こうして十二年(1937)一月になってからと思う。吾々も除隊出来るという話が伝えられた。予期しない除隊。同年兵でも内地に残った者は十一年(1936)十月三十日満期除隊していたわけである。
吾々の除隊には条件が付けられていた。次の通りである。初年兵が内地から此の兵舎に着いた後初めて交代し、内地帰還と云うのであった。
こうなると内地から来る交代兵が一日も早い方がいい。そう思っている中、十二年二月二十八日だったと思う。待望の交代兵が到着したように記憶する。とにかく一晩は歓送迎会のお祝いとなり、緊張し通した軍隊生活も遂に張りつめていた糸が切れたかのように酒を知って以来初めて酔いつぶれた一夜だった。
しかし点呼の時は不動の姿勢で報告したことは覚えている。以後ダウンして戦友のお世話になった……。どうして酔いつぶれたか? 原因はこうだ。自分は原隊当時から第三内務班育ち。しかも北支に行っても第三内務班にいた関係で縁は切れない間柄。そして北支では第四内務班付き。一ヶ班三十名からいて、二班分の相手から帰還を祝って酒を差される。差されればたとえ少しずつといってもかなりきいてしまったという事である。
権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 43頁~44頁
話は一旦切って事件前の様子を続ける事にする。自分は以前話したが第三内務班にいたが北支に来て国府台から来た同年兵に伍長勤務上等兵がいた関係で一度は内務班付きを降りていた。
そんな頃自分も伍長勤務上等兵に進級したのである。ところが馬部隊出の自分達と自動車隊出の兵隊では生い立ちの違いが現れて来て中隊の上官も心配していた矢先、自分は第四内務班に異動させられた。どうしてかというと四班には伍長勤務上等兵が居らない事と、内務班立て直しの特訓という事だった。四班には厳しい軍曹の班長がいた。そして自分に指示した言葉、『他の上等兵と力を合せ中隊の模範となるようにある程度厳しくやるように。責任は班長が取るから心配無し』。あの時の指示は今でも思い出せる程である。
日曜、祭日といっても外地では外出が出来るわけでもない。そこで休日には銃剣術などで汗を流し、エネルギー発散など試みたものだった。お陰で我が内務班は急に良くなり、自分も大いに認めて貰えた。何事もそうだと思う。勿論自分一人で出来るわけではないが相手の心を知る事によって良くも悪くもなると云う事のいい勉強になった。北支駐屯中の思い出の一つである。
権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 42頁~43頁
こんな事件のある中、北支駐屯軍で秋季大演習も実施された。吾々も参加。北京から八宝山と云う所まで行ったが演習といっても弾丸が出ないだけで実戦さながらのような状況にさえ感じさせられた。
部隊に戻って語り合う時、吾々が初年兵に話す言葉にも冗談とはいい乍ら、来年の夏頃には始まるぞ、そして誰かが戦死したなど新聞見るのではなんて話し合った事があったが、冗談が実現してしまったのが昭和十二年七月七日盧溝橋事件だった。真先に吾々のいた部隊も出動して、吾々の初年兵だった幾人かが戦死してしまったのである。
権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 42頁
大陸の夏はかなり暑くなったが、一旦日蔭に入ると誠に涼しい、湿度の関係らしい。移動の時間等思い出せないが途中は無事目的地に着く。どんな兵舎かと思ったら誠におそまつそのもの。赤れんが、平屋、しかも営庭は未完成。自分達で地ならしなどして仕上げる。
我が部隊とは別に山砲隊も一ヶ大隊入る。結局我が砲兵隊と山砲隊混成で鈴木部隊と呼んだのである。当時我が部隊より先にすぐ隣に並んで戦車部隊と騎兵隊が駐屯していた。そして我が部隊の真ん前が飛行場であった。なるほど総ての条件が整えられていたのである。
此の頃北支に日本軍は七千人居たという話も聞いた。時局は一触即発の状況に感じられた。だから何時導火線に火がつけられるかもしれない日々が続いていた訳である。
たまたま十一年(1936)九月十八日の夜と記憶する。非常呼集が掛けられた。全員営庭に出る。中隊長以下の幹部は連隊本部に集合、吾々は次の命令待っていた。まもなくして急遽出動準備である。誰云うともなく今夜「ホウ台」に於て事件勃発、其のため我が砲兵隊も出動す可く準備させられたのだが事件は納まって明方解除になる。
此のさわぎの前、戦車部隊は早くも出動していたと聞いた。事の起りは面白いような話だが北支には色々の軍隊がいた関係である。部隊と日本軍の小競り合いとなり今にも大きくならんばかりだった事のようだ。ある部隊を日本軍が包囲した所其の他の軍隊に日本軍も包囲された事件だった。
尚、事件のあった其の夜何時飛来したのか飛行場には戦闘機が十数機待機していた。でも戦闘にならずして済んだ。
とにかく当時関東軍全盛期いざとなれば満州国から流れ込むかの勢いだった頃である。軍国主義全盛期、たまったものでない。戦をすれば必ず勝つと信じていた時であり、又吾々もそう信じさせられていた。今思えば如何に馬鹿馬鹿しい事に年月を過ごさせられたと思うと残念でならない。
権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 41頁~42頁