GO! GO! 嵐山 2

埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

喜びの日(むさし台・中島時次) 1995年

2008年09月14日 | 戦争体験

 今から40数年前、私の体験したソ聯抑留生活は3年8ケ月、苦しみの中での3年8ケ月は長かった。連行当時から書き綴る事は文才のない私には到底出来る事ではない。抑留生活の締めくくりとも言うべき帰国に至る最后部分を書いて見たいと思う。ひと口にシベリア抑留と言われているが、シベリアとは沿海州を指すよび名である。日本人抑留者の居た地域はシベリアにかぎったわけではない。遠くはヨーロッパ近辺までも行っていたのである。現に私が抑留生活を送ったカザフスタンは中央アジアである。今でこそカザフスタンはオリンピック等の活躍で誰一人知らぬ者はない。当時カザフスタンはソ聯領で一共和国だった。ずっと南に下った所に首都アルマアタがある。この辺は綿花の生産の盛んな地域でもある。我々の所はそれより北西にかなり遠く位置する。ペトロパヴロスクがシベリア鉄道の分岐点でそこから鉄道で3日ばかりカザフスタンへ入った所にカラガンダと言う地方にしてはかなり大きな街がある。ここはソ聯の第3の炭坑都市であってそこから10数キロもはなれた我々の所からもボタ山がいくつも見える。とにかく我々の居た所は見渡すかぎりの草原でその中にポツンポツンと人家が点在すると言った様なひどい所であった。立木は一本もなく殺風景この上ない地域であった。かなりの高地らしく何時も風が吹いている。無風状態の日は年間を通じて1週間か10日位しかないだろう。この風が冬ともなると一変して悪魔となる。天気が良くても氷点下30度にもなる。加えて風である。身体に感じる温度は、零下40度にもなってしまう。一度だが零下42度を体験した事がある。これは寒暖計の温度でその時風速20m近い風が吹いていた。この時に肌に感じた温度は零下62度と聞いた。まさに殺人的な寒さである。これに雪でも加われば大変な事になる。気温が低いのと風が強いので雪は灰の様に細かく風にとばされて風通りの良い所は地面が出ている。反対に障害物のある所は雪の山になってしまう。そんな状態の中で我々はひどい体験をしている。
 その朝何時も通り7時に衛門前に整列した。冬の7時は真暗である。今日は雲っていたが、天気が良ければ満天の星の筈だ。守衛所に大きい寒暖計が下っている。現在の気温は零下25度。この辺では当り前の寒さだが相変らず風が強い。一面の雪だが風が強いのであまり積らない。やがて出発する。顔にあたる風は寒いと言う表現は通用しない。ビリビリと痛い。強風が粉雪を舞い上げる。お互いが顔を見ながら歩く。鼻が凍傷になるからである。鼻は感覚がにぶいから気付かない中に凍傷になっている場合が多い。用意に防寒帽の中からボロ切れを巻く。はく息が上にあがりマツ毛が凍りついて目がふさがってしまう。不吉な予感がしたがまさかブラン(吹雪のひどいもの)が来るとは思わなかった。道程半分もすぎた頃雪が降って来た。灰の様な雪である。現場に着く頃になるとますますひどくなって強風が粉雪を吹きまわしとても前が見えない。ソ聯兵は危ないからラーゲル(収容所)へ引返すと言う。ラーゲルに向って出発した。前を歩く人の背中が見えない。思い切りかがんで前の人の足元を見て歩く、地表から30cm位までは割り風が弱いので前の人の足が見える。もし前の人を見失えば盲目同然となって方向がまるっきりわからなくなってどこへ行ってしまうかわからない。それにこの寒さである。死を待つだけだ。必死の思いでやっとラーゲルに着く。落伍者がないのが幸いだった。どこをどう歩いたのか40分位で帰れるのに2時間近くもかかってしまった。
 この辺の夏はどうかと言うと割とすごしやすい。気温は日本と同じ様に30度からになる。但し湿度がひどいのでカラッとした暑さである。一寸家の中へ入るとクーラーの部屋と変りない。それなりに夜はぐっと冷え込む。カザフスタンには昔から住んでいる民族が居る。我々はカザックと呼んでいた。有色人種で肌も日本人と同じか少し黒い、髪も黒い。彼等は独自の言葉を持つ。ソ聯兵の中にも沢山いる。彼等同志ではカザック語でしゃべる。ロシア人や我々と話す時はロシア語だ。カザック語はモンゴル語によく似ている。このあたりにはラクダもいる。彼等がよく小荷物を乗せて引いているのを見る。この辺のラクダはコブが一つしかない。
 さて、重労働、空腹、殺人的寒さに明け暮れた抑留生活も4年目となった。たしか今年は昭和24年(1949)の筈である。14才で軍属を志願し渡満してから6年、私も20才となった。まさかこの年が復員の年になろうとは夢にも思わなかった。その8月も押しつまったある朝、その頃我々は12分所に移っていた。本部から営内司令が来て、今から名前をよばれる者は作業に出ないで9時迄に衛門前に集合との事であった。よばれたのは20名位と記憶している。何も荷物はないので定められた時間に衛門前に集合する。すると収容所長が通訳を連れてやって来た。ここの所長は小柄だがズングリ太った少佐だ。大変日本人には好意的な人物だった。彼はにこにこしながら君達はこれから日本へ帰る為第6分所に移動すると言う。我々はまたかと思った。何故なら、何時もラーゲルを移動のたびに同じ事を言われだまされつづけて来たのだ。でも命令では仕方ない。9時に衛門前に集合した。やがて迎えのトラックが来た。自動小銃を持ったソ聯兵が2名荷台に乗っていて早く乗れと言う。やがて我々は車上の人となってカラガンダへ出発した。草原の中の道をひどい土ぼこりを上げて走る。どの位走ったろうか。第6分所の衛門に着いた。所長はダモイ(帰る)と言ったが我々はとても信用出来ない。それがあくる日になって真実性を持たせる様な事になった。新品の衣服が支給されたのである。それに抑留以来始めて金をくれた。一人40ルーブル位だったろうか。考えて見ると帰国を前にした我々日本人の対ソ感情を和らげる為の配慮とも思えるのである。金が有ると物が買える。当り前の事だがもう3年8ヶ月も金を持った事はない。久しぶりに物を買う喜びを味わった。第6分所の中に小さなマガヂン(売店)がある。空腹の毎日である我々は食物を求めてマガヂンへ行った。ここは民間人がやっている。入って見ると棚に白パンがズラリと並んでいる。我々が日常食べている黒パンはひどいものだ。まるで比べものにならない。どこのスーパーにも並んでいる食パンと何等変らないがスライスしないでそのままだ。一斤買って帰る。かぶりつく、実に旨い。忽ちの中に一斤平らげてしまった。作業に出されないから帰国も本当なのかも知れない。又あくる日もマガヂンへ行く。又白パンを買った。中をキョロキョロ見ているとアメ玉があった。目方を計って賣ってくれる。煙草も不足しているので買う事にした。我々に支給される煙草はキザミ煙草で新聞紙などを切って巻いて吸う。店に並べてあるのは全部巻煙草で両切煙草とパピロスと2種類ある。パピロスとは吸口付煙草の意味で吸口がうんと長い。寒い地方であるだけに厚い。手袋をしても吸える様に作られている。私は両切5箱とパピロスを2箱買った。パピロス2箱は大事に家迄持って帰り煙草好きの父に上げたら大変喜ばれたものである。煙草だけは自由に持って帰る事が出来た。
 午后になってソ聯兵がやって来て5、6名来いと言う。言われた通りシャベルを持ってついて行く。しばらく歩いて行くと小高い所に墓地があった。墓地と言っても土が盛ってあるだけの粗末なものだった。見ると風雪にたたかれて土がひどくくずれ落ちている。ソ聯兵は第6分所で死んだ日本人の墓だと言う。仲間の墓だと言うのでていねいに土を盛り補修をする。その中に割と新しい墓があった。ソ聯兵は何でもよく知っていた。その墓の主の部隊は半月程前に帰国の為第6分所を出発していると言う事だった。するとその人は帰国の1ヶ月に死んだ事になる。ソ聯兵の言うには炭坑作業中トロッコにはさまれ死亡したと言う。我々は話を聞いて目頭が熱くなった。帰国を目前に死んで行ったこの兵隊。さぞ無念であったろう。我々は持っていたアメ玉を供え静かに手を合わせた。ここに眠る亡くなった人達を残して帰国しようとしている自分達。申し訳ない気持でいっぱいだった。
 ラーゲルへ帰ると何となくあわただしい空気につつまれていた。聞いて見ると帰国の為の梯団編成だと言う。夕方迄に1500名の梯団が編成された。この編成で集結地のナホトカ迄行くのである。弾む心を抑えつつその夜も明けた。朝食后にすぐ整列する。9月2日、日本では未だ残暑がきびしい時期であろうがここはもう日本の晩秋と変りない。草はとっくに枯れ霜が真白に降りている。梯団はカラガンダの駅に向って出発した。足どりも軽いカラガンダの駅に着くとすでに引込線に列車は入っていた。列車と言っても貨物列車だ。各貨車に人員が割当られる。ナホトカ迄仲良くつき合って行かなければならない。乗って見て驚いた。4年前チタから西ヘ送られて来た時と大変な違いだ。あの時はガッチリと戸は閉められカギまでかけられていたのだった。今度の場合は二枚共戸は開っぱなしで人が落ちない様に太い角材がくくり付けてある。更に驚いたのはソ聯兵の少ない事だ。自動小銃こそ持っているが前后に数える程しか見えない。もっとも帰国するのに逃げる奴も居ないだろう。やがて列車はカラガンダを出発した。
 ここで書き忘れた事があるので書き残しておき度い思う。シベリア抑留者と言うと一つのものに思われ勝ちである。ソ聯側はこれをはっきり二つに分けていた。戦后関東軍は部隊そのままソ聯兵に連行された。ソ聯はこれを軍事俘虜として扱った。抑留者は違う。軍事俘虜の前職はあく迄軍人だが抑留者の前職はさまざまだ。警察官も居れば私の様に軍属も居る。鉄路警護隊、又反ソ行為を問われて連行された民間人も居る。中国人も居れば朝鮮人、モンゴル人も居た。いずれも日本軍に協力したと言う事だろう。また抑留者の中に特務機関に勤務して居た人達も混じって居たのである。特務機関とは、当時の人であれば誰でも知っている。これは諜報活動を業とした機関でソ聯のもっとも憎んでいた機関である。特務機関を前職にもつ人は、前職をごまかし、本名も名乗らない。一緒に生活をしていても我々にも全然わからなかった。それが、何時の間にか一人二人と姿を消していった。そして二度と我々の所へは帰って来なかった。我々には何故突然に居なくなってしまったのか全然わからなかったのである。しばらくして情報が入って来た。同じ日本人による密告で前職がバレて連行されたのだ。それを聞いた時腹わたが煮えくり返った。同じ日本人でもこんな情けない奴も居るのだ。連行された人違いは恐らく刑を受け囚人ラーゲルへ送られてしまったのであろう。本当に気の毒な人違いであった。我々抑留者はこの様な複雑な前職を持った集団なのである。ソ聯側は我々を危険分子として見ているわけで我々抑留者には一人一人に調書がついている。どこへ移動しても調書がついてまわる。ナホトカ迄もついて来るのだ。軍事俘虜との違いはそこら辺にある。軍事俘虜には調書はない。今度の俤団の編成にも抑留者だけで編成されている。これが後にナホトカに着いてから影響が現れて来るのであった。
 さて、カラガンダを出発してから3日目、ペトロパブロスクに着く。ここは鉄道の分岐点でここからシベリヤ本線に入る。ここはもうカザフスタンではない。この辺迄来るとあちらこちらに木立が見えて来る。カザフスタンには一本の木立が無かった。列車はまる一日止っている事もあるが走り始めると日中3回位しか止らない。給炭給水で止るのだが我々はその時用便をする。まわりが広い草原なので場所に不足はない。やがて列車はオムスクに着く。街中に小川が流れ落ち着いたいかにもロシア風な街だ。私はその時風景を見ながら一句ひねったが忘れてしまった。列車は走る。もう何日たったろうか。左手にバイカル湖が見えて来た。世界一深い淡水湖と言われている大きな湖だ。その辺りを列車が走るが半日走っても未だバイカル湖が見える。その近くにイルクーツクと言う大きな街がある。我々はそこで降りた。シャワーを使わせてくれるらしい。一寸こぎれいな建物に入ると全部シャワー室になっている。小さく区切ってあるがその中に一基づつシャワーがある。ゆっくりとシャワーをあびさっぱりして外に出る。そして又出発する。
 もうすでに沿海州に入っているのであろうか。ある小さな駅で止った。何時もの通り用便に降りる。終って乗車しようとすると大勢の人が貨車のそばへ寄って来た。各貨車の前に集まり何かをねだっている。ソ聯兵が追い払って見るが逃げようとしない。我々の貨車の所へも来たので、君達は何者だと聞いた。彼等はチェチェンだと答えた。チェチェンはずっと西の方の国の筈だ。何故シベリアに居るのかと聞いたら、第2次世界大戦の時我々はドイツに味方した。その為戦后シベリアに送られひどい生活を強いられているのだと言う。私のそばに小さい男の子が来た。身なりは汚いが可愛い子だ。小さい声でダイチェ カレンダッシ(鉛筆が欲しい)と言って手を出した。ポケットに鉛筆の使いかけが2本入っていたので1本やると喜んで帰って行った。私はチェチェンについては何も知らないが今のロシアとチェチェンの関係など見るとチェチェンの民族性が少しはわかる様な気がする。
 又何日か走る。やがて列車はハバロフスクにすべり込んだ。白っぽい駅舎にミドリ色の文字でハバロフスクと書いてあった様に記憶している。ナホトカ迄どの位あるだろうか。それ程日数はかからなかった様に思う。とにかくやっと目的地であるナホトカに着いた。まる1日停車の日も幾日かあったが私の記憶に残っているのは19日半日でいかに広い国であるかがわかると思う。ナホトカと言う所は以前は名も知られていない小さな漁村であったらしい。それが日本人の復員業務が始まって急激に発展した所らしい。ここはラーゲルが4ヶ所ある。第1、第2、第4が一般ラーゲルで第3ラーゲルは税関の様な役目を果す所で帰る時は身辺の検査等で通過するだけだ。第3ラーゲルに入れば間違いなく乗船出来る。我々は何故か第4ラーゲルに入れられてしまった。ここで約1ヶ月すごす事になる。この第4ラーゲルの日課は軽作業と共産主義教育の毎日である。毎日の様に奥地の方から集結地に梯団が着く。そして1週間もすれば第3ラーゲルへ移って行く。何故我々だけ帰れないのか。情報によれば、我々は病院船で帰すのだそうだ。何故病人でもない我々が病院船に乗らなければならないのか。こんな時いろいろなウワサがとぶものだ。それによれば我々民間人まで抑留するのは国際法の違反だ。その為に抑留者梯団を病人に仕立てて帰すのだと言う。カムフラージュだと言いたいのであろうがその真実は知らぬ。軍事俘虜の人達は全部日本の貨物船で帰って行く。前に復員の時に影響が現われると言ったのはこの事だった。
 長い1ヶ月もすぎソ聯側より病院船入港の知らせが入った。待ちに待っていた我々はとび上って喜んだ。第3ラーゲルできびしい検査を受ける。やがて全員が検査を終り衛門前に整列する。我々を送る赤旗が何本もひるがえっている。やがて出発。しばらく平坦な道を行く。小高い丘が見える。あの向うがナホトカ港だ。丘の頂上に出ると、眼下にナホトカ港が一望出来る。見れば高砂丸がその巨体を横たえている。赤十字のマークもあざやかだ。桟橋に着く。タラップを上る。役人であろうか背広を着た人が数人我々に、長い間御苦労様でしたと言葉をかけてくれた。看護婦さんもチラホラ見える。船室に入り居住区を割当られる。病院船だけあって全部畳が敷いてある。やがて夕食となった。白米の飯と味噌汁だ。何年ぶりの味噌汁の味だろうか。やっぱり私は日本人だったんだなあとしみじみ思った。開放感からかその夜はぐっすり眠る事が出来た。あくる日あまりにたいくつなので甲板へ出て見た。どちらを見ても海ばかりで島影も見えない。日本海の荒波と言うがさすがに波が荒い。6年前満洲に渡る時は小さい船でひどい目に逢ったが高砂丸は一万トンの船であるからびくともしない。明朝舞鶴港に入港するとの情報が入った。その夜が大変だった。明朝舞鶴へ着くと言うので誰も寝る奴はいない。唄う者、踊る者みんな気狂いの様にさわいだ。私も全然寝る事が出来なかった。うつろな目をして横たわっていると誰かが大声で、オーイ日本だぞ!!とさけんだ。もうすでに夜が明けていたある。みんな甲板にかけ上った。高砂丸は静かに舞鶴湾に入りつつあった。6年ぶりに見る日本の山々、夢にまで見た故国。私は思わずあふれ出る涙に生きて帰れた喜びを深くかみしめるのであった。


     筆者は1929年生まれ。嵐山町報道委員会が募集した「戦後50周年記念戦争体験記」応募原稿。『嵐山町博物誌調査報告第4集』掲載。


私の終戦(むさし台・中島時次)

2008年09月14日 | 戦争体験

 私が終戦を迎えたのは、918部隊である。部隊と言っても軍隊ではなく陸軍の兵器廠で我々はそこで働く陸軍々属であった。昭和19年(1944)、今の年で14才で志願したので終戦の年は15才である。
 昭和20年(1945)終戦の年、当時我々には未だ敗れるなんて事は考えられなかった。内地と音信不通となったり現地の新聞で広島の新型爆弾投下も知っていたが日本が負ける筈がないと云う気持が強かったせいかさほどに戦局の悪化を感じなかった。但し米軍機が飛来するに及んで信ぜざるを得なくなった。中国成都に基地を持つ在支米空軍は満洲各地も爆撃する様になったのである。我々文官屯から近い奉天鉄西区の工場地帯はこっぴどくやられた。その時に部隊上空へ現れたのである。空襲警報と同時に敵機上空!!である。我々は急いで外に出てタコツボにとび込んだ。当時は工場のまわりにタコツボが無数に掘られていた。上空には飛行雲と爆音だけで機影は見えない。かなり高々度の様である。ゆっくりと旋回しながら降下して来る。4発の大型の機影がはっきりするとすかさず文官屯高射砲陣地が火ぶたを切った。見る間にB29編隊のまわりに弾幕がひろがる。当らないものだ。彼等は編隊もくずさず落ち着いたものであった。但しそのあとびっくりする事がおこった。直撃弾である。高射砲弾がまともに機体に命中し機体はバラバラとなり機片がヒラヒラと満人の方へ落ちて行った。
 高射砲が小止みになると北陵飛行場から戦闘機が舞上りB29に向って行く。但しなかなか追いつけない。歯がゆい位だった。戦闘機より速い爆撃機などある筈がないとその時は思った。でもB29は高度9000mで時速574kmのスピードを持っている事を知りびっくりさせられた。やがて激しい空中戦も終りB29も去った。
 この頃我々の工場など満洲国内の工業・商業校の男生徒や女学生までも動員され兵器生産に協力させられていた。我々の工場は刃・工・検器具の生産が主であったがその頃にはハ-13甲と言う航空機部品に切替えられていた。そして8月に入ると国籍不明の飛行機の飛来とかいろいろな不吉なうわさが流れる様になった。その実ソ聯軍は戦車部隊を先頭に満洲国内に進攻を開始していたのである。
 やがて8月15日となった。運命の日である。我々は平常通り機械についていた。正午近くであったろうか全員集合がかかった。何か重大放送があると言う。やがて現場事務所からラヂオ放送が始まったが雑音ばかりでさっぱりわからない。そのあと工場長の泣き乍らの話によって我々は敗戦を知った。思はずその場へヘタヘタとすわり込んでしまった。それから今后は平和産業に切り替え云々の話もあったが誰一人機械に取りつく者は居なかった。否その後も再び工場へ足をふみ入れる事はなかったのである。
 戦后についても今となっては本当に断片的にしか記憶にないがいくつかを拾って見よう。ソ聯軍の進駐は速かった。小部隊ではあったが我々の部隊にも進駐、第1製造所本館に本部を置いた。正門には歩哨が立ち出入りをきびしく検問した。始めてソ聯兵を見た私は自動小銃を持ったゴリラに見えた。日本人に対してあまり敵愾心を持っている様子もなく割合人なつこいのにはびっくりした。
 それからはソ聯軍の命令で武装解除となる。8月下旬頃であったと思う。ソ聯軍と交戦すべく北上中であった63師団も我々の部隊で武装解除された。63師団の部隊の中に松山町出身の兵隊が居た。松本と言う兵長でなつかしく話をしたものであった。その人に新品の軍靴を貰った。私が復員后尋ねて来てくれた。なつかしい想い出である。ソ聯側の命令で工作機械を全部木枠の箱にして引込線迄運び出せと言うので我々もかり出された。戦車のうしろに太いワイヤーをつけ厚い鉄板に結びつけその上に機械をのせて引きづって行くのである。その音のうるさい事。軽戦車に乗せて貰うのもそれが最后だった。戦車と言えば私は始めてソ聯の戦車を見た。T34かT35かわからないがそのでかいのに驚かされた。
 余談になるが一寸戦車に触れて見よう。我々の属していた第1製造所は主として戦車関係の仕事をしていた。その関係で軽装甲、95式軽戦車、97式中戦車等はよく見ていたし乗せても貰った。ソ聯戦車に比べれば日本のはまるでオモチャだ。前面装甲の厚さにしても戦車砲にしても大人と子供である。南方戦線でアメリカのM4戦車に歯が立たなかったのと同じである。T34に日本の速射砲がはね返された話は本当だろう。
 大分横道にそれた。戦后は毎日がソ聯軍の使役であった。ある時ゴミの山の片付けをさせられた。ソ聯将校が一人ついていた。あまり馬鹿らしいので仲間の橋本とコソコソと逃げ出した。ところがすぐ見付かってしまった。いきなりピストルを発射した。頭の上をビューンと来たので二人共しゃがみ込んでしまった。スゴスゴと帰るとイヤと言う程どつかれた。
 いつ頃からか外棚を破り満人が残った武器とか物資を持ち去る事件がふえてきた。そこで先ず外棚の修理から始まり其の后各所に警備に立つ様になったのである。広い部隊故その数は数え切れない程あったのではないだろうか。私が書いているのは部隊内のほんの一部の行動でしかない。
 我々が初めて警備に行ったのは部隊で使用していた水源地である。いくら負けたとは言え、部隊内には何千人の日本人がいる。その大事な水を確保しなければならない。何名位で行ったかあまり記憶にないが、たしか15、16人しか居なかった様に思う。警備とは名ばかりで木銃の先に槍の様なものをつけたのを持っているだけだ。心細い事この上ない。この時期になると日本軍の武器を手に入れたわけのわからん武装集団が各地にウヨウヨしていたのである。
 この水源地は柳條湖と言う所で我々の文官屯から奉天に行く途中である。満洲事変の引き金となった柳條湖鉄道爆破事件はあまりにも有名である。その場所に高く白い表忠塔が立っていた。又すぐその近くに張学良の兵舎跡がある。建物こそないがその区画は歴然としていた。かたわらに小さな記念館があり、入口に戦利品と思われる大砲が置いてある。中へ入ると銃弾で穴の開いた背のうとか、日本軍の血染めの軍服などが有りほかに大小の銃火器が展示されてあった。この辺一帯が満洲事変の戦場であった事を示すミニチュアがある。その中にレンガを焼くかまどが各所にある。記念館の近くに点在するかまどを見ても事変当時から有った事を物語る。
 満洲事変が起った日、それは昭和6年(1931)9月18日、我々の部隊名918もこれに由来する。何れにしてもこのあたりは、日露戦争、満洲事変の戦場であった事は事実だ。我々が警備の間何事もなかったのは幸運であったと思う。
 その次の警備は火薬庫であった。我々悪ガキにとってここの警備は危険な反面大変面白かった。場所は第二製造所の片隅で隊内では一番はずれにある。第二製造所は主として火薬、軍刀類を作っていた。火薬庫はコの字型に土盛りがしてありその中に火薬庫の建物がある。何ヶ所位あったか失念してしまったがもし外敵に火薬や弾薬等をぬすまれたりすると大変な事になる。一番治安が乱れている時期でもあるので我々の責任は重大であった。それをたった10名でやれと言う。5名づつ交代で警備する。丁度角になっている所に円筒形の鉄筋コンクリートで出来たトーチカがある。トーチカの中に2名、あとは外棚の動哨である。武器はと言えば相変らず木銃が数本だが幸いここには38銃が1丁あった。弾丸は火薬庫だからいくらでもある。実弾と空砲を箱のままトーチカの中へ運び込んだ。ソ聯兵の居る場所ははるか遠いし、当時はそこら中で銃声がしていたので少し位の銃声はもうなれっこになっていた。トーチカのはるか彼方にサンチャーズがある。その辺でも何が起っているのか散発的な銃声が聞える。交代前仲間と二人でガランとした倉庫の中をキョロキョロしていると木箱に入った軍刀を見付けた。一度は吊ってみたかったあこがれの軍刀である。二匹の悪ガキは一本を腰に差し一本を背中にしよった。そんなものでも持つと大変心強い。更に火薬庫の中から木箱に20本づつ入っている。柄付の手榴弾を持ち出した。ほかに武器がないのでもしもの場合はこれを使う事にした。やがて立哨交代となる。背中に軍刀、腰に手榴弾を4発、何ともすごいかっこうで部署につく。
 昼間は平凡すぎてあきて仕方がない。草むらに向って手榴弾を投げて見ようと思い、柄についているブリキ製のふたを開ける。中からひもにつながった丸い金具が出て来た。日本軍が使った手榴弾とはまるっきり違った代物だ。金具に中指を入れ投げる。ガバとふせる。何事もない。不発弾だ。金具に指を入れて投げるとマッチ式に点火され破裂するものは柄からシューツと火を吹いて行く。そしてひもと金具が指に残るわけだ。一箱の中半分は不発だった。破裂するとギーンと金属性のすさまじい音がする。あまり不発弾がたまったのでそれを木箱に入れ、遠くの方へ置きトーチカから射つ事にした。みんな下手くそだからちっとも当らない。その中数うちや当るで、その中の一発が当った。ドカーンと言う大砲の弾丸でも落ちた様だった。警備長がたまげて飛んで来て、あまりハデにやるなとおこられたので、しばらく鳴りをひそめる事にした。悪ガキ共はろくな事は仕でかさない。
 又交代し、今度は夜の警備となる。前の警備班の申し送りでは夜になって数回何者かが復数で侵入を試みたそうだ。実砲をぶっ放して追い払ったそうだ。私ともう一人トーチカに入り小銃を銃眼からつき出して待つ。他の3名は手榴弾を4発づつ持って外棚をまわる。何者も近づく様子もないのであきてしまった。やたらと空砲をぶっ放す。何も来ないのに草むらに向って手榴弾を投げる奴もいる。とにかくそうぞうしい夜が明け交代となった。あれからどうなったのか記憶にない。
 やがて秋風も立ち始める頃今度は官舎地帯の警備となった。ここは文官屯から奉天に至る重要な道路に面した官舎地帯で1km程向うに連京線が通っている。とにかく住宅地なので婦女子が沢山いる。もし外敵が侵入すれば大変な事になる。責任重大だ。この時も10名か15名位で警備についた様に思う。三交代位だったろう。丁度官舎のはずれが角になっていてそこにトーチカがある。火薬庫の時と同じ円筒形のトーチカだ。
 ある時大変な事が起きた。その前に奉天に東北大学と言うのがあった。戦后ソ聯に送られる日本兵の一時的な収容所になっていた。そこから毎日の様に長い列車で兵隊がソ聯へ送られて行ったのである。我々が警備に立った時、それは多分午后であったろうと思う。私はトーチカの中から前方を見ていた。折からシベリア送りの列車が通りかかった。貨車と貨車の間に臨時の哨所が設けられそこに自動小銃を持ったソ連兵が乗っている。我々の正面よりやや右に寄ったあたりがゆるいカーブになっており列車のスピードが多少落ちる。丁度そのあたりに列車が差しかかった時何やら白っぽいものがとび出した。みんな見て居たらしく、あっ脱走だ!!とさけんだ。間もなく列車が止り数名のソ聯兵が自動小銃を射ちながら追いかけて来た。あとは背の高い草むらで何が起きているのか見る事が出来ない。もしつかまっていれば助からないだろう。どの位の時間がすぎたであろうか。ソ聯兵も去り列車が動き出した。心配してもどうにもならない。やがて交代となった。
 それからしばらくして警備長がみんなを集めた。警備長は言った。「先程の件であるがあの兵はおそらく殺されているだろう。あのままほって置くわけにはいかん。埋葬するから非番の者はスコップを持って集れ」と言う事で我々数名で現地へ向った。現地とは言っても路線に沿って雑草が背丈程も生いしげり、何処かさっぱりわからない。探し廻る事しばしそのうち仲間の西川と言う奴が突然ウワーッとものすごい声を上げた。とんで行って見るとそこには目も当てられない光景があった。こんな恐ろしい光景は見た事もない。頭は割られ、血とも脳ミソともわからぬものが頭の上にたまりそこに銀バエがブンブンしていた。目はつぶれ鼻の形もない程グシャグシャになっていた。我々は恐ろしさに声も出なかった。見ると太ももに二発弾丸が貫通している。おそらく足をやられ動けなくなった所をメッタ打ちにされて殺されたものであろう。とにかくすぐわきに穴を掘り埋葬した。土を盛った上にかたわらに咲く白い野菊をたむけ手を合わせた。恐ろしさに走って詰所に帰った。
 やがて夕食となったがあのむごたらしい情景が目にやきついてとても食べる気にならなかった。夜になって再び警備に立つ。ついあの方角を見てしまう。真暗だが何となく無気味だった。やがて朝になり警備交代となり自分の部屋へ帰った。ゴロリと横になって目をつむる。毎日の様にソ聯へ送られる人達、極寒のシベリアでどんな苦しみが待っているだろうか。それから数ヶ月後、私自身がシベリアへ送られる運命になろうとは……。あの非業な死をとげた兵隊。埋葬した場所を知っているのはあの時の我々数名だけではなかろうか。とすれば四十数年たった今でもあの兵隊はあの場所で人知れずひっそりとねむっておられるのではないだろうか。心からご冥福を祈りつつこの手記を閉じたいと思う。


     筆者は1929年生まれ。嵐山町報道委員会が募集した「戦後50周年記念戦争体験記」応募原稿。『嵐山町博物誌調査報告第4集』掲載。


講和記念アンケート「よりよい村にする為の具体的方策」 1951年11月

2008年09月14日 | 報道・よりよい村にするために 1951年
 想ひおこせば十一年前の秋、国を挙げての大祭典が展開された。紀元二千六百年を寿ぐ世紀の祭典である。菊花薫る日比谷の原頭に蝟集(いしゅう)せる朝野の縉紳名士も紅葉散る山間の陋屋に日の丸を掲げた無名の民草も誰がその後十年間の世の転変のはげしさを予想し得たろう。必勝不敗の態勢から無条件降伏へ、今又希望の首途へ、余りにはげしい世の移り変りに、民族にも歴史にも、希望も建設も、あらゆる人の営に対してすっかり自信を喪失し、この十年間に国民思想にも大きな変化が齎(もたら)されたやうである。果してさうか。それは長い歴史のみがこれを知る。しかしここに掲げた二十余篇の論説は、このはげしい世相をくぐり抜けた人々が果してども方向に動いて行くか、それを示唆する貴い指標である。何故なら今や漸く我々は自らの目で見、自らの心で考へ、自らの口で喋る時期に到達したと考へられるからである。論説中に見られる過渡期的溷濁(こんだく)は読者の良識により払拭(ふっしょく)せらるべきものである。
     『菅谷村報道』17号(1951年11月10日)掲載

よりよい村にする為の具体的方策(菅谷・松浦博) 1951年11月

2008年09月13日 | 報道・よりよい村にするために 1951年
 菅谷村でなすべき事柄はまだまだ多くあってそれを列挙すればかぎりありませんがその一つ二つをあげてみませう。例へば村の公民館、娯楽設備、衛生問題があります。この中で直接私生活に関係があるのはなんと云っても衛生問題でありませう。一口に衛生問題と云っても色々ありませうがまず第一になすべきは蝿蚊退治でせう。然しそれは個人個人で行ったのでは絶対に出来ないと云う事は多くの人々の経験してゐる事思ひます。やはり村のあるいは区の仕事として行うべきではあります。その方法としては特別の衛生委員を設けて一週に一度ぐらい戸別に巡視して便所、下水、豚小屋等を消毒する事にして村民は極力これに協力し一ヶ月に一度ぐらいは日を定めて村民全体が各自の責任に於て下水等を掃除したならばよいと思ひます。この様にして蝿蚊の居ない村や町を作った所は全国では何ヶ所もあります。菅谷村も是非そうしたいものです。
私達の村から蝿や蚊を徹底的に駆逐したならばそれ自身が文化生活に一歩でも近づいた事になります。そして住みにくい此の世の中をすこしでも住みよくする為に村民がこぞって協力しようではありませんか(18才・松山高校3年生)。
     『菅谷村報道』17号(1951年11月10日)掲載

よりよい村にする為の具体的方策(川島・森田與助) 1951年11月

2008年09月13日 | 報道・よりよい村にするために 1951年
 講和講和、待望の講和は締結され我が国は漸く独立することが出来た。我々国民は大いに祝福して止まぬと同時に茲に認識を新たにし日本人としての覚悟をせねばならぬと思ふ。言ふ迄もなく我が国の前途は多事多難なものがある。自衛権の確立、賠償問題、人口問題、食糧問題等々枚挙に遑(いとま)なく、国際情勢の如何によっては大なる犠牲を払はねばならぬと思ふ。だが私はこう言ふ国家的問題に触るるものでなければこれら大問題は先人に託して先づ自分を省み自分の家を視(み)、自分のを知り、自分の町村と先づ自分の周囲を知ることが尤も大切なことではなからうか。国の細胞たる町村が堅実でなくては国家の繁栄は望み得ぬものと思ふ。
 茲(ここ)で菅谷村を良くするにはどうしたら良いかと言ふ事を考へる時、私は教育であると言いたい。そして其の補助機関なるPTAにお願ひする。言ふ迄もなく今迄の教育は先生任せ学校任せであった。それではならぬ。如何しても学校と家庭が一体とならねばよい教育は出来ぬと言ふ見解から教師と父兄の会(PTA)が組織され、幾年か過ぎたが果して全般の方々がPTAを理解されて居るだろうか。特に家庭に於ては婦人の力に依る処が大きい。父兄とし母姉としどれだけ理解し認識されて居るだらうか。疑はしいものである。
 されば真に理解させその有りかたを知らせるには字毎に懇談会等数多く開きお話しすることが尤も効果的ではないかと思ふ。されば先生諸兄の一段のご努力をお願ひしPTA本来の道を進みたいものである(民生委員、46歳)。
     『菅谷村報道』17号(1951年11月10日)掲載

よりよい村にする為の具体的方策(志賀・出野好) 1951年11月

2008年09月13日 | 報道・よりよい村にするために 1951年
 敗戦後の我国は国土の四五%を失い而も人口は八千万を擁し十年後にはやがて一億に達せんとする趨勢である。昔ならば之を国運隆々たるものとして大いに中外に誇示する処であるが、今は敗戦国のかなしさ、限られた四ツの島にとじ込められて此のぼう大なる人口を如何にすべきかヾ頭痛の種となっている。されば朝野の識者の間に於て此の問題がさかんに論議されている事は、つとに世人の知る処であるが、之が対策として産制が取り上げられているのは誠に尤もな事である。これはたヾに国家問題であるばかりでなく各個人の家庭に於ても真剣に考ふべき事であると思ふ。昔から貧乏人の子沢山とゆう諺があるが、多産の家庭が如何に経済的に苦しんで来たかは我々の身にこたえて見聞し且体験している事である。我々農村の中産以下の家庭に於いて特に然りである。かかる家では明けくれ食ふ事のみに没頭し教育等も閑却せられ只々子供の養育丈が精一杯で、ほっと息つく間もなく尊い一生を終って了ふのが今の世である。是が人生なりと諦観すべきであろうか、否こんな意味のない一生は人生ではない。そこで私は識者の口真似をする訳ではないが声を大にして産制を叫びたい。良い子を少く産んで丈夫に育てる計画産児、これこそ我々の最も理想とする処である。産めよ殖せよとか又子供は授かり物だから仕方がないと矢鱈に生み出して無意味な苦しみをする時代は正に過ぎた。私は先ず子供は三人位が適当だと思ふ。結婚後五年目に一人宛生む様にすれば生活にもさしたる支障を来たさず従って十分な養育が出来るから親子共に幸福である。宜しく自分の好む時に生み欲せざる時には造らない事である。かくする事によって国家百年の大計にも順応し又自己の幸福をも招来する唯一の手段ではなからうか。かゝる方策は国家が取り上げて実施すべきは勿論であるが先づ手近な処で村あたりでも一応考慮に入れて何等かの手を打つのも決して徒事でないと思ふ。例えば保健婦をして各家庭を訪問せしめ、性知識を啓発して、正しい避妊の方法を授け、しかも節度ある性生活を営ましめ、或いは婚姻の届出に対し御祝ひとして相当量の避妊薬を贈呈するなど面白いと思ふ。又薬店と提携して避妊薬及び用具の半額購入券を発行し民生委員の手に依って無償交付するなども妙であろう。之を要するに人間は食足りて礼節を知る動物である。彼の終戦直後に於ける怖るべき様相も衣食たらざる動物本能の一断面ではなかろうか。生活にゆとりがあれば自然精神的にも余裕を生じ即ち謙譲の美徳を備えた最良の国民となるのである。
 斯く観じ来れば産制を実行する事に依って国民個々の経済破綻を防ぎ、民生を安定し、生活を向上せしむる事が出来るのである。産制こそ救国の根本であり、平和の基調であると云っても過言ではないと思ふ。
 卑見を述べて大方識者の批判を竢つ次第である(村会議員、56歳)。
     『菅谷村報道』17号(1951年11月10日)掲載

よりよい村にする為の具体的方策(志賀・高橋亥一) 1951年11月

2008年09月13日 | 報道・よりよい村にするために 1951年
 村をよりよくやってゆこうと云ふ事は講和以前にくらべて一層容易でないことは云ふ迄もない。まだ講和と云っても各国の批准が済んでゐる訳ではなく、それは早晩解決するとしても、その後に来る問題は国家の政治経済にどう響いてくるかと云ふことである。
 第一に東南アジア諸国との関係、比島、濠州、ビルマその他の国から多額の賠償の要求も考えなければならない。然し、それを米国が如何に調整してくれるかである。更に外債の支払援助資金の返済等。弗不足の現在亦将来を如何にして支払得るか。政府は自立の範囲内で支払ふと云ってゐるが、果してそれんに先方が応じ得るどうか。侵略をうけた幾つかの国が日本の再軍備を不能ならしめんとする意図から多額の賠償を要求してくるかも知れない。第一次大戦後のドイツが賠償支払の為に百十六兆億マルクと云ふ通貨の乱発となり、従って大インフレとなり、新通貨切替の直前、二十三年の十月二十日には一弗の相場が実に四兆二千億マルクと云ふ全く想像もつかない迄に暴落して通貨は殆ど無価値なものになってしまったのである。
 故に政治経済と云っても講和後の問題である。資源の乏しい我が国が、若し貿易の何十パーセントを賠償、外債、援助資金等に振向けなければならない。然し亦それ以前に爆弾の洗礼をうけるやうな場合がないとも言ひ得ない。それこそまさに御破算である。
 こうした国家の興廃を決す如き重大な問題が重積してゐる。国家の一細胞たる、一町村はその一挙一動によりて直に明暗となって響いてくることは云ふ迄もない。故に末端の指導者は与へられた範囲その枠内を巧みに運営すると云ふ外にないと云っても良いのである。只具体的に云ふならば政府の行政整理の尻馬に乗りて予算の何十パーセントにのぼる人件費の削減、それに付随する冗費等に充分検討考慮すべきである。
 一方農業経営の面から云ふならば現在の無計画経済による過剰生産時代(多角経営)にあっては多少危険をおかして尖端をゆくか、或は殿(しんが)りをゆくかである。然し最近は尖端と尖端がぶつかり合ひ、殿りと殿りとがぶつかり合って結局採算破れの生ずる場合が少なくないのである。然し斯く行き詰った農村も国際情勢の如何によっては、或は再びインフレの波に乗ってバックする時がくるのではないかと思ふ。それは兎も角、拡大再生産のきかなくなった資本主義の末期時代に何等かの一大変化が起こらない限り自滅への一途を辿ると云ふ以外にないのである。故によりよき村をつくる具体案と云っても状勢の変化に対応し善処すると云ふ事であると思ふ(村会議員、57歳)。
     『菅谷村報道』17号(1951年11月10日)掲載

よりよい村にする為の具体的方策(志賀・水野利男) 1951年11月

2008年09月13日 | 報道・よりよい村にするために 1951年
 農村には今尚迷信因習が多くこれらが如何に保険衛生に悪影響を及ぼして居るが、これら迷信因習を根本から打破し正しい衛生知識を普及しなければならぬ事は郷を同じくする誰もが心を痛めて居る問題であると思ふ。昨年今年に於ける伝染病の発生は郡下でも、上位にあると云ふ不幸な結果で有る。
 無医村であれば、まだしも他村に例を見ない医院数、立派な医師が居る本村に於て病人の続出は何を意味するか。この埼大の原因たるや各戸各人の衛生に対する知識の足りぬ為と云っても、敢て過言ではないと信ずる。此の機会に是非婦人会の活動を希望する。衛生知識の普及は主婦であり、子供の母親である。皆様にお願ひする普及の一方法として立派な医師が居られるのだから各医院を訪問して、四季に多く発生する病気の種類、家庭で出来る手当等お伺しパンフレットを作製、これを各戸に配布し病気の早期発見に、手当に役立たせ、合せて一般の衛生知識の向上を計り明るい家庭、愉しい村にする様、共に努力すべきだと思ふ(青年団文化部長、22歳)。
     『菅谷村報道』17号(1951年11月10日)掲載

よりよい村にする為の具体的方策(平沢・山田巌) 1951年11月

2008年09月13日 | 報道・よりよい村にするために 1951年
 国民待望の講和条約は締結された。然し乍ら国民待望の講和はこのやうな安保条約主、講和条約従のものではなく、交戦国全部との真の講和一本槍であったのである。斯る講和後に於ける政治経済上の問題誠に軽視すべからず。講和により国民経済、国民生活は安定と向上の一途を辿(たど)るかに楽観視する者少しとせず。然し事実はその逆を行くと考へて敢て過言ではないであらう。今や講和インフレは必至の状態にあり国家財政又窮迫の度を加へつつある政情の下に於ては地方自治行政も複雑至難イバラの道の続きである。世間の流言はいざしらず今消防ポンプ購入に見らるるが如き軽率なやり方は戒めねばなるまい。「失敗は成功の元」、褌しめかえ堅実な行政を願ふ者である。今や終戦後の農民景気は何処へやら……農産物価格の後を追った諸物価は農産物価を尻目に上昇の一途を辿り、之と逆に農産物価は下向きの形勢にある。米麦の統制は外れんとしてゐる。斯(かか)る今日程経営の合理化に迫られていることはないであらう。真剣に考ふべき秋(とき)である。経済の健全性は収支の均衡であることは云ふまでもない。一町足らずの農産物に依る現金収入は見るべくもない。ここに農業と一番関連深い畜産の方途を見だすことが出来る。酪農、養豚、養鶏により現金収入の道を打出し、それに依り出来た堆肥の金肥の節約を計ることが可能であり、牛乳、卵等は特に農村に事欠く栄養の補給源となり、一石二鳥の効果を収め、一年生計費の何割かを占める医療費の節約を計ることも出来る。幸にして当地は立地条件に恵れ、有畜農業の前途又は有望と云ひたい。人間は総て共同の社会に住む。郷土を愛することは人間の常なり。教へ教へられてよりよき社会の建設へ(25歳)。
     『菅谷村報道』17号(1951年11月10日)掲載

よりよい村にする為の具体的方策(千手堂・高橋正忠) 1951年11月

2008年09月13日 | 報道・よりよい村にするために 1951年
 わが菅谷村をより美しく住みよい豊な村にするために私は次のようなことを考へてみた。具体的な方法は心ある有志で会合し、話し合って研究して行きたい。
 一、農業生産を高めること。
(1)適地適作の研究(2)品種の改良(3)施肥の研究(4)土地の改良(5)農業の機械化(6)農業技術の向上(7)農業経営の合理化(8)農業の協同化(9)(協同作業協同経営協同炊事等)
 二、家庭生活の改善
(1)衣生活の改善(合理的作業衣の研究普及)(2)食生活の改善(誰でも出来る而も理想的な献立表をつくって各戸に配付、農繁期に特に必要)(3)住生活の改善(勝手、風呂場、便所、井戸、作業場)(4)リクリエーション(健全娯楽)(5)衛生と健康の問題(又は休隣組単位に村内の専門家を招いて講演会等)(6)家庭経済の研究(家計簿を付けて計画的に)
 三、各種委員会並に団体の活動と村民の協力
(1)農業委員会(増産と村経済樹立)(2)選挙管理委員会(民主社会における選挙の重大性を徹底)(3)民生委員会(村に不幸な人間をつくらない相互扶助の精神を徹底)(4)農業協同組合及び生活協同組合は定款により最大の活動(5)婦人会(家庭改善と婦人の向上)(6)青年団(堅実な思想と協同の精神)(7)4Hクラブ(健康と知性と技術と精神を尊び増産運動をなす)(8)文化会(農村文化の向上のため復活することを望む)
 四、設置を要する機関
(1)公民館(図書館の併設)(2)託児所(だけで農繁期だけでよい(3)映画館(企業を目的としたものでなく社会教育と健全娯楽を考慮したもの)(4)観光施設により村経済を負担する方法(国保運営委員、47歳)。
     『菅谷村報道』17号(1951年11月10日)掲載

よりよい村にする為の具体的方策(千手堂・瀬山修治) 1951年11月

2008年09月13日 | 報道・よりよい村にするために 1951年
 待望の講和はすんだ。然しお隣りの支那印度等は不参加、賠償額のきまらない何となく不安な講和である。吾々に課せられる責務の重大さを痛感する。今後、平衡交付金の減額は予想され村民負担の増大は覚悟しなければならない。これに対しては村民の一致協力こそ村づくりの推進力である。生産の面に於ては労働力を検討して高度に利用すべきである。戦後急激に盛んになった酪農はこの現れで立地条件に恵まれた本村では尚一層増加すべきである。養豚、養鶏等の家畜も増加すべきで、本年より僅かながらこの方面の助成を始めたが非常に有効と思ふ。家畜の増加は自然生産量を増加する。土地改良の事業は農業発展の基礎である。従来実施して居る農道改修の補助に加へて出来る限り助成し生産条件を改良すべきである。文化面に於ては公民館を建設し文化生活を向上すべきである。小中学校の施設に対し出来得る限り予算を計上し、生徒児童の教育に遺憾なく力を注ぐべきである。次の世代をよりよくする為に(村会議員、46歳)。
     『菅谷村報道』17号(1951年11月10日)掲載

よりよい村にする為の具体的方策(千手堂・吉野ナヲ) 1951年11月

2008年09月13日 | 報道・よりよい村にするために 1951年
 私達此の度恐れ多くも皇居を拝観さして戴きました事は村民の皆様の御陰と深く感謝致す次第で御座います。此の旅行に付きついに家庭に反対され不幸にも希望を満たす事の出来ぬ婦人が沢山御有りの様でしたが、少しは親としての理解を以つて戴きたい思ひます。此れに反して此の節の嫁はどうも姑を何んとも思はず却って姑の頭に登らんばかりの態度をする方が有るなどたまたま聞き入れる場合が御座います。私は唯今では姑でもなければ嫁でも御座いませぬが、どちらが良悪しとも言ひませぬが私が考へましては親有って初めて子ですから一歩降って親に随って鄭重に取扱ったならばお台所の改善に付きましても気持よく可愛い嫁の為にはある程度の理解を以って戴けるのではないでせうか?菅谷村婦人会が生れたのは遅かったですが、講演講習会を開き洩なく出席して他に負けない婦人会を育て上げたい事を希望する次第で御座います(婦人会役員、45歳)。
     『菅谷村報道』17号(1951年11月10日)掲載

よりよい村にする為の具体的方策(千手堂・瀬山芳次) 1951年11月

2008年09月13日 | 報道・よりよい村にするために 1951年
 時間の厳守 村の会議或はの集会に於て、一時間若しくは、二時間位遅れなければ、会議を始める事が出来ないのが現在の状態である。そこで、召集した者は必ず、定刻に定めた場所に行き、一人でも二人でも集った人員に関係なく、定刻に会議を始める。遅刻した者には、既に議決した事に対して異議の申立は出来ない事とする。極端過ぎるかも知れないが、これ位にやらなければ、時間を守る事は出来ないと思はれる。
 二、国旗の掲揚 日本古来の伝統を生かし、国土発展の為国民の進むべき目標として、祝祭日に戸毎に国旗を掲げる事は講和後の日本国民としての義務であると思ふ(消防分団長、28歳)。
     『菅谷村報道』17号(1951年11月10日)掲載

よりよい村にする為の具体的方策(鎌形・山下欽治) 1951年11月

2008年09月13日 | 報道・よりよい村にするために 1951年
 先づお互の心を豊にする事である。如何にその智識が発達しても心が貧困であると決して良い結果となって現れない。それには各人が信仰を持つ事である。ここに云ふ信仰とは所謂御利益本意の宗教に対する信心ではない。神の存在を確信し、聖哲の教を守り、国家社会に尽した人に対し崇敬の念を持つことを正しいと信ずる信念を謂ふ。
 信仰の確立、是が高揚の為には色々な事が考へられるであらう。たとへば国旗の掲揚とか各神社寺院の祭事の振興とか、又は宗教人の宗教活動への協力とか、時に永年荒廃してゐる菅谷城跡の忠魂祠を復旧せしめ、年一回位盛大に祭祀を営む事等、祭典祭祀は一面村民の慰安、娯楽の行事たらしめる様に心掛ける事も大切である。
 二、次は経済生活の向上である。一般的なことは先ずおいて広く社会的に何かの特産物のある所は概してその経済も豊である。当村でも何かの特殊な産物があると良いと思ふのだが、どうかその道の人達に大いに研究してもらいたいと思ふ。
 是は私のほんとうの思ひ付きだが ─ 何かの団体が中心となって、各家庭で二坪か三坪のフレームを作り切花の栽培をして、是を販路を研究して共同出荷したらどんなものかと思ふ。勿論それには栽培上特別の技術家の指導を必要とするが ─ 花を作ることそれ自体が情操の育成であり、平和的で然も何処の家庭でも出来る事だと思ふ。そうして是が村の特産物となり、花なら武蔵嵐山の花と社会に知られる迄になったならば以て経済的にも必ずや得る処大であると思ふ(村会議員・農業委員、42歳)。
     『菅谷村報道』17号(1951年11月10日)掲載

よりよい村にする為の具体的方策(鎌形・杉田二三雄) 1951年11月

2008年09月13日 | 報道・よりよい村にするために 1951年
 私達が事業を計画し之が具体化する場合いつも一大難関に逢着するのは資金面に於てで有る。如何なる名案賢策も資金の面を閑却し、その裏付がなければ一場の夢物語と化してしまふ。村の事業でも同じ事が言へる。
 扨(さ)て与えられたテーマと合致せぬかも知れないが、幸に私は日頃から雄大なる構想の下に理想郷建設の具体案を計画中で有るが、本村の現状では、勿論実現不可能な事で有り痴人の夢と冷笑される位が関の山で有るからその全貌は、後日機会を得て発表するとして、その一環たる、実現の可能性濃き二三を挙げてみな様の参考に供したい。
 先づ第一に公民館の建設で有る。本件については村議会の議題となってゐるやに仄聞(そくぶん)してゐるが一日も早く実現させてほしいもので有る。そしてこれが運営は識者にお委(まか)せしその成果を期待するものである。
 第二に甘藷を原料とする加工場の建設である。本村は県下でも有名なる甘藷生産村で有りながらも澱粉工場も酒精工場もなく、甘藷は原料用として比較的安価に売却される。加工場建設の場合は生産過剰の時でも商人に買叩かれる心配はなくなり農民の利潤は倍加されて農民の生活向上の為に村がそれだけ明朗になる。
 最後に希望するところは全村各字に一個又は数個の電話の架設で有る。殊に鎌形将軍沢遠山等は、役場、農協等より遠く離れて居る為に、電話で事足りる簡単な用件でも一々出掛けなければならず農繁期や悪天候の時は非常に困難する。又電話は、防犯、防火や病気の時の保険衛生上にも火急の場合利便この上なく、利用範囲も広いものです。
 電話の架設により連絡は緊密となりスチーム村政は自ら実現する。以上三件とも実現の可能性濃きとは言ひ乍ら冒頭に述べたように、莫大なる資金が必要で有り又法規其の他細部の点は考慮してない。然し一つでも実現すれば理想郷へ数歩前進する事は信じて疑はない(25歳)。
     『菅谷村報道』17号(1951年11月10日)掲載