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埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

断金の交 小林博治 1971年

2009年03月17日 | 追悼の辞
   断金の交
                    埼玉県師友協会幹事 小林博治
 昭和四十四年(1969)四月二十四日、田幡先生の告別式の席上、弔辞のために立とうとした埼玉師友会長大沢雄一氏は、急によろめいて倒れかけ、一瞬、一座の者をハッとさせた。足がひどくしびれている様子であった。
 埼玉県知事、衆参議員の経歴をもつ大沢氏である。あらゆる会合、儀式の経験はたっぷりある筈である。それをどうした訳だったのであろうかと、不思議に思った次第である。別席で大沢氏は「私は何にも知らず、しびれにも気がつかず座っていました。」と語ったが、このように大沢氏の心は、ただ全く、田幡氏を失った悲しみに強くとらえられ、全く我を忘れておられたのである。
 大沢氏の弔辞は、田幡家に大切にしまってあり、そのテープもある筈である。この弔辞には、皆、泣かされた。私達は人間の心と心の結びつき、その厳粛さに触れて、涙を流した。このようなことは私達の人生にも希有のことである。
 大沢氏は、埼玉県師友会報に「正師善友」と題して貴い宗教的体験を語り、安岡先生を正師、田幡氏を心友として敬している。大沢、田幡両氏の間には、他から、うかがい得ない深交があったのである。
 さてそこで、この両氏の出会いの機縁は、どんないきさつであったか。それを紹介しよう。
 昭和二十三年(1948)四月、菅谷村では新制中学の建設にからんで、鎌形小学校廃止の問題が起り、これを主張する議会側と、絶対反対の鎌形区民との間に、はげしい対立が生じ、鎌形出身議員の総辞職から、分村運動へと紛争は止めどなく発展した。
 田幡氏はこの時菅谷小、中学校PTAの会長をしていた。「喧嘩はいけない、話合いで。」これが田幡氏の信念だった。そして二、三の同志と協力して、裏面から両者の説得に奔走し、事件の解決に尽瘁(じんすい)した。
 「県の意見もきいて見たいから、君も説明役に行って呉れ」と言われて、私も田幡氏について浦和に行った。私は当時役場に勤めていたし、鎌形区民だったので、問題の焦点に近接していたわけである。
 斯くて、県庁で面会したのが、外ならぬ大沢雄一氏、当時の総務部長であった。これが両氏出会いの発端である。
 その年の秋、大沢部長は、農士学校に安岡先生を訪ね、洗心林で会食、懇談された。兼ねて村の学校問題を探るためであった。田幡氏と共に私も同席して、村の実情を説明した。部長は帰路、田幡氏の案内で、水害後の鎌形地区など実地に視察されたが、これが後の調停案の重要な資料になったようである。
 村の紛争はその後、部長の斡旋案を議会側が拒否し、青年層の蹶起により村会リコール運動など紛糾を重ねたが、二十四年(1949)の七月になって解決を見た。その内容は略々(ほぼ)部長の斡旋案に沿ったものであり、田幡氏の「喧嘩はよせ。」という主張が実ったものであった。両氏の親交はこの頃から始ったのである。
 昭和三十六年(1961)、埼玉師友会が結成され、全国師友協会(会長安岡正篤氏)と連繋(れんけい)し、安岡先生の提唱する「一燈照隅行」の組織的活動がスタートした。安岡先生の教学を、処世の根本信条とする田幡氏は、この会の結成にひたむきな情熱を傾け、創立準備会には太郎丸の自宅を提供し、知人、友人の多くを会員に糾合した。これは師友会の名簿を見ればよく解る。そして大沢氏を会長に推し、自ら副会長となって、会の運営に当ったのである。
 このように初対面から十余年、両氏の交りは年を重ねて深まっていったのである。此の間の事情は生前の田幡氏の話から推察できるが、今は詳説の暇がない。私は、田幡氏を「先生」という敬称で呼んでいたが、ふだんの対話はすべて「友達語」で敬語は用いなかった。先生は私の前でよく喋った方だと思う。大ていのことは、つつまず話してくれた。先生はいつも愉しそうに話し、私はよろこんで聞き手に廻った。学校は別だが小学校は同級生に当たっていた。それでお互いに遠慮がなかったわけである。尤も大沢、田幡両氏の友情は、私にはうかがい知る事の出来ない高い次元で結ばれていたのかも知れない。
 然しそれにしても、ここで、今一つ考えておきたいことがある。それは、大沢氏が知事、代議士として、政官界の第一人者であるし、田幡氏は歯科医を業とする一介の市井人である。どうしてこの両氏がこのような結びつきをしたのであろうか。この一点である。
 易経繋辞伝に、天火同人の卦を説明して、孔子が言っている。
「君子之道。或出或処。或黙或語。二人同心。其利断金。同心之言。其臭如蘭」*と。つまり君子の生き方は、人柄と地位と境遇とにより、いろいろの違いがあり、或は世の中に現われ出でて官途に就くこともあり、或は自分の家にいて、世の中に現われ出ないこともあり、或は沈黙して何も言わないこともあり、或はいろいろなことについて意見を述べることもあり、其のやり方はまるで異っているのであるが、其の心は世の中を憂え、世の中を救いたいと思うことは同じである。二人の君子が心を同じくして事に当るときは、その精力の鋭利なことは、堅い金属をも断ち切るほどであり、心を同じくするところの二人の君子が相語るところの言葉は、その香りは蘭の花の如く奥ゆかしいものである(公田連太郎述、易経講話)と。
 この孔子の言葉は大沢、田幡両氏の関係を見事に説きつくして余すところがない。まことに両氏の交りは、君子の道の上に立ったのである。朝と野とその立場は違っていたが、志すところ、進む道は全く同一だったのである。そこにあの奥ゆかしい友情と断金の指導力が発揮されたのである。これがわが埼玉師友会の活動を推進して来たのであった。私は今、両氏の出会いの経緯を書いて、人生に於ける人と人との邂逅の不思議さに胸を打たれている次第である。
     『田幡先生追悼誌』埼玉県歯科医師会発行 1971年(昭和46)2月
田幡順一:1908年(明治41)1月11日~1969年(昭和44)4月22日。埼玉県歯科医師会長など歴任。
*「二人心同じうすればその利(と)きこと金を断つ。同心の言(ことば)はその臭(かおり)蘭の如し」

今は亡き田幡順一君を偲びて 平沢・内田講 1971年

2009年03月16日 | 追悼の辞
   今は亡き君を偲びて
                    内田講
 私が小学校三年生になった大正三年(1914)四月一日(その頃は多分四月一日が入学式)校庭にいると急にあたりがざわめいていて校庭の西南側へ皆がゾロゾロと行き何か言っている。自分も行って聞いて見ると今日は宗順(田幡家の襲名で当時の自分等は家の呼び名と思っていた)の坊っちゃんが入学するのでどんな支度で来るかと皆はそれを見るために急な登りになっている坂道を見下ろしているのだった。自分も何となくその仲間に入って見ているうちに来た来た、ランドセル(後で知った呼び方)編上げ黒革靴半ズボン長靴下紺サージの折詰襟服、白カラー、ツバ長の学帽、いわゆる慶応スタイルの稍々(やや)小柄、細面の美少年、誰かにつれられて無心に登って来る少年、これが私の見た最初の田幡順一その人だった。当時一般の服装は筒袖の地縞織りに三尺、手作りの藁ぞうり、洋服とか靴とかは夢か絵で見た位の時兎に角皆一様におどろいたものだ。しかしそれもその筈、君の父君は明治二十二年(1889)市町村制施行の折村内随一の豪農として推されて初代村長を勤め君の入学当時は東京に出て事業に打ち込んでいたのだったから。私にはあの君が坂を登る時の姿が今でも絵でも見る如くはっきりと思い出され誠に感慨無量である。
 私が高等二年従って君が尋常六年の秋、それは文字通り運動の秋、秋季大運動会にはリレーが唯一つ部落対抗の種目で人気の中心でありそれは尋常高等通じてのチーム作り故尋常高学年から高等二年までの者が毎に一団となって校庭で一応走り、更に各の神社、寺等の庭で大いに走ったのだった。その時の校庭での練習はの偵察戦でもあったわけ。その時君は私の事を「馬」等と言ってワイワイ騒いでいたったね。多分私が大股に走ったからだったろうね。太郎丸は小さな故人が揃わず君の力走も効無く一位にはなれなかったね。私の方はも大きい方だし人も揃ったので見事一位だったね。でもあの時の君の力走振りは衆人の目に残って「宗順は早いぞ」の印象はハッキリ残ってるよ。明けの三月(大正九年)(1920)私は浦和へ君は東京の中学、日歯【日本歯科医学専門学校】と夫々の道に別れたね。
 昭和になって私は八和田小学校の教師をしていた六年(1931)の一日、停車場通りでふと見た「歯科医田幡順一」の表札、私は一瞬立ち停り昔の恋人にでも会った様な気持でじーっと見詰めた記憶がありますね。その後左上奥歯のむし歯で御厄介になったのだったが、あの坂を登った時の美少年とは打って変わりガッチリしたヒゲの男に成長していたのには先づは驚き且つは嬉しく思ったものだった、その後あの歯は補修してその後全然痛んでいませんよ。
 敗戦後のあれは二十三年(1948)の秋からだったろうか。親子リレーの親として何回顔を合わせたったろう。君は少々太り気味で相当苦労したったね、話せば必ず、健康のこと、仕事と健康の関係、君はよく小学校時代の放課後校庭での走り合い、日歯当時の箱根駅伝を話題に上げ「俺は体力があればこそこの仕事ができるんだよ。歯科医はとても馬力が必要なんだよ。」と言ったものだったね。その君があの難病におかされ、夢の間の裡にこの世から消え去り逝かれた事は何とも残念でたまらない。よく人は若し信長があそこで討たれずに天寿を全うしたら日本の歴史は……というね。今此処も君が更に十年、二十年健在であったら発展途上の嵐山町にどの様に力を尽されたかを思う時、御遺族の方々の無念さは勿論、吾々多少なりとも因縁を持つ者には唯々残念の一語に尽きる。先は奥様からの御話を承り逆縁ながら粗辞を連ねてなつかしき君の追悼の一文とします。(七郷小学校同窓生、元中学校長)
     『田幡先生追悼誌』埼玉県歯科医師会発行 1971年(昭和46)2月
田幡順一:1908年(明治41)1月11日~1969年(昭和44)4月22日。埼玉県歯科医師会長など歴任。