しく
  伝統今に 継ぐところ
  見よ繁栄の 大嵐山
  自由と平和の 手を組みて
  ああ たゆみなく
  栄えゆく

    鎌形 中島金吾
一、秩父嶺を はるかに仰ぎ
  槻川の 流れは清く
  響く 新生
  建設のつち音
  いまの世の しあわせ悟る
  嵐山町 おおわが町
二、よき土地の 歴史は古く
  住む人ら 直く明るく
  興る 産業
  創造のよろこび
  すぎし世の 祈りを想う
  嵐山町 おおわが町
三、人類の 平和をとわに
  打ち立てる 理想をこめて
  誓う 向上
  生活のやすらぎ
  あすの世の 栄えを約す
  嵐山町 おおわが町

    吉田 小林常男
一、都幾の川原のさざ波に
  緑も映える若い町
  青空に明日を担う若者の
  大きな夢がこだまして
  伸びゆく町 緑の町
  おお嵐山 歩み続ける町嵐山
二、遠い秩父の山雪に
  心を映す若い町
  冬空に手と手をつないだ町人の
  大きな笑いがこだまして
  伸びゆく町 明るい町
  おお嵐山 明日をになう町嵐山
三、武蔵の野辺のそよ風が
  しあわせ運ぶ若い町
  大空に両手を上げた若者が
  大きな太陽輝かす
  伸びゆく町 清い町
  おお嵐山 若人の町嵐山

    鎌形 大久保秀子
一、緑の森をはるかに望む
  明るきこの町 今日の為に
  みつめよ深々と
  この土地の この歩みを
  ああ明るき嵐山 嵐山町よ
二、山河ゆかしき美雲は湧きぞ
  緑のこの町 あすの為に
  思えよいついつも
  この土地の この励みを
  ああ緑の嵐山 嵐山町よ
三、町の大河は流れも清く
  輝けこの町 未来の為に
  考えよしみじみと
  この土地の この能力を
  ああ輝け嵐山 嵐山町よ

    越畑 久保茂男
一、花に紅葉に都人士を
  招きて清き槻川の
  岩間の水に鮎躍る
  我等嵐山町に住む
二、八幡の森神寂びて
  木曽の英雄義仲に
  ゆかりも深き清水湧く
  我等嵐山町に住む
三、今は昔の戦神
  鬼鎮神社は産土の
  平和と富の守り神
  我等嵐山町に住む

    吉見村 長島進
一、歴史の苑に 花芳る
  重忠公が 覇府の郷
  星霜人は 移れども
  久遠に咲かす 人情美
  おお嵐山町 わが郷土
二、往来の人の 眉若く
  その唇に 満つる歌
  銀鱗躍る 槻川の
  流れも清し 日本一
  おお嵐山町 わが楽土
三、広がる家並み 伸びる舗
  比企野に築く 新文化
  鬼鎮様に 合わす手が
  力と愛の 朝を呼ぶ
  おお嵐山町 わが誇り

    吉見村 長島進
一、槻川の水音澄みて
  塩山の秀づるところ
  景勝の四方に展けて
  玲瓏と輝く町よ
  おお嵐山 光の都
二、黄金の稲穂の風が
  工場の窓打つところ
  店々に生気溢れて
  溌剌伸びゆく町よ
  おお嵐山 希望の都
三、露繁き史蹟の草に
  情愛の花咲くところ
  鬼神の健御稜威が
  夢を呼ぶ歴史の町よ
  おお嵐山 理想の都

    平沢 山田功
一、都幾の川面の朝光に
  色鮮やかなさくら花
  絶えることなく
  行く川の如
  伸びよ
  武蔵の大地の上に
  いざ 真求めて
  我らが若き町
  美しき町 ああ嵐山
二、鳩の羽搏き音清く
  瑞雲たなびく遠の平
  幸を願いて
  飛ぶ鳩の如
  伸びよ
  武蔵の大地の上に
  いざ善を求めて
  我らが若き町
  豊かなる町 ああ嵐山
三、重忠公の伝統と
  ささら舞踊に古の
  ゆかしき香流す
  歴史の町よ
  伸びよ
  武蔵の大地の上に
  いざ美を求めて
  我らが若き町
  逞しき町 ああ嵐山

    小川町 江原輝二
一、武蔵野の丘どよもして
  もりあがる 清新の意気よ
  勤労の 汗もたのしく
  躍進のうたごえつづく
  おお 嵐山
  この町にわれらは集う
二、都幾川の山水清く
  虹を呼ぶ ゆたかな土よ
  生産の 力あふれて
  ゆるぎないしあわせ育つ
  おお 嵐山
  この町をわれらは担う
三、ふるさとの歴史に映えて
  咲き匂う 文化の花よ
  共栄の くらしあかるく
  新しい平和はここに
  おお 嵐山
  この町にわれらは歌う

    東京都 渡辺男
一、建ち行く町にわきあがる
  明日への力 たくましく
  喜びをめざし
  幸福をめざし
  わきあがる わきあがる
  嵐山の力
二、明け行く町にふりそそぐ
  恵みの光 美しく
  喜びをたたえ
  幸福をたたえ
  ふりそそぐ ふりそそぐ
  嵐山の光
三、伸び行く町に花開く
  栄えの心 誇らしく
  喜びとともに
  幸福とともに
  花開く 花開く
  嵐山の心

    根岸 根岸進
一、めぐみ豊な武蔵の野辺に
  明るい自治のいしずえすえて
  農工商の共栄うたう
  田園都市はわれらの理想
  嵐山これぞわが町
  わが故郷
二、都幾は流れる古城のほとり
  古き歴史と伝統をうけて
  この地に生きるほこりを胸に
  今ぞきずかん希望の楽土
  嵐山これぞわが町
  わが故郷
三、秩父の山脈け高く澄みて
  変らぬ姿は平和のしるし
  愛の心でたがいに和して
  明日の栄を開きてゆかん
  嵐山これぞわが町
  わが故郷

    根岸 根岸妙
一、めぐみゆたかな武蔵野に
  理想にもえて意気たかく
  田園都市の建設に
  いま立ちあがる嵐山の
  希望のあすに光りあれ
二、青史にかおるその史蹟
  高き文化をうけつぎて
  うぶ湯の清水わくところ
  英雄生れし地にあれば
  ああ水清く人若し
三、都幾の流れにうるおいて
  人の心も美しく
  平和なさとと栄えきて
  今ぞ明るき自治のもと
  われら偉業をなさんかな
四、け高き秩父の山なみの
  ゆるがぬ姿仰ぎみて
  ここに共存共栄の
  楽土めざしていま進む
  田園都市にさかえあれ

     『嵐山町報道』173号 1967年(昭和42)5月15日

参照:「嵐山町歌・嵐山音頭が制定される」。