GO! GO! 嵐山 2

埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

歌集『朝鐘』(抄) 昭和49年 1 関根茂章 1974年

2009年05月28日 | 文芸

       新春
   遠つ人宇家良(うけら)が花に夢はせし
          武蔵の原は明け染めにけり

   明け染むる比企の山脈(やまなみ)襞(ひだ)のこく
          千古の史(ふみ)を秘の湛(たた)ふかも

   新春(にいはる)の光(ひかり)沁(し)み入(い)る山径(みち)を
          子らと歩めば心安けし

   新春の願ひ抱きつ光(かげ)あはき
          朝(あした)社のきざはしを踏む

   乙女着し紺の絣(かすり)は初々(ういうい)し
          人群る駅に佇ちどまり見る


       消防団出初式
   光(かげ)あはき睦月(むつき)の朝を並(な)み立ちて
          眉字かためたる雄の子凛々しき

   若きらは寒気肌つくこの朝
          ひとみさやかに口結び立つ

   新鋭車あやつる顔のかがやきて
          エンヂンの音かるくひびきぬ


       成人式*
   よそほひのかげ鮮けきおとめ子の
          瞳(ひとみ)に沁みむ碧き山脈(やまなみ)

   二十年を歩み来りてすこやけし
          面輪(おもわ)かげらず道いゆきませ

*1974年1月15日、菅谷中学校で昭和49年成人式。成人者236人の約6割強の150人が出席。「1952年(昭和27))、53年、朝鮮戦争当時生まれ、繁栄の中に育った青年達」(『嵐山町報道』236号)。

       新園舎*
   幾年(いくとせ)をうからと共に耕せし
          汗滲(にじ)む畑に園舎建ちたり

   夕(よい)闇の迫りくるまで業(わざ)なしし
          憶(おも)ひつもりし墾畑(はりはた)なりき

   子らを待つ園舎の午後は寂かなり
          かなしき願ひ踏み行き給へ

*1973年7月着工の嵐山町立嵐山幼稚園新園舎が12月28日完成、1974年1月5日移転、1月8日園児を迎え使用開始(『嵐山町報道』235号)。


       日記
   長男の生れし時の古日記
          子と読み合ひぬ日曜の午后

   ひたすらに祈る心情(こころ)のあふれゐて
          父となりし日つつましかりき

   産(う)み終えし妻のやすらぐ笑(えみ)し顔
          こぞの日のごとあざやかに浮く


       続日記
   くだちゆくいで湯の夜を独り坐し
          願ひこめつつひた写しけり

   吾が願ひ践(ふ)みゆき給へと古日記
          想ひよせつつ写し終りぬ

   君よ知れ父の祈りを生(あ)れし日の
          おののく文字はすみ滲(にじ)みゐる


       木の葉掃き
   埋もれる木の葉を掃けばやわ土に
          光しみ入る朝は寂(しず)けし

   霜を踏む音さくさくとあかときの
          鎮もる山にくぬぎ葉を掃く

   霜柱踏みくずし行く山径に
          朝の光は乱りかがよふ

   山川をこえて沁みくる朝の鐘(かね)
          木の葉掃く手を止めて聞き入る


       鬼鎮神社節分祭
   福は内鬼は内なる告(の)り言(ごと)も
          ここに十年(ととせ)を重ねけるかも

   節分祭今年(ことし)も父と臨み得ぬ
          有難しと思ふ安けき月日を


       雪の城趾
   降る雪を樹下にさけてたそがれの
          古りにし趾を瞻(まも)りゐたりき

   雪あかり踏みゆく趾のあざやけく
          城趾(しろ)の小径(みち)に刻みつづけり

   白銀(しろがね)の雪降りしきる二の丸に
          佇てば寂しも野山埋めて


       青嵐会の大会
   名もいらず命(いのち)もいらず国護(も)ると
          さけぶ雄の子のかなしかりけり

   満ちよする潮(うしほ)の如きどよめきを
          背に聞きつつも館(たち)辞しにけり

     関根茂章『朝鐘』 1974年(昭和49)12月


菅谷村長就任に際して 関根茂章 1964年

2009年05月28日 | 報道・挨拶(就・退任・年頭等)・施政方針

 新村長になった関根茂章氏は九月九日初登庁し、全職員を第一会議室に集めて就任の挨拶をした。また青木前村長も出席して新村長を紹介した。
 新村長と前村長との事務引き継ぎは九月十一日村長室で行はれ関根新村長により村政の第一歩が始められることになった。十二日には関根新村長就任後の初の議員協議会が開かれ山下議長に紹介された関根新村長は全議員の拍手に迎えられて就任の挨拶をした。

 合併後の非常にむづかしい時代を、青木・小林両氏のコンビで村政の執行を担当され、菅谷村を今日の発展に導き、将来の躍進への基礎を固められたのであります。この両氏の、長年にわたる鏤骨(ろうこつ)の御努力と御尽瘁(じんすい)に対し、またこの両氏を支持された村民の各位に対し、深甚なる敬意と感謝の意を表する次第です。
 今回、図らずも両氏の御勇退の後を受けて、私が村長として村政を執行することになりました。
 もとより浅学非才ではございますが、長期にわたり、私に寄せられました多数の村民の方々の強烈な御誠意と、幼児から私を育くんでくれた故郷の美しい山河に対し、私はただひたすら奉仕の誠をつくして応えたいと思います。
 今日の菅谷村が、幾多の先人達の努力の集積の結果築かれたと同様、将来の輝かしい発展と興隆の芽を今ここに胚胎させこれを健全に育成することが、私共の義務であろうと存じます。そして、先人への感謝と報恩、未来への希望と理想も現実への逞しい実践によってのみ可能であります。
 村は東京都の近郊であり内からも外からも激しいテンポで変貌しつつあります。この変貌を、村民の理想と意欲を結集した真の興隆に導かねばなりません。
 私は真心をもって、村民の声を聞き、勇気を奮って理想の実現に献身いたしたいと思います。村民各位の御支援と御協力を切に懇願する次第です。(九月十日)
     『菅谷村報道』155号 1964年(昭和39)10月10日


報道委員会開催 1968年2月

2009年05月27日 | 報道

 二月十五日は昭和二十六年以来十七年ぶりの大雪があり、その直後十六日の委員会開催で、参加役員はまことに不運であった。しかし参加の数名は関根昭二会長を始め熱意ある発言が続出して、報道運営その他について次のような協議結果をまとめ上げた。

  一、報道発行について
 昭和四十二年度事業の残部として、報道二月号(第一八一号)、三月号(第一八二号)を続けて発行する。

  二、報道委員会事務局について
 事務局を役場内に置くことを改めて確認し、事務局職員として、安藤助役、総務課小輪瀬庶務係長を委嘱する。

  三、報道運営について
1、「嵐山町報道」については、長い経歴を持っているので、従来どおり「嵐山町報道」として持続する。
2、紙面はB五版を用い、「とじ穴」をあけるよう便宜を計ること。
3、報道内容は、広報的なものと、いわゆる新聞的なものとをかみ合わせた考え方で行く。
4、報道印刷費について、「第一印刷」と「大洋社」の二社から見積書を取って、その紙質や印刷費につき充分検討すること。
5、嵐山町を会場とする広報研究会開催の節は、委員会役員も之に出席して研究する。
6、原稿校正、割付等は編集係を中心に行ない、委員会は努めてこの仕事に協力することとする。

     『嵐山町報道』181号 1968年(昭和43)2月20日


議員の心構え 嵐山町議会議長 高橋行雄 1968年

2009年05月26日 | 報道・論壇
   議員の心構え
           嵐山町議会議長 高橋行雄
 嵐山町発足以来初の議会選挙が昨年十月八日行なわれた。定数二十二名中現七、元四、新十一と大幅な改選が行なわれたが年令から見ると最高六十五才最低四十才、平均四十九・九才、他町村から比較して平均線がかなり低い。新嵐山町にふさわしい活動力を有している。其後定例会が十二月八日より開会されたが、一般質問に於ては十七通五十六件に及ぶ未曽有の通告があり、其の内容も極めてきめ細かいものがあった。所要時間は一日以上、実質審議期間の半分以上を費やしたが、ここで考えられる事は、愛町愛の念に燃えた議員の意欲が感じられた。
 一般質問は住民の意志を反映させる絶好なる機会で、執行者が全町民の意志をくみ、其の要望を今後の行政の上に如何様に現わすかにあり、議員活動上、議案審議と並んで重要なる処とされている。又各議員は議員毎に支持者の超密【ママ】した支持地区を有している。其地区内に精通した議員等の意見や質問の総合が嵐山町全般の詳細なる事情【ママ】であり行政の根本となり得る。唯議員は一地区にこだわり、又一時地区との板ばさみとなって苦しむ事がなきにしもあらず、しかし一時の地元感から全体的姿勢を誤らぬ様気を付けねばならない。唯私等議員は一万町民の福利の増進と福祉の向上を目指して議員研修会を開催、議員必携自治六法等の共同購入を行ない、或いは図書室の利用により自治法規及び行財政法規の勉学につとめているが、しかしながら机上の勉強は元より他に実地の見聞が必要であろうと思われる。議員研修視察と広大視野をもつものの外、国会或いは県会の見学又は他町村議会及び一般事務の見聞等、視野を広げ思考力を養い絶えず変動する社会事情に新しいアイデアを取り入れ、常に新しい行政線に誘導する事が肝要であると思う。まして本町は首都圏域に在り、ひっ迫する社会需要都市化現象と変化しつつ在る農山村の現実を長期的に判断し、其の見通しをあやまらぬ様、百年の大計の上に着実なる歩みを進めて行く様、心掛けたい。
 又地方自治体の発展は執行部は元より、議員、職員等互いに其の職責をまっとうする事にあると思う。われわれ議員は、議会の使命と職責を十分に認識し、責任ある行動と公平なる発言を行ない、常に姿勢を正し、住民の模範たるべきである。又執行部との関係にあっては、おのおの其の職分を超えざる様注意し、車の両輪の如き調和を保ち、互に正し合い、ゆきすぎや独善のないよう抑制、均衡の実を上げる事こそ、健全行政の第一歩であると思う。又議員は常に和を失する事なきを肝にめいじておかねばならない。明るい政治、融合和解は人々の和合にあると思われる。発展的諸事象の中に住民の利解と協力なくして果せるものは一つとして有り得ない。かりに一つの道路の効用は、本町発展上欠くべからざるものであっても、敷地の協力なくして造る事は不可能であります。不可能の中には経済的不可能と感情的不可能とがあると思うが、議員としては其不可能を可能とする努力が必要である。私等は常に住民の中に透込【ママ】んで、之を啓蒙説得し、和をもって解決に導引く方途を講じなければならないと思います。
 地元負担土地の減少は各種産業の資本投下に類したものにして、其の資本投下が近隣地域の利潤を生み出す第一歩である事を説得し、一個人の犠牲を強いる事なく、地域共同の元に協力態勢の確立を行い、融和の中に実施出来得る様心掛ける事を希望します。しかるに之が推進に当る議員は先ずもって人に信頼され、信頼を受ける人格を造る事に専念しなければならない。又は議会内部に於ても信頼出来る議員は多くの賛成を得られる議員であり、調整発展の上にも大きく貢献される議員であると思われます。
 議員諸君のなお一層の奮闘を御願い致し、私の所見と致します。
     『嵐山町報道』181号 1968年(昭和43)2月20日 所見らん

嵐山町報道二十周年祝辞 中島元次郎 1970年

2009年05月25日 | 報道
   祝辞 報道二十周年に寄す
             嵐山町議会議長 中島元次郎
 嵐山町報道が発刊されてからここに二十周年を迎えるに当り、心から祝福と感謝の意を捧げたいと存じます。想えば戦後の立ち直りが、まだ混沌として居た、世情の中で昭和二十五年初めて発刊されてより、大きく変り行く社会的條件を常に捕え乍ら二十年と云う、長い星霜をよりよき報道紙発行の為に、日夜分かたぬ懸命の御努力と御苦心を重ねて来られました。当初から現在に至るまでの報道委員の方々を初め、長い期間にわたり尊い資料の提供御意見の寄稿をなされました数多い町民の方々の対しまして衷心(ちゆうしん)より敬意と感謝を申し上げます。
 現在埼玉県には九十三の市町村が有り、その大部分の市町村に於て、何等かの形で広報的な印刷物が発行されて居ると聞きますが、その中で吾が町の発行する報道の様に長い伝統と特殊性を持っているものは、非常に数が少ないと云われて居ります。即ちそのほとんどの広報紙が、その市町村の公的な立場で一方的に行政財政等の面でのみ、そのPRを取り上げて居るのが多いのに対し嵐山町の報道のシステムは町の一般行、財政はもち論の事、時には自由論壇に花を咲かせ、時には古文書等の抽出により、歴史の探究、史跡、文化財の照会等によって、町の過去と現代を結び付け、読む人をして愛郷の念を再認識して戴く効果は大なるものが有ると思います。
 又其の他種々な投稿によって貴重な御意見等が掲載され、いつも紙面に活々とした雰囲気が溢れています。私達は何事によらず自分を取巻く身近な社会をよく知りたいと思う感情が有りますが、このポイントをよく捕らえて発行される吾が町の報道は常に多くの町民から愛され喜んで熟読され、そして是認されて参りました事実は、高く評価され、尊敬されなければならないと共に、今日ここ迄健全な発展をして来た要素がここに有ると思います。今更私が申す迄もなく今や現在の日本の時局は多難を予測される中で政治も経済も思想、宗教、文化等各界いずれの面でも前途に大きな変貌が来る事が感じさせられます。
 こうした国の動きの中に有って地方自治体も大なり小なり、その影響を受けざるを得ません。特に比企広域開発構想の中で重要な位置に有る嵐山町は前途に山積した問題をかかえて居ると云えましょう。この様な時代に当り、過去二十年間常に町の動勢を浮彫にしつつ、いつも町民の指針となって参りました報道の今後一層の御発展と活躍を御期待申上げてお祝いの言葉と致します。
     『嵐山町報道』203号 1970年(昭和45)4月15日

村長選挙に際し村民及び村議会に望む 中村常男 1964年

2009年05月24日 | 報道・論壇

   村長選挙に際し
      村民及び村議会に望む
            地区感情を払拭せよ
 年月は波瀾の山河を越えて満四年の歳月を流れ去り、幾何(いくばく)もなく新秋九月を迎えようとしている。-過去の幾多の感慨を秘めて発展の歴史を刻む我が菅谷村の首長を決定すべき秋(とき)が-
 然し我々の最も身近な住民の福祉に決定的な関係を持つ菅谷村長の改選を前にして村民の個々がはっきりした自覚とその権利を行使する責任を感じ取っているだろうか?
 殊に新村菅谷村建設は今は亡き高崎村長の後を受けて、青木現村長の二期八ヶ年の撓(たわ)まざる着実の努力と識見に依って、地形の不利、住民感情の相異を克服し、歩一歩前進を続けて此処に第一段階を終了した。
 然し其の最終年に於て、故内田武市氏の不慮の事故は実に悼ましい限りであって、村民等しく悔恨の涙に咽(むせ)ぶと共に深く同氏の冥福を祈った次第である。正しく此の事は村長に取っても又村民の全てに取っても、一大痛恨事であったと云はざるを得ない。
 当時の村当局及村議会の示した態度取られた処置に就ては、此の事を一大教訓として、更に更に菅谷村発展への決意を覗(うかが)うに足るものとして、大多数の村民から容認せられ解決を見るに至ったのであった。
 然るに昨年十月新に村民の輿望(よぼう)を担って廿二人の村議が誕生その後現在に至る約十ヶ月我々村民の希望と期待を満(みた)すに足るその成果と選良たる自覚と態度に於て稍(やや)不満足を表明せざるを得ないのは極めて残念であると云はざるを得ない。
 世上流布せらるる処の事柄が果して事実なりとせば、清き一票を投じた我々の代表は我々の希望に反して、村政史上に一大汚点を刻みつつあると断言してはばからない。村民の一員としてその事実にあらざる事を祈ると共に村民の間に議会不信の影響を多少なりとも与えたと云う事について、現時点に於ける議員一人一人の反省と決意及議会の態度について、鮮明にする必要を痛感するものである。
 私は真に菅谷村民の個々の幸福と菅谷村の愈々第二段階を迎えて輝かしい発展を熱望する為にこそ村民各位及議会に対して次の諸点について要望したい。

一、先づ地区感情を払拭する事である。
 来るべき選挙についても多少その感なきにしもあらず、特に要望したい。尚その為には将来、新村名(新町名)の決定も大なる要因と考える。
二、来るべき村長選挙については現在迄の行掛りを一擲(いってき)して真に首長として我々の希望を担うに足る人を全村的視野に立って選出したい。此の為には特に議会に於ては全員一致の行動に於て其の方途を探求されたい。選挙のみならず全ての分野に於て議会の円満なる運営は政治の根底としなければならない。
三、出来得るならば或る隣接町村に見る処の血で血を洗うが如き選挙を避けられたい。無駄な金力と労力の浪費に依って公明選挙と村の前途を絶対に汚してはならない。
四、万一宴会と酒に直結する村政であったならば絶対に排撃したい。今こそ新らしい時点に立って清明なる村政の前進に刮目(かつもく)せられん事を望む。

 以上痛感する処の一端を述べた次第である。故内田氏の霊に応え合併以来の菅谷村の発展に心肝を砕いて来た、歴代村長及議員諸氏の功に深く謝意を表すると共に、此の重大なる秋(とき)に当り村民一致団結して、村民個々の幸福を築く為にも将来又大菅谷村の進展の為にも緊褌一番(きんこんいちばん)対処せられむ事を要望するものである。  中村常男(社会教育委員 古里)
     『菅谷村報道』154号 1964年(昭和39)8月1日


「報道」人功過帳 小林博治 1970年

2009年05月23日 | 報道

   「報道」人功過帳 二十周年に寄す
                      小林博治
 昭和二十六年(1951)六月、東松山市の「埼玉日報」は、「報道」を評して、「村民必読の報道」の見出しで「各町村に報道委員会があってその町村運営、その他を細大もらさず住民に知らせているが、中でも比企郡菅谷村の報道は、群を抜き理想的だと言う評がある。……運営委員には同村長高崎達蔵氏の外十七氏が選ばれている。…既に十三号を出し、発刊以来一ヶ年越しているが、号を重ねるごとにその編集ぶりも鮮やかで、村民必読の報道となっている。」と報じている。
 この「県かで群を抜き、理想的だ」と評せられた「報道」のスタッフは、二十六年五月に新役員が選ばれて、会長小林博治、副会長根岸三郎、関根昭二、委員森与資、出野憲平、大野昌三、侭田雪光、高崎達蔵、内田喜雄、内田誠次、小林久、杉田角太郎、関根茂章、高橋嘉明、金子重雄、中島金吾、金井元吉、柏俣長助、金井宣久、小沢長助、忍田喜三の二十一名となっている。
 埼玉日報から高く評価された「報道」はこれらの人達によって、作り出されたものである。よって今、「報道」二十周年の折り目の日に際会し、これらの人々を功過帳にのせ、その活動のあとを辿ってみることとしよう。自ら運営委員となって「報道」を育成した高崎村長は勿論、全部の委員についてそれぞれの持ち味を示した逸話がおもいだされるのであるが、この中で、関根昭二、関根茂章、大野昌三と私の四名が、編集を担当し、とくに、関連が深かったので先ず関根昭二あたりから始めてみることにする。

 ▽関根昭二君
 現在の嵐山町報道でも、続いて書いているのは、議会の審議状況つまり議員の質問、町長等の答弁のやりとりの記事であるが、その記事のはじめを作ったのが関根昭二君である。昭和二十六年二月の十一号に、前年末十二月の定例村会の模様を報道したのが、はじめでその後は、議会の開かれる毎に、関根君の傍聴記が紙面を飾って、村民の関心を集めた。十二号の「全面か単独か-国会議員さながらの大論戦-」は、第四面全部を埋めつくす長論で、論戦の状況が手に取るように描き出されている。こうして議会内の模様は、ありありと村民の目前にうつし出されることになった。関根君はいつの間にか、議会担当記者のようになり彼が議場に現はれると、沈滞気味の議場が急に引きしまり、発言も俄に活気を呈して来た。中には既に解決した無関係の問題を、わざわざ引張り出して、ハッタリ質問を試みる議員も出て来たと言うことである。カッコいいところを「報道」に書かせようという魂胆である。
 関根君のもう一つの仕事は、「あとがき」であった。これはただ編集上の都合、計画などを事務的に伝えると言う性質のものではなく、いはば、新聞のコラムを兼ねたものであった。一々例を上げる余裕がないが合理主義とロマンチシズムの交錯した彼一流のユニークな筆致で、自然の美を探求し自由や文化を説き、民主主義を論評した。その中で、彼は、議会尊重の熱意から発して「議員が発言しようとするときは、起立して議長と呼び、自席の番号を告げ、議長の許可を受けなければならないのに、殆んど守られていない。」「議事中は私語、喫煙等すべて議事を妨げる行為をなすことはできない。とあるのに、喫煙は、平然と行はれ、私語は盛んに交されている。このように、議員が自分で決定した議会規則を自から破っている現実に対して、我々は強く反省を要求する。」と言って議員を叱ったのである。
 さて議会の発言を、その侭書かれたり、議会のマナーについて、小言を言はれたりしては、議員たるもの、心中甚だ面白くないのは当然である。併も相手は、たかだか二十四才の若僧である。生意気だと言うことになったらしい。「報道などつぶしてしまえ」という議論が一部議員から出て来た。本気で言ったかどうか、それは分からないが、このような意見が出たことは事実であって、十三号の「あとがき」で「我々は常に〝言論の自由〟と言う基本的人権のもとに報道してきたのであり、いかなる地位や肩書にも恐れないのである。若しも、村会の模様を報じたために、一部議員の怒りを買ったとしても、それは全く議員の責任である。……報道をつぶしてしまえなどとは以ての外のことである。我々は今後も断固として議員の動静を精細に報じ、村民の選んだ議員が何を述べ、何をしたかについて、村民に報道しなければならない。」といって肩をいからせているのでも分る。
 これは実は私が書いたのであり前にも言ったが関根茂章君が、「村で金を出さぬと言うなら我々で小遣を出し合って続けていこう。」と言ったと言うのは多分この時のことだと思う。関根昭二君自身は「我々は民衆の〝声なき声〟に耳を傾け正義と自由を護るために勇敢に闘うことを誓ったのである。村会に反省を求め、消防団に警告を発し、農民の奮起を要望してきたのである。……」と書いた軒昴(けんこう)たる意気を示している。だが、今にして思えばこれら一連の高姿勢は、余り愛すべき稚気とは言えなかったのではないかと言う反省も起きないわけでもない。
 大学生の時、民俗学を学んだ関根君の感覚は、村の伝統について敏感にはたらいた。「私たちのささやかな生活の端々に、なにげない言葉の一片に、或はさりげない日常の慣習に、地名や呼名に、年中行事に、更には自然の一木一草に、私たちの遠い祖先の血が脈々と流れているのである。…(第九号参照)」と言って、「昔を今にめぐりあるき」の記事が登場したのである。これは彼の建康不調のため、将軍沢の巻と、思想の巻で中絶した。惜しいことであった。然し、これは、彼が教育委員に就任するに及んで再びよみがえり、彼の発想で村史編纂の計画がはじめられた。それをうけて私はしばらく「古老にきく」を書いて連載した。「嵐山町誌」の系譜は彼の「めぐり歩き」に始まるのである。
 (この稿は、関根昭二君からはじめて、関根茂章君、高崎村長など次々と続けるつもりであったが、まだ関根昭二君が終わらぬ中に紙数がつきた。又、こんなことを書いていると、私自身は愉しくてならないのだが、「何を下らぬことを」といって、眉をひそめる人も必ずあると思う。それでこの辺で中断するし、又後日続けて書こうと言う気持も別にもっていないのである。)
     『嵐山町報道』203号 1970年(昭和45)4月15日


「報道」発行二十周年記念に当って 関根昭二 1970年

2009年05月21日 | 報道
   挨拶 「報道」発行二十周年に当って
                  報道委員長 関根昭二
 「報道」の第一号が発行されたのは、昭和二十五年(1950)四月二十日である。二十年の歳月が夢の様に流れ去った。
 関根町長が「報道」二〇〇号に寄せた文章にもあるように自由と「燃えるような情熱と、言論の自由と、政治的・精神的独立を強く心に期して第一号を住民に送ったこの創業の精神が強弱はあったにしろ、この二十年間、底流として「報道」を支えて来た。」確かにそうなのである。この一文ほど適確に「報道」の精神的伝統を語り得ているものはない。勿論、町長自身、当時の参画者であり、知性に溢れた青年だったのである。「報道」は固苦しいとまで云はれたほど品格を高らしめた所以のものは初代の会長であった小林博治氏の該博な知識と軽妙な筆法からなる一文は紙面に一異彩を放ったものである。
 こうして「報道」は他町村に見られない独特なスタイルを編み出したのである。
 更に「報道」の費用はすべて町の財政で賄れてきたのであり、この点歴代の町村長と議会に深い敬意と感謝を申し上げたい。また二十年間にわたって愛読下さった町民の皆さんに心からのお礼を申し上げたい。
     『嵐山町報道』203号 1970年(昭和45)4月15日

公民館の落成と嵐山町報道発行二十周年に際して 関根茂章 1970年

2009年05月19日 | 報道
   公民館の落成と報道発行二十周年に際して
                  嵐山町長 関根茂章
 公民館は期待通りに落成した。題字の揮毫(きごう)をいただいた知事さん、ご指導をいただいた県関係者、土地を提供して下された地主の皆さん、設計・監督・施工にあたられた業者の方々、更にこの建設を献身的に推進された建設委員の各位、またご指導やご協力をいただいた多くの方々に心からの敬意と感謝をささげたい。
 公民館はわが嵐山町の「シンボル」である。そして多くの夢と期待がかけられている。「新しき酒は新しき革袋に」のたとえのごとく新公民館長を中心として、町民のための学習と集会の広場として、さらにこの地方の会場として活用されることを期待して止まない。
 尚この公民館の建設には旧菅谷農校任意組合及びそのP・T・Aよりの資金が建設費の一部としてつかわれた。菅農卒業生並びにその関係者のために、新公民館の一室を「菅農会」と呼び、「菅農」の名を留めさせたいと思っている。
 尚、この建設に当り、自主的に多額の寄附をよせられた、鶴田又男、安藤専一の両氏及び岡田■■氏描くところの「飛鴨」を寄贈された長谷川黙龍氏に対し深甚なる感謝をささげたい。
 また公民館の落成を祝福して、自らの手によって磨き作られた素晴らしい贈り物「未来」をよせていただいた大島元先生を中心とした菅小アスナロ学級の生徒諸君に、心からお礼を申上げたい。
 「報道」は自治体の新聞として、戦後G・H・Qの管理統制のきびしかった時代、理想と願いをこめて誕生したのであった。あれから早くも二十年の年月が流れた。よくもたどり来しかなの感がに深い。
 ガンジーの糸つむぎ機が彼の手によって静かに廻転し始めた時から、印度民族の独立運動の第一頁が綴られるのであるが、わが「報道」も、敗戦後の自由・独立・民主化の嵐の中を創業期の理想と意志を一貫して堅持して来た。自治体当時の大部分の新聞が、市町村の単なる「お知らせ」程度に変容してしまった中にあってわが「報道」は、毅然として屹立(きつりつ)する秀峰を仰ぐ感がする。
 また同寺に「報道」二十年の記事は、そのままわが嵐山町の歴史を物語るものであり、多くの人々の辛酸と努力、汗と苦汁、喜びと哀しみが包蔵されているのである。
 二十年の報道の歴史を築かれた関係者の皆さん、また支援された町民の各位に深い敬意と感謝を捧げるものである。
 更に今後、この栄ある歴史の上に、この栄ある歴史の上に、大いに努力され公正なる客観的手法と、厳正なる批判精神を基調として活動されるとともに、変貌する時代の中に、町民の行く手を示す「ともし火」であってもらいたい。
     『嵐山町報道』203号 1970年(昭和45)4月15日

初期の報道 小林博治 1969年

2009年05月17日 | 報道
   「報道」の初期 
             初代会長 小林博治
 「報道」第一号が出たのは、昭和二十五年(1950)四月二十日、丁度二十年前になる。その第一号に、私は「昔の村民は、殿様の言いなり次第に生活したが、今は民主々義の時代であるから、村のことは何でも自分たちでしなければならない。面倒でもあるが張り合いも多い。村長や村議を選んで、村政の計画をたてたり、それを実施したりしなければならない。学校を建てる、道路をつくる、治水や防火や防疫や、産業振興など、全て自分たちで計画し実行しなければならない。そしてその計費も自分たちで出すのである。殿様に絶対服従の時代より、うんと自由になったが、その反面重い責任がかゝって来ている。よい村にして幸福になるのも、悪い村にして不平不満で暮らすのも、みんな自分たちのやり方次第である。そこで、そのよい村をつくるためには、村の現情をよく知ること、村民お互の意思の疎通をはかること、国や県の法律規則などにも通ずることが是非必要である。この必要に即応して、報道委員会が生まれたのである。」と書いて、会長の挨拶に代えた。「報道」はよい村を建設するためのパイロットだというのである。
 今、ふりかえって見ると、当時の委員の胸中には、この意気込みがみなぎっていた。「報道」を拠点としてよい村をつくってやろうという夢がふくらんでいた。このことを物語る一つの例は、委員会の論議である。午後からの会議が夕飯を食って、九時、十時に及ぶことがたびたびあった。革新のチャンピオン金井元吉君などもメンバーで保守革新の間に仲々調子の高い論争が展開されたものである。
 「報道」は役場の御用新聞ではないという気がいもあったから、委員会の村政批判は辛らつであった。村長や村議に対しても遠慮がなかった。それが紙面をにぎわした。「若し村で金を出さぬといったら俺たちで出し合ってでも発行していこう。」と意気巻いていたのは今の町長関根茂章君であった。
 委員会に呼応して、村内にも言論縦横の火の手が上がった。第三号では、中島年治君が二十五年度予算を批判して「報道が出来たおかげで、村民一般がはじめて、村予算の全貌に接することが出来た。委員会の努力の結果である。」と前書きし、さてといって「この予算を前年度と比較すると相変わらずどこにも目玉のない平板予算である。村長は重点主義を取ったというが建設的意図が不充分である。これでは何とか村を興そうとしている青年たちにも熱はあれど足場がない。」といって、噛みついている。議論の当否は別として、当時の若者には、こんな気風が溢(おういつ)していたのである。「報道」を中心に村のヤングパワーが結集していたというわけである。
 こんな話をも少し続けてみよう。稍々後になるが、闘病生活から帰ってきた関根昭二君の論説が長い間「論壇」をにぎわした。初期のものを上げると「予算審議を傍聴して」「選挙を顧みて」「転換期に立った高崎村政」などがあり、いづれも、議会や村政に対する鋭い批判である。そしてこれを受けて立ったのが議会の論客山下欽治、高橋亥一、出野好の諸氏で、若い関根君と真剣にわたり合って、堂々の論陣を張った。「報道」の「論壇」は正に百家争鳴、議会の花盛りであった。
 然し「報道」紙面は右のような論戦ばかりで飾られたわけではなかった。若い層では、今の農協組合長長島実君の「農業経営と煙草栽培」現町議山田巌君の「酪農問題」など、農業経営の将来の展望とその対策などが掲載されているし、教育・文化面では教育の老大家根岸良治氏、女流評論家の根岸き氏などが健筆をふるっている。村長高崎達蔵氏、農協長侭田雪光氏なども殆んど毎月筆をとって村政の報道と解説につとめた。
 この調子で書いていては切りがないから、この辺でやめることにするが、今まで言ったことでも分かるように「報道」は若い人たちが中心となって、よい村づくりの推進役をつとめようという真剣な意気込みの下でつくられていた。そして、当時の壮年及至老年層はそのしたむきな気持ちをまともに受けとめて、青年層と一緒になって、村政を論じた。今のような、新旧世帯の断絶はなかったのである。
 私が挨拶に書いたような報道委員会の使命と目的は達成されたかどうか。私としてはその功罪は論じない。言えば独断になる。只一つ、その当時の若者が「報道」を舞台に、青春の情熱をたぎらせたその連中が、今、町政の枢機にたずさわって町を動かしている。これを言えば「報道」の評価も自ら決定されるであろう。
     『嵐山町報道』200号 1969年(昭和44)12月10日

報道二百号発刊挨拶 関根昭二 1969年

2009年05月15日 | 報道
   挨拶
             報道委員長  関根昭二
 「報道」は今号を以て二百号に達した。昭和二十五年(1950)の四月に第一号を発行して以来、約二十年の幾月が流れたわけである。第一号の当時から、休み休みではあったがこの仕事にたづさはってきた者として感慨の無量なるものを覚える。二十年の私は若かった。今、第一号から第十三号までの自分の書いたものを読み返してみると、どうしてこんなことを書いたのかなあと恥しい思いをするものもあるし、よくこういう文章が書けたものだと苦い感傷を甦らせるものもある。
 ただ、今も昔も変らざるものは「報道」に対する情熱である。私は誇りと自信をもって、この仕事に取り組んできたつもりである。県の広報課では嵐山町の「報道」のような行き方を非常にきらっている。この「報道」にように、町政の批判的記事を書いたり、議員の議会発言を掲載したりすることは、好ましくないというのが県の考え方である。いはば「お知らせ」をするのが町村の「広報」の在り方だというのである。
 「報道」は終始、そのような在り方に対して、県下で唯一つ、独特な紙面を以て今日まで続けてきた。従って、県の「広報コンクール」などで表彰されたことは未だに一度もない。然し、私たちはそれを残念だと思った事はない。「報道」がこれから先、どれだけ長く続けられるかわからないが、少くとも町の政治に住民の声が反映されるような紙面でありたいと念じている。
 町民皆さんの今日までの御声援と協力を心から感謝すると共に、今後の御叱正をお願いする。
     『嵐山町報道』200号 1969年(昭和44)12月10日

嵐山町報道二百号発刊について 山岸宗朋 1969年

2009年05月13日 | 報道

   報道二〇〇号発刊について
                 山岸宗朋
 報道は嵐山町の特殊な性質をもった機関となって町民全体の心の内にしみこんで、報道を読むことが我々はどのくらいたのしみであるかしれない。
 いつの間にか二〇〇号となった拾年一昔と言うが、拾数年も継続して来たことはよろこびにたえません。
 然しながら此の報道が継続発刊されて来たことには、裏方として並々ならぬ努力をはらわれて来た方々がおります。私は真先に此の方々に心から感謝を申し上げます。過去を思い起こしてみるとづいぶん色々な事がありました。
 ある時は夜を徹して編集のことで議論したこともありました。ある時は報道がきびしすぎると議論の基になって議員から強く批判を受けたこともありました。或いは原稿を委員会に提出しても報道にのらなかったと言はれ、強いおこゞとを申し込まれたこともありました。町の出来事が正しく報道を通して町全体の家庭に配られて来たので味力が町民にもたれ、たのしまれて来たことゝ思われます。
 今後とも嵐山町の発展のために発刊が永遠に続きますことを祈念申し上げまして二〇〇号発刊記念の挨拶といたします。
     『嵐山町報道』200号 1969年(昭和44)12月10日


嵐山町報道二百号発刊に際して 関根茂章 1969年

2009年05月11日 | 報道
   二百号の発刊に際して
               嵐山町長 関根茂章
 報道が遂に二百号を出すにいたったことを知り、全く感慨はかり知れないものがある。
 報道二十年の歴史は、そのままこの我が嵐山町の歴史であり、幾多の人々が、それぞれの時期に於て孜(し)々として努力された軌跡の集積である。
 今日、県内市町村の報道は、殆んど官報的な「おしらせ」の形式内容に変わってしまった。その中にあって、我が町の報道は、新聞形式をとり、町民の広場としての役割を演じていることは、まことによろこばしいことであり意義深い。
 G・H・Qの強い管理統制下に、燃えるような情熱と、言論の自由と、政治的、精神的独立を強く心に期して第一号を住民に送った。この創業の精神が、強弱はあったにしろ、この二十年間、低流として報道を支えて来た。
 報道の使命は、客観的、実証的手法と、冷厳な批判精神をもて、権威に屈せず、俗におぼれず毅然とした言論活動にある。
 関係された志に深く敬意を表すると共に今后の絶ゆみない御精進をお願いする次第である。
     『嵐山町報道』200号 1969年(昭和44)12月10日

母の手 菅谷・市川令子 1987年

2009年05月09日 | 報道・婦人のページ
 小学校三年の夏のことです。私は犬かきという泳ぎができるようになりました。そしてもぐることもできるようになったのです。
 急に大きくなったような錯覚から、毎日川へ通いました。午前中泳ぎ、お昼ご飯が済むとまた川へ行ったのです。
 草いきれのする細道を「かくらん」よけのため梅干を食べながら歩いたのを覚えています。
 帰りには、川原のがけの所に生えているねむの葉をとって、ふところへ入れてやります。すると、ねむの葉は葉を閉じるのです。私は洋服の上からねむの葉をそっと押さえ、子守でもしているような気持ちで、ふところのねむの葉の様子をのぞいたものでした。
 そんなある日、私はぐったり畳の上でねていました。ひたいに梅干を数個貼り付け、足のひらに母が塩を擦りつけているのです。私は「かくらん」(日射病)をしてしまったのです。
 塩のザラザラという感触がなくなると、母は新しい塩をつぼからつかみ出して、また足の裏に擦り込むように、ていねいに、しかも手を休めず繰り返しているのです。
 目が覚めると夏の日でも、もう家の中はうす暗くなっていましたが、母の手は動いていました。
「らくになったかい」
「うん」
「そりゃよかった」
といって母の手は止まりました。
 そして、畳に落ちていたねむの葉を私のふところへ入れてくれました。そのときの母の白い手が私の中で今でも鮮明に生きています。
 あの白い手は母の人柄そのものに思えてならないのです。母は子供の病気を自分の手で治したのです。「かくらん」を梅干と塩と自分の手のひらで-しかも、時間をかけて。
 三十年も前の話です。
 ある目の不自由なご夫婦が健常児であるわが子に親として何がしてあげられるか真剣に考えたそうです。
 これだけは、と考えた幾つかの中に、小学生の女の子には毎朝髪を編んでやるというのがあったそうです。
「自分の手でしてやることが親子の確かなふれ合いになるから」と考えたからです。
 非常に感銘した私は、私の中へこれを受け入れることにしました。健康であっても、怠慢な親は子供側から考えると、ずいぶん迷惑であり、親としてもあたりまえでないと感じたからです。
 話はちょっと変わりますが、九九の勉強は五の段から始めて二の段にもどります。なぜ五の段から始めるのでしょう。
 栗の実がテーブルの上に置いてあります。パッとみて、「いくつあるかわかる数」で一番多いのはいくつでしょう。一般の人でしたら五個なのだそうです。「五個のかたまりがいくつある」と勉強が進みますが、五個という数は片手の指の数なのです。何か不思議に思えてきます。
 十進数と両手の指の数。とても不思議です。神様はどのような意図で「手」を造ってくださったのかと思うときがあります。
 低学年では、両手、両足を使って計算する姿をみかかます。「たくましい子!」とほほえんでしまいます。
 しばらく前のこと、給食費値上げの話題があがった際、毎月一回か二回弁当持参の日を設けたら値上げは防げるのではないかと提案したことがありましたが、取り上げてもらえませんでした。もっとも私の発言は値上げのことより、母の手造り弁当を食べさせましょう、と柱が若干ずれていたかもしれません。
 夏休みなどの親の愚痴をあげてみると、以前は、
・兄弟げんかばかりしていてうるさくて……早く学校が始まるとよいけど
ところが昨今では
・お昼の用意がめんどうだから、早く給食が始まるとよいが
他力本願の親が多いので悲しくなります。
 子供たちとの生活で感じたことのひとつに、食事が子供たちの生活や性格、そして学力に大きく影響しているということがあります。
 肉食を好む者とか菜食を好む者とかで性格判断するのではなくて、片手間の食事を強いられている子供の多くは、
・おおらかさがない。
・何かにつけて不満が多い。
・忍耐力がない。
・学習面で実力が十分活用できない。
とてもかわいそうに思います。食事を大切にしている家庭は、
・おおらかで友達が多い。
・基本的生活態度がしっかりしている。
・落ち着いて学習している。
といった傾向がみられます。
 前述の目の不自由な方のように、
「自分の手で親子の確かなふれ合いを」
と言われているように、母の手をもっともっと生かさなければと思っています。
 手とは不思議なものなのに、人々は生活の中であまりにも粗末にしてはいないだろうか。
 自信と情熱に満ちた母の手には宗教的なものを感じました。母はその手で幾度か私の心とからだを治してくれました。
     『嵐山町報道』358号 1987年(昭和62) 月 日 婦人のページ

舞台裏から 嵐山音楽祭実行委員・三井幸子 1986年

2009年05月07日 | 報道・婦人のページ
 嵐山の人びとに良い音楽を聴かせてあげたい、という関根町長の強い熱意によって、第一回嵐山音楽祭が十月二十六日に行われました。
 行事の多い時期だったにもかかわらず、たくさんの人々が集まり、フルート、ソプラノ独唱、弦楽合奏、サキソフォンアンサンブルと、それぞれに味わいのある豊かな音色を楽しみました。実行委員として運営に携わった私たちは、最後に寄せられた皆様の感動の拍手と、また開いて欲しいという多くのかたがたの感想を得てこれまでの努力が報われた気がしてホッといたしました。
 音楽祭実行委員会がスタートしたのは五月でした。顧問のかたは別として、十五人の委員のほとんどが主婦。音楽に縁のあるかたもないかたも含め、「なんで私が?」という疑問を抱きながら、一枚の委嘱状をいただいたばかりに、企画、ポスター類の作成、チケットの販売、当日の場内係と、すべての運営を行わなければいけない立場になってしまったのです。
 これまで二度ありましたコンサートのときは観客の立場でしたので、どんな音楽が聴けるかと楽しみに出かけるだけでよかったのに、裏方になると実にいろいろな仕事があるものです。当日はどのくらいのかたが聴きに来てくださるのか、演奏のかたも、支障なく進められるのか、心配ばかりでした。定刻どおりにフルートの演奏が始まりました。「あらっ、時間どおりなの?」かけ込んだかたが多数、開場と開演の時間を明示しなかったこと、反省しきり。舞台裏でピアノの汚れに気がついたときは、演奏家が席につかれたときで、見苦しかったり、譜面台が足りなかったりなど失敗も多々ありました。二部の演奏家のかたたちの到着が遅れてハラハラさせられたりもしました。子どもたちがちょっと飽きて騒がしかったり、大人でも演奏中のおしゃべりが気になったり、生の演奏を心地よく味わうためのマナーも身につけて欲しいような気もいたしました。
 実行委員以外にも多くのかたの御協力を得て、無事に終了した音楽祭でした。でも残念なことが一つ。チケットの販売枚数より入場者の数が少なかったことです。実行委員の強引な売り込みに義理でつきあってくださったかたが多かったのかなと、申し訳なくも思っております。でも身近な場所で生の演奏を耳に出来るせっかくの機会、多くの人に共に味わって欲しかったなと思います。
 三月一日には、第二回嵐山音楽祭が予定されております。多くの人に楽しんでいただきたいというのが、実行委員一同の願いでもあります。日ごろ音楽には縁遠いと思われているかたも、カラオケなら得意なんだけど、というかたも、ぜひ耳を傾けにに来ていただければ幸いです。
     『嵐山町報道』349号 1986年(昭和61)12月25日  婦人のページ
※参照:「第1回嵐山音楽祭が開かれる」(1986)