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埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

冨岡寅吉日記 昭和19年1月(1944) 菅谷村(嵐山町)大蔵

2009年03月31日 | 冨岡寅吉日記

富岡寅吉日記 一九四四(昭和十九)年

一月一日 土曜 晴
昭和十八年度の卵の数三六〇箇
青校召集日。八時半に祝賀式終る。校長先生の訓示、助役殿の祝辞あり。
国民校にきて本四、五の人達と一しょに銃を色々調べる。午過ぎとなる。吉野と二人で木村先生に空砲を三発もらい、家へかえってきた。吉野孝平さんの餞別に行く。とても御馳歩になった。酒もでる。銃を学校へかへす。
夜は六人一行にて二本木座へしばい見に行く。あまり興味がない。守二時頃家へ。
家の時計で十二時ねる。     以上

一月二日 日曜 晴
卵 前年度続き 昨日三六一 今日三六二
将軍沢の忍田平作さんの出征*を送くる。十時四十六分発。将軍沢へ集合八時。此れは早過ぎた。家へくると午だ。
午后は新藤純平、金井一郎君の送別会を開く。場所金井や。二時過ぎ始まる。五時近くなり終る。酒も大変あった。自分も少し酔った。守平三時四十六分発にてかへる
金井山下両君とも遊ぶ     以上
*将軍沢忍田平作、東部八三部隊応召。

一月三日 月曜 晴
受発 忍田政治
ゆっくり起きた。座敷で清水次郎長の小説をよんでゐたが午近くなり遊びにでた。中爪の大師様である。土地の大師様。
午后小生、金井仲次、斉藤三郎、野口恒吉、岡野千三君で松山へ遊びに行く。松林座へは入り陸軍航空戦記を見た。
四〇銭。行きは下唐子を通って行く。皆面白い者ばかりの一行だ。
もう松山では日が暮れてゐた。此の正月はたべ物はなくもまじめにやらう。

一月四日 火曜 晴
卵三 オイ花 これは火ぶせの神なり。
入営兵根岸貞次君、吉野孝平君、島崎、応召兵杉田君の出兵*を嵐山駅にて送くる。九時四六分発。郵便局へもよる。
昼食後又郵便局へ行く。太郎丸にて祝儀の時もらひしダン丸切手が四等に当ってゐた。一金貳円をもらひ、貳円だして新しく二枚求めた。此れは金もうけにやるな。一枚でも国に盡す心で行かう。
近所で遊ぶ。面白くはない。父水車へ。子供の天神講なり。 以上
*根岸根岸貞次東部六部隊、鎌形吉野孝平東部一二部隊、川島島崎茂雄東部六部隊入営。鎌形杉田善作横須賀第一海兵団応召。吉野孝平は一九四四(昭和一九)年七月一〇日、中国湖南省で戦傷死。兵長。「北支派遣極二九〇五部隊」所属。

一月五日 水曜 晴後曇
卵四 受信 金井春二 富岡敏二
昨夜は隆次竹本やへ泊る。
父山仕事。余は祖父さんと供出の荷かごつくりを始める。竹をわるのがむづかしい。くむのはわけない。午前一つくむ。一ト市の高山久治軍曹礼にくる。
父午后も山仕事。祖母も(まきも、午前中も)
午后二つくむ。面白い程よくできる。
とうとう夕方は雨っぽくなり、少しちらついてきた。
受信 富岡金井両君より

一月六日 木曜 晴
卵五
あまり早起きでない。此の数日悲願千人斬の小説を読んでいる。此が本物なら大したものだが見にしみる。
昨日のつヾき。軍用荷篭つくり。大きい方は二つ午前中にでき上がる
午后小さい方を始める。小さい方は面白いほど簡単である。 保険の集金くる。
夕方迄に三つくむ。   以上
発信 金井富岡二君へ

一月七日 金曜 晴
悲願千人斬昨晩で読み終った。朝作くりにかごを少しくむ。
午前中二つ。早くでき上がりカンナをつくり始めた。中々むづかしい。
午后を小説をよむ。面白いやつだ。
七草なので遊びに行く。金井君とカタナを持ちだして面白くあそぶ
時にはこうゆう無じゃ気の事もよいものだ。夕方暮(暗)くまでやる   以上
受信 守平  まきへ 木村先生

一月八日 土曜 晴
卵六 第一回召集日 大詔奉戴日 始業式
大詔奉戴日。青年学校にて奉読式をする。木村先生へ空砲の薬キョウを返へし教官殿の所へも使に行く。九時過ぎて始める。
国民校々庭にて銃ケン術をした。将軍沢の加藤君(本五)、吉野君ともした。皆練習してある。小生も大いに練習する事に心掛け様。
午后荷かごのカンナつくり。火であぶってまげた。かごに打ちつけるのが中々むづかしい。
三名山仕事。   以上

一月九日 日曜 晴
入間郡川角村川角小室巳之吉方手金拾円
供出のかごのカンナ打ち。錐もみが中々骨が折れる。手が痛い。
午前中二つ、午后二つ。大きい方終る。小さい方祖父三つ、小生一つ打ちつける。
祖母、父、まきは山仕事。
夕方川角村川角小室巳之吉方の家内、ナキリミを頼みに来た。貳拾参枚で拾円手金を置いて行く。入西村へ売った馬もよく仕事をするそうだ   以上

一月十日 月曜 晴 午后曇
卵七
供出のかご、カンナ打ち終る。今日のは割によく打てた。
印篭をつくる支度。竹をこしらへる。むづかしいものである。
午休みに大沢伊三郎方より竹二束切ってきた
印篭の底組み。廻し入れは力がは入らぬから駄目だ。とても大風がでた。ミゾレも降るが夜は星が輝いてゐる。   以上

一月十一日 火曜 晴・大風
卵八
新聞配達。日が晃ってから配る。
印篭のふち折り。将軍沢の岡本正三氏竹を持ってきて背負いかごを頼れた。
三つ折り。十時半支度をとり替へて新藤文太郎、岩治君と三名で小川の相生座へ映画を見に行く。「風雲の春」と題す物。果して之が実行できようか?
三時二〇分頃終る
将軍沢の吉沢荘平氏へ印篭一つ
大沢伊三郎氏へ同じ物三つ   以上

一月十二日 水曜 晴・大風
卵九 召集日第二回 怱(サウ)忙(いそがしい)
よい日になりそうだ。本三召集日。青校にて朝礼を行う。女子部も一所。女子部は緊張が足らん。第一時下田先生修、公科。二時普通学科。午后木村先生職業科。教科書外麦つくり二時間で終る。午頃は大風だ。とても寒い。
四時過ぎてから国民校へ行き銃剣術をした。本科三年は今日が始めだ。皆未だうまく行かぬわい。木村先生より空砲を二発もらう。日没してから家へきた。
まき歯科ゐへ   以上

一月十三日 木曜 晴
卵十
印篭のふち巻き 二つ
丸篭の縦ひねをわる。丸かごは印篭よりも厚くもよい。三本立(タテ)
三つ分こしらへ底を組む。うまく行く。
午后廻しを入れる。うまくは入る。
今日は風がない日だ。とてもよい。
印篭 山下茂治方へ一つ。   以上

一月十四日 金曜 晴
丸篭のふちまき。祖父さん二つ。小生一つ巻く。
丸篭 石川逸郎先生へ一つ。
上唐子 新井廣作方へ二つ持って入った。
今日は団子作くりである。団子木を取りに入った。うまいのは見付からぬ
空砲を撃って見た。鳥は取れぬ。
供出荷篭の穴あけ。金火ばしをやいてあける。
割合によくあけられる   以上

一月十五日 土曜 晴
小正月なり。午前早く学校へ行ったが先生はゐなかった。
菅谷の家へ卵を七箇持って行った。
駅通の叔母さん*に三つやる。点数を拾六点もらう。
早昼飯で魚突きに行く。寒いけれど川の中へは入って突く。面白い程よくつける。
夜は金井仲次郎君、富岡健治さんと自分三人で二本木座へしばい見に行った。大変うまいしばい者だ。
*大野うめ。筆者の祖母の妹。

一月十六日 日曜 晴
青年団の総会及男女常会を向徳寺にて催す。役員改選をする。新支部長富岡理昌さん、副支部長野口由次郎さん、外役員金井亀二、富岡清、金井吉二、富岡良治さん也。
午后金井仲次郎君と着物を来て遊んで歩く。根岸の方へ行って見た。
又金井やのあたりであそぶ。
父、岡本正三氏、水車の正ちゃと成田、川崎方面へ行く。早起き会無欠席五〇銭

一月十七日 月曜 晴
卵十一
くまでつくり。
祖父さんが細く割る。自分は廣がるのをけづる。砂糖配給
木鎌でけづる。うまく行く。
午前中八本けづり
湯かいこみ、くまで一本けづる。
くまで曲げ。吉見へ大工の家のナミさん嫁に行く。(権田今朝夫さん夫)此の人家へきた。大工のナミさん 大里郡吉見村大字箕ノ輪
野村阿喜良さん、富岡実さんも祝儀
父昨日より東京へ   以上

一月十八日 火曜 晴
卵十二
菅谷の根岸久一郎方より買った松の木を切りに行く
始めの二本はよく切れた。
三本目は隣の木の枝へつっかかったが少し力を入れて反対ガワへ倒れる。
次の二本はうまく行く。
午后父と車で運ぶ
唐((唐子))を廻る。二車引く。長いものだ。   以上

一月十九日 水曜 晴
召集日三回
召集日。九時始め。本一、本三、本五、三学級の召集。指導員殿は内原に行ってゐるので内田金作指導員殿が教へて呉れ
ヒザ射、ネ射、地物の利用の射撃。
午前中で終る。散開の方法。
車引き。
午后二車で木も運び終る。   以上

一月廿日 木曜 晴
卵十三
くまでつくり。
祖父さんは草刈りかごのたてを割る。くまでの柄はめ
うまく行く。
昼休みに松山へ使に行く。
四円五〇銭使う。
将軍沢の屋根やさんへ印篭一つ、くまで一本 六円拾銭収入。
唐子新井廣吉方より頼まれる草刈りかご二つ、肥引きかご二つ。

一月廿一日 金曜 晴
卵十四
草刈りかごの廻し入れをした。
中々未だうまく行かぬ。早く終り淵を折る。
午后淵巻き。
自分は甘藷ふかしのかご(センベイ)を組む。大沢久三さんへ。
将軍沢の加藤宅へ草刈りかご二つ、一ケン上の家へくまで一本
山下茂治宅へ草刈りかご三つ。   以上

一月廿二日 土曜 曇
卵十五
召集日 今日も内田指導員殿に教った。河原へきて散開の方法や散兵の任務、を教る。又、軍人の本分は忠節なり。忠節とは礼儀。武勇。審議。質素。を行う事なり。鎌形耕地にて散開をした。
中々むづかしい物である。
教練半日。明日の郡下横断行軍の選手十五名きまる。中々もめる。
目かいつくり。
唐子へかごみ。

一月廿三日 日曜 晴
卵十六
食用油の配給。十人は五合八拾五銭。
郡下青年学校の横断行軍が催れた。菅谷も参加す。選手、本科五年四名、四年三名、三年五名、吉野栄一、馬場正夫、柴(紫)村三郎、中島運竝、栗原守男君である。大いに張切った。二年二名。
郡下十数校の中、菅谷校は六位なり。吉野勇作君と帰ってきた。
吉野は途中より加った。   以上

一月廿五(四)日 月曜 曇後晴
目かいつくり。何時ものより一目短い。
三つ組み上げふちまきをした。
午后篭ざるの底をつくる。三つ。
将軍沢の沢渡の家へ目かい二つ。
金井親治宅へメン上げザる一つ
野口臣吉宅へ
半ザル一つ   以上

一月廿五日 火曜 曇
卵十七
今日は朝から曇ってゐる。とても寒い。
篭ザルの廻りを廻る。一番初めのは、真中が平でうまくない。次のは中がふくれすぎた。三番目のはよくできた。
篭の縦を割る。此れもうまく行かぬ。
組む篭をきせるのである。
三つでき上がる。二円五十五銭
信用組合へ押麦もちに行き米をついてくる   以上
将軍沢の吉沢義三宅へくまで一本

一月廿六日 水曜 雨くもり
卵十八
昨夜は少し雨が降った。今朝も雨模様なり。菅谷岡松屋へ肥引きざる三つ持って行く。
今日の召集日は人の集りが悪ひ。指導員殿が見えないので五年生の人と自分は銃剣術をした。全部で七名出席本三
半日。午后テツキ一つ作くり。
蜀黍掃二本つくり、後隣組の事で隣組中を歩く。
父壮年団*の常会   以上
*翼賛壮年団。

一月廿七日 木曜 晴
卵十九・二〇 今日より片方の鶏が卵を生み始む
隣組の用で少し歩く。蜀黍箒きつくり
祖父さんは神戸の方へ行く。
掃き三本つくる。
午后草刈りかごを自分一人でつくり始めた。縦を割る。
時分で組む。祖父さんは背負かごつくり
将軍沢へ草刈りかご一つ。   以上

一月廿八日 金曜 晴
卵二十一・二十二
祖父さん神戸の方へ使に行く
時分は背負かごを少しつくり、すぐ草刈りかごの縦を割る。半日
父と祖母さんは富岡理昌君の御婚礼で行く。
草刈りかごを組む。中学生の演習。
夕方富岡清君の御婚礼。小生招れて行く。両家ともにぎやかである。
十二時閉会す。   以上

一月廿九日 土曜 晴
召集日 勤労奉仕
新聞配達 斉藤君の家で約三〇分間火にあたってゐた。
召集日 新聞配達の為遅刻した
遠山より千手堂迄一回一人一俵、吉野栄一君と勇作君と三人で一しょ。
松本指導員殿も御見得になる
家へきて背負かごのふちまき。
今日始めて田麦の作切りをした。
神戸へ背負かご一つ。
金井やへ草刈りかご二つ。

一月三〇日 日曜 曇
卵二十三・二十四
祖父さんは今日も神戸の山へ行く。
時分は草刈りかごつくり一つ。縦を割る
午后淵を巻く
印篭を組む
フチ巻き一つ
父山仕事   以上

一月三十一日 月曜 晴
卵二十五
根岸の小沢多造さんの出征*を嵐山駅迄送くる。
印篭のふちまき。
午后印篭組む
鎌形へ二つ 長島一郎方へ
父、祖母、山仕事   以上
紺半反 実組より配給になる
*根岸小沢多造、横須賀海兵団応召。


冨岡寅吉日記 昭和19年2月(1944) 菅谷村(嵐山町)大蔵

2009年03月30日 | 冨岡寅吉日記

二月一日 火曜 晴
卵二十六
新藤純平君の入営*を嵐山駅頭迄送くる。八時四十六分発。
家へきて印篭つくり。
午后山仕事の手伝ひに行き車引き 二車引く。
今年は山仕事も始めてなので腹がへるわい 大工の家へ印篭一つ。柴田藤五郎方へも一つ。   以上
*大蔵新藤純平、満二九九部隊入営。

二月二日 水曜 晴
卵二十七・二十八
今日は学科召集日。第一時校長先生、第二時下田先生。午前終る。
午后木村先生農業。
第4時普通学科数学。とても面白い。岡本将夫君と一つ机にて。後尾の沢渡、吉野君と面白く遊ぶ。
朝づくりのマッチの配給をくばる。   以上

二月三日 木曜 曇・雪
卵二十九
雪がちらついてゐる。本四の吉野君が孝平さんからきた便りを見せによった。
印篭のふちをまく。
草刈りかごのたてを割る。
午后六つ組む。
雪が降ったり止んだりしてゐる
父山仕事。   以上

二月四日 金曜 小雨(春雨)
卵三十
草刈りかごの廻りを入れる。六つ。
ふち巻き。吉野孝平さんと柴田恭平さんへ発信す。午前中六つつくり上げ金井梅治方へ一つもって行った。大字の常会へ父行く。事のまとまらぬ常会だそうだ。
午后みやを連れて川島の鬼鎮神社へ行きお参りをしてよい年を取ってきた
夜は鎌形にてかごやの相談があり祖父さん行く   以上

二月五日 土曜 曇・小雨
卵三十一・三十二
昨夜は鎌形に籠やの寄合があった。
印篭のふちまき一つ。
味噌こしの下を組む 七つ
みそこしつくり 五つ組み上げる。
菅谷浜野七平宅へくまで一本目かい一つ
父縄ない。
午前中は雨降りであったが午后止む

二月六日 日曜 晴
卵三十三
将軍沢の鯨井亀吉((義))君の志願で入営するのを嵐山駅迄送る。菅谷村より五名*、農士の青木君も加ふ。七時四十六分発
味噌こしつくり。組み上げ 一斗ザるの底を組む。七手半。底は八寸。味ソコシハ五寸。六手。
祖父さん二斗ザルを始めた。
味噌こしつくり上げる。神戸の家へ一つ。後メン上げショウギ、目カイ、ミソコシ各一つ。
*菅谷中島芳造、将軍沢鯨井亀義(きよし)、志賀内田唯助、平沢村田嘉一、横須賀海兵団入営。

二月七日 月曜 晴
卵三十五 発信 富岡守平 受信 吉野孝平、守平
昨夜守平へ送る小包をこしらへた。それを今朝通運に頼む七〇銭。まきの債券を郵便局にあづけた。父は山仕である。
二斗ザルの側を廻る。少し廣がりすぎた。
テン引き貯金の通帳を軍造さんに頼む。今日も味噌こしを三つつくる。富岡元治さんへ一つ
一斗ザル、二斗ザルのふちまき。   以上

二月八日 火曜 晴
卵三十六・三十七 発信 吉野孝平
味噌こしのフチ巻きを二つ次に半ザルをつくる。
午后ふち巻き。唐子へくまで二本
風が吹いてゐる。昨日金井義雄さんに召集令がきた
父夜餞別に行く 一円
菅谷松浦へ半ザル一ツ、ミソコシ一ツ 一円九〇銭
富岡暉三君 御祝儀下里へ   以上

二月九日 水曜 晴
卵三十八
目かいを組みそのふちまき。
草刈りかごの縦を割る 二つ分
午前中草刈りかごつくり
二時四十六分発にて出征する金井少尉殿を社前より嵐山駅迄送くる*
草刈りかごのふちまき
明日菓子の配給なり
金井示夫方へ印篭一つ、草刈りかご二つ、一斗ザル、二斗ザル各一つ
   以上
*大蔵金井義雄、東部八三部隊応召。一九四五(昭和二〇)年三月二二日中国湖北省で戦死。

二月十日 木曜 晴
卵三十九
隣組長として隣組の菓子を配給受けに行く。二つから三つ迄計三十四人、六円八〇銭
家へ配ってくる。
草刈りかご一つ作くり竹本やの嫁へ、目かい二つつくる。大を菅谷山岸トラヤ、ハギ原へ一つヅツ、一つ一円二〇銭
将軍沢の家と鯨井鉄さんの家*へ一つヅツ、ミソコシをやる。一つ七〇銭。
父、祖母、山仕事。   以上
*鯨井鉄次郎方。

二月十一日 金曜 晴
卵四〇・四十一 紀元節
召集日。青校にて紀元節の式を挙行す。
国民校へきて、銃器室の整理、自分も手伝ひをする。午前中かヽった
午后、内田元治指導員殿と別れの式を国民校にて終りて嵐山駅迄送くる。停車場のホームで大元気なクワン送の歌をやる*。一時四十六分発
車引き。夕方、山より家迄   以上
*鎌形内田元治、東部六二部隊応召。一九四四(昭和一九)年一一月一六日「中支方面」で戦病死。

二月十二日 土曜 曇
ナキリミ作くり。
その前背負かごのふちを折る。小川へ藁を持って行くので山へ行ってゐる父を迎えに行く。
今日はくもってゐて寒い
午前中ナキリミを二枚つくる。
午后三時四十六分発に出征する忍田稔男君*を将軍沢の神社より嵐山駅迄送くる。
将軍沢鯨井儀重方へへ背負かご一つ   以上
*将軍沢忍田峰雄、東部八三部隊入営。

二月十三日 日曜 晴
卵四十二・四十三
ナキリミ作つ(く)りをしてゐると吉田の箒やさんが箒の柄を買いにきた。全部で二百十一本。十円〇五銭。草刈りかご二つやる。五円三〇銭。十時休み迄かヽった。
午后もナキリミつくり
八枚できた。昨日から。
櫻皮をさす
明日富岡理昌君出征する   以上

二月十四日 月曜 晴
卵四十四・四十五 召集日
五時に起きた。そして六時十五分前ラッパを吹く。神社へ集合、六時半富岡理昌君の出征*を嵐山駅迄送くる。
九時より教練。大蔵、鎌形耕地へきて分隊の散開法。五番以下右、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十と言う、順に。後半分左。教官殿よりこまかい点を教る。午前で終り午后吉野栄一君、勇作、農士校の市川君と四人で銃剣道をした。自分が一番何をしても下手だ。蛇かご作くりを頼みにきた。五間かご一本。一間五〇銭
*大蔵富岡理昌、東京第一陸軍病院応召。

二月十五日 火曜 半晴くもり
今日もナキリミつくり。始めのはうまく行った。
その中に悪戸の皿になってしまったのがある。ちゃうどふちがあったからだ。櫻皮をさす。
祖父さんは昨日鎌形へ供出の篭を持って行った。午前中は暖かったが午后曇り始めて大風となり寒い事おびただしい。
祖母、父、山仕事なり。   以上

二月十六日 水曜 晴
卵四十六・四十七
ナキリミつくり
今日はふちを針金でしばった。
よくしばれる。
父、祖母山仕事。
祖父さんと二人で一日に九枚しばる。
金井勇次郎さんかごの手金六円置く。
後櫻皮を刺す。
今日はとてもさむい日だ。

二月十七日 木曜 晴
ナキリミつくり
半日
午后草刈りかご。 二つ
祖父さん、高坂村へ付き目の薬をもらいに行く。
菅谷の家の使ひなり   以上

二月十八日 金曜 曇・雪
卵四十八
草作くりにチリ紙を配って歩るく。
朝食後菅谷へ使に行く。自転車やへナキリミ二枚、肉やへ一枚、いづみや*でシャツの配給。自転車をなをしてもらう。バラ(ル)ブも買う。根岸妙宅へ木ノ葉入れかご一つ、一円二〇銭
岡松屋へ目かい大小一つヾつ、二円五〇銭
みそこしを一つ進上する
夕方よりとても寒く雪降り天気と化す。   以上
*菅谷の眞澤商店。

二月十九日 土曜 晴
昨夜は雪降りなり。でも幾何も積らない。
今日は教練召集日なり。新藤岩治君と二人で国民校へ行った。長島指導員殿しか来なかった。三年生三名、吉野、小沢と三人で銃剣術をした。未だうまくできぬ
将軍沢の鯨井重吉君の入営を嵐山駅迄送くる。農士学校より出征兵士一人元気で行った*。
目かいのふちまき。   以上
*将軍沢鯨井重吉防府海軍通信学校入営。農士学校青木一清(滋賀県出身)。

二月二十日 日曜 晴
卵四十九
唐子の床やで二時間位手間取った。
十一時頃平沢の家へ篭を持って行く。
そして昼めしをもらって喰ってきた。
午后、金井宣久君の家で二人で色々の話にもてた。又根岸の観音様である
よい日なので参ケイ人も大多数である。夕方岡本七五三、忍田啓助君等と月田橋の方より帰ってきた。下田先生も後から現れにけり   以上
受信金井、富岡二君

二月二十一日 月曜 晴
受信 吉野勇作君
昨夜は岡本七五三君、市ノ川の新井君と三人で遊んで歩き、氷川神社の向ふの部屋へ泊ってしまった*。家の人達の心配甚だ大と聞く。大なる親不孝也と今にして後悔するものなり。
午后味噌こし三つ作くり上げる。今日ナキリミ三枚出る。味噌こし二つでる。
将軍沢へ使に行く。岡本正三氏宅へしみしかご**一つ。鯨井儀重宅へも一つ。   以上
*談:唐子の氷川神社辺の工事のための小屋。
**おしめかご。

二月二十二日 火曜 晴
発信:吉野
隣組へ納税のキップを配ばる。
ナキリミつくり。一番始めのはとても形よくできた。
三枚目のは少し作くると昼めしとなる。午后学校へ行った。銃を三挺なをした気持はとてもうれしいものである
午后五時二十八分着にて欠川波治君*、故金井福治君**の英霊を嵐山駅で迎へた。ラッパを吹く
*遠山欠川波治、一九四三(昭和一八)年八月七日ソロモン諸島で戦死。
**大蔵金井福治、一九四三(昭和一八)年八月七日ソロモン諸島で戦死。

二月二十三日 水曜 晴
昨夜は野口由次郎さんの御祝儀なり。いっちゃんの家で皆とあそぶ
ナキリミつくり。父、祖母さんは大工の家の御祝儀へ行く。隣組の人が納税をもってきた。人口調査なり。
昼休みに富岡茂八方へ全部の納税をもって行く。
砂糖の配給一円四十二銭
金井一郎君の餞別に行く。
第二 一八九円五五 一八円三〇   以上

二月二十四日 木曜 くもり
昨夜は富岡二三郎君の御祝儀だった。
父は一元に南へ行く。祖母さんも行った。
今朝金井一郎君の御入営を嵐山駅頭迄送くる。遠山からも一人高橋重治君*
十時頃より月田橋の下の河原で祖父さんは蛇篭つくりをした。
午前中棚作くり。午后、竹割り。とてもおもしろくよく割れる
祖父さん一丈のかごを一本つくる。
蛇篭二本 丈十尺
*大蔵金井一郎、遠山高橋重雄、東部六部隊入営。

二月二十五日 金曜 晴・風寒し
受 吉野勇作 召集日
召集日。新藤君と学校へ行った。今日は分会員の銃剣術があった。朝から大風である。ほこりがひどい。約一時間射撃動作をした。うまくない処がる。十時少し過ぎて高一年の先生に頼まれた孟宗竹を切りに行った。
骨を折って一本切る。祖父さん河原へ
自分も午后仕事に行く。風が大風で寒い。早上がり。   以上
受信 吉野勇作
蛇篭四本

二月二十六日 土曜 晴
発 吉野勇作 孝平
月田橋の下へ蛇篭つくり。風があって寒いので葉がらのかげでした
十時過ぎ暖いのでジュバンを抜(脱)いで仕事をした
祖父さんは組手。午前中三本午后三本計六本
夕方遅く迄した
父菅谷の組合の発動機へ
又組合の貯金も   以上
蛇篭六本

二月二十七日 日曜 晴
静かな日 受 吉野勇作
今日も蛇かごつくり。静かな日だ
風よせのない所で竹を割る。
よく割れる。
午前中三本。自分も一本つくる。
うまくない所がある
午后も一本組む。少しはよくできた。今日は一日に七本組めた。
父は山仕事   以上
今日も吉野君より便りあり
蛇篭七本

二月二十八日 月曜 晴
大風あり 発 吉野勇作
昨晩は吉野君へ便りを書いた。
河原の仕事も午前中は暖い。
蛇篭組みをした。午前三本と少し午后一本と少し。計五本を自分がくんだ。
祖父さんは一本組む。午過ぎ大風があった。今年になって始めての大風なり。
夕方早じまい   以上
蛇かご六本

二月二十九日 火曜 晴
卵五〇
昨日竹を割って置いたので今日は仕事もはかどりそうだ。午前中に四本組めた。少し北風がある
一丈のかごに廻しが十七廻り位でちょうどよい。今日玉川へ運送。二台で七本づつ計十四本運ぶ。
父は山仕事なり。
今夜は家の者の夜戒(警)なり。
蛇篭九本


冨岡寅吉日記 昭和19年3月(1944) 菅谷村(嵐山町)大蔵

2009年03月30日 | 冨岡寅吉日記

三月一日 水曜 晴
静かな日
霜が降りてゐて寒い。竹割り七寸の竹を祖父さんがわる鎌形の岩沢満平さんの家のだ。とてもよい竹だ
今日も午前中四本組む。午后も四本朝から静かなよい日だ。
父は昼前松山へ行った。馬糧の配給についてなり。
明日から又学校なり
蛇かご八本

三月二日 木曜 晴・大風
召集日
召集日なり。自転車にて学校へ行く。とても大風である。十時近くなって始めた。今日は執銃である。不動の姿勢。敬礼動作で半日終る
午后河原へ行った。四本。祖父さん午前中三本。計七本できた。
河原はとても寒い   以上
蛇かご七本

三月三日 金曜 晴
静かな日 召集日 一日中
今日は弁当持参なり。五年生の銃をかりて射撃姿勢をやる。ね射ちよりひざ射ちの動作がむづかしい。
午休みに少し暇をもらって福田先生に頼まれた竹を少し手を入れた
うまくできない。
後木銃で密集教練をした。一日中静かなよい日だった   以上
蛇かご五本

三月四日 土曜 くもり・小雨
召集日
集合の際教官殿より注意あり
不動の姿勢から休めの足の出し方の悪い所。下田先生より教練開始迄の時間を無駄にするな。終り。
女子部と一しょに駆足、約七百米。今日木銃だ。でも一生けんめいにした。
所得税の話で父は国民校へ。午后河原へかご五本。菅谷で時計のバンドと眼境(鏡)をかった。計五円十銭
かご五本

三月五日 日曜 大雪
行野の道は遠けれど未だ見ぬ奥さんの金丸*
雪降りだ。今日は大部つもるだらう。
教練靴をぬった。よくぬいた。
父は俵編み。午后隣組の用で出る。雪降りは止まぬ。
今夕は三五糎位あった。
一日中雪降り天気なり   以上
*落書。談:「大江山いく野の道は遠ければまだふみもみず天の橋立」の替え歌。

三月六日 月曜 くもり・午后晴
召集日
青年団で学校まで雪掃き。とても深く積った。家へきて又学校へ向かった。
他の生徒は皆一生懸命雪はきをやってゐる。自分もやる。少し経つと全員集合し、五年生全部が内田金作指導員殿に頭を一つヾつはたかれた。爾後皆一生けんめんやったので仕事はどしどしと進む。三時半解散する。
足はびしょぬれ。

三月七日 火曜 くもり・半晴・半雨
召集日
大蔵の者と一しょに学校へ行く。
昨日雪掃きをした所はよく乾いてゐる。明日の予行。第一執銃でやる射撃姿勢、角度を深く、銃剣術の基本。午后雨降り始める。雨の中で手リュウ弾投げ。自分のは目標より左へ行き過ぎる。四時教練終る。吉野栄一君と二人で銃剣術。三人の指導員殿は見てゐた。吉野は上手だ。小使室で二人でトックリケン*。明日の準備
*談:とっくりを調子にあわせて叩いてジャンケンをする。手遊び。

三月八日 水曜 晴
五一卵 教練研究会、青木大尉殿
教練研究会。十時県より青木大尉殿来校。閲兵「よくできた」分列「これもよくできた」一年より各箇(個)教練。皆よくできる様だ。三年はヒザ射とネ射の動作。注意キョ銃の時、引鉄の第一段を圧する事。銃剣術の基本、手リュウ弾投げ。自分のはうまくない。半日で終る。松山へ行き国分写真館で手札形を六枚、四円六五銭。   以上。

三月九日 木曜 晴
卵五二 受信 吉野勇作
河原の雪もよく消えた。祖父さんと蛇かごつくり。今日は午前中五本できた。とても静かな日だ。午后は少し風が出始めた。二本計七本。十尺の口はこれで六十六本
十六尺五寸の口、今日より始めた。そして一本つくった。風も強くなりだした。
父は理昌君の千社札を中原の神主へ行って祈願してきた。
昨日は手札形六本   以上
蛇かご七本 16尺5寸 1本

三月十日 金曜 小雨
卵五三 陸軍紀念日 受信 吉野、守平
今日も雨降り天気だ。蝋燭の配給。毎戸一本。青年団の三十三社拝礼。自分の組は九名で山口方面へ行く。朝の中はとても寒い。道順は大蔵、鎌形、田黒、玉川、春日、五明、本郷、番匠二社、一ト市、竹本、須江で終る。十二時十五分。とても寒い。雨は止まむ。帰りは赤抜け通りとかを通って植木山に出た。此の通はとても悪い所がある。
しまの小(子)守り。よく泣かない。
蛇かご一本

三月十一日 土曜 くもり
昨日の天気もからりと晴れた。よい気持ちである。河原で仕事を始めると雲が出て日光をさへぎる。十六尺五寸のかご、今日午前三本、午后一本目の時、山の方へ雪が降りだした。そして仕事をしてゐても寒い。工事の人夫も寒かったらう。午后も三本、計六本。
二才より十三才まで菓子配給、一人二〇銭。馬糧として豆粕一枚金四円七〇銭。こなし賃一〇銭なり。
供出の米一斗四円八〇銭   以上
蛇かご六本

三月十二日 日曜 晴
卵五四
今朝も雲があって寒い。午前中三本できた。工事の人夫は朝から水には入った。寒いだらう。午過ぎいくらか日光が出、夕方は風があったが暖い。
父は区長さんの家へ隣組長会議で
午后も三本できた。計六本。早くできたので竹を割る。
馬糧すまの配給、遠山水車の分を家でもらう   以上
蛇かご六本

三月十三日 月曜 曇
受信 鯨井重吉
何時もより早く河原へ行く。今朝は霜でひどい。竹割り、かご組み。午前中四本目を始めた。午
午后三本、計七本。
小沢猪之助さん、三升がまには入る甘薯フカシ篭。唐子荻野、草刈りかご一つ目かい大二ツ小目かい一ツを頼まれた
今日は一日中くもってゐた。だが風がないので寒い。   以上
蛇かご七本

三月十四日 火曜 半曇
発信 鯨井重吉
本日の天気も晴朗でない。竹割り
かごを組む。今日は少し悪いかごができた
でもヒネ巾は上等である。曇ってゐるので仕事もできない。午前二本。午には魚取りの山下庫さん、秋山芳松さん*、志賀の辻沢さんと一所なり。
午后四本、計六本できた
夕方は少し日が出た
工事の人夫、二瀬へ廻る   以上
蛇かご六本
*根岸の清水屋主人。

三月十五日 水曜 晴
卵五五 卵五六 受信 吉野勇作
今日は晴天なり。霜がひどいが太陽が高くなってゐるので大した事はない
午前中三本。朝からよい日なので仕事がしよい。午后は少し南風が出たので縦ひねの振分けがよく言事を聞かない。
でも早く三本できた。今日も計六本。荷車で竹の屑を持ってくる
夕方理昌宅より栗の大木を家へ持ってくる
理昌君の千社拝礼   以上
蛇かご六本

三月十六日 木曜 晴
卵五七 受信 まきへ守平より
朝は曇ってゐてツユがひどい。
午前中三本組む。此の頃は日が暉ってきて暖いのを越して暑いと言っても過言ではない。汗がでる。
午后四本、計七本。朝より風がなくよい日であった。
昨夜吉野大尉殿に召集がきた。来る十九日十二時四十六分発。
蛇かご七本

三月十七日 金曜 晴・くもり
卵五十八 五十九 発 守平さんへまき
昨夜は山下和十郎君と遊んだ。
河原へ行く。朝もくもってゐるわい。二本組んで家へきた。祖父さんも一本
将軍沢の福島照夫(雄)君が一時四十六分発にて出発した。其の外五名。菅谷一人、千手堂一人、鎌形三人なり*。
後蛇かごつくり。午后も二本。
計五本なり
立川の連中家へ帰ってゐるなり
蛇かご五本
*将軍沢福島照雄・菅谷根岸茂十郎東部七部隊、千手堂西沢武東部一四部隊、鎌形長島喜平東部一二部隊、鎌形新井粂次東部七部隊入営。福島輝雄は一九四五(昭和二〇)年七月四日、フィリピンで戦病死。陸軍少尉。

三月十八日 土曜 雨・雪
卵六十
河原へ行ったが雨の為仕事をしないで家へきて唐子の床やへ行った。五〇銭
午前中、もろこし箒を三本つくり昼休みに五目をつくり金井君の家へ行った。
三時頃二人で学校へ行った。旧校舎の東教室に吉野君がゐた。此の時の気持ちはどちらもあっと言ふ感かな。なんとしてもうれしい。高二の教室で三人で遊んだ。旧校舎で金井君と銃剣術をした。なかなか上手だ
夕方は雪となる。暗くなって家へ帰った
根岸の娘も学校にゐた。

三月十九日 日曜 晴
卵六一
昨夜は又雪なり。そうさ先(せん)の半分位は積ったらう*。杉山の叔父さん**がきて祖父さんと二人でかごやをした。草刈りかご二つ目かい四つできた。
吉野大尉殿の出征***を送くる為学校へ行く。校庭で別れの式。教官殿の言葉は身にしみて涙をだしてしまった。午后二時向徳寺に青年団の常会あり。重大なる用件なし。隣組へ納税の切符を配る。地下足袋配給になる一足。今日より俳句和歌を一つづつ
 召れ行く兵の心や今朝の雪
*談:「そうだなあ。前降った時の半分位は積もったろう」ということ。
**筆者の祖父の弟。新井力造。
***鎌形吉野巌、国府台陸軍病院応召。

三月二十日 月曜 雨
卵六二 六三
今日も雨降り天気記である。
午前字内役員の選挙なり。父出席す。自分は菅谷へ地下足袋を取りかえに行き根岸宇平さんの家へも寄る
大小麦の加工證明をもらう。
半日過ごし昼休みに実行組合長さんの宅で配給品をもらう。自分はくじ運悪く、ハミガキ一つなり。フンドシ、サンジャクをゆづってもらう。計四円五〇銭
父は畜産組合の総会へ。   以上
電気きない

三月二一日 火曜 晴
卵六四
三日、四日雪の為仕事を休んだ
今日はよい日である。つゆがひどい
何時もと同じ様に午前三本できた。竹がしなやかでつくりよい。
午后も三本、計六本
北風がでた。夕方は寒い。
父は甘薯苗床つくり、馬小屋の肥出し
今夜も電気がきない。
   雪消えて人々急ぐ月田橋
蛇かご六本

三月二十二日 水曜 晴
卵六五
今日もとてもよい日なり
午前中三本組む。風もなくよい日だ。
午后は少し風がでたが大した事はない。四本できた。
計七本。一日よい日であった。
父は田仕事であった   以上
蛇かご七本

三月二十四(三)日 木曜 晴
召集日 受信 吉野
召集日なり。十時近くなった始めた。始めの中は木銃でした。
今日が三年生の一番最後の召集日なり。なんとなく頭がぼやっとした。でも執銃となったら緊張してきた。半日で終る。あー此れで本科三年生として教練する日は二度と来ないだらう。
午后は河原へ行く。蛇かご午前一本祖父さん。午后三本計四本。
父は菅谷へ、母は田仕事なり
蛇かご四本

三月二十四日 金曜 晴・大風
卵六六
昨夜は大霜なり。午前中二本
午前中はとてもよい日なり
午后大風出たり。
四本、計六本
後四本なり
青年学校の縄代きた   計一一円四四銭 大蔵
蛇かご六本

三月二十五日 土曜 晴・大風
蛇かご作くりも今日で終る予定なり。午前に三本つくり上げた。とても組みよい。明日の卒業式の事を思ひつヽ。又午后の総会は如何となるだらう。自分の剣舞はうまく行くかなと。
午后一本、計四本。総計七二本。午后三時半頃終った。
南小室氏宅よりナキリミ残金二十七円五〇銭もらう   以上
蛇かご四本 終

三月二十六日 日曜 晴
卵六七 六八
青年学校の卒業及ビ修了式なり。
十時会(開)始。本三優等生寅吉以下四名なり。他の学年は三名だが三年生は五名なり。小沢君と自分は精勤一等なり。吉野栄一君は二等なり。吉野勇作君と昼食をした。午后青年団本団の総会。五分団代表として分団長吟ず。自分は剣舞をする。我ながらよく出来た。コラーいら、うぬぼれるな。竹本屋で大根将支部長、自分と一パイ飲ム
甘薯苗をふせる

三月二十七日 月曜 晴
卵六九 七〇
根岸の家へハカマをなしに行った。
祖父さん、父と三人で苗代田を馬耕す。馬が一生懸命やり上手であるから早く終った。午前中将軍沢の山へタルキ棒を持ちに行く。とても悪い木だ。でも一本十八銭。太い方は五〇銭。此も悪い。午后一車で。祖母、父田へ
我はかごやなり。ナキリミの悪戸がうまく行かぬかった   以上

三月二十八日 火曜 雨
雨降り
午前ナキリミ作くり
午后食用油の配給、六合。一円〇二銭
ナキリミつくり
一日中雨降り天気なり   以上

三月二九日 水曜 晴
卵七一 卒業式
国民学校の卒業式なり。まきは風気の為自転車で送って行く。河原は寒い。ナキリミ作くり
作くりづらいのもある
午前家の中、午后外へでる。
風が強い。日はよくあたる。
昨日から今日で十一枚
明日は馬の金抜き   以上

三月三〇日 木曜 曇天・寒い
本日は馬の去勢なり。父さんと祖父さんは小川町大塚八幡様へ行く。
自分はナキリミつくり。櫻皮をサス。十一枚。
午后針金でしばる。吉田の箒やが柄竹を持ちに来た。六百五〇本、三十二円五〇銭。俺に十円呉れた。夕方、朝今(今朝)は寒い。
ナキリミ祖父さんと二人でしばる。   以上
馬の去勢

三月三一日 金曜 晴
卵七二 七三
ナキリミをこする。
又ナキリミを始めた。今日の悪戸はうまく行く。
全部で四枚仕上がる
吉野勇作、金井春二君より便りあり。
祖父さんは半ザルをつくる
父馬の運動   以上


冨岡寅吉日記 昭和19年4月(1944) 菅谷村(嵐山町)大蔵

2009年03月29日 | 冨岡寅吉日記
四月一日 土曜 晴・静かな日
発信 吉野 金井 富岡
月ノ輪の小引きさんがきて呉れた。親子で。自分は菅谷へ米の配給。二七瓩一六〇、代九円三八銭也。
父は馬を見せに菅谷役場の方へ行く。ナキリミ午前中に二枚。午后つくり上げる。祖父さんは目かいのたてを割る。夕方底を組む。七つ分できた
蛇かごの代をもらう   以上
手間百十八円八〇銭 其の他五円二〇銭   計一二四円

四月二日 日曜 雨
卵七四 七五
小引きさん二人できてくれた。
朝から雨降り模様なり
小引きさん物置へは入る
自分と祖父さんは目かいつくり
七つつくる
祖父さんは午后玉川一ト市歯科ゐへ行く。
目かいのふちまき七つ
ナキリミ五枚出る
目かい四つでる

四月三日 月曜 晴
卵七六 発信 守平
昨夜は守平、お客に来ると言ふので嵐山駅迄迎えに行き終レイ迄待ったがこない。雨はよく降ってゐた。一人で菅谷から帰ってくるのはなんとなく淋しい。
今日は友達が大変ゐてよく面白く遊んだ。菅谷へも使に行く。祖父さんかごやの寄合へ。今日より役員なり。
小びきさん、一人できた

四月四日 火曜 晴
鎌形の小林大工の家へ竹を持ちに祖父さんと二人で行く。十時頃家へ帰ってきた。全部で八円五〇銭の所、草刈りかご一つやるので五円やる。
草刈りかごの縦を割る
午后三時二十八分で野口宗平君帰還した。嵐山駅迄迎う。
将軍沢へナキリミ一枚持って行く。
岡野先生教へ子の家を訪問   以上

四月五日 水曜 晴
卵七七 七八 守平へ小荷物
昨日荷作くりした小荷物を丸通へ頼みに行った 一円
草刈りかごを組む。九つ。廻しを入れる。蛇かごより骨が折れる
一日中。全部廻しがは入って淵を折る。少し南風があって寒い。
草刈りかごの縦七尺五寸ヒネ幅約五分。底のサシ渡し尺五寸。下廻しの直径一尺七寸五分。高さ二尺   以上

四月六日 木曜 晴
卵七九 八〇 吉野より
草刈りかごの淵巻き。九つ出来上がり。将軍沢の鯨井鉄さんへ六つ。
同じく忍田寛治宅へ三つやる
鯨井軍次宅へ目かい二つ。神戸和三さんへナキリミ一枚
午休みに遠山水車へ使に行く。
メンを十本持ってきた
小びきさんも今日で終った。手間代は一人五円、計十一人の所、五十五円より米代十円引く。計四十五円拂う。

四月七日 金曜 くもり後晴
青年学校の勤労奉仕。国民校に集合したが集りが悪い。吉野栄一君と自転車で志賀へ向ふ。国民校生徒も六年以上参賀((加))。仕事の能率は上がった。午后は吉野君と尺を分けるので昼休みに一腹(服)やって始めた。
三時頃も沢渡と三人で一腹してゐたら、他の生徒は皆終って集合してゐた。赤面の到り   以上

四月八日 土曜 雨
卵八一 八二
雨降り天気なり。
草刈りかごのふちを巻いた。一つ
ナキリミ作くりなり。二つ。午前中に編み、午后フチをつけた
茶碗かご二つでき上がり。一つ竹本や。ナキリミ二枚、金井勝五郎宅へ。
一日中雨が降ってゐた
金井示夫方(実行組合長)へ、こもを持って行く。山下庫次郎方より二枚借りた   以上

四月九日 日曜 雨
卵八三 八四
今日も雨降り天気なり。物置きで目かいつくり。大きい奴を四つつくる。
午后ふちまき
吉野君の父君、家へ少しの用があってきた。隆次へ五〇銭呉れた。
草刈りかごをつくる。四つ組んだが一つは形におく
三つ廻しを入れた。
根岸藤五郎宅へ茶ワンかご一つくれた。雨も止んだが寒い。

四月十日 月曜 晴
卵八五 青校入学式
青年学校入学式である。早く支度をして床屋へ寄って行く。五〇銭。菅谷の中で一時間ばかりあたってゐた。入学式をする前に新しい指導員殿が紹介された。志賀の根岸晧兵長、将軍沢の金子幾太郎伍長殿。担任先生下田先生、担任指導員は誰だか未だ言はぬ。少し休憩してからきめた。本四は長島軍曹殿である。自分はうれしくてならぬ。指導員殿の話。大いに張切ること。自分も今年度も級長命ぜらる。
糸配給

四月十一日 火曜 半晴・寒い
卵八六 八七
今日も曇ってゐる。味噌こしつくり。
蛇かごつくりをした。上がりには手にくっついてしまふ。今日も寒い。
六つできあがり、あと目かい一つ、草刈りかごのふちまき二つ
味噌こしのあじろは六手。青皮八本を中央に井にゐれる   以上

四月十二日 水曜 晴
卵八八 八九
菅谷富沢屋根やへ草刈りかご、目かい、みそこし。他の家へもやる。菅谷の家へミソコシを呉れて煙草二箱もらった。米の配給三割減。背負いかごつくり。
午后忠魂祠の前にて合祠(祀)祭並に慰霊祭*あり。此れに参加。出席はよくない
一時始めが二時始めなので吉野君と一服してゐた。
木闇さんへズボンを頼んだ
*菅谷村忠魂祠合祀慰霊祭執行。神官・僧侶十人列席。

四月十三日 木曜 くもり
卵九〇
朝作くりに将軍沢へ買ったまき(薪)を持ちに父と二人で行く
朝食後も運び全部で三車運般(搬)計七〇パ。父は役場へ使に行く。自分と祖父さんで前の大麦畠の作切り。祖父さんは背負かご。午后大田のつぶて打ち。とてもよくこわれる。終りて大麦の作切り。父と祖母と三人でする。夕方雨模様だが大した事もなさそうだ。
青年団で郷土勇士へ慰問文を

四月十四日 水(金)曜 晴
卵九一 受信 富岡守平
大蔵青年団の入団式兼常会あり。十時近くなって始めた。入団者男三名女一名なり。皆山下の姓も粋(イキ)である*。正午近くなって終る。団員皆郷土勇士へ慰問文を。自分は野口忠太郎さんへ。午后は新藤君、山下君と大蔵河原へ遊びに行き、甘藷を御馳歩になった。根岸もとさん**の家の人なり。もとちゃんははづかしげであった。夕方迄よく遊べた
金井廣吉さんの祖母へ、二〇円   以上
*山下義明、山下暉夫、山下福三、山下マサ子。
**談:根岸茂夫さんの妹。筆者の一級下。

四月十五日 土曜 晴
卵九二 九三
教練召集。木銃の動作をする、少し。
其の前敬の動作をうんとした
半日
午后父はマッチ、石ケンの配給受けた
田の小麦の作く切り
日没と同じごろ全部切り終る   以上

四月十六日 日曜 晴・風
卵九四 九五
背負ひかごのふちまき、祖父さん
自分は草刈りかごを三つ組む
ふちまき 祖母さん、菅谷へ
小さい草刈りかご一つつくる
将軍沢岡本君の家へ草刈りかご三つ、大目かい二つ、小一つやり十四円二十三銭 十五円の所一ぱいこ
岡本正三氏宅へ背負いかご
スボンができてきた。とてもよい

四月十七日 月曜 晴
卵九六
今日は蚕かごつくりである。横を割る幅は約三分を基準とする。だいたいのはよく割れる。午后祖父さんは一ト市の歯ゐ者へ。
縦を割りかごを一枚組んでみた。よろし
祖母、父はいも植え、肥引き
南風が寒いので早くしまう。
山下與吉さんへ草刈りかご小一つ
木闇さんへ背負いかご一つ
ズボンをぬってきて呉れた。   以上

四月十八日 火曜 晴
発信 守平 卵九七
朝作くりにまき割り。十束割る
蚕かごつくり四枚組み。十時半頃昼を喰って車を引いて学校に向ふ。唐子の熊治宅へ背負ひかごをなをして二つ持って行った。畠山の博労さん一寸とよる。
午后、勤労奉仕は瓦運搬。車でない者は
朝から午后も大仕事ができて校長先生以下諸先生は喜こんでゐる様だ。あすの分まで働いたので明日は休みなり

四月十九日 水曜 雨
卵九八
今朝方より雨降りの天気なり。
蚕かごつくり、午前中六枚組む。
昼休みに養蚕組合より桑原豆が反当り二升三合配給になり、田豆反当り二合きた。計一斗なり。
一日中雨降りなり。かご十七枚組めた。
受信富岡理昌
 中支派遣第一四四野戦郵便局気付呂三八八七部隊
   以上

四月二十日 木曜 晴
卵九九
昨日の雨もからりと晴れて今朝の気持はとてもよい。蚕かご組み。今日九枚できる。昼休みに納税切符を配る。
父は山仕事、祖母は富岡もとさんへ餞別に行く。
かごのふち巻き。二人で十七枚巻けた。夕方とてもぬくとい 以上
発信 鯨井重吉 富岡理昌

四月二十一日 金曜 くもり・夕立・大粒の雨
富岡もとさん満州へ行くので父嵐山駅迄送くる。女子青年団員も。男子は送らない。蚕かごの淵巻き。休み迄に全部巻き終る。計二十六枚
草刈りかごのたてを割る。細い竹なので皆三本たて大へん割れた。父は山仕事。三時休み頃遠山水車へメン持ちに行き小麦を約二斗持って行く。
夜夕立が鳴る。大粒の雨がすごい音をたててまばらに降る 以上

四月二十二日 土曜 半晴
卵 卵一〇〇
雨も止む。まき割り
朝食後米の配給何時も通り二七K一六〇、九円三十七銭なり
金井栄一さん蚕かごを持ちにきた。代、草刈りかご一つ、蚕かご二六枚、三十六円五十七銭。
草刈りかごつくり。午前中に組み上げる。八つ。根岸の小沢銀造さんへ三つやる
今日も雨ぽい天気である
祖父さん午后一ト市歯科ゐへ
父山仕事   以上

四月二十三日 日曜 曇天・雨
卵百一
父朝つくりに役場へ使に行く。
大蔵の衛生は二十七日だそうで今日はすヽ掃きをする
朝の中はとてもよい日だったが十時頃より空悪く雨も降ってきてしまった。でも午前中終った。きれいになった。午后草刈りかごのふちまき。三つ
草刈りかごのたてを割る   以上
受信 吉野 野口

四月二十四日 月曜 晴
召集日 卵一〇二
召集日なり。学科。校長先生、修公。二時下田先生、ローマ字を少し教はる
三時木村先生、職業科馬鈴薯。
午后 昼休みに役場へ使に行く。
教練、執銃にして不動の姿勢。
擔へ銃、行進間の諸動作
終りに吉野、中島君と銃剣術をやった。皆うまい。
祖父さん、菅谷へ使に行く。貯金六〇円
成沢力造さんへ麦わら五〇パかえす

四月二十五日 火曜 雨
卵一〇三 一〇四 受信 守平
今日は将軍沢の向ふ山より根刈り運び。一八〇束を父、小生、まきと三人で背負ひ出し一回に五束乃至六束なり。終り切らぬ中に雨が降ってきてしまった。でも全部運びきる。車で家へ持って来る。
雨も小止となるが、午后二車目に降り出し夕方迄止まぬ
成沢力造方へ昨日五〇束、今日二〇束、麦からをなす。
背負ひかごつくり。   以上

四月二十六日 水曜 晴
卵一〇五 一〇六
背負ひ篭作くり。先に作くったのは細いやつ。丈一尺八寸五分、割合によくできた。次のは幅の広いやつ。口の下が少しふくらんだ半ザルをつくる。五斗入ザマの廻りを入れる。だいたいよろし。二つ組み上げる。今日も大風があり雨模様だったが夕方はよく晴れて風がある。父はまき割り。今夜は野口臣吉宅の御祝儀なり   以上

四月二十七日 木曜 晴
召集日
青年学校勤労奉仕なり。背負ひはしごと叺を持って行く。八時開始が九時過ぎて始まる。砂利運搬。少しよう気を喰った。
午后 新教官小林少尉殿*の紹介式あり。訓練。第一軍人勅諭の奉唱。第二教練は戦闘を基準とする。以上二つなり。それより国民学校々庭にて教練をする。銃で射撃姿勢。終りて長島、久留田、松本、三指導員殿と某、吉野、沢渡、中島君と銃剣術をする。
中中面白いわい
*鎌形の小林才治少尉。

四月二十八日 金曜 雨
卵一〇七
朝の中より雨降りだ。篭箕のふちをつける二つ。くまでなをし。一本なをし。祖父さんは新らしいのを二本。なをし一本つくる
昼休みに菅谷信用組合へ隣組の貯金を頼みに行く。途中彼女と合ふ。それから家へきて針金の網をほどす。中々手間取れる。
一日中雨降りだった。鈴木さんへ背負ひかご一つ   以上

四月二十九日 土曜 晴
卵一〇七 一〇八 召集日 天長節
昨日の雨も今朝はからりと晴れてよき日なり。学校にて天長節の式をした。八時開始終りて青校内務規定を教はる。教練を少し。本四は勅諭の奉読をした
其の前、野本へ特別訓練に行くものをきめた。権田さん、加藤さん、高崎さんと自分の四名が選ばれた。家へ帰りに銃剣背嚢を借りてきた。村葬の花かごをつくった 三組
唐子の鍛冶清さんへくまで二本、かごみ二つ、半ざる一つ。十円十五銭だった   以上

四月三十日 日曜 晴・夕立雨
草刈りかごの腰たて廻しを入れた。
六つできた。父は肥料配給なので実行組合長宅へ
午后夕立、雨大風あり。かごのふちまき六つ。
ナキリミを始めた。二つつくる。
野村宅へ草刈りかご二つ七円十四銭。いっちゃんに便せんを数十枚もらう   以上

冨岡寅吉日記 昭和19年5月(1944) 菅谷村(嵐山町)大蔵

2009年03月29日 | 冨岡寅吉日記

五月一日 月曜 晴
卵一〇九 一一〇
仕事が忙しいので補充兵出席届を出す。帰りに理髪をしてきた。五〇銭。
ナキリミ作くり。計六枚。祖母、父は山仕事なり。国民校生徒の遠足
吉野勇作君お客にきたそうだが今朝一足違ひで相(逢)へなかった。
ナキリミ四枚でる。新藤嘉助さん二枚、野口安五郎さんへ一枚、柴田宅一
昼休みに松山へ使に行き十二円ばかり使ふ
金井やへ草刈りかご二つ

四(五)月二日 火曜 晴
卵百十壹
青校へ行く。朝礼をして米の配給を受け国民校旧校舎で内田指導員*殿にマントを背のうに巻いてもらった
家へきて植木山へ使に行く。昼食後、明日の支度の為又学校へ行く。加藤さん**大部遅刻した。突然吉野勇作君きた。此の時の喜び、何如ばかり。吉野も行く事になった。吉野の家へ支度しに行き帰りに唐子の床やへ吉野とよる。長島指導員殿より色々の本を借りた。
*志賀の内田金作指導員。
**加藤喜一郎。

五月三日 水曜 晴・曇
卵百十二 村ソウ*
今朝は早起きをした。今日より一週間野本の道場**へ優良生徒特別訓練に行くのである
自転車でリヤカーを引張って行く。松山迄随分のした
九時入所式。比企東部青校四十五名集った***。皆まだなれない。此の日午前学科
午后教練 不動の姿勢 其の他
*故海軍一等機関兵曹欠川波治、海軍二等機関兵曹金井福二、海軍一等水兵内田唯助合同菅谷村葬執行。
**談:野本村柏崎にあった。
***談:菅谷村から参加した生徒は、加藤喜一郎、吉野勇作、権田本之、筆者の四人。。

五月四日 木曜 曇
卵百十三
カシノキカゴミ十枚

五月五日 金曜 雨後曇
端午節句

五月六日 土曜 晴
卵百十四

五月七日 日曜 晴
卵百十五

五月八日 月曜 晴
大詔奉戴日 おしゃかさま
何時もと同じ五時起床。裸になって駆歩、約一里。野本耕地の真中、東上線沿線にて号令調制。
もうのどがいたい。
午前新校庭での教練。
午后松山箭弓グランどで各箇戦闘 うまくできぬ
手旗信号を練習す。今日イロハ四十八文字書ける様になった
菅谷青校の行軍なり。男女とも坂戸なり   以上

五月九日 火曜 晴
今年度のホウサウ植え
五時起床。今朝は基本体操だけして後は家へ帰る支度をした。それから執銃で銃剣術の防具を持って新校庭に向ふ
今日迄六日間訓練した査閲である。不動の姿勢より順にした。午后は午前の続きである。各学校の校長先生も来校あらせられる。そして閉会式を挙行。修了證を授与せらる。二時頃野本を出発、菅谷の学校へと一路向かった。青年校先生各指導員殿皆お喜びしてゐた。長島指導員殿の家へも行った   以上

五月十日 水曜 曇り
卵百十六
一週間のつかれがでてしまって今朝はかったるい。かごや。父が苗代へ堆肥を馬で運搬したので一駄。その後を行き手伝ひをした。ビク、一斗ザルは少し大きいのを作くり大沢伊三郎宅へやる。二円七〇銭の所十円あづかってきた。川島淀吉宅へ小さい方一つ。未だ銭はもらわない。午后吉野君と学校へ遊びに行った。半日よくあそんだ。守平より写真をもらう
蚕発生した

五月十二(一)日 木曜 晴
卵百十六 百十七 百十八
今日は朝から一日寝こんでしまった。
川島淀さんより二円五〇銭もらう。

五月十二日 金曜 曇
卵百十九
本日の気分は良好なり。でもぶらぶらしてゐた。祖父さんはかごや。父米の配給に行く。十日分六円八〇銭
今日は曇天である。明日は教練召集日。将軍沢の義重さん、草刈りかごの代十円五一銭
野村阿喜良宅より草刈りかご背負篭代九円六十五銭の所、八五銭の駄ちん
一日ぶらぶらしてゐた。   以上

五月十三日 土曜 晴
召集日 午前教(教練) 午后学科
もう気分は全快した。今日は大元気で学校へ向かふ。途中何も変り事はない。銃を持ち青校へ行く。朝礼を終して教練。本科二年の助手。執銃で色々の動作をした。二年生の動作はなってゐない
半日昼食を持って行かないので菅谷の家で米を借りて吉野栄一君とハンゴウ炊いた。午后身体検査。身長一、五九 五尺二・五 体重五二Kg 胸八〇・〇三   以上
家へきて草刈りかごのそこくみ

五月十四日 日曜 晴
卵百二〇
草刈りかごつくり。九つできたが一つのこしておいて八つをつくる
今日のはとてもよいかごだ。マッチ、砂糖の配給があった
草刈りかご。鎌形大工さん一つ、村田礼助宅へと金井精一郎宅へ二つ、将軍沢鯨井義重さんへ三つ
家の苗代つくり。種も播く。   以上
マッチの配給

五月十五日 月曜 晴
勤労奉仕 じいさん ハマ 本科四年
今朝マッチの配給を配ばる。本四の召集日。自転車で行く。今日は市ノ川の工事へ。勤労奉仕である。本四十五名で行く。杉山の娘が四人出てゐた。一番大いのが二十一、次の三人は十八であった。吉野君と初のトロへ着いた。それで二十一のしいちゃんと言ふ元気の良いのと一しょだ。一日の日が永い。でも皆一生懸命やって呉れた。仕事もはかどった。箒の柄を持ちにきた   以上

五月十六日 火曜 晴
卵百二十一 百二二
父とまきは草刈りに行った。まだ草もない様だ。一ト市へ使に行き染粉を
今日は目かいつくり。祖父さんが割るそばから組む。少しひねが厚い。
方々の人が草刈りかご持ちにきたが一つもできてゐない。神戸の人へ半ザル二つやる五円。目かい十三組み上げた。   以上

五月十七日 水曜 小雨
卵百二三 百二四
目かい作くり。十六できた。その中大きいのを一つつくる
そいつのふちまき。此の頃より雨が降りだした。霧である。力を入れたのを五つばかりつくった。山下彌一、村田嘉平、山下歌吉、大沢伊三郎へ二つヾつ。理昌宅と金井治平、新藤嘉助、金井菊治、各一つづつ。山下平二さんへも一つ。計十一円七〇銭。草刈りかごの立を割り始めた。
金井孝作さんへ二つ。   以上
大沢伊三郎宅二円七〇銭、二円二〇銭

五月十八日 木曜 小雨
卵百二五 百二六
雨降りなり。でも朝の中は降っていない
今朝は草刈りにいった。もう大勢出てゐる。根岸の小沢銀造宅の蚕かごのふち巻き。祖父さんと二人でまく
午后 祖父さん菅谷へ使に行き生石灰を買ふ。貯金を八拾円積む
三時半、自分小川町へ使に行ったが求める品は全然ない。下神戸の人草刈りかご代二つ分おいて行く。
一日中きり雨が降ってゐた   以上

五月十九日 金曜 小雨
卵百二七
時雨と言った様な天気である。父と月田橋の下の土手で草を刈る。昨日の朝より大へん多くあった。
草刈りかごをつくる。全部で十三底を組んだ。昼休みに父は社務所へセキ代の割当なり。
草刈りかごの腰を起こす。根岸銀造沢より四円。金井示夫宅より修繕一円
山下彌一さんより修繕五〇銭   以上

五月二〇日 土曜 雨
卵ナシ 召集日
教練召集日なり。八時過ぎて始めた
朝礼後、勤労作業隊ヘン成をした。自分は第一班である。吉野栄一、中島運竝君である。それから教練を実施した。
執銃各箇教練射撃姿勢をした
基本体操。自分が号令掛けをした。まだうまくない所がある。早昼にあがり、午后本科四年の勤労奉仕。運搬である。雨も此の作業中は止んでゐた。皆一生懸命した。去る十五日の勤労作業は良好と今朝ほめられた
   以上

五月二十一日 日曜 雨・夕方晴
卵百二八
月田橋の此方で草を刈っていると大沢くんがきた唐子の耕地へ行ってよい草を刈った。
草刈りかごのふちまき。祖父さんと二人でふちを折って自分が全部まいた。十三でき上がり長沢與之さんへ二つ、富岡周次郎さんへ二つ、金井猶次郎さんへも二つ、神戸の松田光朝さんへ二つ売る。目かい二つ作くり、新屋へ二つ。
富岡周次郎さんより七円十四銭の所拾円あづかってきた   以上

五月二十二日 月曜 晴
卵百二九 百三〇 召集日
召集日なり。始まる前に松山町へ使に行った。下田先生に相(会)った。
米の配給
八時過ぎに始めた。自分と吉野、中島は使歩るきをした。帰ってきて石運び。三人でした。
午后は縄ないをした。うまく行かぬわい。タコの綱引き。よい日であった。皆一生懸命にやった。一昨日より早く終りとした。   以上

五月二十三日 火曜 晴
根岸耕地で草刈りをした。あまりない。米ザルのふちまきと肥引きざるの外を組んだ。二つ。それのふちまき。
小さいかごを始めた。縦を割った。
五つできた。
五つ作くり上げた。金井孝作さんへ二つ、山下歌吉さんへ一つ、新藤嘉助、金井示夫さんへ一つヾつ
根岸藤五郎さんへ肥引きざる二つ   以上

五月二十四日 水曜 晴
平沢の家へ祖父さんと二人で篭屋に行った。自分は先づ蚕かごのふちまきをした
午前中とても良い日だった。午后も同じくよい日であった。
祖父さんは鶏篭を始めた
蚕かご二十枚ばかり巻いた。其の他草刈りかご等数箇まいた。
一日で終り。今迄の借金はこれで取消しとなる。   以上
隣組常会を開く

五月二十五日 木曜 晴
大沢八三郎宅へ二人で行く
昨夜は隣組常会を開く。国債の割当をした。自分齋藤君の家へ行く。
今日は大沢八三郎宅へ祖父さんと二人でかごやに行った。草刈りかご作くりである。四つつくる。とてもしっかりしたかごができた。午后四時頃終った
家へ来て物置き片付けの手伝ひをした。子守りをしながら川へ遊びに行って魚を二くしつってきた   以上

五月二十六日 金曜 半晴・曇
まきと二人で耕地へ草刈りに行った。草の無い事おびたヾしい
草刈りかごつくり
七つ組み五つ出来上がり、将軍沢福島金造宅へ二つ
根岸の小沢與四郎さんへ三つ。計五つできた。父は指導員研究会で野本村へ   以上

五月二十七日 土曜 雨
卵百三一 百三二 召集日
召集日なり。本日は雨降りだ。七時半始めが八時過ぎて始めた。作業班ニ着いての事、又手旗信号の図解を買ふ。十銭。十時頃終った
信用組合へ隣組の貯金をつむだ。
午后かごやの手伝ひ
草刈りかごつくり。七つ腰をおこした
三つ廻しを入れた。唐子へ草刈りかご二つ   以上

五月二十八日 日曜 晴
卵百三三 一三四
月田橋の向ふ河原で草刈りをした
とてもほきてゐた。早く刈れた
草刈りかごの廻しを入れる。今日も七つでき上がる
又草刈りかごを始めた。三つ組んで将軍沢の忍田忠次郎さんへ四つ 十四円二十八銭
富岡茂八宅へ三つ、メカイ一つ、計八円十銭
今日は朝からとてもよい天気であった   以上
明日は午后学校。

五月二十九日 月曜 晴
召集日
今朝はとても草があったので早く刈れた。草刈りかごつくり。
今日は六つできた。午前中で自分は午后召集日なので自転車で行く。隣組へ日本婦人の雑誌を廻したりしてゐたので学校の集合時間より三〇分遅れたので他生徒は一人もゐなかった。
でも松山へ行って一しょになった。一人前四枚づつ布団を運ぶ。一回で終る。
草刈りかご根岸福島良作さんへ三つ、金井好吉さんへ二つ。野口臣吉さんへ一つ

五月三十日 火曜 曇
卵一三五 一三六
坊の上で草刈り。
草刈りかごつくり今日は四つ。
将軍沢前山へ二つ
父は肥出し
少し小さいかごを始て五つ下を組む。
今夜手旗の練習をする
一日中曇ってもゐなかったが寒い。   以上

五月三十一日 水曜 晴
卵一三七 一三八
耕地で草刈り。少しはあった
草刈りかごの小さい奴をつくる
三つ普通の奴二つ
金井勇次郎さんへ小さいの一つ
富岡周次郎さんへ一つ。齋藤とらさんにも一つ   以上
力造さんへ草刈りかご二つ、目かご一つ


冨岡寅吉日記 昭和19年6月(1944) 菅谷村(嵐山町)大蔵

2009年03月28日 | 冨岡寅吉日記

六月一日 木曜 晴・夕立雨
卵一三九
山王前畠のへりで草を刈る。
少ししか刈らない。
草刈りかご作くり。腰を起して廻しを入れる。今日も七つ出来た。小ぶりな奴を一つ。三時休み。
夕方になって夕立がでた。大雨もありすぐ止んだ。夜になってから夕立雨。すぐ止まなかった   以上

六月二日 金曜 晴
卵一四〇 受信 金井春二 守平
昨日の続きで草刈りをした。今朝は大変刈れた。
父は米の配給を受けに。五日分四円六八銭。目ぐすり二〇銭 印篭つくり
三つ出来上がる
父山仕事。松まきを刈ったので其れを持ちに行く。四十七本持ってきた。草刈りかご野口由次郎一つ。村田嘉平二つ。福島定吉印篭一つ。小沢猪之助二つ   以上

六月三日 土曜 晴
卵一四一 発 金井 守平へ
昨日の続きで草を刈る
今日は栗原先生に頼まれた天体をつくる。なかなかうまく出来た。
向徳寺で使ふマーリを投げこむ篭を二つ。青校のチリ紙入れ二つ
かごのふちまき三つ
夕方より支度して清水竹治君と川へ夜釣りに行きナマズの子一匹釣った。蛍も取った

六月四日 日曜 小雨
卵一四二
自分の腹はしぼり腹なり。でも草刈りに行った。彼方此方廻り歩いた
苗取りの腰掛けつくり。竹割り。組む
くむのは簡単なものだ。
そのふちまき全部で四つつくる
今日の午后はとても眠ったい。居ねむりばかりしてゐたが肥箕を始めてからすっかりさめてよいかごができた。三つあむ。麦俵の検査 以上

六月五日 月曜 晴
卵一四三 一四四
月田橋の下の土手で草刈り。とてもほきてゐた
砂利箕作くり五つ。作くりあげた
昼休みに学校へかごを持って行く。村田嘉平さんへかごみ二つ。同じく大沢伊三郎さんへ一つ。富岡富七、腰掛。金井柳作さんへ四つ
小供のかご二つつくり上げる   以上

六月六日 火曜 晴・夕立雨
卵一四五
昨日の朝の向ふで草刈りをした。帰りにタバコ 115。1013。81*。を買ってきた。草刈りかごつくり六つ。底を組み形増七つ。腰を起こす。昼休みに根岸へ行く。小沢武夫君の家へ昨夜も二人で手旗を習った。67。25。72。84。51。もきた。十二時終
夕立がでた。雨も降った。富岡理昌さんよりお便りがあった。場所中支派遣第一四四野戦郵便局気付呂三八八七部隊
*手旗信号。

六月七日 水曜 晴
受信 金井仲次郎
昨日の続きで草を刈る。帰りに小沢武夫君より魚をもらう。
草刈りかごのふちまき。途中より米の配給を受けに行く。五日分四円六十八銭
午后目かいつくり。
昼休みにかご配達。富岡富七さんへ大小草刈りかご一つ。野村豊吉さんへ大一つ
遠山水車へ使に行く。メン三〇本持ってきた

六月八日 木曜 晴
共同作業吉野栄一君宅へ 卵一四六
今朝も昨夜の続きで草刈りをした。とても大く刈れた。そして早い。自転車がパンクなので竹本屋でハってもらった。根岸せき先生に共同作業計画書を頼む。
今日は吉野栄一君の家へ共同作業に行き蚕かごのふちまきを始める。日陰廻りをした。仕事もしよかった。一日に二十三枚まいた。よくまけた。自信がある。将軍沢へ草刈りかご。小久保恭之助一つ。岡本徳さんへ一つ

六月九日 金曜 晴・夕立雨
家でかごや
今朝も昨日の続きで草刈りをした。今日も早く出来た
目かごのふちまき全部で九つまひた。背負かごのふちを折る。昼休みに目かい運般((搬))をした。金井勇次郎さんへ一つ。成沢力造一つ。大沢八三郎一つ。根岸喜平二つ売った。計五円五〇銭収入
背負ひかごのふちまき。子供のかご、小さいのを一つ作くった   以上

六月十日 土曜 晴
今朝も昨日の続きで草刈りをした。草刈りかごつくり。小さいのを一つつくり上げた
午休みに目かい運搬をした
計三円六〇銭 野村豊吉
 六円五〇銭 富岡元治
蚕の上蔟始まる   以上

六月十一日 日曜 晴
卵一四七 一四八
草刈り中止。蚕の桑呉れの手伝ひ。座敷の蚕がとてもよくひきった。柴田藤五郎方よりまんさんととくさんが助にきて呉れた。
自分はしまだつくり。とてもよい虫である
午前中に座敷中が全部終った。午后も同じ人員でやり物置の大きなやつを二台上げた。
終ってから蚕砂だし。桑手骨*を運搬す。   以上
*談:残った桑の枝。

六月十二日 月曜 晴
卵一四九
根岸の耕地で草を刈った。割合に早くできた
米の配給に行く。二七瓩百六〇で九円三十七銭、糯米もまぢってゐる。蚕の上蔟。中口が四縁台あがった。まぶしつくりなり
午后も同じ。終りて蚕砂運び、桑切りなどした
此處幾日かかごやはやらない

六月十三日 火曜 晴
卵一五一 一五二
まき、隆次を連れて根岸の下河原で草を刈った。たてはとても良くできた
草刈りかごのふちまき。自分は三つ。計六つでき上がり又草刈りかごを始めた
午前中四つ廻しを入れる。午后祖父さんが作くり上げた。唐子の床屋へ寄る
自転車のパンクはりは駄目だ
将軍沢沢渡へ草かご三つ、福島和一さんへ一つ、大沢伊三郎さんへ二つ
   以上

六月十四日 水曜 雨
新藤武治君出征*
今朝も昨日の向ふで草を刈る。いらない。
朝食頃より雨が降り出した。父は神戸の小林長吉さんの御出征を送りに行った。将軍沢へかごを持って行く。秋山十郎さん福島楽さんへ一つヾつ。新藤武治さんの御出征を送くる。十一時四十七分にて菅谷村より二十二名同時で出征**した。西孝三君も入団出発した***。午后ブッタイを編んだ。縦の長さ二尺、幅二尺七寸なり。一日中雨が降ってゐた 以上
*大蔵新藤武治、東部七部隊応召。
**根岸根岸泰一・千手堂内田喜重東部六部隊、志賀高橋寿三郎東部七五部隊、志賀高橋英勇・千手堂関根福次・大蔵富岡高一・鎌形関根福一・遠山野原理助・志賀吉野久五郎・志賀山川秀雄・平沢内田竹春・平沢小林孝次郎・鎌形小峯彌市・千手堂瀬山正男・川島島崎丑太郎・菅谷松田勝造東部七部隊、菅谷山岸寶作東部八二部隊、川島権田文司・鎌形杉田保次東部八三部隊、志賀栗原芳治東部一二部隊、遠山山下重平東部四一部隊応召。急行列車は廃止されており、池袋までの所要時間は約二時間。
***平沢西孝三、横須賀海兵団入営。

六月十五日 木曜 晴
卵一五三 一五四
昨日雨が降ったので川の水が増水したと思って耕地の方へ行く。とてもほきてゐた。
早く一かごできた
父と馬小屋の肥だしを始めたら柴田方で迎へにきて田の二ボウ*耕ひをした。馬が一生懸命にやった。肥出し。山王前畠の大麦刈り。西原の畠の作入れ。もろこし、玉蜀黍、大豆等を播いた。山王前の桑の中へ玉蜀黍、サヽゲを蒔いた
前の大麦刈り
警戒警報発令さる
*談:二回目。

六月十六日 金曜 曇・晴
出征兵士 藤縄正二* 野村阿喜良**
昨夜警戒警報があったので今日は七時より十九時迄伝令として植木山の警報部所へ詰めた。小沢武夫君と交替なり
電話係根岸喜平さん、伝令は自分、福島和一君で一日中面白い事ばかりであった。福島稔君と交替す(十九時)。
木闇さんへ守平の服を頼む。齋藤君の家へ寄り靴のクリームをもらってヅックに着けた   以上
肥料配給
*大蔵藤縄正二、東部一〇部隊応召。
**大蔵野村阿喜良、東部一七部隊応召。

六月十七日 土曜 曇
卵一五五
新聞配達早く終る。祖父さんは将軍沢の秋山十郎さんへ草刈りかごを一つ持って行った。四人で田の大麦刈りに行く。とても刈りにくいがよいできた。十一時前に終り父と甘藷苗植へ畠へ。全部うゑ終った。
午后繭かき。雨が降り出し前畠の大麦上げ。繭も拾七貫かけた。
今夜守平が来ると言ふので停車場まで行くのである。

六月十八日 日曜 晴
卵一五六
昨夜守平が八時三十二分の電車できた。雨が降ってゐて暗かったが二人なので元気よくきた。今夜は根岸の土手で草刈り。草もなくなった。繭かき。母は守平へお土産を作くる。
午后父と二人で毛羽取りをした。居眠りばかりしてゐかん。
警戒警報解除となる
三十六〆毛羽取りをした
雨模様なり。   以上

六月十九日 月曜 小雨・曇
卵一五七
向ふ河原で草刈り。雨は降ってゐたが草がほきてゐて早く刈れた。
繭かき。毛羽取り。荷ごしらへをして車で繭を引っ張って行く。今日はとてもこんでゐる。自転車のパンクをはって遠山水車へ使に飛んだが用は駄目だ。吉野栄一君宅へも寄る。本繭壹等四拾壹貫六百匁
後片付けをする   以上
玉中共 十貫 玉四〆五〇〇 中五〆六百

六月二十日 火曜 曇・雨
卵一五八 一五九
昨日の方で草刈り。祖父さんと篭片付け。物置の二階に上げた。
父と二人で大麦こきを始めた。少し日が照ってきた。乾物を出す
午后大麦上げ。山王前の畠から田へ移る。二車、三車目より雨が降り出し四車目には大降りとなりだした。でも大麦の取込みは終る
田麦八十八束   以上

六月二一日 水曜 晴
卵一六〇 一六一
川の水が増した。向ふ河原で草刈り。
午前柴田方の田植えの手伝ひ。
馬でかく。自分はしんどり。
午前中に植え切り午后は家の大麦の脱穀。柴田方より三名。終って柴田方の大麦上げへ家より三名手伝ひに行く
祖父さん、繭の乾燥に、和田へ持って行く。   以上
脱穀時間二時間五〇分

六月二十二日 木曜 晴天也
卵一六二 一六三
中島街道で草刈り。今日はよい日になりそうだ。祖父さんと金井廣吉、山下庫次郎、野口臣吉さんと和田の乾燥場へ行く。大麦の干物出し
米の配給。糯もち米が四割位ある。九円三七銭。山にある薪へ屋根を作くる。役場の切付((符))を配り。柴田方の大麦上げの手伝ひに行く。
カルピスと言ふ物を御馳走になった。此れは初戀の味とか言ふそうだ

六月二十三日 金曜 晴
根岸の向ふ河原で草刈り。とてもある。早く刈れた。朝食して軍造さんの家へ助に行く。大麦の脱穀である
午前中に大きい束三十五束。午后、昼食をもらってたべる。
二十五束こいたら隆次が迎えにきて柴田方の大麦の脱穀。五時近くなって始めた。二時間と十五分懸った。後一俵と言ふ時に夕立がきて皆まごまご働いた

六月二十四日 土曜 晴
乾燥賃一〆目一円一〇銭 吉野栄一君と共同作業
昨日の雨で草刈り。早く刈れた。大麦を俵に入れる。先干は六俵と一斗位あった。手扱きを長島水車へ一俵。国防婦人会の貯金と大麦の加工証明をもらう用を祖父さんがした。吉野栄一君が此の間の仕事(かごや)を返しにきた。そして桑原掘返しをした。庭畠、山王前、油面、隣組の畠と仕事はどしどしと出来た。酒の特配ケンがきた。一升三円七〇銭。二十六日菅谷井上酒店*   以上
*駅通りの和泉屋(井上仙太郎経営)。この当時の菅谷村の酒の配給所は菅谷・井上商店、志賀・大野屋、鎌形・杉田商店、斉藤商店、根岸清水屋(秋山芳松)の五店。

六月二十五日 日曜 曇
今朝はまきを連れて行く。早く刈れた。父は長島水車へ大麦を一俵持って行く。桑原掘返し。本陣畠より始める
今日は曇ってゐて仕事はやりよい
午后早く終り。大麦のカッパ抜き終る
高台の掘返し。ごみがあるのでやりよかった。大麦、俵に入れた。頂(丁)度五俵。十三俵できた   以上

六月二十六日 月曜 曇
卵一六四
昨日の続きで草刈り
西原の小麦刈り。雨が降りそうなので一車早く上げたら日が当ってきた。午前中に刈り切る。八十八束約八畝
午休み、酒の配給。役場中島君の家等へ寄る
坊上二号畠の小麦刈り。約八畝分だが六七束であった
西原のカッパ抜き。五人でしたので早く終る
祖父さんは山下家へ。酒飲みに

六月二七日 火曜 晴・夕立
卵一六五
根岸の土手で草刈り。日が高くなる
坊の上一号の麦刈りを始めると同時に軍造宅の叔母が悪いので鎌形の家へ話に行く。朝から暑い日だ。
一号の麦刈り。祖父さんは軍造宅へ午前中行き切り。午后成澤八三(五)郎さん*の葬式。祖父さん御見送りに行く。麦刈り切り。坊の上三号を刈る
夕立雨がきて中止。十三束持ってくる
一号八拾壹束
*一八七四(明治七)年九月生まれ。

六月二八日 水曜 晴
卵一六六
土手で草刈りをする。あまり早く刈れなかった。朝食後、隣組中を廻り糸の点数を調べる。六軒計十六・五人分(百六五匁)いっそ作くり
坊の上の小麦刈り。午前中に運び切る。父は軍造宅へ半日助に行く
午后大田の麦刈り。半分位刈って自分は遠山水車へ使に行く。吉野君よりペン習字とカンランをもらって来た。大田八〇束

六月二九日 木曜 晴
卵一六七
隆次をつれて土手で草刈り魚釣りもする。二匹しか釣らない。今日は昆布の配給なり。新田の麦刈り。自分は車引きをする。軍造さんの妻*死す正后。今日一日中の束数は百〇三束。早終りとする。   以上
*富岡せい。一九〇三(明治三六)年七月生まれ。

六月三〇日 金曜 晴
昨夜は昆布と寒天、ちり紙を区分す。中々面どうなり。
新田の麦刈り。午前中は刈り終らなかった。
昼休みに昆布の配給。婦人会の雑誌、今日廻ってきた。
今日の小麦束五拾三束。寒天、ちり紙
雑誌御送り下さい御願ひ申します終[落書]


冨岡寅吉日記 昭和19年7月(1944) 菅谷村(嵐山町)大蔵

2009年03月28日 | 冨岡寅吉日記

七月一日 土曜 晴
土手で草刈り。早く刈れた。
父と二人で小麦扱き。午前中に頂(丁)度三〇束脱穀した。今日は富岡軍造宅のせいさんの御葬式で祖父さんと祖母さんは朝から行く
菅谷の叔父、遠山水車の叔父さんが見舞に来た
午后は二〇束扱き、ふるったり、唐箕であをったりする
昨夜配給品を配ばる

七月二日 日曜 雨
土手で草刈り。早く刈れた
米の配給。弁当箱と加工証明書をもらってきた。自転車のパンクを修す。田へ父が馬で肥出しをしたのでその手伝ひに行き肥ちらし。
午后は祖父さんとまきも田仕事へ行く。肥ちらし。曽利町と大田へちらす。一日中雨降りであった
よくぬれた   以上

七月三日 月曜 半晴
卵一六八
今朝は草刈りに行くのがおそかった。鎌が切れない。父は馬で堆肥だし。自分は配給米つきをした。中々無頭かしいものであるが少しやるとなれてよくつけた。終りて軍造氏へ助に行き麦刈りをした
午后は家より五人、理昌宅より四人、軍造宅より五人、計十四名でしたので仕事も面白くできた   以上

七月四日 火曜 曇
草はとてもあったので早く刈れた。
軍造宅へ手伝ひに行く。祖父さんはツキ目の眼薬をもらひに行った
麦刈り中途で雨が降ってきて中止す。家の田の馬耕に行った。雨が降ってきた
午后は馬がとてもよく仕事(事)をしたので曽利町は皆耕ひ終る
本日警戒警報発令せらる   以上

七月五日 水曜 小雨
雨天也。自分は草刈り。父は小麦を俵に入れて組合の発動機へ行く。大田の馬耕に行く。始(始)の中は騒いだがだんだんよく働いた。
午后は大田が終りて新田へ移動したら柴田藤五郎(郎)さんがタテほりに来て呉れた。オンガーが破損し仕事中止す。雨も止み仕事もやりよいわい   以上

七月六日 木曜 晴・北西風
卵一六九
朝作りに田へ肥料を持って行きそれを打つ。小堀さらひ。柴田方の馬耕。オンガーの金を取り変へる。午前中に約一反耕す
午后は家の田に移り三畝と苗代のしりと七畝を始めたが道具が悪くて早くしまった
小麦を俵に入れた。六斗五升。昨日のが四斗五升

七月七日 金曜 晴
卵一七〇 支那事変七周年記念
今朝はゆっくり起床した。早朝飯で田に行き馬の鼻取りをした。今日も馬がとてもよくする。理昌方より午前中二名きて呉れた。柴田方より三名。苗取り。
父と自分は田かき。柴田宅のを荒くれだけした。終りて田かき。もち苗をあるたっけと旭を少し近江は四畝二〇歩へ頂(丁)度よい加減であった。

七月八日 土曜 晴
柴田方田植
父と二人で草刈りに行く。ガッサリ刈った。エンタ*二箇買ふ。柴田方の上げ代二枚と家の七畝の馬耕。理昌方よりオンガーを借用す。他の者は田植え、苗取り。柴田方の馬耕。午后三時頃終る。
馬方も田植えの手伝をする。夕方早く終り、長島水車へ米取りかえに行く。スマを九〇銭買ふ。吉野勇作君より事伝あり
*談:たばこ。

七月九日 日曜 晴
卵一七一
草刈り。今朝はとても多くあって早く刈れた。田へ水が来ないので畠の仕事である。甘藷の切掛けを始めた
坊の上一号より。朝の中はとても霧がある十時頃よりよく晴て暑い。
午后休み時分終り。二号の畠へ移る。草むしりが骨が折れるのである。二号畠山半分以上仕事が出来た。今夜は、臨時常会が社務所に開れる
   以上

七月十日 月曜 曇・小雨
卵一七二 一七三 一七四
向ふ河原で草刈り。早く刈れた。柴田方の小麦の脱穀に三人で行く
。頂(丁)度四時間かヽった
昼休みに水泳に行った。祖父母は甘藷の切かけ。自分と父は小麦の脱穀。足踏みにて約一俵位する
午后は雨模様なり   以上

七月十一日 火曜 晴
父は昨晩より田の水引きに行った
自分は草刈りに行き帰りに大きなエビをつかまへた
大田に水がは入り祖父さんと二人で肥料うち。父とかく。始めの一回は馬がとても意((威))勢がよいので骨を折るわい。でもとてもよくやった
昼休みに常会と堀さらい。明日より番水なり
大田植え切る   以上

七月十二日 水曜 晴
卵一七五 一七六
草刈り
米の配給に行く。柴田方のと二軒分。マッチの配給。戸数四箇
一人当一箇。第二計一三四。六円十八銭。半日かヽった
午后、父と二人で田植えの田かき。六畝を上げ代迄した
そして全部植え切った。   以上

七月十三日 木曜 晴
村田巳之吉君の御入営*なり。用事があったので送れなかった。早朝めしで新田かき、鼻取りとしんどりをした。とてもよい日だ。苗取りもして見た。うまく取れぬ
苗代の上げ代三畝もした。三畝の田植。七畝も植えた。苗代は約三分の一植え夕方となり帰ってきた
新藤岩二君と菅谷の天王様へ遊びに行った。面白くないわい
*大蔵村田巳之吉、東部九〇部隊応召。一九四五(昭和二〇)年七月三〇日戦死。

七月十四日 金曜 晴・午后大夕立あり
今朝は草刈りに行く。少し刈った。今日七時より夕七時迄番水の水番だ。村田清治君、金井末吉さんの三人だ。朝の中はとてもよい天気で暑かった。水番も中々無頭かしいわ。家の田植えは早く終った。柴田方へ行く。苗代を植え始め今少しとなったら大夕立が出た。耕地に居る時大きな奴か鳴ったので皆、我先にと逃げ出した。面白かった
特に南の空がひどかった。

七月十五日 土曜 晴
卵一七七 一七八
昨夜は新藤岩二君と遊びに行った。面白くなかった。草刈り。根岸の下土手で刈る。柴田方の田植え。父と自分は田かき。早く終り植える。今日は自分乍ら感心する程上手になった。丁度昼頃終った。酒の配給を受ける。五合。
理昌宅へ祖父さん、父、自分と三名。午后手伝ひに行く。早く終った。長島水車より押麦四升と小麦粉二貫匁借りてきた

七月十六日 日曜 晴・暑い
召集日
野廻りに行く。水が多くきているが六畝は少かった。今日は召集日である。青草を一束刈って行く。八時過ぎて集合開始。自分の指導員殿は御見えにならなかった
基本体操の指導。軍人勅諭奉読と暗誦できる者へ白星を呉れた。午后米つき。とてもよくつけた。
昨夜小沢君の家でお茶を御馳走になった
地下足袋青校配給

七月十七日 月曜 晴
卵一七九 共同作業 家で
昨夜は一時半も遊んだ。面白くないのに。
大沢君と向ふ河原へ草刈りに行く。今迄に無い草のほき振りだ。今日は家の共同作業である。七時頃中島、吉野君がきた。朝から氷水をのんで見た。うまかったわい。前畠のカッパ返し。脱穀機十時頃より始まった
地下足袋十文半を買った。本日の父の行動甚だ悪し。以後気を付くるべし。頂((丁))度七時間三〇分かヽった   以上
忍田寛治方へ猫子をやる

七月十八日 火曜 晴
卵一七〇、一七一 共同作業 中島
新聞配達。根岸で召集の来た話を聞いた。長島指導員殿にも来たらしい。中島君宅で共同作業。田な草取り。午前中は風があり涼しかった
午后はそうとうむし暑かった。汗が流れる。二反五畝取る。終りて二番切り約三畝。長島指導員殿に召集令がきた。御餞別に行き祝酒を頂戴した。とてもうまかった。氷水□にのむ

七月十九日 水曜
卵一七二、一七三
青校の草刈り。四年生の出席率は良好なり
西原の陸作物の除草。二番切り。今日は我等の指導員長島軍曹殿が御出征*なされた。嵐山駅頭で軍歌をやる時、自分は張切った。目には涙が止まらなかった。小川へ使に行く
いさをはながく忘れぬぞ**
*鎌形長島近治、東部六四部隊応召。
**愛馬行進曲の一節。

七月二〇日 木曜 曇・小雨
共同作業 吉野
坊の上の道で草刈り。少しだった
朝食済んで雨が降ってきが中島君がきたので遠山へ向かった
パンクの自転車なので用意(容易)でなかった。
二番切り。甘藷の切かつけ
一日中小雨だった。帰りの道で七時の報道を聞いて内閣総辞職*を聞く。
*七月十八日、東条内閣総辞職。二十二日、小磯国昭内閣成立。

七月二十一日 金曜 雨
卵一七四 一七五
草刈り。もう少くなった。朝食後二時間位寝た。菅谷の自転車屋へ寄る。中島君宅へも行った。パンク五〇銭。にしんの配給と加工証明をもらふ。
午后青年団の勤労奉仕。集合がうまく行かぬ。自分、長沢君、山下義明君の三名で成沢力造さんの家へ行く。甘藷の草むしりであった。色々と御馳走になった。父は金井廣広吉さんの家へ助に行く。にしん配給す

七月二十二日 土曜 晴・雷雨
卵一七六
草刈り。とてもほきてゐたので早く刈れた。米の配給とてもこんでゐた。今日は半分しかこない。四円六十八銭
父は本日も金井宅へ行く。祖父さんは水番で耕地へ行った。午近くなって夕立が乾物を取り込む大夕立となり、大雨が来た。午后は何もしなかった
隣組の納税。皆持参せり
受発信 金井春二君   以上

七月二十三日 日曜 晴
卵一七七
今朝は草刈りはなくって骨を折った。
父、今日も廣吉方宅へ手伝ひに行く。配給米つき。前畠の草むしり。
午休みに納税を茂八宅へたのむ
長島水車へ粉持ちに行き加工証明を出す。粉五〆持ってきた。坊の上三号畠の除草。
祖父さんに顔をそってもらった。
明日は体力検査なり。   以上

七月二十四日 月曜 半晴
体力検査
体力検査なり。受検者がとても少い。身長、一五九、四。胸囲八〇、五。体重五〇、三なり*。
注射もす。自分のはいたくない。午后四時頃終る
天王様である。吉野、中島君きた。高坂の細村君等も来る。雨が降り出してしまった。でも盛となってから止む。たいこはたきが一番面白い。金井仲次郎君とやる
*視力右1.5左1.5。色神正常。聴力正常。ツ反応陰性。

七月二十五日 火曜 晴
草刈り。油面近所で土のたかってる悪い草を刈った
菅谷へ米の配給受けに行く。四才ヨリ十才迄一人四十三銭であった
昼食してよりしし舞である。御輿は少しかついで、ししかつぎをして廻った
あまりおもたくないが汗をびっしょりかいた。廻り終って御輿かつぎ。一生懸命もんだ。かたに傷ができた
夜は十一時頃迄たいこはたき

七月二十六日 水曜 半晴・雨
卵一七八 一七九 体力検査
草刈りに行ってきた。今朝はとてもほきてゐた。早く刈れた
金井やで約二時間午寝をした。午后は体力検査である。雨が降り出した。大沢、新藤等と一しょに行った。今夜、特別訓練生の総会があるので一番先にしてもらった。異常なし。加藤君と四時十二分発の電車で松山に向ふ。皆同窓生も元気だ。菅谷の生徒は張り切ったぞ   以上

七月二十七日 木曜 雨
召集日
雨降り天気なり。本三、四年の召集日である。国民校の方でやった
一、二時はねむったかったが我まんした。三時目にはとうとう寝てしまった。約四〇分大いに恥ずべしなり。午后外で教練をした。五時、開((解))散す。金井屋で氷水一杯 只
昨日より大蔵は農休みである
昨夜は吉野と一しょだ   以上

七月二八日 金曜 半晴
卵一八〇 一八一
草刈りに行く。刈り終る時分、集合ラッパが鳴った。青年団の三十三社拝礼である。野村武夫君、岡野千三君と小生三人で北口へ向かった
太郎丸の神社を出ると同時に自分の自転車がカラ廻りになってしまい、水房、川島と歩き、川島より野村君に引張ってもらった
自転車をよく修繕してもらった。二円五〇銭。田ころがし  以上
大小麦の検査 大麦三俵二等 小麦十八俵。一等十六俵。二等二俵。

七月二十九日 土曜 晴
卵一八二 一八三 召集日
父にさんざ起された。でも起られぬ。教練召集日である。
八時開始。自分の方は内田指導員殿である。神社の境内で射撃姿勢をした。
午后三年生へ基本動作の指導。三年生はなってをらん。
五時過ぎて終った。父、田ころがし。祖父さん、金井廣吉さん宅へ 以上

七月三十日 日曜 半晴
草刈り。早く刈れた
菅谷へロウソクと菓子の配給受けに行く。一戸二本金三銭。菓子一人十七銭
田の草取り。大田を午前中半分以上。午后、祖父さん、かごやの役員会議で小川へ
午后六畝取っ切る。金井時一さん、押麦を持ってきてくれた 以上

七月三十一日 月曜 晴
草刈り。今朝は向ふ河原へ行ったら、とてもあった。早く帰れた。甘藷畠へ堆肥出し。父と車で引いた。十時頃坊ノ上一号畠一パイとなった。今日、神社へ十一時集合で、山下光太郎さんの御出征*をお送くりするので十時半にラッパを吹いた
暑いので氷水がのめる。菅谷で六杯のんだ。甘藷の肥引きを続行す。
一日中よい日であった。32、23、三と写真を見る  以上
*大蔵山下光太郎、東部一七部隊応召。


冨岡寅吉日記 昭和19年8月(1944) 菅谷村(嵐山町)大蔵

2009年03月28日 | 冨岡寅吉日記

八月一日 火曜 晴
卵一八四
昨日と同方面で草刈り
甘藷畠へ肥出し、車引き、麦から干しをした。約一百三〇束出た
坊の上二号の甘藷畠へ肥引きをした。午后も同じ畠。三号のいも畠へ金肥と厩肥を入れる。沖縄へも肥を入れた。一日で終った。からも物置へ取り込む
柴田方よりトマトをもらった。
いかにも土用の様な天気だ   以上

八月二日 水曜 晴
勤労奉仕 卵一八五
四時起床。田の水を見に行った。
今日は軍事工事の勤労奉仕である*。七時一〇分集合。八時開始。
午前中トロなをしの手伝ひとトロ押。三台で昼食。午后、自動車の助手。五名。内田、鯨井、福島、小生、忍田君である。つみ下ろしには汗が出たが、途中は涼しいものだ
東吉見迄トロ線を持ちに行った**。面白かった。五時開(解)散す   以上
小林嘉久三方へ猫子をやる
*談:石橋穴八幡の道路工事。
**談:トロッコのレールを取りに行った。

八月三日 木曜 晴
卵一八六 一八七 召集日
今朝も田の水引きに行った。
本科四年の召集日である。執銃の教練。国民校庭にて今迄の復習。基本体操をした。小生指導にて
神社境内で射撃教練、照準、撃発と射撃と運動の連ケイ。十一時四〇分終了。午休みに水泳に行った。麦カラを物置へ上げた。田の草取り。一回ころがし□□後終った
金井柳作方へ猫子をくれた

八月四日 金曜 晴
勤労奉仕
勤労奉仕である。忍田、関口、富岡の三名で後より二番目のトロを押した。中々具合のよいトロだ。
荷を積んであける迄、乗り切りだ。
忍田君の運転は実に上手だ
午後は暑くなった。でも皆一生懸命にやった。
五時終了。大ガケで友達と水泳をやった。少しはうまくなった
石ケン、ちり紙の配給

八月五日 土曜 晴
卵一八八 一八九
耕地で草刈り。朝食後、田押車を持って柴田方の田押しに行った
父と二人。早く終った。父は正午迄、手伝ってきた
祖父さんと山王前畠のアゼ刈り。とても暑い
午休みに石鹸とチリ紙を配給す
アゼ刈り
一日中良い日であった   以上

八月六日 日曜 晴
卵一九〇
祖父さんと耕地で草刈り。早く刈れた
曽利町の田の草取り。曇っぽいので暑くなく仕事がしよい。
午前中で終る
午后、美作君と川へ遊びに行き魚の小を大変取った
畠山の博労さんきて呉れた
配給米つき
発信 富岡理昌

八月七日 月曜 曇
根岸の向ふ河原で草刈り。早く刈れた
耕地の田の草取り。大田より始めた。少し雨模様である
午前中一反六畝も取れた
午后一反三畝取り二番後も終りと云う訳
紺が配給になる。実行組合より   以上

八月八日 火曜 晴
卵一九一 一九二
まきと二人で草刈り
本四の召集日である
もっことかつぎ棒を持って学校に行く
土はこびなり
皆一生懸命にやった。
午后、松山へ使に行き菜種と甘ラン種を求め又戦闘帽も買ふ

八月九日 水曜 晴
卵一九三
昨日と同じ所で草刈り。こまっかい草が大変刈れた。隆次を連れて組合の発動機へ小麦を一俵持って行った。生石灰を買ってきた。一カン壱円
父と坊の上四号畠へ結球白菜を播く。祖父さん、理昌宅へ朝より
午后、理昌宅へ助に行った。甘藷の切掛だった。まきは軍造宅へ手伝ひに
今夜、隣組長常会

八月十・十一日 木・金曜 晴
受信 吉野
草刈りに行ってきて金井広吉宅へ助に行った。野村豊治君と田の草取り。一日中。
◎十一日。まきと草刈り。早く刈れた。金井広吉宅へ今日も行く。午前中入加の田の草むしり
午后、小麦つき。千駄んの田の草□広吉さんと二人で
夜八時より常会がある

八月十二日 土曜 晴
教練召集
草刈りがとても早かった
国民校庭へ集合。午前中学科。木村先生、軍人勅諭。神社の境内で基本体操。手旗通信す。昼食
午后久留田指導員より射撃予行演習
銃剣術もした。五年生の者とシ合をした   以上

八月十三日 日曜 晴・夕立雨
根岸の土手で草刈り。草もなくなった。祖父さんと父は田の草取り。自分は自転車で菅谷へ行きパンクをなをし学校に依(寄)り特幹志願者ノ心得をもらってきた
唐子の床屋へよる。丁度半日かかった。午后もぶらつき四時頃より夕立だでて大夕立となり近所にも三ツ位落雷したらう
夜も雨   以上

八月十四日 月曜 晴
卵一九四
もう草がなくなった。でも何とか見つけて来るものだ。
長島水車へ大麦を壱俵持って行き粉入れ物を持って行った。粉は明日。
桑呉れ。桑取り。山王前畠。
午后、前の物置きの庇のトバつくり
坊の上四号畠の桑すぐり。父と二人でやる。大変すぐれた
午后はとてもむし暑かった   以上

八月十五日 火曜 晴
卵一九五
草刈り。一人で耕地へ行ったが鎌が切れないで草がないので帰るのがおそかった。
坊ノ上四号畑の桑すぐり。父と二人でやり十時頃より月ノ輪の神田君の家へ西瓜をもらひに行く。学校へもより三時過ぎて帰ってきて昼食す。
自転車のパンクを三度はった
長島水車へ粉持ちに行く*。此でもう終りだ。
*談:先に製粉を頼んでおいたものを取りに行く。

八月十六日 水曜 晴
卵一九六
草刈りなし。桑呉れ
高台の桑すぐり。一束はぎった。四年生の召集日
自分は午前中である。自転車の者は小川の向ふへ山出しに行く。とても急なので仕事にならぬ。でも五束下へ出す
午后印カン押しの手伝ひ
平沢の千野孝義軍曹のゐ骨*を迎えた   以上
*平沢千野孝義、一九四四(昭和一九)年五月三日北太平洋上で戦死。

八月十七日 木曜 晴
卵一九七 受信 山下 長島近治
今朝も草刈りに行かないで蚕の手伝ひ。山王前へ桑すぐり。とても暑い。午后昼休みに柴田方でいっちゃん*等と話す。
坊の上一号畠へ桑すぐりに行く。
夕立の気はいありだが大した事はない。   以上
*野口いつ。筆者より一級下。

八月十八日 金曜 晴
卵一九八
蚕の手伝ひ。父今日は馬の検定検査で松山町グランドへ行く
桑すぐり。油面の畠
昼休みに斉藤君の家へ行く
昨夜は音楽会を十二時頃迄やってゐた   以上

八月十九日 土曜 半晴・夕立
道奉
軍事工事の勤労奉仕。
中島、吉野、富岡の三名でトロ押し。前より五番目の奴を始めた。とても具合がよいトロだ
午后夕立が出て社務所*で、友達と雨宿りかな
内田指導員殿にパンクをはってもらった。自分は吉野君と剣舞をならってゐた。
けうしゅく(恐縮)のいたり
蚕の上蔟
*石橋穴八幡神社の社務所。

八月廿日 日曜 晴
天ずいの耕地で草刈り。割合にほきてゐる。祖父さんと父と小生三人で草刈りだ
蚕の上蔟をやる
約四拾まぶし上がった
午后後片づけ
砂糖、にしんの配給   以上

八月廿一日 月曜 晴
卵一九九 召集日
草刈り。隆次と二人で行く。とてもほきてゐた。
青校召集日であるが午前中は中止
菅谷の家の蚕の上蔟の手伝。午后、先生*、吉野と三人で下里へ杉皮出し
今日の夕方位晴にせられたし
*木村太郎先生。

八月廿二日 火曜 晴
卵二〇〇 道奉
今朝ハ菅谷の方へ使に行く
道路奉仕に行く。四年生の外に他生徒も大変ゐた。全部で二十三名なり。今日の仕事はほがらかにやれる。休み休みに香煙をやる。此も仕事をやるに張合があってよい。一日中よい日だった
慰安会練習なし   以上

八月廿三日 水曜 晴
道奉
菅谷へ香煙買いに行く。小沢武夫君と一しょだ
石橋の道路奉仕である。もう始まってゐた。小澤、高瀬、自分の三名で三番目のトロ押し。とても具合のよいトロである
昼休みも短い。夕方は定時刻より一時間早くしまった
社務所で慰安の練習をやる。新聞代集金   以上

八月廿四日 木曜 半晴
早く起きて朝食す。菅谷へ香煙を買いに行く。野村豊治君と大沢と松山へマイクロホン借りに行く。途中雨に降られたが帰りには丁度よい具合に行った。大沢と送別会の会費を集める。午后新聞代集金。午休みに吉野勇作君がきた。としもうれしかった
夜に沢渡等とあそぶ

八月廿五日 金曜 雨
草刈り。今朝は大降りだった
菅谷へ葉書代を持って行った
床やで二時間昼寝をした
午后ラッパをみがく
今夜の慰安会の支度をやる。一日中降ったり止んだりしてゐたが夜はとうとう雨降りで慰安会も駄目だったが大変な人手である。 以上

八月廿六日 土曜 雨天
昨夜は社務所へ泊った。新藤君、山下君の三名である。草刈りにも行く。
初秋蚕の繭かきである。自分は子守りをしてゐると木村先生が来た。疎開児童*の荷物運搬である。雨も小降りとなる。千手堂迄**二回行って暇をもらってきた。今夜は慰安会***も出来そうである。青校の先生全員で見物にきた
去年に負けぬ人手があった。とても愉快に出来た  以上
*東京の日本橋区(現中央区)有馬国民学校の学童集団疎開。。
**松月楼が武蔵嵐山学寮とされた。
***談:大蔵青年団の出征兵士遺家族慰安演芸会。

八月廿七日 日曜 晴
卵二〇〇箇
昨夜の慰安会は実に盛大であった。見物にも大多数ゐた。吉野先生*もゐて約一時間位話してゐた
自分の寸劇は面白かったそうだ
午前会計。柴田美作君の出征**を送くる。
午后、送別会。兵隊は八名の所七名出席す。そうとう盛大であった
終りて青団役員で一杯やる
小沢武夫君五日の入隊   以上
*菅谷青年学校の吉野文子先生。
**大蔵柴田美作、東部六二部隊応召。

八月廿八日 月曜 晴
卵二〇一
耕地で草刈り。割合にほきてゐて刈り良かった。早く刈れた。大工の家で頼れて松山の方へも使にも行く。金井親治方のバアさんの御葬式*に父は朝より行く
祖父さんは畠耕ひ。午后自分も手伝ふ。父も終りて来た。二人で耕ふ
明日は入営兵の送(壮)行会
*金井きく。一八七三(明治六年四月生まれ。

八月廿九日 火曜 晴
根岸の向ふ河原へ草刈りに行く。朝食後、長島水車へ粉持ちに行き貳〆匁持ってくる。祖父さんと川へ篭洗ひに行く。むしろも洗ふ。
午后菅谷へ行く。青年学校で入営兵の走(壮)行会があるので、級長、副級長、字役員は之(コレ)に出席するのである
道路奉仕の金一日三円五〇銭で五日分拾七円五〇銭もらった。次の召集日。九、一日、金、六日水。九、十一日月。

八月卅日 水曜 晴
工事
今朝は気分が悪くゆっくり起きた。今日より農士学校前の河川工事へ出た
午前中は水中の仕事
午后市ノ川の清水信康君もきた
父は愛馬徴発高賣((こうばい))へ出席す
五時過ぎて終した
吉野君より送り物があった   以上

八月卅一日 木曜 晴
卵二〇二 工事
農士学校前の工事へ行く。トロの線路つくり
一日中
水あびか
マッチの配給 一人二ツ 戸五ツ   以上


冨岡寅吉日記 昭和19年9月(1944) 菅谷村(嵐山町)大蔵

2009年03月28日 | 冨岡寅吉日記

九月一日 金曜 晴
青校召集
村田清治君の入営*である。大元気で出発す。我等も大いに張切って送くったぞ。青校召集日。八時開始。校舎の屋根瓦上げ。自分は瓦屋さんの手許をした。とても面白く又一一生懸命であった。出席率も良好である
五時開(解)散す
工事会計九円也   以上
*大蔵村田清治、東部一二部隊応召。

九月二日 土曜 晴
農士前工事へ 卵二〇四
農士学校前の工事へ行く。米の配給は明日となる。工事の会計九円もらった。石川、忍田、岡本、自分と四人でトロ押しをやる
中々面白いものだ。自分はまだまだ力がないわい。香煙がうまい   以上

九月三日 日曜 晴
卵二〇五 工事
農士校前の工事へ行く。計七人である。午前中、石川君と柳のうらをはぎる
清水とトロ押し。
昼休みに菅谷へ行く。学校へもよる。銃剣術の防具を借りてきた。清水とやる   以上

九月四日 月曜 晴
工事
鎌形小林岩五郎さんの家へ回文を頼みに行く
農士校前の工事場へ行く
清水信康君とトロ押し
残暑甚だ厳しい
一日中つとめる

九月五日 火曜 晴
卵二〇六 工事
小沢武夫君の入営を駅迄見送る。菅谷村より六名*。同級生の武井君は六時の電車で二名。他の四名は七時一分発の電車で出発す
皆大元気なり
農士校前の工事へ行き金井吉次君とトロ押し
今日も一日よい日だった   以上
*根岸小沢武夫東部一九九一部隊、志賀武井英雄東部八六部隊、根岸福島稔東部一五部隊、川島森田武治東部一九〇四部隊、志賀高崎武治範三八二四部隊、志賀多田義次鋼一二九五〇部隊入営。

九月六日 水曜 晴
卵二〇七 召集日 春蚕残金八拾壱円参拾貳銭
本四の召集日である。銃剣術の防具を持って行く。青校々舎の勤労奉仕。屋根ふきてある。
中途で下りて竹割りの方へ廻る。面白く割れた。二時半頃より国民校の方へ行き銃剣術をやる。五人で試合をしたが自分は一本しか勝たぬ。内田君三本、山田、加藤、中島、二本   以上

九月七日 木曜 雨・曇
卵二〇八
朝食する頃、雨が降り出した。工事場へ行ったが誰も居ない
祖父さんの手伝ひで目かい作くり。底を組みだり組み上げたりした。
今日は昨日のを六つふちを巻き後七つ出来た。植木山長島国吉さんが竹を持ってきた
松本モイ吉(茂市)方へ目かい二ツ。山下庫次郎方へ目かい一ツ

九月 八日 金曜 雨
卵二〇九 二一〇
煙草買ひに行ったら今朝は遅かった。
目かいのふち巻き。
目かい作くり。午前中三ツ。山下菊次郎、茂治方へ各二ツヅつ。山下明方へ一ツ。植木山徳さん、音吉、植木や方へ各一つヅツ。野村三郎一つ。計九箇。徳さん宅のは□
今晩学校に万(漫)才あり

九月九日 土曜
工事
早起きと早めしを喰って菅谷へ使に行く。配給衣料を買ひに行った
足袋一円二三銭。サル又八〇銭。棒電池を買ふ。長島水車へ押麦持ちに行き、大麦を一俵持って行く。小麦粉も持って来る。ツキチン三円五〇銭。
目かい、植木山、高倉方へ二ツ。又造方一ツ。将軍沢秋山十郎宅へ三ツ。計六ツ   以上

九月十日 日曜 晴
朝作くりに目かいつくり。二ツ組む。底三ツ。
青校より手紙が来る。召集日変更す。
目かい、唐子石川牛平方へ二ツ。草刈りかご同宅へ。
忍田寛治方へ目かい二ツ。まき松山へ行く   以上

九月十一日 月曜 曇
卵二一一 工事五円
午前五時、分会員は国民学校へ行った。小生は根岸河原へ草刈りに行く。
農士校前の工事へ行き金子丑平君とトロ押しの受け取りをやる
午前中三十五台、午后拾五代(台)、計五拾台。一人五円になった。
夕方雨が降り出した。
青校より手紙がきた
明日の壮行会の件   以上

九月十二日 火曜 雨
卵二一二
昨夜鉄道工事の金五円きた
晴天なれば学校へ行くのだが雨天の為、家で篭屋をやる。ビク作くり
午后入営兵の壮行会。在校生代表で菅谷神社へ行く。挨拶をする。此の前程にぎやかでない。五時半閉会す   以上

九月十三日 水曜 曇
第五班集合
父は実行組合より依頼されて菅谷へ配給受けに行く。米の配給も受けてきた
大沢自転車で棒電池買ふ。
青校々舎のカベぬりの手伝い。小生は砂(左)官の手許をした。骨が折れる仕事だがしかし張合があった。三時十五分前に終了した。夕方雨が降ってきた。祖父さんは篭やである   以上

九月十四日 木曜 雨
卵二一三
金井吉次君の出征。雨降り天気で送くるのに困難だ。菅谷村より四名出征す*。久留田指導員殿も出征す。七時〇一分発車す
菓子配給二~十三迄一人十七銭、目かいつくり。七ツ出来上がり。将軍沢金子文吉方一ツ。   以上
大蔵金井吉二・遠山久留田久治・志賀内田栄太郎・菅谷中島利政東部六部隊応召。

九月十五日 金曜 雨
卵二一四
ビクのふち巻き二ツ。左をかけるだけ。
目かいを一つ作くった。
菜切り箕作くり。午前中二枚始める。
午后祖父さん小川へ。
父馬糧の配給受けに行く。ナキリミ作くり。
一日中雨であった。
蚕の桑呉れ。
工事場へ行って見る

九月十六日 土曜 晴
工事七分 工事三円
根岸の下土手へ草刈りに行く。父は軍馬高賣の手伝ひに行く。祖父さん篭屋なり
自分は農士校前の工事へ行く。福島君とトロ押受取りだ
午前中三〇台押す
午休みに隣組中の糸の点を集める
雨も勢良く降り出して工事も駄目だ
酒の配給   以上

九月十七日 日曜 半晴
鉄道工事 一日中
鉄道工事の勤労奉仕。
第五班(大根将)
大蔵弐名欠席す
山下福三、野村秀雄以上
トロ押し。金子丑三、岡本七五三君と三人で組む。自分等は度々仕事が変る。
天気が大へん良くなった
夕方の模様は実に気持ちがよい
縫糸の配給。第二、十三円。三四五匁なり。友達と遊ぶ   以上

九月十八日 月曜 晴
寅吉の生れた日
朝食前、糸を分ける
思ったより簡単である。
かごザル作くり。四ツ。
午休みに工事の会計
二五円もらった
菅谷岡松屋へナキリミ一ツ。山岸松五郎、目かいナキリミ一ツ。
夜新聞代集金
工事会計弐拾五円弐拾五銭也

九月十九日 火曜 晴
卵二一五 工事五分二五銭 学奉
学校奉仕。瓦屋さんの手伝ひである
屋根に登って仕事をした。よい日だ。
午前中で暇をもらってきた。農士校前の工事へ行った。一人でトロ押し。石川君も一人だ。よく働いた。二十五銭分増し。   以上

九月廿日 水曜 晴
工事壱人壱円五〇銭
農士学校前の工事へ行く。金子丑平君とトロ押し。小廻りである。トロ二台
午前中三〇台
午后も同じく三〇台 計六拾台
夜は国民学校へ行き海軍志願の映画を見てきた。よかった   以上

九月廿一日 木曜 晴
卵二一六
桑呉れ。
目かい作くり。九ツつくり上げる。
後四つつくり上げた。
目かい金井や、富岡周次郎、小沢欽三、新藤武治、柴田勝五郎、金井勇三郎、吉沢虎吉。計十壱也。   以上

九月廿二日 金曜 晴
五分
目かいのふちまき一つ
朝食して青校へ行く。色々の訓示ありましてや香煙に着(ツ)いては三人の先生よりあった。気を着けるべし?
いや大した事もなかろう?
教練木村先生駄目だ
午后工事五分
トロ押し
桑摘み   以上

九月廿三日 土曜 晴
卵二一七 壱人壱〇〇
蚕の桑呉れ
工事へ行く。今日は四名しかである。金子、岡本、小生、石川。トロ押し。午前中押し終り。早お昼と言ふわけ。
忍田、午后きた。石川帰る。早しまひで帰る。
壱人一〇〇銭なり。
清水さんへ(野本村)目かい一ツ   以上

九月廿四日 月曜 晴
工事壱人五〇銭
毎朝蚕の桑呉れだ。
鎌を持って工事へ行き岡本君と上の河原へ柳を切りに行く。栗取り。
午前中六束。栗を喰ふ。
午后も同じだ。休み頃より急にだるっこくなった。休みにはよく寝てゐた。昨夜は柿を喰った   以上

九月廿五日 月曜 晴
卵二一八
蚕の桑呉れ。
ナキリミに櫻皮をさす。二枚。桑摘みに行く。
西原のアゼ桑。父と二人で。祖父さんは菅谷へ使に行き貯金をしてきた。午休みに小生も使に行く。唐傘の配給。桑の先がけ出来た
俺の服が出来た   以上

九月廿六日 火曜 曇
桑呉れ
腹がいたかった。すぐなおった
桑摘み。
午后家の中の蚕、上のエン台だけ上蔟した
夜社務所で青年団の常会があった。水泳検査の件。   以上

九月廿七日 水曜 晴
卵二一九
桑呉れ。
菅谷へにしんの配給受けに行った。第二組は八四人一〆三百四四匁。六、三二円。
蚕の上蔟。
昼休みに根岸へ集合し印を押す。
柴田方より二名手伝ひにきて呉れた。
全部で百貳拾マブシ上蔟す
押麦できた   以上

九月廿八日 木曜 晴
暫く振りで草刈りに出た。足がちぎれる様に寒い?
未だ寒いと言っては過ぎるかも知れぬ
目かい作くり。十一組む。将軍沢鯨井儀重二ツ、小久保代吉二ツ、忍田源太郎、岡本徳吉各一ツヾつ
野口若三郎、目か一ツ、ナキリミ一ツ。計七円五〇銭   以上

九月廿九日 金曜 晴
卵二二〇
昨日の朝よりずっと向ふへ行って草刈り。今朝はつゆがなく暖い
午前中、祖母と二人で柴田方へ蚕の上蔟へ行く。
午后目かい作くり。
六つ出来た。根岸、小沢啓助一ツ、小沢多造二ツ、小沢彌一二ツ、内
山一ツ、計六ツ六円六〇銭
父、堆肥積み、陸稲の取込み、脱穀。   以上

九月卅日 土曜 晴
卵二二壱
草刈りは中止。少し風(風邪)を引いた様だ。
半ザルのふちまき一ツ。
肥引きザルの底を始めた。七手半。真中は青皮一本。三枚目二本、計三本。
腰を起すのは壱□位。
父は平沢の家へ行き帰りに菅谷の浜野作松君の入営*をお送りす。ザル五ツ組み上げた。
工事会計弐拾六円五〇銭   以上
*菅谷浜野作松、呂五三九二部隊応召。


グループ紹介 嵐山ファミリークラブ 1986年

2009年03月25日 | 報道・グループ紹介
 私たちのママさんソフトボール「ファミリークラブ」は、やがて十年になります。最初のころは練習時間が朝の六時半と、主婦にとっては一番つらい時間でした。でも健康のことを考えて皆さんについてきました。やはり運動というのは、ほんとうに楽しくまた汗を流しなにもかも忘れ夢中でやれることがなによりだと思います。今年の春の郡民体育大会では小川のフラワーズというチームと対戦し、バットにかすりもしないスピードボールを投げる苦手のピッチャーに手も足もでませんでした。二対〇という得点差で負け、悔しい思いでした。それからはママさんのファイト、練習うで「がんばろう、がんばろう」とみんなで話し合い、なんとかあのピッチャーの球を打ちたい、まだこの辺ではあのようなスピードボールを投げる人がいない、どうしようと考え、「そうだ、バッティングセンターに行こう」近くにはないので熊谷の南河原まで打ち込みにみんなで行きました。そのバッティングセンターのおじさんが良い人で嵐山から来たと言ったら「まあ好きなだけやっていきな。」と思いきりやらせていただき、みんなスピードボールが怖くなくなり当たるようになってきました。その成果が夏の郡体に出て小川のチームに打ち勝ち前回の雪辱を果たしました。楽しみながらの練習で、監督、コーチ、二十名の会員の気持ちが一致し、秋の県民体育大会でも第二位となりました。私たちママさんも年を忘れ、若手を中心にいつまでも楽しく健康を考えて続けていきます。今のところ練習するグランドにも恵まれ、思いきりみんなで遊ぶことができます。体と時間のあいているかた、ぜひ私たちのクラブでいっしょに楽しみませんか。
         連絡先:宮野  【電話番号略】
     『嵐山町報道』349号 1986年(昭和61)12月25日 婦人のページ

助役はただの事務屋でいいか 小林博治 1964年

2009年03月23日 | 報道・論壇

 五月三十一日で退職した前助役小林氏は、退職の所感を本紙に寄せて次のように述べた。氏はこれを以って村民の皆さんに対する御挨拶にも代えたいと希(ねが)っている。よって左に紹介する

   助役はただの事務やでいいか
 昭和三十一年(1956)のことである。報道に、「時の人」という欄を設けて、関根昭二君が、人物評論の筆を馳せた。その七月号に、「助役になった小林博治氏」という標題で私を論評し、その一部に「彼はお世辞の云えない性質であり、理知的に物を考える方である。だから世間的な人気はそれ程ないが、事務的手腕は認められている。……
 助役は村長のような政治家ではないので、特に自己の抱負を実現させるというようなことはしていないが云々」といっている。これは肯綮(こうけい)に中(あた)っている。それで私は、今、十七年という長い勤めを終り、関根君の批評通りでしかなかった過去の行迹(こうと)を振りかえって、果たしてこれでよかったのであるかどうかと反省した。
 そして偶々(たまたま)今繙読(はんどく)中の書物の中に、一国の大臣、宰相たるものの職分を論じて「事務は大臣に取って枝葉である。大臣の職務はもっと根本的に、それ等の事務に由って生ずる所以のものを正さねばならぬ。国民全般の生を養い、秩序を立て教養を高めねばならぬ」とあるに逢着し、正に冷汗三斗、多年の迷夢を一時に醒まされた思いで驚倒(きょうとう)した。つまり関根君のいうように「政治家ではないから自己の抱負の実現は計らない、事務的手腕は認められている。」ということで助役の責は果たせると考え、何かのはずみに地方新聞などで、名助役だなどとおだてられると、いっぱし助役気取りで生意気をいったりした。
 然し、為政者たるもの、一村の助役たるもの、単なる事務やでは、いけないのである。村民全般の生活を充実し、社会の秩序を正し、■■の教養を高める政治があってそこに始めて事務が生じ、これを処理する事務やが必要になって来るのであるから、根本は政治であり、事務は末である。
 だから古来為政者の参考書として、推重された「貞観政要」(じょうがんせいよう)の註に、昔から大臣宰相といはれる人も、とかく国の大事に暗くて、単なる「刀筆の吏」(とうひつのり)つまり事務やに堕してしまったものが多いとし、その事務やになってしまう理由として、第一、経国済民(けいこくさいみん)の略がないと事務にしても出していれば職に勤勉なように見える。
 次に、明君が上にいて、到底頭が上がらぬ時やむを得ずコツコツ事務に没頭する。又、特別の才能があるわけではないが、長年事務に慣れて、鰻上りに地位を得たものであるから、事務に専念するより外に法がない。等をあげている。
 真に痛い話である。経国済民の略がない。上に明君を戴いて手も足も出ない。格別才能はないが長年の慣れこでやっている。といづれも私にピッタリのようである。
 こんな訳で、退職の挨拶状に「尸素十七年」という言葉が出てきた。「漢書」という史書に「今朝廷ノ大臣、上ハ主ヲ匡ス能ハズ、下ハ以テ民ヲ益スル無ク、皆、尸位素餐(しいそさん)ス」という件がある。尸位(しい)は仮りにその位につくこと、素餐(そさん)は空しく食べること、実力がなく何もしないでその位にあることを尸位素餐といい、尸素(しそ)はその略である。
 飾りではない。尸位素餐は私の実感である。
 然しそれにも拘らず無事に愉快に十七年という長い年月を勤めさせて貰った。本当に有難いことと感謝している。そして実はその愉快であったということと有難いという気持ちが、今度の退職の決意の根拠となったのであった。
 ただこう書くと、稍々逆説的になるので、少し説明を要すると思うが、この説明をはじめると長くなるから、これは別の機会にゆづり、今は、ただ右の反省だけに止めることにする。  昭和三十九年(1964)七月十三日記
     『菅谷村報道』154号 1964年(昭和39)8月1日
肯綮に中る:こうけいに当(あ)たる。物事の急所をつく。要点にぴたりとあたる。
行迹(行途):こうと。通って行く道。また、この世を過ごして行く道。
繙読:はんどく。書物をひもといて読むこと。
驚倒:きょうとう。非常に驚くこと。思いがけないことに出会って驚くこと。
刀筆の吏:とうひつのり。文書の記録の仕事をする小官吏。書記。身分のひくい役人。小官吏。小役人。古代の中国で、竹簡(ちっかん)に文字をしるすために用いた筆と、その誤りを削るために用いた刀。日本でも木簡の使用で、刀の必要があった。
経国済民:けいこくさいみん。国家を経営し人民を救うこと。経世済民。
尸位素餐:しいそさん。才徳や功がなくて位にあること。職責を果たさないで、いたずらに祿を得ること。才能も人徳もないのに位についていて、むなしく俸禄を食(は)むこと。出典は『漢書』朱雲伝。


時の人・助役になった小林博治 関根昭二 1956年

2009年03月22日 | 報道・ひと
 彼が収入役になって三年後、村の批評家が「理知的な彼の瞳、インテリと云に相応しい彼のタイプが何かしら村民に冷たく感じる」と評したが、それから六年後の今でも猶一般的にそう見られている。彼はお世辞の云へない性質であり、理知的に物を考える方である。だから世間的な人間気はそれ程ないが事務的手腕は認められている。
 高崎村長の下で六年間助役をしてきた功績と能力を高く買はれて、今度また助役に選任された。助役は村長のような政治家ではないので、特に自己の抱負を実現させるというようなことはしていないが、二十五年(1950)に報道委員会を発足せしめてその初代会長に選ばれた。「報道」をして今日の如き姿にまで発展せしめることができたのは、彼の熱意と努力によると云っても過言ではない。
 彼は小学校を卒業するとすぐ上京して青山師範普通科に入学し、東京高師文理大と教員専門のコースを進んだ。文理大では日本史を専攻し、特に徳川時代の社会経済を研究して卒業論文には「入会地の研究」という地味な勉強をしたが、戦時中には文部省の国民精神文化研究所の一員として迎へられ、国体明徴運動に参加し日本精神を大いに鼓吹した。
 この時、橋田文相の弟子杉靖三郎の影響で道元禅師の研究もした。彼は山形の新荘女学校を振り出しにして都立第十一中学校で終戦を迎へた。終戦は彼の歴史教育を根本から覆してしまった。彼の天皇中心主義の考え方は否定されてしまった。戦いの終りは同時に彼の歴史教育の終りであった。良心的な彼は教育者としての責任を感じ恩給を目の前にして失意の心を抱いて故郷に帰ってきた。先祖伝来の畑を耕す百姓となったがこの浪人中、図らずも東洋精神の唱道者安岡正篤と相知るに至った。彼の日本精神的教養は忽ちにしてこの安岡氏の東洋倫理観と一致して深い影響を受けた。彼の物の考え方が東洋的なのは彼自身の歩んだ人生コースによる。二十二年(1947)に収入役となり、二十六年(1951)兼任したが政治的方面は全くの素人である。
 然し助役としては一流の人物であり、高崎村政の強力な推進者である。村長の信任も厚いので仕事もやり易く、働き甲斐もあろう。教育委員会が出来ると同時に教育長になり、川越農高菅谷分校の設置、中小学校長の大移動など行ってその面目を発揮した。彼にとって教育行政はお手のものであろう。教育的理想をいかに政治に反映させるかヾ彼に負わされた課題である。
 趣味はこれと云ってないが酒が好きで気の合った連中と飲んで語るのが楽しみというところ。酔へば若い者に負けない程の議論を吐く。 
 明治四十年(1907)生、四十九才、鎌形出身、教育長  (S)
     『菅谷村報道』72号 1956年(昭和31)7月20日

グループ紹介 嵐山俳句会 1986年

2009年03月21日 | 報道・グループ紹介
  古池や蛙とびこむ水の音 芭蕉
 皆さん、嵐山俳句会のお仲間になりませんか。嵐山俳句誌の生い立ちをご紹介いたします。藤野ゆかり(豊吉)先生が公民館長の時だったと記憶いたしております。昭和四十四年(1969)、町の公民活動の一つとして、藤野先生を主幹とする「紫」という会で発足して以来、毎月発行いたしております。
 初めの頃は、恥ずかしいという声もあり無記名でした。その後「嵐山」と改名いたしました。そのころは句会も開き、吟行もいたしました。藤野先生にはご多忙の中に編集され、五十九年(1984)三月号まで長い間ご苦労いただきました。
 皆様の熱意とご努力が実り、嵐山俳句誌も六十一年(1986)五月には、第百十九号を発行することができました。ガリ版すりではありますが、自分の作品が製本される喜びと、十七文字の俳句の奥行きの深さを鑑賞し、楽しみ味わう文学です。エプロンのポケットに手帳と鉛筆をしのばせ、食事の支度をしながら、メモする楽しさ、俳句は台所からもたくさん生まれます。
 皆さん、嵐山俳句会へ気軽に投稿してみませんか。婦人のグループ紹介とありますが、どなたでも結構です。平均年齢は、五十歳。嵐山俳句の輪を、大きく育てようではありませんか。
  雑詠五句  競詠二句 
  締め切り 毎月二十五日
  公民館活動ですから、会費は要りません。
  投稿先 嵐山中央公民館
     『嵐山町報道』342号 1986年(昭和61)5月25日  婦人のページ

グループ紹介 嵐山町味の会 1986年

2009年03月20日 | 報道・グループ紹介
 「嵐山味の会」は、嵐山町の味づくりと健康づくりを目的としたボランティア活動のグループです。会が発足して五年になりますが、この度今まで月一回実習してきた町の味と成人病を防ぐための食事を「武蔵嵐山・みんなで作る味と健康」にまとめました。
 今、高齢化社会の色々な問題を含めて、健康の大切さと、よりよい生き方を目指すことに世間の大きな関心が向けられています。
 私たち「味の会」は、会費で運営する自主活動ですが、厚生省の食生活改善推進事業の活動としても、各地区で「私たちの健康は私たちの手で」をスローガンに普及、啓もうに努めています。
 又、町の産業につながる地元の味をつくることを大きな目標にしていますので、季節の産物を使って新しい味をつくりだしたいのです。関係方面の皆様に、アドバイス、その他ご協力をお願い致します。
 今年度は、成人病を防ぐ勉強会、味づくりの実習、老人家庭への食事のボランティア、レクリエーション活動等の計画をたてています。
 例会は、夜と昼間を交互にもちます。現在、鎌形・大蔵方面にはまだグループが出来ていませんが、地区別の活動を大切にしながら、連携をとって、食生活を基盤にした、楽しい会にしたいと思っています。
 男女を問わず、大勢の熱意ある会員をお待ちしています。 連絡先:山田美子
     『嵐山町報道』340号 1986年(昭和61)3月20日  婦人のページ

地域に根ざした活動を目標に 菅谷・寺山サキ子 1985年

2009年03月19日 | 報道・婦人のページ
 九月十四・五日に開催された嵐山町「婦人団体指導者研修会」に参加することができました。日ごろ、各地域で婦人団体(主として婦人会)の役員として活動している三十八名の参加です。
 まず、婦人教育会館、大野曜先生の「家庭生活の変化と婦人の役割」と題する講義、専門職員、橋本ヒロ子先生の「情報図書室の利用について」のお話と研修が始まりました。
 参加者で宿泊する人が二十名、その中で始めて婦人会館へ泊まる人が約半数、近くて遠い婦人会館……を思いました。そして「ともろう会」広報部から取材にみえた二人を交えて夜のひととき交流会がはじまりました。
 初めて顔を合わせる人もいるからでしょうか、最初はみんな緊張気味でしたが、自己紹介が終わり、それぞれが持っている悩み、疑問などが出始めると、だんだん雰囲気も盛り上がり「婦人会と言うイメージが漠然としすぎている」「もっと理想を高く掲げることが必要ではないか」と話がすすみ、「理想を高く掲げることが必ずしもよいこととは思わない。会員の要望とあわなければ……」、又婦人会と趣味的な会との違いは地域との関わりにあるのでは、地域に根ざした活動が大切ではないかと話が広がっていきました。中には、老人会、子供会、婦人会が手を取り合って一つのことを成しとげるという所もあり、思わず感激してしまいました。
 最後に日航機墜落現場となった上野村で婦人会の人々が見せた、みごと言えるボランティアの心、結集する力のすばらしさに私達もいざという時、あのようにできるだろうか、できるように努力しようと力強くみんなで確認しあいました。
 最後に、婦人会は町のお母さん役であるという教育委員会のお話でおわりました。
 翌朝、ささやかな草取りボランティアのあと、嵐山町では初めてという「グランドゴルフ」を体育指導員根岸恵治先生から教えていただきました。ゲートボールとゴルフを合わせたような競技です。六人ずつに分かれ、ゲームを進めながらの講習です。昨夜の話し合いがよかったのか大分うちとけています。
 空は今にも泣き出しそうな空ですが、草原運動場には元気な声がひびき渡ります。コンディションはいまひとつ、大きくから振りしたり、とんでもない所へボールが飛んでいったり、思うようにはいきません。スコアの悪さはグランドの悪さにしてしらん顔です。でもやっぱりスポーツはすばらしい、人の心を豊にしてくれます。参加してよかった!
 この二日間で学んだことを生かし、みんなで力を合わせていきたいと思います。
     『嵐山町報道』335号 1985年(昭和60)10月15日  婦人のページ