GO! GO! 嵐山 2

埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

よりよい村にする為の具体的方策(川島・森田與助) 1951年11月

2008年09月13日 | 報道・よりよい村にするために 1951年
 講和講和、待望の講和は締結され我が国は漸く独立することが出来た。我々国民は大いに祝福して止まぬと同時に茲に認識を新たにし日本人としての覚悟をせねばならぬと思ふ。言ふ迄もなく我が国の前途は多事多難なものがある。自衛権の確立、賠償問題、人口問題、食糧問題等々枚挙に遑(いとま)なく、国際情勢の如何によっては大なる犠牲を払はねばならぬと思ふ。だが私はこう言ふ国家的問題に触るるものでなければこれら大問題は先人に託して先づ自分を省み自分の家を視(み)、自分のを知り、自分の町村と先づ自分の周囲を知ることが尤も大切なことではなからうか。国の細胞たる町村が堅実でなくては国家の繁栄は望み得ぬものと思ふ。
 茲(ここ)で菅谷村を良くするにはどうしたら良いかと言ふ事を考へる時、私は教育であると言いたい。そして其の補助機関なるPTAにお願ひする。言ふ迄もなく今迄の教育は先生任せ学校任せであった。それではならぬ。如何しても学校と家庭が一体とならねばよい教育は出来ぬと言ふ見解から教師と父兄の会(PTA)が組織され、幾年か過ぎたが果して全般の方々がPTAを理解されて居るだろうか。特に家庭に於ては婦人の力に依る処が大きい。父兄とし母姉としどれだけ理解し認識されて居るだらうか。疑はしいものである。
 されば真に理解させその有りかたを知らせるには字毎に懇談会等数多く開きお話しすることが尤も効果的ではないかと思ふ。されば先生諸兄の一段のご努力をお願ひしPTA本来の道を進みたいものである(民生委員、46歳)。
     『菅谷村報道』17号(1951年11月10日)掲載


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。