GO! GO! 嵐山 2

埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

短歌 根岸・根岸き 1951年4月

2009年04月30日 | 文芸

  うつくしく平和のために戦ふと
          地表の人はしかし好戦的

  二分くる勢力こゝに相触りぬ
          土を固めて家つくる国

  常にかも冷たき位置を守りゐる
          ネールの理智に学ばむとする

  ヨーロッパの光栄はアジアの屈辱と
          なげきて人よ東洋は哀し

  茶房出て竜舌蘭の経(みち)ゆき
          長くは行かず夕日見て帰える

  西の方墓山の日にあつまれる
          烏鳴かしめて樹を染む夕陽

  霞立ちて秩父を隠すとのぐもり
          蛇坂の枯れに気圧動かず

  来り見る都幾のたぎちの幾つ瀬に
          瀬鳥は啼けりどの瀬にも居て

     『菅谷村報道』12号 1951年(昭和26)4月10日


八日会句会の農民俳句 1950年代後半

2009年04月28日 | 文芸

①八日会句会報 1956年
 二月二十八日月例会は俳句練習会開催、各会員の代表作は左記のようである。

   若き芽の水仙のごと八日会  田島菊

   黒々と野焼の畦の続きけり  中村常男

   津波風野火の煙が高くなり  千野久夫

   顔そりて冷たき風や春浅し  千野良之

   野火が呼ぶ風微かなり小田暮るる  吉場雅美

   草焼を立って見ている頬かむり  持田市三

   俵装競技会春雪の降り続く  強瀬長重

   春浅し巨木の木肌落ちて寂  安藤一鳳

     『菅谷村報道』68号 1956年(昭和31)3月20日

②八日会歳末句会 1957年
 十二月二十五日聖誕日を祝して句会を開催した。成績は次の通りであった。

   米積んで歳末の日尚惜む  中村常男

   記憶なく暮れ行く年やあわただし  久保寅太郎

   歳末の積る反省八日会  吉場雅美

   歳末や追わるる如く麦を踏む  小林辰見

   農協の混み合う村の師走かな  千野良之

   忙しげにバイクが走る年の暮  千野久夫

   大きな夢翌年廻し年の暮  田島菊

   被服店売出し必死年の暮  持田市三

   来年の豊作誓う年の暮  永島倍久

   歳晩の大鮭梁にぶらさがる  安藤専一

     『菅谷村報道』86号 1958年(昭和33)1月25日

③八日会句会報 1958年
 一月二十八日夜、麦の土入、竹馬の兼題で句会を開き、農民俳句の相互研究を催した。一人一句を公表して、大方の御高批にあずかりたい。

   土入れや乾いた土の音軽し  安藤叡(あきら)

   竹馬や乗って見せ又手もとりて  久保寅太郎

   ふり向けば土入れする背に星一つ  田島菊

   土入や早や陽炎は野に燃ゆる  大木久作

   参宮の楽しみこめて土入るる  千野久夫

   土入れし麦しんかんと陽を吸える  小林辰見

   竹馬の後追うて行く茜雲(あかねぐも)  中村常男

   名残疵(なごりきず)竹馬戦や親心  吉場雅美

   せがまれて作る竹馬子は囲む  杉田朝光

   下肥の麦に土入る作男  杉田和義

   竹馬の高きを誇る子が大将  安藤専一

     『菅谷村報道』87号 1958年(昭和33)2月25日

④八日会句報 1959年
 二月一日夜、七郷小学校で練習句会を開く。
 当日の成績は次のようであった。

   雪催い麦の追肥を急ぎけり  千野良之

   月冴えて火の用心の声寒し  大塚旦次

   早朝のほのかに温き寒卵子  安藤叡

   遠き峰皆それぞれの雪衣  大久保義勝

   連山に雪思わせる小雨降る  大塚祐吉

   麦踏や原子時代を外にして  藤野守一

   日向ぼこ老婆の膝に猫寝入り  松本茂

   トランプにこたつ櫓の夜も更ける  持田市三

   奴凧梢に残り子ら帰える  中村常男

   雪掻いて起す黒土鍬初め  安藤専一

                 (安藤専一氏提供)

     『菅谷村報道』97号 1959年(昭和34)2月15日

※八日会については、「七郷地区の農事研究、修養団体・八日会の活動」を参照


今次選挙における関根氏の批判に対する卑見 出野好 1955年

2009年04月27日 | 報道・論壇

   論壇 今次選挙に於ける関根氏の批判に対する卑見
 先月号報道に寄せられた、関根氏の今次選挙に於ける所論に対し聊(いささ)か卑見を申述べて、識者の御批判を仰ぎたいと思ふ。先づ第一段に於ける教委選挙に対する同氏の所論は私も全く共鳴共感に堪へない所である。人為的工作に依って教委選挙を無投票に終わらしめた事は如何にも非民主的であり、又農村の封建性を遺憾なく暴露したものであった。五名の立候補者が各々所定の届出を了し堂々馬を陣頭に進めてゆえい【輸贏】を決せんとする直前に於て、一部人士の策謀に依り其の圧力に依って辞退を余儀なくせしめたる事実は周知の通りである。
 之を以て村の平和を維持し得たりと誤信するに至っては其度し難き頑迷固陋(がんめいころう)悲しむべき封建性、全く呆(あき)るるの外はない。当時村議選酣(たけなわ)にして其の立会演説会に於て某候補の如きは、恰も一大殊勲を樹立したかの如き口吻(こうふん)を以て無投票に終らしめたる経緯を得々として弁じ乃公(だいこう)出でて村の平和始めて成ると云った様な素振りであったが全く以て恐れ入った次第である。戦後ボスなる新語が生れて其封建性、其横暴、其権力に依る圧迫が普(あま)ねく世のヒンシュク【顰蹙】を招き、識者の非難の的となったのであるが、今回菅谷村教委選に於ける之等一団の連中の策謀こそボスとしての代表的なものであらう。
 我々は今後かかるボスの蠢動(しゅんどう)を断固排撃し、真の正しい選挙、明るい選挙の遂行の為に全力を挙げて努力すべきである。此の意味に於いて、関根氏の所説は我選挙民に対する一大警鐘であり、頂門の一針であった。
 次ぎに第二段における地域推薦に対する所論であるが、是は純理論的に云へば正しいのであろうが、実際的に考察すれば一応之も止むを得ないのではなかろうか、農家の主婦、選挙権に達して間もない青年子女、社会的な接触に乏しい一部の人たち等々、之等の人達は同じ村内でありながら、はっきり知って居るのは村長さん位のもので、其外の他の人は顔を見知っているが名前は全然知らない又、名前は聞いた事があるが顔は知らないと云ふ様な人達が案外多いものである。
 関根氏云ふ所の候補者の人格、識見、政治的情熱を考慮して、自己の判断に基いて貴重の一票を投ぜんとするには、矢張り自分の住んで居るの信頼するに足る人物を推薦するより外ないであろう。
 私は地域推薦必しも不可なりとは思はない。実際的に見て最も妥当な方法なりと信ずるのである。県会にせよ、国会にせよ、大なり小なり選挙区を定めて行って居るのであり、今国会の如き、選挙法を改正して小選挙区制とすべく、目下立案計画中との事であるが、又故なきにあらずと思ふ。私は従来の慣行に依る推薦方式を以て一応妥当と認めるものである。(出野好)
     『菅谷村報道』65号 1955年(昭和30)12月20日

※参照:合併後初の菅谷村村会議員、教育委員選挙が行われる 1955年10月

輸贏(しゅえい):勝ちと負け。勝負
乃公(だいこう):汝の君主の意から自分をを尊大にいう自称。我が輩。

頂門の一針:適切な忠告。痛い所をつく教訓。


村議会議員の改選に際して 菅谷村長・高崎達蔵 1955年

2009年04月26日 | 報道・論壇
   論壇 村議会議員の改選に際して
 町村合併後初の村議会議員の選挙も去る十月九日の日曜日に極めて平穏に行なはれ、即日開票の結果、議員二十二名の決定を見たことは村政のため、誠に喜びに堪えない次第である。
 此の誉ある当選は、決して偶然ではなく、常日頃の愛村の熱意並に人徳とが村民の支持となって現はれたもので、其の御努力に対して敬意を表すると共に、衷心から御喜び申上ぐる次第である。
 本村も本年四月十五日合併以来僅かに六ヶ月を経たに過ぎないが、合併も極めて円滑に行はれ、その後の村政運営も何等の問題もなく、着々として新村の基礎も強化しつつあることは、旧両村の議員各位が過去の行きがかりを清算し、互譲の精神を以てお互の立場を尊重し、只新村育成のため協力を吝(おし)まなかった結果であって、其の御努力に対しては村民は深く感謝致さなければならない。
 合併当時の議員各位はあらゆる障害を克服し、合併と云ふ歴史的大事業を立派に達成し、合併後も新村発足に伴ひ重要問題が山積して居ったにも拘(かかわ)らず、常に大局的見地に立って公平適切に処理した結果、兎角支障の起り易い新村の村政も極めて円滑に運営され、合併後僅かに六ヶ月を経過した今日已(すで)に新村の基礎も確立し、重要な仕事も次ぎ次ぎと実施されつつあることは、旧議員の御功績であって、其の御苦労は村政史上に永久に輝くことであらう。今回の改選に際して苦労を共にし、常々御支援御指導を賜はった過半数の議員が勇退され、議会でお会ひすることが出来なくなったことは誠に心淋しく惜別の情に堪えないものがある。何卒今後は自由な立場にあって、今迄の経験を生かし、側面的に村政のため御指導と御鞭撻を切望致すと共に、益々御多幸をお祈りして御礼にかへる次第である。
 今回選ばれた二十二名の新議員は、中十名は引続き議席を得た方で、所謂二年生或は三年生議員で他の十二名の議員は前村長或は前議員、教育委員、其他重要な役職の経験を持った村政に対してはベテラン揃いで、今後の活躍は期して待つべきものがあり、従って村民も新議員に期待する処、極めて大きなものがあると思ふ。
 前議員の御努力により、大体の基礎は確立したとは云ふものの、真に新村の育成強化は今後にあり、其の成否は新議員の双肩にあると云っても過言ではないと思ふ。
 幸い、新議員は前述の通り村政に対してはベテラン揃いであるので、必ず村民の期待に反しない立派な村づくりに成功するものと確信する。
 何れにしても新村発足早々で、村政面に於ても重要問題山積し、新議員の活躍に期待が大きいと共に、社会状勢も内政外交を通じて決して楽観を許さない重大局面に、議員として重大責任を負はれた各位に対し、深甚な敬意を表すると共に、今後の御奮闘を切望する次第である。
 吾々執行機関に席を置くものとしても、村民の心を心とし常に議会と緊密なる連絡協調につとめ、真に車の両輪の如く円滑な村政の運営に最善をつくし、以て明るく、平和で豊かな村づくりに専念する覚悟であるから、議員各位に於ても一層の御指導御鞭撻を御願して、新旧議員各位に対する御挨拶とする。(菅谷村長高崎達蔵)
     『菅谷村報道』63号 1955年(昭和30)10月20日
※参照:合併後初の菅谷村村会議員、教育委員選挙が行われる 1955年10月

冨岡寅吉日記 昭和17年1月(1942) 菅谷村(嵐山町)大蔵

2009年04月25日 | 冨岡寅吉日記

富岡寅吉日記    一九四二(昭和十七)年

一月一日 木曜 晴
四方拝式典参加召集日
教練召集日だ。今日は四方拝挙式参加である。八時頃出発した。九時に式は始り校長先生の話があった。
国民学校生徒下組*の天神講である。家が宿で守平以下八名であった。午后新藤君の家で遊び子守り等もした。
色々の工場へ行ってゐる人達も皆来て愉快である。
夜になり山下三三男君山下昭二君等と玉川二本木座に行き花房芳子一行のしばゐを見た。木戸四〇銭であった。   以上
[豫記]十日午后一時学科召集日 十七日教練召集日午前八時ヨリ午后学科
[発信]富岡二三郎
*大蔵は上・下・堀ノ内の三組に分かれており、その下組。

一月二日 金曜 半晴
天神講の者は朝早くから神社にお参りし家で楽しげに遊んで居た。昨日とはちがって大部風がある。凧上げには強すぎる風だ。
扇凧を仕上げたが良く上がらない。戸口君*が凧をかりた。とても良く飛上り愉快であった。弓で凧を射たが駄目である。
街の方へ遊びに行った。午后二時頃地方長官殿や県の役の方々の人が乗馬にて大蔵を菅谷の方へ通過せられた。
金井正次(しょうじ)君の庭で友達と子供見たいな遊びをした。父は夕方遠山の水車にお客に行った。
*戸口愛作。

一月三日 土曜 晴
山下庫次郎さんが朝早晩に来た。今日も魚取りである。富岡理昌、新藤嘉助の四名で根岸の下より始めた。風がとても冷めたい。でも魚は大部取れる。大きなのが二匹居た。何時もの道もどんどん上へ行った。
普通よりも大多く取れるであらう。一時頃嵐山に行き着いた。二貫匁近くもあった。
東京人に三円分売った。五拾銭もらった。魚も幾百匹か配けて呉れた。昼食を二時にした。
遊びに行くと金井君、山下君、等が居て金井君と羽つきをした。興味があった。隆次とメンチ*をした。これも又興味があった。遠山行きのお客は帰って来た。吉澤君に合った。   以上
*めんこ。

一月四日 日曜 晴
朝食して籠の中にトタンとバケツを入れて平沢の吉野廣一君の家へ使に行って色々と御馳走になって来た。十時頃より稲の籾摺りであるから早く帰った。十一時に始めた。金井治平方の機械である。山下彌一方のも一所である。
中食をした。幾俵もある見込みがない。
自分は籾の入れてをした。大蔵時計*で四時迄かゝった。
すぐ支度を取りかえて植木山の御地蔵様に行った。参詣してかまぼこ**を五十銭買った。   以上。
今年は年賀状が見えない。
*談:当時は時間にルーズで大蔵の時計は三十分位すすんでいた。
**談:中にあんこの入った大判焼き・今川焼きの類。

一月五日 月曜 晴
父監視哨勤務
父は監視哨勤務で早朝より支度をして勤務場に行った。馬のゑさを切った。
自分は昨日頼みに行ったバケツ等を持ちに行った。もう良く出来てゐた。
家へ来ると十時過ぎて居た。菅谷の薬部でみやこ染を買った。(海老茶)二十八銭
昼食してアラヌカつめを始めた。
十五俵ばかりつめた。凧の骨を作くった。杉山の叔父さん*が来て繭を持って行った。凧は出来上り朝風号と名付けた。今晩は村の常会で祖父様が出席した。   以上
[受信]野村収一
*新井力造。筆者の祖父の弟。

一月六日 火曜 晴
父は不在である。朝作くりに馬の食糧を切った。父は早く監視哨から帰って来た。そして米俵の外俵かけをした。
自分は竹割りの手伝ひをした。始めの中はちっとも出来なかった。でも少しは割れる様になった。
昼食をして木の葉はきに行く支度をした。山に行く道は此の間よりも道はずっと良くなり坂道などはよかった。
家へ来て父は馬に乗った。川から帰って来て自分が乗った。馬は威勢が良い。   以上

一月七日 水曜 曇
起きると曇天である。意外に霜が多ひ。父はリヤカーをかりて遠山の水車へだんご物*を持って行った。某は志賀(字名)まで行った。求める品は品切れであった。
家の近所で遊んだ。菅谷の根岸宇平さん濱野小十さんが家へ寄った。二人共別用。午后竹割りを少しして見たがうまく出来ない。弓を持って山に遊びに行った。
新藤君の家で大勢遊びヘウタン鬼事等して面白かった。
日はとっぷりと暮れて家へもどった。一昨日よりすいふろ**を桶屋にたのみ未だ作くらない。
七草も終った。
*粉にするくず米。
**風呂桶。

一月八日 木曜 晴
祖父さんは将軍沢へ籠作りに行った。朝早く菅谷の根岸宗平さんが来た。
車を支度して峠の山へ行った。車を引いて行ったので暖くいや暑くなった。
午前中ぶっぱらいをした。もう午近くなった。
風は木々の梢でうなめいてゐる。大蔵の昼の鐘*か聞えて昼食した。
少し草を刈り木乃葉をはき始めると守平が来て手伝だった。早く出来上り家へ来た。大根の首切りをした。
夕方暗くなった畠山の博労の悴の小市氏が休暇にて寸時来た。父は役場に用があり早く行った。が未だこない。
今日は大詔奉戴日である。   以上
[豫記]興亜奉公日(一日)を廃し毎月八日を大詔奉戴日と定む。
*談:向徳寺の鐘。

一月九日 金曜 晴
夕べ成澤君が青年学校の廻文を持って来た。今日は菅谷村の入営兵士を送るのである。
午前八時迄に校庭集合である。校庭には誰もゐない。嵐山駅に行った。大勢である。
家へ帰ってくると九時半であった。支度をして峠の山に向かった。家の者も着いた所であった。山で昼食をした。昼前に十二束まるった。午后も同じ事をした。
三時頃から帰荷をはいた。まだ日があるのでまるくのをはいた。全部で四十輪まるき我家へもどった。祖父さんは将軍沢へ籠作り。
元気良く 我が家を居ゐづる 入営兵。   以上
入営兵出発。菅谷大沢利助東部第六十二部隊、鎌形杉田光義東部第八部隊、菅谷関根久松・平沢村田治夫東部六部隊、根岸小沢庚市・鎌形吉野友治・鎌形杉田富造東部第十二部隊、鎌形小峰卯平東部第七十六部隊、志賀高瀬酉吉東部第七十七部隊、鎌形鯨井佐市・志賀清水留吉横須賀海兵団。

一月十日 土曜 晴
学科召集日
は馬で昨日まるった木の葉つけである。自分は支度をして長島水車へ大麦を持って行った。そして米ぬかを買って来た。(五〇銭)
十時頃帰って来て木の葉束ほどしをし馬糧を切った。馬は二ダン*、山に行った。
今日は十三時より学科である。内田君が来て呉れた。新藤君三人と学校に向かった。時間確守でなかった。服部先生が戦線**の詔勅を謹解した。校長先生の話が少しあった。
家へ来て玉川へ耳にかぶせる物を買った。(三十五)桑原の堀返へしをした。
祖父さんは籠屋、将軍沢へ
[豫記]召集日 午前中藁細工 十六日持参品 藁。鼻緒たて。木鋏   以上
*二駄。二回。
**宣戦。

一月十一日 日曜 曇天
父監視哨勤務
朝は空一面に雲である。山下の小父さんが来た。朝食して魚取りに行った。月田橋の下の方より追ひ始めて大きいのが取れた。三日の日よりも始めの中は多く取れない。雲がからりと晴れた。冷めたい北風が吹く。千手堂前で一網大へん入った。
どんどん嵐山(あらしやま)前さして行った。何時もの様に逆手を呉れた。是又多大の収穫があった。その上でも同じ位は入った。細い橋まで戻り又のぼり帰りに一網ぶち終りにした。一貫〆以上悠にあるだらう。二時に帰家した。
魚を串にさした。七十本近くもあった。みやを背におぶい遊びに行った。夕方まで良く遊んだ。祖父さんは将軍沢へ籠屋。
[豫記]明日は新聞配達

一月十二日 月曜 曇
朝食って自転車で遠山の水車へメンの注文に行って来た。すぐ山へ行った。じきに昼になった。昼食して少し仕事をすると母が来た。ぶっぱらいをしたり木の葉をはいたりした。
帰荷をはいて後をまるくのをはいた。二十束はいしてしまひにした。空はどんどんと雲が厚くなり家へ来るともう雨が降って来た。
祖父さんは家で籠作りをした。畠山の博労さんが来た。   以上
今度は監視哨は夕方(交替)であるそうだ。

一月十三日 火曜 本晴
早朝めしで山に木の葉はきに行った。父がマッチを忘れて村田指導員*殿に十本もらった。夕べ雪が霜と見違える程しか降らない。祖父さんが馬で木の葉をつけて呉れた。午前中二段**つけて午後も二段つけた。
自分は二時頃しまって来た。自転車で遠山水車に粉持ちに行った。全部出来て居たが一斗ばかり持って来た。
木の葉束ほどしをして籠を持って行った。
清水岩三さんがお便りを下さって色々とかいてあった。   以上
[受信]清水岩三
*村田福次。青年学校教練指導員。
**駄。

一月十四日 水曜 晴
餅つきである。自分は一番おそく起きた。山下の小父さんが来た。今日も魚取りである。支度をして庫さんの家へ行った。大ガケより追って行った。何時もの様に取れた。学校橋の上杉山の下に鮎が数匹居た。その中三匹は網で取った。小魚は何時も程取れない。
鎌形の川へ上って行った。八幡様の上で鮎を一匹合計四匹取った。玉川村和田前の所まで行き、何時もの貫数位取った。嵐山の方に廻り之又多大の収穫があった。合計は自分が小父さんの手伝ひを始めて以来首位である。家へ来て串にさした。七十串は悠にあった。
今日は馬の飼料が配合*になって午后父が持ちに行った。   以上
[発信]清水岩三
[受信]山下豊作
*配給。

一月十五日 木曜 晴
馬の鍛練
父は馬の鍛練で早朝より多忙の様子であった。
新藤、野口、岡野、野村宇平君の総計五人で比企郡平村の山王様に自転にて出発した。
青年団の自転車預り場にあづけた。(十銭)
もう道が混雑になった。馬も何十頭ともなく畠の中、校庭に繋ないであった。
マトウ*と言ふものを始めて見た。三時頃帰家した。磁石を買って来た。
今日は兎を出すので家では四頭三貫〆あったそうである。(夜)守平と碁目をした。
内田武夫君などと遊んだ。面白くなかった。父は午后用で畠山の博労の家へ行った。   以上
*流鏑馬。

一月十六日 金曜 晴
藁を持って学校に行った。下田先生に合って話を聞くと今日は召集日ではなく明日午前八時より教練で十時より学科で草履作りである。
青年団の総会なのですぐ向徳寺に行った。支部長副支部長をかえたり、役員の取りかえである。支部長は富岡良治さん、副は村田福次さんである。外役員は山下廣雄さん、富岡理昌さん、山下正さん、金井亀二さんである。茶碗を二ツ(二十二銭)呉れた。午前中に総会は終り中食して菅谷に使に行った。父は遠山へ行った。
松山に行き鼻病治療器を買った。(二円五〇銭)行って来て友達と面白く遊んだ。
明日は教練と草履作り。   以上

一月十七日 土曜 晴
父監視哨勤務
教練の支度をして学校に向かった。門の百米前まで行くと「集合」の号令がかゝった。いそいで校庭には入った。十時迄教練をした。
少し休んで草履作りである。各組に分れ一組八人である。県の視学員殿に視察してもらった。思ふ様には出来なかった。
十二時頃終り一足出来上がった。帰宅してすぐ昼食して遠山水車へ麺を持ちに行き廣吉さんの自転車を借りて行った。廣吉方のお客様に(五〇銭)もらった。
支度を取り替えて前の山に甘藷の枯れたツルを祖父さんと運んだ。
風がとても冷めたい。   以上

一月十八日 日曜 晴
父は早朝に鎌形の杉田安藝家(あきいえ)さんの家へ行って来た。車に油を呉れたり支度をしたりした。
山に行き掃き始めると下木切りの人が四人来た。将軍沢の人達である。日曜日なので守平も行った。早くの中は風もなかったが強い風が吹き出した。昼前に一段掃いて馬がつけた。
午后二段掃き馬が運んだ。今日は何時もと違って風が冷めたく身がひえる。
早く上り荷を作くって家へかえった。
平沢の内田桑作様が用があって家へ来た。(一金十円也)   以上

一月十九日 月曜 晴
二日前の朝に比べると霜は少い。山に行き焚火をどんどんして暖まった。根刈りを始めた。
祖父さんも行き四人で働らいた。昼近くなると遠くの方で風の吹く音がする。
昼前に三段まるけた。今日掃く所は木がこんでゐて木の葉がたまる。
午后は風となった。坂が風に逆らってゐるので掃きずらい。ヒッカタ*(鳥の名)が仕事をする前へ来て自分をからかってゐる。
今日は五段掃いたので場所が広くあいた。家へ来て幾何もたたぬ中に鎌形の杉田吉造さんが馬の話にて来た。   以上
[発信]山岸良之助
[受信]吉野廣一
*ショウビタキ。ヒッヒッヒカタカタと鳴く。シベリヤからやって来る冬鳥。

一月二十日 火曜 晴
火の番である。
支度をして山に行った。今朝は父がマッチを忘れて母が岡本君*の家で借りて来た。もうマキ作りの人達は山に居た。あたらしてもらった。
根刈りである。もう大部場所を掃いた。でも見渡すと未だ広いものである。
太陽が南に来た。昼近くなったのである。マキ作りの人々が昼を喰べ始めた。自分達も昼食した。
今日は昭和拾六年度の米の検査である。
祖父さんは半日其乃方に係かった。午后は馬方である。三段つけた。
 某は三時に家へ来て支度をして遠山の水車へ藤縄様の麺を持ちに行き五拾本持って来た。今夜は夜番**である。   以上
*岡本七五三。
**談:夜警。火の番で、一晩に四軒ずつが当番で金棒をついて字内をまわる。

一月二十一日 水曜 晴
夕べ夜番でおそく寝たのでおそく起きた。朝食前金井組合長の家へ蜜柑が配給になったので持ちに行った。十四箇(五十六銭)
青年学校の廻文が来た。別に関係のない事である。峠の山にゐって根刈りを始めた。
父は馬の用事が出来菅谷の根岸宇平さんの家来き博労の証人となりに行った。
祖父さんは馬で木の葉をつけて呉れた。
昼前に二段つけて午后三段計四段つけた。帰りに車を引いて来た。
始めてなので困難と思ったらそうでなかった。ノコギリを買った。(六円)   以上
宇平さんの家では馬が博労になった。

一月二十二日 木曜 晴
朝は曇天で雨か何か降りそうである。父は車を引いて山へ行った。その後を行った。
祖父さんは馬方である。朝食してすぐ山に行き一段つけ昼前に二段つけた。
父と母、三人で木の葉を掃いた。父は束まるきである。昼前三段掃いた。
午后一段つけ二段。三段目には父と交替した。父は監視哨に行く為早く帰宅した。
祖父さんはのこりぶっぱらひをしたりタバまるきをした。四輪まるき上がり荷をつけて山を出発した。もう日が落ちかゝった。
家へくるととっぷりと日は暮れた。木の葉タバほどしである。物置きが一ぱいになった。   以上
[豫記]二十六日午前八時青年団で道路に砂利行きである。

一月二十三日 金曜 晴
父監視哨
朝の中風があった。祖父さんは鎌形へ使に行った。米の銭である。某は飼料の藁、甘藷蔓を切った。祖父さんはすぐに帰って来た。
五時半頃車を引いて峠の山に向かった。空には少し雲があった。飛行機が妙たる音を出して飛んだ。昨日五輪まるき午前中一段掃いた。
もう空の雲も晴れ日光が良くあたる。静かなので大蔵の昼を知らす大鐘がはっきりと聞えた。三やの中食は真にうまいものである。
全部で二十三タハまるけた。余は一日中根刈りである。皆一つ場*に出した。
帰り荷も掃き日の没するを待ち家へ戻った。将軍沢の下より祖父と替り車を引いて来た。とてもあつく汗が出まくった。
[豫記]二十四日学科召集 後一時普通学科
*一ケ所。

一月二十四日 土曜 晴
どうも朝になると起きるのがオックウでならぬ。でも起されるとすぐ飛び起きる。今日は(午後一時)十三時より学科があるので山には行かない。父と母は早く行った。祖父さんも馬方である。某は馬の飼糧である藁を切った。木の葉タバほどしをしたり、根刈りまるきもした。昼前馬は二段つけた。
中食後菅谷の鐡屋へ馬の蹄鉄に祖父さんが行った。新藤(文)君内田君三名と国民校に向かった。職員室で埼玉郷土読本を販売した。
普通学科は簾藤先生で数学グラフの所を教えて呉れた。色々と話が脱線して面白い。
夕方砂糖の配給に行った。四斤
父は十八時より監視哨に行った。   以上
[豫記]三十日召集日。埼玉郷土読本ヲ求ム。
[受信]富岡守平へ内田實先生

一月二十五日 日曜 晴
今朝は少し腸がいたかった。父が車を引いて行った。山に行き根刈りを始めた。守平も行った。もう西の方も少ししかなので早く終った。
祖父さんは米ツキに行った。(金井治平さんの家)
十時頃木の葉のうすくのこしてあった所へいった。少しすると大蔵の鐘が鳴った。まきこしらへの人達と一所に昼食をした。ダンゴもやいて喰った。七ツ位喰った。午后馬が来た。
昨日四輪掃いておいて今日は計三段掃いた。馬は三段つけた。あがり荷を掃き日の没すると同時に帰途についた。父は将軍沢監視哨員の家に用事がありよったので車を引っぱって来た。デキ物がとてもいたい。   以上

一月二十六日 月曜 晴
青年団員の砂引き
今日は青年団員が区内での道路へ砂を散らすのである。支度をして村田君*の家へ行った。ランプ箱を持って行った。河原に行ってから村田君の牛車の助手をした。牛は金井好吉さん方の牛である。山下丑三君も牛方である。
十時に乾燥場(旧)で休んだ。午前中に五車道路に散らした。
昼食して堀ノ内方へ行った。今度は村田君の家の牛である。体格は普通の牛よりずっと大きい。助手は愉快であった。
三時に富岡支部長の宅にて休みをした。甘藷、白菜、等茶菓子も出た。蜜柑も出た。
今日も一日つとまりにけり   以上
[豫記]三十日藁草履作り 二十六日青年団の砂利引き 道路へ
[発信]新藤純平**
*村田清治。
**新藤文太郎の兄。

一月二十七日 火曜 晴風
昨日の夕方の模様では今日は天気が変ると思ったら空模様はなをって日光が出、風が吹き始めた。今日で一町五反の山も掃き終るのである。三人で行き掃いた。一段掃くとあがり荷がないので木の葉山へ行って二籠掃いて来た。
家へ来ると〇、四〇分頃であった。祖父さんは家で籠作りである。
父は午后から掃いたくづぎを馬でつけた。出き物がいたいので仕事が出来ない。
祖父さんの籠作くり手伝ひをした。ふちをまく竹を細かくしたのである。
川島定吉さんの家へ籠を持って行った。

一月二十八日 水曜 晴
四、五日前は春先の様な天気だったが此の頃は又晩冬の気候となり霜がたいへんおりて居た。父と木の葉山へ行った。
一車位掃くのは手間取れない。方々の家で未だ山仕事である。家へ来て見ると十一時である。
祖父さんは金井柳作さんの家へ小作の事で行った。正午に帰って来た。五俵七升の所四割負けの三俵で良いのである。午后母と田麦を踏みに行った。上の田麦は皆踏み終った。
父は枝を分けに行った。四時頃峠の山に行き一車将軍沢まで出し、二車一ぺんに家へ運んだ。二十パつけて来て背戸の山に積んで居いた。
出来物がパンクして今日は痛みが抜けた。   以上

一月二十九日 木曜 晴
鎌形中島ノ小林孝太郎君ノ祖父死ス*
霜が降りて居て冷めたい。将軍沢の忍田君の主人が馬を引いて来た。可あいらしい馬である。
父と麸(ふすま)を持ちに行った。山より三車出し二車分(三十二輪)家へ持って来た。将軍沢に居る中、昼の鐘が鳴り出した。
昼食して祖父さんのこしらへた印籠**とショイ籠とを車につけて行った。
山より二車出し二車を一つにして持って来た。
次を行く時は十六時半頃であり、山に着いた時はもう日が没しかゝって居た。
未だ分けないでまるったのが百輪近く有るのである。枝をつむ場所へ到着すると日はすっかり没して電燈が輝やいて居る。   以上
[豫記]明日は召集日 十三時ヨリ
*小林民造。一八七〇(明治三)年生まれ。
**印籠かご。

一月三十日 金曜 晴
今日も買った枝を持ちに行った。忍田君、福島賢次さんの家でも来て居た。
今日は三十タバづつ分けられる。母も行った。
十五輪つけ出して岡本七五三君の家で十時休みをしお茶をもらって呑んだ。もう一車(ひとっくるま)将軍沢に出して置いた。
昼食して出してあるのを持って来た。全部分け切った。百十五輪分けられた。(一輪十八銭、二拾円七〇銭)
父は遠山の水車へ麺の代りを持って行った。
自分は馬の飼料の甘藷蔓、藁を小切った。草履を一足作くった。
今日は鎌形の家の祖父さんの御葬式である。   以上
[豫記]今日の召集日変更 明日午后一時

一月三十一日 土曜 晴
父と木の葉掃きに行った。一車掃くのはいくらもかゝらない。
昼食して学校に行った。長島先生、杉山先生が教へた。
下田先生より相生座の割引券を呉れた。山下中島君*等と小川迄見に行った。面白くなかった。   以上
*山下和十郎と中島運竝。


冨岡寅吉日記 昭和17年2月(1942) 菅谷村(嵐山町)大蔵

2009年04月24日 | 冨岡寅吉日記

二月一日 日曜 初雪
県下駅伝競争
空は灰色に曇ってゐる。支度をして登校した。大部寒い。同級生諸君と坂戸の方へ出かけた。高坂まで行くと小雪が降り始めた。皆の心中が変り其の所から松山へ行った。もう雪がひどくなった。吉見を通り南吉見村久保田迄行った。道に大へんつもった。東吉見~松山間をはしる人は千手堂の瀬山君*である。十幾番かであった。
松山まで行く中に十一番となった。青年学校では一番とかである。
雪はどんどん降る。自転車から二度落下した。
祖父さんの熊手こしらへの手伝ひをした。縄ないも少しした。   以上
[受信]清水岩三 富岡健治
*瀬山芳治。

二月二日 月曜 曇
雪が三〇センチ近くつもった。
ラッパが鳴り青年団の雪掃きである。今年の初雪だ。足がとても冷めたい。
帰って来たのは九時過ぎである。朝食した。鳥を執るブッツブシを作くって見た。なわないも始めた。
午后目籠を作った。良く出来た。
十一時に祖父さんは小川へ籠職の事について行った。
モチを置いてほうじろを一匹取った。
夜になって祖父さんは帰って来た。建設青年の復習問題が正解した。
[発信]富岡健治
[受信]建設青年

二月三日 火曜 曇
節分
晴天になりそうもない。曇天である。
十時頃松山へ行った。ゆわし*はなかったが、蜜柑とナシを買って来た。
昼食して支度した。
みやを背負って川島の鬼鎮神社へ行った。福引きで六等と外であった。
早く帰って来て金井屋でおでんを喰った。うまかった。
福は内 福ハ内   以上
[受信]斉藤三郎
*鰯。

二月四日 水曜 半晴
祖父さんは熊手作りである。
父と馬小屋の肥出しをした。未だ雪が消えない。木の葉肥で出しづらかった。
終ってから桑の木を切った。祖父さんは鎌形の家へ墓参りに行った。
植木山の鋸屋へ鋸なをしに行った。
昼食して桑の木切りをした。
夕方熊手曲げである。
夜、晩食後までかゝった。   以上
[発信]斉藤三郎

二月五日 木曜 晴
支度をして中島の工事、二瀬に行った。十四、五人しか来ない。
もっこかつぎである。羽尾の小久保君と組んだ。
始めの中はなれないので上手に行かなかった。
十時休みをするとじきに昼である

三時休みをして間もなく日は山の影になって終となる。   以上
[豫記]中島の工事出始め

二月六日 金曜 曇
二瀬の工事場へ行った。成澤君も見えた。忍田君と笊*かつぎをした。
十時頃石かつぎであった。今日は親方も見えた。
昼食して手ぐりで石を運んで川の中に入れた。
歐文社に懸賞問題を出した。
明日は召集日である。
夜大東亜戦争の写真の見本を青年団の役員の者が持って来て注文した。   以上
[豫記]明日保護馬の健康検査
[発信]歐文社
*畚(もっこ)。

二月七日 土曜 晴
青年学校教練、学科の召集日である。天気は快晴で霜でひどい。
三年以下召集日である。竹槍を持って大蔵の河原で基本体操をした。十三種おぼえるのがなかなか骨である。戦闘教練である散兵をした。これは愉快であった。
午后普通学科で服部先生の教授であった。続けて二時間した。
今日は菅谷村商業報国会員が旧校舎に集った。前九時より松山のグランドにて保護馬の健康検査である。   以上

二月八日 日曜 晴
二瀬の工事場へ行く支度をして出た。百米行くと根岸の戦友が追ひ着いた。今朝はあまりに寒い。工事場迄かけ足で行った。暖くなった。
十時休み迄もっこの中へ砂利入れをした。氷って居るので腕に強く答へる。
十時頃忍田君ともっこかつぎをした。午后も同じ事をした。途中で根岸貞次君と変って入れ方をした。
昼休み、三時休みは長かった。
終にするのも日のある中であった。父は遠山の車へ馬引きに行った。
小川方面の馬は今日健康検査である。   以上
[豫記]明日は入営兵士を送る。

二月九日 月曜 晴
起きて支度をして待ってゐるとラッパが鳴った。今日は山下一(かず)君の入営*である。朝は寒い。自転車で行った。尚更寒かった。菅谷村より二人入営した**。朝食して鎌形の工事場へ行った。未だ始まった所だ。九時十分前である。
今日は受取り仕事である。氷ってゐて砂利を入れるのは骨である。忍田君ともっこかつぎをした。今日は皆一生懸命である。十時休み前一時間の中に大変進んだ。
三時近くにもう方がついた。家へ帰ると三時廿分であった。風呂かえこみや甘藷蔓切りをした。
父はまき山切りを始めた。   以上
*一九四三(昭和十八)年四月十日戦死。
**他に遠山川端哲男入営。

二月十日 火曜 晴
鎌形の工事場へ行った。今朝はとても早かった。今日は石拾ひである。農士学校の前の河原で拾った。
此の仕事は楽である。
午后も同じ事をした。七郷村から内田、大澤、鈴木、等と言ふ青年が見えた。二十近い青年である。
明日は学校である。そして下の帳場*へ行くのであるわいな。
*根岸の帳場。

二月十一日 水曜 
紀元節 下流三号
紀元節祝賀式に青年学校生徒も参加するのである。今朝は特別に大霜の様だ。
支度をして新藤君の家へ行った。内田君も居た。学校に行くと未だ幾人もゐなかった。中島君に頼んだ振替の證書がとゞいた。
九時に式が始まり校長先生が色々と時局と重大なる話をした。
早く式が終り昼食して根岸の工事場へ行った。内田森吉君ともっこかつぎをした。
上の帳場と同じ仕事である。明日はトロ押しらしい。
夜は空が曇天と化した。   以上

二月十二日 木曜 曇
根岸下流三号の工事場へ行った。早かった。雪が霜の様に少し降ってゐた。総人数は三〇名以上ゐるだらう。下の方でもっこかつぎをした。忍田君としたがまだなれぬので水中に足を入れた。休後、忍田君が牛方なので其の助手をした。三車で昼となった。
祖母さんは神戸へ使に行った。
午后もっこかつぎであった。羽尾の人とした。
祖父さんは籠を作り売りに行った。   以上

二月十三日 金曜 晴・風
下流三号の工事場へ行った。今日は人員が少し減った。下のトロ線から三台トロを運んだ。上のトロ線にかけた。羽尾の赤沼と下唐子の潮田(うしおだ)君と三人で初トロを押し始めた。
具合の好いトロである。十時休みをした。十台押し、昼までに八台、計十八台、押した。
午后三時休み末に同じ位の者であった。
其れからは風が強くなり橋の上などは寒かった。
今日は日光の落ち切れる中に終りにした。
父と母は木の葉掃きに行った。一日で終った。
明日は学校也。   以上
[豫記]特別 午后は近日希なる大風

二月十四日 土曜 晴
下流三号場へ行った。昨日より遅かった。
牛車引きの助手である。青鳥の人の車の助手をした。休み前に十台引いた。休みは部屋でした。牛が車を引いて逃げ出した。
今日は半日で家へ来て支度をして学校へ向かった。新藤君等と一しょに行った。
菅谷、嵐山駅通りの荷受所で武道大会がある。見学である。あまり面白くなかった。
鎌形の吉野君*も剣を持って戦かった。残念乍負であった。
岡松屋で菓子を少し買って持って来た。馬は蹄鉄に行った。   以上
*吉野勇作。一学年上。

二月十五日 日曜 雪後曇
寝てゐる中に弟妹が騒いでゐる。雪の吹ってゐる様な嬉しそうな である。起きて見ると面方(あたり)が真白である。今日は工事も休みだ。
守と碁目をした。守平も少しは敵となれる腕とあった。十一時頃草履作くりを始めた。
大きな奴を一足作り出した。半足分作くると昼となった。十時頃、いねとまきは金井柳作方へ孫様の帯解*でお客に呼ばわれた。
いねもこの祝をして産土神に参拝した。
遠山水車のもっちゃん**(人名)が床上の祝を持って来た。一時より神社々務所にて常会があった。自分が出席した。
夕方熊手曲げをした。十五本。   以上
*七五三。
**兼子もと。

二月十六日 月曜 晴
寝てゐる中にラッパが鳴った。青年団の雪掃きである。村田君の家へ行った。そして河原の方へ掃いて行き団員に合った。今朝は六人切りで学校迄行った。家へ来ると八時半頃であった。朝食して三号の工事場へ行った。大変来てゐた。
トロ押しである。青鳥の小野澤君と始めた。休み前忍田君もは入り三人で押した。
十時休みをし、幾台か押すと昼である。自転車で行ったので家へ昼喰ひに来た。
今日は会計である。休みに三号の会計は終った。工事が終ってから、大澤右(う)平さんの家で鎌形の会計を與一*方より受取った。計拾貳円八拾銭。   以上
*中島與一。

二月十七日 火曜 晴
今朝は何時もより三〇分早く起きた。□□守は今日、七郷の学校へ査閲見学に行くので早く行った。自分には通知がないので下流三号の工事場へ行った。早かった。
新聞にはでかでかと星港陥落と記るしてあった。家々で今日も国旗がなびく。
河原の雪はすっかりとけた。
もっこかつぎを少ししてもっこに石を入れたり砂利を入れたりした。
工事はトロ押しや石張りである。
今日は学校に行くのだそうだが行かなかった。   以上

二月十八日 水曜 晴
宗ちゃん*と一所に行った。昨日より早かった。部屋であたった。忍田君は牛方である。
小屋へ火をもした。人ずうが少い。潮田君、西田君と三人でトロ押しをした。
休み頃大蔵神社で万才の声が聞えた。シンガポール陥落の祝ひである。今日も家々の国旗へ大国旗がひらめく。
昼食して一日中トロ押しである。夕方、空に雲が大く出て来た。
明日は上岡のかんのん様である。青年団の三十三社
[豫記]明日は青年団員の三十三社である。
*川島宗作。

二月十九日 木曜 曇後晴
下流三号の工事場へ行った。今日は青年団の三十三社参りなので父が代りに行った。
今朝は普通に工事場へ行った。トロ押しである。潮田君、西田君の三名で押した。
十時休みにさつまいもを喰った。今日は二瀬からも人夫が来た。休みも短かく昼休みも短かかった。
潮田君に甘藷のかんそうをもらった。
夕方になりもっこかつぎで川の中におっこった。身体が良くぬれた。未だ力が無いからしょうがない。
上岡のかんのん様で馬の絵まを買ってきた。

二月二十日 金曜 晴風
新聞配達なので早朝より支度をして配達函に行って見るともう来てゐた。日日八部、報知一部、朝日四十四部、計五十三部であった。今朝は餅をついた。
宗ちゃんを呼んで行った。朝は寒い。トロ押しである。潮田君等と押した。
十時休みも近く、昼休みも近かゝった。根岸の観音様へ昼休みに行った。十銭つかった。三時休みもみぢかい。
夕方そうとうおそくまでやった。二十銭増であった。   以上

二月二十一日 土曜 晴天
下流三号の工事合計六人ト六十銭
早く起きた。今日は一時間早く工事場へ行くのである。小屋に行くともう親方は来てゐた。
日光があたってから仕事を始めた。朝の中もっこに砂利入れをした。休み前トロ押しをした。休み頃県から検査員が来た。無事に通った。
昼まで少しトロ押しをした。昼食後もトロ押しである。西田君と押した。
今日は朝から静かで一日中風がなく良い日であった。
昭和十七年第貳拾壱回菅谷蚕業組合通常総会があった。
今日も二十銭増分。

二月二十二日 日曜 半晴
支度をして鎌形二瀬の工事場に行った。熊さんが一人来てゐた。皆の集まるのはなかなかゆっくりであった。
神戸の杉田君ともっこかつぎをした。二十人位人夫は居る。
九時頃半鐘が鳴った。唐子村方面から煙が上った。上唐子の北である。
十時休みをして昼迄もっこをかついだ。
昨日とちがって今日は休みがゆっくりである。
父は山仕事に行った。   以上

二月二十三日 月曜 晴
地下足袋の配給一足。特配一足。一円六十五銭
昨日は日傘であり月傘であった。今朝は曇天であった。何時もより早く仕事に取りかゝった。杉田君ともっこかつぎをした。目つぶしをしたりうめつぼをした。
十時休み前になると空の雲は消えて快晴の天気となった。
昼食休みに角力をやった。皆強い。
今日は身体がだるっこく春らしくなって来た。三時休みをすると間もなく日光が没してしま。熊手曲げの手伝ひをした。夜金井義雄さんが地下足袋を持って来た。一月分の配給である。一足特配があった。   以上

二月二十四日 火曜 雪
起きると曇天であった。春雨が糸の様に細くちらついてゐる。朝食近くになると少し雨量が増して来た。二瀬の工事場へ行って見た。親方も来た。
十時頃迄に十七、八人集った。雨は雪と変化した。工事は中止である。帰りには田野が真白になった。家へ来てぶっつぶしを作くった。
早く弁当を喰った。学校生徒も早く帰って来た。雪はどんどん降る。山下彌一方で十一文の地下足袋と家の十半の地下足袋とを取り替えてもらった。
四時頃隆次がぶつつぶしてほゝじろを一匹取った。山下丑造君が青年学校の用事で来客した。軍人援護会へ五銭寄付した。   以上
[豫記]二十八日学科召集午后一時ヨリ 普通学科考査 低学年 杉山先生

二月二十五日 水曜 晴
雪中行軍
早く起きて雪掃きの支度をして県道を下へ行き学校道へ行った。団員が河原を掃いていた。根岸の青年団員も同じ仕事に来た。帰りに団費で菓子を喰った。十五人で四円
仕事に取りかゝると非常召集があった。文殊様*へ行くのである。早速支度をした。
学校に行くと幾人も居ない。欠席者が多い。普通科、本科一年は合計九名であった。
十時半頃出発した。文殊様の近くで弁当を喰った。あまり面白くなかった。
雪中行軍なので足はびしょぬれとなった。今度の召集日は二十八日午后一時ヨリ。行軍から帰ってくると日は暮れてしまった。   以上
*現江南町野原の文殊様。

二月二十六日 木曜 雪
工事へ行かふと思って支度をした。すると雪が降り始めた。工事へは行かないで江戸三国志*を読んだりしまだ編みをした。
引きわんなーも作くってある。幾度か引いたが逃げられた。
昼食后堆肥の上にもちを置き仕事をしてゐると、ひはが三匹かゝった。
隆次が帰って来てから引きわんなーで五匹取り計八匹となった。
夕方それを料った。焼いて喰ってうまかった。
「山下つねさんが夕べ死んだ**。」
明日葬ひである。  以上
*談:大蔵青年団の支部長が保管していた文庫の本だったと思う。
**山下津祢。一八七七(明治十)年生まれ。

二月二十七日 金曜 小雨曇
朝の中霧雨が降ってゐた。工事の支度をして箕野を持って工事場へ行った。高倉が一人来てゐて早かった。
神戸の小林ともっこかつぎをした。十時休みをしてそれから昼近くなって大雨が降って来た。
昼食をしてゐる中に小雨となり午后の仕事に取り懸った。昼前と同じ仕事である。
其の中に空も晴れて小春日和の良好乃天気となった。
三時休みをした。日は塩山の頭上に向かって没み始めた。五時過ぎると塩山の中腹に没してしまった。今日も一日力とまった。   以上

二月二十八日 土曜 晴
計九人半 二〇銭増三日
支度をして鎌形の工事場へ行った。早朝早かった。江戸三国志を読んだ。其の中に幾人が集り仕事に取り懸った。神戸の小川君ともっこかつぎをした。十時休みをした。
江戸三国志を取り出して見た。
午前中は十時休みをした。正午となったので半日で家へ帰って来た。
訓練服を来た学校に向かった。未だ早かった。
第一時 珠算の考査 杉山先生
第二時 講読 氷川清話 初雁先生
四時頃、家へ帰った。
今日は野口民吉方の御祝儀である。   以上


冨岡寅吉日記 昭和17年3月(1942) 菅谷村(嵐山町)大蔵

2009年04月23日 | 冨岡寅吉日記

三月一日 日曜 晴
国民学校生徒は神社参拝に行った。今日もよい天気になりそうだ。朝はもうぬるんで来た。野山は霞である。
二瀬に行くと高倉と宇平さんが居た。
仕事を始めて居ると下流から応援隊が来た。潮田、小野澤等も来た。十時休みの時に神戸の連中は上流の田黒分の工事場へ引越しした。金井一郎君ともっこかつぎをした。
正午に会計をもらった。拾五円八拾銭もらった。午后も金井君とかついだ。
川の水が大変ふゑた。一日中金井君ともっこかつぎをした。父は遠山の水車に使に行った。   以上
[豫記]今度召集日。三月七日午后一時ヨリ 学科の考査   以上

三月二日 月曜 雨
空は曇天である。支度をして二瀬の工事場へ行った。中河原より原場へしばをもっこで運んだ。金井一郎君にかついだ。休み頃になると雨がちらついて来た。
昼を喰ふ頃は大雨となった。少し小降となり又降りだした。
四時半頃工事は中止した。忍田君が家へよって行った。   以上

三月三日 火曜 曇
今日より田黒入会へ行くのである。
夜は風であった。起きると少し吹いてゐた。二瀬へ行った。
今日は上へ行くのである。田黒の近所へ行って葉がら*かつぎを半日した。
午后からは二瀬の片づけをした連中が来て人数も増した。
三時休みをしてからもっこに砂利の入れ手をした。
明日も工事場はこっちである。   以上
*建設材。三~六年生の四~五メートル位の雑木の枝をうったものを枝(し)がら、枝がついたものを葉(は)がらといい、束ねてつかう。

三月四日 水曜 晴
今日は良い天気になるらしい。
支度をして県道に出ると安さん*と根岸の連が来た。成澤君は車を引いて玉川の方へ開墾に行った。
工事はまだ始まらなかった。金井君ともっこかつぎをした。
午后根岸貞次君とした。其の中に親方が来て水中仕事に取りかゝった。
川をとめるのである。形を取り其の上へ砂利をかついだ。
帰りには県道に出て駆歩で帰って来た。   以上
[豫記]七日召集日午后一時ヨリ学科召集ナリ
*野口安一。

三月五日 木曜 小雨
今朝工事に行く時分は雨は降って居なかったがみのを持って行った。上の親方と一所に原場へ行った。今日は下の穴へ埋つぼをするのである。
始めの中入れ手をしたが根岸貞次君とかついだ。金井菊次君と面白い遊びをした。
午前中は雨も見えなかったが昼食をする時分雨が降り出した。
今日は一日中もっこかつぎであった。
雨はじわりじわりと半日中降り続いた。
十八日馬の品評会
二十一日鍛練馬競馬   以上

三月六日 金曜 雨後晴
今日も曇天で今にも雨が降りそうである。
自転車に乗って工事場へ行った。まだ早かった。少し経つと雨が降り出した。
親方も来た。雨は大降となった。小屋で休んでゐると雨も止み仕事を始めた。
十時休みをした。思いがけない良い日になって暖たかい。忍田君ともっこかつぎをした。
半日で家へ来た。
支度をして山下三郎君と松山町の箭弓様へ行った。とてもにぎやかであった。
あまり面白くわなかった。五時頃松山を出かけた。   以上

三月七日 土曜 雲田
支度をして県道に出ると根岸の連中が来た。自転車をころがして植木山から乗って行った。何だか空は曇ってゐて雨が降って来そうである。十時休みをすまで根岸貞次君とかついだ。
休みからこまはりが始った。金井一郎君と替って入れ手をした。
十一時頃こまわりも終って家へ来た。
学校に行く支度で自転車で行った。中島君等がゐた。
第一時牛車の後押しであった。
第二時修身及公民科の考査 長島先生。時間が始まる頃雨が降り出し帰ってくる中降ってゐた。   以上
[豫記]今度召集日 十三日前八時半迄に学校集合 箭弓グランドで振興週間   以上

三月八日 日曜 晴
根岸の連中と田黒入会に行った。こまわりである。
七人で始めた。今日ははかどるかも知れない。
正午迄にはだいぶはかどった。
二時半頃には終った。早く家へ来てゆかいこみをした。
夜山下君等と軍人援護の夕の活動を見に行った。
野中大佐の話は身にしみた。   以上

三月九日 月曜 半晴
支度をして温ってゐると根岸君が一人来た。落花生を喰いながら行った。昨夜の活動は実によかった。野中大佐の話は実に身にしみた。
今日はこまはりであった。
ツる*で砂利をほった。七人で始めた。
子休(こやすみ**)をして始めた。十時休みをした。
早く終りそうもない。
昼食して休んで始めた。どしどしと仕事をした。
三時頃迄には終り、分取りをする***ので休んでから取り懸った。
夕方遅くなって帰って来た。明日は新聞配達である。
二瀬に行くのである。   以上
*鶴嘴。
**小休止。
***分担のところを決める。

三月十日 火曜 晴
新聞配達なので早く起きた。将軍沢の叔父さんであった。
くばり切って朝食して二瀬の工事の手なほしに行った。どうも今日は身ぶるぶるして寒かった。十時休みをしてひまをもらって来た。
家へ来て寝てしまった。
少し風気が出たらしい。   以上

三月十一日 水曜 晴
今朝は遅く起きた。
風気も良くなったが食は、は入らない。
ぶらりぶらりと遊んでゐた。
昼食してからゆかこいみをした。
馬の飼料も切った。(干草を)
父は昨夜遠山に廻り今日も帰って来ない。腹痛が出来たのだそうだ。   以上

三月十二日 木曜 晴
根岸茂雄君*と一しょに行った。植木山の坂の上で親方が抜いて行った。
今朝は早かった。今日もこまわりである。床(とこ)さらいだ。なんだかぬけそうでぬけぬ**こまわりだった。
十時休みをし少しした。
昼休み
三時頃には形がついた。分取りを始めた。貞(てい)さん***ともっこかつぎをした。
三〇銭の分増しであった。   以上
*根岸茂夫。二学年上。
**終りそうで終らない。
***根岸貞次。

三月十三日 金曜 晴
今日は学校に行くわけであるが工事に行く支度をして待ってゐると根岸二名が来た。
皆はこまわりであったが自分は上用*をした。始めの中しがら運びをした。
野口安ちゃんとジャッカチ**で綱引きをした。
午后少しやり
もっこかつぎをした。
今日のこまわりの者は喰ひ込んだらしい。でも五〇銭の増(まし)であった。   以上
[豫記]明日召集日午后一時ヨリ学科ナリ   以上
*常傭か。日給て決められて時間働くこと。
**瀬さらい。

三月十四日 土曜 曇
自転車で工事へ行った。安やんと上用ででジャッカチをした。
半日で帰って来て学校に行った。
第一時 服部先生 考査
第二時 簾藤先生 数学
をして家へ来て兎を売りに行った。   以上

三月十五日 日曜 小雨
起きて見ると雨が降ってゐて工事の支度はしないでゐた。神戸の連中が幾人か通ったので支度をして自転車で行った。清水と金井一郎、金井菊次さんがゐた。巳之さん*も来た。しんちゃんの家から鉄びんをかりて来た。親方が来た。こまわりを受取った。巳之さんと始めた。雨がいくらか降ってゐる。箕野、笠で仕事をした。
こまわりもどんどんはかどった。十時休みをしないでした。昼休みに五目をした。
二時半頃迄には終った。小屋で温って家へ来た。四時にならなかった。
湯の下をもしたりした。   以上
[豫記]二十日召集日 学科
*関口巳之吉。

三月十六日 月曜 雨後晴
雨だ。今日は工事は休みである。二、三日前の天候に比らべるととても寒い。
藁すぐりをした。少しして祖父さんが半笊を作り始めたの中を編んだ。
昼迄には編み上がらなかった。祖父さんは圓(まる)ショウギを一組作り上げた。
半笊を編み上げて祖父さんがふちをまいた。
湯かい込みをした。藁すぐりもした。目かいを作くる手伝ひもした。一つ作くった。
三時過ぎると雨は止んで日が温り出した。
夕方は特に寒い。
夜将軍沢の正三さんが使に来た。   以上

三月十七日 火曜 晴
支度をして待ってゐると根岸君が来た。
床堀りのこまわりである。植木山の熊さんと始めた。水があるので楽である。
十時休み迄に大変進んだ。足はぬれた。
親方はまだ来ない。根岸君と五目並べをした。昼食してゐる時に親方は来た。
昨日工事を休んで今日が会計であった。一人につき拾銭宛のね上げがあった。
休み前迄にこまわりも終った。会計を貳拾円八拾六銭もらった。
根岸の小澤與四郎方へ目かいを二つ持って行った。馬鈴薯の種を植ゑる手伝ひもした。父は喜作方にお客に行った。   以上

三月十八日 水曜 晴風
根岸茂雄君が来た。二人で行った。
六人こまわりで二人は上用をした。日は暉ってゐる。五目ならべをした。
昼食して水の中へは入った。連し*入れをした。
早く終って来た。風が強くなった。
十七年度入学生徒の新体検査**であった。   以上
[受信]吉澤三郎
*葉がらを束ねたものをつないで長くしたもの。
**身体検査。
松山中学講堂で比企郡翼賛壮年団結成式挙行。

三月十九日 木曜 晴
根岸茂雄君切り来なかった。今朝は早かった。基目*をした。今日は馬鹿に良好であった。神戸の清水ともした。三番して二番勝った。
早く始めた。根岸君と石かつぎをした。休みをした。しがらや葉がらかつぎをした。十時休みもした。金井菊次さんとしがらかきをした。今日は昨日と異って風がなく春らしい日であった。昼食して五目をした。
監トクが来た。人数は何時もより少い。父は鍛練馬々体品評会**があるので松山へ入った。午后二時より監視哨の解散式があった。
工事は三時休みが遅かった。
貳拾銭の増があった。   以上
[発信]金井仲次郎 吉澤三郎
*碁目。五目。
**比企畜連合会主催軍用保護馬品評会。

三月二十日 金曜 晴
教練学科召集日
教練の支度をして自転車で学校に行った。一番早かった。
何時もの様に集合した。権田指導員が基本体操の少し変った所を教へた。
それから村田指導員が銃剣術について教へた。三年以下が合同でリレーをした。自分は赤組で二等であった。酒の配給に行った。
午后初雁先生が学科をして二時間目に考査をした。修身公民の考査をした。八〇点であった。
家へ来て木引き手伝ひをした。   以上

三月二十一日 土曜 晴
本日鍛練馬競争
鍛練馬競争があるので支度をして電車にて松山に行った。隆次のぼうしを買った。貳圓八拾九銭。菅谷からは二頭しか出席してない。父も行った。第七競技までして昼となった。
父には弁当が出た。ぼたもちも持って行った。
大変小使いを使った。
競馬も早く終って家へ来た。風呂に火をもしつけた。
今夜、向徳寺にゲント会があったので観に行った。実に感心した写真であった。   以上

三月二十二日 日曜 晴
支度をして待ってゐると根岸の三君が来た。あまり早くなかった。新しく長澤、金井の二君が入った。玉川行きの県道の所からくゑ*をかついだ。
十時休みの時五目並べをした。
早く昼を喰った。中島の養子**が来て十圓置いて行った。
昼食してからくゑ打ちをした。
とても良くは入って十五本打って終りとした。日のある中にしまった。   以上
[受信]富岡丑三
*杭。
**関中組の婿。

三月二十三日 月曜 晴
工事の支度をして車に大麦ともち米を二斗つけて行った*。根岸二君**が後押しをして呉れた。とても暑かった。
今日は杭打ちのこまわりである。参拾本を拾貳人で始めた。始めの中は調子良くは入ったが杭の終り頃になると通りが悪い。
十時休み迄に拾本切り打たなかった。休みに五目並べをした。
半日に十五本打った。昨日の拾圓を皆で分けた七拾銭配当になった。
午後からは大部は入りが悪くなった。
日の没する時分に三十本打ち切った。三拾銭の増分があった。   以上
[発信]富岡丑蔵
[受信]兼子六平
*談:途中で鎌形の長島水車に寄ったのだろう。
**根岸貞次、根岸茂夫。
「内田君も敢闘 米英撃滅継走 米英撃滅伊勢神宮~東京二重橋間五〇〇キロの陸連主催、祈願継走は廿三日正午過ぎ東西両軍とも無事宮城前の決勝点に入り、午後五時から日本青年館で解団式をあげた。東軍に活躍した本県選手は内田講君である」(『東京日日新聞』埼玉版三月二十四日)

三月二十四日 火曜 曇
根岸君一人であった。植木山から又一人新しい者が行った。
今日も杭打ちである。人数も少い。大変休んだ。十時休み迄に九本位しか打てなかった。皆一生懸命と網を引いた。昼迄に拾参本打った。
吉野君より手紙が来た。
午后も杭打ちだ。休みには五目並べだ。空は曇ってゐて雨模様である。
三時休みをしてから杭のは入りが悪くなった。二本打ったがそれからは抜いて少しスッコを動かして四時、五時してゐる中に六時となってしまった。
今日は栽桑講習の日である。   以上
[受信]吉野廣一

三月二十五日 水曜 晴
根岸君が見えたので急そいで出て行った。未だ早かった。親方は遅くなって来た。
礫入れをした。終ってからもっこかつぎをした。
根岸君とかついだ。
今日は良い日で風がなく暖たかかった。
とてもだるっこかった*。
十時休みをしてからもだるっこかった。
午后少し遊んで廻った。(昼休みに)
午后は気持ちが良くなった。道ぶしんもした。三時休みの時に五目をした。勝った。
風が出て来て涼しくなった。
「金井廣吉方の御葬式」七十七才   以上
[発信]吉野廣一
[受信]清水小市
*だるい。

三月二十六日 木曜 晴
待って居ると根岸君が来た。一枚ぬいで行った。根岸茂雄君ともっこかつぎをした。半晴位であるがむし暑い。
十時休みがとても早かった。何時もより三〇分早く昼食をして一時間半休んだ。
午后も同じ仕事をした。工事仕事は面白い。
かわずの鳴き声が聞える。何となく春らしい気候である。水ものめる。
三時休みは面白かった。根岸貞次君は面白い人である。
日のある中に工事をしまった。
明日は青年学校の修了式である。いねのランドセルを買った。   以上

三月二十七日 金曜 晴風
青年学校卒業式並ビニ修了式
自転車で工事へ行った。根岸君も同じ乗物だ。一番早かった。今日半日でない連中かは石拾ろいに行った。九人で杭を七本打って休みとした。日は温たってゐるが風があって寒い近日希なる大風である。
今日は豊岡の陸軍航空士官学校卒業式に行幸仰出遊ばされた。十時休みをしてから飛行機が幾台も飛んだ。
もっこに砂利を入れた。早く昼となって家へ来た。支度をして山下君と学校に向かった。
数十分過ぎてから始まった。校長先生の祝辞があり助役さんの祝辞もあった。今度からは精勤賞の山形のキショウをつけるのである。岩澤安雄君*が答辞を読んだ。   以上
[受信]金井仲次郎
*岩澤康雄。

三月二十八日 土曜 晴
根岸君が来た。急いで支度をして行った。
上用のもっこかつぎである。入れ手をした。たまにもっこをかついだ。石拾の連が行ったので少い。
十時休みは短かった。
十二時となり昼食した。休みもみぢかい。
今日は国民学校の生徒の卒業式及び修了式である。隆次が兄弟中一番精積*が良かった。日のある中に終とした。
根岸藤田郎方へ籠屋。
*成績。

三月二十九日 日曜 曇小雨
今日は曇ってゐる。そしてどことなく寒い。着物を一枚よけいに着て行った。外で遊んでゐた。今朝は新聞配達であった。忍田喜三(きぞう)君が持って来た。早くくばり終はった。根岸君と一しょに工事に行った。
祖父さんは根岸の小澤啓助*方に籠作くりに行った。今日はこまわりであった。十二人で始めた。ぬけそうもない仕事である。十時休みをした。
昼になるのが早い様な気がする。午后忍田君が来た。一米ツボ数を減らした。
三時休み迄には終りそうだが雨が降り出して来た。でも終った。
早く家へ来らいた。五目をした。   以上
[豫記]今度召集日 四月十一日午后一時 学校手帳持参 身体考査等有
*小澤長介の父。

三月三十日 月曜 晴曇
根岸君が来たので行った。風はあるが昨日の様に曇ってはゐない。今日もこまわりである。
なんだか抜けそうもない。入れ手をした。ちょい休みをした。十時休みから中村君と交替した。
昼迄かついだ。金井一郎君とした。足が揃ってしまってうまく行かぬ。
午后もかついだ。天候が悪くなって来た。十三人でしたがぬけそうもない。だんだんとなまけて来た。
三時休みをしたが未だ半日以上もある様だ。上用と同じ位に終まった。一人と二〇銭増しであった。夕方おそくなった。   以上

三月三十一日 火曜 晴風
根岸君が見えたので急いで出て行った。親方が抜いて行った。あまり早くなかった。
十人でこまわりを受取った。今日は抜けそうである。どしどしと仕事を廻わした。三棒*へ二人で入れ手をした。なかなかはかどる。
十時休みをした。今日は強風である。橋の上などは困難である。
早く昼食をした。強い風である。大工も今日は行った。三時迄には終る目的である。
入れ手をした。汗が出るが風で消えてしまふ。三時迄に終り家へ来て麦の二番作切りの手伝ひをした。一枚終った。   以上
[受信]清水岩三
*談:もっこかつぎの一組を一棒という。


冨岡寅吉日記 昭和17年4月(1942) 菅谷村(嵐山町)大蔵

2009年04月22日 | 冨岡寅吉日記

四月一日 水曜 晴
根岸茂雄君一人が早く来た。未だ早かった。根岸君と遊びに行った。今日もこまわりである。根岸忍田の二名は八合のこまわりをした。残りの六人で二合四石*を受取った。川島宗吉君もまじった。抜けそうである。
十時休み迄に大変の仕事が出来た。少し休んで始めた。
昼迄には半分以上も出来た。
昼休みは三〇分切り休まないで始めた。午后は日が輝いて暑くて汗が来た。
三時にならぬ中に終す予定である。
忍田と根岸の二君が幾もっこか手伝って呉れたので早く終った。石引き運ソウの馬を見たり草を呉れたりした。今日は会計日である。三時頃銭をもらった。
貳拾貳圓貳拾五銭也   以上
*二合四勺か。

四月二日 木曜 晴
今日は根岸の二名はゆっくりであった。家を出て駆足で工事場迄行った。大変精が切れてつかれたが大丈夫であった。こまわりではない。上用なのでとてもだるっこい。休み休みがたのしみである。
午后から人夫がへったので忙がしい。
始め中、金井一郎君ともっこかつぎをしてゐると昼となった。それから川島宗吉君ともっこをかついだ。
石かつぎや砂利かつぎをした。今日は午后一時より学校に翼賛選挙に関する話*があったので選挙権を有する人は皆出席した。
明日は高尾山へ行くのである。
夜はもちつぎをした。   以上
[豫記]明日高尾山へ行く予定也
[欄外]こみねきんちゃん[暗号]
*翼賛選挙講演会。この日は七郷村でも開催された。

四月三日 金曜 晴
四時頃起きて見ると曇ってゐて雨が降りそうであった。
高尾山へ行く支度をした。金井亀吉君が来て呉れた。根岸の連中と一しょに明覚まで行って八高線にて浅川に向かった。おごせ、毛呂、はんのうと幾つかの駅を過ぎて八王子市に着いた。中央線に乗りかえて浅川迄行った。(一円十銭)高尾山の登道はとても急である。
大見晴からは富士さんが良く見えた。昼にならぬ中に下りて多摩御リョウに御参拝して来た。
八王子市で活動を見た。四十四銭。帰には(一円十銭)汽車がとてもこんだ。
四時八王子市発で明覚に着いたのが五時半頃であった。今夜は常会である。   以上

四月四日 土曜 晴
いかにも春らしい気候となって来た。父はまきいねの三名は遠山の水車へお客に行った。支度をして守平とまき引きをした。九時に鍬とツブテマワシを持って田に行った。
今日はとてもむし暑くてだるっこく仕事がはかどらない。父も帰って来て田に行った。
昼休みに玉川一ト市の中田屋*へ配給の布と家で織ったのを持って行って頼んで来て田に行った。
午后は風が少し吹き出したので涼しく仕事もしよくなって来た。
小麦のつぶてぶちをした。三番作も少し切った。
日光の没してから帰って来た。山岸良之助君より便りがあった。   以上
[受信]山岸良之助
*仕立て業。鹿山商店。

四月五日 日曜 半曇
根岸茂夫君が駆けて来た。あまり早くない。今日は人夫は大勢でない。四人石拾ひに行ったので親方増し十人である。根岸君ともっこかつぎをした。始めの中は日が出そうであった。風はないが西と東はほこりの立った様にはっきりしてゐない。
暑くなったり、急に涼しくなったりした。曇り勝ちの天気である。十時休みをした。少ししか休まない。
昼休みには畠の方へ行った。休み休みはたのしみである。午后は土手の上でもっこかつぎをした。
むし暑い。三時頃夕立が出た。大した事はない。帰には大風となった。風は夜になっても休まない。
祖父さんは根岸へ籠屋   以上
[発信]根岸良之助
[欄外]こみねきんちゃん[暗号]

四月六日 月曜 曇風
小峯の所の工事場へ行く支度をして出かけたら根岸貞次君が自転車で来た。一しょに行った。早かった。今日は国民学校生徒の入学式並びに始業式である。
工事の人数は不連である。
根岸君と石かつぎをした。親方も入学式に行ったので未だ来ない。十一時過ぎてから帰って来て小峯*の子供が遊びに来た。面白い。
昼休みに自転車で小峯の方へ遊びに行った。今日は曇ってゐて風があってぬくとくない。
八高線が汽笛をならして通る。三時休みをしたらもう日もなくなり始めた。
五時少し過ぎて終りとなった。根岸君と一しょに帰って来た。   以上
*鎌形の地名。
大日本婦人会埼玉県支部が結成される。

四月七日 火曜 晴
起きて観ると秩父連山は白く雲である。今日は良い天気になりそうである。自転車で小峯のうらを廻って行った。未だ早かった。少し休んでゐると親方が来た。
杉田次郎君ともっこかつぎをした。朝の中は日本晴の様に曇り気はなく春の朝らしい気候であった。風も少しあるので涼しい。
十時休みをした。少し経つと半ケイ寺*の鐘が鳴るし玉川のお寺の鐘もなる。十一時四〇分に昼食を始めた。昼休みに鎌形の学校の方へ行って見た。
一日中次郎さんと石かつぎや砂利かつぎなどした。三時休みをした。小峯の子守り子が河原へ遊びへ来た。高等一年のおきんちゃんと二年のおせいちゃんと二人が何時も遊びにくる。帰りは自転車でのして来た。   以上
*鎌形の班渓寺。

四月八日 水曜 晴
早く支度をして自転車で小峯を廻って工事場へ行った。一番早かった。小峯の方を歩き廻はった。
親方は今日は来ない。杉田次郎君と石運びや砂利かつぎをした。静かな良い日である。八日で大詔奉戴日である。まだ始めなので学校は半日であった。おきんちゃんとおせいちゃんが子守りをしながら河原へ遊びに来た。
半日で一人の石張り職は帰った。
四人は今日も石拾ひである。金井一郎、々々亀吉、長澤平七君などである。半分は木曽ぞの様へ行った。
親方は居ないので休み休みが長い。父は夜、根木にしいたけをついだ。
一日中マンガかつぎをした。   以上

四月九日 木曜 晴
支度をして自転車を出して乗って行った。人数は不連である*。杉田次郎君ともっこかつぎをした。石も大変少くなった。
十時休みに杉田君の迎へが来た。
杉田君は十二時迄して帰ってしまった。午后は川島宗吉君ともっこかつぎをした。
石も大変少く小さくなった。少し曇り始めた。昼休みも早かった。昼寝も少し出来た。
三時休み前親方も来た。三時休みをした。
三〇分休んだ。又もっこかつぎをした。かたがとてもゐたくなって来た。日のある中に終りとした。五時三〇分頃終はった。終る時分、おきんちゃんと二人が遊びに来た。夕方玉川の一ト市へ使に行って来た。   以上
*人数が少ないこと。

四月十日 金曜 曇小雨
昭和十七年度青年学校入学式
曇ってゐてつゆが多い。朝の中少しまき割りをした。始めの中はあまりに上手に出来なかった。
祖父さんは村田礼助方へ籠作くりに行ってゐる。八時頃父と麦田の二番作切りに行った。とてもつゆがある。足がびっしょりになった。
十時半に田から帰って来て玉川一ト市の中田屋へサルマタを持ちに行った*。二つで五〇銭であった。急いで支度をして自転車にて学校に向かった。菅谷の家へ自転車を預けて置いた。時計屋で文字盤とサックを買った。二円二拾銭であった。
一時少し過ぎて始めた。新任の先生の招會**があった。下田先生の話。吉田校長先生の訓辞を話した。
級長は又自分である。今日より本科二年である。身体検査をした。去年よりずっとのびた。雨が降り出した。   以上
[豫記]入学式 青年学校召集日
*受取に行った。
**紹介。吉田久平校長。竹間小太教頭。権田正雄訓導。

四月十一日 土曜 晴風
合祀祭慰霊祭
早く起きてまき割りをした。午前十時より菅谷の忠魂ヒの庭で合祀祭が行なわれるので各学年の級長副級長は参加するのである。支度をして昨日かりて来た雨ガッパをなして自転車で忠魂社の方へ行った。杉田君、関根君等がリヤカーで机運びをして居た。其の手伝ひをした。
十時少し過ぎて始めた。鎌形の国民学校児童も来た。遊びにくる子がゐた。
正午近くなって終った。自転車でのして帰って来た。父と守と三人で桑園に肥入れをして土をかけた。
大変はかどった。   以上

四月十二日 日曜 曇風
支度をして自転車で行った。早かった。
今日は日曜日である。夕べは電燈が消え切りであった。忍田政二君ともっこかつぎをした。下の方からかついだ。今日は石ばりは終るだらう。
夕方までもっこかつぎをした。
とても風が強くなった。早く終った。   以上

四月十三日 月曜 晴
支度をして行った。もう新ちゃんは来て居た。
親方は早くの中は来なかった。忍田君と目つぶしの砂利かつぎをした。
十時休みを始めたら親方が来た。休み頃迄はあまり暑くなかった。蝶々は桜の花に何匹となくさまよってゐる。何となく春らしくなった。
昼になるのが待ち遠をしい。明日は大蔵の春ギドウ*で青年団は敬老会を催ほす。
午后はとても暑くなって来た。半天**をぬいだ。もっこをかつぐとかたにあたる。
休みをしてから学校から来たおきんちゃんと二人が遊びに来た。小林右一君が休みに遊びに来た。顔、手、足等やけどしたのだそうだ。とてもかわいそうである。一昨年の大宮の事が思ひ出される。   以上
*春祈祷。五穀豊饒を祈る。
**半纏。

四月十四日 火曜 晴
今日は四月十四日で大蔵神社の祭典である。
青年団の入団式と敬老会とが會催*されるのである。支度をして使に行って来た。
七時少し過ぎて向かふの方へ行った。ラッパの練習をした。九時頃始めた。支部長殿の開会の辞があり永井さん**の訓話もあった。老人代表として金井末吉さんが挨拶をした。
十一時半に閉会となった。昼食して自転車に乗り遊びに出かけた。菅谷へ行き鎌形の工事場の方へ行った。おきんちゃんがゐた。
和田橋を渡って植木山に出て三人で地蔵様へお参りして植木山の木曽ぞの橋の所へ三人で出て来た。今日は祭典である。
一日楽しく遊んだ。とても良かった。   以上
[豫記]祭典 青年団ノ入団式及び敬老会也
*開催。
**永井諦善。向徳寺住職。

四月十五日 水曜 晴
青年学校校長青年学校教諭長島先生*の告別式
父は松山へ鍛練馬の事で出席した。自分は徒歩で工事場へ行った。一番早かった。風が少しあって寒い。
昨日の廻文によると今日は校長先生長島先生の告別式があるので出席する事になってゐる。
忍田政治君ともっこかつぎをした。下の方よりしばかつぎであった。野村英雄、金井春二の二君が今日より工事に出て来た。
半日忍田君ともっこかつぎをして帰って来た。皆は青年学校を欠席した。午后一時と言ったが、二時近くなって校庭に集合した。
校長先生はえらい元気でお別れをした。
まき割りをした。父は五時頃帰家した。祖父さんは家で籠作くりをした。   以上
[豫記]青年学校召集日
*長島統司。

四月十六日 木曜 曇雨
工事会計拾七円拾五銭也
今日は徒歩で工事場へ行った。もう中島の敏しやんは来てゐた。
其の中に方々から来て人数も集まった。又一人山下廣雄君が新しく来た。今日はこまわりである。
人数が多いので二組に分かれた。忍田君、中村、小林、小林、金井、植木山の廣ちゃんと自分七人一組となった。
忍田君ともっこかつぎをした。金井君とも時分替はってかついだ。早く終へそうである。
だが自分の方の組はあまり真面目にしない。十時休みを四〇分した。
午后目標を取ってしまった。三時頃終った。雨が少し降り出して来た。九日半日であった。
金井精一さん*方で会計をした。
拾七円拾五銭也   以上
*金井精一郎。せいちゃん。

四月十七日 金曜 晴
今日は工事を休んで家の仕事である。朝の中まきまるきをした。とても風が強い。
田麦の作切りに出かけた。風が身にしみて寒さを感じる。始め上の田の大麦の三番作を切った。早く終り小麦に移った。風が強いので麦が寝てゐて切りづらい。
日光も曇って居て日があたらないのでなほ寒い。一枚終る事に小休みをした。
早く昼に上がって来た。三〇早かった。
午后は母も出て行った。大田の切りかけを終はし、新田に移った。
国民学校児童は松山の松林座(しょうりんざ)へ映画を見に行った。早く帰って来て茶をけを持って来た。
夕方田麦の三番作は早く終わった。馬糧の大麦を刈りに行った。工事の連中が帰って来た。   以上
[受信]富岡丑三

四月十八日 土曜 晴
青年学校召集日である。支度をして村田君の家へ行った。学校に行く途中根岸君が一しょに行った。
まだ早かった。八時に本科二年を集合させた。指導員殿に敬礼をして少し教練をした。
今日は松山の松林座へ映画を見に行くので急いで集合して自転車と電車とに分かれて松山に向かった。
焼に祈る*は実に感泣の至りであった。約二時間午后一時十九分下りにて帰って来た。二時頃昼食をした。其れからは樫の枝はさみを始めた。
第五分団は北の方をした。とても早く終った。空襲警報が発令された。東京、川口は爆撃されたそうである**。 空襲警報
夕方馬糧の麦を切った。   以上
[豫記]青年学校召集日
[受信]潮田正二
*暁に祈る。一九四〇(昭和十五)年松竹製作の映画。佐々木康監督。田中絹代出演。
**米空母発進のノースアメリカンB25十六機、京浜・名古屋・神戸などを初空襲。

四月十九日 日曜 晴
支度をして徒歩で工事場へ行った。もう高倉*来てゐた。今日は日曜日である。
親方は来ない。十一人でこまわりを受取った。なんだか早く終えそうもない。
皆も一生懸命にしない。自分は金井一郎君とかついだ。十時休みをした。たんとはか取らない。
昼食して休んでゐると空襲警報が発令されてサイレンと半鐘が鳴り出した。
少しして中村君は警防団の方へ寸時の間行って来た。こまわりは四時半頃終はった。
家へ来て畑の堀っ返へしを少しして大麦を刈りに行って来た。   以上
[発信]潮田正二
*談:植木山の高倉熊さん。親方の次くらいの地位。
古里兵執神社春季例祭。

四月二十日 月曜 曇雨
空は曇ってゐる。工事の支度をして行った。一番早かった。空は増々曇天となり出した。
今日は上用でやるのである。野村英雄君ともっこをかついだ。今日も親方は見えない。十五人、人夫は来た。
十時休みをした。
昼近くなって雨が少し降り出した。昼食頃は大雨になった。
昼を喰って帰る事にした。自分と根岸君は少し遅く迄居て小降りとなってから帰り始めた。
菅谷の屋根屋が来始めで半日で帰ってしまった。午后湯かいこみをしたり藁すぐりもした。
雨はだんだんと降りだし夜も続いて降った。
明日は天気になればよい。
屋根屋二人半日   以上

四月二十一日 火曜 曇一時晴
朝の中は曇ってゐた。すぐにも雨が降って来そうである。
みのを持参して出て行った。今朝は中島街道を通って行った。堀ノ内の連中と一しょに行った。
幾人か休んだ者もゐる。野村英雄君ともっこつぎを始めた。今日も親方は見えない。
十時休みをした。空模様もだんだんと良くなり出した。まだ野村君ももっこかつぎになれない。
昼食が終ると根岸君が自転車で来た。一時間休んで始めた。
根岸君ともっこかつぎを始めた。前棒をかついだ。
野村君の時は後棒をした。皆が真面目にしない。午后は皆一生懸命となった。
夕方警戒警報が発令された。まき割りをした。食油の配給があった。八合   以上

四月二十二日 水曜 晴
自転車行軍四月二十四日
支度をして自転に大麦を一俵をつけてころがして行った。親方は早く来た。そして早く始めた。金井春二君ともっこかつぎをした。
半分に分かれて自分等は上の橋でした。
朝から良い天気である。
十時休みをした。今日から野村宇平君が出始めた。
一日中もっこかつぎをしては、かたがいたい。
今日は屋根屋が来た。一日
祖父さんは籠屋
屋根屋二人一日
[豫記]行軍 日時四月二十四日 ◎雨天の節は二十七日 午前六時出発。 群馬県館林陸軍飛行場。

四月二十三日 木曜 晴
支度をしてかますを持って行って水車に置き工事場へ行った。高倉が来た。
今日は人夫が大変来た。小峯の裏通りを廻って来た。根岸貞次君ともっこかつぎをした。
風が少しあり良い天気だ。今日は屋根屋が三人来た。大変はかどった。
今日は工事を終はしたのが早くなかった。
家へ来て自転車を掃除した。
明日は青年学校の行軍である。
行き先 群馬県館林陸軍飛行場 六時出発 予定也
屋根屋三人一日

四月二十四日 金曜 晴
屋根屋三人
四時半に起きた。今日は待ちに待った青年学校の行軍である。早く支度をして村田君の家へ行った。
学校へ行ってもまだ早かった。六時半に出発をした。熊谷に出て忍町を通りアスファルトの道をのして行った。荒川の大橋を渡ったのが始めてである。
利根川に行ったら橋は修繕中で渡し舟にて通った。これも始めてである。此の処で時間がかゝった。
風も弱く良い天気である。館林陸軍飛行場に着いたのは正后であった。
高野(こうの)さん*より色々の話や説明を聞かせてもらった。予想外に飛行機は小さいものであった。
練習機に乗って見た。ラッカサンの説明もあった。
帰りにはもっと上へ出て利根川の橋を渡り帰った。校庭に着いたのが午后七時であった。   以上
[豫記]青年学校行軍
*高野重吉。整備兵。菅谷出身。

四月二十五日 土曜 晴
屋根屋三人 合計十二人終り、 一日二円三〇銭
昨日の行軍もたんとつかれなかった。今日の仕事には差しつかいなさそうだ。自転車で玉川一ト市の中田屋へズボンを持ちに行った。(六〇銭)
さんのう前畠の麦の止め作切りをした。終って十時休みをした。今日も屋根屋が来た。
昼迄に前畠の大麦の止め作を終はした。
午后は小麦の止め作切りである。シャツ等の配給がありシャツとパンツがあたった。
一枚終って三時休みをした。今日は屋根屋も終はりそうである。
大蔵の高等科の児童は向徳寺へ行き少年常会の会開*を天長節にするのである。
靖国神社の臨時大祭にて天皇皇后両陛下は御行幸啓なされた。   以上
[豫記]靖国神社臨時大祭
[受信]富岡二三郎
*開会。一九四二(昭和十七)年度より向徳寺住職永井諦善の指導により毎日曜少年団常会が開催された。

四月二十六日 日曜 晴
支度をして自転車にて工事場に行った。宗ちゃんは朝から怒ってゐる。
根岸貞次君ともっこかつぎをした。田の中より土をしがらをかいた上にかけるのである。
今日は親方は見えない。皆が昨日のぶに増して一生懸命しない。
十時休みをした。其れからはとても暑い。
昼休みは長かった。一時間と半位休んだ。親方は来ないらしい。
三時休みをするとずっと涼しくなった。
今日は早く終まった。   以上

四月二十七日 月曜 晴
支度をして居ると根岸君が来た。自転車であった。
建設青年の本を持って行った。今日は不連である二名は上へしば切りに行ってしまった。
金井一郎君ともっこかつぎをした。鎌形学校は今日遠足であった。岩殿だそうである。
十時休みをした。今日は親方も来た。休みも短い。後棒をかついだ。
昼をした。根岸君と川嶋*は半日で帰った。
一日中土かつぎをした。歐文社より商品として鉛筆一ダース来た。
祖父さんは家で籠屋であった。   以上
[受信]歐文社
*川嶋宗平。そうやん。
大蔵榛名講新籐嘉助他二名代参。

四月二十八日 火曜
支度をして歩きで工事場に向かった。一番早かった。鉄びんに水を入れて置いた。
今日は忍田君も来た。合計六人である。
土かつぎである。入れ手をした。
親方は遅かった。
十時休みをした。お茶をわかしたりした。
昼食をした。天気が少し悪くなり雨が少し降り出した。
でも仕事を始めた。芝はり等である。
三時休み過ぎで雨は大部けいき良く降り出した。五時頃終はした。
びしょぬれとなった。   以上
[受信]大久保高則

四月二十九日 水曜 曇
昨日の雨も今朝は止んで居た。支度をして村田君の家へ行った。大澤、内田の二君と学校に向かった。
一時間早かった。今日は馬の鍛練であるので権田指導員*は来られなかった。
九時少し過ぎて式が始まった。校長先生の祝辞があった。十時頃終って青少年団の入団式が続いてあった。十八日の活動見に行った銭を集めたり大日本青年農業巻一を買ったりした。
ズック靴も買った。急いで家へ来て昼食して工事場へ行った。今日は皆が午后からである。
新ちゃんともっこかつぎをした。砂利かつぎである。こまわりして早く終はった。
遠山水車で床上げを持って来た。   以上
[豫記]召集日
*権田稔。

四月三十日 木曜 半曇
今日は根岸君が入営する*ので支度をしたが送らずにしまった。工事場へ行って目籠を編み始めた。今日は衆議員の選挙**である。
野村宗平君ともっこかつぎをした。十時休み迄して昼迄後棒をした。
親方は少しおそく来た。昼も早い様な気がした。午后根岸貞次君も来た。
工事も明日終はす予定なのである。土かつぎをした。運送も二台来た。
芝はりもした。根ぐしさしもあった。
帰りは早く来て自転車で植木山の方へ行ったら小峯小林の二人が居た。
明日は児童の遠足である。   以上
*根岸茂夫。海軍志願。
**第二十一回衆議院議員選挙投票日(翼賛選挙)。


冨岡寅吉日記 昭和17年5月(1942) 菅谷村(嵐山町)大蔵

2009年04月21日 | 冨岡寅吉日記

五月一日 金曜 晴
工事会計
国民学校児童の遠足である。守平は早く支度をして自転車へ籠をつけて置いた。
鎌形の長島一郎方へ籠を二つ持って行った。
今日は工事も終え仕事である。早く始めた。
野村宇平君ともっこかつぎをした。土運こびである。
四棒立ち三棒にへらして外の者は根ぐしさしをした。十時休みをした。
昼休みも短い。皆がどしどしした。
日光もあたらないので暑くない。
三時休みをしてから小屋をぼっこうしてしまった。
早く終りそうもない。
根ぐしをさした。   以上
[豫記] [不明]
七郷村更生記念日。

五月二日 土曜 晴
田中(たなか)藤坂の護岸工事仕事始め
今日から田中の藤坂へ工事が始まるのである。支度をして県道に出ると安ちゃんが来た。
新ちゃん家へ寄って道具を自転車つけて田中へ向かった。忍田君、金井君、野村君等とのして行った。
割合に早く行き着いた。其の中に親方も来て休んでから始めた。底こうをこわしてゐる中に牛が小屋の材料を持って来た。今日は日傘である。
材料を運んだ。石かつぎもした。今日は半日で帰って来て学校へ行った。第一時服部先生、二時間続けた。三時権田先生去年の復習である。
四時下田先生郷土読本を始めからした。とても良い文章である。
家へ来たのは六時近かった。一ト市の中田屋へ行き訓練服へ精勤賞の印をつけてもらった。
[豫記]召集日 学科召集日 忘れるな。

五月三日 日曜 雨曇
工事に行く支度をしてゐると安ちゃんと金井君が来た。祖父さんは朝作くりに植木山へ行って来た。一ト市の中田屋へコハデ*を置いて行った。
明覚村へは入ると雨が降り始めた。ガードの所まで行くと大雨となり家へ帰り出した。
大蔵へ来て親方に会った。雨も小降りとなったので又出だして行った。水筒を玉川一ト市の家へ頼んで置いた。今日はゆっくりと始めた。親方増五人である。
十時近くなって始めた。スッコではねた。午后は敏しやんともっこかつぎをした。小雨である。
夕方になって少し良くなった。普通位に終まって来た。
今日は肥料配合であり配給があった。   以上
祖父さんは毎日家で籠作くり。
[豫記]肥料配給 石灰窒素 一袋六貫匁 トーマス**二貫匁 完全約二十七貫匁
*こはぜ。足袋のつめ。
**トーマス燐肥。

五月四日 月曜 半晴
支度をして待ってゐると金井一郎君が見えた。天気は曇ってゐて一日持ちそうもない。箕野を持って行った。二人が一番早かった。すぐ親方も来て少し休んで始めた。
昨日より一人多い。金井君ともっこかつぎをした。
十時休み迄後棒をした。
昼迄前棒をした。なから十二時に昼食した。
水車の小母さんが茶をけを持って来て呉れた。
三時休みをして親方は帰ってしまった。
五時少し過ぎて終はりとした。
少し草刈りをした。   以上
[豫記]少年易老学難成一寸光陰不可軽

五月五日 火曜 晴
今朝は一人で自転車で行った。一番早かった。
其の中に根岸君と金井君とが来た。全部で七人である。二人でかつぐのを入れ手をした。
十時休みをした。良い天気である。半日で帰って来て農士学校金鶏(学院)神社の祭典なので見に行った。国民学校児童の角力もあり生徒の角力、勇士の武道等が会催*された。児童角力、川南、北に分かれて優勝旗の取りっこがあり南十一点、北十点で南の優勝となった。
早く帰って来て自転車で使に行って来た。
夕暮早く支度をして二本木座の劇を見に行った。忍田君と相った**。江戸屋虎五郎と題目は忘れたが二番劇は実に感心した。明晩に続くである。小峯と小林さんが居た。   以上
[豫記]未覚池塘春草夢階前梧葉己秋聲*** 終  優勝
*開催。
**会った。
***池塘春草夢。「少年易老学難成、一寸光陰不可軽、未覚池塘春草夢、階前梧葉己秋聲」(朱熹・偶成詩)

五月六日 水曜 晴
県道に出ると向かうから根岸君が来て一っしょに行った。親方*も清水も早く来た。七時半には始めた。朝は早く起きられない。
根岸君ともっこかつぎをした。前棒をした。昨日と人数は同じである。
十時休みをした。朝の中空襲警報が発令された。サイレンが鳴りひゞいた。
午后には金井君ともっこかつぎで後棒をした。
親方も一しょにした。
三時休み。
一日終る頃になって小雨が降り出した。
祖父さんは根岸へ。
*中島與一。

五月七日 木曜 雨
起きた時小雨が降ってゐた。工事の支度はしないで朝食してから藁すぐりをしてゐた。
金井一郎君が来たので急いで支度をして行った。雨も小降りとなった。番匠のガードの近くへ行ったら大雨となり大変ぬれた。
原場*の近く迄行った時も大雨であった。二人切りであった。親方も来たが仕事はしないで帰って来た。十時少し過ぎてゐた。
しまだ作くりを始めた。ねずみ取りの網の中に大きな奴がは入ってゐた。
しまだも一つ出来上がり二つ目を始めて置いてはがきを出しに行った。
昼休みに肥料の配給、魚類の配給があった。
祖父さんは根岸へ
[豫記]肥料配給 完全 反当 一貫百匁
*現場。

五月八日 金曜 小雨
今日も雨である。何もしないでゐた。つまらないので笛を作くったが良く鳴らない。
九時半頃魚、菓子の配給も持ちに行った。新藤武治方の魚も頼のまれた。魚十人で壹円拾七銭であった。もう昼に間近かくなった。
今日は大蔵は米無しデーである。夕べ言つぎが来た。お釈か様である。
昼食してから又笛作くりに取りかゝった。其の間に魚釣りに行って二匹釣った。
今度の笛は良く鳴る。学校生徒も帰って来た。
鎌形の子供が遊びに来た。
父は馬の運動に出た。自転車で遊んで廻はった。
明日は第七回召集日

五月九日 土曜 晴
四時半に起きて父と草刈りに行った。まだほきてはゐないが少しはあった。成澤君も来た。
早く出来て急いで家へ来て朝食をした。今日は青年学校の召集日である。村田君と行った。
少し早かった。朝礼を終はして基本体操をした。一年と同じ事をした。挙手の礼等をした。
ラッパ吹きに希望して見た。練習の時にはちっとも鳴らなかった。
午后学科で一時戸口先生、二時栗原先生*、去年の復習である。「富岡豊三郎さん**が帰還した。」
三時間目から実習で、西沢、武井、大野、鯨井、自分の五名は陸苗代作くりであった。美濃モチを一畝ばかりの所に播いた。外の者は開墾である。
夕方あまり早くなく家へ帰った。   以上
[豫記]召集日 学科 実習
*栗原喜一。一九四一(昭和十六)年三月~。
**金井豊作。一九三八(昭和十三)年十二月輜重兵第一聯隊現役入営。

五月十日 日曜 晴
待ってゐると安ちゃん*が来た。金井一郎君と三人で植木山を通りこすと別所**へ行く連中と一しょになり田中迄行った。五人切りであった。仕事を始めてゐると清水が来た。少し経って親方も来た。
金井君ともっこかつぎをした。前棒であった。
十時休みで親方は帰ってしまった。でも一生懸命にした。
昼休みには昼寝をして良くねむった。
午后も同じ仕事である。暑くなって来た。
シャツ一枚でも涼しくない。
夕方の終まひは少し早目にした。
田へ堆肥を一車持って行った。   以上
祖父さんは藤縄方へ
*野口安一。
**明覚村の地名。田中より都畿川の上流。

五月十一日 月曜 晴
今朝は野村君も見えた。四人で番匠迄行った時、忍田君が向かうから来た。
清水は早く来た。親方は来そうもない。
もっこかつぎの入れ手をした。十時休みで交替してかついだ。昼まで金井君が入れ手をした。
野村君とかついだ。金井君ともかついだ。
三時休みをしてから鉄線籠の中へ石をつめた。
昨日と同じ位にしまった。
祖父さんは家で籠作くり。   以上

五月十二日 火曜 半晴
今朝も安ちゃんが来た。四人で行った。もう二人は来て居た。親方は来ない。清水も気持が悪ひそうである。
忍田君ともっこかつぎをした。石かつぎである。籠に石を入れるのである。
十時休みをした。良く晴れてゐない。空模様はとても悪い。
午休みの時親方は来た。
祖父さんは家で籠作くりである。天気は良くない。
三時休みをして始めると雨が降り出した。清水は帰った。五時前自分も帰って来て支度をとり替えて学校へ行った。そしてラッパを少し吹いた。良く鳴って来た。
しばいはない   以上

五月十三日 水曜 晴
根岸君と安ちゃんが来た。金井君と野村君は来なかった。先へ出かけた。
誰も居なかった。杉田次郎君も今日から始めて上の帳場へ行った。
鉄線籠へ入つめ*である。清水さんが一番上手だ。始めの中はうまく行かない。
祖父さんは家で籠屋である。
親方は十時休みに来た。石つめの手許**をした。つめて見た。良くゆかない。
昼食をした。
午后も同じ事である。終まひは普通にしまって自転車でのして来た。
二十分位で来てしまった。今夜は劇はだめである。   以上
*石を詰める。
**石つめが次に使う石を出してやる仕事。

五月十四日 木曜 半晴
朝早く起きて馬の湯を湧かしたり色々した。
支度をしてゐると根岸君が来た。安ちゃんも来た。金井一郎君が見えたので出かけた。昨日より十五分ばかり遅かった。親方も清水さんも遅くきた。
杉田次郎君と石かつぎをした。朝の中は天気が悪い。十時休みの時に田黒の石ばり職が来た。
砂利かつぎもした。午前中
午后は石かつぎである。午休も一時間であった。
野村君は行かなかった。
三時休みをした。
夕方は昨日と同じに終まった。三〇分かゝらないで家へ来てしまった。
菅谷へ使に行って来たが用事はたらなかった。   以上

五月十五日 金曜 晴
牛方をするので早く支度をして行った。
林(りん)ちゃん*家へ行き車に油を呉れて牛を引き出して車をかけて工事場へ向かった。途中前車(ぜんしゃ)の右がはづれてしまった。石をつけて行った**。
親方の来るのはゆっくりであった。十時休み迄に七車ばかし引いた。
昼迄に四車往復した。休みに草刈りをした。二束まるった。良い天気である。
三時休み迄に大変引いた。それからはゑんりょして牛を引いた。ゆっくりである。
牛もつかれが出て来た。別所***へ行った牛は帰って来た。友達が来たものだから自分の牛も帰りたがった。これには困った。
明日は第八回召集日 教練 学科
*談:明覚村番匠の宮田さん。親方。
**石を積んで行った。
***明覚村の地名。

五月十六日 土曜 晴
召集日である。早く支度をして学校へ向かった。途中根岸貞次君と一しょに行った。早かった。ラッパの練習を少しした。上手に吹けない。
八時に集合した。本科二年は密集教練、行進間のヲリシキをした。一時間毎に休む。
昼少し前に村田指導員殿よりラッパの練習を受けた。正午には解散した。
菅谷の郵便局へ貯金を積みに行って来た。
午后二時より青年団員で開墾である。唐鍬を持って行ったが使道が少なかった。
新藤岩二君ともっこにないをした。とてもきれいに出来た。
家へ来たのは七時であった。   以上
[豫記]第二回実習作業 教練召集日 午后実習

五月十七日 日曜 曇
帰還軍人の三十三社参り
野村貴佑*、齋藤國平**、富岡豊作***、三名の礼参りである。六時半に神社に集合するのである。
自分達の組は村田福次さんを頭に外十名で北の方向に行くのである。先づ上唐子の氷川様へ、菅谷、千手堂。今日は馬の鍛練で菅谷神社の廻りの山に馬が居た。平沢へ行く道は悪い。志賀、杉山、広野、太郎丸。時間はまだ九時頃である。雨が降り出した。大した事はない。川島の鬼鎮神社へより月輪へ向かった。山道ばかりであった。終ったのは十時少し前であった。家へ来たが昨日の踏ざき****がゐたくて仕事にならぬ。父は守と肥ひきをした。
昼休みに寝て起きた。   以上
*四月三十日帰郷。一九三八(昭和十三)年十二月十日野砲兵第一聯隊現役。
**五月五日召集解除。一九三九(昭和十四)年九月一日近衛歩兵第一聯隊現役。
***五月十日帰還。一九三八(昭和十三)年十二月十日輜重兵第一聯隊現役。
****篠の切株を踏み抜くこと。

五月十八日 月曜 晴
今日も足がいたくて工事は駄目である。祖父さんにもろこし箒*の作くり方を教すわった。とてもかんたんである。祖父さんは三本作くり籠作くりに移った。
空は晴れてゐる。父は物置きより木の葉出しをしてゐる。
昼迄に七本作くった。午后壹本作くり合計(三、七、一)十一本出来た。其の中六本は呉れた。
祖父さんは菅谷の家へ使に行った。自分は自転車を借りて唐子の大高栄助さん家へ兎を売りに行った。五匹持って行ったが五円八十銭にしかならなかった。
木の葉出しの手伝ひをした。
夕方迄に全部出し終はり夜食してラッパ吹きの練習に行った。まだ良く吹ける様にならない。   以上
*もろこしの実をこき落とし、穂先を揃え、茎を束ねた手製箒。

五月十九日 火曜 雨
雨降りである。父は二籠草を刈った。朝食して祖父さんの手伝ひをした。否、籠屋の練習である。蚕籠のふちまきである。始めの中はうまく行かぬ。でも良くまける。
雨は止まずに降り続いてゐる。石屋の臣(たみ)さん*方のを三尺四尺拾枚。村田清治さんちのを十五枚まいた。これは二、五尺五尺である。
一日で巻き終はった。学校生徒も早く帰って来た。
今日位のふち巻きではまだまだ満足出来ぬ。
父はしまだ織りをした。   以上
*野口臣吉。

五月二十日 水曜 雨
今日も雨降りである。父は苗代見に行った。自分は藁すぐりを始めた。四くびりすぐってしまだ織りを始めた。
幾何も織れる。祖父さんは石屋の家の砂利箕を作くった。
休んだり何かをした。
昼食して父は松山へ指導員の出当金をもらひに行った。午后二時からである。
しまだ織りをしたり桑切りの手伝ひをした。学校へ遊びに行った。ラッパを少し吹いた。
帰って来てタバコ屋へ縄持ちに行った。三束である。
今夜も学校へ行くのである。   以上

五月二十一日 木曜 半晴
支度をして県道に行くと工事の連中が来た。今日は天気になりそうである。
もう親方は居た。将軍沢から利一(りいち)さん*が出た。
野村宇平君ともっこかつぎをした。砂利である。石かつぎもした。十時休みから石つめの石をかついだ。ゆっくりとした。牛車が二台で石運搬をした。利一さんはつめ手をした。上手である。
昼食も十二時であった。いつもよりおそい。
上天気にならづに曇り出してしまった。今朝方はとても涼しかったせいか昼間も涼しい。
三時休みをしてから雨が降りだしたが大した事はない。六時三十五分より農林技師黒川計氏の放送で「今年の肥料と甘藷の施肥**」についた事を筆記した。良くわからなかった。   以上
*金子利一。石つめ職人。
**午後六時三十五分から七時までの「農家の時間」。

五月二十二日 金曜 晴
田中の工事も終りに近づいて来た。今度の会計は二回目である。
石ばり屋も来た。手ぐりで石入れをした。
朝の中は良い天候である。祖父さんは籠屋に行った。山下仁三郎方へ
蚕のエン台出しである。
一日中手ぐりで石入れをした。
夜ラッパ練習に行ったが下田先生は来なかった。小澤君、岩澤君、吉野君等が来た。また上達しない。   以上

五月二十三日 土曜 晴
召集日なので支度をして行った。
まだ早かった。吉野大尉殿*が見えた。立派である。
校長先生が勅語を奉読した。昨日は御しんゑつ記念であった。吉野大尉殿の話もあった。
朝から注意された。
身体検査で身長と体重を見た。
今日から一週間ラッパをかりるのである。
時計をなをしたりバンドを取り替えた。
作入れの手伝ひをした。陸稲、ゴマ、木綿、落花生を播いた。   以上
[豫記]召集日
*吉野巌大尉。鎌形出身。

五月二十四日 日曜 晴
馬に呉れる湯を湧かした。ラッパをいぢくったりした。今日は工事に行った。石つめである。手ぐりで石いぢくりをした。
籠の中へつめた。
上の帳場から四人来た。
とてもはかどった。牛車は今日一台であった。
日傘であった。
夜ラッパ練習。   以上

五月二十五日 月曜 半晴
親方と一しょに行った。夕べはラッパを吹いた。まだ良く出来ぬ。
元吉(もときち)さんも来た。手ぐりで石入れをした。
石つめの手もともした。
今日つめ終す予定らしい。
今日は人数が増した。どしどしした。
夕方は昨日よりおそかった。祖父さんは家で籠屋をした。シャツを持って来た。
蚕も忙しくなった。   以上

五月二十六日 火曜 半晴
ラッパを吹いてゐると金井一郎君が来て三人で原場へ向かった。足の人は来てゐた。光ちゃんは魚釣りをしてゐた。忍田君ともっこかつぎをした。ノリに砂利を運こんだ。
今朝はとてもむし暑い。
体がだるっこく仕事に身しみない。
十時休みをした時、親方は来た。鉄線籠のはなへ石をかついだ。
昼食して一匹魚を取った。
三時休みには四匹取った。工事も今日で千秋落*らしい。
小屋を片づけて終りとなった。会計はもらわないで来た。
明日から家で一生懸命張切らふ。   以上
*千秋楽。

五月二十七日 水曜 晴
工事終 会計十一円
早く起きてラッパを少し吹いて草刈りに行った。唐子河原で刈った。大澤、内田君等も来た。
早く刈り終って家へ来た。田へ堆肥運こびである。
朝の中はとてもむし暑い。汗がどんどん出る。大田へ四車ばかり引いた。休んで新田の方へ移った。
六畝、三畝、七畝へと運こんだ。親方が会計を持って来て呉れた。籠を買って行った。まだ註文の品もある。草刈籠とかつぎ籠である。
昼休みに湯かいこみをした。いやに暑い。
夕方になって風が出て来て涼しくなった。
今日は国民学校児童の体育デーである。
大麦が大変うくしよけた*。   以上
*うっくしょける。折れる。

五月二十八日 木曜 晴
今朝もラッパを吹いて根岸の向かふ河原へ草刈りに行った。早く出来て朝食って遠山水車へ行く支度をした。自転車でのして行った。
せきの上からまきしょいである。日があたって暑い。始めの中はまきまるきをした。
それからしょった。多ノちゃんも助けて呉れた。早く終りそうである。
昼食して休んで始めた。午后はとてもだるっこい。三時休み迄に終はってまき割りをした。
道具が悪いかうでが悪いか良く割れない。
夜食して麺を持って自転車でのして来た。   以上

五月二十九日 金曜 晴
朝の中は涼しかった。草刈行き。
遠山水車行き。まき割り。晴天。ラッパ練習   以上

五月三十日 土曜 晴
朝起きるのがおっくうである。杉山の下の方へ草刈りに行った。祖父さんも出て同じ方向に行った。祖父さんに少しすけてもらって早く帰って来られた。
朝の中は涼しかったが好天気になりそうだ。蚕も庭休(にわやす)み*に昨日起きてだんだんと忙しくなり出した。マサ切(か)りをといだ。其の前に粉臼**の具合いの悪いのを見る手伝ひをした。
まき割りも手が痛い。裸でどしどし割った。昼休みに竹をもらって切った。四寸の竹一本切った。午后から助とう(***)が一人来て早く割り切れそうである。正三さんは馬で枝つけをした。
三時休みをした。五時頃になってしまった。
屋根屋の後しまつをする手伝ひをした。   以上
[豫記]遠山水車行き
*四眠のこと。
**挽き臼。
***助っ人。

五月三十一日 日曜 曇
遠山水車行き
新聞配達なので早く起きたが将軍沢の者が来ない。一時間余りも待って行た。鯨井重吉君である。自転車がパンクして遅くなってしまった。ゆっくりと新聞を配ばった。父と守平と祖父さんは草刈りに行った。 
今日も遠山水車行きである。曇ってゐる。正三さんと屋根屋の後片づけをして坂の下へまき割りに行った。かだぎの木なので割りづらい。
でも大変割れた。昼食は水車迄帰って喰った。午后も同じ事。
屋根屋の後片付。
籠を持って行った。   以上


冨岡寅吉日記 昭和17年6月(1942) 菅谷村(嵐山町)大蔵

2009年04月20日 | 冨岡寅吉日記

六月一日 月曜 曇
遠山水車行き
祖父さんと杉山の向かふ河原*へ草刈りに行った。草も大変なくなった。一籠刈るのも時間がかゝる。
水車へ行くので急いで支度をして自転車でかますをつけて行った。岡本正三氏は居た。
坂の下でまき割りである。始めの中少し蚕の裏取りの手伝ひをした。
今日はまきわりも終りそうである。
十時休みにはお茶を入れなかった。大変割れた。昼休みに岩倉則実**の本を見た。
午后雨が少し降って騒がされた。
まき割りも早く終って風呂を水車より運んだ。予想外に軽い。
ほたるを一匹取った。   以上
*現冨岡進一宅前の河原。
**岩倉具視。

六月二日 火曜 晴
遠山水車行き
祖父さんと草刈りに出かけた。ひどい大風である。刈る草が皆飛んでしまったりしなびたりしてしまふ。
今日も遠山水車行きである。坂の下で昨日の後片づけである。桑木枯っこを割ったり棒切れを割った。
午前中は其の仕事に取り懸ってゐた。
みっちゃんにもっちゃん*は車へ麦刈りに行った。大麦である。午休みをして前の畠のけづりこみをした。陽はとても暑い。おつねさん**も来た。桑の中はやりにくい。
終ったので休んで外の畠へ行った。すぐ召集が来て車へ廻わされた。麦刈りである。四作しか刈らなかった。
終しまいにして蛍を数匹取って自転車へつるって来た。会計をもらった。   以上
*兼子みつともと。
**兼子正三郎妻。

六月三日 水曜 晴
天ずいの方へ草刈りに行った。草も少くなった。
祖父さんに助けてもらった。帰って来て桑切りに行った。父が手の指を鎌で切った。
二車切って甘藷苗を切って植ゑた。守平も手伝ひをした。
桑園のけづりこみをして休んだ。
午后も同じ事をした。
一日より向徳寺で保育が始まり今日等も子供は遊びに行った。
午頃より猫がゐなくなり夜になっても帰ってこない。
明日は金井元吉(もときち)君*の出征である。
午前五時半頃神社集合   以上
*金井浅次。金井仲次郎の兄。もっちゃん。千葉県津田沼町石井部隊応召。

六月四日 木曜 雨
金井元吉君の出征なので五時前に起きた。
顔を洗ふとじきに雨が降り出した。急いで桑切りの手伝ひをした。
一時間ばかり手伝ふとラッパが鳴った。神社へ行ったが幾人もゐない。おいおいと集合した。
雨も大部降って来た。区民代表、青年団員代表の祝辞があり、金井君が挨拶をした。
停車場迄行った。金井仲次君*も見えた。
帰って来て桑こしらゑをした。
一日中雨か降り続いた。蚕も大きくなった。
桑呉れをした。   以上
*金井仲次郎。兄の出征なので立川から帰郷した。

六月五日 金曜 晴
麦刈り始める。
月田橋の北方で草刈りをした。ほきてゐたので早く出来た。
苗代へ水見に行って来て前の畠へ桑切に行った。
三車ばかり切って運んだ。終ってから山王前の畠の大麦刈りに行った。露があるので刈り良いが寝てゐる所があるので上手(うま)くない。
午后も麦刈りで父と守と三人でした。三時休み頃終はった。玉川の一ト市へ使に行ったが用の品は出来てゐなかった。
祖父さんの割った竹であじろを組む*のも練習した。
夕方も桑切りに行った。夜はとても良い天気である。星は良く出た。   以上
*網代編み。同幅のヒゴを隙間なく斜めまたは縦、横に組む編み方でヒゴの組み方によって色々な図柄が編み出せる。

六月六日 土曜 半晴
作入れ 小豆、大豆、等
祖父さんと耕地へ草刈りに行った。大部少くなった。夕べの模様は良かったが今日は曇天である。
露のある中あじろ組みをした。父や祖父は桑切りに行った。
九時頃より西原へ作く入れに行った。石灰原石粉(げんせきこ)を作の間へまいた。終ってからまね引き*をした。上手行かぬ。小豆と大豆播きである。
終って丁度昼である。午后も作入れであるが自分はあじろ組みをした。
暑いので背戸の日影で仕事をした。
竹がたりなくなり祖父さんに割ってもらって組んで出来上がった。風呂場の塀とした。
桑こしらへもした。蚕の成熟したのが見えだした。   以上
*鍬で種子をまくためにうすくすじを引く。

六月七日 日曜 曇午后雨
今日も曇天である。草刈りに行かないで蚕の桑呉れをした。終ってから朝めしで柴田藤五郎方へ蚕の上蔟の手伝ひに行った。
良くひきってゐて大きな虫であった。まぶし作くりである。曇ってゐて天気になりそうもない。
半日で家へ来た。家の蚕もひきり出した。
菅谷の駅前の叔母さんが来て手伝ひをして呉れた。
其の中に雨が降り出してしまった。
叔母さんは四時頃帰った。だいたいひきりは拾い切り、桑こしらへをして蚕に桑を施こした。
午后は雨が降り続いた。   以上
[豫記]蚕の上蔟始まる。

六月八日 月曜 晴
今日も蚕の上蔟である。
 雨降りである。祖父さんと父は草刈りに行った。自分は桑こしらえの手伝ひをした。桑呉れもした。其の中に雨も止んだ。今日も蚕の上蔟である。朝から座敷を片ぱじ拾いをした。
しまだや作くりをした。
午前中に大変拾いた。
午后少ししてゐると柴田きぬさんが昨日の仕事返へしに来て呉れた。
どしどしと拾いた。しまだやも忙がしい。
天気はとても良い天気となった。むしろも良くひる。
ひきりだけは皆拾いた。
まだ三えん台ばかりのこってゐる。   以上

六月九日 火曜 晴
蚕の上蔟半日
祖父さんと耕地へ草刈りに行った。少しはほきてゐた。今日も少し蚕が上がった。柴田きぬさんが半日手伝ひに来て呉れた。
休み頃迄に終はった。
父と蚕砂*出しをした。山王前の畠へ持って行った。
午后一車で止めた。父は松山へ指導員の事について行った。
大麦の刈ったのを上げ始めたら雨が降り出し忙がしくあげた。
夕方馬小屋の肥出しをした。
下はひどい。   以上
*蚕沙。

六月十日 水曜 晴
時の紀念日
今朝も祖父さんと耕地へ草刈りに行った。とてもほきて居た。
前畠の大麦刈りである。倒れてゐるので刈りづらい。
朝から良い天気で気持ちがよい。
蚕も今日ですっかり片づいた。
桑も十貫位しか余らない。午休みに一ト市の中田屋へ腹がけと腕抜きを持ちに行った。今日は出来てゐた。一円九〇銭であった。
前畠の麦刈りが終るか終らぬ中に夕立が鳴り急いだので忙がしかったが雨と一しょに終った。
にはか雨と大風が少しの間ひどかった。
今夜も農家の時間のラヂヲ放送を聞きに行くのである*。村田指導員の家   以上
[受信]斉藤三郎
*午後八時から九時の番組。浪速節・次郎長伝「仁吉と長吉」広沢虎造、△農家の時間①「共に励む力」田宮猪吉、②「甘藷、馬鈴薯の虫害とその防除」農林技師上遠章。

六月十一日 木曜 晴
今日は新しい鎌を持って行ったがあまり良く切れぬ。日の高くなる迄刈ってゐた。
田麦刈りである。伝次郎さん家の田は刈りづらい。モチ田は刈り良かった。
少し風があって涼しく麦刈りには丁度よい。
昼休みに頭をしてもらった。
田麦も大麦だけは刈り終はった。一車運んだ。
五時過ぎて前畠の麦を背負で背負った。
田 全部終った。   以上
「五明の老人*死す。」
*筆者の祖母の姉。

六月十二日 金曜 晴
寝てゐる中に運造さんが来た。喜作さんが死にそうである。祖父さんはすぐ行った。父は玉川一ト市へ畑中さん*をむかいに行った。
自分は普通に起きて草刈りへ行った。とてもほきてゐる所があった。
ゐん居の家へ繭かきに行った。十時頃迄かいて終はった。方々から手伝ひが来た。
父と田麦上げをした。昼前一車運んだ。
午后三車二拾束づつ積んだ。
夕方早く終り上唐子へ兎を売りに行った帰りにに理髪をして来た。   以上
「朝一時頃富岡喜作さん**死す」
*玉川村玉川の医師畑中彦三。
**一八九五(明治二十七)年九月生まれ。

六月十三日 土曜 晴
少し寝過ぎてしまった。召集日である。午前四時開始だが時間がきてしまった。
でも間に合った。竹と甘藷苗を持って自転車で行った。
朝早起きをしたので気持が良い。草刈りの方がよいかも知れぬ。
七時迄に終はす予定だが半になってしまった。菓子の配給を受けて来た。一人前貳拾銭。
まきは一時間で暇をもらって来た。
今日は富岡喜作さんの御葬式である。祖母さんは五明の葬式へ行った。
下肥のかゑ出し等した。   以上
[豫記]特別召集日

六月十四日 日曜 小雨・曇
入梅となったので雨である。父と大崖のこっち河原で草を刈った。大変少くなった。雨は降ってゐる。
今日は繭かきである。繭は大きくもないが小さ過ぎもしない。玉繭と中繭はとても多い。どしどしとかいた。昼前の中に七貫〆ばかり抜いた。
雨も降ったり止んだりである。でも曇り切りでゐた。
一日に十八貫引抜いた。
夕方富岡作次さんが帰途中一寸と寄った。
ラッパ練習は未だしないが今夜から始める。   以上
[豫記]繭かき

六月十五日 月曜 晴
今日も繭かきである。隆次は熱があるの為学校を休んだ。
今朝は耕地で草を刈った。ほきてゐる所もあった。柴田藤五郎方よりあきちゃんとまんちゃんの二名が繭かきに来て呉れた。半晴と言った天候で雨もちらついた。午前中は雨も見えた。
午后父は馬糧の配給を持ちに行った。
一時間位かゝった。それで柴田藤五郎方の田かきに行った。
今日は繭もかき終りそうだ。
物置きの二階から籠を下ろした。   以上
[豫記]繭かき 柴田藤五郎方より二名手伝 一日 午后父と馬は柴田藤五郎方へ

六月十六日 火曜 晴
繭の毛羽取り
夕べ風があったので今朝は草が刈りづらい。
朝食して繭の毛羽取りに取り懸かった。
昨日はとても良い天気である。繭からうぢが出てゐるものもある。
昼休みに田のぶんづうを取って来た。
午后は少し気持ちが悪るくなってきて仕事がゆるむ。
三時休みをしてから休んで床に寝てしまった。
夕食も喰べずに朝まで通した。
明日は繭の出荷である。予定目標約参拾五貫である。   以上

六月十七日 水曜 晴
気持ちが悪い為おそくなってから起きた。今日は国民学校児童の害虫駆除である。
父と母は繭の出荷へ行った。三十六貫九百匁渡して二百二十一円もらって来た。
繭の出荷 参拾六貫九百匁 一貫匁に付き六円先渡し
先払総額 貳百貳拾壹円也

六月十八日 木曜 曇小雨
父は草刈りに行った。午后発動機で麦こきをしない。
父は松山へ教練の方の配給の服を持ちに行った。早く帰ってきた。カッパ抜きや麦刈りである。
今日も身体が少し不良である。
まきも一時間で暇をもらってきた。
喜作さんの一ト七日(ひとなのか*)である。祖母さんはお墓参りに行った。
 自分はお寺へ保育の粉**と申込み書を持って行った。
 四時頃より雨が降り出した。   以上
[豫記]むし暑い。
*初七日。
**小麦粉。

六月十九日 金曜 曇
祖父さんも草刈りへ行った。
今日は大麦の脱穀である。
約三時間半で終った。
柴田藤五郎方より二名
富岡理昌方より三名、健ちゃんも来た。
午后理昌方の麦の脱穀、三時間二〇分。
十七時頃家へ来た。
西の山へ大麦からを運んだ。   以上
[豫記]大麦の脱穀

六月二十日 土曜 曇
麦刈り
今朝も草刈りには行かない。昨日の夕方の模様では夕やけで青空であったが、今朝は薄曇りである。西原へ麦刈りに行った。大豆、小豆がひょろひょろと長くなってゐる。
昼迄に運び終った。昼休み仕事に祖父さんは田植えの酒の配給を受けに行った。
午后三人で前の方の畠へ行った。瓜が少し変な色になった。
落花生は不良好で生えてゐない。(十分の七)
今日は大変刈れた。ラッパ吹き。子供常会向徳寺にて   以上

六月二十一日 日曜 半晴
新聞配達だ。早く起きたが置く所にない。一時間位経って福島達三君が来た。今日は報知、一。日日、九。朝日、二十二部。である。
わり合に早く配り終はった。大麦を干物に出した。五拾数枚ほした。(八俵目定)
昨日刈りかけた畠の小麦刈りをした。とても刈り良い。十時頃終はった。
本陣畠へ移った。これも刈りよい。麦も普通の成績である。
午后三車。上り荷一車。今日は計五車。約百束。
夕方祖父さんは一ト市へ繭の乾燥を持ちに行った。大麦を俵へ入れるので唐箕であふった。八俵と少しである。   以上

六月二十二日 月曜 曇・小雨
草がほきてゐたので早く一籠刈れた。父と一しょに帰ってきた。
田の小麦刈りを始めて少し刈った時、雨が降ってきた。麦が少し若いので一車だけ刈って帰ってきてしまった。
西原の豆類のカッパ抜きに行った。とても抜きよい。
前の甘藷の切かけをした。少しして昼となった。昼休みに松山へ使に行った。「電池」を買ってきた。一円五〇銭。祖父さんの薬を買った。五〇銭。雨が少し降りだした。内田政治君*と一しょになった。上唐子迄話乍ら来た。
夕方雨となった。   以上
*同学年。ヂーゼル株式会社勤務。

六月二十三日 火曜 半曇
昨日の近所で草を刈った。早く帰ってこられた。昨日の甘藷畠の切かけをした。
草むしりをした。続いて桑園の堀返えしをした。土がやわらかくて仕事がやりよい。
前からだんだんと此方へして来た。
昼食してこんにゃくの草むしりをした。田へ麦刈りに出発した。一車運んで二車目には雨が降りだした。でも刈かけと一枚の田は終はった。ひばりの子が三匹田のカッパ*の中にゐる。
雨が降ってきたので桑園の掘返へしに行った。山王前を約半分程した。後少して堀返へしも終る。   以上
*麦の根株。

六月二十四日 水曜 雨後曇
起きると雨降りである。坊ノ上の道端で草刈りをした。大変多く刈れた。父は月田橋の方へ祖父さんは喜作方の籠屋に行った。
父は菅谷へ馬の蹄鉄に行った。自分は一人で小麦こきを始めた。
父は昼になっても帰ってこない。
十五時頃帰ってきた。鉄屋がゆっくりきたのである。
雨も止んで日光がさし出した。
小麦を種*だけ位こいて乾物(ほしもの)に出すばかりにして置いた。
馬小屋の肥出しをした。
油面の小さい桑園の堀返えしをした。   以上
*来年の播種用の種子。

六月二十五日 木曜 雨
昨夜はよい天気であった。今朝も草刈りに行った頃は良かったが帰ってくるやうになって曇天に化してしまった。
山王前の桑園へ堀返えしに行った。一昨日の雨で仕事がしよい。
終る頃雨が降り出した。十時頃田の馬耕に行った。
鼻取りをした。馬がとても良く仕事をする。大雨が幾分か続いた。体全体がぐしょぬれとなった。
午后も行った。
柴田藤五郎方の田も耕がやした。一枚だけ。
其の中は雨も止んでゐた。
今夜は常会也   以上終。

六月二十六日 金曜 雨
今朝も雨だ。父と根岸の土手で草を刈った。
五分位大風と大雨が来た。びしょぬれになった。朝食して前の物置きで小麦を足踏み機械で脱穀した。
十時休み迄に十八はしかこけない。二人で。
休んでから少し始めると長島甲子雄さんがきた。田かきを頼みに来た。
早午めしで早速支度をして馬にきん乗って行った。少し雨が降ってゐる。
田がうめた所なのでかきにくい。小峰。
雨は一日降り続いた。五時過ぎて終はった。
夜は良い天気である。明日からも梅雨が晴れるだらう。   以上

六月二十七日 土曜 晴
今朝は朝日やけであるがよい天気になりそうだ。
草もほきてゐて草る*のに早かった。
長島水車へ昨日の続きの田かきに行った。今日はほごれが良くない。
九時頃終って家へ来た。田の麦刈りに行った。二、三日の雨で大分色が黒くなった。
午后は一駄馬で運んだが短かくてだめだ。父と車で二拾ぱ位づつ運んだ。
百束位は運んだらう。
馬鹿に良い天気でもなかった。   以上
*刈る。

六月二十八日 日曜 晴
守と父と三人で根岸河原の下へ草刈りに行った。とてもほきてゐた。早く出来た。
乾物を出して大田へ麦刈りに行った。祖父さんは小川の歯ゐしゃへ行った。
大田も半日位で刈り切りそうだ。
昼前二車、午后三車弱で引き取り終はった。
三時頃遠山水車へ麺を持ちに行った。麺四拾本粉三貫匁を持って来た。
大麦を俵にしたり小麦の種も俵にした。大麦は約全部で十五俵らしい。
柴田藤五郎方へ母は半日、自分と父は六時頃より行った。
七時間かゝったそうだ。

六月二十九日 月曜 半晴
今朝も根岸向ふ河原へ行った。
大田へ馬耕に行った。三分の一位馬が鼻取りなしでした。三分の一は自分がしんどりをして守が鼻取りをした。
午后は新田を一反三畝耕った。
今夜はラヂヲ聴取りである。 浮塵子とその防除 湯浅啓温氏 柴田方できいた*。   以上
[豫記]六月二十九日 一頁ぐれた。
[この日の日記は六月三十日の頁に書かれている]
*午後八時から九時の番組。放送劇「海の見える家」大矢市次郎外、△農家の時間「浮塵子とその防除」湯浅啓温。

六月三十日 火曜 曇
今朝も三人で唐子河原へ草刈りに行った。
此の頃はとても草がほきてゐる。新田へ田の馬耕に行った。家のを四畝耕って藤ちゃん方の六畝の田へ行った。
終ったので昼とした。
午后は区民総手で大堀、小堀さらいである。馬は午后金井廣吉方へ耕ひに行った。約九畝終って藤(とう)ちゃん*の下の田を始めたそうだ。
堀さらいが終らぬ中に大雨となった。
祖父さんは理昌方へ鼻取り。
今日は三十日である。
紙一頁ぐれました。   以上
[この日の日記は六月二十九日の頁に書かれている。]
*柴田藤五郎。


冨岡寅吉日記 昭和17年7月(1942) 菅谷村(嵐山町)大蔵

2009年04月19日 | 冨岡寅吉日記

七月一日 水曜 晴
小麦の脱穀
昨夕の中に脱穀機と発動機とも持ってきておいたので今日は朝早くから始まる。
早朝めしで始めた。(六時半頃)柴田方より三名、理昌方より四名、家より五名である。
仕事はどんどんはかどる。
麦からまるきをした。
十二時休みをした。一時少し過ぎて終った。
六時間と五分懸かった。拾壹円であった。
午后理昌方へ行った。
夜の八時前迄やった。今夜は天王様寄合である。
夜は良く晴れた。   以上

七月二日 木曜 半晴
一人で唐子河原へ草刈りに行った。早く出来た。馬は金井廣吉方の田うないに行った。
家の廻りの麦から片づけをしたりばかぬか運搬で前の桑園に籠で背負った。
祖父さんは玉川一ト市の吉住歯科ゐ者に行った。
午后田に行き馬耕のしんどりをした。鼻取りもした。柴田方のも耕ひ終った。
全部耕ひ終ってオンガーを洗った。少し雨が降り出した。
軍人援護会へ壹円寄付した。   以上

七月三日 金曜 曇
田植始まる 一反の少し上
祖父さんと中河原へ草刈りに行った。
幾人が草刈りも出た。今日から田植えが始りそうである。
本田のくろつけをした。馬の鼻取りもした。守がだいたいした。
柴田方より四人きて呉れた。苗取りを午前中した。午后植え始めた。
とても良く植はる。モチとオウミと関東との三種類植えた。
夕方苗を少し取って終りとした。   以上
[豫記]田植始まる

七月四日 土曜 曇
今朝は三人で草刈りに行った。あっちゃんも行った。草刈りもでてきた。
昨日ののこりの田を植えた。そして終はったので柴田方の苗取りに行った。馬は上代*をした。苗が取り良い。大変取れた。
午后は植えるのであるが十時頃空が曇って風がでて仕事がし悪い。
でも天気は快晴となった。柴田方の田を植ゑた。
少し風がでた。でもしづかになって植え良くなった。
終ったので苗取りをした。柴田方より朝日の品種の苗を二百タバもらった。   以上
[この日より日記の日付欄に旧暦の印刷がなくなる]
*マンガを使用して田植え前の最後の代掻き。

七月五日 日曜 晴
朝作くりに田へ行った。父は早く行ってゐた。大変水が流れてきた。大田が新くれ*ができそうだ。朝食して父と守は馬を引いて行った。
家の苗代で苗取り、理昌方よりおたまさん一人、柴田方より四人きてくれた。
大田へ十時頃より植え始めた。昼前の中に多く植えられた。
三時迄には植え切り六畝の田へ移った。
苗代のしりとかき終り馬は帰った。
とても水のは入りの悪い田が隣にある。
一反と苗代のこしで植え終った。金井廣吉方より二人来て呉れた。
夕方小麦を俵に入れた。四俵と少し。   以上
*あらくれ。代掻きの一回目。田植え前の最初の作業。

七月六日 月曜 晴
今朝は秋ちゃんと草刈りに行った。大変あった。守と父と馬は田かきに行った。
朝作くりである。七畝の田だけ新くれを押した。三畝は朝食後した。
祖父さんとくろぬりをした。柴田方より四人、理昌方より二人きて呉れた。
今日は植切りになりそうだ。昼前に三畝だけ植えた。
午后昼休みに菅谷へシャツを買いに行った。根岸呉服店で求めた。(一円五拾五銭)午后には苗代の整理をした。
七畝を植えて苗代を植えた。早く植え切って柴田方の苗取り。自分は水番に出勤するのである。   以上

七月七日 火曜 晴夕立
朝の三時頃水門番にゐってたが帰ってきた。少し腹具合が悪い。
祖父さんが変り行った。
朝ゆっくりして起きた。腹が悪いのである。
今日は柴田方の田植である。
馬は廣吉方の田かきに行った。
後四畝で植切りそうだ。
大夕立がでた。   以上

七月八日 水曜 晴
今朝もゆっくり起きた。父は草刈りに行った。
馬鈴薯堀りをした。
馬小屋の肥出しを父と祖父さんでした。
馬鈴薯も大変あった。
ほし物を俵に入れた。
今夕七時何分かの電車で志賀の故水野中尉が無言のがいせんを迎へに行った。   以上

七月九日 木曜 晴
国民学校児童ズック靴の配給 守平・隆次
起きた時にはもう馬はゐない。根岸河原の下神戸分の方へ草刈りに行った。大変あった。柴田方の田かきで四畝ばかりの所をかいて。鼻取りをした。金井方のもかいた。
柴田方のは早く終って祖父さんと母は理昌方へ助けに行った。まだ水がないので始りそうもない。父と某は前畠の日本麻をこいで畠へ乾した。
昼食して遠山水車へ麺を持ちに行った。四〇本持ってきた。今日はせきぶしんだそうだ。早く帰ってきて小麦を上げた。
ふるったり俵ゆいをした。七俵あった。此の間ののこりが約一俵出来た。馬は夕方少しの間ゐんきょへ。   以上
[豫記]遠山水車より麺四拾本

七月十日 金曜 晴
新聞配達なので草刈りより少し遅く起きた。頂度*よい具合に新聞がきた。早く配り終はった。
乾物をだした今日で小麦もほし上がる。
甘藷畠へ堆肥を出した。暑いので一車ごめら**休んだ。
昼前に三車ひいた。昼休みに床屋へ行ったが十日で公休日である。
一枚の甘藷畠は終はり外の方へ移った。一車でよした。小麦を俵に入れた。四斗二升入れ四俵出来た。
馬に乗って川入れに行った。帰りには勢がよかった。   以上
*丁度。
**毎に。

七月十一日 土曜 晴
四時に起床して上唐子の床やへ行った。早くして呉れた。山下君も一しょだった。
青年学校の召集日である。
七時始めであるが八時近くなって始めた。
始め基本体操をした。とても暑い。汗がでる。
指導員殿も一生懸命である。
速足行進も長時間した。駆足もした。
暑い。ラッパを練習した。
午后学科で服部先生、栗原先生、校長先生と三人で四時間した。
甘藷の肥出しをした。   以上
[豫記]召集日 学科共

七月十二日 日曜 晴
出征家族入営兵士宅への勤労奉仕である。山下廣雄さん*と二人は柴田方である。不動坂の向ふの甘藷畠へ肥出しである。とても暑い。菅谷村一般今日から農休みである。が大蔵は天王様の関係で十四、十五、十六日で後で又でるのだそうだ。
昨日は大堀さらいであった。
早昼に上がった。御ち歩**になった。
午后は菅谷の方へ使に言った。まきのかんたん服を買ったりした。
畠のカッパ返えしをした。
夕立がでた。   以上
[受信]柴田恭平
*青年団員。
**ご馳走。

七月十三日 月曜 曇
祖父さんと草刈りに行った。
今朝の所はほきてゐた。二日草刈りを休んだ。長島水車へ米を持って行った。
大麦押麦はできなかった。少しむし暑いが曇ってゐる。
裏の方を片づけたら十一時となった。祖父さんは玉川の一ト市の歯医者へ行った。
前畠のカッパ返えしをした。
午后は西原へカッパ返えしに行った。
早く終って長島水車へ米もちに行った。   以上

七月十四日 火曜 曇
今晩天王様
祖父さんと草刈りに行った。月田橋の下の土手で刈った。
御仮屋作くりである。縄を持って行った。
青年は舞台作くりをした。
半日かゝった。
午后は花こしらえである。小麦俵をはかりにかけた。雨くいは四斗六升八合位で目方である。前のは三升で間に合った。
昼休みをしてから神社へ行った。
人の集まりがゆっくりである。
早く終った。天王様である。
天王様をもんだ。

七月十五日 水曜 曇
祖父さんと父と三人で根岸の下の河原へ草刈りに行った。
山下和十郎君と魚つりにゆき三匹つった。
午前中は遊んだ。
午后から神輿し等が出廻るのである。
お白い等つけて皆が神輿しもみをした。たいこはたきもした。
とても愉快で天王様が終った。
明日は農休みである。

七月十六日 木曜 曇・小雨
農休み
草刈りに行く頃は少し雨が降ってゐた。雨にぬれたので草が重もたい。
朝食して少し寝た。其の中に貝*がなった。お仮屋片づけである。
天王様を神社へかついできて場所へおさめに行った。
又木(またぎ)倒ほしに行った。
雨が降ってゐる。
午后は少し小降りになり止んだ。
麦の検査である。小麦十三俵の中一等四俵、三等九俵の成績であった。
山下君とあそんだ。   以上
*ほら貝。集合の合図。

七月十七日 金曜 半晴
今朝も曇ってゐる。祖父さんと唐子河原へ草刈りに行った。
あまり良くない草である。
理昌方へ馬鈴薯を頼みに行った。供出である。
堆肥へ石灰窒素をまぜた。
山王前の陸稲の二番作切りをした。
昼前迄に前の畠も終った。金井柳作方に二三〇億貯蓄の話があった。
川へ遊びに行った。魚を二〇匹ばかり取った。四時頃休んで目かい作くりの手伝ひをした。午后はよい天気となった。   以上

七月十八日 土曜 晴
背戸の県道端で草を刈った。青年学科の召集日である。
支度をして山下君等と行った。早かった。第二国民兵の教育があるので、三名(一年、四年、五年)の指導員はゐない*。
基本体操をした。
身体検査で身長、体重、胸囲であった。ラッパを練習した。校医がきて耳、口の中、など見てもらった。
午后は学科で一時服部先生、とても居ねむりがでた。二時栗原、三時は遊んでしまった。四時下田先生の話。
馬小屋の肥出しをした。   以上
*談:各学年に一人づつ指導員がいた。

七月十九日 日曜 晴
祖父さんと唐子河原へ草刈りに行った。朝食して遠山水車へ行った。
坂の下の家の西脇の桑原の草むしりをした。とても暑かった。
一日中同じ様な仕事。

七月二十日 月曜 晴
昨夜は坂の下へとまった。朝作くりに馬小屋の肥出しをした。
まるき乍がらだした。朝食迄に大変だした。
馬で畠へはこんだ。
昼迄に桑園に引いて土をかけた。
昼休みに水をあびた。
午后は堰ぶしんである。大きなたらいで砂利を運こんだ。
瓜や茄子、人参等へ水をかけた。
夕方早く夕食をして帰ってきた。   以上

七月二十一日 火曜 晴
遠山水車へ
四人で草刈りに行ったが一番早く帰ってきた。
遠山水車へ行った。坂の下で田の草取りをした。
汗の出が少いが昼近くなって汗がでた。
昼休みをした。
午后取りのこしをした。
桑原の草むしりをした。
夜は暑い。   以上

埼玉県下町村会議員選挙執行(翼賛選挙)。菅谷・七郷村の推薦候補も全員当選。菅谷村(杉田庄治郎、福島愛作、内田百太郎、岩澤彌市、笠原傳吉、小林忠一、富岡茂八、田幡順一、番場高一、関根茂良、簾藤國平、山下邦治)、七郷村(飯島四郎次、荻山忠治、小林近義、小林惣三、川口宗作、市川武市、青木五三郎、久保範三、田中昇、栗原侃一、阿部寶作、中村茂十郎)

七月二十二日 水曜 晴
唐子河原で草を刈ってきて遠山水車へ行った。
肥を配合して桑原へ呉れた。
けづりこみもした。
昼食してせきぶしんをした。
たらいで運んだ。
まき割りをした。せきに大穴があいたのですぐ防ぎに行った。
大変よくなった。
車へ宿まった。   以上

七月二十三日 木曜 半晴
車へ宿まった。前の土手で草刈りをした。うすら*頭がいたい。
朝食してじきに帰ってしまった。
家へ来て返事を書いた。金井君、斉藤、吉沢君にもだした。
午后昼寝をした。
約二時間
足中作くりをした。
父は理昌方へ助に行った。   以上
*少し。

七月二十四日 金曜
草刈りには行かない。
召集日なので早く支度をして自転車で行った。足が少しいたいのである。
七時半少し過ぎて始めた。
今日も陽のあたりは良くないが暑い。
基本体操等した。
神社の境内でした。涼しかった。
庭でもした。涼み乍らした。
今日は半日で終った。ラッパは置いてきた。
農休みである。大蔵だけ
出征兵士 中島太一氏 一名
千手堂からも一人*。
[豫記]教練召集日
*菅谷中島太一・千手堂関根養三東部第六十二部隊応召。

七月二十五日 土曜 晴
農休み
早く草刈りから帰ってきた。
富岡清君の礼参り、金井浅吉君の三十三社参りである。
七時に神社へ集合した。自分達十人は里口*である。
将軍沢、根岸、下唐子、石橋、上野本から松山へと十一社拝礼した。
早く終って松山で笛を買ってきた。
一円二〇銭
午后は遊んだ。
水泳もした。   以上
*談:山と里に分かれていて、里口は東の方角か。

七月二十六日 日曜 晴
農休み
父と草刈りに行った。帰りに祖父さんに手伝ひをした。
馬の鍛練である。霧雨が降った。すぐに止んだ。
子供をつれて魚取りに行って大へん取ってきた。
十一時頃であった。
昼休みに氷のみに行った。
笛の練習。
今夜は番水*。
*田に水を順番に入れる係。
松山第一国民学校で平、七郷、唐子村壮丁の徴兵検査実施。

七月二十七日 月曜 晴
父は番水なのでこない。一人で耕地へ草刈りに行った。
とてもあった。ぎっしり刈ってきた。
支度をして遠山水車へ出かけた。
早くの中まき割りをした。
小麦洗い*、すま俵作くり、等した。
朝から良い天気であった。
昼休みをした。
米のぬかぬき**もした。
色々した。
帰りには雷に追はれが大丈夫であった。   以上
*水車で小麦をひく前に水で洗ってほす。
**水車で米を搗いている途中で篩って、ぬかだけとる。

七月二十八日 火曜 晴
早くおきたがいねごがいたい*為草刈りに行かないで寝てしまった。
おそく起きた。朝食がうまくは入らない。祖父さんや、父、守は草刈りに行った。
父は遠山水車へ仕事に行った。
昨日に負けぬ程暑く良い天気である。半日ねた。麻の皮むきを半日祖父さんや子供はした。
昼からも少しねたがおきていらいた**。
夕日は赤い。
夜は曇った。   以上
*談:リンパ腺がはれる。まじないで包丁をあたためてあてた。
**いられた。

七月二十九日 水曜 晴
今朝も草刈りに行かない。教練に行く支度をした。
柴田藤五郎方で自転車を借りて行った。少し早かった。
朝礼をしてから暇をもらって皆のするのを見てゐた。
今日も昨日の様に暑い。土用中ばである。皆も汗をだした。
半日で終った。次の召集日は一日午后二時より学科。
二日六時三〇分集合出発。
宮前行き。馬の川入れ。   以上
[豫記]一、二年、召集日

七月三十日 木曜 晴・雨
父と神戸の方へ草刈りに行ったが枯れてゐて草もない。
大田の田の草取りをした。とてもかたい。腕がいたい。今日も暑い。はだかで仕事をした。汗がでる。
昼前に大田が取り終らなかった。
昼休みを長くして田に行った。午后は空が曇ってきた。少ししたら雨がきた。大した事はない。
幾分か降っただけだ。
休みの時守が迎いにきた。祖父さんのヰケイレンであった。
馬の川入れに行った。夜大雨があった。ほんの少しであった。   以上
[受信]斉藤・吉沢三郎
松山第一国民学校で、八和田、玉川、菅谷村の壮丁の徴兵検査実施。

七月三十一日 金曜 晴
新聞配達なので早く起きて植木山の方へ行った。福島君であった。
おそくなった。いつもの逆から配達した。
新田の田の草取りに行った。水が少い。でも取りよい。
半日に大変取れた。守も行った。
昼休みにひるねをした。
午后も田に行った。早上がりをした。
昨夜の雨は大雨でなかった。
でもおしめり祝*がでた。
馬の川入れ。   以上
*区長から「おしめり祝」の通知が出ると仕事を休んで遊ぶ。


冨岡寅吉日記 昭和17年8月(1942) 菅谷村(嵐山町)大蔵

2009年04月18日 | 冨岡寅吉日記

八月一日 土曜 晴
一人で草刈りに行った。とても草がない。山下君と一しょに歩った。
父と田の草取りに行った。早く起った。
十一時前であった。
今日は学校に行くわけであったので支度をして行った。
約二時間早かった。三時になっても始めない。今日は先生のつごう上だめである。
竹本屋で氷水をのんだ。
しまだおりをした。
馬の川入れ元気が出た。   以上

八月二日 日曜 晴
宮前行き。
今度は左の足へゐねごができた。
宮前学校に教練の研究会がある。
六時半集合で出発した。
足がいたい。
朝礼が終らない中に気持が悪くなったので日影へでてしまった。
吉野君*も腹がわるいので暇をもらってゐた。
十一時頃寝て起きた。約一時間。
昼食して吉野君の自転車の荷つけへ乗ってきた。
菅谷で氷をのんだ。頭もいたくなった。金井屋でも氷水をのんだ。二はいづつ。
父が馬の川入れ。   以上
[豫記]宮前校にて教練の研究会   以上。
*吉野勇作。一学年上。

八月三日 月曜 晴後雨
父と守は草刈りに行った。自分は水番の交替に行った。
富岡精作さん*と山下廣雄さん、新藤岩治君の三名が昨夜の水番であった。
少したつと父が交替にきた。自分は朝めし前であった。
昼前は何もしないでジンギスカン(英雄偉人物語)の本をよんだ。守が御神水むかいに行った。
午后は自分が神社**へ行った。月の輪の神主さんがきた。
夕方になり大きな雷が鳴りだして大雨も少しの間降った。大雷がなった。   以上
[豫記]夕立でる
*富岡清作。富岡豊作の父。
**大蔵神社。

八月四日 火曜 晴
早く目がさめた。一人で昨日見ておいた所へ草刈りに行った。鎌が新しいのでよく切れた。ぎっしり刈ってきた。
父は玉川一ト市の家へ仕事に行った。
桑すぐりをした。蚕に桑も呉れた。耕地へ沼廻り*に行った。田には水が大変ある。半日かゝった。たうもろこしを喰った。
午后菅谷へ行ってサッカリンを二ツかってきて、金井屋で氷水を三ぱいのんだ。
下寺へ行ってあそんだ。山下君が菓子を買ってきた。もらった。うまい。
少し夕立ぽっかった。雨きわめて少量降った。
今日もおしめり祝い。   以上
*野まわり。

八月五日 水曜 晴
一人で草刈りに行った。山下君と一しょになった。早く帰れた。側(わき)の畠の桑すぐりをした。ソ菜畠のあぜの高台もすぐった。トマトを取って喰った。
わきの高台も全部すぐり切った。
蚕に桑を呉れた。
藁すぐりを始めた。今日は方々の人がお茶のみによった。
父は縄ないをした。午后は機械でおり手をした。昼休みにをけやの家*の機械をかりて井戸のつるべの縄をなった。
桑すぐりに行った。
馬の川入れに行って落馬して馬に逃げられた。   以上
*山下三三男方。

八月六日 木曜 小雨
国民体力検査
今朝も一人で草刈りに行った。少し刈ってきた。朝食して支度をして学校に行った。歩きで傘を持って行った。
時間が少ししかなかった。庭に集合した。年れいの順にならんだ。
身長、体重、胸囲、とそれから視力、色神。昼食した。
午后は医者に体を見てもらった。聴力もあった。
早く終ったが雨が少し降ったが帰りには止んでゐた。
父が馬の運動に出た。しまだあみ   以上

八月七日 金曜 晴
土手で草刈りをした。とても少い。
おそくまで刈ってゐた。朝食して前のあき地を耕ったり整地した。
半日かゝった。
午后は甘藷のつるかえし、除草に行った。
草もひどくない。
一枚終った。
明日も学校   以上
[受信]吉野廣一

八月八日 土曜 晴
草刈りには行かない。
今日は第二日国民体力検査である。
菅谷の郵便局で切手貯金を二枚求めた。
八時過ぎてから始めた。
午前中は校庭で重量運搬をした。八貫三〇秒に四廻四分の一であった。
午后内臓検査ゐ者様が七人、歯科医が二人であった。
早く終った。閉会式をした。
桑すぐりをした。
貯金切手番号 祖父さん 五四ノ組二五二六二
       自分   五四ノ組二五四五二   以上
[発信]吉野廣一

八月九日 日曜 曇
中島街道で草刈りをした。ぎっしり刈らない。
桑すぐりをした。終ってから車へ小麦をつけて組合の発動機へ持って行った。
午后は甘藷、桑園の草むしりをした。とても暑い。残暑とは言ひ乍実に暑い。鎌形の叔母さんが西瓜を持ってきて呉れた。とてもうまい。赤いのであった。
桑園の草むしりをした。大変涼しくなった。
桑すぐりに山王様の畠へ行った。   以上

八月十日 月曜 曇
蚕の桑呉れの手伝いをした。
今日は教練である。自転車で行ったが雨が降ってきたのでもどってきて歩きで行った。
今日は指導員がゐない。
本科一年と一しょにした。不動の姿勢、速足行進等も一しょにした。
午后は学科で服部先生で四時間した。
桑すぐりをした。   以上

八月十一日 火曜 晴
山王前で草刈りをした。たて下迄で帰ってきた。
桑すぐりに行った。
暑い。
蚕の裏取り縁台出し
午后も同じ
桑すぐり
祖父さんはかごや。   以上
[受信]富岡健治

八月十二日 水曜 晴
一人で大田の近所で草を刈った。
ほきてゐたので早く刈れた。七月一日なのでまんぢゅうであった*。十こ食べた。
前の畠へ桑すぐりに行った。
午前中にすぐり終った。
蚕の桑呉れをしたりした。
昼休みをした。
山王前の畠で桑を摘んだ。
夕桑呉れをした。
馬の蹄鉄   以上
[受信]山岸良之助
*談:旧暦の七月一日。けつあぶりの日で、一日(ついたち)まんじゅうを食べた。

八月十三日 木曜 晴
朝桑を呉れた。もう五時となった。父と耕地の方へ草刈りに行った。とても良くほきてゐた。
ぎっしり刈れた。
今日はすぐり桑も終ったので桑摘みである。側(わき)の高台のくわを摘んだ。
早い方へひきりが見えだした。
午后になると物置きの縁台もひきりが出た。
明日は上蔟しそうだ。
桑摘み等も忙しい。昼休みに菜切箕を始めてもらって一つ作くり上げた。
祖父さんは植木山の方へ籠類を売りに行った。

八月十四日 金曜 晴
一人で耕地へ草刈りに行った。ほきてゐる所があった。早く刈ってこられた。
今日は蚕も上蔟しそうだ。高台の桑を少し摘んだ。大工さんが縄ない機を作くりにきた。十時頃から始めた。柴田方より三名きて呉れた。昼前にたいへん拾ひた。
午后は二名きて呉れた。三時頃迄には終りそうだ。
早く終った。九十七籠上蔟した。
蚕砂を甘藷畠へだした。一車、二籠里いもへ呉れた。
馬小屋の肥出しをした。早く終った。
川へ遊びに行った。五匹魚をつった。   以上

八月十五日 土曜 晴
父と守平と三人で草刈りに行った。
ほきてゐない。
父は遠山水車へ仕事に行った。
まき、祖母さんと自分三名は柴田方の蚕の上蔟に行った。昨日は菜の芽もでた。消毒もした(昨日)
十時頃終り金井廣吉方の蚕の上蔟に行った。なから*終ってゐた。
午后、昼休みをした。田の稲水見に行った。
桑原の草むしり、等々した。
祖父さんは川入れ   以上
*だいたい。

八月十六日 日曜 晴
家の田の向かうの方で草刈りをした。
ほきてゐた。早く刈ってこられた。
父は今日も遠山の水車へ行った。自分は祖父さんと熊手作くりをした。十一時頃川へむしろ洗ひに行った。
とても暑い。午前中洗ひきった。
昼休みに川へ遊びに行った。字の常会であった。
七夕祭は八月十九日だそうだ* 。
むしろ上げに行った。夕立がでた。
大丈夫である。
くまで作くり   以上
*旧暦の七月七日は、八月十八日にあたる。

八月十七日 月曜 晴・夕立
昨日の朝の所へ草刈りに行った。早くできた。今日は堀さらいである。
支度をして大塚の方へ行った。十六人である。堀の中にはもくがひどい。半日で終った。
菜の消毒をした。大根も喰われてゐない。父は遠山へ仕事に行った。
昼休みをしてくまで作くりの手伝ひをした。
夕立が早くからでた。
雨も降った。明日はおしめり祝ひのふれがきた。   以上

八月十八日 火曜 雨
守と鎌形耕地へ草刈りに行った。
昨日の朝より帰りはおそかった。父は水車へ宿まった。
熊手作くりをした。午前中に六本作くった。
午后は二本出来なかった。
おしめり祝ひである。社務所で春蚕の繭の残金がきた。絹綿*、等の金を合せて八十七円十九銭もらった。
一日中雨が降ってゐた。
石けんの配給 一つ
遊んだ。   以上
*談:繭の毛羽から作る。

八月十九日 水曜 曇小雨
昨日の朝の方へ草刈りに行った。
早くできた。菅谷村の七タヤ祭りである。熊手を二本作くった。
松山へ買物に行った。帽子類等買ってきた。父、守、いねの帽子、消毒剤三袋。
昼前中かゝった。
午后もあそんだ。七タヤ祭りである。
五目等して見た。
繭かき、拾参貫   以上
七郷国民学校で七郷、八和田、菅谷村の第一国民兵役の下士官・兵、今年度から新たに点呼を受けることになった一九三一年以降の第二国民兵を召集して国民兵簡閲点呼実施。

八月二十日 木曜 晴
祖父さんと天ずいへ草刈りに行った。
自分の刈った所はほきてゐた。早く帰ってこられた。三〇分早かった。
父はむしろ洗ひに行った。自分は熊手作りをした。
昼前に七本こしらへた。
今日は良い天気であった。
午后三本作くって左の親指を竹割りで切った。
繭の毛羽取りの手伝ひをした。□□
本繭は十五貫強である。玉中*、四貫匁であった。
案山子を作くって玉蜀こしに立てた。   以上
*談:二級品の繭。

八月二十一日 金曜 晴
新聞配達をした。早く終った。
今日は繭の出荷である。父が荷車で持って行った。祖父さんは馬の蹄鉄に言った。
自分は熊手作くりをした。
四本作くって支度をした。自転車の掃除をした。
学校に行った。暑い最中から村葬が始まるのである
約二時間かゝった。
家へ来て熊手を三本作くった。明日も学校である。   以上
[豫記]村葬 三名 水野中尉 杉田伍長 村田上等兵*
*志賀水野恵助陸軍中尉。一九四二(昭和十七)年二月十四日戦死。鎌形杉田俊三伍長。同年六月三日戦死。志賀村田正行陸軍上等兵。同年五月二日習志野陸軍病院で戦病死。
菅谷村葬執行。

八月二十二日 土曜 晴
背戸の道で草を刈った。
今日も教練召集日である。ラッパを持って行った。おそくなって始めた。
二十四日には松山第一国民学校と中等学校に体育大会がある。
馬の検(定)査も此の日だ。
午后は其の選手の応援をした。
守と父は桑園の草むしり
よい天気。
熊手一本作くった。   以上
[豫記]教練

八月二十三日 日曜 晴
配□給
朝づくりは気持が快晴する。耕地で草刈りをした。大変刈れた。祖父さんと熊手売りに出かけた。
村田礼助方始めで堀の内の方へ行った。一本(長沢、成澤、金井亀、山下彌、山下與、山下昭、金井孝、金ナヲ)、金井柳(二本)、金井廣、山下廣(二本)、金井清作(三本)、山下仁*(二本) 午前中売った。
午后は祖父さん一人で行った。
野村忠平方の熊手をなほした。一本
外三本作くった。
父は午前中馬の鍛練。草むしり。
午后夕方守と馬小屋の肥出し。   以上
[豫記]馬の鍛練
*順に、長沢平七、成澤力造、金井亀二、山下彌市、山下與平、山下昭、金井孝作、金井猶二郎、金井柳作、金井廣吉、山下廣雄、金井精一郎、山下仁三郎。

八月二十四日 月曜 晴
父は早起きで松山の箭弓グランドへ行った。祖父さんと天ずいのあぜ道で草を刈った。早く帰ってこられた。
支度をして健ちゃんと馬の弁当を持って行った。
国民学校と中等学校に県民大育大会がある。其の見がく、応援に行った。松山部会、菅谷部会、両部会合同で競争した。
青年学校は良い成績であった。
馬は上馬*の乙である。   以上
[豫記]馬の検定(査) 大育大会
*乗馬。

八月二十五日 火曜 晴
祖父さんと草刈りへ行った。
父は東京から千葉の方へお客に行った。
くまで作くりをした。
菜の第二回発芽へ消毒した。
くまで八本作くった。
今日より迎え盆である。   以上

八月二十六日 水曜 曇
夕べは菅谷の盆櫓を見に行った。とてもにぎやかであった。今朝は草があったので早く刈ってこられた。朝の中霧雨が降った。
祖父さんは馬を洗ってやった。金井仲次郎君の家へ山下昭二君と遊びに行った。
昼食をしてゐたら吉野勇作君と次郎君がきた。吉野君は熊手買ひにきた。
鎌形へ遊びに行った。学校の機械体操をした。
早く帰ってきた。山下和十郎君も行った。
今夜も菅谷へ行った。吉野君もきた。
ラッパの練習   以上

八月二十七日 木曜 雨
中島街道の鎌形へ近い方で草刈りをした。早く帰ってきた。
朝食して三時間ばかり寝て起きた。
午前中はあまり遊べなかった。
少し夕立のけで雨が降ったり止んだりしてゐる。
金井仲次郎君が遊びにきた。
少し遊んで行った。富岡作次さんの妻ふみちゃんを鎌形と田黒の境あたり迄おくって行った。
金井一郎方へあそびに行った。五目をした。
竹本屋で氷水を一杯山下周作君に*
父は夕方帰ってきた。馬の複おび**をもらってきた。   以上
*談:おごってもらった。
**腹おび。

八月二十八日 金曜 晴
昨日の所で草を刈った。
風が強く雲が北へ北へと進んでゐる。
魚釣りに行って一匹釣って山下周次さんに一匹もらった。
斉藤君の家へ川崎の大師様のお札を持って行った。
午后安養寺の座敷で遊んだ。ラッパ等吹いた。
面白く遊んだ。   以上

八月二十九日 土曜 晴
朝刈りには行かない。教練召集日である。七時半に開始した。
一、二年と一しょに教練をした*。
不動の姿勢等した。朝からとてもあつい。
午后は竹槍で銃剣術の基本動作をした。
婦人会の会散式**があった。
五時過ぎで分かれた。
とてもあつかった。   以上
[豫記]召集日
*談:教練指導員は、本科一年関根平三伍長、二年権田稔上等兵だった。
**解散式。

八月三十日 日曜 雨
祖父さんと守と三人で耕地へ草刈りに行った。どこにも草が少い。でも一籠刈れた。
根岸公雄さんの家で四わと二本代金六円五拾銭買った。
竹やぶにはかがひどい。そしてむし暑い。曇ってゐる。
向徳寺のもうそうも四本買った。一本切った時雨が降り出した。父は河原へ大工さん家*の手伝ひに行った。
午后社務所に晩秋蚕掃立について色々の話があった。国サイを五拾円買った。
祖父さんは目かいの竹割りをした。
二百十日の前祝いである。   以上
*富岡吉造方。

八月三十一日 月曜 曇
大田の廻りで草を刈った。
雨がちらついてゐる。
父は大工家の手伝いに行った。
祖父さんと目かい作くりをした。
十二、三形ができた。
雨も止んで涼しい風がでた。
二百十日も無事にすむだらう。
ラッパ吹いた。   以上
[受信]清水岩三


冨岡寅吉日記 昭和17年9月(1942) 菅谷村(嵐山町)大蔵

2009年04月17日 | 冨岡寅吉日記

九月一日 火曜 晴
草がないのでたて下だけで*帰ってきた。父は今日も河原へ行った。
西原へ小豆もぎに行った。良く赤るんだ。祖父さんは目かい作くり。
小豆もぎをした。半日に終らない。午后玉もろこしの木を切ってきて馬に呉れた。
小豆もぎ、乾草を二貫出した。
根岸へ目かい四つ出た。金井猶次郎方へ一つ。
二百十日も無事に済んだ。   以上
*談:草刈り籠が一杯になるとさらにたて(・・)を立てて草を籠に入れるが、草が少ないのでそこまで刈れなかった。
歯科医田幡順一より青年学校喇叭購入金として百円寄贈される(菅谷小学校『学校沿革誌』)。

九月二日 水曜 曇・半晴
今朝は草がほきてゐた。早く刈れた。父は今日は河原の仕事に行った。祖父さんはかごや。母と小豆もぎをした。
曇り模様である。
大変になってゐる。
午后は晴れてきた。昼休みにたうもろこしのから木を切ってきて馬に呉れた。小豆もぎをした。松山へ使に行った。求める品は切れてゐた。   以上

九月三日 木曜 晴
昨日の朝の所で草を刈った。
今日から八日迄教練である。
八時に始めた。
不動の姿勢や行進基本体操をした。午前中一回休んだ。
助役殿の話もあった。
午后神社の森へ行って敬礼をした。
五時頃終った。閲兵分列をした。
明日も同じこと。   以上
[受信]山下三郎

九月四日 金曜 曇
三めど迄草を刈った。
急いで支度をして学校に向かった。
未だ早かった。吉野大尉殿がお見えになった。
不動の姿勢は大変注意された。
手リュウ弾なげも同じ。
くもってゐるので昨日より涼しい。
午前中一度休んだ。
午后も一度休んだ。実に猛訓練である。
閲兵を吉野大尉殿へした。終ったので五時過ぎであった。   以上

九月五日 土曜 小雨
草刈りを休んだ。雨が降ってゐる。麦からとせんていばさみを持って行った。
一時間教練をしてゐると、唐子の学校生徒の*七郷の生徒とが菅谷学校へきた。
学校別の閲兵、各個教練をした。
雨が降り出した。自分等は不動の姿勢、挙手の礼、室内の礼等をした。
速足行進もした。
終ってから分列をした。
樫の木の枝はぎり   以上
*と

九月六日 日曜 曇
根岸の向こうの土手で草刈りをした。
少し雨模様であった。
松山へ戦闘帽買いに行った。
五円十五銭
午后遊んだがつまらなかった。
魚を六匹つった。
明日も教練である。   以上
[豫記]てまり。

九月七日 月曜 晴
ゆっくりして起きた。約一時間早かった。
八時前に集合した。千代田大尉殿がお見えになった。七郷、唐子もきた。
査閲の予行演習が始まった。二年は不動の姿勢、敬礼、行進の三種して早く終った。三年のひざうち、銃剣術の形、昼に廻った。
土のう運搬、けん引等、菅谷は成績が良かった。
午后は閲兵分列をした。分列は三度もした。コウ評、不動の姿勢で眼直視する。敬礼、「受礼者あっての敬礼である。」受礼者に注目する。
四時過ぎて終った。   以上
[豫記]大日本帝国 軍艦加賀[落書]

九月八日 火曜 晴
おそくなって起きた。急いで支度をして自転車で学校へ行った。一時間早かった。
吉野大尉殿がお見えになった。八時に集合した。
大詔奉戴日である。校長先生の訓話があった。とても暑くて気持が悪かった。
不動の姿勢、何時もと同じ事をした。関根指導員が一、二年を集めて学科質問をした。大方答へられた。半日で終った。
遠山水車へめんをもちに行った。
二拾本 富岡茂八方のを三拾本持ってきた。
良い天気であった。   以上

九月九日 水曜 晴
昨日の朝よりも早く学校に着いた。
七郷、唐子の学校生徒も来た。査閲官殿がお見えになるわけだが約時間かおくれてきた。
明日の予行演習をした。
昨日の朝よりは暑くなかった。
基本体操が終って競技があた。けん引は菅谷が一番であった。俵運は三であったらう。
昼に廻った。服そうをなほした。
麻こぎ、皮むきをした。   以上

九月十日 木曜 晴
早く起きて蚕に桑くれれ*した。
早く学校へ行った。査閲官殿**と浦和レン隊区指令官***がお見えになった。師団長閣下、県下査閲官殿がお見えになった。十二名。
不動の姿勢、敬礼、速足行進で早く終った。
昼に廻ってから終った。
麻の皮むき。   以上
菅谷青年学校、七郷青年学校、唐子青年学校の指導査閲
*桑くれを。
**藤田亮三中佐(「青年学校手帳」の記入による)。
***浦和聯隊区司令官。
「比企三ケ村の査閲 比企郡菅谷、七郷、唐子三ケ村青年学校教練特別訓練査閲は十日午前八時半から菅谷青年学校庭で行はれた 臨席官として師団長豊島房太郎中将、原副官ほか兵務部員数名、東京聯隊区から鳥海大佐、横須賀聯隊区から後藤少将ほか部員数名、浦和聯隊区より藤田少将ほか査閲官全員が臨席、県からは大津知事始め福森青年教育官、郡下町村長、学校長、有志多数が出席、受閲生徒は三ケ村四百廿名査閲官藤田賚三中佐の指揮で閲兵にはじまり十時半全員の閲兵分列、試問、訓辞その他があって正午終了、午後一時からは県下査閲の基本研究会が開かれた」(『東京日々新聞』埼玉版九月十一日)

九月十一日 金曜 晴
新聞配達を終した。
麻の皮ほしたり大豆を庭へ立てた。
皮むき
西原の畠より麻をこいできた。
昼となった。風があるので涼しい。
午后も皮むき。
今日はむき終る。六時頃より菜畠へ行ってしん喰ひ虫を取った。
大変くわれた。
父は馬運動。祖父さんはかごや。
ちり紙十一銭   以上

九月十二日 土曜 半晴
家の田の廻りで草を刈った。田に水を引いてきた。水の流れが悪い。
蚕をえん台に出した。
桑を呉れて十時休みをした。物置だけだした。午前中にだし終った。
午后は馬小屋より肥をだして甘藷苗床のあとへ積んだ。雨がぽつりと降ったが止んだ。大変つめた。
昨夜は柴田方で「魂の魚雷*」の放送劇を聞いた。
野村忠平(ただへい)方のたうもろこしのからをもらってきってきた。   以上
*九月十一日午後八時から九時の番組。放送劇「魂の魚雷」小杉義男外△ヴァイオリン独奏。

九月十三日 日曜 晴・雨
境の近所の土手で草を刈った昨日の朝より早く帰ってこられた。
朝食して菅谷へ使に行った。米の配給を受けてきた。
粉は一明日出来る。菓子の配給は明日である。
其の前に根岸へ竹持ちに行った。
又肥つみを始めた。終らぬ中に雨が降りだした。
昼食してとばをつんだ肥の上にあげた。
みそこしをあんだ。   以上

九月十四日 月曜 晴
耕地で草刈りをした。割合に早く刈れた。くわくれをした。
少し腹具合が悪い。
父は組合の縄ない機械でなわないをした。
祖父さんは籠作くり。
草刈りかごのふち折りをした。
昼寝を二時間ばかりした。
菅谷へ使に行った。生石灰と菓子を買ってきた。シャツも一つ買った。
たうもろこしのから木を切って馬糧とした。
夕方玉川へシャツ買ひに行き大澤商店で二着買った。   以上

九月十五日 火曜 雨
今朝は草刈りに行かない。其の中に雨が降ってきた。学校生徒の行軍はだめだらう。
組合の機械でなわないをした。今日は助手に行った。
午前中に二タバと半なった。
昼休みに青年団の寄合があった。
十七日午前八時より嵐山(あらしやま)のトロ*で体力章検定中の水泳を行ふ。
十月になって旅行を行ふ。
後なわない。   以上
*談:杉田水車のあったところ。

九月十六日 水曜 晴
耕地で草刈りをした。今朝も割合早く刈れた。
籠屋の見習ひを始めた。半ざわる*作くりである。
祖父さんに底をくんでもらい、腰**をおこしてもらった。
三つつくった。あまりうもくできない。
菅谷の組合で粉ができ祖父さんがもちに行った。
桑呉れ、桑摘みをした。
明日は水泳の体力検定である。
うもく***行く予定。
青年団の薬集金。   以上
*半ざる。笊の深さが浅いもの。
**竹製品の底から胴への部分。底から放射状になったヒゴを段々と立てて曲げる作業を「腰立て」という。
***うまく。

九月十七日 木曜 曇
草刈りには行かない。今日は(体力章検定中の)特種検定で水泳が挙行される。
距離泳の者から先へ始めた。
曇ってゐて涼しい。
時間泳は午后だ。昼休みに吉野、西澤、富岡の三名でボートに乗った。吉野は上手にこげる。
時間泳で一分三〇秒泳いだらもうつかれた。努力がたらない。もっと猛練習を要す。
四時頃終った。遠山水車よりめんも二十本、茂八方のを二十本持ってきた。   以上
体力章検定特種検定水泳挙行*
[豫記]明日は寅吉の
*体力章検定は一九三九(昭和十四)年から実施されたが、この年より新たに水泳が検定の種目に加えられた(泳げる場所が確保できる地域だけの随意種目)。距離泳は三百メートルの距離を泳げるかどうか。これに時間泳または泳速が実施された。

九月十八日 金曜 半晴
蚕に桑をくれた。山王前の畠へ行って一籠祖母さんと摘んだ。
朝食して前の畠でも摘む。
山王前でも摘んだ。桑も呉れた。
父は藁すぐり、野村方へなわのないちんを七拾銭もって行く。
岡本正三方へ半ざるを持って行った。
今日は一円二十銭出、同じく入る。
魚入れびくのふた作くりをした。少しは良いがまだまだ努力せよ。
教練召集日は来月の第一土曜日である。
今日は寅吉のタンゼウ日である。   以上

九月十九日 土曜 雨
桑呉れだ。
桑摘みだ。父さんは草刈りだ。
朝食してかご作くりをした。
みそこしを一つつくった。野村忠平方へ売った。
次に半ざるを作くった。
祖父さんに立とひね*を割ってもらった。
二つ分割ってもらい、編み上げた。雨となり、夜は風もまじった。
祖父さんはかごみ作くり。
喜作さんの百箇日。   以上
*ヒゴ。幅の広いものをヒネ、狭いものをヒゴと呼ぶ場合もある。

九月二十日 日曜 晴
父と森は草刈りに行った。自分は桑呉れだ。
朝作くりに桑摘みをした。朝の中は雨だが朝食がすむと雨も止んだ。だが雲がある。午前中はみっしり桑摘みをした。
雨もちらついた。
祖父さんは籠箕作くり。
午后は航空日なので飛行機が飛び出した。
菅谷村へはこなかった。新しい保険の集金にきた。一ケ月壹円参拾銭、貳拾年かけて貳百九拾壹円貳拾銭   以上
[豫記]今日航空日

九月二十一日 月曜 半晴風
毎朝蚕の桑呉れだ。
今朝も曇天である。大平山の上へはニジが出てゐた。
桑摘みをした。
其の中に風が吹き出した。雲はどんどんと北へ行く。大風となった。
昨日に比べると飛行機の音も聴える。
昼休みに西原へ大豆こぎに行った。一車引いてきた。
山下伝次郎方で桑を買った。原の畠で買った。
夕方迄畠にゐた。三拾四貫五百〆あった。
祖父さんは菅谷の関根商店へ籠箕を持って行く。   以上

九月二十二日 火曜 半雨
桑呉れをした。
雲ってゐる。
山下伝次郎方の桑を六拾貫の上今日は買った。
雨も降った。
風が吹く   以上

九月二十三日 水曜 曇後晴
父は草刈りに行った。蚕の桑呉れをした。雲ってゐる。
前の畠で桑摘みをした。雨も降ったが止んだ。日も出てきた。暑くなった。
蚕の為にも良い。
午后からは蚕の上蔟に取りかゝった。
どしどしとひきり出した。
まだひきりのゐるのに終りとした。
七十四まぶし上蔟できた。
国民学校児童夜学。   以上

九月二十四日 木曜 晴
父と守平と三人で根岸の小澤君の裏で草を刈った。
早く刈れた。
昨日半分蚕も上蔟した。
今日は早くから全部上がる。
九時二十五分に終った。百二十七まぶし上蔟した。まだしっこがゐる。
午后は蚕砂片付け。   以上

九月二十五日 金曜 晴
昨日の朝草を刈った向かいで草を刈った。
割合に早く刈れた。
朝食をして長島水車へ大麦を二俵持って行った。鎌形の家へ寄ってきた。蚕も上蔟してゐた。色々と御チソウになってきた。
坊の上の畠へ行って玉もろこしのから木をこいだりもろこしの葉下としをした。
昼食
湯かいこみ。少し曇り勝の天気だ。
遠山水車へ機械麺持ちに行った。五拾本持ってきた。
大根の間引き。終ると日も暮れた。   以上

九月二十六日 土曜 曇
根岸の下の土手で草を刈った。
雲ってゐる。
理昌方の蚕の上蔟である。其の手伝ひに行った。
良い成績である。
午前中に終った。休んで後片づけをした。早く終った。母は鎌形の家へ墓参りに行った。
玉川の大澤商店でパンツ四、クツ下二つ買ってきた。
雨となった。   以上

九月二十七日 日曜 晴
唐子河原へ草刈りに行った。とてもあった。よしの良いのが大変刈れた。
背負縄が切れた。上かさをしてきた。
菅谷の家へ使に行った。時計のがらすを取りかえた。十銭
坊の上の畠のもろこし根をこいだ。守平と二人で。桑こぎをした。
鶏小屋を作くる所、富岡作次さんがきた。
父は俵作くり。籠屋、祖父
とり小屋の杭を四本立てた。四尺五寸縦、六尺五寸横の面積である。

九月二十八日 月曜 晴
昨日の朝より涼しい。向かふ河原で草を刈った。父より遅く帰ってきた。
朝食して鶏舎作くりをした。
廻りのとばを編み始めた。
春蚕の助成金来る。
昼休みに松山へ使に行った。図(飛行機)はない。インキを求む 拾銭。
又廻りを始めた。もろこしのから木を西東へおっつけた。
車の叔父がちょっと寄った。
今夜は千手堂の関根喜三方に籠屋職人の寄合がある。   以上

九月二十九日 火曜 半晴
耕地へ草刈りに行った。草のないのにはあきれた。稲の成績は大分良い。
もち稲は本から倒れてゐる。一時間もおそくなって帰ってきた。
長島水車へ押麦持ちに行った。
二俵はでき切ってゐなかった。
鶏舎の戸作くりをした。昼休みに又押麦もちに行った。
山王前畠の陸稲刈りをした。割合に良く出来た。
坊の上の前畠も刈った。刈り終った。
父は根岸宇平方へお客に呼ばわれた。   以上

九月三十日 水曜 半晴
神戸の方へ行って草を刈った。よしの良いのを刈った。雨が少しちらついた。でも明るいから天気も大丈夫そうだ。
鶏舎作くりで出来上がった。鶏のくるのが待ち遠しい。
繭かきである。虫のよかった割に貫が抜けぬ*。これではいけないがしょうがない。
十一時何分かに警戒警報が発令された。
夕方、巡査殿が廻ってきた。オヲヒがかけてない為、家(自分)ばかりでなく大蔵がだいたい油紙をしてゐた。これではいかぬ。以後、大なる注意を要す。   以上
*目方がない。


冨岡寅吉日記 昭和17年10月(1942) 菅谷村(嵐山町)大蔵

2009年04月16日 | 冨岡寅吉日記

十月一日 木曜 曇・小雨
昨日の方へ行って草刈をす。
小雨であったが朝雷が鳴り出した。
音も大きくなる。雨もはげしい。
早く帰った。大きいのが一つ家へ来てから鳴った。
其の中に止んだ。繭かきである。
祖父さんは籠屋。
杉田吉次郎方より鶏を三羽求めた。
繭は貳拾貫は有りそうだ。 
守平は今夜は宿泊訓練である。   以上

十月二日 金曜 半晴
大蔵耕地よりだんだん上った。鎌形耕地の方へ行った。少しほきてゐた。
繭の毛羽取りをした。二十一貫位は有りそうだ。
日もたんとあたらないでゐる。
昼休みに社務所に青年団の寄合があった。旅行は四日発、五日帰家。江ノ島、鎌倉方面である。東京へも寄る。三時頃終った。
十五日青年団の秋季運動会。
体力章検定である。期日未定。
二十四日教練召集日。
昨夜は高二年の宿泊訓練であった。ショウユしぼりさん来た。   以上

十月三日 土曜 晴
父は昨日夜車に泊まった。一人で草刈りに行った。昨夜は大きなお光がした。雷も鳴った。雨も降った。
晩秋繭の出荷である。約二〇貫予定。
祖父さんと二人で唐子も廻って行った。
十一時頃終った。
田島方(菅谷)でモウソウ竹三本、計二尺八寸一分であった。
繭は一等、正味拾九貫八百八〇匁。
午后陸稲上げ 山王前だけ。
父は比企の畜産組合へ半日。
明日は旅行。   以上

十月四日 日曜 曇
三時に起きた。少しくもり模様だ。東上線の一番電車で東京に向かった。下板橋にて下車、市電にて宮城に向く。参拝すまして靖国神社に向かふ。遊就管*に入った。
上野動物園にて昼食をした。松坂屋の屋上に上る。すばらしい眺望。
上野より東海道にて藤沢へ、それから江ノ島へ着いた。岩本楼旅管**に着いた。もう日が暮れた。
海はかすんでゐた。   以上
*遊就館。
**岩本楼旅館。

十月五日 月曜 晴
早く起きて海岸に行った。サヾイのからを拾った。八時前に朝食した。
弁当を持って鎌倉に向かふ。露座の大仏の前にて記念撮影。□□それより鶴岡八幡宮にもうでた。
鎌倉駅を〇時何分かに発ち、川崎に向った。大師様に参拝。浅草の観音様へも寄った。上野より池袋へ、十時十分発の終電で帰ってきた。
夜は寒い。
家へきて十二時半であった。   以上

十月六日 火曜 晴
昨日のつかれで今朝は草刈りを中止した。
七時頃起床した。父は七時四十六分発の上りにて東京に向かふ。
麻の種子を取った。
仕事といふ程の事はしない。
昼休みに神社にて一昨日、昨日の旅行の会計があった。九円八〇銭の中、八十二銭のつりがきた。常会もあった。
四時二十八分着の下りにて村田巳之吉さん*が帰還する。迎ひに出かけた。
一時間遅くれて着いた。暗くなった。
国民学校に踊があるので踊りに行った**。とても良かった。だいたいおぼえられた。   以上
[豫記]兎をかけた。
*村田福次の弟。
**談:この頃流行っていたのは「みたから音頭」や「みずほ踊り」でよく踊りに行った。

十月七日 水曜 晴
朝つくりに藁くびりをして畠や庭に乾した。大変涼しくなった。
桑しばりをした。
目かい作くりの手伝ひもした。今日のは良く出来た。七つ。
馬に甘藷ヅルを切って呉れた。
陸稲藁も小切(こぎ)った*。馬ははねる。
国民学校へ踊を踊りに行った。
吉野君もきた。皆上手だ。
帰りがけに観音様でも少し踊った。
昨夜より二時間早く床に着いた。   以上
[豫記]甘藷供出数 生 拾八俵 乾草 五俵 一町二反二畝
*小さく刻む。

十月八日 木曜 晴
馬に湯を湧かして呉れた。
玉川村一ト市へ乾燥繭を取りに行った。三円十二銭で出来た。
甘藷堀りに行った。数はないが大きいのがなってゐた。つるを馬に切った。
祖父さんはかごや。
原の桑むしりをした。昼迄した。
祖母さんと栗取りに行った。
たんと取らない。
今夜も踊りに行く。   以上

十月九日 金曜 曇
雲ってゐるので急いで藁を取りこんだ。唐子で買った竹薮へ竹切りに行った。すばらしい良い竹もある。
大きいのは一尺三寸~五寸位である。八本切った。
家へきたら十一時であった。目かいのふちまきをした。
午后は草刈籠作くりをした。なかなか竹がうまく割れぬ。
三つ下を組んだ。祖父さんは一つ組んだ。少し雨がちらついた。
明日は馬の高買(こうばい*)だそうだ。   以上
*談:軍馬に売ること。

十月十日 土曜 曇
雨降りだ。ゆっくり寝てしまった。
根岸へ栗買ひに行った。二貫匁四円六〇銭。その荷作くりをした。
かごやの手伝ひ。
午后通運へ持って行った。六十五銭。
今夜も踊。
午后晴天に化す。   以上

十月十一日 日曜 晴
今日より時計は二十四時間正*
肥料配合なので早朝めしで荷車を引いて組合へ向かった。第一の組合長さん**はもう行って仕事をしてゐた。
其の手伝ひをした。二車引いた。
早昼めしで配合に取りかゝった。
少し計算が違ってゐた。
家へは配合四叺半、完全三叺半であった。午后は人夫である。
出 肥料代 四拾壹円九銭。 入 繭代 百拾四円〇銭
夜暗くなってから終った。
明日は運動会の予行演習   以上
[豫記]時計の二十四時間正
*軍隊は既に二十四時間制を採用していたが、十月十一日から国有鉄道も、「一日中同じ時刻が二度となく、その表示が極めて明確、合理的である」として、二十四時間制となった。
**談:大蔵の農事実行組合は三つあった。

十月十二日 月曜 半晴
朝作くりにかいば切り。
今日は学校へ行くのである。支度をして河原まで一人で行った。
運動会の予行演習も意義なく終った。
半日で家へ来た。
午后 下肥出しをした。
祖父さんは菅谷へ籠を持って行った。
馬の運動。   以上

十月十三日 火曜 曇
朝は何もしない。祖父さんは男衾村へ馬市を見に行った。
自分は桑しばりをした。父は今夜帰ってくるわけである。
くもり天気である。雨も涙位降った。
戊申詔書降る記念*
昨夜は鎌形へ踊りを踊りに行った。雲ってゐて暗らかった。山下和十郎君と一しょ。   以上
*戊申詔書。一九〇八(明治四十一)年十月十三日発布。

十月十四日 水曜 晴
父と植木山の下の方の草薮でしのの長いのを刈って背負はしごで運んだ。
昨夜は鎌形へ踊りに行った。雨に降られた。鎌形の家で止めた。
色々御ちそうになった。
それからも踊った。
雨も止んだ。良い天気。
松山へ使に行きいねのセータを買ってきた。四円十銭
山王前の畠を耕い始めた。   以上

十月十五日 木曜 晴
朝起きをした。国民学校児童、男女青年団合同秋季大育*錬成大会を施行するのである。
気持の良すぎる程いゝ天気だ。
村田指導員の変りに記録係を力める事になった。種目、十三種の中四種。男百米、銃槍**。女五十米、百米を担任した。根岸貞次君は銃槍術で全勝した。気合、姿勢、実に良好であった。
第五分団の女子優秀であった。吉野勇作君の剣道も品が良く全勝した。角力の忍田君二勝二敗。第三分団一等五一・五点、第四分団二等四三・五。五分団三等三八・五。二分団、一分団の順序。   以上
[豫記]秋季運動会 国民学校児童男女青年団合同
*体育。
**銃剣。

十月十六日 金曜 曇
今朝も父と草刈りに行った。大変刈れた。柴田藤五郎方のから臼を借りて陸稲引きをした。
二俵半であった。
午前中これをした。
午后父は長島水車へ米を持って行った。
畠耕ひ。   以上

十月十七日 土曜 小雨
昨日の朝の方へ行って草を刈った。
しのの良いのが刈れた。くもってゐるが雨は落ちてゐない。朝食して父は馬の鍛練に出かけた。
母と馬小屋の肥出しをした。長いのは出しづらい。雨が降ってきた。割合に早く終った。雨は十二時になってもこない。
祖父さんはかご作くり。
長島水車へ米持ちに行った。一俵半で六〇銭。藁すぐりをした。二タバすぐる。
雨はだんだんと降り、降りも大きくなった。今日は神嘗祭。

十月十八日 日曜 半晴
昨日の朝よりずっと向かうへ行って草を刈った。
昨夜の雨は大降らしかった。朝の模様では上天気になりそうだ。
目かい作くりをした。半日一生懸命にした。七ツ組んだ。腰を起こしてもらいかわを廻った。
今日のは良く出来た。
午后は畠耕ひ。山王前は終り西原へ行った。此の畠は耕ひ良い。
休後、父は遠山の実家へお客か。母と二人で夕方迄耕なった。
今夜も踊りだ。   以上
遠山青年団主催豊年踊大会実施。

十月十九日 月曜 晴
一人で一昨日の所へ行って草を刈った。
二タバしか刈らない。
西原へ畠耕い。父はお客と上郷(ごう*)の家で葬式。
母と二人で大変耕ひた。
一日畠耕ひ   以上
*小川町下里の地名。
古里兵執神社秋季例祭。

十月二十日 火曜 晴
神社へ旗立てに行った。観音様へ櫓立てに行った。
自分等には大した様はない。
半日でゆっくりたて終った。
午后床屋*へ行った。鍛屋へ万能持ちに行った。一丁七円五〇銭
畠耕ひを少しした。
晩方早くしまって観音様へ行った。大へんな人である。
十時にならぬ中に終った。   以上
*上唐子の小林理髪店。

十月二十一日 水曜 晴
父と車を引いて行った。大変刈ってこられた。朝食して松山へ使に行った。守と隆次のセーターと足袋二足買った。
十時近くなった帰ってきた。松見屋え七円六十五銭。
午后は櫓片づけ。
早く終った。将軍沢のサヽラ
夜は唐子へ踊りに行った。
あまりにぎやかでなかった。   以上
国民学校校庭で菅谷警防団査閲執行。

十月二十二日 木曜 晴
山王前の畠の整地をした。まだ寒くない。朝食前に終った。前畠を耕ふ。
鶏をだして遊ばした。東郷大将、乃木大将[落書]。
今夜は十三夜。昨夜は唐子へ行った。少しはにぎやかだった。帰りは三人であった。
畠耕ひ。
良い天気だ。   以上

十月二十三日 金曜 半晴
七時に掲示板の所へ集合である。早く行った。
八時頃始まった。各分団別に種目を進行した。第一班(一分団、四分団)二班(二分団、三分団)三班(農士学校生徒、鎌形国民学校生徒)四班(五分団、菅国生徒)の四班に分れた。四班は1.走巾飛2.百米3.懸垂4.手榴弾の順。
午后、重量運搬。二千米は八分三十五。家へ来たら日が暮れた。
宿泊   以上
昨夜は二本木座へ山下君と行った。(畜産組合より)
巾 三米四〇 百米 一六秒六 懸垂 六回 手 二十四米 重運30k 十四秒 二千 八分三十六秒

十月二十四日 土曜 曇
今朝等は寒さを感じた。曇っている。
明日は衛生であるので家の廻りの掃除に取り懸った。堀等上げた。
きれいになった。
コサ豆をこいで葉をもいだ。
少し雨がちらついた。
坊の上の畠耕ひ
夜は雨となる。   以上
[豫記]日本の総面積六七万五千百拾八平方km

十月二十五日 日曜 晴
新聞配達をした。大部つめたくなった。朝日三十部、日日一二部、報知一部、少国民二部、計四十五部。早く終った。
荷縄(になわ)ない*をした。一ダなった。始めのはうまくなかった。
前の桑原へ馬料の大麦をまいた。
午后木綿をこいで畠うない。
理昌方へこんにゃくを四貫二百匁たのむ。   以上
*談:麻でなった。

十月二十六日 月曜 晴
今朝は霜が下りた。初霜である。
根岸へ籠を一つ持って行った。(一円五〇銭)
稲刈りを始めた。
近江を刈り始めた。倒れてゐて刈りにくい。でも実は去年より上いだらう。
よい天気だ。糯(うるち)も刈りだした。
終らぬ中に昼と鐘が鳴った。吉野の家でも稲刈りだ。
午后松山へ使に行った。松見屋でまきのセータを買った。(七円五銭)
稲をまるって掛いねにした。
朝は寒い   以上

十月二十七日 火曜 晴
昨日刈った続きへ行った。糯を刈ってしばって掛けた。昨夜も霜だ。つゆがひどい。早く終った。しまいの方は藁も良い。
苗代田のしりッ田の糯を刈った。
成澤の家でもらった糯はとても良い。がらも力があって青い。
半日で終った。横町の山へ掛けた。
午后落花生堀り。なってゐなのにはあきれた。金井清一郎方へビクを持って行った。一円也。前畠も耕って整地した。   以上

十月二十八日 水曜 晴
前畠をこすった。
甘藷堀りに行った。
沖縄を掘った。約(六拾五貫)
五俵の予定。
午前中四俵。
午后一俵。五俵出来た。
一俵十三貫二百匁 五所縄をかける。   以上

十月二十九日 木曜 晴後曇
西原へ整理しに行った。
前の方の畠もこすった。
甘藷保存床さらいをした。
午后甘藷堀り約(五〇貫)
山へつるをかけた。   以上

十月三十日 金曜 晴
今朝はぬくといので草刈りに行った。
油面で刈った。
甘藷を出すのである。第一組合長さんの近所へ持って行った。
検査員がきないので昼迄かゝった。
早昼めしで父と菅谷へ持って行った。五俵。午后は仕事をしないで宿泊訓練に行く支度をした。
山下君がきた。背負籠へ入れて行った。早かった。総員二十一名であった。夜は消燈が二時間遅くれた。
十一時半より〇時半迄不寝番を務めた。まださわいで良くねられぬ。
[豫記]宿泊訓練

十月三十一日 土曜 晴
四時半に起床した。室内の掃除、水もつめたくない。朝の修養した。神社参拝。朝食前駆足、つかれた。朝食して出征兵士送くり。五人。杉田次郎君も出征した。二時間教練。指導員より銃剣術の基本。昼は炊事当番。ライスカレー作くり。心配しいしい作くる。割合にうまくできた。
一時より畠耕い。稲穂畠 大変はかどった。
撲相の形。根岸秋治君とした。撲相は勝を目的とするな   以上