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埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

菅谷村議会傍聴記 3 関根昭二 1951年3月

2009年10月18日 | 報道・論壇

   村会傍聴の記
    全面か 単独か
     国会議員さながらの大論戦
      三月十三日第三次追加更正予算の日

 提案者の一人である根岸(寅)議員も周囲の事情がはかばかしく行かないのであらうか「どちらにも理屈があるだらうと思ふので希望のある人は村会議員として個人々々が署名することにしてはどうか」と発言するや、「同感」といふ声が幾らか起つた。松浦氏もあんまりしやべつて喉が渇いたのかお茶を飲みながら「どうですか皆さん協議会に入つて平たく話さうぢやありませんか」と一人舞台で理論を闘はしたので固苦しくなつた気分を和らげようといふつもりらしい。それに全議員とも緊張しすげて少し疲れてきたといふ格好である。然し金井議員は発言を求め「大きい問題だといふが私としては村のことをやるのが村議会だと思ふが今日のこの問題が村と無関係のやうに聞かれたがこれこそ村に関係あることだと思ふ。今までも日本が満州に軍隊を侵入した時農村は苦しんだのである。村のことでないとして打切つてしまふのではどういふ面で村の利益を闘ふかについて疑問があると思ふ」徹底的に審議しそして賛成するのが当然だといふ見幕である。松浦議員も勢を得て「六十万の交付金が減つたことにもすでに関係があると思ふ。村予算の面にもすぐ響いてきてゐる。再軍備をすれば税金で苦しみ、子弟を兵隊にとられる。生きるか死ぬかの苦しみをしなければならない。第二の朝鮮となることは受けあひである。軍隊がなければどうにでも解決ができるのである。絶対中立の国へわざわざ踏み込んでくることは恐らくないと考へられる。兎に角生命に関はる問題だから慎重に考へてもらひたい。協力しないことはうそだと思ふ」是非とも賛成しなければならないとあくまで強硬に頑張る。根岸議員再び立つて「個人々々で協力すると思ひますのでこの辺で審議を閉ぢて次の問題に移つていたゞきたい」と議長に要求した、各議員も何となく疲れてきたので「同感」の声が又も起つたが松浦議員は「私の話が下手で…」と弁解する。議長はこれを慰めて話の上手、下手は問題ではないと思ふ。全面講和に反対する人は一人もないと思ふので個人々々でやつてもらつては…と述べたので松浦議員はすかさず「此処に出席してゐる方で全員全面講和に協力していたゞけませうか」と手廻しの早いことを云ふ。何とかしてこの場で承知してもらはうという悲壮な決意を持つてゐるらしい。然し誰も賛成に署名すると言はない。山下議員が立ち上つて、「講和の問題は非常に重大な問題であると共に世界情勢も複雑してきたので個人々々の考へが隔つてきたと思ふ。考へることも言ふことも自由であるが、敗戦後日も長いし全面講和は到底不可能である。一日も早く占領を終結してもらふことを国会で決めるなら結構であると私は考へてゐる。単独講和で一日も早く講和してもらひたいので、今日はつきり意思表示を求められることは困る」と松浦議員の言に反対の意向を表す。
 議長も「全面講和を否決するといふこともうまくないが研究してもらふことにしては」と妥協案を出す。各議員も大体これを了承したが賛成派はなかなかねばる。高橋議員は「時の政府が新聞、ラヂオを通じて反ソ反共の宣伝をしてゐるからひつかかつてしまふのだ」と賛成を得られない責任を政府と報道機関に向ける。時に利あらず情勢我に不利なりと見てとつたか、金井議員は建議案撤回を申し出した。松浦議員はまだ説明したいことがあるんだがと不満さうに云つたが最後に「第二の朝鮮となることを望まないからいふのである。皆さんはさういふ事態になつてから気づくのである」
 平和への道は閉されたとでも云ひたげな絶望にも似た悲痛な一言を以てこの「全面講和協力の件」の建議案は遂に撤回されたのであつた。
 村会史上未だ嘗て見ざる建議案ではあつたが兎に角かくの如き熱烈なる討論が真剣に闘はされ然も完全なる言論の自由が行使され懲罰動議などといふチヤチなものも出なかつたことは慶賀の至りであつたことを記して筆を置かう。
                   (報道委員S記)

   『菅谷村報道』12号 1951年(昭和26)4月10日


菅谷村議会傍聴記 2 関根昭二 1951年3月

2009年10月17日 | 報道・論壇

   村会傍聴の記
    全面か 単独か
     国会議員さながらの大論戦
      三月十三日第三次追加更正予算の日

 続いて大野、高橋、松浦、金井、根岸(寅)議員等五名の共同提案になる「全面講和協力の件」が上提された。今まで熱い熱いと云つて椅子を陽陰にずらしてゐた松浦議員も乗り出して来て提案理由の説明に立ち上つた。この日大野議員が欠席したため松浦議員が説明に立つたわけである。「この問題は実に重要な問題でありまして、何故に村会に提出したかについて申し述べたい」と前置きして松浦議員特有の弁舌を以て全面講和絶対必要論を堂々と説明した。「全面講和か、単独講和かは極めて重大なことであり、全面即平和、単独即戦争である」と大見得を切る。「単独講和ではソ連、中国と宣戦布告したのと同じである。この少い警察軍で自衛権を発動したとてどうにもならない。結局アメリカの援助を求めねばならない。さうなれば日本は第二の朝鮮である。単独講和では何故いけないかといふと中国との貿易を失ふからでさうなれば日本の経済は成り立たなくなる。今まで中国貿易は五割を占めてゐたので中国を含めての全面講和でなければならないわけである。多くの人は全面講和は理想であると云つているがよく考へてみると全面講和こそでき易いので単独講和はできにくいのである。私は全面講和なら明日にでもできると思ふ」と吉田首相以上の大確信を説く。「アメリカ国内では日本を再軍備せよといふ世論もあるが、これは日本国民の団結の力と要求とによつてくつがへすことができる。仮に全面講和ができないとしても有利に導くことができると思ふ。皆様の御批判によつて是非とも全面講和に協力していたゞきたい」と結ぶ。これに対して直ちに出野議員は発言を求め「一々ごもつともで趣旨としては賛成であるが松浦さんの話では全面講和は平和で単独講話は戦争であるといふ話であるが、私が新聞、ラヂオでみればその反対であると考へられてきたのだが本当に松浦さんの云ふ通りなら協力する必要はないと考へる」と反対の意を表明、松浦議員はすぐさま反駁「だまつていてはできないので国民の強固なる団結によつてアメリカの世論をくつがへすのである。日本の全人民の世論によつてくつがへすのである」かくて出野議員との間に討論が闘はされたが出野議員も些か疲れたか松浦議員と話が折り合はないのであきらめたのか「松浦氏の提案に対して賛否を保留する」と結論して引き退つた。議長もこの建議案には困惑したと見えて「私は建議案として案を出したが本村として取るべき具体的措置がないならば賛否をとるといふことはできない」と暗に反対の意向を述べる。一体これを決議したところでそれがどうなるかといふことは議長のみならずすべての議員が疑問とするところであつたがこれについて松浦議員は「村会で全面講和賛成を決議したことになれば非常に力強いものになるので、永久占領されるか或は完全に自主を取り戻すかの大問題である」と説明して全面講和運動協議会のパンフレットを読みあげる。続いて高橋議員は中国貿易との必要を説き「アジアの大国でありそして隣国である中国を除外して講和を結ぶといふことは日本経済が成り立たなくなることである」と賛成の意を述べる。次に金井議員が立つて先に松浦議員と出野議員との間で問題になつた侵略といふことで独特の口調を以て見解を披瀝、「帝国主義は一国に於て資本主義が行きづまつた場合他国を生産手段によつて犠牲にすることだと思ふ。例へば日本が満州でしたことがさうである。かうした事実が日本にあり、又現在の日本がどうなつてゐるかは知つてゐる筈である。…日本にピストルが向けられてゐるといふがどこの国がしてゐるか知らない。日本人民を奴隷にし利用してゐる国のことだと思ふ。全世界の働く人民が明るい生活を築くため帝国主義戦争をなくするために団結しなければならないといふ意味に於て賛成する。」このあたり全面講和賛成派の独壇場でまるで選挙演説を聞いてゐるやうな気がする。続いて松浦議員「全面講和に賛成したからとて何等損することはないと思ふ。協力することは結構なことで皆全面講和を望んでゐると思ふ」各議員とも重大な問題とみてかなかなか賛成の態度を表はしてくれないので損得問題を引つばり出してきて何としてでもうんと返事をさせようといふつもりらしい。出野議員再び起ち上つて「損だから得だからどうかうといふのではない。全面講和は理想論であると考へてきたのだから。この小つぽけな村が村会で議決したからとて大海に香水一滴たらしたようなものだ」と村会で決定するのは無意味だといふ意向。議長もこの議案には閉口したと見えて再び松浦議員に説明を求める。松浦議員の解答も前回と同様何となく漠としてゐるので議長も「村会議員が個人としてやつてもいいのではないか」と早く責任を逃れたいといふ口振り。松浦議員はあくまで村会の決議に持つて行きたい考へらしい。
 「村会の決議の方が強力なものになる」からと突つぱる。高橋議員も「全面講和を望んでゐるものと望んでゐないものが階級によつてある」と助言する。松浦議員も力を得てか「全面講和ができればソ連、中国が入つてくることは絶対にないと保証する」とスターリンや毛沢東から証言を直接聞いてきたやうな言ひ振りである。出野議員又も立ち上り「この山間の一寒村が村会で決議したところで…」と仕方がないと云はんばかり、松浦議員は直ぐさま「一粒の麦である。これが全国的に発展するのである。」然し議長も何としても困つた問題を採り上げたもんだと困惑のていで「新聞やラヂオで論議盡くされてゐるのでこの村会で決議するのは問題が大きすぎると思ふが、議案の扱ひ方に確信がもてない気がするんですが」と弱音を吐いてきた。私は(村会議長)で(国会議長)ではありませんといふわけだらう。然し松浦議員は執拗で「多くは新聞、ラヂオで知つてゐることしか云はないのであるが細かい説明を聞けは協力しなければならないことになるんだが」とねばり自分の説明が下手でどうも…大野さんが居てくれればよかつたんですが…と賛成を得られないのが松浦議員の説明が下手だからとでも思つてゐるらしい。出野議員又立つて「村会はよろしく村政を議すべき所で国際問題を取り上げて議することは問題が大きすぎると思ふ」と終始村会で議することに反対する。松浦議員も黙つてはゐず「つまり協力しないわけですか」とあくまで強硬な態度である。長老議員加藤氏が立ち上り「米国としても止むを得ず単独講和をしてゐるので話す人聞く人によつて異なることで此処で決するといふことはどうかと思ふので保留して各議員に任せるべきである」と長い間議論を聞いてゐるのでそろそろ何とか決めてもらはなければといふところであらう。然し松浦議員は一向に止める気はなく「ソ連、中国が全面講和にいつ反対しましたか。反対した事実をあげていたゞきたい」と詰め寄る。「新聞、ラヂオを聞いて信じてゐるだけで…」とたぢたぢする。

   『菅谷村報道』12号 1951年(昭和26)4月10日


菅谷村議会傍聴記 1 関根昭二 1951年3月

2009年10月16日 | 報道・論壇

   村会傍聴の記
    全面か 単独か
     国会議員さながらの大論戦
      三月十三日第三次追加更正予算の日

 この日ほど明白に然も公然と自己の思想的態度を表明した村会は未だ嘗てなかつたのではなからうか。村会議員が国会議員に早変りしたのではないかと疑はれるほどの白熱的論議が闘はされた。村会のことに関してもかう熱心であつてくれればいいがと感じたが…。
 この日追加更正予算案の村長説明は極めて簡単で僅か十分、議長及び村長の交際費増額はすでに議員の了解を得てゐますので説明はぬかしていたゞきますとあつさりかたづける。
 議員の方も承知してゐると見えてこの件については誰も質問しない。唯高橋議員が「交流関係に於てはなるべく危険を避けてやつてもらひたい」と希望意見を述べたに止つた。この日真つ先に質問に立つた松浦議員は平衡交付金減額の理由を突いたが村長の答弁にはあきたらないものがあると見え、高橋議員が「交付金の減額は大きいのであるが課税率が問題になつた事実はないか」と質問し村長答弁の後「課税標準を下げることを地方事務所あたりは非常にきらつてゐますね」と述べるやわが意を得たりとばかり「結局向うさまの云ふ通りにしなければ駄目なんだから村会なんかいらないわけだ」と云ふと隣りの高橋議員も「官僚主義だよ」と同調、すかさず松浦議員は「村会を無視してゐる、ファシズムと同じだ」となかばあきらめたやうにつぶやいてゐたまではよかつたが、「皆さんにかういふことを知つていたゞきたい」と起ち上り、一段と声を高めて交付金が今までは四割から五割まであつたのが今年は二割に下つてきた減額理由を自己独特の見解で披瀝、自分が村長に求めた交付金減額理由を自から答弁した。
 着席するや高橋議員と隣り同志で政府攻撃を話し合つてゐる。議長も二人の話し合ひが途切れた所で「何か御意見はありませんか」と問ふや高橋議員「私は別に質問はありませんね」とぶつきら棒に云ふ。松浦議員も、「まことに仕方ないですね」とつぶやく。何としても政府官僚のやることは気に入らないといふ顔つきである。かくて開会後一時間二十分で第三次追加更正予算案は簡単に可決された。
 午後からは村長が「職員の給与に関する條例」を逐條的に読み上げて説明して行つたが各議員ともあまり興味はなさげで生あくびをかみしめて聞いてゐる。議長もしきりにあくびをくり返す。収入役も目をつぶつて瞑想。村長から呼ばれてゐるのも知らないでやつと気がつく有様、山下議員金歯を出してウフフと笑ふ。規約が超過勤務手当と休日給の條例になると日宿直料が問題になつた。條例が日宿直を含むやうに解釈すると料金がえらい金額になるので「一人専門の宿直員を頼んだ方がいい」と云ふ者「日宿直は勤務にはならない」と云ふ者で意見はまちまち。村長は「日宿直は勤務であり全責任を負はなければならない」と強硬、一人ソロバンをバチバチと弾いて「一時間四十二円になりますね」と計算を発表するや「寝てゐる時間も勤務になるか」と声がかゝる。「役場へ来て寝て居て身上を作つちやふな」と誰か云ふ。村長も額が多くなりすぎるので「日宿直は超過勤務には違いないがこの規約を適用するかどうか疑問だ」と云ひ始める。「宿直は現在五〇円、日直は六〇円でこれをどうにかしてもらひたい」と議員に考慮を求める一方「額を上げてもらへば日宿直同じでいいやね」と収入役に同意を促す。結局、日宿直の手当は別に定めるといふ一項を挿入したが「どのくらゐの額にしていたゞけますか」と村長しきりに心配してゐる。議長はエヘヘと笑ふ。出野議員が「自分の職場へくるんだから百円ぐらゐでいいだらう」とするのに対して松浦議員は百五十円を主張したが、村長は「百円でどうですか」と提案したのでこゝに落着いた。「年末手当がこれからは公然と半ヶ月分もらへるわけである」といふ年末手当の條例を最後に給与條例は可決されたが農協理事会の為午前中欠席して午後審議途中に入つてきた金井議員一人手を挙げない。議長あまり近いので気がつかないと見え例の調子で「満場一致を以て…」と云ひだすや松浦議員から「満場一致といふのは…」と声がかゝり、金井議員発言を求め議長は審議を継続する旨を述べる。金井議員は午前中に審議された予算案を見て国連協会負担金、国連傷兵慰問金について一言、「日本国憲法を重んずるため又武装放棄した国土を尊重する意味に於て絶対に不賛成で一銭でも協力することは反対であります」と怒つたやうな口調で云ふ。「それはすでに決定になつたことである」といふ議長の言でけりがつく。

   『菅谷村報道』12号 1951年(昭和26)4月10日


菅谷中学校舎落成記念座談会 2 1950年7月

2009年10月15日 | 報道・論壇

 司会者 最後に立派な学校ができましたのでこの学校に相応しい教育を如何にすべきかについてお話願いたい。今日は生憎この学校の先生がをりませんので簾藤先生から。
 簾藤 さうですね、中学校経営の一部を担当してゐる立場から一般的に述べてみたいと思います。以前の教育は生徒の立場からすれば学問で苦しめられ運動で苦しめられた。練成や修練で個性を制限されることがいいとされていた。これは日本人の人生観であり、社会観であつた。然しこれからの教育は生徒一人一人が学問を楽しみ、生活を楽しみ、人生を楽しむやうにしむけて行かねばならぬ。かうするためにはこれにふさわしい社会環境、教育環境が必要である。学校の施設として校舎は勿論必要であるが、生活を楽しむためにはそれに必要な最小限の施設を備へなければならない。今日一巡してみまして各教室に学級文庫などある様ですが、私の立場からすれば図書の充実は校舎の次に最も多くの費用をかけていただくのがいいのであろうと思はれる。生徒が毎日放課後図書館で自由に本を読んでゐる姿を見ると過去の自分たちの練成の時代に比して非常に真摯な姿がみられる。図書館の充実は何が何でもしてもらいたいと思う。その他雑多な施設はありますが経済界の変転で強ひて申上げることもできないが…。学校で請求する教育費は予算の何割しか獲得できない。それでPTAその他の傍系団体に三拝九拝して金をもらつている。教育費は正常なルートでもらわれねばならない。三拝九拝して金をもらつてゐる様では文化の向上とか人間の理想とする信念の教育はできないのではないか。国会に提出される標準教育費法には皆様の御協力を願いたい。指定寄附によつて教育の為には村民全部が費用を負担することを自覚してもらつて正常の道をとつて教育費を支弁してもらふ様にしたい。
 大野 具体的な問題を考えてみたい。この席上に先生がいないことは残念だが…。菅谷の学校は今まで物置に居たりして非常に悪い環境にあつた。然しよい成績をとつている。入学率(高等学校えの)もいい。小川え入学した生徒の平均点は菅谷が一番、松山でも一番であつた。かうしたいい環境ができたので勉強も張合ひがでる。運動も環境がよくなつてゐるから今後更に充実する様努力してもらいたい。先生にも骨折つていたゞいて更に名声をあげてもらいたい。松高で英語の試験をしたら小川中学が断然他を引き離してゐた。これは先生の力の入れ方が学校そのものゝ力の入れ方であろうと思われる。今年菅谷の成績がよかつたのは先生の努力をかつてやりたい。村民も協力して学校のため教育のため努力してもらいたい。PTAに三拝九拝することではいけない。村民はできるだけ環境をよくする様努力するのは当然だと思う。まだまだ特別教室もつくらなければならないことは村当局としても考えているし…。
 中島(照) こゝに先生がいなくてはなんですが…村民からの意見として「二、三年は全部新校舎え入れてくれるわけだつたんださうですが家の子は入れてもらへないで職員室に使われてしまつた」というんですが。
 高橋 環境の問題だが…。落成式の時に村長さんから話しもあつたが「モダン」ば明るい教室で歴史的な伝統もあるし運動場も広い、かういうことが生徒に優越感を持たせるに至るのだと思う。最近マンガ教育というのがあるが簾藤先生マンガはどういう効果を持つているんでせうか。
 簾藤 出版屋は営利会社ですから…然し長い目でみるとマンガの期間は長く続かない。徹底的に駆逐しろという人もいるし、読書生活の一過程として許されるという人もいるので一概に云へませんが私は後者の立場を認めたい。
 吉野(松) 本を読む習慣づけるための一つの過程ではないか。
 加藤 マンガをみると正規な本が見られなくなる。
 簾藤 戦争の末期的現象としてよくまとまったものを読む気がしなくなるのではないか。世相のあらはれがマンガにもあらわれるのではないか、そこに読書指導図書館の設催などが必要になつてくるのだと思う。受験準備は絶対にいかんという規則があるのでこれを如何にして切り抜けるかに大きな問題がある。小川中学は学級編成の際受験組とさうでないものとを純然と分けてしまつた。運動部は解消するということまでして…。
 村長 図書の充実はまことに結構ですが校長に私はかういうことをお願いしてゐる。学校で必要とする経費は恐らく各村ともひらきがある。学校で必要とする経費をやつてもどこまで有効に使へるか?うまく使うのは校長の腕でそれを予算書通りにとらわれゝば分捕主義になり焼け石に水となつてしまふ。まとめてものを買うのには特別な予算でももらふかしなければならない。これを重点的にやつてゆけばできるのではないか、二年三年という先の計画をたててやつて行くならば少い予算でもやつてゆけるのではないか、追加予算を校長は簡単に考えてゐる。
 簾藤 社会教育委員会の方で村立図書館の経費を幾らかづつでも計上してもらつて中学と合併してもらつたら図書も充実してゆくのではないかと思う。
 大野 学校は必要な経費をどんどん要求してもらいたい。村会ではこれらのものを取捨選択するから、競技場の問題でもせまいから米山さん買はうぢやないかと相談したら米山さんも何とかなるだろうという自信を持つてゐるというので村長だか校長に申入れたらあれで十分だと云つた。我々の心配はすつかり現実となつた。作り上げてしまつてからせまいとは何ごとだということになる。
 村長 校長に話したらあれぢゃせまくて駄目だと云うことを云つてゐる。
 大野 校長の云ひ方が気にいらない。菅谷は郡の中心であるから先生も生徒も自信をもつて運動できるやうにしたい。少くとも正式なテニスコート、バレー、バスケットのコートを作つてやりたいと念じてゐた。
 司会者 大分時間もたちましたので、このへんで終りたいと思います。
                     (一九五〇年七月二十四日記)

   『菅谷村報道』5号 1950年(昭和25)8月20日


菅谷中学校舎落成記念座談会 1  1950年7月

2009年10月14日 | 報道・論壇

   中学校舎落成記念座談会
 中学校の校舎落成式を機としてこの特筆すべき業績を記録に留めて後世に伝へまた本村に於ける教育の進展に資するために報道委員会では七月二十四日建築関係者、村民、教育者、村当局など各方面の人々にお集りを願ひ木の香のま新しい新校舎で座談会を開いた。

  出席者(五十音順)
 大野幸次郎、加藤武作、高崎達蔵、簾藤惣次郎、高橋亥一、中島照三、中島年治、山岸宗朋、吉野賢治、吉野松蔵、米山永助
  欠席者
 田幡順一、吉田熊吉
  主催者側
 小林伝治、関根茂章、関根昭二

 司会者 本日はお暑い所を又お忙がしい所を御苦労さまです。中学校の校舎も愈々竣工致しましたが、これは村の大きな出来事で村政史と云ひますか村の教育史に於て没却することのできない大きな意義を持つていると思ひます。前の小学校ができた時の記録を尋ねてみると案外残つていない。そこで今回の事業を後世に残したい考へを持つ人が沢山をりましたので我々と致しましても今日此処にお集り下さつた皆様方に今度の中学校建築に関してのいろいろな話題を一つ提供していたゞいてこれを書き留め後の世まで残したいと希望してをります。
 村民は皆校舎の落成を喜んでをりますがこれは工事がすらすらと進んで簡単にできたからでなく非常な苦心の結果できたからでこれは事業が遅延したといふ事実が物語つていると思います。これには建築委員のなみなみならぬ苦心が伺はれるのでありますが、この人々の苦心談を中心に話していたゞきたい。ざつくばらんに談笑のうちにこの会を進行させていたゞきたい。最初に江部組に請負を決定した事情に就いて村長さんから一つ…
 村長 江部組が工事をやる様になつたいきさつについてお話し致しますが不足の点はこゝに居られる常任委員の方に補足していたゞきます。学校を建築するといふことが正式に決定しましたのでこれに関する予算的処置と入札者の決定といふ二点が問題になり、まづ入札者の選定ということが常任委員会によつて協議された当時すでに入札の告知をしないのに十九社の申込がありましたが、これに対して常任委員会で情報と調査をしとりあえず七つの請負人を仮りに選定した。そしてこの七社の請負人に就いて最近新制中学を建築した経歴を基準にして乗員委員会が四班に分れて実際の建築の状況、関係方面(役場など)、施行事情、資力等入札に必要と思はれる事項を調査した。大里、比企、入間、群馬などの各地を調査しその結果を検討したが大体に於てこれならばよろしいだろうとの結論に達した。そうしてこれを常任委員会の案として建築委員会にかけたが常任委員会の調査を満場一致承認した。そこで指名入札者が決定し入札を行つた。入札の際村としての予定価格を幾らにみるかゞ問題であつた。この基準がでなければ落札の時支障があるのでいろいろの面から考究したのであるが、これを前以て決定するわけにゆかない。他に洩れた場合困る。そこで基準価格の決定は入札当日に決めることにした。これは当日別室で協議したのであり従つてこの価格が他に洩れたことはないと思ふ。入札は全建築委員会立会の下にこれを行つた。契約條件はあらかじめ入札者に配つてあつた。落札者の決定は従来最低の者に落札するのが常例であつた。小川中学の場合は最高と最低では丁度半分になつてをり大きな開きがあつた。安いのはいいが悪かつたり工事が途中で中止されたりしては村民が困る。ところで村の予定価格の七割以上であつてその最低の入札者に落札することにした。例へば三百万の場合には二百十万以上で最低の者といふことになる。開票してみると江部組が二百六十万五千九百八十一円といふとつぴょうしもない札を入れた。次は三百万で約四十万の開きがあつた。
 司会者 落札者の決定事情はよく分つたが安すぎた点について何か反省を…。
 吉野(松) 常任委員が当時として反省すべき点もあるだろうし、江部組に落したことについては話題も残つてゐるのだらうから。
 米山 請負についても当時批判があつた。
 高橋 風説は聞かない。請渡しについては疑問はないだろう。
 米山 江部組が仕様書を十分検討せずに落札したから…。
 吉野(松) あまり安すぎたということについては江部そのものが無鉄砲なやり方をしたのではないかと思われたのではないか。仕様書をよく検討したかどうか疑問である。
 吉野(賢) 設計書を二日しかみていなかつた。江部には仕事を取りさへすればいいという頭があつて宣伝的な意味で損をしてもまあ比企へ進出できるやうになればいいという考へであつたらしい。
 加藤 一般は親値より高くはないかと思われたのに開票の結果は四十万も安い価格で落札したということに不安と気がかりがあつた。
 村長 それはたしかにさうです。開札の時には江部組の札は最後に開いたのだつたが、これは予想外の安値であつた。第一回の落札で決定しようとは誰も思つていなかつた。意外に安いので果してこれでできるだろうかとその時私も心配したのであります。
そこで私もその日の席上で江部組によく申入れたのである。先方は犠牲は覚悟の上でやつたのだと云つてゐた。
 司会者 これらの不安があたつて工事が延びた。出発の時すでに工事遅延の原因があつたということになるが…。山岸さんなんかどう。
 山岸 私個人としてその当時米山君に申上げたことは安いことを希望する。高いのはよくない。仕様書を完全に履行する人をやらしてくれ、親札に一番近い人にやらせるべきだ。と私はその当時云つた。この附近で学校を作つた請負者は皆失敗している。予算は幾ら出してもいゝから予算に一番近い者にやらせろということを私は云つた。結果からみて安い者にさせることは無理をすればその人を破産させてしまう。厳重な監督を受けてもそれに堪へられる人という腹構へを作ることが必要ではなかつたか。日本でも有数の設計家に作らせたのだからこの人が原価計算できるのだしこの金額に近い者に請負はせるのが普通だと思うのである。要は学校を作る時の心構へが必要ではなかつたかと思うのである。
 高橋 委員としては村民の負担を軽くすることが念願だつたので金融状態が途中で変つてきた為に請負業者が工事を遷延させるに至つた。
 大野 仕事が延びたのは監督が厳重だつたこともある。あの値では無理であることを委員はすべて考へてをつた。江部の方でも安いから多少なりともいいかげんなことで通してもらへるのではないかと思つていたらしい。本人も云つている。このくらいでいいのではないかと思つて役場の会議室の材料をどんどん持つてきたが検査ではねられたのでこれではいかんと気がつくに至つた。高橋氏は人柄はいゝが実力はない。江部氏が途中で江部組をぬけてしまつたので財政的にも苦しくなつてきたと思う。
 中島(照) 江部組は設計を変更して金をあげて行こうとした。「どうして村長はこゝを変更しないんですか」とよく聞きに行つた。
 加藤 三等材を使うべき所へ二等材を使つたりなどして江部組も材料では大部御奉公している。
 吉野(松) 江部自体としては全力をあげてやつたと思う。(各氏同感の声あり)
 米山 私は常任委員会の場所であんまり安い価格で落すことはどうか、三割という開きは大きすぎるのではないか、親値がはつきりしてゐないのにかうしたことを強く主張することもできないのだが兎に角私は黒板へ数字を書いてそれを説明したのでしたがその時二割五分にしたらという意見を出す人が一人ありましたが後の方で安いなら結構ぢやないかという声もあつたので、親値が決まつていれば強い主張もできたのだが決まつていなかつたのでいかんともしがたかつた。
 大野 あまり安いことはいかんということがすべての委員の一致した意見であつた。
 司会者 江部組がつまづきが見えたのはいつ頃からか。
 大野 それは上棟後である。お正月にかこつけて材料は入らず職人はこなくなる。これでは金もやたらにやることはできないと考へる様になつた。
 高橋 中頃から金融面も影響してきた。
 村長 一月のカレンダーを出した時に皆気がついた。江部組の名が文教施設に変っていたのである。
 大野 名義変更ぐらいに思つた材料が予定通り入つてこない。お正月の休みが長すぎるというのでこれはあやしいぞということになつた。これは江部という人物が会社からぬけたことと金融面の圧迫があつたことが原因している。
 村長 こちらでいよいよ考へなければならないということになつたのが三月の初めである。
 司会者 工事は進めたいが金はなかなかやれないという立場に於ていかに請負者を鞭撻し操縦したかという苦心談を
 村長 兎に角上棟は年内にやることに主力をつくしてそれもまあいろいろ努力したのですが。十二月三十日に漸く棟木をそれも夕暮れに五本あげた。寒い時おそくなつて式をあげた。完成期間は二月三日なので無理とは思つたがどうしても今年卒業する人を入れたいという村民の声もあるし生徒もこれを希望した。一時は学校のあちこちに張り紙が貼られたこともあつた。ところが工事が進むにつれて金の面で四苦八苦の状態となり支払もとゞこおり、これがだんだん重つてきた。内部の仕事になると目の見えない所に相当金がかゝる。クランプの使用もまがいものを使はうとしたがたまたま設計者によつてこれが発見されたという様なこともあつた。とに角金が非常にいそがしくなつた。仕上げにかゝると金を持つて行かなければ材料が買へず、工事は材料が入らない為に大工は手をあげるやうになつた。この状態が続き我々としても進行がおくれるから何とか委員会として対策を考へねばいけないと思つたのが三月上旬である。金を先渡しすれば品物を持つてくるかどうかわからない。それかと云つて金を渡さなければ品物が入らない。いよいよ困つてしまつた。それに工事計画は一向に実行されないし委員会をごまかしてばかりゐた。そこで委員会として支払いの面との計画をたてゝこいと命じた。この計画表を常任委員会で社長と現場監督を前にして検討した。この表によると五月十九日までに完全に出来上ることになつてゐたが金の方は上旬までに支払はれるやうになつてゐた。そこで委員会ではこれを工事の進捗状況と一致させた。然し実際になると予定通りに行かない。私は何回となく督促した。金を渡してもらへばこれだけの工事をするという計画表であつたが我々としてはこれまで何回となくだまされたので安心できなかつた。そこで我々は左官屋、ガラス屋、ペンキ屋などから必ず出来る、やりますという手形をもらつて来てくれと頼んだ、承知しましたと返事はしたが何日たつても持つてこない。これでは工事が進まないのは当然である。そこで委員会としては直接ガラス屋、ペンキ屋と交渉しよう、請負者の了解を得てこちらでやろうと決めた。工事を仕上げるまでは委員も相当頭をなやましてしまつた。その他こまかいところはいろいろあるんですが、他の委員からお話願いたい。
 大野 江部組も最初ていさいを作つていたが終ひには金がないんだ役場からもらわなければできないんだと云うやうになつた。然し工事は最後までやりたいんだと云つていた。
 司会者 三十万円の報償金については村内にも疑問があるやうだが最初にやるときめたのは報償としてやる意味だつたかどうか。
 大野 これは各委員によつて多少の意見の相違があつたらと思う。請負金額が安いのは分つているが欠損してまでもやるわけには行かないが金をやることによつて工事も進捗するだろう。今工事をやめられてしまつて後村で引受けると云つて相当な努力と金が必要である。それよりか金をやつて工事を一日も早く仕上げる様にした方が村としていいのではないか…と考へられた。
 吉野(松) 大体に於てさう考へてゐたのではないか。
 加藤 請負者が金がないと云つてきたので報償金の話がでた。金を出して一日も早く竣工させた方がいいと考へた。
 山岸 報償金の美名のもとに値マシをしたのではないか。その点最初の値をはつきりさせればよかつた。
 大野 大体の意見が契約金は増すことができないが報償金は幾らでもやることができる。三十万やつて工事を進めさせるか或は五十万を出して我々がやるかという…。
 吉野(賢) 二十万ぐらいではという意見も出たのであるが、補助金をそつくりやつて早く工事を仕上げさした方がいいということが建築委員の一致した意見だった。
 山岸 大野さんの心境を一つお聞きしたい。出来上つた蔭の努力について。
 大野 一日も早く仕上げることに全力を盡くした。請負師に対しては金の面で相当強固にたたかつた。別にとりたてゝいふ程の努力はない。
 高橋 委員長と村長とは相当金の面で苦心したらしい。
 吉野(松) はたから見てもよくその点は分つている。情を入れたらこゝまでできなかつたのではないか…。
 大野 金を何とかしてくれということが現場監督からもいろいろ来たが金の面ではガンとしてきかなかつた。
 司会者 難関を突破するには信念が必要だつたと思うが今日の成果をみた原因である根本信念の様なものについて。
 村長 それは別に固い信念とか…当然のことをやつただけで…この工事を途中でしりきれとんぼにする様なことがあれば我々だけの責任ではすまされない。村民一般に及ぼすものがある。かわいさうだという人情面に引かれて、特に失敗するのは金の面なのだからこれを引き緊めて最悪の場合には我々がやらなければならないという腹を常に持つていた。何としても仕上げなければならん責任を感じて地位を去るぐらいでは解決できない。我々の責任は学校を作りあげることである。又予算を増してやるということは村民に申訳ない。請負者に対しては随分憎まれ口もきいている。先方では人情も知らない薄情なやつだと思つてゐるかも知れない。仕事の面でも仕様書の通り仕上げるのは当然で例へばドアを二分のベニヤで作つてきたがこれを全部三分のベニヤと取り変へさせた。我々としては設計書によつて仕事をやつてもらいたい。できるだけ請負者の便宜もはかるが…それ以外は。
 大野 最悪の時には村でやる、而も予算の範囲内でやるということは初中終り云つてをつた。請負がやらなければこちらでどうしてもやるという考へは常に持つていた。金の支払ひの点では人間として涙の出る様なこともあつたがあくまで厳重にし、工事の進捗状況と照らし合はせてやつた。江部も愈々困つてくると個別訪問をして個人攻撃をしてくる。村長さんの所へ行つて委員長がいいと云へば金を出すと云われたからなんとかしてもらいたいと家へ来る。然し私がガンとして聞かない。村長さんも私が承知しないということを知つてゐるから私の家へさう云つて寄越したんだろうと思う。時には可哀さうだなあと思うこともあるが金のことに関しては誠意をもつてやつたつもりである。
 司会者 中島さんなにかどうです。
 中島(年) さうどうも云われてしまふと聞くこともなくなつてしまう。
 加藤 各地の学校を視察したことは無駄ではなかつたと思う。
 吉野(賢) 視察を何回もやつたことが非常に効果があつた。どこの学校へ行つても坪幾らで渡したかを皆聞きだした。その結果大体どこの学校でも坪一万三千ぐらいかかつてゐる、物価は下る方向にあるが設計がいいから坪一万一千ぐらいだろうと思つてゐたところ入札の結果江部が九千円で入れた。建築委員もこれで仕上がるかと皆心配した。
 米山 三十万円やることにしなければ工事をなげられたかも知れない。
 吉野(賢) 全く三十万出さなかつたら村で直営しなければならなかつたろう。
 中島(照) 生きた金だつた。
 高橋 三十万円は非常に為になつた。
 米山 途中で計画表をたつたことが非常によかつた。
 中島(照) 時には一人の大工に五人の監督がいた時もあつた。
 吉野(松) 一人や二人の職人の時の監督ではこれぢやいつできるかと心配した。
 高橋 高橋という男がいいことに金の催促に来る時空手できてくれたことである。手ブラで来て要求するんだから収賄的なことをしなかつた。
 吉野(松) 高橋は監督にきても自分で吸う煙草を持つていなかつた。
 司会者 役場へ来ても吸殻を拾つてゐた。
 中島 私は二回ほど旅費を出してやりました。
 吉野(松) 江部もトコトンまでやつたんだな。
 大野 人間は悪い人ではないと思う。
 中島(照) 材木の切れつ端を十日ほど自転車で家へ運んで行つた。
 米山 何とか仕上げなければならんとは考えていたらしい。現場主任は菅谷村として非常に利益があつた。建具屋は現場主任にウソを云はれて建具を運んできた。
 村長 落成式の日取りを決めてから十八日までに持つてくるという宿直室の建具がもし持つてこなかつたらと思ふと…私はあの時おがんだですね。
 米山 建具屋の分として一万幾らだかやり前があると思つたが実際持つてくる品物は四万いくらかあつたのでこの数字をはつきり云つてしまうと建具屋の方でも持つてこないので唯やり前があるとだけ云つて建具を運んでもらつた。現場主任がよく仲介の労をとつたところにその功績を認めるべきである。大工に帰りの電車賃をかりてまえ工事を完成させようとした彼の良心はかつてやるべきだと思う。 【つづく】
   『菅谷村報道』5号 1950年(昭和25)8月20日


菅谷中学校校舎建築延引の理由等について 1950年7月

2009年10月13日 | 報道・論壇

   菅谷中学校々舎落成式を前にして
           村長    高崎達蔵
           建築委員長 大野幸次郎
 菅谷中学校々舎新築については村民各位の絶大なる御協力と御支援を頂きましたにも拘らず工事が意外に延引し御心配をかけ何とも申訳ない。幸い校舎は(附属品を除き)完成し七月三日から生徒を収容して居る実情で附属建物の方も便所は完成、目下宿直室兼小使室の方を施行中で之れが完成次第落成式も実施する運びに至つたことは御同慶に堪えない。此の機会に工事の延引した理由其他二、三の点について申述べ皆様の御了解を得たいと思ふ。

(一)工事の遅延した理由
(1) 契約による工事日数に無理があつたこと、契約日数は百二十日(自昭和二十四年十月七日至二十五年二月三日)本校舎附属建物を合せると延坪二百六十二坪然も御覧の通りの施工法で従来の建物と著しく異つて居り、当然同一坪数でも労力を多く要することは承知してゐたが、そこを無理しても本春中学を卒業する生徒をたとへ一週間でも新校舎に入れてやりたい、又生徒もそれを熱望して居つたので其の点請負者にも充分了解の上で契約したのである。
 已に完成して居る隣接町村の学校建築の実情を見ても契約期間内で竣工したものは殆ど稀である点から考へても工事期間は最短日数で契約するので施工者にとつては不可能の日数ではないが事業として採算を考へると無理な日数となるものと思はれる。
(2) 工事の施行時期も悪かつたこと。
 契約は十月七日であるが諸準備のため実際工事に着手したのは十一月からで、契約期間が年間を通じ最も寒く又最も日の短かい時であつたので能率的に考へても條件のよい時期の半分位の能率と思はれ施行時期の悪かつたことも累積して工事遅延の一因をなして居ると考へられる。其の上十一月上中旬の天候不良並びに正月が中間にあつたので暮から年始にかけ約半ヶ月職人の出働が非常に少なかつた等両方面で約一ヶ月近く実働日数が減じて居るのでそれ等も工事遅延の一因をなして居るのであらう。
(3) 資金の不円滑のため
 遅延の最大原因と認められるものは資金の不円滑にあつたと思ふ。前述の日数も時期の良否関係も資金面に於て円滑自由であれば遅延日数も或程度挽回出来るが資金が円滑でないと計画も予定通り実施出来ないので他の條件が良好であつても其の効率を充分に発揮できないためいよいよ工事は遅延せざるを得ない実情となる。現在は資金さへあれば資材の入手は殆んど心配ないので其の点施工者としては有利な立場となつたが、反面金融面が日一日と詰りそのため資金難となりこれが直接に工事に至大の影響を及ぼして居る。其の他工事の施行方法並びに建築様式が著しく異つて居るために技術面に於ても困難があつたこと等も間接に遅延の因をなしたであらう。
 請負者の指名に於ても資力、経験、技術陣容設備其他について充分調査検討し特に資力は第一條件に入れ委員会としても慎重に選定した次第である。工事施工中も最も苦心したのは請負者に対する前渡金支払の点でこれが適否は工事に直接関係があり工事の促進をするには先づ前渡金を支払はなければならないし、それかと云つて過払となれば万一の場合は村民に損失を及ぼすと云つた具合で其の間工事の進行と支払との関係については少なからず苦心した。
 以上述べた様な状況で委員会としても工事の促進についてはずいぶん苦心もし亦努力もしたが結果から観て約五ヶ月も延引したことは村民の皆様に対し深く御詫び致す次第です。只委員会として竣工の遅延したことは何としても申訳がないが竣工した校舎が工事費の極めて低廉なるに拘らず建築様式では県下に類例がなく極めて理想的で内容外観共に明るい感じの所謂「モダン」な校舎であり工事施工に於ても他に決して劣つて居らないことを確信を以て皆様に御報告申上げることの出来たことを御了察願ひ工事の遅延を始め色々御迷惑をかけたことに対し御許しを乞ふ次第です。

(二)報償金について
 請負工事に対し完成した場合には施工者の労苦に対し慣例として感謝状に金一封を添へ贈呈することは各地に於て行なはれて居ることは皆様御承知の通りである。本委員会としても請負金額があまりに安いので工事完成後は例によつて報償金も出さなければならないことは折々話題となつたが正式に委員会で検討されたのは三月十三日の建築委員会であつた。当日の委員会は工事経過報告並びに工事促進に関する対策協議会であつたが其の節促進の方途として報償金の件が審議された。当時の状況として工事が遅々として進まないのは主として資金関係にあることは委員一同承知して居つたので報償金の件が出ると各委員とも異議はなかつたが金額の点で慎重に審議が行なはれた、御承知の通り昭和二十四年度は学校建築に対し国庫補助打切のため本村の中学校建築予算でも全然国庫補助金は計上してなかつたが幸ひ着工後補助金が出ることゝなり補助申請の結果五十四坪が補助対照として承認され三十万五百円の国庫補助金を得たので結局補助金の三十万円を報償金として支出することに満場一致で決議されたのである。

(三)工事進行状況七月八日現在
(1)中学校新築校舎本校舎完成
 附属工事電気工事一部未完成近日完成の予定
 附属品教卓五下駄棚二五〇人分戸棚一個未入荷
(2)附属建築 1便所完成 2渡廊下完成 3宿直兼小便室数日後完成 4渡廊下材料全部入荷目下工事中
 工事進行の状況は大体右様の次第で漸く今一息と云ふ所迄こぎつけました。

(四)落成祝賀式典の計画
 六月三十日の建築委員会で落成祝賀の式典について協議の結果七月二十日頃行ふことに一応決定を見た。但し工事の進捗状況と関係があるので日取りの確定は常任委員会で状況を判断し決定することに一任された。
(1)当日の行事。中学校新築予算中に特別に落成式についての費用として予算はないので計上予算の範囲内で経費も支出し特別に式の費用として一般村民或は村からの支出を願はないことに議決されたので従つて当日の行事も特別の催物などなく(中学校の生徒成績品展示等は別)型通りの式典を行ひ終了後簡単に祝賀式を行ふ予定である。
(2)祝賀式の計画内容

区別   人員  経費内訳       処要金額
来賓   130名 折詰70円 赤飯35円   1万4950円
         記念品代10円 計115円
一般村民 1000  するめ1枚10円     2万円
         記念品代10円計20円
生徒   530  紅白餅1人2個宛      1000円
酒   1石2斗             4万2000円
雑費                    5000円
合計                  8万2950円

 註 来賓赤飯及生徒用餅に要する糯米は建築委員一人各一升宛御寄附を願ひ充当することゝなったので記して謝意を表する次第である。

(五)結びのことば
 以上菅谷中学校新築工事経過中工事遅延の理由或は報償金支出決定のいきさつ、工事進行の内容及落成式典に関する計画内容等の概略を申述べたが要するに工事の遅延を始めそれに関係した種々の事柄についても吾々委員としての努力の足りないため理由の如何を問はず村民の皆様に御心配と御迷惑をかけたことに対し幾重にも御詫びを申上げる次第です。只結果として皆様に御心配をかけたが委員会としては御期待に沿ふべく最善の努力は致したつもりであるから其の間に於ける委員の苦衷を御了解が願へれば幸と思ふ。報償金の件についても請負金額がけたはづれに安いので、(坪当九、九二〇円)工事の進行につれ資金面で円滑を欠き兎角工事も遅延勝となるので何等かの手を打たなければ完成期日も予測出来ない実情となつたので校舎の早期完成のため支出を決定したやうな状況にあるので此の点も御了解を願ひたいと思ふ。
参考迄に入札価格を示すと次表の通りである。

入札者 入札金額   校舎其他   会議室   備考
 A  260万5981円 245万0981円 15万5000円 落札
 B  300万円   285万円   15万円五
 C  325万円   304万8380円 20万1620円
 D  339万5000円 315万円   24万5000円
 E  342万円   320万円   22万円
 F  388万2000円 362万7000円 25万5000円
 G  399万円   369万円   30万円

 祝賀式典の計画内容についてもいろいろ御意見はあることゝ思ふが何として経費面で制約があるので不本意ながら前述の程度で御了承を願ひたい。(二五・七・九記)

   『菅谷村報道』4号 1950年(昭和25)7月20日


自民党支部結成に就いての批判を読んで 高橋亥一 1959年9月

2009年10月10日 | 報道・論壇
 先々月の報道で、菅谷村自民党結成に対する、船戸君の批判を読んで、かって読売闘争に参加して、地方でもこんな頑強な闘士がゐるかなあ、と中央の同志を驚かした程の豪のものだったが、矢張年は争えないなあと思った。しかしそれは老いたと云ふ意味ではなく寧ろ円熟して農民運動に対する考え方が板についてきたと云う事である。
 土地解放後の農民運動の方針も無論変ってはきたが兎も角、保守は保守、革新は革新として始めから、はっきりと踏み切って闘争を繰返してきたのであったが。解放後の地主の中には小作人より寧ろ窮状に追込まれたものも少なくない。実際には五十歩、百歩の間隔しかないと云ってもいい。けれどもそうした地主の中には昔日の夢を追って、保守であるとか、自民党であるとか云って、革新勢力を締め出そうとしているが、それは大きな誤謬であって農民の場合は地主と言われた人達も亦小作人も現在現在の様な国家権力を掌握してゐるものは云う迄もなく共同の敵だと云う事になる。例をあげるときりがないが、最も目先きの問題として、農民の生産物は自からつけた価格でうれるものは一つとしてない。いつもパリテー方式だとか何んとか云って、政府のつけた価格で売渡さなければならない。早く言えば自分達の都合の良い相場をつけて持ってゆかれるのである。
 これは誰れでも知ってゐることで、そして不平を並べてはいるがその不平不満を行動に移してゆかないで諦め主義によって引下っている。しかも、自分の生産品を自分の力で価格をつける事のできない、おさづけ価格であまんじてゐる農民が全国民の三十七パーセントも占めているのだから甚だ心細い。三十七パーセントの農民が結集して立上ったら、それは怒濤の様な大きな力となって、何物でも圧倒する事ができるのである。農民は容易に立上らないどころか、自己の生活が窮迫してくるに従って生活水準を引下げてバランスをとってきたのが今迄の農民だったのである。
 今日迄、社会党の基盤だった総評ですら、農民に比較すれば僅かに二百四十万にしか過ぎない。
 故に農民は自己の生活の安定をかちとる為には船戸君の云った様な、僅か千数百戸の村で自民党だの社会党だのといがみ合ってゐる事は余りに幼稚な考え方であり従って資本主義陣営の望むところである。去る五日の朝のラジオ放送で本年度内のドルの取前は神武景気以上だが、しかしそれは、日本商品の品質の問題ではなく、価格が低廉だからであって、その原因は農産物を安く買上る事によって労働賃金の上昇を防ぐ為の手段であり、従って生活の窮迫した農民が都市に労力を売りにゆけば、それは過激な【過剰なカ】労力であって、しかも賃金は最低である、と云ってゐた。
 こうした原因は農民に団結力がなく、バラバラで結集しないからである事は云う迄もない。だから船戸君の云うやうに政党政派によって争ってゐる時でないと云うのである。(村議・高橋亥一)
   『菅谷村報道』103号 1959年(昭和34)9月10日

※『菅谷村報道』98号に掲載された「自民党菅谷支部結成」に対する101号「自由党支部結成に疑問」(船戸敬)への投稿である。

自由党支部結成に疑問 船戸敬 1959年7月

2009年10月09日 | 報道・論壇

   自由党支部結成に疑問
 最近自由党とか云う団体が出来たのは村民の皆様も報道において御承知でせう。我々下層階級の者には理解に苦しむ処で何のてみにそうした団体を結成しなければならないのか、人口壱万そこそこの村位は一つの家庭の延長したもので大家族位にしか考えられません。村長さんは議会においても村民の集会にも明るい村造りに精進したいと申されております。
 農村地帯で大家族の中で党派争いは禁物だと思う。そこで昔から遠くの親類、近くの他人と言う事がある。私達代表者が表は地元候補を推薦し、裏は他方を応援するようでは真に村を愛するとは言い得ない。愛村とは一つの明文で其の実一部の分子の圧力により今後村に大きな溝が出来はしまいか、それが心配です。
 自由党と言う大幟を押立て何をするのだろう。
 村内に反対分子を作れと催促するのか、今年は選挙の当り年で選挙だけに使う自由等なのか、理解に苦しむものである。有識者の諸君、何とか次回の紙上に御回答を願って疑惑に迷う者に御指導を下されたい。共産党でも社会党でも自由党でも一つの和があって始めて明るい村の基礎だと存ずる次第であるが御意見を承りたいと思う。(吉田・船戸敬)
   『菅谷村報道』101号 1959年(昭和34)7月10日

※『菅谷村報道』98号に掲載された「自民党菅谷支部結成」に対する批判の投稿である。更に103号に「自民党支部結成の就いての批判を読んで」(高橋亥一)がある。


新しい村つくりは政治の還元から 山田巌 1960年

2009年06月09日 | 報道・論壇
   論壇 新しい村つくりは政治の還元から
 地方自治体においてよく論議され言ひふらされる言葉に新しい村つくりとか新村建設といふ言葉が用いられる。この意味は非常に広範囲であり美辞であるが実行はむづかしい言葉である。
 都市計画、庁舎建設計画、道路計画、のように具体的、立体的なものと産業振興、社会福祉的なものの様に平面的なものとある。立体的計画の根本施策たるべき平面的施策を、村の政治を、どの様にして村民に結びつけ産業に関連を持たせて、村民に政治の還元を計るかについて考へることこそが、明るい村つくりの根幹となるのではなからうか……。前者のみの新しい村つくりに血道を捧げるならばスマートなビルディングに乞食が寝起きしているに等しい最低の政治形態であるからである。
 立体的施策は執行者も議員も誠によく考へ論議されることが多い。教育問題にしろ、庁舎の問題にしても然りである。当然にこれ等の問題は重要問題である。私は四年間の議員生活当初にこれが地方議会の総てかと思った位である。而し乍ら現在の中央、地方を通じ、中央集権的色彩の濃くなって来た昨今の政治体制においては、これ等の懸案を解決するには非常な困難と時間を要するものである。これ等の問題解決と同等以上に考へなければならぬのは、その地方、その村の住民構成と産業構成、これの村政への結びつけ、これをよく考へた新しい村つくりをし、政治の還元を計るところに地方自治体の責任があるのではなからうか……
 そもそも政治の還元は教育、道路、庁舎建設の様な立体的問題の解決で終るものではなく、住民の構成がどうなっているか、農業、商業、工業、勤労者の分類により、その自治体の特色を打ち出し、村の性格を定め、特色ある自治体が作りあげられるところに、地方自治体政治の住民への政治の還元がなされるからである。
 本村を例にとればその中軸は言ふまでもなく農業である。農業の経済的向上なくして商工業の発展はあり得ない。農民の購買力の培養の施策こそ、商工業をも共に発展させる基本的平面的な施策ではなからうか。……
 今や農業経営の体質改善が叫ばれているとき、米麦農業の転換的施策が打ち出されるならば、特色ある自治体建設の布石となるであらう。
 又勤労者にして見ても、村民税の四割をも納めながら、勤労同志会に五万円位の助成金では政治の還元とは申されない。勤労者は納税の点を見ても総て特別徴収であり、何んら自治体の負担なく徴収され、その徴税率は九〇%以上である。この村は農村でありながら勤労者の多いこともこの村の特色といってよいだろう。
 而し乍ら労働者の吸収的施設も考へられず、又これ等の要求も余りなされていない。
 この様な特色を具体的に要求し、これを受けてたつ政治体制がとられてこそ、「村民による村民の政治」が確立され、真の明るい村つくり、新村建設がなされて行くであらう。執行者も議員も、新しい村つくり、ガラス張りの政治を公約されて居られるので、今後の施策を見守りつつこの実現を願ふや切である。  (武蔵酪農専務 山田巌)
     『菅谷村報道』111号 1960年(昭和35)6月10日

村議に当選して 瀬山修治 1959年

2009年06月08日 | 報道・論壇
   論壇 村議に当選して
 私、今回皆様の御支援に依りまして村議に当選させていただきました。今後宜敷御指導御協力をお願ひいたします。去る四月の各種選挙を見まして実にお祭り騒ぎなのに驚きました。何とかこれを改めなければならない時期になったのではないかと、常に考へておりました。今度の村議選【10月11日投票】に各地で立候補のおくれたのも、これが一つの原因と思います。
 私、はからずも遠山、千手堂の皆様から推薦されましたので、重大な決心をいたしました。選挙の時期が水陸稲の刈取、大豆の収穫等、非常に農家にとって忙しい時期であること、遠山、千手堂には東京方面に働きに行ってゐる方が沢山ゐること等の点から、私が立候補した為に、大勢の皆様に御迷惑をかけてはならないといふ考へから、私の選挙運動の為に晝間の時間を使わないこと、夜一、二時間やっていただくことといふ条件を推薦者の皆様に申上げましたところ、御承諾下さって選挙になったわけです。
 その為に私の運動の為に作物の収穫がおくれたといふことはなく、私の家でも選挙の為に仕事がおくれたといふことはなかったわけです。実に静かな農村にふさわしい選挙でした。私はこの結果がどう出るか楽しみにして開票の結果を見守ってゐました。幸ひ皆様の御理解ある御支援によって、私の予期しなかった沢山の票数で当選させていただきました。此の次の選挙からは私の理想とする選挙が菅谷村一円に広がって立派な人材が続々立候補されて、菅谷村が理想郷となることを祈って止みません。
 よく明るい村を作るといふ事を申しますが、むだを省いて心豊かな生活をするのもその一つだと思います。今回の選挙に一方ならぬ熱意を以て私を御支援下さった遠山のでは、色々と生活改善事項を申合せてよく実行されて居りますが、その中で誰にも申合せが守れて実行すれば必ず明るい村になる一項目があります。それは病気全快祝の廃止といふことです。本当に簡単なことです。遠山では病人が出来た場合、病気見舞は出来るたけのことをして、病人を心から慰め、全快した場合は、内だけは絶対に全快祝はしないことといふ申合せをして、今日実行されてゐるそうです。これが菅谷村全域に実行されたなら実に明るい村が出来ると思います。
 どこの家庭でも病人が出来て入院でもすると大変な費用がかかる上に全快祝のことが一苦労です。冠婚葬祭の簡素化の申合せは誰でも一生に一度のことですから、親も子も出来るだけのことはさせたいし、したいといふのが人情です。方々の地区で申合せをしても中々実行されてゐない様です。病気は一生の中に幾度もかかる方もあるのですから、全快祝は全廃したいものです。これは菅谷、七郷両地区の婦人会が手をつないで実行を申合せたなら、明日からでも実行出来ることです。村外は例外とすればよいわけです。婦人会の皆様に是非お願ひしたいと思います。
 就任以来明るい村の建設を提唱されてゐる青木村長さんが、病気全快して目出度退院された由ですが、率先範を示して頂きたいと思います。然し村長さんの場合は色々な事情もあるので実行困難かもしれませんが、私が立候補を決意した時の決心があれば、必ず実行出来ると思います。
 私、議会に出まして真面目にやること、うそをいわないこと、これだけは村民の皆様にお誓ひいたします。今後皆様の御協力御支援をお願いいたします。  (村議 瀬山修治)
     『菅谷村報道』105号 1959年(昭和34)11月10日
※新生活運動については、『武谷敏子の自分史ノート』のカテゴリー「新生活運動」の各記事を参照。

再び議長となるについて 菅谷村議会議長 山下欽治 1957年

2009年06月07日 | 報道・論壇
   再び議長となるについて
                村議会議長 山下欽治
 協定による議長満期交替の選挙にあたり、議会満場一致の推選に依り再び議長となることとなりました。不徳不敏(ふとくふびん)*、よくその大任を全うし得るや否や、甚だ心もなく、思うのでありますが、議員諸君の御協力と御支援を期待致しまして敢てお受けした次第であります。村民各位の御理解ある御協力を切にお願いする次第であります。
 過去約一年間、まことに不手際なことでありましたが議長をつとめておりまして感じましたことは、議会と村当局との関係についての考へ方が、昔流の考へ方、言い換えれば旧町村制当時の考へ方が一般社会にも執行部にも、そうしてまた議会自体にも余りにも残り過ぎておる、と云うことであります。地方自治法施行されて満十年、未だに此の状態であるかと、時に感無量なることもしばしばであります。議会の運営に当って最も困ることはその為に来たす結果が時に法的に違法行為にあらざるや?という疑念の起る様な場合であります。ものの考え方の相違から起る相克と矛盾、それは単に観念の相違の問題として片ずけられない場合があります。何故なら、議会は法に依り法に基づいて存在する機関であり、従ってその運営は自ら法に依り、法に基づいての運営が基本でなければならないからであります。
 旧法に依る議会は議会自体が村長を選任し、その執行に直接積極的に関与したのでありますが、現在の地方自治法は議会・執行・監査の三権を完全に分離独立せしめております。村政の運営は村長と議会の相互の頡頏(きっこう)と牽制(けんせい)の上に切磋琢磨(せっさたくま)の理想の実現を期待しております。即ち議決は議会の責任であり、その議決を執行するのが村長の責任であり、その執行の可否を決するのが監査の機関であります。
 地方自治法に於て最も忌避してろおるもの、それは議決と執行の混同であります。議会は常に議決の自由を確保すると共に、その執行に対しては常に厳正なる批判の自由を獲得しておらねばならんのであります。
 世上常に現在の地方自治体における村長と議会の関係は一枚の紙なら表と裏の様なものであり、車とすれば両輪の如きものであると云はれております。法の精神もその通りでありますが、このたとえ話の解釈も、一般には必ずしも徹底しておるとは云ひ得られないと思います。表ある所必ず裏が存するのと同じ様に、車は一輪では動かないのと同じ様に議決と執行とは切っても切れない関係であります。事実またその通りであります。只注意願い度(た)い事は表裏一体ではありますが、表は表であり裏は裏であって、決して同じではありません。両輪は両輪でありまして一つの輪ではないのであります。二つの輪が適正な間隔を持っておればこそ車は走るのでありまして、余りに離れ過ぎたり又は近づきすぎますと、車は止ったり又は倒れてしまいます。
 法に則して、実体を如何に操作して行くか、今後に課せられた問題であると思ふのであります。
     『菅谷村報道』84号 1957年(昭和32)10月31日
*徳がなく、才能が無いこと。自分をへりくだっていう時に使う。

政治は遠い将来を見よ 関根昭二 1965年

2009年06月04日 | 報道・論壇

論壇 政治は遠い将来を見よ
     愛と道義の行政とは何か (一)

  予算の特色は何か
 四十一年度予算は三月の定例村議会で可決された。予算総額は九千八百七十万余で四〇年度当初予算額に比して約四百万の増であるが最終予算額に比すれば約六九〇万の減である。本年度は法人村民税が一千百万減となるが地方交付税二四〇〇万の増収を見込んでいる。
 予算中で一番多く比重を占めているのは総務費で二四・八%、次に多いのは教育費の一八・八%でこれは前年度より約五%減っているが、その他全体的に各款をみると前年度と殆ど大差ないことが分る。総務費は人件費や消費的経費によって占められているが、これらの問題を検討してみると、予算の中に占める人件費の割合はどのくらいになるであろうか。人件費として考えられるものは報酬、給料、職員手当(議員を含めた期末勤勉手当、扶養手当、通勤手当、時間外勤務手当など)、共済費、旅費、賃金、報償費などで、人に対して支払はれる金額である。この合計は四二〇〇万円で四二・七%となる。
 また消耗品費、食糧費、郵便料、燃料費、光熱水費、電話料、通信費など使用により消えてなくなってしまう費用の合計は二九〇万で二・九%である。但しこの中には学校関係の分は含まれていない。また負担金補助及び交付金のように他の団体などに対して支払はれる金額は、一二七〇万で一二・九%である。これらを合計すると五七九〇万となり五八・六%が村の消費的支出となるわけである。従って残りの約四千万が学校、土木、産業などの投資的経費に充てられることになる。予算の特色というか村政の重点施策というか、要するに政治の姿勢はこの点に発揮されるわけである。
 この意味で本年度予算の特色は遠山、串引の道路だけであろう。

  数次的根拠を示せ
 予算書の作成に当って疑問と思はれる点を次に述べてみたい。これは事務的なことで大幅には影響ないことである。
 第一に税収の説明が精しくない。村民税の場合、均等割、所得割の金額だけしか説明されていないが、これは均等割の一人当りの金額二〇〇円で人数何人、調停見込み額幾ら、所得割は課税所得金額幾らで平均税率何%、調停見込額幾ら、収入歩合何%、収入見込額幾らとすべきである。
 滞納繰越金も三九年度以前が幾らあって、四十年度が幾らで収入歩合何%で収入見込額が出されなければならない。
 第二に負担金と補助金が入り乱れていると思はれる点がある。例へば選挙啓発費補助金が県補助金となっているが、これは国庫委託金ではないのか、国民年金事務費は県補助金となっているが、これは国庫委託金ではないのか、国民年金事務費は県補助金となっているが、これも国庫委託金ではないのか。国民年金事務費は県補助金となっているが、これも国庫委託金ではないのか、また事業所統計、商業、工業統計などが国庫委託金となっているが、これは県委託金となるのではないか、監査委員はこれらの点の真偽を明確にすべきである。

  道路行政の確立こそ急務
 本年度予算の特色というべきものは村長の云うように遠山と串引の道路であろう。幅員五メートルの道路が遠山は延長一二八三メートル、串引は一六五〇メートルで、いづれも一千メートル以上であり、然も村の中心から遠い地点の道路である。
 こうした道路が拡幅され整備されることは政治の一進歩であろう。
 然し考えてみなければならないことは道路行政に対する基本的態度の確立ということである。思いつきのように今年はこちら、ということではなく、一貫した方針が望まれるのである。遠山も串引も本村にとっては云はば行き止まりの道である。拡幅をするにも曲折をとるにも障害となるようなものがすぐには現はれそうもない所である。従ってこういう処は用地の買収に難しい問題はないであろうし、年月が経っても著しい変化は起こらないであろう。然し今日急速に発展している菅谷の市街地を考えてみた場合、そこには一刻もゆるがせにできない問題が横たはっているのである。建物は次々に建てられて居るのに道路は一向に整備されていない。下排水も深刻な悩みとなっている。このような地域の道路をどう処理しようとしているのか。
 人間が生活する上において住む家を建てる場合、まづ問題にするのは道路と水である。水については公営水道が引かれ殆ど不便はなくなった。然し、水道を引くのに、すぐそばまで水道が来ていながら、すでにその水道管が一杯になっているため、その人は新たに本管から引いてこなければならない場合、たまたまその家が最初の一軒だとすると十万円前後かかることになる。これでは公営水道の有難味は全然ないわけである。また新しく土地を求めた地点が水道管の埋設された箇所から離れている場合も相当の費用がかかることになっている。このような条例は速やかに改めるべきではないだろうか。水道管は道路に沿って村費で埋設さるべきであり、個人の負担はこの道路から自宅に施設するまでにすべきである。人が現に住んで居ようが居まいが水道管は縦横に張りめぐらされていなければならない。政治は遠い将来を見て今日の行政を行うべきであり、そこに愛の政治も具現されるのである。  (関根昭二)
     『菅谷村報道』167号 1966年(昭和41)4月30日


議員の心構え 嵐山町議会議長 高橋行雄 1968年

2009年05月26日 | 報道・論壇
   議員の心構え
           嵐山町議会議長 高橋行雄
 嵐山町発足以来初の議会選挙が昨年十月八日行なわれた。定数二十二名中現七、元四、新十一と大幅な改選が行なわれたが年令から見ると最高六十五才最低四十才、平均四十九・九才、他町村から比較して平均線がかなり低い。新嵐山町にふさわしい活動力を有している。其後定例会が十二月八日より開会されたが、一般質問に於ては十七通五十六件に及ぶ未曽有の通告があり、其の内容も極めてきめ細かいものがあった。所要時間は一日以上、実質審議期間の半分以上を費やしたが、ここで考えられる事は、愛町愛の念に燃えた議員の意欲が感じられた。
 一般質問は住民の意志を反映させる絶好なる機会で、執行者が全町民の意志をくみ、其の要望を今後の行政の上に如何様に現わすかにあり、議員活動上、議案審議と並んで重要なる処とされている。又各議員は議員毎に支持者の超密【ママ】した支持地区を有している。其地区内に精通した議員等の意見や質問の総合が嵐山町全般の詳細なる事情【ママ】であり行政の根本となり得る。唯議員は一地区にこだわり、又一時地区との板ばさみとなって苦しむ事がなきにしもあらず、しかし一時の地元感から全体的姿勢を誤らぬ様気を付けねばならない。唯私等議員は一万町民の福利の増進と福祉の向上を目指して議員研修会を開催、議員必携自治六法等の共同購入を行ない、或いは図書室の利用により自治法規及び行財政法規の勉学につとめているが、しかしながら机上の勉強は元より他に実地の見聞が必要であろうと思われる。議員研修視察と広大視野をもつものの外、国会或いは県会の見学又は他町村議会及び一般事務の見聞等、視野を広げ思考力を養い絶えず変動する社会事情に新しいアイデアを取り入れ、常に新しい行政線に誘導する事が肝要であると思う。まして本町は首都圏域に在り、ひっ迫する社会需要都市化現象と変化しつつ在る農山村の現実を長期的に判断し、其の見通しをあやまらぬ様、百年の大計の上に着実なる歩みを進めて行く様、心掛けたい。
 又地方自治体の発展は執行部は元より、議員、職員等互いに其の職責をまっとうする事にあると思う。われわれ議員は、議会の使命と職責を十分に認識し、責任ある行動と公平なる発言を行ない、常に姿勢を正し、住民の模範たるべきである。又執行部との関係にあっては、おのおの其の職分を超えざる様注意し、車の両輪の如き調和を保ち、互に正し合い、ゆきすぎや独善のないよう抑制、均衡の実を上げる事こそ、健全行政の第一歩であると思う。又議員は常に和を失する事なきを肝にめいじておかねばならない。明るい政治、融合和解は人々の和合にあると思われる。発展的諸事象の中に住民の利解と協力なくして果せるものは一つとして有り得ない。かりに一つの道路の効用は、本町発展上欠くべからざるものであっても、敷地の協力なくして造る事は不可能であります。不可能の中には経済的不可能と感情的不可能とがあると思うが、議員としては其不可能を可能とする努力が必要である。私等は常に住民の中に透込【ママ】んで、之を啓蒙説得し、和をもって解決に導引く方途を講じなければならないと思います。
 地元負担土地の減少は各種産業の資本投下に類したものにして、其の資本投下が近隣地域の利潤を生み出す第一歩である事を説得し、一個人の犠牲を強いる事なく、地域共同の元に協力態勢の確立を行い、融和の中に実施出来得る様心掛ける事を希望します。しかるに之が推進に当る議員は先ずもって人に信頼され、信頼を受ける人格を造る事に専念しなければならない。又は議会内部に於ても信頼出来る議員は多くの賛成を得られる議員であり、調整発展の上にも大きく貢献される議員であると思われます。
 議員諸君のなお一層の奮闘を御願い致し、私の所見と致します。
     『嵐山町報道』181号 1968年(昭和43)2月20日 所見らん

村長選挙に際し村民及び村議会に望む 中村常男 1964年

2009年05月24日 | 報道・論壇

   村長選挙に際し
      村民及び村議会に望む
            地区感情を払拭せよ
 年月は波瀾の山河を越えて満四年の歳月を流れ去り、幾何(いくばく)もなく新秋九月を迎えようとしている。-過去の幾多の感慨を秘めて発展の歴史を刻む我が菅谷村の首長を決定すべき秋(とき)が-
 然し我々の最も身近な住民の福祉に決定的な関係を持つ菅谷村長の改選を前にして村民の個々がはっきりした自覚とその権利を行使する責任を感じ取っているだろうか?
 殊に新村菅谷村建設は今は亡き高崎村長の後を受けて、青木現村長の二期八ヶ年の撓(たわ)まざる着実の努力と識見に依って、地形の不利、住民感情の相異を克服し、歩一歩前進を続けて此処に第一段階を終了した。
 然し其の最終年に於て、故内田武市氏の不慮の事故は実に悼ましい限りであって、村民等しく悔恨の涙に咽(むせ)ぶと共に深く同氏の冥福を祈った次第である。正しく此の事は村長に取っても又村民の全てに取っても、一大痛恨事であったと云はざるを得ない。
 当時の村当局及村議会の示した態度取られた処置に就ては、此の事を一大教訓として、更に更に菅谷村発展への決意を覗(うかが)うに足るものとして、大多数の村民から容認せられ解決を見るに至ったのであった。
 然るに昨年十月新に村民の輿望(よぼう)を担って廿二人の村議が誕生その後現在に至る約十ヶ月我々村民の希望と期待を満(みた)すに足るその成果と選良たる自覚と態度に於て稍(やや)不満足を表明せざるを得ないのは極めて残念であると云はざるを得ない。
 世上流布せらるる処の事柄が果して事実なりとせば、清き一票を投じた我々の代表は我々の希望に反して、村政史上に一大汚点を刻みつつあると断言してはばからない。村民の一員としてその事実にあらざる事を祈ると共に村民の間に議会不信の影響を多少なりとも与えたと云う事について、現時点に於ける議員一人一人の反省と決意及議会の態度について、鮮明にする必要を痛感するものである。
 私は真に菅谷村民の個々の幸福と菅谷村の愈々第二段階を迎えて輝かしい発展を熱望する為にこそ村民各位及議会に対して次の諸点について要望したい。

一、先づ地区感情を払拭する事である。
 来るべき選挙についても多少その感なきにしもあらず、特に要望したい。尚その為には将来、新村名(新町名)の決定も大なる要因と考える。
二、来るべき村長選挙については現在迄の行掛りを一擲(いってき)して真に首長として我々の希望を担うに足る人を全村的視野に立って選出したい。此の為には特に議会に於ては全員一致の行動に於て其の方途を探求されたい。選挙のみならず全ての分野に於て議会の円満なる運営は政治の根底としなければならない。
三、出来得るならば或る隣接町村に見る処の血で血を洗うが如き選挙を避けられたい。無駄な金力と労力の浪費に依って公明選挙と村の前途を絶対に汚してはならない。
四、万一宴会と酒に直結する村政であったならば絶対に排撃したい。今こそ新らしい時点に立って清明なる村政の前進に刮目(かつもく)せられん事を望む。

 以上痛感する処の一端を述べた次第である。故内田氏の霊に応え合併以来の菅谷村の発展に心肝を砕いて来た、歴代村長及議員諸氏の功に深く謝意を表すると共に、此の重大なる秋(とき)に当り村民一致団結して、村民個々の幸福を築く為にも将来又大菅谷村の進展の為にも緊褌一番(きんこんいちばん)対処せられむ事を要望するものである。  中村常男(社会教育委員 古里)
     『菅谷村報道』154号 1964年(昭和39)8月1日


今次選挙における関根氏の批判に対する卑見 出野好 1955年

2009年04月27日 | 報道・論壇

   論壇 今次選挙に於ける関根氏の批判に対する卑見
 先月号報道に寄せられた、関根氏の今次選挙に於ける所論に対し聊(いささ)か卑見を申述べて、識者の御批判を仰ぎたいと思ふ。先づ第一段に於ける教委選挙に対する同氏の所論は私も全く共鳴共感に堪へない所である。人為的工作に依って教委選挙を無投票に終わらしめた事は如何にも非民主的であり、又農村の封建性を遺憾なく暴露したものであった。五名の立候補者が各々所定の届出を了し堂々馬を陣頭に進めてゆえい【輸贏】を決せんとする直前に於て、一部人士の策謀に依り其の圧力に依って辞退を余儀なくせしめたる事実は周知の通りである。
 之を以て村の平和を維持し得たりと誤信するに至っては其度し難き頑迷固陋(がんめいころう)悲しむべき封建性、全く呆(あき)るるの外はない。当時村議選酣(たけなわ)にして其の立会演説会に於て某候補の如きは、恰も一大殊勲を樹立したかの如き口吻(こうふん)を以て無投票に終らしめたる経緯を得々として弁じ乃公(だいこう)出でて村の平和始めて成ると云った様な素振りであったが全く以て恐れ入った次第である。戦後ボスなる新語が生れて其封建性、其横暴、其権力に依る圧迫が普(あま)ねく世のヒンシュク【顰蹙】を招き、識者の非難の的となったのであるが、今回菅谷村教委選に於ける之等一団の連中の策謀こそボスとしての代表的なものであらう。
 我々は今後かかるボスの蠢動(しゅんどう)を断固排撃し、真の正しい選挙、明るい選挙の遂行の為に全力を挙げて努力すべきである。此の意味に於いて、関根氏の所説は我選挙民に対する一大警鐘であり、頂門の一針であった。
 次ぎに第二段における地域推薦に対する所論であるが、是は純理論的に云へば正しいのであろうが、実際的に考察すれば一応之も止むを得ないのではなかろうか、農家の主婦、選挙権に達して間もない青年子女、社会的な接触に乏しい一部の人たち等々、之等の人達は同じ村内でありながら、はっきり知って居るのは村長さん位のもので、其外の他の人は顔を見知っているが名前は全然知らない又、名前は聞いた事があるが顔は知らないと云ふ様な人達が案外多いものである。
 関根氏云ふ所の候補者の人格、識見、政治的情熱を考慮して、自己の判断に基いて貴重の一票を投ぜんとするには、矢張り自分の住んで居るの信頼するに足る人物を推薦するより外ないであろう。
 私は地域推薦必しも不可なりとは思はない。実際的に見て最も妥当な方法なりと信ずるのである。県会にせよ、国会にせよ、大なり小なり選挙区を定めて行って居るのであり、今国会の如き、選挙法を改正して小選挙区制とすべく、目下立案計画中との事であるが、又故なきにあらずと思ふ。私は従来の慣行に依る推薦方式を以て一応妥当と認めるものである。(出野好)
     『菅谷村報道』65号 1955年(昭和30)12月20日

※参照:合併後初の菅谷村村会議員、教育委員選挙が行われる 1955年10月

輸贏(しゅえい):勝ちと負け。勝負
乃公(だいこう):汝の君主の意から自分をを尊大にいう自称。我が輩。

頂門の一針:適切な忠告。痛い所をつく教訓。