GO! GO! 嵐山 2

埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

選挙を顧みて 関根昭二 1955年

2009年02月28日 | 報道・論壇

 今度の選挙には考慮せらるべき二つの点があった。その一は教育委員の無投票当選であり、他の一は村議候補者の地区的推薦である。民主主義は住民の地方自治政治への参加として住民による直接選挙の方法を認めている。選挙とは投票を意味する。投票なき選挙は選挙の名に値しない。教育委員の選挙が一部の村議や区長達の話合いによって無投票になったことは、選挙民から選挙権を剥奪したものであり、民主主義に対する重大なる反逆であると共に選挙民に対する最大の侮辱である。選挙民は選挙権を行使することによってのみ政治への意志を表明することができるのである。教育委員に誰が立候補したのか分らず、況んや如何なる教育的識見を有するものであるかも知らずに教育委員が決定されることは、それが如何なる理由によるにせよ甚だ遺憾なる事実と云はざるを得ない。吾等は、選挙のもつ意義と選挙権の重大さを反省する必要があるだろう。
 次に村会議員の選挙について考へさせられたのは多くの候補者が地域的な推薦制をとったことである。二三のがまとまって候補者を出したり、一で、一組で、候補者を出すということが行はれた。従って、そのなり、組なりに居る人は必然的にその候補者を支持することを余儀なくさせられたわけである。教育委員の場合にも都幾川を挟んで川の向う側で一人こちら側で一人立候補者を出すということが決められたが、村議の場合には更に道を境にして、この地区は何候補に投票するというようなことまで決められたようである。こうしたことは本来自由な意志によって行はるべき選挙が干渉と支配とを受けることであり、好ましいこととは云へないであろう。憲法第十五条には「すべて選挙における投票の秘密はこれを侵してはならない。選挙人はその選挙に関し公的にも私的にも責任を問はれない。」ことが明記されている。然し農村の如く隣近所が非常に密接な関係にあり、日常の接触も多いところではなり組なりで決定された候補者に反対するには非常な勇気のいることであり協力しなければ村八分的な目にもあいかねない結果ともなるであろう。かくては主義主張に拘泥【とらはれ】ることなく革新系の候補者を保守系の人が熱心に運動したり、保守系の候補者を革新系の人が夢中になって応援することにもなるのである。村議がの代表者たるの観を挺するのも亦故なきことではない。
 選挙が『選挙人の自由に表明する意志によって』行はれるためには選挙に対する認識をお互いに高めることが必要であろう。それぞれがそれぞれの立場に立って、候補者の人格、識見、政治的情熱を考慮して自己の判断に基いて貴重な一票を投ずるようにしたいものである。候補者を推薦する場合には、その候補者を支持する同志の人達だけが相結束して運動をすべきであろう。
 村議選挙は、村民の政治への直接的な意志表明の手段なるが故に、他の選挙には見られない異常な熱意が漲っていたのは喜ばしいことであったけれども、そこには又行き過ぎもあったのであり、これらの点は、選挙民の自覚と反省により理想的な選挙に近づけたいものである。
     『菅谷村報道』64号 1955年(昭和30)11月20日

※参照:合併後初の菅谷村村会議員、教育委員選挙が行われる 1955年10月


グループ紹介 せせらぎ短歌会 1985年

2009年02月27日 | 報道・グループ紹介

 昭和四十六年(1971)、公民館活動の一つとして、浅見覚堂先生のご指導による嵐山町婦人短歌会が発足、同年十二月九日、会誌第一号が発行されました。
 会員十四名はほとんどが初心者ばかりで名前を出すのは恥ずかしいからと二、三年の間は無記名で出詠していました。月一回の歌会も公私共にお忙しい浅見先生のご都合で、年一、二回ということもありましたが、曲がりなりにも本年(1985)二月、八十五号をもって十五年目に入りました。現在は二十名の会員が、先生を中心として歌会を楽しみながら研さんをつづけております。

  歌は心の自分史
 過去十五年間の歌集をひもといて見ますと、子供たちの受験から社会人となるまでの哀歓、肉親の死別など、その折々の喜びや悲しみが昨日のことのようによみがえってまいります。
 私たちの短歌は上手、下手を問わず心の自分史ではないかと思います。過去十五年間の心の自分史…それをまとめて、十五周年記念としてせせらぎ選集第一号を作る計画をいま進めております。どんなに長いおしゃべりより一首の歌の中から同好の志であればこそ理解し、共感し合えるこのグループです。
 これからの十五年を目指して年齢と共に無感動になり易(やす)い日々の中から、新たな感動を求め合って細く長く続くグループでありたいと願っております。
 最後に、ご不自由な身で長い間歌稿をお寄せくださいました故杉田整さんの御冥福を祈り遺詠を記させていただきます。

  憂き心
   はなれてひとり
  寄りゆきし
   窓には五月の若さ漲(みなぎ)る


  障害の
   心はずみて
  歌会の
   電話につたなき原稿を書く

     『嵐山町報道』328号 1985年(昭和60)2月25日 婦人ページ


私の課題 志賀・緒方洋子 1985年

2009年02月25日 | 報道・婦人のページ
 既刊の『嵐山町報道』を婦人のページを繰ってみると、どのページからもさまざまな分野で活躍中の経験豊かな婦人が語りかけてくる。とりたてて趣味もなく経験も浅い私が登場するには、不釣り合いな場所のように思える。けれど、この機会を生かし、自分自身をみつめ直してみよう、そしてそんな自分を表現してみようと思い直して原稿用紙を手にした。
 私はどんなものの見方、考え方をしているのか、欠点や弱点はどこにあるのか。鏡を見つめる思いで生い立ちから現在までをたどっていくと、失敗談ばかり思い出す。数多い失敗談の中から二つにしぼって見直してみよう。
 一つはもう二十数年前、新米看護婦で初めて一人で夜勤をした時のことである。じっと座っていても不安で見回ってばかり、昼間はなんでもないナースコールのブザーの大きさに驚いたり、緊張の連続だった。
 消灯後の静まりかえった病棟に患者さんの呼び出し電話がかかってきた。反射的に時計を見て「消灯時間が過ぎていますので明朝かけ直してください。」と規則どおりのことを言って電話を切った。翌日その患者さんの部屋に呼ばれ、昨夜の電話は大事な取引の連絡で、取り次いでもらえなかったので大損をしたこと、弁償しろとは言わないが、規則で片付けられないことがあると注意を受けた。
 二つ目は、十年ほど前肢体不自由児施設で勤務していた時で、又も夜勤中のことである。こどもたちが消灯後もラジオをいやホーンで聞きながら寝るので、スイッチを消し忘れ朝までついている。電池が何日ももたない。そこで、消灯後もラジオをつけていた人は、一週間ラジオを取り上げることに決まったそうだ。申し送りでそのことを聞いた私は、さっそく次の朝一人のこどものラジオを預かり少しかわいそうだな、他に方法はないものかなどと思いつつ一週間後ラジオを返した。
 何ヵ月も経てすっかり忘れかけたころ、何気なく看護記録を読んでいたら、ベテランの看護婦さんのサインが目に入った。「…普通の家庭なら、親がそっとスイッチを切るものを……。」あの時のラジオのことだ。二件とも出来事は鮮明に覚えているのに、問題をどう処理したかについてはうやむやである。
 こうして書き出して行くと、いくつか欠点が見えてくる。まず、〝規則〟という言葉に弱いこと、責任感というだけですまされない思いやりのなさ。表面的なものの見方。人まかせで自分からは正面からぶつかろうとしない。
 かくして三十代もなかば過ぎた私に新しい課題が与えられたことになる。
 花を見たら、ただきれいだと思うだけでなく、もっと近より、その花は何色で、どんな花瓶に活けられ、どんな場所に置かれているか。上からも下からもちがう角度からもみて見よう。ここに活けられる前は、どんな自然環境のなかで咲いていたのか。さらに、これを活けた人は何を訴えているのか。
 今からでは手遅れでしょうか。
     『嵐山町報道』328号 1985年(昭和60)2月25日 婦人のページ

講座百人一首から「おもい草」誕生 1983年

2009年02月24日 | 報道・婦人のページ
 「おもい草」その名もゆかしくここに一冊の文集が生まれた。参加したそれぞれの人の想いがこめられて綴られている。
 昭和五十六年(1981)四月嵐山町教育委員会主催の文学講座百人一首の会が持たれて三年目、当初百名を上回った受講生も変遷の後、現在許された状況の中で本当に勉強したい人八十八名を数える熱心なグループである。
 幼い日に意味も分からず口ずさんだ歌を、古典文学に造詣の深い坂戸市立図書館長、飯高節子先生を迎えて、一ヵ月に一度、字句の解釈・文法・本歌・鑑賞まで、お口をついて出る流麗な言葉についノートをとる手も忘れがちになるほど楽しいひとときである。
 昨年秋好きな歌一首としての感想文を書いたがせっかくの機会ということで文集作成となった。文章を書くのは初めてという受講生も多い中で、専門的な理解と独自の見解を記した人、幼い日への郷愁を綴った人、今は訪うべくもない外地体験と重ねた想いなど、人柄をほうふつとさせて味わいが深い。
 百人一首を学ぶことで日本人の美意識・無常観などに対する認識で奥深い古典の勉強の入り口に立った感じである。これからも何らかの形で勉強は続けたいと思っている人は多い。(報道編集委員・中山記)
     『嵐山町報道』315号 1983年(昭和58)7月30日 婦人のページ

冨岡寅吉日記 昭和19年10月(1944) 菅谷村(嵐山町)大蔵

2009年02月22日 | 冨岡寅吉日記

十月一日 日曜 曇
根岸の向ふ河原へ草刈に行った。とてもほきてゐて早く刈れた。篭ザル作くり二ツ。それから外を始めて縦を割る。
まだまだ美味(上手)く割れぬ。七ツ分割って組む。此の位一ツ外を組み上げた
一番上は綾をされるのだ   以上

十月二日 月曜 半晴
卵二二二
体力章特種検定(*)が月田橋の上流において挙行される。自分は身体不健全の為、受検しない。
午后松山へ使に行き、色々と用足しをした
向徳寺より猛宗竹拾本、真竹二束切って来る。
十五夜也
松山で印を求める。八〇銭   以上
*体力章検定の水泳の部。

十月三日 火曜 晴
草刈り。早く刈れた
篭ザル作くり。外へ篭を着せるのだ
午前中終る
金子丑平君がきて二人で熊谷へ戦闘帽を買ひに行った。気に入るのはない。小生は七円七〇銭のやつを買ふ。金子のは拾七円だ。   以上

十月四日 水曜 晴
卵二二三
目かいのそこを組む。朝食して繭かき。とてもよくつくってある。わけなくかける。
明日は学校である。回文を出す。酒(ナオシ*)の配給。一戸五合三円なり。全部で繭は二十二〆位だ。一日中雨模様であった。
*「直し酒」の略。下等のまたは腐りそうになった酒に加工して、普通の酒と同様な香味を持たせたもの(本なおし)と、焼酎に味醂を混ぜたもの(焼酎なおし)があった。

十月五日 木曜 雨
召集日
朝の中は曇天である。
本日は男女とも全員召集日なり
九時開始。それ前、国民体操をした。だいたい出来る。午前中で終る。
午后子供へ傘を持って行ってやる
岡松やで万年筆、筆、インキ等を買ってきた。
目かいつくくり   以上

十月六日 金曜 曇
卵二二四
土手で草刈り。雨が降ってゐる。でも早く刈れた
香煙二箇買ふ。
父と二人で繭の出荷。割合早い方だ
二等で弐拾壱〆六八〇匁であった。良好也。目かいつくり。軍造氏妻の百日であった。
青年団の常会
植木山杉田麻吉、目かい二ツ、菅谷一ツ   以上

十月七日 土曜 雨
今日も雨降りだ
目かいのふちまきとかござるのふちを巻く。昨日、将軍沢の家へかござるを一つやる。
ナキリみを始めた。昼近くなって川の水がふへて橋はづしに行ったが手遅くれであった。昼食後又行く。橋板二枚流された   以上

十月八日 日曜 晴
召集日
昨日の雨は大風と化けた。家へみしみしと迫る。ひびく。
四年生の召集日である。
執銃の教練である
室内で射撃姿勢。
伏射になり校庭で同じ動作をやった。風がひどい。手リウ弾投げ。三一米。午后西山で陣中勤務。歩哨、着眼点多大   以上

十月九日 月曜 晴
父とヒヽラギと言ふ所へ山草刈りに行った。とてもほきてゐる。帰りに香煙を買ふ。
朝食して草刈りかごつくり。並二ツ、小一ツ。午前中に作くり上げた。祖母さん、菅谷へ使に行く。菅谷萩原方へ肥ザル二ツ、五升ダキのカマには入る。甘藷ふかしかご一ツ。直径は一尺とす
目かいづくり   以上

十月十日 火曜 雨
神戸へかごや
祖父さんと二人で神戸小林長吉さんの家へかごやに行った。山道を行ったのでズボンがびっしょりになった。草刈りかごの竹を割る。雨が降ってきて仕事がへ。目かいつくり。二ツつくり上げた。草刈りかご六ツ。腰を起して二ツ廻しを入れた。神戸へかごザル一ツ。夕方雨となる   以上

十月十一日 水曜 晴
召集日
学校へ行きがけに上唐子の床屋へ寄って行く。
執銃の教練をやる。射撃姿勢、照準、撃発をやる。うまくできぬ奴が大変ゐる。午后戦闘各訓教練の話。良くわかる
銃剣術、教官動作。此れはうまくできぬ。暗くなってから帰ってくる   以上

十月十二日 木曜 曇
体力章検定
今日は雨の降りそうな天気だ。男子体力章検定である。予定の時間よりおくれて始った。第一、二、三、四班と分れた。小生は第三班の班長を任ぜらる。大いに張切った
幅二米九四、垂七回、百米16秒、手三七米、重運四〇瓩二十九秒、二〇〇〇米七分五九秒
早く終った
富岡軍造氏御祝儀   以上

十月十三日 金 半晴
草刈りに行って左の手を蜂にサヽれた。いたかった。目かいつくり。午前中二ツつくり上げた。
昼休みに安養寺で大、根、男女青団の常会。観音様の演芸会について
馬糧の配給。麦糠二俵、五円弐拾銭
目かい二ツつくる   以上

十月十四日 土 晴
ゆっくり起きた
朝食して菅谷へ使に行く。足袋の配給。とてもこんだ。でも自分は早く買えた。信用組合の発動機へ寄ったが粉が中々ひけなかった。叔母さんの家で昼を喰った。
午后四時頃帰ってきた。
女子体力章検定   以上

十月十五日 日 晴・初霜
目かいのふちまき二ツ。
朝食後も同じく二ツ。近江の稲刈り。中々刈りづらくなってゐる。四人で十一時頃刈り終った。午休みに忍田寛治方へナキリミ一枚
野村安一方へ目かい一つ。将軍沢加藤竹一二ツ。小林元一郎一ツ。小林方より竹弐円五〇銭

十月十六日 月 晴
体力章検定
体力章行軍検定である。八瓩の物を背負って行った。父は橋掛けである。祖父さん、神戸へかごや。校門八時三五分出発。目的地到着二時間後。皆大元気である。小生は第二班の十六番。帰りは中爪頃より駆足。吉野、沢渡、小生の三名は第一番、三時間三七分。銃剣術をやった 以上

十月十七日 火 雨
全召集
教練召集。四年以上は杭を一本ヅツ持って行く。
集合後、四年、三年は仮標施設*。雨が降り出した。終りて全員銃剣術。二時頃国民校小使室で昼食。雨を止めてゐたが止まぬので先生と話講をした
五時菅谷出発す
祖父さんは神戸へ行ってるす   以上
*談:竹槍で突くための目標。杭に藁をまいたもの。

十月十八日 水 晴
草煙買ひ。
こんにやく玉を掘る。
目かいつくり一人で腰を起す。中々うまく行った。我乍ら感心の至り。祖父さん神戸より帰って来て二人で目かいつくり。根岸大西の甘薯ふかしのかご三升がま直径八寸。四升九寸。五升一尺。二升七寸なり。
目かい一つでる

十月十九日 木 雨・晴
召集日
今朝は雨降り天気となってしまった。はだしで学校に行った。室内で教練。捧銃。体得しろ
野口、野村、小生の三名で明日の慰安会のプログラムを作くる。うまくできた。
射撃姿勢。
午后銃剣術基本。腰を推進させろ
右手、左手について
目かい二つ   以上

十月二十日 金 晴
観音様
神社へ旗たて。
安養寺よりサヲを運ぶ。西と東の別有り。旗も二ツ同じなり。カンザシもしかり。目かい二人で六ツ作くり上げて昼食とす。
床やへ行った。三人待つ。
めんのしをやる
中々むづかしいものだ
出征慰(遺)家族慰安演芸大会。根岸にてやるのだ   以上

十月二十一日 土 晴
召集日
教練召集日。朝の中は雨が降ってゐた。四年以下の召集日だ。
閲兵分列をやった。半日で終り。
新聞配達。新聞代集金。今月より一円五〇銭。金井やで役員会。
守平お客にきた   以上

十月二十二日 日 晴
召集日
教練召集。
中島と二人で各箇戦闘の支度をした。
都畿青年学校がきた。予行演習をした。菅谷もしっかりやらんといかぬぞ
午后は暇をもらって休んでゐた
男の常会
石ケンの配給

十月廿三日 月 晴
召集日
竹やりを持って行った。内田指導員殿に召集令状が参ってしまった。執銃教練。査閲の教練。手榴弾投げ。カヘウシトツ(仮標刺突)
半日で終りにした。
午后こんにゃく玉掘り。甘薯掘り   以上

十月廿四日 火 晴
召集日
教練開始前、五*、研**と一しょに分隊戦闘の手伝ひ。各自自習す
半日で終る。
午后かごみのふちを着ける。四ツ。野口由次郎方へ二ツ。小林元一郎方へも二ツ。繭の毛羽五百三〇匁。班長宅へ。   以上
*青年学校本科五年。
**青年学校研究科。

十月廿五日 水 晴
召集日 警防団
召集日。四年以下なり。
警防団査閲の予行あり。我等は閲兵分列をやり、各学年自習す。分隊戦闘もした。これはむづかしいぞ。午前中。
午后甘薯掘り。二俵。将軍沢へ目かい二ツ。西原の畠耕ひ。
祖父かごや   以上

十月廿六日 木 晴
召集日
内田指導員殿御出征*。終りて帰校す。
教官殿より注意あり。名札をを着ける事。着けぬ者多数おり、体を前ニ支へ約五分間ゐた。
各箇教練をなす。都畿青校と査閲予行をなす。
半日。かごや。甘薯の供出二俵   以上
*志賀内田金作、東部六部隊応召。

十月廿七日 金 雨
朝食後菅谷へ行き、いね、まきの服を買ってきた。配給になった品。計九円九五銭。肥引きザル作り。
篭を着せる四ツ。
ふちまき二ツづつ。
後又始めた。アジロを組み七廻りを廻る。三ツ。   以上

十月廿八日 土 晴
カゴザル 四ツでる
十九年度教練科査閲
昨夜は薬師様であった。今日は待ちに待った査閲である。午前中は大した事はなかった。
十一時、査閲官殿を迎えた。正后、開始。閲兵分列。各箇教練。菅谷は良好。各箇戦闘。研究しろ。銃剣術。剣を出せ。両校とも良く出来た
都畿青校
菅谷々々   以上

十月廿九日 日 晴
十三夜
警防団の査閲。父は三時頃支度をして出て行く。
肥ザル作くり。ザルを作る。今日のはうまくない。
五ツ出来上がり。戸口丑三方へ一ツ四円
金井やで芝居のビラ下*をもらい一人で見に行った。上唐子石川前。馬鹿に下手でもない   以上
*談:芝居の宣伝ポスターの下に付いている割引券・無料券。

十月卅日 月 雨
雨降り天気なり。
今日は目かい作くり。
底を組んでは腰をおこした。六ツ
全部で十四組む
一日中雨が降ってゐる。
小麦粉配給   以上

十月卅一日 火 晴
とてもきりがまいてゐたがよく晴れた。目かいつくり。全部で十五出来上がった。上唐子荒井二ツ。川島淀吉一ツ。山下彌市二ツ。上唐子牛乳配達一ツ。肥ザル一ツ。計六ツ出た。
国民校生徒行軍
床やへ行く。
半ザルを始めた。


冨岡寅吉日記 昭和19年11月(1944) 菅谷村(嵐山町)大蔵

2009年02月21日 | 冨岡寅吉日記

十一月一日 水 晴
煙草配給
今朝より早起き会である。四時三〇分に起床ラッパを吹く。朝は気持ちがよい。父は五時三〇分集合にて飛行場の勤労奉仕。
半ザルを二ツつくる。金井親治方へ一ツ。肥ザルも一ツ
昼休みに煙草の配給。
十五日分。家のは計参円五拾壱銭。
清酒配給二合壱円   以上

十一月 二日 木 晴
今朝はタイコが鳴ってから起きた
ナキリミ作くり。
四枚へふちをつけた。
櫻皮をさす。
午后稲を上げる。近江四〇束しかなかった
向徳寺へ竹切りに行った。五本切る
四寸十六本 五寸十本 六寸六本 七寸四本 八寸三本 九寸二本 尺壱本

十一月三日 金 雨
明治節
昨夜父は甘薯代金を受けに行った。
今日は明治節なり。学校へ行き、式場の支度をす。式が終りて木村先生の入営の話。餞別十銭。内田、小生、小沢の三名は、先生の手伝いをやること
二才より十三才迄菓子の配給*。此れをくばる。
一日中雨降り。かごやをする
*菅谷岡松屋商店で菓子配給実施。1人20銭宛隣組単位に配給。

十一月四日 土 晴
早起き会。時計が止ってゐて三度も起きる騒ぎだ
かござるつくり。
四つ組み上げ篭を割る。また少しあつい所が出来る。以後注意せよ。うまく組めた
一日中かヽって、ふちまきが終らなかった。竹本、保積方へナキリミと半ザル一ツヅつ
目かい。唐子酉蔵方へ一ツ。代金もらない
指導員用地下足袋   以上

十一月五日 日 雨晴
警戒・空襲警報
今朝は雨だ
かござるのふち巻き。
又かござるを始めた。三ツ。三時迄に中をくんだ。今朝鶏が猫に取られ見つかった。赤い方。
役員会で支部長宅へ行ったら空襲警報発令せられ学校へ行く。
向徳寺の御祝儀*を見に行き国民校生徒の演芸を見た。面白い。   以上
*向徳寺住職の息子の結婚式。

十一月六日 月 晴
警戒警報
晴天だ。朝は大風だった。かござるをやる三ツ。
警戒警報発令。
午前中出来上がり
上唐子 台、江野二戸四ツ 新井伊勢松方一ツ目かい二ツ
菅谷家より柿をもらい木に登って取ってきた。唐子へ行き乍ら月田橋よりかござるが下ちた。   以上

十一月七日 火 晴
警戒・空襲警報
四時三〇分に起きた。少しおそい加減だ。
かご箕のふちしばり。
昼食後一ツ、計二ツ作くり上げた
大澤久三宅より竹配給五束切りに行った。一束余計に切った。
警戒警報、空襲警報発令せらる
長島水車へ麦持ちに行った。
杉田勝次郎さんへかごみ二ツ
国民校高二女生 共同作業

十一月八日 水 曇
麦播き。西原へ大麦
菅谷へ使に行く
水車へ押麦持ちに行った。
山王前へも大麦。前畠へも大麦   以上

十一月九日 木 晴
近江の藁を二階へ上げた。
甘薯しまいびつの土さらい。坊の上一号畠の甘藷掘り。まだしめってゐる
祖父さん午前中かごや。
午后農業の手伝ひ
一日中甘藷掘り
よい日であった
受信 守平   以上

十一月十日 金 晴
加藤喜一郎、金子丑平の二君の入営を嵐山駅迄見送くる。大元気で出発した。
甘藷掘り。
朝の中寒い。
夕方も寒い
受信 柴田 北方派遣憲第一二六二三部隊番場隊

十一月十一日 土 曇
父は暁天動員で菅谷校へ。
祖父さんと馬小屋の肥出し。早く終り、坊の上一号へだす
甘藷掘り十時頃終り、二号の畠へ移る。約五分の一掘れた。国民校生徒の□や学級会、向徳寺にある   以上

十一月十二日 日 曇
坊の上二号畑の甘藷掘り。一号より大きな奴がある。
午后は俵に入れるのだ。くもってゐて寒い。
俵に四俵入れた。つるべが二十数箇ある
午前約五十三 つるべ
喜多先生家へきた   以上

十一月十三日 月 晴
木村先生の御入営を嵐山駅迄送くる。大元気で出発せられたり
甘藷掘り。
午后、二号畑が終る
桑の木こぎ。とても良くこげた
父、明日役場へ
実組寄合   以上

十一月十四日 火 晴
甘藷切り機を借りに行く。朝食後、切り始めたが具合がわるい。
そっとおいて昼休みになをして又切る。うまく切れる。坊の上三号の甘藷、里いも掘り、終る。
俵作くり、十二俵。
ケン(献)納壱俵、供出四俵。
明日、父に防衛召集来る   以上

十一月十五日 水 晴
坊の上一号畠の麦播き。午前中に終った
午后、二号畑を整地す。自分は車で桑の木やかずの木を運搬す。畦作くり。
暗くなる迄やっておわした。
今晩はオカマ様なり。大いに張切るべし   以上

十一月十六日 木 雨
昨夜は雨模様だったが、今朝も変りなし。坊の上二号畑の麦まき。雨が降り出した。でもまき終り、三号を始めたが雨となり中止。学校へ遊びに行った
香煙配給

十一月十七日 金 晴
坊の上三号畠の麦播き終りて一号畠の甘藷つるを山に引かける
側の高台の桑の木へも。
昼食して稲上げ。馬で五段。車で十六束、計五十五束なり。(旭)稲刈り
曽利町には稲はない。新田六畝を刈る
国民校生徒勤労奉仕   以上

十一月十八日 土 曇
甘藷ビツにふたをした。根刈りの束を木置場より運ぶ。
新田の稲刈り。関東を刈り、かけ稲とする。六畝刈り切る
午后大田を刈る。
一日中曇ってゐた
寒い
雨ちらつく   以上

十一月十九日 日 晴
昨夜雨が降って来たが今朝は上天気なり
大田のいね刈り
午前中新田の七畝も刈り始めた。
午后刈り切り。日没同時。少し早い
青年団役員会。

十一月廿日 月 晴
今朝より早起き会。五時起床となる
東の空白々となる
田へ堆肥を持って行く。田の作切り
金井栄次郎死ス
午前中曽利町の田が終り午后あいてゐた所を作る
静かなよい日

十一月廿一日 火 晴
曽利町の田へ小麦の種を入れる。肥引き。
午前中は曇り天気だ
午后祖父さんは金井栄一宅の葬式*へ立会ふ
六畝の田の稲上げ。馬で運ぶ。六十四束上げた。   以上
*金井栄次郎の葬式。1864年(元治元)8月生まれ。

十一月廿二日 水 晴
麦播き
曽利町の田の土かけ
一日中
新聞配達   以上

十一月廿三日 木 晴
演習召集 父松山中隊*へ
父は演習召集で松山の中学校へ行く
田の麦播き、作切り
曽利町の土かけ終り
午后稲上げ
馬で五段、車で二回、計七拾束上げる
足袋配給される
*地区特設警備隊。東部第一三三二四部隊。

十一月廿四日 金 晴
父、松山中隊へ 午后
青年団の勤労奉仕である。ハンギョウ様*集合で八時頃開始。
自分は農(野)村阿喜良さんの家
畠の麦播き
田を降りまんがーでふる
稲束三〇束   以上
*藩行様。柱の上部に火防の神、古峯神社のお札が祀ってある。昔は大蔵中を見渡せる程の高さがあったが、現在は側の電線を切断しない等配慮して低くしてある。

十一月廿五日 土 晴・曇
父、松山中隊へ半日 午前中
父は昨日、空襲警報発令せらるや松山の防衛隊へ行き、宿(泊)りとなる。新田六畝の土かけ。大田の麦播き。約四分の一播く。正后父は帰ってきた
大田の稲上げ 計六十一束

十一月廿六日 日 晴
七畝を作る。とてもやりよい
大田の土かけ。
これもやりよい
三畝をふる。振りまんが
一日中よい日だ
まき、蜜柑買ひに行った   以上

十一月廿七日 月 曇・雨
父松山中隊へ 午后
適齢届を出すので金井仲次郎君と二人で役場へ行く。
足袋の配給。とてもよいのがあった。
午后麦播き。七畝の田。空襲警報で父は松山へ行く。
雨降る   以上

十一月廿八日 火 晴
父松山中隊へ
昨日空襲警報発令せられ父は松山へ行く。昨夜の雨も止む
代用セメントの配給十三袋。祖父さんと二人で信用組合迄持ちに行く。
代金拾壱円五銭。富岡健治君へ貳円
カラウスへ粘をつめた。塩と麦糠とを入れる。うまく出来た
父帰ず   以上

十一月廿九日 水 晴
父松山中隊へ
父は未だ帰って来ない
旭の稲の脱穀を始めた。母と二人で脱穀す
午前中に五拾束脱く。
午休みに唐子の床やへ行く。約三時間
三時半、父の部隊へ行ったら父は公用で外出中であった。一日中よい日だった   以上

十一月三十日 木 雨
父松山中隊へ
昨夜八時頃父帰る
十二時前空襲警報となり夜中に出発す
朝食後煙草の配給を配ばる
鎌形の小林孝太郎君の入営御客に行く。一時二〇分発にて出発す。
夜は富岡健治君の宅へお客に行って御馳走になり、又大いに勇んだ   以上


冨岡寅吉日記 昭和19年12月(1944) 菅谷村(嵐山町)大蔵

2009年02月20日 | 冨岡寅吉日記

十二月一日 金 雨
父松山中隊へ
富岡健治君の入営
神社へ五時集合。六時二四分発。皆大元気で出た。母と二人で稲の脱穀をする。昼休みに支部長宅へ。
三十三社拝礼 武運長久 大願成就 山下光太郎君 柴田美作 村田清治 金井吉二 富岡健治 野村英雄君の札を書く
祖父さん、かごやへ。家を廻る   以上

十二月二日 土 晴
父松山中隊へ
朝づくりに稲の脱穀。丁度十束脱穀す。
朝食後も同じ
糯午前中に脱穀し終る
午后祖父さんは篭やの役員会へ出席す
千葉の叔父さん、お客にきて泊る   以上

十二月三日 日 晴
勤労奉仕
早く起きて馬糧切り。
青年学校の勤労奉仕で嵐山駅に行き貨車押し。杭木を運ぶ。中々空が重ひ。トロでペーシ*を運搬す。月ノ輪の神社の前の方でやる仕事は骨が折れない。午后空襲警報発令せらる   以上
*談:レールをつなぐ金属板。ボルトで締める穴があいている。

十二月四日 月 晴
父帰る
父は昨夜泊りにきて今朝早立ち
糯を乾物に出す。三十四枚むしろに出た。旭を脱穀す。少し
午后稲上げ。旭十九束、関東二十五束を上げて掛稲材料を家へ持って来る。父召集解除となり車へ。一日中行った。

十二月五日 火 晴
朝作りに熊手をかく。三本。朝食後も同じ。父は稲の脱穀をす。祖父さん、小川へ鋸持ちに行き、半日。
遠山水車の叔父さん、よくないので、むかいがきてすぐ行く。小生が稲の脱穀をやる。熊手八本。糯の藁をまるく。
馬糧切り   以上
水車叔父*死す
*兼子六平。筆者の父の兄。

十二月六日 水 晴
熊手を作くる
父は昨夜水車へ泊った
今日は一日中熊手作くり。十一時頃迄、柄をはめた。それから祖父さんの手伝ひをやる
夜十九本曲げた。熊手六本出る   以上

十二月七日 木 晴
遠山水車の叔父葬式 父松山中隊
今朝も熊手作くり。
四本富岡吉造へ三本
岡本駒吉、岡本将夫、金子文太郎、各二本ヅツ。植木山へ二本、下寺へ一本。野村豊治三本、富岡周次郎二本。計十七本出る
車の叔父さんの葬式へ父母で行く。
夜十二本曲げた
父、昨夜松山中隊へ   以上
夜空襲警報あり

十二月八日 金 晴
大詔奉戴日 父松山中隊
今朝も熊手作りをした。朝食後稲の脱穀、母と二人でやる。祖父さんは熊手作くり。唐子へ二本(瀧の上大工)、神戸三本(和三方)、植木山二本(杉田勝)、将軍沢一本(忍田源太)、一本大蔵(山下歌吉)、金井や二本、計十一本。
一日中稲の脱穀をする   以上

十二月九日 土 晴
朝づくりに熊手を四本かき上げた
柴田方より二名、助にきて呉れた。脱穀機を持参で半日ずいぶん扱けた。競争でやるので能率が上がり、小生一人では二日でも終らぬ仕事でも三時前に終って籾をふるってしまつた。くまで二本
十二月九日~十一日菅谷村農休。

十二月十日 日 晴
父外出
青年団分会にて三十三社拝礼を行ふ
青校生徒は北口へ向ふ。十一時三〇分頃終りとなる。
昼食後は友達と遊ぶ。国民学校へ芸能発表会*を見に行った
父外出できた
熊手9本   以上
*有馬国民学校児童参加。

十二月十一日 月 晴
父帰る 熊手二本
青年学校の勤労奉仕で石橋穴八幡へ行った
高坂青校と一しょである。菅谷青校は六名しか来ない。小沢、奥平(本二)、小生の三名でトロ押し。具合がよかったが、途中で脱線したりした
長島軍曹殿も御見えになった。小生、半日で帰ってしまった   以上

十二月十二日 火 晴
父、夜 松山中隊へ
熊手六本
朝食後熊手作り
六本。祖父さんは竹切り。半日、神戸の方へお客に行った。
小生は唐子の床やへ行く。学校の方へも寄ってきた。
本日も農休である   以上

十二月十三日 水 晴
父松山中隊へ
熊手二本 根岸公男へ壱本。
昨夜もサイレンが幾度も鳴った。空襲警報もあり。父は松山へ行く。農(野)村豊治君の家で百人一首を始めた所を警戒警報となる
今日も熊手作り。四本つくり上げた。十一本曲げる。
昼休みに隣組常会あり。
根岸へ竹持ちに行ったが道が悪く、車も重かった
竹代

十二月十四日 木 晴
熊手十一本
青校の勤労奉仕。
石橋穴八幡集合。九時に仕事を始めた
トロ押し。午前六台、午后七台。最終のトロは途中で脱線してしまった
明日の朝は早起き会なり。   以上

十二月十五日 金 曇
熊手六本
早起会出席す。五名しかだ
くまで作くり
祖父さんは菅谷浜野宅の葬式*へ行く
一人でくまで作くり。父帰る。軍服を渡された   以上
*浜野小十、1898年(明治31)1月生まれ。

十二月十六日 土 半晴
くまで三本
くまで作くり四本。富岡茂八宅へ二本、植木山へ一本
一日中に二十三本こしらへ、それだけ曲げた
小生の身体のかゆい原因はわかった
大戦果なり。しらみ六十五匹   以上

十二月十七日 日 半晴
くまで二十二本
ゆっくり起きた。今日も熊手作くり
朝作くりより買いにきた女の口あけで一日中くまで買ひが絶えなかった。神戸へ四本、大蔵へ十四本。根岸三本、植木山一本、計二十二本出た   以上

十二月十八日 月 晴
くまで二本
くまでつくり。一日中
将軍沢忍田智治、菅谷をけやへ一本。向徳寺へ竹切りに行き、くも(ま)での柄竹六〇本買ふ。一本二〇銭、計竹代拾五円

十二月十九日 火 晴
受信 内田清臣
くまで七本
午前中くまで作くり
午后米摺り
山下伝次郎さんの機械でやる。十五俵三斗、夕方迄かヽった
千葉県東葛飾郡富勢村東部第八十三部隊星崎隊内田清臣

十二月廿日 水 晴
くまで二本
青年学校で石橋の八幡様側の道路奉仕である。寒い。トロ押し。
今日は字の夜警の番である。午前中に警戒警報あり。午后トロの具合甚だ悪し
貯金を積む
故陸軍曹長千野多孝義、海軍兵曹西澤茂久、陸軍兵長杉田才次、陸軍上等兵大野真平、陸軍上等兵中島正治、陸軍一等兵内田良作合同菅谷村葬執行。

十二月廿一日 木 晴
くまで四本
昨夜は夜警なり
柴田方が宿で色々馳走になる。十時前警報あり。三時迄起きてゐた。
今日は祖父さんは鎌形へ竹切りに行き半日。小林元一郎方より竹三束持ってくる   以上

十二月廿二日 金 晴
新聞配達早くやる
くまで作くり十六本
将軍沢加藤大吉二本、鯨井鉄□三本。〃軍次二本、金子利一二本、福島賢治二本、〃〃金二本、拾三本。神戸二本、根岸藤太郎一本、計十六本
父松山中隊へ   以上

十二月廿三日 土 晴
くまで貳本
遠山水車へ仕事に行く。朝早く出、途中は実に寒い
竹割り。四、五、六、寸各三束。七寸一束を切り、橋の向う迄出す
夜青年団の常会。青少年団の視査について   以上

十二月廿四日 日 晴
くまで五本
くまでつくり
祖父さんは役員の用で出る。
小生はくまでつくり。竹ごしらへ。午前中四本曲げた
午后役員会で支部宅へ行き日の没する迄かゝった
視査二十九日
米穀検査拾参俵八升全部参等

十二月廿五日 月 晴
午前中くまでつくり。祖父さんと二人で
午后役場へ行った。学校へも寄り先生と色々話をしてきた。根岸せき先生に腕章のへりをぬってもらい、下田先生に伝令と書いてもらう。たまにはのんびりとやるのもよい。久留田軍曹殿も御見えになる。吉野、根岸セキ先生と色々話した

十二月廿六日 火 晴
祖父さんと二人で唐子を廻り菅谷の叔母の家へ薪を持って行く。
千手堂高橋さんより竹参束買ふ。廿壱円
鎌形小久保、杉田庄次郎竹貳束十七円、計三十八円。
千手堂でナタを紛失する

十二月廿七日 水 晴
くまで八本
祖父さん、神戸の方へ山を見つけに行き、半日
小生くまでつくり。四本。根岸梅松方へ二本。小林嘉吉二本、唐子石川熊治さん二本、野村豊吉さん二本、計八本
父山仕事   以上

十二月廿八日 木 晴
くまで五本 下ヲ用フ
朝食後菅谷の方へ使に行く。人の喜ぶ顔は何時見ても気持ちよし。目かいつくり
夕方迄ニ八ツ作くり上げ上唐子二ツ、当所斉藤三郎一ツ
今日の空襲の時、敵機良く見えた。

十二月廿九日 金 晴
くまで五本
青少年団の視査がある
大蔵班は河原より砂利運搬をやる
午前中四回。休みに区長殿の家*で色々と馳走になる。
午后も同じ仕事だが視査官殿は来ない   以上
*大蔵区長金井廣吉宅。

十二月卅日 土 晴
くまで六本。
くまで作くり。
将軍沢へ二本、竹本や一本、根岸三本。
目かい作くり。大目かい六ツ、小目かい二ツ。
大沢久三一ツ、野村豊吉一ツ、植木山一ツ   以上
くまで百四壱本

十二月卅一日 日 晴
くまで二本
朝食してすぐ上唐子の床やへ行く
だいぶこみ合ってゐた。十時小生の番がきた。向徳寺より竹十三束、孟宗十四本買ふ、七拾四円
目かい。金井廣吉方、斉藤とら方一ツづつ


草の根フォーラム 議会傍聴はおもしろい 1996年

2009年02月16日 | 報道・草の根フォーラム

 6月中旬に行われた【嵐山町】定例第2回町議会の傍聴にこられた皆さんから、感想をいただきました。

   モニターテレビの同時放映にびっくり 志賀・高橋芳子
 数年来、新聞の切抜学習をしている者ですが、テレビ、ラジオ等でよく議会の放送を見ていました。でも一番身近な町議会の傍聴は初めてでした。
 新庁舎での議会傍聴の機会を得て、胸おどらせながら行きましたがよく聞こえませんでした。
 帰るとき、玄関ホールを通ったら、議会の様子がホールのモニターテレビで、同時放映されているのを見てびっくり致しました。

   初めての傍聴席 志賀・米山澄子
 六月十三日私たち新聞を読む会のグループ五名は新築の香りゆかしい庁舎に六月議会の傍聴にまいりました。まず議場の広さにびっくり、天井がとても高いのが印象的でした。町長さんはじめ総員に近い議員さん、大勢の役場職員さん方が一堂に会した議会は私には初めてでしたので、改めてこの方々が町政を担っていらっしゃるのだと敬意を表したい気持でした。同時に町民の声もしっかり受けとめてと願わずにはいられませんでした。一段と高い席の議長さんの進行のもと会議は熱心に討議されていられる様でしたが、残念なことに傍聴席には内容が断片的にしか聞こえず途中退席の止むなきに至りました。何とか善処していただいて次の機会にはすっきりした気持でぼうしょうしたいと思います。

   一般質問が少ないのでは 志賀・鞍貫ミキ
 新しい庁舎ができ、町議会議場も今までとは比べものにならない立派さです。
 私は昨年(1995)の九月議会まで議員として旧庁舎議場で働かせていただきました。町議会傍聴は昨年十二月と今年の三月議会そして今回の六月議会です。
 新しい議場で一人の町民の立場で傍聴を致しましたが、一般質問をされた方が議員定数二十名中六名と少ないのに驚きました。もっと多くの議員さんに質問に立っていただき、町を活性化するための論戦を展開し、町民の利益を守り町民が住んでいることによろこびを実感できるよう新しい視点に立った議会内容であって欲しいと思いました。
 いま「住専問題」や消費税率アップで町民としては町の対応が大きな関心事となっています。
 町も借金財政で苦しい状況なのでしょうが国や県からの補助金のカットや、福祉行政の後退などで町政に責任が転嫁されようとしている時に、町の姿勢が国や県の言いなりになっているようでは余りにも悲し過ぎます。
 弱い立場の町民を守ってこそ自治体の役割が果せるのではないでしょうか。
 消費税率が3%から来年(1997)4月には5%になることについて国民の八割が反対している(毎日新聞世論調査)にもかかわらず強行されようとしています。そのような国の決めたことであろうとも、嵐山町として町民本位の行政を行う姿勢を示してほしいと思っている多くの町民の声に背をむけるような執行部の答弁にはいささか失望しました。
 今後は、福祉や教育、暮らしや營業、環境問題など町民の切実な願いの声の反映を議会傍聴できることを楽しみにしています。
 次に傍聴席で感じたことは、せっかくの熱心な対論がハッキリ聴きとれなかったことです。そのことは他の傍聴者の方も同じ思いをされたことなので、あるいは設計上に問題があるのではと話しながら懸命に聴く努力をしたので本当に疲れました。
 九月議会には改善されたところで安心して傍聴できることを願っています。

   中間説明がほしい答弁 志賀・武谷敏子
http://satoyamanokai.blog.ocn.ne.jp/takeya/2009/02/1996_3356.html

     『嵐山町報道』458号 1996年(平成8)8月1日


嵐山町報道400号記念・編集委員からのメッセージ 1991年

2009年02月14日 | 報道

   -報道四〇〇号を記念して-
          編集委員からのメッセージ
 嵐山町の報道、その特色は、編集委員の企画による特集記事にあります。
 報道の歴史は、昭和25年(1950)の第一号発行から現在に至るまでの四十一年、その時代時代の背景を、紙面に反映し続け、取材等、皆様のご協力などにより今回、四百号を迎えることが出来ました。
 そこで現在の編集員から四百号を記念するとともに、この場をおかりして、皆さんへのメッセージをお届けします。

   私たちは、こんなことをしています(武谷敏子)
   http://satoyamanokai.blog.ocn.ne.jp/takeya/2009/02/1991_051d.html

   報道の使命をたいせつに
 最近、地方の時代を迎えて多くの市町村がモニターを設置して広聴活動を実施しようとしていますが、嵐山町「報道」は報道委員会が編集発行し当初より広聴活動による住民参加の「報道」を発行し四百号となりました。このことは嵐山町の誇りと思います。町民の皆様をはじめ、町当局、編集に携わってこられた諸先輩に心から敬意を表します。
 前会長が言われた「報道」の使命とは、知らせる 気づかせる そして行動をおこさせる をモットーに努力していきたいと思います。皆様の声を「報道」に生かせるよう、忌たんのないご意見をお待ちします。(藤井俊子)

   新鮮な心と感動で
 「報道は、そのまま町の歴史である。」(主旨)-委員委嘱のときの、町長の言葉です。
 町の歩みを残しつつ紙面を通し、読者との対話が生まれるよう編集会議ではあらゆる角度からの提言に花が咲きます。いざ原稿依頼、取材にと携わらせていただくとき、私は自分に新鮮な心と感動がなくてはと、感じました。
 読まれ、親しまれることを目指し、報道は町民のためにあることを、忘れずに、未熟ですが、頑張ってまいります。(小澤磨里)

   みんなで考えてほしい
 創設され丸二年経った「草の根フォーラム」。報道の読者のかたにはもうおなじみのページと思いますが、投稿の少ないのがとても残念です。町おこしのこと、福祉のこと、教育のことそして環境問題から国際交流、平和問題まで、素晴らしい意見を持っているかたがたによく出会います。
 この町を少しでも住み良くするために、どうか投稿して下さい。みんなで考えながら、自分たちの町をより良い町にしていきましょう。せっかくの町民のページをたいせつに生かしていくお手伝いをしたいと考えています。(石原紀子)

   これからの歴史を刻むために
 今年は自分の一番苦手な文を書くことに挑戦することになりました。
 何度もお断わりしようと考え、気の重いまま報道委員会に出席したのですが、委員さんの知恵袋の大きさと、一人ひとりが自分の意見や町のこと、そして報道の取り組みについて真剣に話し合う姿に、後からついて行き、勉強させてもらいたいと思いました。
 報道四百号は嵐山町の歴史を刻み、多くのかたのお力添えで築き上げられたものです。
 今後も報道を通し、嵐山町の様子を少しでも身近にお知らせできるよう頑張りたいと思います。(大工原三千代)
     『嵐山町報道』400号 1991年(平成3)10月1日


嵐山町長退任挨拶 関根茂章 1984年

2009年02月11日 | 報道・挨拶(就・退任・年頭等)・施政方針

 初秋の候、皆様には益々ご清祥のこととおよろこび申上げます。
 さて、私は九月八日任期を満了し、盟友の新町長に今後を託し、嵐山町長の職を退きました。顧みますと、昭和三十九年(1964)、「愛」と「道義」を基調とした文化的田園都市を創造することをうったえて初当選いたしました。三十九歳になったばかりでした。
 以来、五期二十年の長きにわたり、皆様の絶大なるご支援をたまわり、嵐山町の首長として、その重責をはたすため、己(おのれ)をつくして働かせていただきました。ちょうど日本の経済・社会の飛躍的発展期から、今日の低成長期へと激動と不透明な時代でありました。
 この間、国・県・町・広域の行政機関や議会の関係者の皆さん、また多数の町民の皆さんからあたたかい絶大なご支援とご協力をたまわりました。皆さんのご支援あればこそ、長期にわたる職責をはたすことが出来たのでございまして、心から感謝を申し上げる次第でございます。本当にありがとうございました。
 わが嵐山町は、すばらしい自然と幾多の歴史遺産にめぐまれ、常に私どもの誇りとする、ふるさとでございます。このふるさとは幾多無名の先人たちが、営々として心血を注いで築いてきたものであります。治乱と興亡の歴史を生きぬいて、今日の嵐山町があるわけでございます。二十年、それは長い歴史の一点にすぎないかも知れませんが、私は無上の光栄と充実感を覚える次第でございます。
 特に日本の発展期に際会し、その姿の中に文明の衰亡の兆(きざし)を感じとった私は、次のことを考えました。立派な花や実を得るためには眼には見えない、地下部の根を強靱にしなければならない。ましてや根を腐らしては絶対にいけない。そして更に、国家、社会の病気はその主体者である人間が、「偽」(うそ・いつわり)「私」(エゴ)「放」(ルール違反)「奢」(心身のおごり)から始まる。これを「四患」と言い、これを発生させないようつとめること、発生したら除去することであると中国の荀悦という昔の人(荀の十三世の子孫)が教えています。
 これらのことを肝に銘じて、命がけで町政を担当させていただきました。そして幾多の美しい心、あたたかい心、きびしい心、大きい心を知ることが出来ました。感謝の気持でいっぱいでございます。また、幾つも未解決の問題を残していて申し訳なく存じています。しかし、先輩の播いたものを収穫したり、自分の播いたものを後輩が管理し、収穫することは、行政の鉄則でございますので、ご理解をたまわりたいと存じます。
 新町長は、行政の大きな流れを継承して下さるとともに、二十一世紀へ向けて、活力ある新しい展開をなさるものと、私は願いをこめ期待をいたしておるところでございます。
 何卒、新町長に対し、一層のご支援を賜わりますよう、心からお願いする次第でございます。
 私は今、任を終え、高崎達蔵・青木義夫両先輩の墓前に謹んで報告を申しあげたところでございます。
 今後は野にあって、ささやかながら一灯を点じ、一隅を照らす精進をかさね、いささかなりと皆様の御厚情に報いたい念じておるところでございます。
 最後に、嵐山町の限りない発展と、平和、町民皆様の御多幸を切にお祈りして退任のあいさつにかえさせていただきます。

   関根茂章町長二十年の歴史
 昭和39年(1964)9月 菅谷村長に初当選
 昭和40年度 鎌形八幡橋落成 670万円
 昭和42年度 町制施行(4月)、嵐山町となる(世帯2091戸、人口10148人)
       七郷中体育館落成(3月)
 昭和43年度 菅谷中プール竣工(7月)
       嵐山町誌発行(8月)
 昭和44年度 七郷中プール竣工(7月)
 昭和45年度 中央公民館落成(4月) 4450万円
 昭和46年度 地産団地分譲始まる(9月)
       菅谷小新増築工事落成(3月) 1億3780万円
 昭和47年度 消防組合第一分署開署
       槻川橋竣工 6500万円
       国立婦人教育会館嵐山町に決定(3月)
 昭和48年度 菅谷館跡国指定史跡となる
       全町水道工事完成(5月) 2億7805万円
       町立幼稚園完成(12月) 3774万円
       七郷小改築工事落成(3月) 1億7065万円
 昭和49年度 菅谷小プール竣工(7月)
 昭和50年度 菅谷中増築校舎完成(5月)
       県立歴史資料館完成(7月)
       七郷小学校校庭完成 自衛隊の部隊の施工による
 昭和51年度 県立嵐山郷開園
 昭和52年度 国道254号嵐山バイパス開通
       国立婦人教育会館開館(11月)
 昭和53年度 鎌形小校舎完成 6050万円
 昭和54年度 志賀小開校 3億9900万円
 昭和55年度 町民憲章を制定
       関越自動車道(東松山~前橋)開通 嵐山区間5.9㎞
       菅谷小校舎・調理室完成 5億3000万円
 昭和56年度 町民文化大学開講
 昭和57年度 駅東土地区画整理組合設立
       嵐山南部土地改良区設立
       鎌形・二瀬グランド完成
 昭和58年度 日赤旧社屋鎌形小へ移転
       嵐山町史発行
 昭和59年度 玉ノ岡中開校 5億3750万円

     『嵐山町報道』324号 1984年(昭和59)10月5日


菅谷村長退任の挨拶 青木義夫 1964年

2009年02月10日 | 報道・挨拶(就・退任・年頭等)・施政方針
 去る九月八日をもって私の村長としての任期も終りました。任期中村民の皆様から賜わりました御懇情に対し、報道を通じ心から厚く御礼申上げます。
 顧みますれば私は昭和二十五年(1950)、旧七郷村議会議員に当選、昭和二十六年(1951)議長に選ばれ、更に昭和二十九年(1954)三月七郷村長に当選、その任期半ばに町村合併により退職、新村菅谷村誕生と共に参与・助役として昭和三十一年(1956)九月高崎村長の後を受けて二代目菅谷村長に就任、以来二期八年の間皆様の絶大な御支援御協力によりここに任期を完了することが出来ました。
 過去十余年を振り返って見ますと町村合併の仕事は私の一生にとって最も困難な大きな事業でありました。
 当時の七郷村に於ては大小五十数回の話し合いを重ね漸く新村が誕生した訳でありますが、当時を追憶すると誠に感慨無量のものがあり、村民皆様の御協力下さったようすが今も尚脳裏に深くきざみ込まれて忘れようとして忘れ得ない次第であります。
 菅谷村長就任後の八ヶ年間は、合併後間もなく、合併のためのいろいろのひずみや傷跡も残り、又地方自治制度を始め、教育・財政・税制・消防・福祉等各般の制度の改廃等が次々に行われ、更に又急激なる経済成長等による国民生活の著しい向上等実に目まぐるしい八ヶ年でありました。
 この間の思出も極めて多いのでありますが、昨秋の交通事故は私の心の中に大きな傷跡として残るものと信じます。
 又仕事の面につきましても中学校の新築増築、役場庁舎の新築、自動車ポンプの購入、県道の舗装改修、バス開通、大蔵橋・谷川橋・精進橋の架橋、乳牛の貸付制度創設、市乳主産地形成事業、新農村建設事業、小団地開発事業、農業構造改善事業、工場誘致、ゴルフ場開設、水道経営、し尿処理場計画、明星福祉基金制度の創設、敬老年金制度の創設、国民健康保険の運営等々の事業も忘れ得ない思出の仕事でありました。
 今ここに村長の職を去るに当り、静かに八ヶ年を振り返り、これらの事業遂行に当り、直接間接に御協力下さった皆様の御厚意に対し、感謝の気持で一ぱいで感慨胸に迫るものを感ずる次第であります。
 本村が今日の発展を(昭和三十一年度の村予算に比し、昭和三十九年度は約五倍の一億円余に増加しています)見ましたことは村民皆様の御協力のお蔭でありますことは申すまでもありませんが、前村長高崎さんの霊が私及び本村に対し、お加護下さった賜であると存じ、高崎さんの霊に対し改めて心から感謝し、御冥福を祈ると共に今後も更に一層本村発展のため御守り下さるようお願する次第であります。
 菅谷村は今後町制施行を始め幾多の事業が山積していますので村民多数の方々から尚一期勤め新村建設の仕上げをするようにとの有りがたい御声援御支援の御要望もありましたが、昨秋の交通事故に対する責任を痛感し、私の政治的良心が許しませんし、余り長く御厚意に甘えることは適当でなく、又躍進途上にある菅谷村のよりよい発展を期するためにも後進に道を譲ることがよいと信じ御声援下さった皆様の御厚意に逆って申訳ありませんが、私の心中御賢察の上御許し戴きたいと存じます。
 私は未だ還暦に達せず私の人生はこれからであると存じますので、今後大いに社会の為郷土の為に奉仕せねば相済まないと存じています。今後は一村民として二十二年の教員生活と議員・村長十五年の人生体験に反省を加え之を生かして明るい村造りに御協力申上げ、皆様の御厚意に報いたい所存であります。
 何とぞ旧に倍して御厚誼を賜わりますよう御願いいたします。
 幸に後任村長として関根茂章氏が選ばれましたが、関根新村長は私の熊農の後輩であり、又埼玉県社会教育委員としても後輩であり、私の信頼して選任した教育委員で然も村長・教育委員長としての二人のつながりは特別のものがあると存じます。私の任期第一期は新村菅谷村が産声をあげた当時の言わば乳児期で、第二期は幼児期であったと存じます。関根新村長の若い情熱と高い教養とによって、今後少年期・青年期を健全に育成し、立派な菅谷村に仕上げて戴けると確信いたします。村民の皆様、私に寄せられたと同様、関根新村長に御協力下さるよう御願いいたします。
 村長満期退任に当り、謹んで村民皆様に重ねて厚く御礼申上げると共に今後愈々御健勝御幸福でありますよう御祈りいたし、退任の御挨拶といたします。 (三九・九・九記す)
     『菅谷村報道』155号 1964年(昭和39)10月10日

小林秀吉『随筆 海と洋』(1982年) 目次

2009年02月06日 | 自分史

   『海と洋』1982年(昭和57)8月20日 編集・発行:小林秀吉

   前書き
 現在の私の生活圏は現住所東松山市を中心にした近い町村で、どんな意味でも市を代表する人間でも、勿論比企郡、埼玉県を代表する人物でもない。又、そうありたいともしない無名の一市民である。だから人にこうしろとか自分のようにしろとか、倫理規範を垂れる意図も皆無である。更に私如き無名人の自叙伝は、一種の精神的マスターベーションである事も承知し乍ら、敢えてペンを取ったのは、死が近づいた事を感覚する本能的衝動によるものと自覚している。従って之は〝死出の旅〟への御挨拶でもあるので、お世話になった内外各層有縁の方々にだけ差し上げる意図で計画し、そして出版した。
 プロの物書きでない私が、忙しい暮しの合間に三年がかりで纏めたものであるから、内容表現法共稚拙である。又ナンフイクションであるから、自分の恥部を隠蔽する心算はないが、他人のプライバシーを侵害する権利はないので、その条件下で記述した。若し事実と相異する内容があるなら、それは記憶力の衰退と資料蒐集不足に由因するもので、絶対に故意図的でない事をご了承いただきたい。【以下略】

   目次
 第一話                3
     ジョセフィンと宇良      3
 第二話                13
     自由作文           16
 第三話                22
     Red School-一教室学校    27
 第四話                33
     お祝い   小林清子     36
     鍋糞とKKK          37
 第五話                42
     雲雀の巣           45
     手紙   手塚広次      46
     ゼネ拾い業          51
     秀   鈴木ヤス       57
 第六話                58
     白いスーツ   荒井さと   64
     初任給五十五円をめざした頃   高橋子之吉  65
     古稀有情   屋代広司    66
     レッドウドの吊し柿      67
     手紙   レッドウド市長   75
 第七話                77
     神詣で   戸井田さだ    85
     古稀を祝う   市原弥太郎  86
     二秒の小林先生   玉木宏  86
     小林さん古稀お目出度う   穴沢養一  88
     活動写真           89
     ウエットバック        93
 第八話                94
     告別の言葉          95
     哲っあんの手紙       100
 第九話               105
     パリのわる         110
     第三砂町小学校在勤の頃   中里英夫  120
 第十話               122
     「あれた生活」の話   (故)関根考三  126
     本間権右衛門家の由来   藤田覚典  128
     ビー・ジーのぼやき     129
     公人が見た野人の私     136
     信念を通す大先輩   堀口真平  136
     CROSS家との出会い   木村嘉正  137
     哲人小林先生とのこと   小久保太郎  138
     足跡をさらに大きく   小沢禄郎  139
     アメリカでの出合い   関根茂章  140
     在野の文化人   芝崎亨  142
     「海と洋」の出版によせて   山口敏夫  143
 第十一話              145
     サムライのHOBO   ジョウ 150
 第十二話              159
     一枚の通知簿から   大滝利尚  163
     バイブル床屋        164
 第十三話              178
     ATTIC-屋根裏部屋-の一夜  178
     サカクラ          185
 第十四話              186
     テキサスのお茶       193
     けつ曲がりの弁       202
     小林のおじさん   甲野妙子  203
     ご挨拶   内藤あさえ   204
     お祝い   本間幸子    205
     ぼくのおじいちゃん   本間一樹  206
     ぼくのおじいちゃん   本間希樹  207
     弟の古稀に寄せて   村田ふみ  208
     弟について一言   吉田ヨネ  208
 第十五話                209
     小林先生   根岸一美   215
     我武者羅   甲斐弥    216
     先生との今昔   酒井友二  217
     ロウティション       218
     お祝い   大西俊治    229
 第十六話              230
     (故)田辺慶治先生をしのんで  232
     権右衛門家   本間靖   240
 第十七話              241
     吹雪の夜          247
     黄禍            252
 第十八話              253
     デンマークのハナ子     256
     オーデンス市長からの祝辞  267
     ハナ子からの手紙      273
 第十九話              275
     ピープル ツウ ピープル  281
     小林君に対する友情の短信   ジェンタイル  287
     小林君と私   瀬川泰次郎  288
     ホウム スティング     290
     トーケルさん   福田状水  291
     ホスト ファミリーとして   深沢秋雄  291
     小林先生と我が家   伊藤五郎  292
     小林先生と私との出合い   小林茂夫  293
     家庭滞在   大川浩一郎  295
     家庭滞在について   小沢博  296
     東秩父教室満八年を迎えて   鶴川次作  296
     家に泊まったデンマーク人   馬橋登志子  298
 第二十話              299
     小さな飛行機の旅      302
     自ら教える事に意義を知る  305
     私と英語   青木啓子   306
     小林英語塾   岩渕渟   307
     海外勤務   宮沢信一   307
     It's up to you.   嶋宜一郎  309
     Tur-chan(ターチャン)   根岸武美  311
     小川塾から都幾川塾へ   大沢正美  311
     思い出   清水俊男    312
     先生のハンカチ   関口正徳  313
     シャーリー校長先生   田端裕之  314
     前科六犯   富田達彦   315
 第二十一話             316
     小林先輩と私   塚越正佳  322
     もう一人の小林君   山崎秀雄  324
     小林君とクラス会   柳下良二  325
     P・T・P   林隆而      327
     小林先生との出合い   劉濶才  328
     祝辞   胡濤静之        329
 第二十二話                330
     象先生との思い出   小林清作  330
     相川の小林先生   安岡俊夫   331
     秀吉先生   安岡克巳      332
     私の観た小林君   山本洋一   337
     非コールド ビスケット      338
     お祝い   M.サッチャー    341
     〝所詮は借物〟では済まぬ     342
     雑記録              345
     言いてえ放題・やりてえ放題    349
     村長・町長と市長         366
     弔辞   桑山良演        368
 第二十三話                369
     ゼネの話             377
     あい。おう。ゆう         380
     英語仲間             383
     英語の道   青木節子      383
     英会話サークルの思い出   江野祐一郎  384
     祝古稀   福島文        385
     英会話   河田弘子       387
     小林先生と比企の英語教育   黒崎辰雄  388
     小林先生と私   中島芳夫    390
     英語グループの思い出   大寺知章  392
 第二十四話                394
     ASHTONの無言劇          404
     カーディングリー看護婦からの手紙 413
 第二十五話                414
     グランド キャニオンの女     416
     英会話講習会とアメリカ旅行   青木裕子  426
 第二十六話                428
     小林秀吉君の古稀を祝いて   大原儀作  432
     サリーの捕虜           433
 第二十七話                444
     サニイとカイゼル         452
 第二十八話                457
     ロウズ モア           464
     エグゼキューティヴ クラス    470
 第二十九話                474
     再会               482
     フェニックス市長の手紙      488
     アーサー大佐の手紙        488
 第三十話                 490
     組曲 カルメン          493
     学生時代の戻る   江野暁子   501
     英会話教室に学んで   榎本正子  502
     英会話教室に参加して   伊藤洋子  502
     いつまでもお若く   広瀬ヨウ子  503
     新しい町民   三浦絹代     504
     英会話教室に参加して   大野菊江  505
     英会話教室に参加して   塩見美千代  506
     英会話講座   田島明子     506
     英会話受講記   塚田清秀    507
     学友バブ             508
     中島組奨学金会の由来   小林嘉重  509
 謝意                   510
 むすび                  512

       辞世の狂歌

        閻魔君、
          答えてもええ 英語なら
           娑婆で 咲かせた
                 うら話まで



冨岡寅吉日記 昭和20年1月(1945) 菅谷村(嵐山町)大蔵

2009年02月03日 | 冨岡寅吉日記

昭和貳拾年壱月壱日 月 晴
五時起床。三〇分ラッパを吹く。
受信 吉野次郎
青校校庭で四方拝の祝賀式を挙行
校長先生の訓示、助役殿の視((指))示あり。
大野角蔵君遊びに来る。今日は同級生も大人数ゐた
金井宣久君と歌の練習をやる   以上

一月二日 火 晴
日が上がってから起きた
金井仲次君と役場へ壮丁調書を持って行く
銃剣術の防具を借りてきて神社の日向ぼっこでした
午后新藤文太郎、斉藤三郎、金井仲次郎、小生の四名で、自転車で乗り廻す。
朝食時吹こし*があり
*談:風で雪が飛んでくること。

一月三日 水 晴
金井仲次君と寒稽古をやる。暖くなる。
十二時集合で野村宇平君を送る*。菅谷より二名
長島軍曹殿に相ふ
青年団の常会。
新聞配達に関する件
河原で遊びトロ乗りは面白い
駆逐艦旗風 吉野次郎
*大蔵野村宇平、横須賀海兵団応召。

一月四日 木 晴
篭や。丸かごつくり
朝の中は寒い
四ツ分支度をする。夕方迄に仕上がる
学校に隣組長常会あり
受信 金子丑平君
北支派遣谷第四二〇一部隊母袋 金子丑平

一月五日 金 晴
植木山へ新聞持ちに行く
風を引いた様だ。
本日も木の葉かごつくり。昨日よりも小振りの奴、四ツ。
父山仕事。
斉藤敬之助方へ木の葉かご四つ、計三六円   以上

一月六日 土 晴
唐子荒井酉造宅へ木ノ葉かご一ツ持って行く
今日も木ノ葉かごつくり
昨日よりも大振の奴二ツ
父、まき、隆次、山仕事。
上唐子棒やへかご二ツ。石川丑三二ツ
マッチを、新武、富理、三軒で分けた   以上

一月七日 日 晴
ゆっくり起きる
印篭つくり。四ツ組む
父午前中山仕事。
午休みに隣組常会あり
小生は学校の方へ行き夕方迄遊ぶ。蜜柑、かずのこ、するめ、草煙の配給   以上

一月八日 月 晴
召集日
九時半集合
始業式。大詔奉読式
教練なし。青年学校の家片づけ
ナキリミつくり   以上

一月九日 火 晴
昨夜は夜警なり。父が廻る
ナキリミ作くり。
今日は夕方迄に七枚。昨日から引きつづき。
空襲あり。敵機来襲せり。よく見えた*。父ひで掘り   以上
*[参考資料]大本営発表(昭和二十年一月九日十九時)
 本一月九日午後マリアナ諸島ヨリB29約六十機、関東、東海道及近畿地方ニ分散来襲セリ。邀撃戦果ニ関シテハ目下調査中ニシテ、我方ノ地上ニ於ケル損害ハ極メテ軽微ナリ。

一月十日 水 晴
くまで一本
ナキリミつくり。
ふちをつける。小生四枚、祖父さん三枚、計七枚出来る。目かいつくり、三つ。青年団へナキリミ三ツ、目かい一ツやる。
斉藤敬之助方かご代を持ってくる   以上

一月十一日 木 曇
ナキリミのふちを一枚つける
学校へ使に行く
役場へもよる
中島運竝君へ餞別三円。午后青年団の総会。
旗手、一般信号、早起会信号手、早起会の賞金、計四・五〇銭
鳴門秘テウよみ   以上

一月十二日 金 晴
勤労奉仕
東部(武)鉄道施設の勤労奉仕
二十二名出席す。
レールを真直にす。
一日中、夕方二時間位休んでゐて砂利を貨車より下ろす。
帰りは汽車へ乗る。菅谷より駆足。
米の配給   以上

一月十三日 土 晴
勤労奉仕
今日も東上線の勤労奉仕。八・三七分で中島運竝君を送くり*一ツ電車で行く。
昨日と同じ仕事。午后は違ふトロで砂利運搬をす。暗くなって帰ってきた。
くまで四本   以上
*菅谷中島運竝、三重海軍航空隊奈良分遣隊入営。

一月十四日 日 晴
植木山へ新聞持ちに行く。
午前中、山へ行く
ダンゴ木を見付けてくる。
午后ナキリミつくり一ツ。みそこし一ツ
将軍沢秋山十郎方へ 四円
くまで四本   以上

一月十五日 月 晴
朝食して菅谷へ使に行く。校長先生、下田先生へくまで三本、岡松やへミソコシ一ツ。
午后も大した事をしずに遊ぶ
野村君の家で百人一首をする
吉野君へ発信
くまで六本   以上

一月十六日 火 晴
本箱の整理
新聞代集金。午前中
小沢武夫君の家で百人一首をする
菅谷へ軍服を持ちに行く 十三円也
いねのらんどせる六円   以上

一月十七日 水 晴
召集日
教練召集日なり。午前中学科。
第一時修公、漢詩。二時普学、考査問題。三時空気銃、実弾射撃
午后教練。根岸指導員殿、執銃   以上

一月十八日 木 晴
日が高く晃ってから起きる。
半ザル作くり、三ツ。ミソコシもつくる
午后はとても寒い。
甘藷諸の検査、十俵出す。一等二俵、他は二等。
組合の倉庫迄運ぶ
隆次へ服の配給あり   以上

一月十九日 金 晴
ミソコシのふちまき三ツ、半ザル二ツ。
ミソコシつくり
昼休みに区長宅へ配給品わけに行き三時頃帰ってきた
麸、蜜柑、障子紙等配給あり
父山仕事
発信 内田清臣 富岡健治

一月廿日 土 晴
召集日
教練召集日
九時過ぎて始まる
道路奉仕金十二円五〇銭
各箇戦闘教練
銃剣術基本、教官動作
午休みに配給品わけ。
半ザルのふちまき。
ミソコシは祖父さんがふちまきをした
ゑびす講   以上

一月廿一日 日 晴
早朝食で唐子の床やへ行く。
守平へ小包を送くり出す。一〇〇
午后菅谷国民学校へ明日の話を聞きに行く。今日より分会員*である。
自転車をなをす。   以上
*在郷軍人分会。

一月廿二日 月 晴
晴れの壮丁検査日である。吉野勇作君来る。金仲、村久、小生君の四名で松山に向ふ。足の先は切れそうに寒い。七時開始。午前中に始まる身長、胸囲、体重で昼食。
午后三時半頃終る。小生甲種合格となる
学校で夕食をやってきた。吉野も甲種なり

一月廿三日 火 晴
くまでつくり 計十二本
午后松浦自転車へ行く。
学校へも行く。大風
吉野君もきてゐた
空気銃ですヾめを一匹取る
くまで八本   以上
発信 内田 富岡守平

一月廿四日 水 晴
召集日で学校へ行ったが吉野と自分ばかり
校長先生の手伝ひ。
沢渡、忍田君がきた。四人で枝まるき。午前中、本舎へ一車運ぶ
関根少尉殿出征す*
父飛行場ノ勤労奉仕**
くまで四本   以上
発信 吉野次郎 金井春二 金子丑平
*千手堂関根茂良、東部二二部隊応召。
**唐子飛行場勤労奉仕

壱月廿五日 木 晴
今朝も松山国民校へ七時集合なので早起きをする。
金井、小沢君と自転車で行く。レントゲンのサツエイだけ。寒かった。手がかぢかむ。九時頃終り。青年学校へ寄る。レンタンのふたを割り松山迄買いに行く。二十五銭。小林岩五郎方へ使に行く。   以上

壱月廿六日 金 晴
植木山へ新聞持ちに行ったがきてゐない
くまでの柄付け六本、午前中
午后新聞持って来る。
ミソコシ作くり。自分でたてを割る。仕上げて見たら中々良好の出来である
青年団役員会。金井亀治宅へ   以上

壱月廿七日 土 晴
召集日
召集日なり。
十時開始。四年兵四名
土運び終りて一年、二年の助手。
小生一年兵をやる
ニナヘ銃(つつ)、立銃、行進
魚の配給一人十匁
タオル、長袖シャツの配給
四〇八銭。魚を分ける
一切四銭 計五四キレ
晒の配給券一枚
金井親治方   以上

壱月二十八日 日 晴
ビクをつくり底を組む
午后篭やの役員会で小川の岸野宅へ行く。
小川三名、竹沢、大岡、八和田、七郷、菅谷、平、明覚二名、計十一名集る
夕方迄
馬糧の配給
くまで四本   以上

壱月廿九日 月 晴
ビクのふちまき。
ごみ取りのふちつけ
酒の配給、五合。米の供出三升。父馬の健康検査で松山へ
ナキリミつくり。
受信 吉野勇作 中島運竝君
 奈良県山辺郡丹波市町 奈良海軍分遣隊第二二兵舎第一二八分隊三班

壱月卅日 火 晴
ナキリミつくり
ふちをつける三ツ
半ザルつくり。三升入れ。
午后一時半神社集合で野村豊治君の入営*を送くる。三時〇四分発大元気で出発した。
半ザルのふち巻き   以上
*大蔵野村豊司、中部九七部隊入営。

壱月卅一日 水 晴
草刈りかごつくり
午前中二ツ組み上げた
午后一時二〇分発西沢金作君入団*を送る
草刈りかごのふちまき
父、馬のオヒ町**で菅谷へ
受信 吉野 中島
*千手堂西沢金作、武山海兵団入団。
**談:お日待。馬好きの者が集まって一杯飲んだのだろう。


冨岡寅吉日記 昭和20年2月(1945) 菅谷村(嵐山町)大蔵

2009年02月03日 | 冨岡寅吉日記

二月一日 木 曇
雪でも降ってきそうな天気だ。頭が重い。
半ザルをつくる。
祖父さん、神戸へ二斗ザル一ツ、米上げしょうぎ一ツ
他の家へ半ザル三ツ、ミソコシ一ツ、ナキリミ一ツを持って行く。
根岸棒や、竹を持って来る

二月二日 金 曇・半晴
昨夜雨がふり今朝は白いものが薄くある。寝床で小説よみ。一日中。
   以上
和田*の原八十島かけて漕ぎ出でぬと人にはつげよ海士のつり舟
和田の原こぎいで見れば久方の雲井にまがふ沖つ白波
*「わた」は海の古称。

二月三日 土 晴
召集日
全員召集である。四年生、陣中勤務の中、警戒、中屯間の歩哨。小生は立哨せず
吉野と二人で嵐山有馬国民学校へ炭を二俵なしに行き一時間位あたる。昼食した。下田先生来る。空砲をもらひ吉野と二人で庭でやる。節分なり   以上

二月四日 日 晴
昨夜は野村武夫君の家がにぎやかだった。
印篭作くり、四ツ。夕方迄に出来上がる。
今日のはうまく出来た
統制会社のくすりやがきた。五円拾銭使ふ。大風であった   以上
米・英・ソ、ヤルタ会談開催(対独戦処理、ソ連対日参戦等を決定)

二月五日 月 晴
召集日
野村武夫君の入営*。
神社へ五時集合。嵐山駅六時二四分発
四年生の召集日。野口曹長殿が新に指導員殿が指導して呉れた。重点ハ銃剣術のみ。防具も付けてやる。今夜向徳寺に映画ある   以上
*大蔵野村武男、東部八三部隊入営。

二月六日 火 晴
くまでつくり。墨をつける。けづる
午前中二人で十二本けづる
昼休みに曲げる。祖父さん風邪気で寝こむ
小生一人でくまでの柄はめ。寒い。でも七本柄をはめた。父は一人で山仕事
馬齢ショ代   以上

二月七日 水 晴
ビクつくり。一斗入れ。
くまで五本柄をはめた。
午后寒い。
ビクのふちまき終る
夜寝る時分より雪が降りだした
明日の朝が頼もしい。   以上

二月八日 木 晴
昨夜は雪がふる
今朝は青年団で学校道の雪掃き
みそこしつくり。四ツ
根岸千之輔殿*来訪せり   以上
小生の兵科歩兵なり
*菅谷村役場兵事係。

二月九日 金 晴
ミソコシのふち巻き。
ナキリミ作くり。
ヒネが厚い。
寒い日が続くはい
受信 中島運竝君
くまで二本   以上

二月十日 土 晴
ナキリミ作くり
今日のは悪戸もうまく出来る
くまで二本。ミソコシ二ツでる   拝啓御無沙汰を致し[落書]
なきりみ、夕方迄に昨日からずっと作くって九枚となる。今日のは今(皆)形がよい。
午后空襲警報あり。そうとうの長時間にわたる*
肥料配給
受信 新井栄一(**)   以上
*[参考資料]大本営発表(昭和二十年十月十日十七時三十分)
 本日二月十日午後敵機約九十機、関東北部ニ来襲セリ。邀撃戦果ニ関シテハ目下調査中ナリ。我方地上施設ニ若干ノ被害アリ。
**杉山の叔父さん(新井力造)の子。筆者より二級上。

二月十一日 日
紀元節
紀元節
青校生徒全員召集
祝賀式終りて教練をする。今日は軽機関銃を持つ。
午前中のみ
午后半ザル二ツつくり、神戸へ一ツ、金井末吉方へ一ツ。なきりみのふちつけ。   以上

二月十二日 月 晴
ナキリミのふち着け
全部で九枚。岡本駆吉方へ一枚。
目かいつくり。八ツ。夕方迄に組み上げた。あとふちを巻くばかりにした
米の配給
くまで一本   以上

二月十三日 火 晴
目かいのふちまき。
全部で八ツ。
草刈りかごの縦を割る。底を組む。八ツ
腰をおこす
根岸棒やへ目かい二ツ、ナキリミ二ツあづけ。
小沢啓助へ一ツ目かい。
斉藤敬之助方、岡本正三氏へナキリミ一枚   以上

二月十四日 水 晴
配給品を配って歩く。
鼻緒、ローソク、カイロ灰。
軍馬購買にて父、松山のグランドへ。祖父さんも当方面へ行く。
小生ミソコシを始めた。四ツ。底をつくり、一つだけつくり上げた。
新聞配達也。
夜大蔵だけ配ばる。
暖い。目かい一つ神戸へ   以上

二月十五日 木 晴
朝の中曇ってゐて寒い
草刈りかごの廻し入れ、八ツ。
父母山仕事。
午后警戒警報あり、そうとうの長時間に渡った。
草刈りかごのふち折り。
今晩は夜警なり。
くまで二本   以上

二月十六日 金 晴
父松山中隊
寝てゐる中に警戒警報があり、次いですぐ空襲警報となる。草刈りかごのふち巻き。
竹本やへ二ツ、根岸公男方へ一ツ
ミソコシをつくる三ツ
金井や、斉藤敬之助方へ一ツづつ。父に警備召集きて山まで迎へに行き、午前中、山仕事
祖父さん、大工の家へ行く
北支派遣衣第四二九三部隊渡辺隊 小林幸太郎

二月十七日 土 晴
召集日 父松山中隊
富岡正作さん徴用令により出発す。六時二十四分送る。
全員召集日なり。出席割(悪)し。教練中、敵機ヘン隊が頭上を通過せり
教練後青校々舎の方へ行き河原より石運び
午前中空襲警報ありしも午后はなし
背負ひかごつくり   以上

二月十八日 日 晴
父松山中隊
背負ひかごの中を作くる。一ツ作くり上げる。良く出来た。
肥引ぎざるのアジロを組み、ちらし、底だけ廻る
午休みに煙草の配給に行く。三、一五。
肥引きざるを作くり上げ、根岸棒やへ持って行く。十円収入。
上唐子床やへ行った。約二時間位かヽった。
明日は教練なり。   以上

二月十九日 月 晴
召集日
第一月曜なので本四の召集日である
九時半に始めた。午前中防具を着げずに基本動作。小生の剣、此の頃真直に出る。野口曹長殿実に熱心にやって呉れる
午后防具を着けてやる。第一、第二、第三教習試合。試合もする
空襲警報あり
吉野と二人で銃の掃除をする
父、上岡へ   以上

二月二〇日 火 晴
餅ツキ。
マッチの配給あり。石ケンもあり。チリ紙もあり。
大工の家より魚取り道具を借りて川へ遊びに行く
魚を取る。午前中だけ
午后、分会の用事あり。社務所へ
配給品を配ばる
父査検に行く。   以上

二月廿一日 水 晴
分会査閲の予行あり
国民学校々庭で実施するも小生等に取りては面白くない。
小生の組は密集教練と手榴(リュウ)弾投げ
奉公袋の収容品を調べる。小生のは皆揃ってゐる。寒い日だ
軍手配給   以上

二月廿二日 木 大雪
山野真白なり。雪。雪はサッサと降ってゐる。小生、栗の木の下へ引きつぶしを作くった
午后、雀三匹、ホホジロ一匹は入り全部取る。隆次の置いたねずみ取りで二匹取り、小生の置くカラネコでも一匹、計七匹取る
とても大雪らしい
くまで一本なほした   以上

二月廿三日 金 晴
雪掃き
六時前にラッパを吹く
青年団員で学校道の雪掃きをする。此の前の雪よりも大雪で寒い。
金井亀治君の宅へ新聞代を持って行く。
味噌こしを一つ作くる。
背負いかごのふち巻き。
柴田藤五郎方へ背負いかご一つ。斉藤とら方へ柄杓とくまで一本。
くまで一本   以上

二月廿四日 土 晴
分会査閲
今日は分会の査閲である
寒い。朝の中はとても静かであった。査閲官殿大佐を迎える。午前中教練科の査閲
我が五班は何もしないでゐた。奉公袋の査検。第一、二班のみ。手榴弾なげあり。小生三十三米
午后はなし。くまでけづり、曲げる   以上

二月廿五日 日 曇・雪
寒い
くまでの柄はめ八本。
午后雪が降り出した。
雀取りの道具を出したが取れない
とうとう大雪になりそうだ
斉藤方よりぜにをもらう   以上

二月廿六日 月 晴
昨夜は今年始めての大雪なり。又青年団員にて学校道を雪掃をするとても大雪であった。何時もと異ってはかどらぬ。
九時頃朝食す
青年学校へ行き下田先生にたのんで富岡健治君の一千社拝礼の札をすって来る
夕方迄遊んでゐた。
今日は雀を四匹取ったそうだ
くまで三本植木山星野久次方へ

二月廿七日 火 晴
朝食後、道の氷ってゐる中に根岸へ新聞代の集金に行く。九戸
警戒警報あり。
目かいの下を組む。腰を起してもらって目かいをつくる。
全部で十組む。五ツフチを巻く
今日はとても静かな日であった。
夕方は寒い。ヒワ鳥二匹取る
青年学校より「学術優等品行方正生徒表彰ニ関スル件」の通知あり。   以上

二月廿八日 木 晴
受信 吉野
目かいのふちまき。
目かいを組む四ツ。
四ツ巻いてから半ザルの底を二ツつくる。
一ツは高サ迄作くる
底八寸で腰を起こす
高さ五寸六分位
受信 吉野勇作   以上


冨岡寅吉日記 昭和20年3月(1945) 菅谷村(嵐山町)大蔵

2009年02月03日 | 冨岡寅吉日記

三月一日 木 晴
受信 内田 富健 柴田のぶ
菅谷へ使に行く
自転車やへも寄る
葉書三枚、七銭切手十枚買って来る。唐子の床やへ行く。
二時頃昼食す。
半ザルのふちまき。一ツ
菅谷へ自転車持ちへ行く。
根岸公男方へ
目かい二ツ、半ザル一ツ、甘藷ふかしのかご一ツやり合済となる

三月二日 金 雨
昨夜寒いと思ったら今朝は雪が見えた。
郡教学会で優良児童の表彰式へ行くので八時頃出発す。箭弓(キュウ)神社へ参拝。松山国民校へ行く。野本の特別訓練にきた生徒も大へん見えた
山岸良之助君の家へ寄り松林座へ二人で行く。昼食、夜食迄御馳走となってきた。   以上

三月三日 土 晴
今朝はとても暖い。
植木山へ新聞持ちに行く。
青年学校へ行き青校々舎の勤労奉仕ツタ切り
四年生は、関口、吉野、小生、しかだ。
そうのわけである。先週の土曜日に小生、指導員に話して、今日のは取止めの話が出て居たのを小生すっかり忘れて居たからだ。我不注意なり。以後気を着くべし
ミソコシつくり   以上

三月四日 日 雨・雪
田麦の一番作切り
祖父さんと父と三人でやる。父はあまり仕事が出来ぬ。曽利町、新田、六畝と七畝を少しする
午后雨が雪となりミソコシを作くる。四ツでき上がった
雀二匹、ホヽジロ二匹、計四匹とる

三月五日 月 曇
召集日 父松山中隊へ
雪がすっかり氷ってゐる。
第一月曜なので四年生の召集日である。忍田、沢渡、関口、吉野、小生の五名しかこない
朝より防具を着けて試合をする。
吉野と二回して一回一勝。
午前中で終る。
午后味噌こしつくり三ツ出来上がる。
根岸せきさんへ熊手一本、目かい一ツ、味ソコシ一ツ
根岸保平方へ味噌コシ一ツ

三月六日 火 晴
父松山中隊
雨降りだ。祖父さんはねてしまふ。小生一人で味曽コシ作くりを始めた。二ツ
午を喰ふ前に警戒警報あり。すぐかいじょ(解除)となる。
味ソコシ又始めて三ツ出(仕)上げる
大沢伊三郎宅へ一ツ進上す   以上

三月七日 水 晴
父松山中隊
くまで三本
昨夜は夜警なり
柴田藤五郎方が宿である。
十一時半頃警戒警報あり。小生伝令として植木山へ行く。〇、五五分解除となる。
夜、百人一首の札取りがとても面白かった。
今朝の五時頃迄宿の家に寝てゐた。平沢の家へ竹もらひに行く。
父お客に来る
行死の人あり。隣組長立合ふ

三月八日 木曜 晴
父松山中隊
未だ風が寒い。
木掃き篭作くり。
縦を割る。三枚縦でやる。午前中に腰をおこした。三ツ作くる。縦が□□少しせまかった。
冨岡七之助方の草刈りかごのふちを巻く。
金井親治方へ丸篭三ツ持って行った   以上

三月九日 金 晴
父松山中隊
武道大会出場選手の練習があるので学校へ行く。
二十名の中一名欠席しただけである。銃剣術をする
五年生の鯨井はうまくない。
小生、吉野、岡本、忍田、栗原が銃剣術である。
午前中で終る。午后田麦の作切りに行く。七畝を切り、三畝を切り、大田を三分の一位切る。とてもよいひであった。   以上

三月十日 土 晴
陸軍紀念日 召集日
土曜日で全員召集である。四年生全部で銃剣術をする
手榴弾投げもした。
職員室の移転で生徒ハ全員勤労奉仕をする。小生等も一回青校々舎の方へ行く
午后将軍沢の岡本九次君の英霊が還り、それを迎える。二時四〇分
守平がお客にきた

三月十一日 日 晴
父松山中隊
守の切符を買ひに嵐山駅へ行く。池袋迄一円六〇銭。
守の戸籍トウ本と身分証明書を書いてもらった。
くまで作くり。
一時二〇分発にて守帰る。
煙草の配給二回分。六円三〇銭。
くまで十二本曲げた。   以上

三月十二日 月 晴
練習日 父帰る
国民校々庭で銃剣術の練習をする。
午前中で終る。校長先生へ衣料切符三点出す。
米の配給。米がつき間に合はんで中々待ってゐた。十日分二七、七二〇。九円五六銭   以上

三月十三日 火 晴
練習日
国民校々庭で銃剣術を少しやる。須沢先生迎ひ小生も。青校々舎の方へ下肥かつぎ。吉野と二人で二回やる
午后武道章検定の講習五道、銃、剣、角、射、柔
夕方六時過ぎ迄練習す   以上

三月十四日 水 半晴
曇ってゐて寒い。
唐子の床やへ行く。
早く出来た。
父と馬鈴薯を植える所を耕ふ
午后祖父さんとかごや。草刈りかごつくり。四ツ淵を巻く前迄にした。根岸梅松方より甘藷一俵もらって来る

三月十五日 木
青武道大会
郡下青年学校の武道大会である。電車で行く
雨が少し降り出したが大したこともない。小生銃剣術の選手として行く。忍田四本、吉野二本、小生三本、岡本将一本、栗原一本の勝、計十二本。此の大会で試合についての度胸すわる。
学校で謝恩会に付いて色々と用たしをしてくる
新聞配達   以上

三月十六日 金 晴・風
草刈りかごつくり。
そこをくむ時にうっかりして本くるのたてを残してしまふ
腰をおこす時に廻しを一本間違ひてしまふ
七ツふちをまくばいにした。
とても大風であった。
受信 柴田信子*
兵庫県武庫郡鳴尾村入江川西航空機第十三信和寮第七班一号室
*柴田美作妹。

三月十七日 土 晴
此の頃は朝起きるのが遅い。草刈りかごのふちまき。七ツ出来上がる。ビクのアジロを組む二ツ。午后それをつくり上げる
一ツフチまき迄終る
一ツはフチをまく迄にしておく。夕方まだ寒い。
父母、午后山仕事に行く。
二〇日は召集日なり

三月十八日 日 晴・大風
小川警察署官((管))内の武道章検定が小川国民学校々庭において開催せらる。菅谷から三名しか出席しない
五道をする。目測は二ツやるが両方とも百五〇米なりしが小生、第一、百五〇、第二、二百三〇と言ふ。とてもひどい大風であった。   以上

三月十九日 月 晴
守平へ小包を送くりたいと思ひ駅へ行ったが横須賀行は発送停止なり。
目かいつくり四つくみ腰をおこし二ツくみ上げた。
午后山下伝次郎君の出征*を嵐山駅迄送くる
三時〇四分発にて
受信 吉野   以上
*大蔵山下伝次郎、東部七二部隊応召。

三月二〇日 火 晴
今日は全員で山仕事に行く。午前中二車引く。静かなよい日だ。
午后青年学校の勤労奉仕。吉野へ速達を出す。青校麦畠の作切り。早く終る
砂糖の配給一人十二銭
新聞持ちに行く。
かいば切り。
発信 吉野   以上

三月二十一日 水 晴
春季皇霊祭
まきと母と三人で昨日の山へ行く
午前中二車。父、馬の鍛練
午后一車掃いて新聞代の集金に廻り部長の家へ届ける。
友達とあそぶ。もう来年の春の彼岸はいづこでやることやら?
一日中よい日であった。
発信 守平へ   以上

三月二十二日 木 晴
父、まき、三人で木の葉掃きに行く。一車掃いて終る
一車根刈りをひいて来る
午后曽利町の田のつぶてぶち。三人で
父、防衛召集関係にて松山中隊へ軍服なしに行く   以上

三月二十三日 金 晴・風
くまでなをし一本
めかいのふちまき一ツ
新藤佐吉君の入学届を書く。十時頃学校に行く。
午后、小川国民学校講堂で壮丁の予備検診あり。
水車の叔父の墓参をす。
まきまるきの手伝ひ
夕食をもらって喰ってくる。八時に出発し三〇分弱で家へ帰る。
明日は待ちに待った卒業式である

三月二十四日 土 晴
卒業式
朝づくりに少し用を達す。待ちに待った卒業式である。学校に行ってからも中々用事がある。ゴマを集める。
式、十時開始。早く終る。本四優等生四名、吉野、小沢、沢渡、小生。ゲートル一足、賞としてもらう。大蔵班ハ特に金一封もらう。午后、謝恩会をする。中々にぎやかだった。
吉野勇作君の家へ二度行く。昼食を御馳走になる。吉野*とうとう来なかった。   以上
*談:吉野栄一。

三月二十五日 日 晴
甘藷種ふせる 吉野と一杯やる
富岡茂雄君の出征、七時一分発にて出発す。帰ってきて又菅谷の家へ沖縄さつまの種子をもらひに行き、自転車パンクする。
家で甘藷種子をふせる。地下足袋を縫ってゐると、突然、吉野勇作君来る。すぐ金井屋へ行き一パイやる。二人とも中々よい加ゲンとなり、大蔵を下より上へ、又下へと歩き廻り家へ帰り、青年学校へ遊びに行き、夕方暗くなる迄遊んでゐた。こう言ふ事がまだあってほしい。いや又来るだらう。   以上

三月廿六日 月 晴
富岡二三郎君出征す*
朝づくりに将軍沢の金子伍長の家へ使に行った。
午前中山王前畠の麦の土入れ、麦踏み。
午后富岡二三郎君出征す。一時二〇分発。嵐山駅迄送くる。
西原の土入れ。終りて坊の上二号の土入れ。約半分位仕事を残した
父防衛召集員ののみこう
*大蔵富岡二三郎、東部七二部隊応召。

三月廿七日 火 晴
根刈り52
菅谷へ使に行く。米の配給のなし。信用組合へ貯金を積む。神戸の山へ根刈りに行く。家から二〇分位でいける。
一日中静かな日であった。三人で五十二束刈る
木ノ葉二篭掃いて来る。金井柳作氏なくなった*そうである 以上
*金井柳作、一八七九(明治一二)年九月生まれ。

三月廿八日 水 晴
根刈り42
朝づくりに縄を持ち出す。十五ボ持って出る。
将軍沢へ醤油をしぼる機械を取りに行った
タル洗ひ。柴田藤五郎さんがしぼって呉れた。
根刈りに祖父さんと父で行く。藁工品の供出を農業会へ運搬す。
とても暖いよい日であった。根刈りにも行く。

三月廿九日 木 晴
金井柳作氏の葬式 根刈り15
大字のさし番*で神社の御神酒を持ちに小川の日の屋へ行ったが番匠の山田屋と言ふわけで小川より大河村、玉川村を通って山田屋へ向ふ。小川で自転車の奴パンクした。
父は金井氏の穴掘り役として行く。
午后祖父さんと二人で根刈りに行く。
早しまひで帰る。暖いよい日だ。今晩は支部長の家へ武運長久
*当番。

三月三〇日 金 晴
根刈り51
米の配給五日分四円七十八銭
根刈りに行く。
此の頃はとても暖い。暑い様な日がつヾく。
警戒警報は毎日あり。
根刈り51束
受信 金井春二

三月三十一日 土 晴
根刈り41
祖父さんと父は根刈り。
小生、母、まきで田の一番つぶてに行く。暖くて汗が出る。仕事もできる。
午后分会の総会で小生、学校へ行く*。分会長小林少尉、聨合分会長となり、菅谷村分会長山岸宗朋伍長なり。第五班(**)々長金井小市上等兵、副金子利一殿なり。
唐子の床やへ行く。神戸のたつちゃんより五円もらう。
*帝国在郷軍人会菅谷村分会全員会、午後一時より菅谷国民学校で開催。
**在郷軍人分会第五班は大蔵・根岸・将軍沢。