忘れもしない昭和二十年八月十五日の昼、私は満洲国営口市のお友達とわいわい言いながら楽しいお弁当を広げていた。すると先生が教室へ来て「皆さん戦争は終りました。お勉強はこれで終りです。皆さんにいつ会へるかわからないけれど皆んな元気で頑張って下さい。日本人である事を忘れずに。それでは気を付けて帰って下さい。サヨーナラ」先生は泣きながら言ってました。毎日学校へ行くと戦争の話ばかりでした。それも私達の先生は皆若い男の先生だったので兵隊に取られ何人の先生を見送ったかわからず、やっと女の先生で喜びあっていた矢先の出来事でした。戦争を知らない今の子供達には、わからないと思うが、学校では毎日四年生以上は女子はナギナタ、男子は木刀を持って銃剣術の練習をやっていた。もしソ連軍が侵入して来たら子供でも兵隊さんと一緒に戦える様に内地の子供達に負けない様、戦争に勝ちます様にと毎朝の朝礼と祝祭日には日の丸と満洲国の国旗を立て近くの神社の忠霊塔に参拝に行ったり、国防婦人会のお母さん達と女の子は赤いタスキを掛け街頭に立って、千人針と云って白い布に赤い木綿糸の玉を作ったり、戦地の兵隊さんの為に慰問袋を作ったりして勝つ事だけを信じて祈って、私達満洲の子供達も頑張って来た。学校からは日本軍の勝っている映画ばかり観に連れて行かれた。どうして負けたのかと不思議でした。家へ帰ってから母に聞いた話ですが内地では、原爆と云う恐ろしい爆弾が落されたと云う事でした。平和だった私達の満洲営口を突如として立退き命令。寝たきりだった母は気強くも床から出て幼い子供達に逃げる用意を指図し当座を凌ぐ物を持てるだけ用意した。私は幼い妹を背負い病気の母と二人の弟は健気にも力を出して持てるだけ持って住みなれた家を後にした。その時父は軍に召集されて留守だった。父が満鉄の職員だったおかげで社宅の人達と汽車に乗って逃げる事が出来た。途中町の人達が線路ずたいに子供やお年寄を連れて逃げて行くのが見えた。「助けて下さいお願いしますその汽車に子供と年寄だけでも乗せて下さい」と手を上げて泣き叫んでいる。可愛そうだが乗せるわけにはいかないんだと大人達は云っていた。それはソ連の兵隊が乗っていたので汽車を止める事は出来なかったのだそうだ。汽車は無情にも走り去った。今でもその時の状況が走馬灯の様に浮かんでくる。私達鉄道員の家族達は、大石橋と云う所まで逃げたがそこでは、市全体が一括して受け入れてはくれなかった。路頭に迷っている時に営口駅の駅長さんの計らいで戻る事が出来た。駅長さんの家族も一緒だった。社員の家族達は日本人の経営していた大きなホテルに収容された。その日から収容所生活が始まった。父のいない私達五人の地獄の様な生活が始まった。ある日収容所に父の配下の満人のボーイさんが三人訪ねて来た。父に大変可愛がられ世話になったから恩返しに、何かお役に立ちたいと申しとても嬉しかった。そのボーイさん達にお世話になり、私は妹を背負い母は杖をつき弟二人と行商に出た。ボーイさんが連れて歩いたおかげで買わずにお金をくれたり、可愛相だと言って御飯を食べさせてくれた。これが地獄に仏と言うのかなあと思い父に感謝した。一日歩いて帰って来た夜は楽しかった頃の思い出話に話が咲いた。春はアンズの花見に夏は友達とプールへ、秋はイモ掘にリンゴ狩りに、冬はスケートに話はつきない。営口ホテルの収容所生活にもなれいくらか落ち着いて来たのもつかの間で、ソ連兵と国府軍が市街戦争を始めた。一日中大砲の音や機関銃の音に脅やかされていた。生きた心地はなかった。戦争とはこうゆうものかと思った。激戦地にいるようで日本の兵隊さんもこうだったのかと思うと戦争がおわってよかったとも思った。ホテルの中はソ連兵でいっぱいになりホテルの内でも撃ち合いが始まった。すると一人のソ連兵が負傷して私達母子の部屋へ入って来た。何をされるのかと脅いた。母は私に「大丈夫だから傷の手当をして上げなさい」と云ったので兵隊さんの傷の手当をして上げたら喜んで帰って行った。日本の母はやっぱり強いなと感心した。すごい体験をしたものだ、従軍の看護婦さんの様だった。戦争に負けて悔しいと思ったのは、ソ連兵が年頃のお姉さん達をむりに連れて行く事だ。残ったお姉さん達は男装をして兵隊の目を逃れていた。だが私のお友達のお姉さんはみやぶられていやがるのをむりに連れて行かれて二度と帰ってはこなかった。ほんとうに戦争が憎い二度とするものではない。私は子供だったので助かった。恐ろしく惨酷な事で残念だった。暫くして日本へ帰れると言うので又汽車に乗せられて思い出多い営口を後にして引揚船の出るコロトウの収容所へ行った。日本へ帰れると云うので辛い事も我慢した。そこから船に乗って佐世保に着いた。二十一年十一月九日に父の生家の嵐山町に着いた。やっと日本へ帰れたのだと云う実感だった。母と子供達は父の生家へ身を寄せたが歓迎されなかった。其の日から厄介者扱いだった。穀潰しとののしられ病気の母はつらい思いをしていた。みかねた母の生家で母と妹を引取りに来た。母と別れが悲しかった。大農家なので私と弟二人は年の違わない従兄弟達に穀潰し早く仕事をしろと馴れない農作業を手伝い、私は女だからと雑巾がけや藁で作ったタワシに灰を付けて大きな鉄釜を毎日磨かされ手は皹になって血が滲むのだった。年の違わない従姉妹にいじめられ何度となく遣り直しをさせられた。毎朝の学校へ行く前の雑巾がけがとくにつらかった。きたないと云っては何度となく拭き直しをやらせられしまいには自分で従姉が拭いていた。北満でソ連軍と交戦した父の消息は不明で心配の毎日だったが二十三年の六月にシベリヤから復員して来た。弟二人と父がシベリヤから帰るまではと歯をくいしばって耐えた。父も捕虜となり苦労した事だったろう。御苦労様でした。私達引揚者は戦争の犠牲者である。五十年たった今日でもまだ続いている。苦労して幼い四人の子供を連れて帰って来た母の苦労は大変な事だったろう。今でも母の病気は治っていないのだ。二度と戦争してはいけないのだ。
筆者は1935年生まれ。権田恒治さん・二三代さん夫妻の長女。嵐山町報道委員会が募集した「戦後50周年記念戦争体験記」応募原稿。『嵐山町博物誌調査報告第4集』掲載。