GO! GO! 嵐山 2

埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

静かなサルウイン川の流れ(志賀・栗原喜久次)

2008年06月16日 | 戦争体験

 タイ国境に程近きサルウイン川のほとりモールメンの對岸マルタバンの町に連隊集結、宿営地せし折遂に終戦となる。しかし正式な命令もなきまま二、三日は指揮の混乱をまねき、自由行動に近き有様となる。我が分隊員も一人無断外出、小舟の中にて現地人に殺害を受け兵器被服等取られあわれな姿を引取に行きし事もあり。さんざん苦労の末多くの友を失い、其の上敗戦とは意氣消沈、中には声を上げて男泣きする者も有り。二、三日して中隊全員一堂に集めて隊長より正式な終戦命令と今後の行動についてきびしき訓示あり。これよりは一名のぎせいもなき様全員元気な体で日本に復員出来る様重々の注意。二、三のを点々と移動、烈部隊はピリンに最終的の集結地が決し、車輌部隊であり乍ら一台の車もなく歩行軍。以前ロイコウにて山道に入る折、道ばたの山中に置き去りのまく。ピリンに着きしが民家に宿営は許されず、毎日が中隊ごとの住い作り、幸に当時兵器勤務隊より配ぞくの下士官以下六、七名の木工兵などの専門者が居り大いに助かる。
 盛岡の佐藤、種子嶋の春村、金沢の石井君等諸氏一週間位で住居も出来、そこにて武装解除。なつかしき手塩にかけた小銃など一切取上げと。一銭の小使も残さず引上げ無一文。残るは栄養不良の体のみ、今後三年はがんばれとの事、復員迄のめはな【?】。
 負けし身のつらさ、食糧調達も出来ず、英軍からも支給されず、少々の手持きり、一日二食、オカユ一食、飯盆フタ一ぱい、ドラム缶にて牛の頭をゆでしが、ひらいた目玉のきびわるさ目にうかぶ。
 当時同師団通信隊に同郷の初雁さん見付けて共におどろく。
 間もなく英軍の作業に出る様になり、次第に食糧の支給もあり、日曜などは体操、野球など、又演藝なども始まり少々落付を取りもどした感あり。以上はかりの収容所、今度は本物。
 第一回目のタトン収容所、三、四段の有支鉄線を張りめぐらした廣々とした草原、又宿舎の工築、次の日より近所の山に材料の運船作業、一方はゴム林にかこまれた鉄道もあり、各師団入りみだれ海軍部隊も居り、またかのビルマの立琴になりしもこの辺ではないかと思われる。やはり英軍作業の土方が多い。休日は野球、演藝等あり、割合と氣楽な生活の毎日であった。心細いのは無一文、何一つ買い食も出来ないかごの鳥、ちえが無いばっかりに、一向に日時は不明のまま二回目収容所、鉄道にて行先不明のまま着きしところ、ビルマ中央に近きマンダレー行き本道沿線パヤジイの町、今度は住居も有り一安心。せまい割には人数は大分多い。そこにて二、三ヶ月か、連隊はラングーンに移動となる。いよいよ復員近しと感ずさにあらず、石黒中尉以下中隊で十名、英軍輸送隊要員としてメークテーラ行を命ぜられ連隊と別行動となり南北に。私等は北方に百三十八連隊より派遣の三名と計十三名メークテーラに向ふ。
 メークテーラに於て英自動廠より貨車五台位受領、一つの小隊となり、各方面より集まりて中隊となり、ラシオ雲南方面に宿営して一ヶ月余、又シヤン洲方面にも一月位、原住民に米の輸送(ハンガーオプションとかいふ名前)。作業終って二度とメークテーラ日本人キャンプ村、そこには烈の歩兵部隊五八、百二十四連隊、一三八連隊、他に二、三の部隊、昭和二十二年(1947)の四月中迄輜重の石黒小隊として御世話になる。百三十八連隊などと共にラングーン港にて上船、大文丸の人となる。
 途中シンガポールにて小休、一路本国、佐世保港着、上陸。旧海兵団宿舎四、五日の復員事務、五月十二日復員、早岐の駅にて汽車に、軍用列車とは名ばかり、のせぬ筈の一般の人でぎっしり、負けし兵は尚更小さく、乞食の様な兵隊の荷物も重々紛失する仕末。つかれてやっとの思いでかへる兵士のひざの上にモンペで腰下す人、手荷物を無音で置く婦人など居り、男性は入り来る人は見かける事はない。人の心、町の様子、意外の変化におどろく。

    現役 昭和十四年(1939)三月一日入営
       満洲奉天関東軍
       自動車四連隊四四七部隊四中隊ノ四
    召集 昭和十八年(1943)九月廿日東部十七目黒輜重
       入隊同年十月東京発ビルマ派遣
       ビルマ方面軍第十五軍烈部隊
       三十一師団輜重隊三中隊三分隊


イラワジ川とサガインの町(志賀・栗原喜久次)

2008年06月16日 | 戦争体験

   一、サガインヒルの寺山
   二、イラワジ川の會戦
   三、メークテーラの戦斗
   四、シヤン高原への道
   五、ペグー山系の山越え
   六、終戦の町マルタバン

 イラワジ川最大の橋かと思われる鉄橋、一粁にもをよぶ大きな流れ、向いはビルマの都マンダレーの町、見るからに戦災の跡のみ、隣は織物の町アマナプラの、当時烈輜重隊はサガインヒル山中に二ヶ中隊、少数のトラックと輓馬をたよりに駐屯して戦力の回復につとめていた。次第に英軍の追げきはげしさを増し、シュボウ飛行場方面に出動を命ぜられ、十日間程輸送の仕事、遂にサガインの町にも居られず、夜間を利してアバ方面に進出。こそこそイラワジ川の會戦となるが戦力なき会戦、守勢が主で見るべき攻勢はまれであった。
 其の頃上原曹長以下七、八名ラングーン兵器廠にトラックの受領のため出張。マンダレー街道を南下、一路夜の道をラングーンへ。パヤジーの兵器廠にて方面軍の虎の子の様な日産の新車五、六台を手に入れ、急ぎ前線にもどる。すでに会戦も終末で手の出し様も無き様子、イラワジ川を渡りし英軍の機械化部隊主砲の落下音、遠方には戦車のキャタビラの音さえ耳に入り来る。無燈火運転ならばと安心して弾薬を満載走行中、空より機銃掃射、ハンドルを捨て草原に伏して体は無事なれど、ラジエーターに命中す。其の場は走りぬき焼息で氣付く、夜明前草原の薮に車を押し込み日の出を待って二人で修理、プライヤーにて細管をつぶし水止の應急修理、夜道を利して水の補充をしつつ宿営地に着いたのは三日の後であった。
 次ぎの防ぎょ線はメークテーラ、飛行場も有り大陸の真中の廣々とした草原、予想以上に敵の進出が早くメークテーラの戦も敵のなすまま、其の先ラングーンに向ふ本道上も危険との通報あり。私の分隊は各車に十四、五名の患者をサジ附近にてのせ、シヤン洲に登るカローに向ふ本道に出るべく裏道を行進中、私の車の片方の後輪敵の地雷にかかる。早速スペヤタイヤ一本にて前進するが間も無く敵弾、至急トラックは低地に押し込み、患者もそのまま衛生兵にたのみ全員で軽機と小銃にて應戦、事なきを得たが一名の患者は戦死す。裏道の危険を感じてか、急いでカローの本道に出る。カロー迄の六十哩の坂道、上はシヤン高原、其の町は赤松茂る日本の春や秋の様な氣候、車上の患者を当地の陸軍病院に送り松林に宿営、次第にシヤン洲奥地にタウンジー、ロイコーと進み右に折れて山又山すでに其の先車の道は無く。有るは山道のみ、林の中にトラックは置き去り、全員歩行軍、行手は有名なペグー山系、けわしき山谷、命令ではモールメンに集結とか、山越は一ヶ月以上も要したと思ふ。
 烈部隊のみならず当時カローの病院、タウンジイ方面に居りし部隊なども同じ山道を同じ方行に行動せし事と、入院患者及び看護婦など、いかにしてあの山系をこえしかと今にして思ふ。さぞかし大きなぎせいの出し事と同情の念を深くす。特になやまされたのは竹林、毎日行けど進めど竹薮ばかり、穴無き竹、大きなトゲの有る竹、枝の方がさすがに長い竹、手の入るすき間も無き大きな株の竹、竹様々竹の子も同様、竹の子に兵隊の方が食われる程の数、平地に出てからはゴム林、其の頃昭和二十年のビルマの雨期来る、毎日が天幕たよりのゴム林の中の道を無言の転進、目的はモールメンの町、当時ラングーンをのがれた方面軍司令部がモールメン居り、其の警備として烈部隊を指令されしと聞く。
 モールメンの町はサルウイン川の川口の町、ビルマにては東の果、向いはマルタバンの町、サルウイン川両岸各地に烈は分散、任に着く。其のまま同地に於て八月の終戦となる。烈三十一師団輜重連隊はマルタバンの町にて其の声をきく。省みればかのソ満国境のノモンハン戦、ビルマに来てからのインパールの戦とて、又はイラワジ会戦、メークテーラの戦斗と重ねしが、一度として戦勝のためしなし。コヒマに於て一時有利な戦場を感じたのみ。なんと不運なめぐり合せかとつくづく思ふ。不利な戦ほど兵隊の苦労は多く、後退しながらの患者の後送、タンガをかたにする兵、きずを負いし上の兵は尚更で共に涙を流す余有さえなき有様、時には戦場よりもみじめな夜の山坂道、雨降る夜甚えしのびつつ居りし、マレー半島に近きマルタバンの町にて終戦を知り一度に落ちる涙、悔しさ、かなしさ、なさけなさ、遠く祖国をはなれてビルマの地で敗戦の報を、この人生に二度と出会ふ事はないであろう、あってならない惨状であった。時すぎて見しドラマ戦場にかける橋、クワイ川の谷間をほこりと共に歩いた私にはドラマはドラマで事實で共に思い出は深い。今はいかにと戦後の様子は後記とす。


アラカンの足音(志賀・栗原喜久次)

2008年06月16日 | 戦争体験

 インパール作戦 昭和十九年(1944)三月十五日

    一、チンドウインの川越え
    二、アラカンの山越え
    三、コヒマの夕暮
    四、烈の抗命
    五、無謀な司令官
    六、悲しき戦友

 ビルマ第十五軍司令官牟田口中將、支那事変発鉋第一声の歩兵部隊聯隊長、この度インパール作戦作動せし軍司令官。南方より弓師団、中央部が祭師団、北方コヒマ方面烈師団、昭和十九年三月十五日月明真夜中を期し、ビルマの大河チンドウインを一勢渡河、インパール目ざして各部隊三手に別れ、烈の行手は山又山の八千余尺も、七重八重毎夜につづく歩行軍

 チンドイン川の渡河
 川手前三、四粁の山中にて各連隊又は中隊各にて待機、出陣の命をまつ。昭和十九年(1944)三月十五日夜十時頃出発命下る。貨車はすでに後方に残置し、耕牛に、小さな二輪の牛車にコヒマに行く迄の食糧、弾薬。大河の手前二粁程は点々と一面のかやの原、空には満月の様な月、腰まで水につかり褌一本、四名一組一台の牛車をかつぎ百米程を三四回、月は西山にかくれ、終了したのは夜明け間近か。寒氣と空腹をこらえて急ぎ身仕度。次の宿営のジャングル目ざし出発、急げど相手は牛、夜明けとなれば敵の飛行機、好運にも四五粁にて次第に林となり山となり遂にはジャングルの野営、やっと朝食。始めて内地産の乾草野菜茄子と南瓜、味は無いが涙と共に食ふ。同地で中食、夕食を終えて日暮と共に出発。日中近所のかやの原でクジャク一羽発見せしが見失ふ。残念無念。三日程の行程でビルマ。インド国境に来る、すでに道無く牛車も捨てる。車の荷物、次は牛の背に、又は我身、各自手製の牛のくら、思ふ様にはいかず山坂道でさんざん手こずる。其の牛も次第にたをれ、遂にはたよるは自分の体、耕牛は食糧とて無く、あるは笹の葉と、野草食ふいとまなき有様、骨と皮のみ、終りには尾より火を付けしも立上る氣力なき迄も働き、最後は谷そこにつき落さる牛が数知れず、兵は牛の背の荷物と共に背負い平地で小休止に腰を落せば二度と腰の上らぬ重量、其の上毎夜の行軍、タイマツ便りのジャングル道、時には八千から九千尺の高峯も七、八回、日中より焼米、薪までも用意持参して登山、山頂は雲の中、木のしずくと一面の霧、飛行機の心配なし。日中の行動もしばしばあり、下山途中点々と茂る赤松の林もあり、遠く故郷を偲びて戦友と語りつつ、つかれて足もわすれて下山せし事もあり。
時には谷間に宿営もあり谷川にて水洛、洗たく、炊事と忙がしい日もあり。目的のコヒマに進出したのは四月上旬の事と思ふ。
 十五軍司令官牟田口中將の云ふ食糧、弾薬を敵に求めて戦えと、烈部隊四月上旬より五月末迄一粒の米も補給なく、其の体で運でし弾丸で戦い苦戦の連續、二ヶ月近き死守も幸運は来たらず、インパール攻略のあても無く烈師団長佐藤幸徳中將一人意を決し、残余の兵を集めてビルマの雨期を目前にして、六月始め烈部隊転進の命を下達。ウクルルに向い転進これが世に云ふ烈部隊の杭命。
 当時私はマホソン附近に居り、夜間のみ使用せし敵のトラックは谷間へ、命にかけて手に入れてガソリン、オイルのドラム缶は土中にうめ、インパールに向ふ舗装道と別れ二度山道の歩行軍、其の頃雨期のをとずづれ、五尺四方の天幕一枚がたより、一夜に五粁か十粁ほど引返しては患者輸送、雨の山道のタンガ歩行、患者は先行し残るは重傷者、一週間程でタンガの患者はたをれ昨日迄かつぎし兵も歩行患者に変る仕末、遂には乞食の道中にひとし。
 次第に兵は素足でぬかるみの山道をあてもなき三、三、五、五の旅人、日増に姿もあわれに川越しも着のみ着のまま、やせた体はしらみの巣、今夜の宿はいづれの谷か山合か、三度の食事も岩塩が充分あれば最高で、みょうがによく似た山草が今でも舌に味残す。銃持つ兵は央程、杖にすがりて鈑盆と水筒のみの兵もあり、又マラリヤの高熱で頭の方が変になり、四つんばいにて下り来るあわれな姿もまれならず、ああうらめしいインパール。
 記しおくれたが私の感じたインパール、標高千米位のアッサム洲唯一の高原都市、敵のビルマ進攻の一大補給基地、日本軍には目の上のたんこぶ、アッサム鉄道を利用ディマプール駅よりトラック利用、途中コヒマを経由しての三車線程の軍用道路、約六〇哩中に四、五個の原住民シヤン族有り、馬鈴薯畑、ラッキョウ始めて目に入るカリフラワー、これぞ我等の命のつな、敵の倉庫のメリケン粉、あのスイトンの味は格別で、又其の中の谷川ぞいのセリの味、はるかにかすむシヤン高原、そこに牟田口中將目を付けて、あの東條を動かしてこの作戦の許可を取り、ヒヨドリ声と名打って南と中を弓と祭に、途中のコヒマは烈部隊、七日か八日で落城と、甘い言葉を真に受けし部下の将兵あわれなり、かの中国の廬溝橋事件の最後をインドでかざり、牟田口本人の出世の糸口にと思いしか、世の中はまく成らず、部下三ヶ師団をアッサム洲に送り込み、其の後の補給も省みず、司令部以前後方のビルマのメイミウ、其のままで前線の様子無和のまま、参謀なども派遣せず、勝手な軍命電送なし、前記後方へのグライダー、意外に大きな敵部隊、其の對さくに四苦八苦、夜ともなれば慰安婦相手に酒盛とか。
 当時コヒマは死の守、日増に増える敵部隊、コヒマを通じインパールへと大攻勢、上空高く観測機二機の姿は休みなし、友軍炊事の時もなく、二列にならぶ砲列はタイコの音、其の如し山にひそんで見るばかり、敵は毎日の空中補給、太陽西にかたむく四時頃に山の中腹すれすれに西日に光る輸送機四、五機、我等に見せる其の如しのんびり四、五回落下の傘の色、水、食糧、兵器とか、目前のドラマの様な風景にみとれし味方声もなし、打つべき弾丸も残少で銃を片手にしばし見物、終る頃には日暮も近く、今夜の戦い氣にかかる、毎夜の陣地後退で佐藤幸徳司団長決意の程がしのばれる。ミートキイナー方面降下の落下傘部隊の手配、インパール攻略不進、烈部隊抗命転進、すべて失敗に期し責任は部下師団長を交送し、己の責を省みず、雨期真盛りの戦場に三ヶ師団の将兵は、ドブねずみの如く山野をさまよい、死の戦場と化し、体力の消耗とアメーバー、マラリヤとのたたかいとなり、ぎせいと成りし戦友多発。四月廿九日、佳節を期してインパール入場の言今はどこえやら。牟田口、佐藤両中將、幸運にも戦範ものがれ、無事復員、共に三十五、六年頃あの世の人となりしとか。牟田口軍司令官、戦い負けて大将に進みしとか、陸軍の人事いかに。佐藤中將、先に他界。告別式には牟田口氏参列、今尚昔の部下の非を語りしとか、それを耳にせし故人の部下、歩兵百二十四連隊の兵諸氏の牟田口非難しきりと聞く。故人の遺族を前にして失礼非常識この上なき様、故人のなげきいかに。悲しみつづくあの世への道、シッタン手前の山上にて山梨の長坂伍長、同召集、フミネ附近で神奈川の高橋賢次兵長敵陣にて、タム附近山中にて在満当時同年兵藤谷義則君マラリヤの高熱にて、又ビルマに近き山道にて同郷の豊岡君、キスの町に来て中隊人事の中野勝美曹長、毎年入梅の来る度思出はつのる。名も無き遠い他国の地にいかに、さぞ肉親との再会を夢見て安らかなねむりに暮し居りしか。大きなぎせいを拂って何一つ功なし。ビルマ中心地に引上げたのは十九年の秋の頃、一時烈三十一師団はサガインヒル山中に集結、少数の兵員補充、休養。次期作戦の準備、シュエボウの戦斗つづくイラワジ川の会戦、メークテイラの戦と重ねども強力な英軍を相手に五分に組する力も無く、次第次第にビルマの片すみに後退を余議される。
 終戦時サルウイン川のほとり、マルタバンにて遂に万事が終る。ここに至るペグー山系の苦難の山越えは後日に送る。


召集(志賀・栗原喜久次)

2008年06月16日 | 戦争体験

 昭和十八年(1943)九月十八日夜八時頃遂に赤紙の令状来る。
 九月二十一日東京目黒輜重隊に入隊、同時召集員四十名。同年十月二日品川発夜行列車で東海道経由九州門司着、同市に一泊の民宿、日本最後の一夜。五日頃門司港にて上船、若松港にて一大船団となり南洋方面に向ふ。十八年(1943)十月中旬、サイゴン港上陸。当地東飛行場宿舎に於て十日余宿営、メコン川を小舟にてプノンペンに至る。プノンペン日本人小学校に宿営、十日間鉄道にてバンコックに向ふ。当地兵站。宿舎に四、五日間、又鉄道、貨車等にてチェンマイ方面よりタイ緬、鉄道工作中を歩行、又は夜間の鉄道輸送でビルマに向ふ。タイ緬鉄道の山中にて十九年の正月となる。ビルマ最初の駅モールメンに来る。満洲当時の初年兵掛上等兵、其の時押久保軍曹、サルイン川渡河の烈部隊連絡所の指揮者で御世話になる。なつかしき話も作業の合間、サルウインの川の向いはマルタバンの町、ビルマの気車にゆられてペグー経由一路首都マンダレー目ざして北進。しかし、都もメチャメチャ、一日何回もの敵飛行機、夜間もオチオチねる間無し。二、三日の後夜間イラワジ川を渡河、對岸のサガインの町に落ち付く、約一週間程。其の頃より烈部隊補充各兵科各別行動となる。我等輜重は一中隊トラックに便乗、シュボウ通過、山中に駐屯せる烈輜重三十一聯隊に追及入隊となる。名をピンレブと聞けど一面のジャングルで、時は昭和十九年(1944)二月十一日頃。分隊各の草屋根の山小屋、風呂は、ドラム缶、まるで乞食の宿そっくり。部隊はすでに作戦準備、インパール進攻。下士官以下、我等補充は四十三名各中隊に配分され分隊に只一人当時より二中隊は行方不明のまま。二、三日してジュピー山系を通過してチンドウィ川附近に移駐、作戦すでに英軍ビルマ北部にグライダー空輸あり、日本軍露営の上空を月の明りたよりの様に二、三のグライダーを引き乍ら我等の後方に毎夜の不氣味な行動を有々と肉眼にうつす。友軍は印度進攻に無中の時、チンドイン渡河の大事な時機、作戦開始を数日にひかえて小生等兵卒にても行く先の心配がちらつく。これがインパール進攻後大きなこぶとなり、牟田口中將を苦境に落せしとか。お蔭様でインドに進攻の我等は着の身そのまま、食ふに食無く、各も無し。
 以上が菅谷駅頭より村民各位に見送られ出征してよりビルマ到着迄の荒筋です。そして間も無く昭和十九年(1944)三月十五日、月夜の晩あのチンドウインの大河を敵前渡河、烈部隊印度コヒマを攻略し二ヶ月を死守せしが六月始め遂に抗命転進となる悲惨な末路の様子は後記となす。
     ※筆者は1918年(大正7)生まれ。


ノモンハンの大草原(志賀・栗原喜久次)

2008年06月16日 | 戦争体験

 作戦期日:ノモンハン事件 昭和十四年(1939)六月十日

 廣膜たるノモンハン
 昭和十四年(1939)二月廿日頃、第一乙種なれど現役に編入され満洲に入営すべく菅谷駅頭に於て盛大な村民の見送を受けて出発。東京駅前に一同集合、代表の見送りの人とも別れ東海道線の人となる。途中見知らぬ方々の手をふり又は日の丸をかざしての見送りも各所に。それを後にして列車は廣島に到着。練兵場に整列、人員の点呼。しかし、私は最後迄御呼びが無く、折角来たのにと少々心配になる、員数外ではと。満洲より初年兵受領の太田軍医、丁度都合がいい、俺の手荷物と共に宇品迄市電でとの事。その御つき会【?】、一同は歩行せしとか。宇品にて二泊。其の間兵器、被服の受領。当地宇品港にて病院船に上船、朝鮮情津港迄。北朝鮮の寒さにおどろく。日露戦当時の防寒外とう支給さる。次は満鉄奉天駅に着。出向へのトラックに分乗、奉天北凌附近に在りし東北大学がかりの兵舎に入隊。五月には関東軍自動車四聯隊と四四七部隊田坂部隊となるが、当時は新設の最中で最初の初年兵、次日からは関東軍の氣合とかですさまじい。トラックは全部外車の新車、フォード。三十八年、三十九年式二トントラック。入営は三月一日でしたが意外の寒気に一同びっくり、毎日が雪風の中の教練、車の操縦半日、半日は各個教練。市外に在りしゴルフ場が毎日のつらい遊場。近所を満鉄が走り氣笛をならし、其の度に落ちる涙。内地を思ふ日を重ねて終日又は一泊の操縦教練。無順、鉄嶺、凌陽など、なつかしき思い出も今にても残る。其の頃、ソ満国境さわがしく当隊に動員下令。至急ハイラルに出動命令、六月廿日頃奉天駅頭にて貨車搭載、鉄道にて国境へ。氣車にゆられて一日半位、満洲の六月は花ざかり、野生のシャクヤクスズラン、行けど進めど車窓は草原。しかし、行手は戦場、忙がしき勤務、新兵の戦場は目がまわる様だ。ハイラル駐屯は小松原師団工兵隊、すでにノモンハンに出動せし空兵舎。我が四中隊四班は聯隊本部要員として当分の間本部と行動を一にす。到着と同時、明日前線に送るべき食糧の積載。前線迄約六百粁、出発は夜明と同時頃。其の日夕方將軍廟附近にて夕食、宿営準備。夕食後前線に向い無燈火運転。食糧等目的地に渡し、宿営地にもどるのは早くとも二時か三時、ブユと蚊にせめられ少々のねむりで夜明、朝食を終えて急ぎ発たねば夕方迄に宿営の兵舎につけぬ、時には敵飛行機も来る。一本道を走るトラック、敵機との合ずで右と左に二、三百米、堀一つ、立木一本すら無き大草原。途中宿営地迄の間、小高き丘二、三ヶ所、十米程の川一本、放牧民の山羊の数何千と多し、茶色の山羊。関東軍各聯隊の自動車、満鉄の輸送隊それですら人員を輸送する余有はなし。北支方面より増員の歩兵部隊等其の間ひっきりなし。木陰なき大陸の炎天下をほこりと汗にまみれて一週間を歩行せしと、九月か休戦となり、戦地にとどかぬまま二度と草原をもどりし部隊もありと。休戦と共に準備せし物資等又ハイラルへ。工兵隊の兵舎もかへし近所の草原にキャンプせしが、十月上旬粉雪のをとづれ。十日頃新任地東寧となり、トラック行軍にてハイラル出発、任地に着きせしが、兵舎は未完成、又キャンプ。満洲の冬の幕舎、思っただけでも背すじが凍る、春をまつ。日本軍国境と云ふハルハ川、これを中にしての戦い。川がなければほかにめぼしい境界となる様な物一つ見当らぬ。早い到着の場合、一直線に目的の交附所まで直行の時もあり、友軍陣地上空にて空中戦も幾度か見物。ハルハ川向いの台地はソ聯陣地。黒いマッチ箱様なのは、戦車とか。遠く迄見えすぎて無氣味、西日に照し出されし敵味方の様子、各所に焼かれた戦車、敵兵のにほい四方に、戦果を上げし部隊名も有々と。まれにはなだらかな丘、そこは友軍陣地とか、又沼地あり。水は塩分が少々あり、飯には味が悪い。砂地は各所に多し。輸送隊には不都合で苦労した点はわすれられん。到るところ飛行場の様なもの、当時は友軍の空軍が居り、日の丸のついたあの姿、勇ましい。インパールでは一度として見かける事も出来なかった。尚勇ましいのは満鉄の自動車隊、我が隊と同じフォードの新車。一度として故障車など見せなかった。自動車隊の兵隊が舌を巻く有様、見事な働き。ノモンハンに向ふ途中に遊牧民の村、住居(パオ)まんじゅう型の丸い家。竹の骨に毛皮の屋根、真中にイロリ、まわりが居間、中に五、六人の家族。四、五軒でグループとなって同時牛車で移動する様子、グループ共有か、二千頭以上も居るかと思われる茶色な山羊の大群、一面の草原を茶にそめてゆったりと暮し居り。戦などそよ吹く風、番犬を相手に馬にまたがる少年は中折れ帽子、なれし手つきのたづなさばき。特に多大なぎせいの小松原師団、戦車隊等、又は個人で責任をとわれ、事件後ぎせいとなりし人有りしと。他人を責め、我が行動を省みず、次は南方方面にてある作戦を指導し、失敗、終戦となるや、我先にと姿をくらまし、時すぎて本国に立もどり、千行三千里とか、現在行方不明とか。我等兵卒には真相はわからねど、惜しまれし人程先にゆき、あの世とやらでも他人のために同じ様に自分の身を粉にして安んじて居られるのではと。
     ※筆者は1918年(大正7)生まれ。


硫黄島での遺骨収集(菅谷・内田忠次)

2008年06月15日 | 戦後史

 硫黄島の概況。硫黄島は東京の南方約一・二五〇キロメートルにあって、緯度は台湾の台南とほぼ同じである。島は、摺鉢山をかなめとして北東に八・三キロに伸びる最大幅約四・五キロの扇形をなしていて、島の面積は約二二五平方キロメートルである。標高は摺鉢山が一六九メートル、河川湧水は全くない。
 植物はバナナ・ヤシ・パパイヤ・パイナップル等が散見された。動物類は鳥・ねずみ・むかで・さそり・アフリカマイマイなど生息している。が注意をすれば危険は少ない。
 今年は硫黄島が玉砕して三十三年忌にあたる。奇しくも遺骨収集奉仕に参加出来た事に、この上もなき喜びをかみしめています。しかし至って地味な仕事探壕調査である。
 毎日ジャングルを切り拓き濡れて転んで、雨の日も風の日も断崖を登り降りして、今はない戦友の遺骨を探して、歩けばいくらもある壕、要するに断崖のつぶれた処は十の内七、八は人工か自然壕である。戦斗中から壕口と言う壕口は全部爆破された体験を記憶している。
 この様なことから、三十三年経過した今、地形の変化は激しく当底玉砕時の地形との調和はとれず労多くして実りの薄い調査行であった。それでも各調査班の努力により、著名な壕をかなりな数を発見している。
 この度、何よりの戦果は、四年越に調査をしていた南方諸島海軍航空隊本部壕が、(南方空壕と云う)一部開壕となった。この南方空壕の規模の大きいことを紹介しますと、壕内には工作自動車が入っていたことです。しかしわずか一部分の開壕で、壕内は熱気物凄く、焦熱地獄、なかなか温度が下らない。六〇度~六五度、壕の奥には御遺骨がうず高く見える。
 七月十七日収集奉仕期間も切迫したので、奉仕団員全員を集結して収骨作業に取組むことになった。この収骨作業の主力は、遺族会日本青年遺骨収集団の方々、六〇度の熱気の中に突撃する。服装は全学連よろしく、体全体を覆って目だけ出して、軍手は二重にはめ、三人一組、器具は懐中電灯と手箕縄梯子を下げるだけで息苦しい。入って熱気を吸うと息がつまる様だ。御遺骨を■きよせ手箕に入れる。時間は二、三分。それ以上は耐えられない。それ上がるぞ。大きく息がしたいが出来ない。大きく吸うと咽喉を焼くからである。耐えられない。小走りに外の光りの見える処まで上って一息、衣服はびっしょり、正にミイラ取りがミイラになる様だ。
 こんな熱い熱い壕に三十三年間も苦しみ続けられた英霊。内地にお連れしますと念じながら、若い方々に伍して熱い壕に六回入った高齢者は無理だと言われながら、そうせずにはいられない気持である。こうして収骨された御遺骨は一二三柱、うち身元判明六柱。収骨された御遺骨は、宿舎の南にある霊安室から、厚生省事務室阿部団長の先導で、御遺骨捧持者一同静々と進み、「国のしづめ」の幽かな吹奏楽のかなでられる中を司令室に至る。
 今抱いている御遺骨の箱、三十三年前のあの修羅の巷、生と死の境を彷徨したあの凄惨な光景を思う時、慟哭を押えることが出来ない。硫黄島海上自衛隊員の見送りを受けて輸送機に乗り込んだ。長い長い感じの二週間も過ぎ去った。様々の事を思えばなつかしく轟々と轟く爆音とともに離陸したさよなら硫黄島、未収骨の英霊よまた来ます。全員の収骨出来ない事に心を残して帰る。
 奉仕団は二時間十五分で入間基地の帰搭、基地自衛隊、厚生省協会員の方々の出迎えの中を、厚生省差廻しのバスに乗り午後三時三〇分厚生省に向けて出発、四時二〇分厚生省着御遺骨の授受を終り厚生省大臣出席のもと解団式、帰宅したのが七月二十七日午後八時三〇分であった。


私の昭和史(越畑・福島 和)

2008年06月15日 | 戦争体験

 一つのものを見るのにも、人それぞれ見方感じ方が違ってくる。有史以来、色々の出来事の多い昭和の年代も、明治、大正生れの人々の綴った記録は現在、数多く見うけられるが、昭和初期を一番感じやすい、そして大事な成長期として過して来た人々の記録は、余りにも少ないと思われる。あらゆることが統制の名のもとに受動的になってしまっているからかも知れない。ここに昭和三年(1928)生れ、この年代の一人として私の見た、そして歩んで来た昭和史の一部を綴って見ることにします。

 昭和初期不況時代 幼なき日々への郷愁
 私の生れた昭和三年(1928)頃は世の中は大変不況だったようである。人々は今の陛下即位のご大典などを契機に不況の回復を非常に期待していたという。私の父の事業も大正末期から昭和初期にかけての金融恐慌のあおりをまともに受けて、何ら手の下しょうもなく、倒産の憂き目を見てしまった。
 夜、トタン屋根の上をミシミシと渡り歩く音を聞くと、次の朝は必ず長いサーベルを下げ、口髭を生やした巡査に手錠を掛けられ、連れ去られて行く風呂敷包みを背にした泥棒君の姿が見られたような世相であった。そしてドイツの飛行船「ツエッペリン号」がゆったりとした巨体を現わし、人々を驚かせたのもこの頃、昭和四年八月のことで今でも瞼に焼きついている。
 この頃の人々の楽しみは春の花見、何となく哀愁の漂うテントなど、熊谷に住んでいた私達子供にとって嬉しいのはうちわ祭である。ぶっかき氷をかじりながら、ミコシを担いだり、足が棒のようになるまで山車を引廻すことだった。
 昭和十一年(1936)二月二十六日、大雪の降り積った十字路で銃剣を人々に突きつけ、異様な雰囲気の中で検問する光景を見たことがあった二・二六事件の地方での出来事だったのである。
 時に八歳。私の通った熊谷西小学校は高域神社の裏の方で、欅と桜の老木に囲まれた古い校舎である。広い表庭のほかに井戸のある中庭、そして木の太い根が地面を這っている裏庭など、遊びを工夫するのに好都合の環境にあった。庭の東方に古びた尼寺があり黒夜を纒った可愛らしい尼さんが出入りしていた。夕暮になるとグオーンと云う鐘の音が聞こえ、遊びに夢中になっている時でも、急に家が恋しくなり夕焼け空に浮き出されたカラスと共に家路に急いだものである。
 この頃の人々は戦争や政治のことからかけ離れた無難な話題を求める傾向が強かったと云う。相撲の双葉山が七十連勝を安岐の海に阻まれ大騒ぎをしたのが昭和十四年(1939)一月のことであった。小学六年男女別六クラス。中等学校進学者は私のクラスで十五名程度で、入試は口頭試問位だったが何人か落ちたようだ。中学迄の距離は約四粁国防色の制服で足に脚絆を巻いた実戦形の服装で歩いて通った。

 太平洋戦争へ突入 勤労奉仕の日々
 昭和十六年(1941)十二月八日、この日は軍事教練の査閲の日であった。午前六時、足も大地に凍りつくような寒い校庭に銃剣を持ち、査閲官の来るのを待つこと一時間、ようやく乗馬姿の陸軍少佐なる人物が来て「今朝未明米英両国と戦闘状態に入った。諸君も前線の兵士に負けぬよう頑張れ」旨の訓示があり異常な興奮を覚え、これに刺激されて皆一生懸命やったのか最後の選評で「本日の成績は優秀なり」の言葉でしめくくって去って行った最も忘れ得ぬ日の一つとなった。
 この頃から、町の中にもミリタリズムの昂揚を物語る数多くの軍人が見うけられ、総てが軍最優先の時代に突入していったのだ。一、二年の頃はどうにか平常の勉強に勤しむことが出来たが、日曜、夏休み中は農家の手伝い、或は三ヶ尻の陸軍飛行場へ草刈りに行き、家に居た記憶は思い出せない。それが当り前だと思っていたのである。
 地球の丸いのがわかるようなだだっ広い飛行場に各中等学校生徒が二、三米間隔に一列に並び、焼けつくような暑さの中で草刈りを始める。遥か彼方には上官に怒鳴られながら二枚羽根の赤トンボで操縦の猛訓練に励む十五、六歳の少年飛行兵の姿が見受けられた。文字通り総力をあげての戦時態勢に変りつつあった。
 教科の中にも支那語が取り入れられ満州人の先生に教わった。又英語は敵国語なるが故に排除される処であったが校長先生の信念によりよりいっそう勉強したものである。
 昭和十八年(1943)十月学徒出陣壮行会が神宮外苑競技場で行われ、ペンを銃に変え戦場にかり出されて行った。「きけわだつみの声」などの遺稿集にある学徒の悲壮な姿なのである。
 そして昭和十九年(1944)三月学徒通年勤労動員令が実施され、私達も学校を離れ軍需工場に働くことになる。時に三年に進級したばかり。最初は鉢形の駅前を一粁登るとまわりを山で囲まれた処に軍の弾薬庫がありここに動員された。兵隊が数人と、私達と同年配位の、お下げ髪に戦闘帽をかぶり、モンペ姿に防空頭巾を下げた可憐な女子挺身隊員の姿も身うけられた。
 仕事は山の中復にある倉庫へ弾薬箱を台車で運ぶきつい仕事である。汗を異常に流すので配給された食塩のつぶを嘗め、水を飲みながらの作業なのだ。六十粁爆弾を担ぎ、腰をふらふらさせながら、貨車に積み込む級友の姿が目に浮かぶ。ある時は兵隊の目を盗み、空腹のため山へ入り、まだほんの小さい栗などを取って来て、友とわけ合ってり、又体の不調な友を皆でかばい合い、昼寝をさせてやったり、殺伐とした中にもほのぼのとした友情をもやしたものである。
 こうした異常な中でも折にふれ度々巡回して来られては私達の健康を気遣う担任の先生の温かい言葉に、どの位慰められ勇気づけられたか。後に私の母校に長女が進学したことがあったが、今は後援会長の立場にあるこの恩師が或る時全校生徒を前にして、「戦時中、学徒動員された生徒には勉強もろくに教えることが出来ず私の力では何もやってやれず不憫で不憫でならなかった。教師として、大人として、ほんとうに申し訳ないと思っている。」と沈痛な面持ちで語ったと云う。批判力も奪われ、素直に戦時体制の流れるままに従って来た当時の中等学校生徒と教師の姿である。
 このような中で、上級生は陸士へ、そして級友の中からはぼつぼつ少年飛行兵や海軍の甲種予科練などへ志願し、入隊するものが出始め壮行会などが盛んに行われていた。私達在学生の心のうちも何時かは必ず、志願するのだという気概がみなぎっていた。