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埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

吾が「人生の想い出」36 盧溝橋事件勃発、日本鋼管に就職 1989年

2010年07月20日 | 権田本市『吾が人生の想い出』(1989)

 除隊後しばらく家にいたが、農作業では退屈したので東京にいる兄の所に出かけた。神田三倉橋のそばだった。その近くに同年兵がいて良く話し合ったものだった。そんな頃、彼の盧溝橋事件勃発したのである。俄かに世間は戦争機運になってしまった。そのはずである。勃発間もなく召集令状が随分来た。吾々の同年兵にも令状の来た話が次から次と知らされた。しかし北支へ行かない人に多く来て、北支帰りはまだ令状の来た話は聞かれなった。
 こうなると新聞ニュースが大変。まず驚いた事が知らされた。ここで前に一旦打切った初年兵との会話の事が現実になるとは驚くのも無理ない。吾々のいた部隊も参戦して初年兵だった誰々が戦死したなど、早くも二、三人の名前が知らされたからである。自分達にも何時令状が来るか仕事にも手がつかない時期があった。
 しかし一年過ぎても自分達には来なかった。自分でも色々考えねばならないと思い川崎の日本鋼管に警備員として就職した。どのようにして入ったかは思い出せない。
 就職後一年位過ぎたと思う。当時の月給が六十円だったように記憶する。たまたま知り合った人で現場に働いていた人が同じ所で下宿しており話を聞くにつけ、よし自分も応召の事は忘れて働く事を考え、現場に行く事を希望してそのように働きかけた。昭和十四年(1939)六月一日から現場に転職。これで自分も一人前として働きがいありと思った。実は自分の目標があったのだ。自分の生い立ちを考えた時、人には世話にならず二十五才を境に世帯を持つという事に心掛けていた。だが現行時北支派遣ですでに六ケ月もくるってしまったのである。しかも事変中でもあり気の落ちつくはずもない。

   権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 45頁~46頁


吾が「人生の想い出」34 軍隊生活 権田本市 1989年

2010年07月01日 | 権田本市『吾が人生の想い出』(1989)
 中一日は初年兵から三年兵迄で中隊にいた。愈々自分達は北支を後に原隊三島に向って出発。十二年(1937)三月初めはっきりした日に覚えはない。乗船はタンクーという所だったと思う。そして仁の島にて検疫を済ませ内地上陸したと記憶する。数日の航海だったとはいえ、五十年前の自分の頭には色々の事が浮んだ事、今も少しは覚えている。駐屯地を離れて船内にいる中、ふと想い出したように「アー、良かったなあ」。そして何の気遣いもなくなった今、甲板に出て水平線を眺めては戦友と語り合った想い出。遠く彼方の船を見ると波間に消えたり浮かんだりしていた。こうして何日かの後、愈々我が国の島々が目に映り出した頃から急に胸に込み上げて来る何かを感じさせられた。それこそ胸に手をあてずとも次から次と頭に浮かんできて一人涙を流したこと、今も忘れられない想い出である。
 然らばどのような事が感じられたかというと説明する事にする。話は戻って内地を出る時面会の折お話したが、もしかしたら二度と帰れないかも解からない叔母のいった言葉。自分でもその位覚悟していた当時である。それなのに今五体満足で故郷の地に着けるのだ。そして誰とでも話し合える事が出来る、そう思っている。中北支で過ごした自分の行動が又しても次から次と浮かんで来たのである。人間誰しもそうだと思うが「ヤケのヤンパチ」という事に陥り易いのではなかろうか。良くない事とは知りながら自分も一時はそんな事に直面した時期があった。伍長勤務上等兵進級内務班付き。異動した時だった。しかし自分はいい神に拾われたお蔭で当時とすれば最高の地位になれて、今懐かしの原隊三島に凱旋せんという時だった。あー自分は努力が足りなかった、すまない行動した時もあった、などざんげの気持ちを起こさせられた事こそ神聖なる気持ちになれたのではなかろうか。スタートに立って号砲待つ人の気持ちはみんな同じだと思う。恐らく戦友達の気持ちも変りなかったと今改めて推察する次第である。

   権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 44頁~45頁