GO! GO! 嵐山 2

埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

新年にあたって 菅谷婦人会長・反町葉子 1976年

2009年07月12日 | 報道・挨拶(就・退任・年頭等)・施政方針
 新年明けましておめでとう御座居ます。御家族お揃いで昭和五一年(1976)の新春を御迎えになられた事と心からお慶び申し上げます。嵐山町が、恵まれた環境の中で育った長い歴史と伝統のもとに、新しい時代に大きく発展しつつある事は御同慶の至りであります。菅谷婦人会は、町民の皆様の御指導と御協力をいただきまして、昭和四五年(1970)に再出発したしまして七年目を迎える事ができました。この間の皆様の深い御理解と御支援に対し、会員一同感謝致しております。
 当地の御婦人には大変幸福な国立婦人教育会館が、山紫水明の旧日本農士学校の跡に建設中で、今年七月には一棟が完成し、五二年(1977)開館の予定であり、国内的国際的な御婦人の研修、交流、情報の交換等が盛んとなる事でしょう。膝元の嵐山町の婦人会といたしましては、一層内容を充実発展させなければならない年と思います。公民館の先生方の御指導で婦人学級を開いて、暮しの内容を再検討して生活をよりよくする為に、悪い習慣をみんなの力で改善してゆく活動をしたいと思って居ります。特に健康問題をとりあげ、家族の健康管理、料理教室、公害問題等の充実した研修をしたいと思って居ります。経済の高度成長がもたらした、心の荒廃による社会連帯の崩壊を回復させるのには、一戸、一戸の御家族の小さな善行の積み重ねが大切だと思います。それが為に、お互いゆかしい情緒と暖かい融和な気持で、話し合いの場を作りたいと思って居ります。どうか皆様方の暖かい御支援と御理解ある御協力を御願い申し上げます。町民の皆様の御健康と御繁栄を御祈り申し上げます。
     『嵐山町報道』254号 1976年(昭和51)1月1日

1988年度施政方針 嵐山町長・関根昭二 1988年3月

2009年07月05日 | 報道・挨拶(就・退任・年頭等)・施政方針

   21世紀へのかけ橋を築くために
          昭和63年度施政方針
 昭和六十三年(1988)三月の定例会が三月十日から二十三日までの会期で開かれました。三月議会は予算議会とも言われ、一般会計当初予算など昭和六十三年度の五つの会計の予算案が上程され可決されました。予算案に先立ち行われた関根町長の施政方針演説の概要をまとめてみました。

  町制運営に関する基本的な考え方
 昭和六十二年(1987)は、嵐山町が町制を施行して二十周年の記念すべき年でありました。
 多くの先輩の献身的な努力と町民の協力で築かれた、今日の嵐山町を更に大きく発展させる基点と考え、記念式典をはじめとする各種の記念行事を実施して参ったわけでありますが、議員各位並びに町民皆様がたの絶大なるご支援とご協力を賜り、おかげさまで意義深い記念年とすることができましたことに衷心より深く感謝申しあげるしだいであります。
 私は、町長就任以来一貫して活力ある町づくり、健康な町づくり、文化的な町づくりの三つを政策の基本に据え、その実現に懸命な努力を重ねてまいりました。
 昭和六十二年度におきましても、農工調和した活力ある町づくりを推進するため、花見台工業団地の用地取得、土地改良事業、農業近代化事業等大きく前進することができました。また、町の中心である市街地の開発にも力を注ぎ、駅東区画整理事業は順調に進展いたしました。
 さて、私は、昭和六十三年度の町制運営に当たりましては、二十周年で誓った町づくりの理念と、三つの政策目標を基礎に渾身(こんしん)の力をふりしぼって、やがて来る“二十一世紀へのかけ橋”を築く一年にしたいと念願しております。

  三つの基本政策の実現に向けて
 実施計画との整合性を保ちながら、三つの基本政策の実現に向けて実施する事業について、その概要を申し上げます。

  活力ある町づくり
   生活基盤の充実を図る
 花見台工業団地の用地取得につきましては、残る地権者の協力を得るため、全力をあげて努力いたす所存であります。なお県企業局の六十三年度の事業計画は、環境アセスメントの実施、実施計画の策定、調整池の工事着手などでありますので、地元としてじゅうぶん協力して参りたいと思っております。また、農村地域工業導入促進法に基づくいわゆる小規模工業団地につきましても、平沢地区六・二haが県の協議を終え、国の指定を待つ段階にありますのでこの早期指定に努めますし、これらの工業団地の将来にかかわりの大きい関越インターチェンジにつきましても、関係市町村とともにその実現に向かって邁進(まいしん)いたしたいと思っております。
 六十三年度におきましては、町民の日常に身近な道路整備あるいは産業振興に力を注ぎたいと思っております。
 町政懇談会等での町民の要望にこたえるための直営工事、道路補修、舗装修繕等につきましては、予算を増額して積極的に対応して参りたいと存じます。
 北部地区の産業文化の拠点となる農業構造改善センターにつきましては、備品などを整備いたしまして内部を整えるとともに、工事の完成をみてオープンしたいと考えております。
 商工関係では、商店街環境整備事業としての街路灯設置、中小企業集団福祉事業等商工会の行う事業に対して積極的に援助を行うとともに、町としての振興策も継続して参ります。
 次に市街地周辺の総合的な整備を進めるため、六十三年度新規事業として、駅周辺のまちづくり計画、駅西側の市街化区域とこれに隣接する平沢地区を併せた百二十四haを対象とした市街化環境評価調査(A調査)、及び懸案であります農免道路接続のための千手堂地区道路整備計画を作りたいと考えております。
 町の発展を導く一つに、その時代、社会情勢等に合った振興計画があると思います。そこで、六十三年度はアンケート調査、公聴会など町民の意見をじゅうぶん取り入れられる手法をもって、第三次嵐山町総合振興計画を策定したいと考えております。

  健康な町づくり
   総合運動公園を完成
 医療の充実につきましては、医療機関の協力を得て従来に増して一般健康診査、あるいはがん検診を実施して参りたいと思いますし、健康思想の普及を図るために各戸配布の健康カレンダーを作成したいと思っております。
 スポーツ振興の面では、総合運動公園の敷地に農村広場を建設するとともに、これに併行してすでに造成済みの第一・第二グランドの擁壁工事、排水工事、全体的なネットフェンス工事、ジョギングコースの整備などを行って、長年の懸案でありましたこの事業のいちおうの完成を見たい計画であります。また、夜間照明施設を玉ノ岡中学校グラウンドに建設してスポーツ施設の拡大を図るとともに、ゲートボール場の環境整備に対する要望が多くありますので、この整備にも努めて参りたいと思っております。都幾川右岸の桜並木の堤防(学校橋から二瀬橋の間約一㎞))には、自然遊歩道を設置したいと考えております。
 これらの施設整備によって、町民がいっそうスポーツに親しみ、一町民一スポーツ運動の輪が広がることを願っておるしだいであります。

  文化的な町づくり
   下水道事業の幕あけ
 長年の念願でありました下水道事業が幕あけの年を迎えました。すなわち県、滑川町と本町で進めて参りました市野川第二種流域下水道事業が、六十三年度採択の見込みとなったからであります。下水道事業の実現には、長い年月とばく大な財政投資を必要といたしますが、関係者皆様がたのご理解とご協力をいただいて是が非でも取り組まなければならい事業だと考えております。
 しかしながら、当面対応を必要とする問題は解決しなければなりませんので、六十三年度は汚水については、家庭用小型合併浄化槽の設置補助制度を創設して奨励し、都市下水につきましては、新田沼都市下水路の六十四年度完成に向けて工事を実施する考えであります。
 一方上水道につきましては、県水導入の動きもありますが、当面計画的に管網の整備を行い、良質で豊富でしかも低廉な上水の供給につとめたいと思っております。
 義務教育の振興につきましては、小中学校の施設整備の充実を図ることはもとよりでありますが、手づくり教育の推進にも意を用い、またまもなく埼玉博覧会が開かれようとしておりますが、この機会をとらえ学校の行事計画に合わせて、博覧会への入場料を補助し、児童生徒が見聞を広める校外教育の推進にも力を注ぎたいと考えております。
 学校教育の中で町の歴史を知り、郷土愛を育むこともたいせつなことでありまして、六十三年度は行司免遺跡など町内遺跡の発掘成果をわかりやすく編集した冊子を発行し、小中学生に社会科副読本に使用することも考えております。
 また、交通安全施設と通学路の整備も文化的な町づくり事業の一つと考えております。
 次に社会教育、生涯学習の分野におきましては、町民の期待の大きい町立図書館の内容充実に重点を置きたいと考えております。更に、地域のコミュニティづくりと社会教育の場として活用される地区集会所建設にも積極的に援助いたす所存であります。
 本町を代表する文化的事業であります町民文化大学、歴史講演会並びに歴史講座、嵐山音楽祭等は、内容を更に充実しつつ継続して参りたいと思っております。
 最後に本町をとりまく文化的環境づくりについて申し上げたいと思いますが、花いっぱい運動につきましては、六十三年度初めての試みとして直営による花のほ場を設け、手づくりによる花苗を生産して町内に配り、町民と密着した本来の運動をスタートさせたいと考えております。
 国蝶オオムラサキの森づくりにつきましては、やがて活動センターが県から無償譲渡される予定でありますので、町の一文化施設として管理運営し、所期の目的を達成して参りたいと思っております。
 今日、財政事情の極めて厳しい中でこれらの事業を推進するために、職員のもてる力を一に結集し、確固たる信念をもちまして町政進展のために努力いたす所存であります。
     『嵐山町報道』363号 1988年(昭和63年5月25日


菅谷村長就任に際して 関根茂章 1964年

2009年05月28日 | 報道・挨拶(就・退任・年頭等)・施政方針

 新村長になった関根茂章氏は九月九日初登庁し、全職員を第一会議室に集めて就任の挨拶をした。また青木前村長も出席して新村長を紹介した。
 新村長と前村長との事務引き継ぎは九月十一日村長室で行はれ関根新村長により村政の第一歩が始められることになった。十二日には関根新村長就任後の初の議員協議会が開かれ山下議長に紹介された関根新村長は全議員の拍手に迎えられて就任の挨拶をした。

 合併後の非常にむづかしい時代を、青木・小林両氏のコンビで村政の執行を担当され、菅谷村を今日の発展に導き、将来の躍進への基礎を固められたのであります。この両氏の、長年にわたる鏤骨(ろうこつ)の御努力と御尽瘁(じんすい)に対し、またこの両氏を支持された村民の各位に対し、深甚なる敬意と感謝の意を表する次第です。
 今回、図らずも両氏の御勇退の後を受けて、私が村長として村政を執行することになりました。
 もとより浅学非才ではございますが、長期にわたり、私に寄せられました多数の村民の方々の強烈な御誠意と、幼児から私を育くんでくれた故郷の美しい山河に対し、私はただひたすら奉仕の誠をつくして応えたいと思います。
 今日の菅谷村が、幾多の先人達の努力の集積の結果築かれたと同様、将来の輝かしい発展と興隆の芽を今ここに胚胎させこれを健全に育成することが、私共の義務であろうと存じます。そして、先人への感謝と報恩、未来への希望と理想も現実への逞しい実践によってのみ可能であります。
 村は東京都の近郊であり内からも外からも激しいテンポで変貌しつつあります。この変貌を、村民の理想と意欲を結集した真の興隆に導かねばなりません。
 私は真心をもって、村民の声を聞き、勇気を奮って理想の実現に献身いたしたいと思います。村民各位の御支援と御協力を切に懇願する次第です。(九月十日)
     『菅谷村報道』155号 1964年(昭和39)10月10日


嵐山町長退任挨拶 関根茂章 1984年

2009年02月11日 | 報道・挨拶(就・退任・年頭等)・施政方針

 初秋の候、皆様には益々ご清祥のこととおよろこび申上げます。
 さて、私は九月八日任期を満了し、盟友の新町長に今後を託し、嵐山町長の職を退きました。顧みますと、昭和三十九年(1964)、「愛」と「道義」を基調とした文化的田園都市を創造することをうったえて初当選いたしました。三十九歳になったばかりでした。
 以来、五期二十年の長きにわたり、皆様の絶大なるご支援をたまわり、嵐山町の首長として、その重責をはたすため、己(おのれ)をつくして働かせていただきました。ちょうど日本の経済・社会の飛躍的発展期から、今日の低成長期へと激動と不透明な時代でありました。
 この間、国・県・町・広域の行政機関や議会の関係者の皆さん、また多数の町民の皆さんからあたたかい絶大なご支援とご協力をたまわりました。皆さんのご支援あればこそ、長期にわたる職責をはたすことが出来たのでございまして、心から感謝を申し上げる次第でございます。本当にありがとうございました。
 わが嵐山町は、すばらしい自然と幾多の歴史遺産にめぐまれ、常に私どもの誇りとする、ふるさとでございます。このふるさとは幾多無名の先人たちが、営々として心血を注いで築いてきたものであります。治乱と興亡の歴史を生きぬいて、今日の嵐山町があるわけでございます。二十年、それは長い歴史の一点にすぎないかも知れませんが、私は無上の光栄と充実感を覚える次第でございます。
 特に日本の発展期に際会し、その姿の中に文明の衰亡の兆(きざし)を感じとった私は、次のことを考えました。立派な花や実を得るためには眼には見えない、地下部の根を強靱にしなければならない。ましてや根を腐らしては絶対にいけない。そして更に、国家、社会の病気はその主体者である人間が、「偽」(うそ・いつわり)「私」(エゴ)「放」(ルール違反)「奢」(心身のおごり)から始まる。これを「四患」と言い、これを発生させないようつとめること、発生したら除去することであると中国の荀悦という昔の人(荀の十三世の子孫)が教えています。
 これらのことを肝に銘じて、命がけで町政を担当させていただきました。そして幾多の美しい心、あたたかい心、きびしい心、大きい心を知ることが出来ました。感謝の気持でいっぱいでございます。また、幾つも未解決の問題を残していて申し訳なく存じています。しかし、先輩の播いたものを収穫したり、自分の播いたものを後輩が管理し、収穫することは、行政の鉄則でございますので、ご理解をたまわりたいと存じます。
 新町長は、行政の大きな流れを継承して下さるとともに、二十一世紀へ向けて、活力ある新しい展開をなさるものと、私は願いをこめ期待をいたしておるところでございます。
 何卒、新町長に対し、一層のご支援を賜わりますよう、心からお願いする次第でございます。
 私は今、任を終え、高崎達蔵・青木義夫両先輩の墓前に謹んで報告を申しあげたところでございます。
 今後は野にあって、ささやかながら一灯を点じ、一隅を照らす精進をかさね、いささかなりと皆様の御厚情に報いたい念じておるところでございます。
 最後に、嵐山町の限りない発展と、平和、町民皆様の御多幸を切にお祈りして退任のあいさつにかえさせていただきます。

   関根茂章町長二十年の歴史
 昭和39年(1964)9月 菅谷村長に初当選
 昭和40年度 鎌形八幡橋落成 670万円
 昭和42年度 町制施行(4月)、嵐山町となる(世帯2091戸、人口10148人)
       七郷中体育館落成(3月)
 昭和43年度 菅谷中プール竣工(7月)
       嵐山町誌発行(8月)
 昭和44年度 七郷中プール竣工(7月)
 昭和45年度 中央公民館落成(4月) 4450万円
 昭和46年度 地産団地分譲始まる(9月)
       菅谷小新増築工事落成(3月) 1億3780万円
 昭和47年度 消防組合第一分署開署
       槻川橋竣工 6500万円
       国立婦人教育会館嵐山町に決定(3月)
 昭和48年度 菅谷館跡国指定史跡となる
       全町水道工事完成(5月) 2億7805万円
       町立幼稚園完成(12月) 3774万円
       七郷小改築工事落成(3月) 1億7065万円
 昭和49年度 菅谷小プール竣工(7月)
 昭和50年度 菅谷中増築校舎完成(5月)
       県立歴史資料館完成(7月)
       七郷小学校校庭完成 自衛隊の部隊の施工による
 昭和51年度 県立嵐山郷開園
 昭和52年度 国道254号嵐山バイパス開通
       国立婦人教育会館開館(11月)
 昭和53年度 鎌形小校舎完成 6050万円
 昭和54年度 志賀小開校 3億9900万円
 昭和55年度 町民憲章を制定
       関越自動車道(東松山~前橋)開通 嵐山区間5.9㎞
       菅谷小校舎・調理室完成 5億3000万円
 昭和56年度 町民文化大学開講
 昭和57年度 駅東土地区画整理組合設立
       嵐山南部土地改良区設立
       鎌形・二瀬グランド完成
 昭和58年度 日赤旧社屋鎌形小へ移転
       嵐山町史発行
 昭和59年度 玉ノ岡中開校 5億3750万円

     『嵐山町報道』324号 1984年(昭和59)10月5日


菅谷村長退任の挨拶 青木義夫 1964年

2009年02月10日 | 報道・挨拶(就・退任・年頭等)・施政方針
 去る九月八日をもって私の村長としての任期も終りました。任期中村民の皆様から賜わりました御懇情に対し、報道を通じ心から厚く御礼申上げます。
 顧みますれば私は昭和二十五年(1950)、旧七郷村議会議員に当選、昭和二十六年(1951)議長に選ばれ、更に昭和二十九年(1954)三月七郷村長に当選、その任期半ばに町村合併により退職、新村菅谷村誕生と共に参与・助役として昭和三十一年(1956)九月高崎村長の後を受けて二代目菅谷村長に就任、以来二期八年の間皆様の絶大な御支援御協力によりここに任期を完了することが出来ました。
 過去十余年を振り返って見ますと町村合併の仕事は私の一生にとって最も困難な大きな事業でありました。
 当時の七郷村に於ては大小五十数回の話し合いを重ね漸く新村が誕生した訳でありますが、当時を追憶すると誠に感慨無量のものがあり、村民皆様の御協力下さったようすが今も尚脳裏に深くきざみ込まれて忘れようとして忘れ得ない次第であります。
 菅谷村長就任後の八ヶ年間は、合併後間もなく、合併のためのいろいろのひずみや傷跡も残り、又地方自治制度を始め、教育・財政・税制・消防・福祉等各般の制度の改廃等が次々に行われ、更に又急激なる経済成長等による国民生活の著しい向上等実に目まぐるしい八ヶ年でありました。
 この間の思出も極めて多いのでありますが、昨秋の交通事故は私の心の中に大きな傷跡として残るものと信じます。
 又仕事の面につきましても中学校の新築増築、役場庁舎の新築、自動車ポンプの購入、県道の舗装改修、バス開通、大蔵橋・谷川橋・精進橋の架橋、乳牛の貸付制度創設、市乳主産地形成事業、新農村建設事業、小団地開発事業、農業構造改善事業、工場誘致、ゴルフ場開設、水道経営、し尿処理場計画、明星福祉基金制度の創設、敬老年金制度の創設、国民健康保険の運営等々の事業も忘れ得ない思出の仕事でありました。
 今ここに村長の職を去るに当り、静かに八ヶ年を振り返り、これらの事業遂行に当り、直接間接に御協力下さった皆様の御厚意に対し、感謝の気持で一ぱいで感慨胸に迫るものを感ずる次第であります。
 本村が今日の発展を(昭和三十一年度の村予算に比し、昭和三十九年度は約五倍の一億円余に増加しています)見ましたことは村民皆様の御協力のお蔭でありますことは申すまでもありませんが、前村長高崎さんの霊が私及び本村に対し、お加護下さった賜であると存じ、高崎さんの霊に対し改めて心から感謝し、御冥福を祈ると共に今後も更に一層本村発展のため御守り下さるようお願する次第であります。
 菅谷村は今後町制施行を始め幾多の事業が山積していますので村民多数の方々から尚一期勤め新村建設の仕上げをするようにとの有りがたい御声援御支援の御要望もありましたが、昨秋の交通事故に対する責任を痛感し、私の政治的良心が許しませんし、余り長く御厚意に甘えることは適当でなく、又躍進途上にある菅谷村のよりよい発展を期するためにも後進に道を譲ることがよいと信じ御声援下さった皆様の御厚意に逆って申訳ありませんが、私の心中御賢察の上御許し戴きたいと存じます。
 私は未だ還暦に達せず私の人生はこれからであると存じますので、今後大いに社会の為郷土の為に奉仕せねば相済まないと存じています。今後は一村民として二十二年の教員生活と議員・村長十五年の人生体験に反省を加え之を生かして明るい村造りに御協力申上げ、皆様の御厚意に報いたい所存であります。
 何とぞ旧に倍して御厚誼を賜わりますよう御願いいたします。
 幸に後任村長として関根茂章氏が選ばれましたが、関根新村長は私の熊農の後輩であり、又埼玉県社会教育委員としても後輩であり、私の信頼して選任した教育委員で然も村長・教育委員長としての二人のつながりは特別のものがあると存じます。私の任期第一期は新村菅谷村が産声をあげた当時の言わば乳児期で、第二期は幼児期であったと存じます。関根新村長の若い情熱と高い教養とによって、今後少年期・青年期を健全に育成し、立派な菅谷村に仕上げて戴けると確信いたします。村民の皆様、私に寄せられたと同様、関根新村長に御協力下さるよう御願いいたします。
 村長満期退任に当り、謹んで村民皆様に重ねて厚く御礼申上げると共に今後愈々御健勝御幸福でありますよう御祈りいたし、退任の御挨拶といたします。 (三九・九・九記す)
     『菅谷村報道』155号 1964年(昭和39)10月10日