GO! GO! 嵐山 2

埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

夫戦死後の私の一生を振り返って(菅谷・水野今子) 1995年

2008年10月27日 | 戦争体験
 夫は大阪府警察部衛生課に勤務していました。召集令状が来たのは昭和十四年(1939)十一月の半ばでした。当時私は産後風邪をひき肺炎から肋膜に水が溜るという九死に一生の病後で、子供は私の母が一切世話をしていました。夫は近歩二に入隊してから一回帰宅しただけで、中支へ。そして南支から仏印へ。昭和十六年(1941)十二月八日大東亜戦争が始まると同時にマレー半島を進撃し、シンガポール陥落の前日昭和十七年(1942)二月十四日戦死しました。
 昭和二十三年(1948)春頃に遺族会が出来るから婦人部長にな夫戦死後の私の一生を振り返って 菅谷・水野今子
 夫は大阪府警察部衛生課に勤務していました。召集令状が来たのは昭和十四年(1939)十一月の半ばでした。当時私は産後風邪をひき肺炎から肋膜に水が溜るという九死に一生の病後で、子供は私の母が一切世話をしていました。夫は近歩二に入隊してから一回帰宅しただけで、中支へ。そして南支から仏印へ。昭和十六年(1941)十二月八日大東亜戦争が始まると同時にマレー半島を進撃し、シンガポール陥落の前日昭和十七年(1942)二月十四日戦死しました。
 昭和二十三年(1948)春頃に遺族会が出来るから婦人部長になるようにと話がありました。戦地へ送る時は十五は心配するなと言って見送ったのにと遺族の現状を思うと、これではひどい。皆で国に訴えたいと思っていたので、引き受けました。今は次のことを国の為政者に御願いします。
 八月十五日終戦記念日の公式参拝の実施、戦争は悲惨で無益なことを語り伝え、地球の平和を守ってゆくことを。

 かかる朝夫は征でたりプラタナス軍靴の如き音を立てて散る
 夕映えの山の彼方に幸ありと信じて待ちぬ夫征でし後
 沈丁花ほのかに匂ふ午後なりし戦死の内報手紙にて来ぬ
 赤き服着て父迎ふ筈の子が白き服着て遺骨を持てり
 乏しき服教材買はぬ生徒等の父は戦死とふ国の扶助なく
 初めての大会なりき木炭バスで熊谷市まで往復せしは
 陳情に行きて議員にいたはられ声あげ泣きし妻たちも老ゆ
 祭典の終らぬ中に帰り来し道に落花の雨に流るる
 我と共に帰り来ませと語りかけ異国の墓碑に水を注げり
 絵をかくを好みし夫は戦地にて他国の景色クレパスに残せり
 大学の卒業アルバム数年後いくさに死すと誰か思ひし
 トランクの中整然とおかれゐるマレー戦線へ向ふ前夜か
 終戦後半世紀経ぬ戦争を知らぬ世代の片隅に生く
 戦へる国の未だあり我が国は憲法九条守り抜くべし

     『想いあらたに-終戦50周年記念誌-』(埼玉県遺族連合会・埼玉県傷痍軍人会・埼玉県軍恩連盟、1995年8月15日)

五十年前を省りみて(将軍沢・忍田政治) 1995年

2008年10月11日 | 戦争体験

 昭和十七年(1942)十二月十五日東部片岡部隊に入隊した。入隊式で渡満の輸送指揮の江口少尉以下六名を紹介された。
 一週間の渡満教練中の三日目教育係からビンタをとられ奥歯五本を折損して食事もとれなくなった。これが軍隊だと実感した。
 二十三日二十二時品川発の軍用列車で下関港に流れる玄海灘をこれが故国の見納めだと山崎軍曹に言われ遠去かる島影を眺めて涙し多勢が二度と故国の土を踏まず大陸に骨を埋めた。朝鮮半島釜山に上陸してまた鉄路で北上、十二月三十日、正午北満の大都市ハルピン着。迎えの車に分乗して明治三十五年(1902)ロシアのミルレル中将が建てたという兵舎に入隊した。
 満洲派遣第六二四部隊、聯隊長横山伊三郎大佐であった。第一中隊に編入され初年兵教育をうけた。第一大隊は輓馬であった。兵科は輜重である。教練の中心は乗馬である厳しく両ひざに衣袴をけづって穴があくまで鍛えられて一人前の乗馬兵となった。なぐられけとばされていくうちに初年兵教育も馬術の模範演技兵となって実技をこなし検閲を終った。師団派遣の査察官は参謀長長勇少将であった。下士官候補者と命令を受け第一大隊の集合教育が行われ、また他部隊からの集合兵も来隊した。ハルピンは白系ロシア人の興した街で各国人が住み柳の大木のある処、松花江の大河が流れた素晴らしい都市だった。
 集合教育を終って十九年(1944)一月牡丹江第四七八部隊に下士官教育のため派遣となって同期十一名の引率者で入隊した。関東軍中の輜重下士官の養成所で鎬をけづるような学術科の教育が実施された。ここで高園大尉に坑命して軍刀斬殺の運命となったが剣術修練の賜で一命を許されて、四七四人中四番で卒業し原隊復帰した。ハルピンを動員下令で部隊がチチハルに移駐、聯隊長、副官に同行して大草原の新任地に行き、即日中隊長に申告、当日付で内務班長、初年兵教育係を拝命された。見渡す限りの大草原、北満の猛将馬仙山の兵舎だった屯営は小さく馬が天上につくほどであった。乗馬長路騎乗で見た会津若松騎兵十八聯隊全滅の碑は軍人の哀しさを知った。
 七月動員下命、出陣式を行いチチハルを後に南方戦参加となって鉄路を釜山に下った。ここで特命が下り多くの部下と惜別して隊長以下三十八名の編成で下士官中心の隊となった。
 江差丸で輸送指揮官横山伊三郎大佐、六千余名は沖縄県宮古島に上陸、日本防衛軍としへ第三十二軍の配下となってわが内山隊は師団直轄となって島の中央に飛行場建設に当る軍民共に不眠不休の重労働を重ねて聯合軍の沖縄侵攻の時我軍の特攻基地として米軍の日夜をわかたぬ艦砲射撃、艦上機の爆撃、それらの間げきをぬって多くの特攻隊を送り出した。島は天地を覆した如く変り果て多くの戦友を失った。
 あれから五十年、来る十月十一日、生き残った輜重二十八聯隊の戦友と宮古島に慰霊の旅に立つ。諸霊の冥福を祈りて。


     筆者は1924年(大正13)生まれ。嵐山町報道委員会が募集した「戦後50周年記念戦争体験記」応募原稿。『嵐山町博物誌調査報告第4集』掲載。