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埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

赤十字奉仕団をご存じですか 菅谷・反町葉子 1988年

2009年07月10日 | 報道・婦人のページ

 ボランティアの別名のような赤十字奉仕団について、多くの人たちに知っていただこうと、嵐山町の赤十字奉仕団結成以来ずっと奉仕活動に力を注いでこられたひとり、菅谷の反町葉子さん(嵐山町赤十字奉仕団委員長)に話を聞いてみました。

  博愛人道の赤十字奉仕団
 赤十字奉仕団とは、どんな団体なのですか。
反町 赤十字の博愛人道の精神に基づき、明るく住みよい社会を築くために、より必要でより実際的な事業に奉仕する団体です。わかりやすくいいますと、すべての人々と手をつないで、人それぞれの幸せを願う全国的なボランティア組織です。
 結成されたのはいつごろですか。
反町 埼玉県では、明治二十年に県委員部の名で創設され、ちょうど百周年を迎えました*。嵐山町は十年目になります**。
 嵐山町の団員数は。
反町 二百八十八名です。
 ずいぶん大勢いるようですが。
反町 ええ。皆さん多忙の毎日ですので、できる人が、できる時、できるだけの奉仕活動に協力しています。大変感謝しております。
問 日頃の活動はどんなことをしているのですか。
反町 嵐山町の寝たきり老人や独居老人へ年二回の慰問と、慰問品づくり、年四回の給食サービス、敬老会の接待、これらはとても喜ばれています。また、河原や道路の清掃、乳児院、養護施設、老人ホーム、障害者福祉センターなどへの視察研修と、地域内はもとより、地域外への奉仕団が受け持つ活動の意味と力は大きなものがあります。しかし、これもまた、奉仕団だけではなく、いろいろな団体との協力や援助関係が嵐山町はうまくいっているからといえます。

  愛の一円玉募金
 日ごろ心がけていることがありますか。
反町 団員がいつも心がけて集めているのが、一円玉です。愛の心が大きな金額になり、社会福祉活動のお役にたっています。
 私たちの活動は、本当に地味なものなんですよ。婦人の団体ですので、女でもできる、女しかできない奉仕活動を、と常にくふうしています。

  共に生きる社会として
 今後の奉仕団の役割は。
反町 高齢化社会の到来は、諸外国に例をみない速度で進み、もう世界の代表的な長寿国だそうです。六十五歳以上の人口はまもなく総人口の十%を超えようとしおり、昭和八十年(2005)には総人口の十五%を超え、国民の六人に一人は六十五歳以上の者になるとか……。
 さらに、老人問題を複雑にしているのは、核家族の増加、人口の都市集中、住宅事情の窮迫などで、高齢者世帯やひとり暮らしの老人が嵐山町でも年々増加しています。
 共に生きる社会として、老人が社会活動に参加し、生きがいを高めることができる活動を、積極的に進めることがこの町でも切望されています。また、これらの活動が老人を含めて多くの人々の生命と健康を守ることにつながると思います。奉仕団がもっとたよりにされる組織になるかどうかは、今後の課題です。
 赤十字奉仕団へあなたの力をかしてください。
     『嵐山町報道』361号 1988年(昭和63)2月25日 婦人のページ

*『赤十字埼玉百年史』が1988年(昭和63)3月に発行されている。その年表によれば、1863年、アンリーデュナンの提案により国際赤十字が誕生。日本赤十字社は1877年(明治10)5月に博愛社として創立、1887年(明治20)5月24日、社名を改称して日本赤十字社となる。日本赤十字社埼玉県支部は、1887年(明治20)12月5日、埼玉県知事吉田清英を委員長として日本赤十字社埼玉県委員の事務所が県庁内に設置(社員8名)、1896年(明治29)7月1日、日本赤十字社埼玉県支部に改称とあるので、1887年を日本赤十字社埼玉県支部の創立年としていることがわかる。
**嵐山町の赤十字奉仕団結成のいきさつについては、「嵐山町赤十字奉仕団の発足 1979年2月」を参照。


区長職を終わって 菅谷一区 宮本紀子 1987年

2009年06月10日 | 報道・婦人のページ
 まだ森のたたずまいが深く感じられる東昌寺の門前に結婚とともに住居をかまえました。静かな町でした。関根前町長の熱い想いのこもった「山紫水明を大切にして文化の薫り高い町づくり」の話に強い印象を受けたことを覚えています。嵐山町と私の出会いはこうして始まりました。二十三年前の話です。私の第二のふるさととなり、子供たちにとってはふるさとそのものです。その心を大切に抱きながら地域とかかわり合って今日になります。
 私の住んでいる菅谷一区では、多くの人が区長という立場と仕事を理解するようにとの考え方にたって九年前から区長選出が各班持ち回りとなりました。六十一年(1986)度は九班が当番です。私の班ですが、私は区長選出については、年配のかた、地域にかかわっている男性、有力者のかたがたが話し合い選出しあうものと思いこんでいました。ですから全く無関心でいました。ところが私の所に「区長をお願いできないか」と話がありました。もちろん断りました。私自身がその任ではないことを一番承知していました。しかし思いもかけず区長を受けることになってしまいました。
 「なぜ区長に」と多くの人に尋ねられました。
 当番の班の住民としては、何分の一かの責任はわが家にもあること、二十三年もお世話になっている地域のことであること、だれも受けてがいなくて係りの人が困っていることなどの理由に加えて、「手伝ってあげなさいよ」と、いとも簡単な夫のひと言で話は決まってしまいました。首都圏に勤める多くのサラリーマン家庭がそうであるように私の家でも夫は夜だけの嵐山町民です。家庭における役割分担は自然と決まって、地域社会のおつきあいは私の役目です。気軽に返事をした夫は嵐山における区長職の現状をまるで知りません。私にしてもくわしくはわかっていません。いまにして考えてみると一番の原因は、知らなかったことと、たのまれると断れない性格と、楽天的であることではなかったかと思うのです。区民の皆様からはそんなことで区長をうけてもらっては困るとおしかりをうけるかもしれません。
 区長職を受けたとき女性であるということは考えに入れないことを決心しました。しかし紅一点と聞いて、はじめての区長会は緊張して出かけましたが、女性であるからという特別なことは何もなく自然に受け入れていただき私の心配は吹き飛びました。区長会は保守的な世界ではないかと考えていた私のほうが認識不足でした。数回の集まりの中で、自分の生活する地域を大切に思う傍ら、現代社会に生きている進歩的な人たちの集まりであるとの思いを強くしました。
 「女性だから大変でしょ」という励ましの言葉もいただきましたが女性だから大変ということは全くありませんでした。ただ私のまわりのかたが「区長が女性でー」そう考えたことはあったかもしれません。区長の仕事の中で特に難しいことが二つありました。一つは人を推薦することです。適任者を推せんすることの責任の重さと、お願いしたかたに承知していただくことでした。幸いにして昨年はご協力していただくことができ、現在もりっぱに活躍していらっしゃるのを見て嬉しく思っています。
 もう一つは行政と住民のパイプ役である区長職においてその視点をどこに置くかということです。私たちの幸福を目的にしている点は同じですが
長期の展望で当たる行政と時に住民の望むことは相反することもあります。区長を通して町から要請されることを区民に理解していただくことなど、悩みながらの一年間でした。
 白紙からの出発だった私はまず会議や、行事に出席をすることを第一に、一年間をすごしました。諸行事に参加することによって、嵐山町の一年間を知ることができました。私たちをとりまく世界がどんどん変化しています。人の生き方も、考え方も、政治も、経済、自然もー。そのような中で嵐山町は多くの人々の英知と努力にささえられてバランスのとれた町をめざして一歩一歩あゆみ続けている町であると、区長職を通して感じました。区の皆さんと楽しい交流もできました。すばらしい人との出会いも数々ありました。自分にとっての歳月をあらためて見つめ直す機会ともなりました。私にとって荷の重い一年であったことも確かですがそれ以上に実りの多い一年間であり、新たな出発となりました。
     『嵐山町報道』356号 1987年(昭和62)8月25日 婦人のページ

母の手 菅谷・市川令子 1987年

2009年05月09日 | 報道・婦人のページ
 小学校三年の夏のことです。私は犬かきという泳ぎができるようになりました。そしてもぐることもできるようになったのです。
 急に大きくなったような錯覚から、毎日川へ通いました。午前中泳ぎ、お昼ご飯が済むとまた川へ行ったのです。
 草いきれのする細道を「かくらん」よけのため梅干を食べながら歩いたのを覚えています。
 帰りには、川原のがけの所に生えているねむの葉をとって、ふところへ入れてやります。すると、ねむの葉は葉を閉じるのです。私は洋服の上からねむの葉をそっと押さえ、子守でもしているような気持ちで、ふところのねむの葉の様子をのぞいたものでした。
 そんなある日、私はぐったり畳の上でねていました。ひたいに梅干を数個貼り付け、足のひらに母が塩を擦りつけているのです。私は「かくらん」(日射病)をしてしまったのです。
 塩のザラザラという感触がなくなると、母は新しい塩をつぼからつかみ出して、また足の裏に擦り込むように、ていねいに、しかも手を休めず繰り返しているのです。
 目が覚めると夏の日でも、もう家の中はうす暗くなっていましたが、母の手は動いていました。
「らくになったかい」
「うん」
「そりゃよかった」
といって母の手は止まりました。
 そして、畳に落ちていたねむの葉を私のふところへ入れてくれました。そのときの母の白い手が私の中で今でも鮮明に生きています。
 あの白い手は母の人柄そのものに思えてならないのです。母は子供の病気を自分の手で治したのです。「かくらん」を梅干と塩と自分の手のひらで-しかも、時間をかけて。
 三十年も前の話です。
 ある目の不自由なご夫婦が健常児であるわが子に親として何がしてあげられるか真剣に考えたそうです。
 これだけは、と考えた幾つかの中に、小学生の女の子には毎朝髪を編んでやるというのがあったそうです。
「自分の手でしてやることが親子の確かなふれ合いになるから」と考えたからです。
 非常に感銘した私は、私の中へこれを受け入れることにしました。健康であっても、怠慢な親は子供側から考えると、ずいぶん迷惑であり、親としてもあたりまえでないと感じたからです。
 話はちょっと変わりますが、九九の勉強は五の段から始めて二の段にもどります。なぜ五の段から始めるのでしょう。
 栗の実がテーブルの上に置いてあります。パッとみて、「いくつあるかわかる数」で一番多いのはいくつでしょう。一般の人でしたら五個なのだそうです。「五個のかたまりがいくつある」と勉強が進みますが、五個という数は片手の指の数なのです。何か不思議に思えてきます。
 十進数と両手の指の数。とても不思議です。神様はどのような意図で「手」を造ってくださったのかと思うときがあります。
 低学年では、両手、両足を使って計算する姿をみかかます。「たくましい子!」とほほえんでしまいます。
 しばらく前のこと、給食費値上げの話題があがった際、毎月一回か二回弁当持参の日を設けたら値上げは防げるのではないかと提案したことがありましたが、取り上げてもらえませんでした。もっとも私の発言は値上げのことより、母の手造り弁当を食べさせましょう、と柱が若干ずれていたかもしれません。
 夏休みなどの親の愚痴をあげてみると、以前は、
・兄弟げんかばかりしていてうるさくて……早く学校が始まるとよいけど
ところが昨今では
・お昼の用意がめんどうだから、早く給食が始まるとよいが
他力本願の親が多いので悲しくなります。
 子供たちとの生活で感じたことのひとつに、食事が子供たちの生活や性格、そして学力に大きく影響しているということがあります。
 肉食を好む者とか菜食を好む者とかで性格判断するのではなくて、片手間の食事を強いられている子供の多くは、
・おおらかさがない。
・何かにつけて不満が多い。
・忍耐力がない。
・学習面で実力が十分活用できない。
とてもかわいそうに思います。食事を大切にしている家庭は、
・おおらかで友達が多い。
・基本的生活態度がしっかりしている。
・落ち着いて学習している。
といった傾向がみられます。
 前述の目の不自由な方のように、
「自分の手で親子の確かなふれ合いを」
と言われているように、母の手をもっともっと生かさなければと思っています。
 手とは不思議なものなのに、人々は生活の中であまりにも粗末にしてはいないだろうか。
 自信と情熱に満ちた母の手には宗教的なものを感じました。母はその手で幾度か私の心とからだを治してくれました。
     『嵐山町報道』358号 1987年(昭和62) 月 日 婦人のページ

舞台裏から 嵐山音楽祭実行委員・三井幸子 1986年

2009年05月07日 | 報道・婦人のページ
 嵐山の人びとに良い音楽を聴かせてあげたい、という関根町長の強い熱意によって、第一回嵐山音楽祭が十月二十六日に行われました。
 行事の多い時期だったにもかかわらず、たくさんの人々が集まり、フルート、ソプラノ独唱、弦楽合奏、サキソフォンアンサンブルと、それぞれに味わいのある豊かな音色を楽しみました。実行委員として運営に携わった私たちは、最後に寄せられた皆様の感動の拍手と、また開いて欲しいという多くのかたがたの感想を得てこれまでの努力が報われた気がしてホッといたしました。
 音楽祭実行委員会がスタートしたのは五月でした。顧問のかたは別として、十五人の委員のほとんどが主婦。音楽に縁のあるかたもないかたも含め、「なんで私が?」という疑問を抱きながら、一枚の委嘱状をいただいたばかりに、企画、ポスター類の作成、チケットの販売、当日の場内係と、すべての運営を行わなければいけない立場になってしまったのです。
 これまで二度ありましたコンサートのときは観客の立場でしたので、どんな音楽が聴けるかと楽しみに出かけるだけでよかったのに、裏方になると実にいろいろな仕事があるものです。当日はどのくらいのかたが聴きに来てくださるのか、演奏のかたも、支障なく進められるのか、心配ばかりでした。定刻どおりにフルートの演奏が始まりました。「あらっ、時間どおりなの?」かけ込んだかたが多数、開場と開演の時間を明示しなかったこと、反省しきり。舞台裏でピアノの汚れに気がついたときは、演奏家が席につかれたときで、見苦しかったり、譜面台が足りなかったりなど失敗も多々ありました。二部の演奏家のかたたちの到着が遅れてハラハラさせられたりもしました。子どもたちがちょっと飽きて騒がしかったり、大人でも演奏中のおしゃべりが気になったり、生の演奏を心地よく味わうためのマナーも身につけて欲しいような気もいたしました。
 実行委員以外にも多くのかたの御協力を得て、無事に終了した音楽祭でした。でも残念なことが一つ。チケットの販売枚数より入場者の数が少なかったことです。実行委員の強引な売り込みに義理でつきあってくださったかたが多かったのかなと、申し訳なくも思っております。でも身近な場所で生の演奏を耳に出来るせっかくの機会、多くの人に共に味わって欲しかったなと思います。
 三月一日には、第二回嵐山音楽祭が予定されております。多くの人に楽しんでいただきたいというのが、実行委員一同の願いでもあります。日ごろ音楽には縁遠いと思われているかたも、カラオケなら得意なんだけど、というかたも、ぜひ耳を傾けにに来ていただければ幸いです。
     『嵐山町報道』349号 1986年(昭和61)12月25日  婦人のページ
※参照:「第1回嵐山音楽祭が開かれる」(1986)

地域に根ざした活動を目標に 菅谷・寺山サキ子 1985年

2009年03月19日 | 報道・婦人のページ
 九月十四・五日に開催された嵐山町「婦人団体指導者研修会」に参加することができました。日ごろ、各地域で婦人団体(主として婦人会)の役員として活動している三十八名の参加です。
 まず、婦人教育会館、大野曜先生の「家庭生活の変化と婦人の役割」と題する講義、専門職員、橋本ヒロ子先生の「情報図書室の利用について」のお話と研修が始まりました。
 参加者で宿泊する人が二十名、その中で始めて婦人会館へ泊まる人が約半数、近くて遠い婦人会館……を思いました。そして「ともろう会」広報部から取材にみえた二人を交えて夜のひととき交流会がはじまりました。
 初めて顔を合わせる人もいるからでしょうか、最初はみんな緊張気味でしたが、自己紹介が終わり、それぞれが持っている悩み、疑問などが出始めると、だんだん雰囲気も盛り上がり「婦人会と言うイメージが漠然としすぎている」「もっと理想を高く掲げることが必要ではないか」と話がすすみ、「理想を高く掲げることが必ずしもよいこととは思わない。会員の要望とあわなければ……」、又婦人会と趣味的な会との違いは地域との関わりにあるのでは、地域に根ざした活動が大切ではないかと話が広がっていきました。中には、老人会、子供会、婦人会が手を取り合って一つのことを成しとげるという所もあり、思わず感激してしまいました。
 最後に日航機墜落現場となった上野村で婦人会の人々が見せた、みごと言えるボランティアの心、結集する力のすばらしさに私達もいざという時、あのようにできるだろうか、できるように努力しようと力強くみんなで確認しあいました。
 最後に、婦人会は町のお母さん役であるという教育委員会のお話でおわりました。
 翌朝、ささやかな草取りボランティアのあと、嵐山町では初めてという「グランドゴルフ」を体育指導員根岸恵治先生から教えていただきました。ゲートボールとゴルフを合わせたような競技です。六人ずつに分かれ、ゲームを進めながらの講習です。昨夜の話し合いがよかったのか大分うちとけています。
 空は今にも泣き出しそうな空ですが、草原運動場には元気な声がひびき渡ります。コンディションはいまひとつ、大きくから振りしたり、とんでもない所へボールが飛んでいったり、思うようにはいきません。スコアの悪さはグランドの悪さにしてしらん顔です。でもやっぱりスポーツはすばらしい、人の心を豊にしてくれます。参加してよかった!
 この二日間で学んだことを生かし、みんなで力を合わせていきたいと思います。
     『嵐山町報道』335号 1985年(昭和60)10月15日  婦人のページ

歩け大会に参加して 菅谷・高瀬しげ 1985年

2009年03月14日 | 報道・婦人のページ

 風がすこしあったか、早春のよき日、すすめられて歩け大会に参加した日は、二月二十四日。園児、若者、老人入り交じりて百名近く、服装もまちまちで,私は子どものお古。
 九時半出発、婦人会館を右に見て、大蔵から将軍沢に向かう道も良くなった。見返り橋を過ぎて峠に向かう上り下りの両側には、桜並木が植えられて、桜咲く四月はすばらしいことだろう。
 足弱な老人が先頭にということで先を歩いておりましたが、峠近くになりますと、子どもたちにどんどんぬかれてしまいました。
 途中、強者どもの夢の跡で小休止して山路に入る。松林は落ち葉がつもり、ジュータンを敷きつめたように。下り坂で足を取られることもたびたびあったが、足裏には心地よい。
 いまは顧(かえり)みる人もない落ち葉も、燃料、肥料にと大事な農家の資源でしたのに。古き良きことも、世代の流れには逆らえず埋もれてアラ枝も雨ざらし、もったいない。年を重ねた古い私には、この六字が頭から離れず、嫌われております。
 松林を出るともう鎌形に出る。畑の枯れ草には、よもぎの青葉が見えかくれに。山の若葉もふくらみて鎌形の里も、はや、春間近。工場が建ち、家並みもきれいでりっぱなグランドも出来ていた。
 若者が野球に汗を流して、活気ある嵐山が町の隅々まで。細い野道を出ると二瀬の上流に。急な坂道を登りつめると、立派な道路に出、その先に出来て間のない赤い班渓寺橋がつづいている。
 散風のなかに赤い橋は遠くからでもよく目立つ。その昔、牛若と弁慶が出会ったのは、こんな橋かなと思いながら鎌形小学校に着いたのは、昼少し過ぎていた。
 陽のいっぱいあたる校庭の土手で食事を、遠々歩いてきた胃には、おにぎりのおいしかったこと。
 帰りは団体行動も長くなり、私たちが千手堂橋まで来ましたら、先の団体は、はるかかなたに。橋近くには、広い駐車場も出来ていてお休所もあるようでした。
 行き届いた町の配慮に夏は大勢の人々でにぎやかと聞いたが、観光地嵐山がますます発展するでしょう。
 一時五十分ごろ出発の小学校に着く。十km歩いたうれしさと一日中せまい家の中でうろうろ歩いている井の蛙が急に世間が広くなったよう。
 人の和も広がり、友も出来てまた機会があればぜひ参加させていただきたい。

  きさらぎの 寒さもゆるみて ふきのとう
             たしかな春が 土手に息づく
     『嵐山町報道』329号 1985年(昭和60)4月30日  婦人のページ


農閑期利用の手編み教室 根岸・小沢幸子 1985年

2009年03月13日 | 報道・婦人のページ
 工業国日本は、いまや全世界をリードしている。そして、伝統産業である養蚕は今や谷間に追いやられようとしている。その中でひっそりと農業を営む私たち夫婦である。
 冬になると何もすることがなく、日なたぼっこでお茶を飲み、雑談で終わる一日に、余り希望のもてる老後ではなかった。
 そんなある日、「手編みをやってみない。」と、柏俣さんから声をかけられた。柏俣さんは二十数年来趣味で手編みをやっているベテランの奥さんである。
 そう言えば、嫁に来て、二十数年というもの子育てと仕事の忙しさに自分の時間をもつということは考えてもみなかったことだ。
 そのためか、こうして年をとって暇ができても時間をもてあましていた。いまから思うと何ともったいないことをしていたのかと悔やまれる。
 声をかけられた近所の農家の奥さんが六、七人集まった。教室は冬の間は使うことのない養蚕ハウスの二階の一室である。日当たりがよく暖房がなくても汗ばむほどの中で、一針ごとに編みあがる喜びをかみしめながら話題に花がさく。
 家庭内の話題「嫁姑問題・老人ぼけ等」は手編み教室のおかげで、一挙に解決できそうである。
 編み物を習い始めた今の私には、一分一秒が貴重である。
 編み物は、頭の回転を良くする作業であり、新たな目標や楽しみを作ってくれる。私にとっても老後の生きがいとなっている。
 一生懸命、無報酬でご指導してくださる柏俣さんと教室を提供してくださる藤縄さんには感謝の気持ちでいっぱいである。
     『嵐山町報道』329号 1985年(昭和60)4月30日  婦人のページ

ボランティアありがとう  志賀・山田美子 1985年

2009年03月12日 | 報道・婦人のページ
 去る三月三日のひな祭りの日に嵐山町から雄飛会(代表・関根弘子さん)の皆さん二十名が特別養護老人ホームの当、清雅園に慰問のボランティアに来て下さいました。
 中には、幼稚園から中学生までのかわいい会員の方々もあり、なによりお年寄りの皆さんに喜ばれました。二時間歌と踊りで、二百名の清雅園のお年寄りに、温かい心を寄せていただきました。
 又、車椅子のお年寄りにもできる手踊りや、最近の新しい歌にあわせた踊りを、その場で教えて下さり、会場のお年寄りと共に職員も楽しい時間をすごすことができました。
 歌はローズ会のメンバーのみなさんが、カラオケの設備までして下さったり、会員の皆さんとお家のお母さんたちが、毎晩少しずつ手ぬいで作って下さったポーチを二五〇個、それぞれにティッシュと折り紙の親子鶴を入れてプレゼントしてくだっさったのです。
 今、清雅園のお年寄りは、いただいたポーチに大事な小物を入れたり、散歩の時に持ったり、歯医者さんに入れ歯の修理に行く時義歯を入れて持ったり、大変便利にさせていただいています。色とりどりの花模様のこの小袋は、雄飛会の皆さんのあたたかさそのものです。
 教えていただいた踊りは、これからのお花見や、鍋料理を囲む夕食会、又は一泊旅行の時などに、楽しいプログラムとして加えていきます。
 ほんとうに、心のこもったボランティアを、ありがとうございました。(清雅園勤務)
     『嵐山町報道』330号 1985年(昭和60)5月25日  婦人のページ

性役割の流動化をめざして 国立婦人教育会館女性学講座 1985年

2009年03月08日 | 報道・婦人のページ

   性役割の流動化をめざして -女性学講座より-
                    国立婦人教育会館事業課専門職員 上村千賀子
 国立婦人教育会館では、調査研究事業の一つとして女性学講座を開催し、今年で6年目を迎えました。講座のねらいは、女性や女性の生活についていろいろな学問分野から女性の視点で研究し、女性が主体的に学習するために必要な情報を提供することにあります。
 昭和58年度(1983)から60年度(1985)の3年間は「性役割の固定化・流動化」をメイン・テーマとし、各年には,「見直しからの出発」「性役割の形成と教育」「性役割の流動化をめざしてー実践と展望」をサブ・テーマとして焦点的に考察しました。

  性役割とは
 テーマとしてとりあげた「性役割」とは、男・女という性の違いに応じて期待される一連の役割をさします。その「固定化」とは、性が違えば特性も違う、男と女はそれぞれ役割が異なる、だから違った生き方をするのは当然だとする方向です。
 「流動化」とは、性の違いが役割を決めるのではない、これまでの男の役割、女の役割とされてきたものも変わってきているし、変わっていくと言う事です。

  性役割固定化はなぜ問題か
 第一に女性の就労の増加等により女性の生活基盤が変化しているにもかかわらず、女性の生き方に枠をあたえ、その能力開花の機会を制約する。第二に、女性だけでなく、男性にも働き人間として偏った生き方を強いる。第三に、暮らしの基本的な問題にかかわる企画・立案の段階への女性の参加を妨げる。第四に、こうしてつくられた「男性中心社会」はさまざまな矛盾や限界を生み出すからです。

  性役割の変化と現状
 女性学講座を通して次のことがあきらかにされました。
 一、女性の役割(母親・主婦役割)の中身が変化し、新たな問題が生じていること-「お産の戦後史」や「台所空間の変遷と主婦像」の研究によれば、戦後40年の間に、自宅分娩から施設分娩が多くなるなど、医療技術に身を任せているうちに、女性のお産への主体的なかかわりが希薄になり、親子関係や家族のあり方をも変えてきました。
 戦後の台所革命は封建制をつき崩し、台所空間は住居の核となり、更に、昭和30年代の高度成長期には家事の合理化が進み、主婦は多くの余暇時間を手にいれました。
 しかし、この変化は女性の主体的な働きかけによるよりも、むしろ、社会、経済の発展の結果であり、時代の流れに身を任せているうちに生活領域が広がっていたというものです。
 二、性役割の流動化の兆しがみられるが限界があること-例えば、社会参加の一つとして女性の間で普及しているスポーツについて、競争主義に陥ったママさんスポーツは経済的には夫に依存し、精神的にも自立を欠いており、スポーツを地域や生活に根ざしたものとして積極的にとらえかえす必要があると指摘されました。
 また、働く母親が増えたが、その多くはパートなど不安定な立場にあること、男性の職業分野への門戸が開放されたが、女性側に職業意識が確立されていないことがあげられます。
 三、性役割の固定化と再生産が生活のあらゆる場面でみられること-子どもの性役割形成に大きな影響力をもつのは家族、とりわけ母親です。母親の選ぶ絵本の大切さもあげられます。活発で冒険的な男の子、無口で従順な女の子、絵本は視覚に訴え、くりかえし読まれるので性役割意識の形成に深くかかわっているのです。また、学校教育における男女の性による特性教育、新聞、雑誌、テレビ等マスメディアから流される固定的な役割モデルがとりあげられました。

  性役割流動化をめざしたさまざまな実践例
 生活と結びついた、男女が共に学ぶに値する新しい家庭科を創りだすことをめざした出版活動。女性センターづくりに女性の意見を積極的にとり入れている行政の取り組み。小・中・高校における男女平等教育や大学における女性学講座、男性の家事、育児への参加の実践例が発表されました。
 家事・育児を妻と分担し、職場、家庭、地域の活動を日常の暮らしの中で結びつけて生きてきた男性ジャーナリストはその発表の中で、〝家庭〟があって〝家事の分担〟があるのではなく〝個々の生〟があって〝家事の共同〟があるはずであり、より人間らしい暮らしとは何かを明らかにしたいなら〝女・子どもの視点〟に立とうと努力することだ、と述べています。
 女性学講座で共通に理解された「性役割の流動化」の方向とは、単に女性の自立や婦人問題を解決することにとどまらず、男も女も自立し、個人の意志と能力に応じた生き方を選択できるということです。-おわり-
     『嵐山町広報』339号 1986年(昭和61)2月20日 婦人のページ


新女大学・三育のすすめ 菅谷・佐々木ユ基 1986年

2009年03月05日 | 報道・婦人のページ

 「幼(いと)けなくしては親に従い、嫁しては夫に従い、老いては子にしたがう」という三従の言葉。
 私は女学生のころ父の勧めで和とじのその本を手にした記憶があります。その後ある雑誌で、親が娘にぜひ読むようにというと「イヤです。男の人が書いた本ですもの…」というエピソードを読みました。
 では、今様女大学どんな「三?」となるのだろうかと、わたしなりに思いめぐらしたことがあったが、そのころ青木先生から次のようなお話を伺いました。これからの女性はもっと積極的な女性像として、三従でなく「三育」でありたい、つまり第一に育てなくてはならないのは子どもであり、これが育児。
 第二に育ててほしいのが家計であり、財布をしっかり守る役割、すなわち家育。
 第三に育てなければならないのは、女性のもつ不正を憎む気持ち、平和を愛する心情をストレートに政治にぶっつける、これが女性の手で国を育てることであり、きわめて重要な助成の使命である、と三育を挙げられました。
 紙面に限りがありますので詳しくは書けませんが、第二の家育について、私たちは、限られた収入のなかで、できるだけ豊かな生活をし、また多くの貯金もしたいと思う。「豊かな消費と高い貯蓄」の両立については「ないものと思って貯めよ20%、使いきれ80%」の原則、貯めるべきは絶対にため、使うべきは絶対に使うこの割りきりが重要であるとのことです。その割合は20対80でも、10対90でも、その人、その家庭で定めるものでしょう。
 次に重要なことは、使うべき部分をできるだけうまく使って効果100%にもちこむ、消費資金額以上に活用する為には「消費と浪費の区分」を知っておくことが、たいせつであると言われました。

  消費と浪費の区別
 ① 自己思考型 他人思考型
 ② 計画型   衝動型
 ③ 実質価値型 付加価値型

 ①の自己思考型とは、広告や宣伝に惑わされずに、ほんとうに必要であるか否か、自主的に判断して買物をする。これに対し他人思考型は、広告を見てすぐ欲しくなったり、他人が持っていからといって、考えもなく買ってしまうことです。
 ②は略
 ③は中味の良否で商品選択をするか、うわべの価値だけで選ぶかということで、
    使用価値(使っての効果)
    耐久性(丈夫で長持ち)
等、主婦の消費態度がたいせつだということです。
 私たちは視野を広め、物価や税金、福祉の面も考えて、「三育」の精神をたかめてゆきたいと思います。
     『嵐山町報道』340号 1986年(昭和61)3月20日 婦人のページ


変貌する農村と婦人 古里・安藤たつ子 1986年

2009年03月04日 | 報道・婦人のページ
   〝箸の上げ下ろしまで監視の目〟
 私の目から見た農村婦人の位置づけについて筆を走らせて見たいと思います。
 私がこの町に嫁いで二十数年が夢の間にすぎようとしております。戦中、戦後を経験している一人で、過去を振り返って見ますと昭和三十年代の前半はまだまだ封建的な風潮があちこちに見られました。
 嫁たちは箸(はし)のあげおろしまで家族の監視の目にさらされ、ましてや嫁の立場で口答えなどしようものなら大変なことになったという体験者も多かったことを耳にしたこともありました。
 だが今では兼業化に伴い、父母、若夫婦が各々、農業や農外就労、家事などを役割分担し家族が対等な立場でしかも各々が主体的な存在として家庭を構成し、きりまわしするようになって来ているので、過去の暗いイメージもややもすると消えてしまったと言っても過言ではないでしょうか。
 このようなことで夫の農外収入を若い妻も比較的自由に使えるようになったり、あるいは、自分自身も農外収入を得ていたりして、日常生活上でお金に困ることが次第に少なくなって来ていて、農家の複雑な家計管理が従来にくらべ比較的オープンになってきていることを意味しており、その点では大きな前進があったといえます。
 つまり、ひとつには女同士がお互いの立場を認め合い、毎日を愉快に暮らしあおうとする懸命な努力の結果であると思います。
 家庭において何か物を購入する場合にまず、お母さんに相談してから話をまとめるとかの集まりにも最近では婦人が男性の代理で出席する姿が目立つようになって来ているように、家庭内、地域内においても、婦人の活動には目をみはるものがあります。
 今まで述べてきたことを、要約すると、高度経済成長前期は婦人たちは家からの解放を実質的なものをめざすとともに経済的自立をめざしたのに対し、高度経済成長以後は生活や生産における主体的管理者としての地位を築いた時代といえると思います。
 もちろん、自分たちの意志で得たものばかりとはいえません。政策に支えられた面も大いにあったのです。
 これからは地域社会をよくするための生産組織の、生産計画、販売計画に参加し農村婦人の限りない強い歩みを望みます。
 みんなでもっともっと力を合わせて明るい農村地域社会を作りましょう。
     『嵐山町報道』341号 1986年(昭和61)4月20日 婦人のページ

私の課題 志賀・緒方洋子 1985年

2009年02月25日 | 報道・婦人のページ
 既刊の『嵐山町報道』を婦人のページを繰ってみると、どのページからもさまざまな分野で活躍中の経験豊かな婦人が語りかけてくる。とりたてて趣味もなく経験も浅い私が登場するには、不釣り合いな場所のように思える。けれど、この機会を生かし、自分自身をみつめ直してみよう、そしてそんな自分を表現してみようと思い直して原稿用紙を手にした。
 私はどんなものの見方、考え方をしているのか、欠点や弱点はどこにあるのか。鏡を見つめる思いで生い立ちから現在までをたどっていくと、失敗談ばかり思い出す。数多い失敗談の中から二つにしぼって見直してみよう。
 一つはもう二十数年前、新米看護婦で初めて一人で夜勤をした時のことである。じっと座っていても不安で見回ってばかり、昼間はなんでもないナースコールのブザーの大きさに驚いたり、緊張の連続だった。
 消灯後の静まりかえった病棟に患者さんの呼び出し電話がかかってきた。反射的に時計を見て「消灯時間が過ぎていますので明朝かけ直してください。」と規則どおりのことを言って電話を切った。翌日その患者さんの部屋に呼ばれ、昨夜の電話は大事な取引の連絡で、取り次いでもらえなかったので大損をしたこと、弁償しろとは言わないが、規則で片付けられないことがあると注意を受けた。
 二つ目は、十年ほど前肢体不自由児施設で勤務していた時で、又も夜勤中のことである。こどもたちが消灯後もラジオをいやホーンで聞きながら寝るので、スイッチを消し忘れ朝までついている。電池が何日ももたない。そこで、消灯後もラジオをつけていた人は、一週間ラジオを取り上げることに決まったそうだ。申し送りでそのことを聞いた私は、さっそく次の朝一人のこどものラジオを預かり少しかわいそうだな、他に方法はないものかなどと思いつつ一週間後ラジオを返した。
 何ヵ月も経てすっかり忘れかけたころ、何気なく看護記録を読んでいたら、ベテランの看護婦さんのサインが目に入った。「…普通の家庭なら、親がそっとスイッチを切るものを……。」あの時のラジオのことだ。二件とも出来事は鮮明に覚えているのに、問題をどう処理したかについてはうやむやである。
 こうして書き出して行くと、いくつか欠点が見えてくる。まず、〝規則〟という言葉に弱いこと、責任感というだけですまされない思いやりのなさ。表面的なものの見方。人まかせで自分からは正面からぶつかろうとしない。
 かくして三十代もなかば過ぎた私に新しい課題が与えられたことになる。
 花を見たら、ただきれいだと思うだけでなく、もっと近より、その花は何色で、どんな花瓶に活けられ、どんな場所に置かれているか。上からも下からもちがう角度からもみて見よう。ここに活けられる前は、どんな自然環境のなかで咲いていたのか。さらに、これを活けた人は何を訴えているのか。
 今からでは手遅れでしょうか。
     『嵐山町報道』328号 1985年(昭和60)2月25日 婦人のページ

講座百人一首から「おもい草」誕生 1983年

2009年02月24日 | 報道・婦人のページ
 「おもい草」その名もゆかしくここに一冊の文集が生まれた。参加したそれぞれの人の想いがこめられて綴られている。
 昭和五十六年(1981)四月嵐山町教育委員会主催の文学講座百人一首の会が持たれて三年目、当初百名を上回った受講生も変遷の後、現在許された状況の中で本当に勉強したい人八十八名を数える熱心なグループである。
 幼い日に意味も分からず口ずさんだ歌を、古典文学に造詣の深い坂戸市立図書館長、飯高節子先生を迎えて、一ヵ月に一度、字句の解釈・文法・本歌・鑑賞まで、お口をついて出る流麗な言葉についノートをとる手も忘れがちになるほど楽しいひとときである。
 昨年秋好きな歌一首としての感想文を書いたがせっかくの機会ということで文集作成となった。文章を書くのは初めてという受講生も多い中で、専門的な理解と独自の見解を記した人、幼い日への郷愁を綴った人、今は訪うべくもない外地体験と重ねた想いなど、人柄をほうふつとさせて味わいが深い。
 百人一首を学ぶことで日本人の美意識・無常観などに対する認識で奥深い古典の勉強の入り口に立った感じである。これからも何らかの形で勉強は続けたいと思っている人は多い。(報道編集委員・中山記)
     『嵐山町報道』315号 1983年(昭和58)7月30日 婦人のページ