GO! GO! 嵐山 2

埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

戦争の後遺症当時十才(川島・権田徑子) 1995年

2008年11月09日 | 戦争体験

 忘れもしない昭和二十年八月十五日の昼、私は満洲国営口市のお友達とわいわい言いながら楽しいお弁当を広げていた。すると先生が教室へ来て「皆さん戦争は終りました。お勉強はこれで終りです。皆さんにいつ会へるかわからないけれど皆んな元気で頑張って下さい。日本人である事を忘れずに。それでは気を付けて帰って下さい。サヨーナラ」先生は泣きながら言ってました。毎日学校へ行くと戦争の話ばかりでした。それも私達の先生は皆若い男の先生だったので兵隊に取られ何人の先生を見送ったかわからず、やっと女の先生で喜びあっていた矢先の出来事でした。戦争を知らない今の子供達には、わからないと思うが、学校では毎日四年生以上は女子はナギナタ、男子は木刀を持って銃剣術の練習をやっていた。もしソ連軍が侵入して来たら子供でも兵隊さんと一緒に戦える様に内地の子供達に負けない様、戦争に勝ちます様にと毎朝の朝礼と祝祭日には日の丸と満洲国の国旗を立て近くの神社の忠霊塔に参拝に行ったり、国防婦人会のお母さん達と女の子は赤いタスキを掛け街頭に立って、千人針と云って白い布に赤い木綿糸の玉を作ったり、戦地の兵隊さんの為に慰問袋を作ったりして勝つ事だけを信じて祈って、私達満洲の子供達も頑張って来た。学校からは日本軍の勝っている映画ばかり観に連れて行かれた。どうして負けたのかと不思議でした。家へ帰ってから母に聞いた話ですが内地では、原爆と云う恐ろしい爆弾が落されたと云う事でした。平和だった私達の満洲営口を突如として立退き命令。寝たきりだった母は気強くも床から出て幼い子供達に逃げる用意を指図し当座を凌ぐ物を持てるだけ用意した。私は幼い妹を背負い病気の母と二人の弟は健気にも力を出して持てるだけ持って住みなれた家を後にした。その時父は軍に召集されて留守だった。父が満鉄の職員だったおかげで社宅の人達と汽車に乗って逃げる事が出来た。途中町の人達が線路ずたいに子供やお年寄を連れて逃げて行くのが見えた。「助けて下さいお願いしますその汽車に子供と年寄だけでも乗せて下さい」と手を上げて泣き叫んでいる。可愛そうだが乗せるわけにはいかないんだと大人達は云っていた。それはソ連の兵隊が乗っていたので汽車を止める事は出来なかったのだそうだ。汽車は無情にも走り去った。今でもその時の状況が走馬灯の様に浮かんでくる。私達鉄道員の家族達は、大石橋と云う所まで逃げたがそこでは、市全体が一括して受け入れてはくれなかった。路頭に迷っている時に営口駅の駅長さんの計らいで戻る事が出来た。駅長さんの家族も一緒だった。社員の家族達は日本人の経営していた大きなホテルに収容された。その日から収容所生活が始まった。父のいない私達五人の地獄の様な生活が始まった。ある日収容所に父の配下の満人のボーイさんが三人訪ねて来た。父に大変可愛がられ世話になったから恩返しに、何かお役に立ちたいと申しとても嬉しかった。そのボーイさん達にお世話になり、私は妹を背負い母は杖をつき弟二人と行商に出た。ボーイさんが連れて歩いたおかげで買わずにお金をくれたり、可愛相だと言って御飯を食べさせてくれた。これが地獄に仏と言うのかなあと思い父に感謝した。一日歩いて帰って来た夜は楽しかった頃の思い出話に話が咲いた。春はアンズの花見に夏は友達とプールへ、秋はイモ掘にリンゴ狩りに、冬はスケートに話はつきない。営口ホテルの収容所生活にもなれいくらか落ち着いて来たのもつかの間で、ソ連兵と国府軍が市街戦争を始めた。一日中大砲の音や機関銃の音に脅やかされていた。生きた心地はなかった。戦争とはこうゆうものかと思った。激戦地にいるようで日本の兵隊さんもこうだったのかと思うと戦争がおわってよかったとも思った。ホテルの中はソ連兵でいっぱいになりホテルの内でも撃ち合いが始まった。すると一人のソ連兵が負傷して私達母子の部屋へ入って来た。何をされるのかと脅いた。母は私に「大丈夫だから傷の手当をして上げなさい」と云ったので兵隊さんの傷の手当をして上げたら喜んで帰って行った。日本の母はやっぱり強いなと感心した。すごい体験をしたものだ、従軍の看護婦さんの様だった。戦争に負けて悔しいと思ったのは、ソ連兵が年頃のお姉さん達をむりに連れて行く事だ。残ったお姉さん達は男装をして兵隊の目を逃れていた。だが私のお友達のお姉さんはみやぶられていやがるのをむりに連れて行かれて二度と帰ってはこなかった。ほんとうに戦争が憎い二度とするものではない。私は子供だったので助かった。恐ろしく惨酷な事で残念だった。暫くして日本へ帰れると言うので又汽車に乗せられて思い出多い営口を後にして引揚船の出るコロトウの収容所へ行った。日本へ帰れると云うので辛い事も我慢した。そこから船に乗って佐世保に着いた。二十一年十一月九日に父の生家の嵐山町に着いた。やっと日本へ帰れたのだと云う実感だった。母と子供達は父の生家へ身を寄せたが歓迎されなかった。其の日から厄介者扱いだった。穀潰しとののしられ病気の母はつらい思いをしていた。みかねた母の生家で母と妹を引取りに来た。母と別れが悲しかった。大農家なので私と弟二人は年の違わない従兄弟達に穀潰し早く仕事をしろと馴れない農作業を手伝い、私は女だからと雑巾がけや藁で作ったタワシに灰を付けて大きな鉄釜を毎日磨かされ手は皹になって血が滲むのだった。年の違わない従姉妹にいじめられ何度となく遣り直しをさせられた。毎朝の学校へ行く前の雑巾がけがとくにつらかった。きたないと云っては何度となく拭き直しをやらせられしまいには自分で従姉が拭いていた。北満でソ連軍と交戦した父の消息は不明で心配の毎日だったが二十三年の六月にシベリヤから復員して来た。弟二人と父がシベリヤから帰るまではと歯をくいしばって耐えた。父も捕虜となり苦労した事だったろう。御苦労様でした。私達引揚者は戦争の犠牲者である。五十年たった今日でもまだ続いている。苦労して幼い四人の子供を連れて帰って来た母の苦労は大変な事だったろう。今でも母の病気は治っていないのだ。二度と戦争してはいけないのだ。


筆者は1935年生まれ。権田恒治さん・二三代さん夫妻の長女。嵐山町報道委員会が募集した「戦後50周年記念戦争体験記」応募原稿。『嵐山町博物誌調査報告第4集』掲載。


奉天、営口、コロ島の収容所生活は二才(川島・小林ちか子) 1995年

2008年11月09日 | 戦争体験

 私の家族は父が満鉄に勤めていたので、営口の満鉄の社宅にいた。姉や二人の兄達は日本で生れて満州に渡った。私は昭和十八年(1943)一月十四日満州で生れた。昭和二十年(1945)八月十五日に大東亜戦争で日本が負けて終戦となった。その時母三十三才、姉十才、上の兄八才、下の兄五才、私は二才だった。八月二十九日に営口市にソ連兵が侵入して来た。その時に日本人がロシア兵をロシア兵を歓迎しなかったという事で営口にいた日本人は追い出されるはめになったという。夕方五時までに営口を立ち退かぬ者は銃殺という触れが出た。逃げる時にはもう我勝ちに逃げたそうです。自分の家族も置いて逃げた人もいたという。一旦営口市を出た。駅長さんのはからいで営口に戻ることが出来たという。収容所生活がこの八月二十九日から初まった。最初の収容所は立ち退いた日本人が経営していたホテルで奉天の収容所となったという。同じ部屋の大沢幸子ちゃんとは大の仲良だったそうだ。幸子ちゃんはいつもお菓子の袋を持って遊んでいたが、私は一度もほしがった事はなく、幸子ちゃんはお父さんがいておいしい物が食べられていいね。ちか子ちゃんちも早く兵隊さんからお父さんが帰ってくればいいなあといって二人で遊んでいたという。私は自分のことを「ちか子ちゃん」といっていたそうだ。一度だけ食事の時に「ちか子ちゃんはコーリヤンを食べているけれど幸子ちゃんちはアワのご飯を食べている。ちか子ちゃんも幸子ちゃんのようにアワのご飯が食べたいなあ」といったので、すぐに母は私を外に連れ出したそうです。その様子を見ていた松田のおばさんが「ちか子ちゃんのお茶碗を貸してごらん、私がアワのご飯を貰って来てあげるといい中に入って行き、ちか子ちゃんに少し分けてあげなさいよ」という声がしたという。本当に貰って来てくれたという。その時の私の嬉しそうな顔と仕種がとても可愛かったという。母が私にアワのご飯を食べさせてやりたいと姉と二人の兄に相談したところ、行商をすれば買ってやれると話がきまり満人にお菓子を卸してもらい行商が初まってアワを買うことが出来たという。ある時子供のいない金持ちの中国人が私に手土産をもって来て私を貰いたいと言って来たという。又、満人がアヒルの玉子一個と私を取りかえないかとも言って来たそうでしたが、母や姉達がきっぱりとことわったのでそれからはこなくなったそうです。三階から母子五人で外を見ていた時、満人がジャガイモを一個落したのを見て母と姉兄が私に「あそこにジャガイモが落ちているけれどどうしたらいいだろうね」といったら、ちか子ちゃんが拾って来てあげようかといって、着物の裾をはしょると階段を行きジャガイモのそばについたらあたりをキョロキョロ見てから懐にしまい帰って来たという。私の仕種がとても可愛らしくて思わず四人でふきだしてしまったという。そのジャガイモはこぶし大で夕食の味噌汁の身になったそうです。私のはき物は母が皆なから教わって作った藁草履です。その藁も収容所でトイレの境にしていた荒編の藁から引き抜いて編んでくれたそうです。着る物は満人がくれた一ツ身の格子柄は赤、黄、白の色だったという。営口の収容所では子供達はいつも玄関で遊んでいたそうです。満人が落花生を食べて空が下向きになっていると子供達は一つづつひっくり返えしては中身が入っているかをたしかめて歩いていたそうです。私も一緒にやっていたそうですが一粒も中身は入っていなかったという。それが何日も続いたそうです。いつも見ているソ連兵が私を可愛いゝといって抱き上げたら泣き出したので赤い軍票を一枚くれたらすぐに私は泣きやんだそうだ。ちか子は軍票がお金だというのを知っていたのだねといって大笑いしたとか。最後の収容所はコロ島だ。コロ島では母が下痢をしたために腸チフスではないかと疑がわれて収容所から遠い満人街にある収容施設に連れていかれたために初めて母と子が二週間もはなればなれになってしまったという。診断の結果普通の下痢だったそうでした。その間の私達の食事は一日二食の配給だったそうです。その為に私は栄養失調になり視力が弱くなり一人で歩くことが出来なくなりいつも姉が背負っていたそうです。上の兄がコックさんと仲良くなり時々ご飯のオコゲをもらって来てくれたそうです。そのおこげがとてもおいしかったとの事です。昭和二十一年十月十六日、コロ島の収容所から囲いのないトロッコに乗せられ最後の引揚げ船がまつ港へと向かった。私の家では毎年十一月九日には引揚げ記念日をする。父の生家にたどりついた日です。この日は満州での思い出話し等をします。私は当時三才でしたので何も覚えていません。家族の話しを聞いて知りました。


     筆者は1943年生まれ。権田恒治さん・二三代さん夫妻の次女。嵐山町報道委員会が募集した「戦後50周年記念戦争体験記」応募原稿。『嵐山町博物誌調査報告第4集』掲載。


命からがらの記(川島・権田二三代) 1995年

2008年11月09日 | 戦争体験

 昭和二十年八月十五日、日本は戦争に敗けた。満洲でソ連兵に追われ、乞食のような生活をしながらも、誇りを失わなかった母の記録、今年は戦後五十年と言うが、戦争を知らない世代の人達には戦後と言う言葉は通じないと思う。いつの間にか五十年の過去となった。戦争はいやだ。最愛の夫を、息子をお国のために召されて征った。迂濶な態度や言葉を発すれば非国民として罪せられた。大日本帝国の軍国主義であった時代は遠のいたのだ。
 戦争はいやだ。二度と繰り返すな。昭和二十年八月十五日、日本が戦争に敗れた日、忘れ得がたい、いまわしい日
   ソ連軍に立ち退かされし敗戦の忘れ得がたき八月の空
 昭和二十年八月二十九日午後五時までに奉天省営口市在住の邦人は、立ち退かぬ者は銃殺と言う触れが、侵入して来たソ連軍より出された。後日知った事だが、ソ連軍を日本人は歓迎しなかった理由との事であった。
   病床に八ヶ月余りの我なれど子供等に指図し立ち退く支度す
 関節ロイマチスでやっと杖にすがって四人の子供達と逃げた。翌日営口駅長の計らいでソ連軍の許可を得て、営口駅職員の家族は営口市へ戻った。がその日から収容所生活が始まる。当時営口駅に勤務していた夫は
   一片の赤紙に夫は病むわれと幼な子四人残して征きにき
 秘密動員令で関東軍北の譲りに応召中だった。出征家族のわが家は、主人の俸給が九月分で止められた。持ち合わせのわずかなお金で先が思いやられた。衣食すべてに事欠き主人の有難さがつくづく身に感じさせられた。
   敗戦の痛手をつつむあらば家の収容所に必む師走の吹雪
   身一つで命からがら立ち退きし敗戦の冷え飢えもきびしき
   恵まれし毛布一枚病む足腰に巻きて満洲の冬を耐えたり
   ひなを抱く母鳥に似て身に巻きし毛布に子等を入れて夜明かす
   一枚の毛布に夜はかたまりて母子五人が温めあいたり
   父、夫を兵にとられし留守家族いかに年越す話しは暗し
   子供等に正月させよと駅長はまなざし温く餅代賜わる


  ああ営口駅長
   敗戦の整理解雇の満人が駅長拉致し行方くらます
   駅長は民象裁きの即決で銃殺刑と判決下る
   民衆に引き回される駅長を一目おがまんと雪道走る
   雪積る三月三日駅長は人民広場にあえなく果つる
   駅長の赤き血潮は雪染めて人民広場にうらみぞ深き
   正月に餅搗ける今も駅長の徳を偲びて少なめに搗く
   三ケ日餅断つわが家の仕来たりに駅長の徳をも加えて継がん
                           営口駅長の御冥福を祈る


  生きる道
 収容所生活中親切な満人のお世話で行商をする。小麦粉で作った揚げ物の菓子をピンガーン、ツマターン、マフワーと、長男、次男は満人から戴いた柳の枝で作った岡持のつるを腕にかけ声を張りあげて、市外の満人の家並や道を歩きながら客を呼んだ。満人から恵んで戴いた下駄や、満人の手作りの靴の底がすり切れ、穴があく程歩いた。収容所の仲間が作る手巻きの煙草も売らせてもらった。満語もできない八才、六才の子供達が頑張って売ってくれた。出征した夫の消息不明に、日夜幼き子等と安否を気遣い、影膳据えて無事を祈りながら過した不自由な収容所生活であった。やがて日本帰国のため十ケ月余りをすごし慣れた営口収容所を奉天へと移送された。ここでの生活は監視がきびしく、国府軍の兵士が昼夜見回っていた。数日にして又、コロトーへ移送され、その収容所では我等母子に割り当てられた部屋は湯殿跡だった。コンクリートの上にゴザとうす切れた毛布を敷いて寝起きした。十月半ばの満洲の寒さも加へて冷気は一そう厳しく主人の居ない我ら母子は何事にも耐えて来た。いよいよ待望の祖国への送還が自分達の番となった。十月十六日満洲よりの二十一年度のコロトー最後の引揚船となった。勢津丸は、一万トンの捕鯨母船を改造したという。間違いなく内地へ連れていってもらえると思うと、やっと安堵の胸をなでおろす思いだった。私達の班が最後で私は勢津丸に最後の乗船者だった。船はコロトーを離れ、エンジンの音高く祖国日本へと大海原を向っていた。上陸は佐世保と聞かされた。夢にまで見た祖国日本へ満洲から引揚者となって帰って来たのだ。日の丸を見た時には郷愁が全身をゆさぶった。これが祖国愛だと知り深い感動を覚えた。澄み切った秋晴れの空おいしい空気を安堵の深呼吸で心身を洗われた忘れ難い思い出となった。あれから五十年たった今日まで苦しかった事を忘れないように引揚記念日をやっている。
   引揚の日を記念して親と子の誕生会として祝うわが家
 毎年十一月九日には、家族の者達が料理を持ちよって、孫達と記念撮影をし楽しい一時を過す。そんな折いつも話題にのぼることがある。末っ娘の事だ。その娘を養女にと中国人が収容所に見に来た事も度度で、また母子五人が行商していた時、私が病身ゆえ生活の足しに「そのクーニャン(娘)とアヒルの卵と交換しないか」と長女の背負っている末の娘を指さして言われたりもした。ほんとうに意志が弱くて中国残留孤児になっていたらと思うと我れながら意志の強かった事を自分自身たたえている。
 テレビの中国残留孤児の肉親探しを見て、「うちのお袋は強かったね」と我が子達がもらすその母を称える感謝の一言が、私にとって何物にも勝る贈り物で、今さらのように此の老いの胸に迫りくるのである。平和に暮らせていただく今も過ぎ去りし五十年がよみがへり、めぐり来る引揚記念日には、老いてますます元気に孫子達と顔合わせが出来る事を祈ってやまない今日この頃です。


筆者は1912年生まれ。権田恒治さんの妻。嵐山町報道委員会が募集した「戦後50周年記念戦争体験記」応募原稿。『嵐山町博物誌調査報告第4集』掲載。


思い切なる今日(川島・権田恒治) 1995年

2008年11月09日 | 戦争体験

 「戦争」何と悲しい言葉か。戦後五十年、私達の頭の中には、こんにち現在でも拭い切れない記憶として残っていることは、いかに悲惨なことであったか、ということである。
 戦争体験記といっても、決して懐古趣味や復古主義からではない。戦争が人々の心に残した傷跡を通じて、人が人を殺すことの愚かさ、虚しさ、そして哀しさを見つめ、人間の命の貴さを再発見し、再び戦争の惨禍が起こることのないように、今の子供達に言って置きたいからである。
 私が子供のころ、おじいさんから聞いた日清戦争、日露戦争の話など、こぶしを握り耳を傾け、その勇ましい戦争ごっこ(戦争を遊戯かゲームと思っていた)に聞きほれ、男の子は兵隊さんに、女の子は看護婦さんになるのが夢であった。昔の人は武勇談とし戦争を美化したが、これはその当時の日本国の指導者の行きすぎで、一般国民がそれに躍らされていたのであった。つまり戦争を聖戦と呼び国民を戦場へ送った。明治、大正、昭和と世は変わり、平成となった現在の子供達よ、戦争はドラマではない。人と人との殺し合いだ。ほんとうに恐ろしいことなのだ。



  マル秘召集令状
 そんな或る日、私にも住居地の市役所職員が「ご苦労様です」と一通の封書を恭しく呈示した。瞬間私はドキリとした。このところ同輦が幾人か極秘に招集されていたからである。私は丁重に挨拶して受け取った。誰も居らぬ一室にて、わなわなと震える手で開封、矢張り赤紙である。
   病む妻と幼児四人のわが家に電撃下る極秘動員
   緩急の備えのわれは補充兵朕の命なり畏こみ受ける
 畏み受けたものの突如頭に閃いたのは、第一番の家族のこと、この家族らはどうなるかである。一番頼りになるべき妻は、足腰不自由な寝たきりの病人である。長女は十才、長男が八才、次男は五才、次女は二才の乳離れ直後で、まだオッパイをさわっていないと安心出来ない幼児だ。私はこの事を妻に知らせるべきか、大きなショックを受けるだろう。会社の出張と言ってトボケてでかけようか、幾日かの猶予期間を悩みぬいた。
   応召と知らず幼な子気嫌よしとみにやさしくわがなりたれば
 令状を受けてからの私は、子供達に……やさしいお父さん……という印象を与えておきたかったから、子供達の自由奔放を黙認していたのであった。然し、「おかあさんは病気だから、言う事をよく聞くのよね、おとうちゃんが勤めで居ない時も、おかあちゃんを大事にしてね」とやさしい口調で言いふくめ、当分の間家に帰らぬ時の準備を教へておく事も忘れなかった。そんな毎日を妻はケゲンに思い私に釈明を求めた。致し方なく「驚くなよ」と小声で念をおし「実はね」とマル秘とある秘密召集令状を受けたこと、こらがその赤紙と、やっとの事でふるえる声が出たのだった。妻はハッとした表情で毛布に顔をうずめてしまった。私も放心状態になり、二人の間に深い沈黙が続いた。世の中が真暗になって来た。しばらくして妻は毛布から顔を出し「わたし軍国の妻よね」と力強く言ってくれた。この一言で私はどんなに救われたことか。「ありがとう頼むよね」と言葉少なに言って、差し出す妻の手をかたく握り〆めた。「そういえば、おとうちゃんはこの頃子供達に随分甘くなったわね、おかしいと思ってたのよ」と妻。
 では早速と
   神棚に灯明あげて赤紙を供え身ぬちのひしとしまりぬ
   神棚にぬかずきいとし妻も祈る病床あげて銃後守ると
   防人の心ひらめけり神棚に赤紙供え力湧き満つ
 朋友(ぽんゆう)満人の言の裏付成る
   隠し持つラジオの言と朋友の満人が耳打つ日本の雲行き
   日本の雲行き悪しと朋友の裏付となる極秘召集
   日本の敗けを予言す満人を他山の石とわれひた愛す
   大人(たいじん)がもし征く時は家族みな守ると言へり満人の友は
   家族みな守ると言いし満人に託す日は来ぬ赤紙みつむ
   出張と言いて家族を朋友に託して征きぬ極秘召集
   上司のみ知る応召に乾杯し出張の名のわれの送別
 応召の日
   病む妻に幼な子四人負わせおき醜のみ楯と勇み我征く
   赤紙と奉公袋を風呂敷にわれひそと発つ極秘の動員
   出張と言うて頭を撫ぜやれば土産をねだる幼らいとし
   出張と思い幼らはしやぎつつ袖にすがるもあわれなりけり
   極秘なれば万才歓呼の声もなく妻子の見送りいつもの如し
   赤だすき心にしかと吾れかけて行き合う人に軽く会釈す
 かくして昭和二十年五月十九日、満鉄職員だった私は応召し、鬼といわれた関東軍北満緩陽歩兵連隊へ入隊、国境警備の陣地づくりに当った。八月六日未明、ソ連軍が越境し交戦状態に入ったとの電令に身の毛がよだった。
   対峙して敵をばにらむわが体に凝りかたまりし大和魂
 とは言え、日本軍はその時頭数だけで、攻めるも防ぐもほとんど素手であった。体当りだけでは戦争にならない。子供の戦争ごっこではないのである。竹棒を構えて口で「パンパン」と叫んでも相手は死んでくれない。八月七日には満鉄の無蓋車で負傷兵が続々と運ばれて来た。ムーリン台陣地にいた私達には、すでに負け戦がはっきりしており、このままとどまれば死を待つのみであった。八月九日にはソ連の砲兵部隊が接近、ムーリン台陣地は砲撃の的になった。幸い敵も弾丸が少なかったから助かった。
 翌八月十日、連隊本部から「退去せよ」の緊急命令が来た。だが谷野中隊長はその命に従うことを潔しとせず、「君達は引き揚げろ」と一言を残し、手榴弾を頭に勇ましく自刃を遂げた。「死の美学」といったものがすべての軍人を支配していたような気がする。

 終戦地の思出
   北満の第一線を撤退し理由明かされず軍務解かるる
   戦陣訓軍人勅諭振り捨てて逃亡よろしく軍務解かるる
   軍団を放たれさまよう北満の荒野に捨てたり大和魂
   ソ連機の低空施回しぐくして命のかぎり草にもぐれり
   日暮れ待ち夜行動物さながらに星を頼りの逃避をつづく

  だまされて抑留
 私達の逃避行中、ある山の中で日本軍人に見つかり、初めて日本の敗戦を教えられ、そして甘い言葉に釣られソ連軍に抑留された。その人は宣撫班といって、ソ連軍の指導下にあるのだった。
   ダモイダモイと明日にも帰国をほのめかし慮囚のわれらをシベリヤに曵く
   海征かば山征かばわれ遂にゆくシベリヤ寒き俘虜のラーゲル
   シベリヤの雪野に曵かれし捕虜のわれ大和魂失せて影もなし
 シベリヤの捕虜重労仂の成り行きと生活状況、或は、捕虜出航地ナホトカ港待機中に於ける共産党の洗脳、共産党史の勉強、デモの実習、復員船の所見、舞鶴上陸、帰郷直後の心境等、戦争後遺症が脳裡に埋まり、短歌に濃縮してありますが、紙面の都合もありますので、またの機会に発表させていただきます。



     筆者は1908年生まれ。権田二三代さんの夫。嵐山町報道委員会が募集した「戦後50周年記念戦争体験記」応募原稿。『嵐山町博物誌調査報告第4集』掲載。