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埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

吾が「人生の想い出」17 青年時代 入隊通知 権田本市 1989年

2010年01月25日 | 権田本市『吾が人生の想い出』(1989)

 愈々入隊期到来。昭和九年(1934)十二月半ばを過ぎても家に帰らないため、親が心配して熊谷まで様子を見に来た。薄らに記憶がある。とにかく十年(1935)一月二十日入隊。早くから家へ帰っても日が長く感じるだけ。それより大勢の仲間と好きな仕事で少しでも多く楽しむ方がとしか考えて居らなかった。しかし親から思えば何かと心配も多かったらしい。当然かもしれない。とにかく正月休み中には帰る予定はして居た。
 当時今もそうだが熊谷からは交通の便は悪く、家に帰る時は自転車を借りて往復したものだった。そんな事もあって柿沼君と二人で一案をたて、先輩の運転手にそっと頼んだ。作戦は次の通り。柿沼君は運転がかなり出来たので、彼が運転して私を送る事にした。車は新車で新フォード。しかし無免許。今と違って取締りも余り無かったと云え、かなり大胆な行動だったと思うね。お蔭で私は家まで異状なく帰る事が出来た。
 ところが後日の便りで知った話だが、帰途大沼公園と云う昔にぎわった所(現・江南町須賀広)で車を溝に落してしまい、店に総ての行動が明かになってしまった由。私も悪い事したと思ったが、損得だけの行動でない事は誰しも承知の事、悪く思わないでほしいと願ったものだった。
 さて家に帰り数日後には晴れて帝国軍人として使命された場所に入隊である。其の頃、入隊者のいる家の庭先には祝入営の大きな幟旗(のぼりばた)が立てられていた。だからこの時期に外出して、幟旗を見れば、一目で入営する人が居る事が解かったのである。入隊前には村の在郷軍人の方がわざわざ訪れて軍隊の様子を知らせてくれた事も思い出す。とにかく別世界とも思われる生活に入る訳である。
 一ツ軍人は其の事の如何にかかわらず上官の命は直ちに服従すべし。朕が?…と云われた教訓時代今も思い出す。それを今想像すればぞっとする思い出でもある。*
 心は早くも軍隊内を想像していた。前に話したが馬部隊である。自分にも馬が使えるようになれるのか一寸心配だった。

   権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 25頁~26頁

  *:この部分は、「軍人勅諭」と「軍人読法」(ぐんじんどくほう)とを混同した記述になっている。
 「一ツ軍人は其の事の如何にかかわらず上官の命は直ちに服従すべし」は、「長上ノ命ハ、其事ノ如何ヲ問ハス、直ニ之ニ服従シ抵抗干犯ノ所為アルヘカラサル事」(「読法」第三条)を、「朕が?…」は、「右の五ヶ条は軍人たらんもの暫も忽(ゆるがせ)にすへからすさて之を行はんには一の誠心(まごころ)こそ大切なれ抑此五ヶ条は我軍人の精神にして一の誠心は又五ヶ条の精神なり心誠ならされは如何なる嘉言も善行も皆うはへの装飾(かざり)にて何の用にかは立つへき心たに誠あれは何事も成るものそかし況してや此五ヶ条は天地の公道人倫の常經(じょうけい)なり行ひ易く守り易し汝等軍人能く朕か訓に遵(したが)ひて此道を守り行ひ国に報ゆるの務を尽さは日本国の蒼生挙(こぞ)りて之を悦ひなん朕一人(いちにん)の懌(よろこび)のみならんや」(「軍人勅諭」末尾)を筆者は想定していると思われる。軍人読法は1934年(昭和9)11月30日で廃止されている。
 「教訓時代」の「教訓」は、「教練」かとも思われるが不明。青年訓練所や公民学校(夜学の実業補習学校)に、熊谷時代の筆者が出席した記述はない。
 「読法」については、国立国会図書館近代デジタルライブラリに「
陸軍軍人読法誓文衍義」(1899年)があり閲覧できる。国立公文書館アジア歴史資料センターからも検索できる。


吾が「人生の想い出」16 青年時代 入隊通知 権田本市 1989年

2010年01月24日 | 権田本市『吾が人生の想い出』(1989)

 こうして入隊も近づいた十二月頃、私にロマン?…正に初恋とでも云うのか。
 説明の前に私が働いて居た店の様子から紹介しないとピンと来ないのである。この店は八百屋兼運送業で、店も大きく番頭が三人、一人は特に若く車の助手に出る。他に主人の姪で十八才とかの娘一人。それに子守りに十六才の女の子が居た。車の方は運転手常時二名、助手は私を入れて三名。一人の運転手は車庫に世帯を持って住み、他の者は店の二階に住んでいた。
 ある事件が起きた。一所に住んでいた運転手で二十五才だったか、給料は二十五円位かな。私達は七円。大分違って居た時代。一人で小遣もたくさん。遂に熊谷の遊郭通いとなり、遊女と心中してしまったのである。その人の代りに朝鮮の人が運転手に入る。たまたま店の裏に一人娘がバスガールして居た家あり。私達も仕事の合間にその家に行ったが、おばあさんと云う人が面白い人だった。何のはずみかその運転手は養子として入り込んでしまった。うまくやったのだな。一時は話の的となった。
 それでは愈々本番と行こう。店の子守りの友人でよく遊びに来て居た娘が居た。どんな風の吹き廻しか私を好きになったらしい。私自身はそんなに意識して居た訳でも無かったように思う。事の始まりと云えば、冗談がほんとに思われたのかもしれない。「満州の何部隊に入るのか」と問い詰められた。「手紙書くから教えてくれ」との事。私にして見れば女の人から手紙貰ったら軍隊ではいやな思いをしなければならない。その事ばかりが気になって教える気にもなれなかったのである。
 話は一寸戻るが昭和六年(1931)満州事変以来、直接現地入隊するようになり、彼女の兄さんも満州に入隊していたとか。そんな事もあってなんとなく懐しさの余り彼女は私に近づいたのかもしれない。やがて入隊間近の十二月末頃と思う。私は彼女に呼び出され随分泣かれた。この一件は今も薄らに覚えている。今だったら遠慮しないのにね(笑)。

   権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 24頁~25頁


吾が「人生の想い出」15 青年時代 入隊通知 権田本市 1989年

2010年01月23日 | 権田本市『吾が人生の想い出』(1989)

 役場から来る通知を待ちながら数日は過ぎた。前に話した柿沼君は乙種で現役無し。私の方は甲種で少しは鼻高だった。実は後の話だが柿沼君も会社を止めて、私の働いて居る所へ来たのである。免許欲しさである。彼は会社でも自動車の助手をして居り実地の方はかなり出来た。
 やがて役場からの通知が実家に届けられた。入隊の件である。場所は静岡県田方郡三島町野戦重砲兵第三連隊第一中隊、昭和十年(1935)一月二十日入隊すべしであった。しかし通知に対してがっかりした事があった。と云うのは此の部隊は馬部隊で自動車は一台も無いと云う事である。一旦通知が来た以上どうする事も出来ない。私は農家に生れたが、二十才迄で馬に一度もふれた事も無い。これが入隊前の苦労と心配だった。行きたいと云っても行かれる所でも無い。そう思うと断念する事も出来た。
 その頃、知人や仕事仲間からは帝国軍人になる人が一目置かれるようになった事も事実だった。だから会う人から何処の部隊に入るのかとよく聞かれた。私は冗談云うのがきらいでない方だから軽い気持ちで「満州だよ」と言葉を返していた。

   権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 23頁~24頁


吾が「人生の想い出」14 青年時代 徴兵検査 権田本市 1989年

2010年01月22日 | 権田本市『吾が人生の想い出』(1989)

 愈々本番の徴兵検査。男子として又一人前としても認められる時期でもある。検査官は軍医である。そして検査司令官。気分も自然かたくなる。先ず全裸体となり名簿一枚を持って身長、体重、耳鼻科、目、梅毒(ばいどく)、内臓、手五本指満足かなど、それは細かに調べられる。若し梅毒などある人は特に怒られ、後日再検査まで受けさせられるとか(余り後の事は解からない)。最後に司令官の前に立った。其の時相手をよく見た。先ず第一声が、「うんいい身体だ」。甲種合格の宣言を受けた。此々で甲種か、乙種か、丙種かがきまる。同じ甲種でも籤逃れ(くじのがれ)と云って兵役に服さないで済む人も出るのである。甲種合格と申し渡された瞬間、やった男子としての本懐此の上なし。大きく肩で息をしたと云うより深く息を吸い込んだ。そして検査も終了。書類等、村役場の立会人が持ち帰り、やがて入隊か籤逃れかが通知される。検査も終って一人前と認められ、しかも甲種合格。酒、タバコが公に戴ける事になった。今のように成年式もなく他から祝福を受けた覚えも無い。此の日ばかりはと安心して小川の町で騒いだ事も少しは記憶にある。騒いだと云っても芸者まで上げるお金は無い。喫茶店などで呑み歩いた程度だったと思うよ。コーヒーは一パイ十銭位、お酒は一本十五銭位と記憶する。此の頃よく歌われたのが「赤城の子守唄」だったと思う。だから随分長く歌い継がれて来た事になる。今でも歌を聞くと当時を思い出す事もある。

   権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 22頁~23頁

赤城の子守唄:作詩・佐藤惣之助 作曲・竹岡信幸 1934年(昭和9)


吾が「人生の想い出」13 少年時代 権田本市 1989年

2010年01月21日 | 権田本市『吾が人生の想い出』(1989)

 愈々十九才の春を迎えるに当り、男子としてどうしても受けねばならない徴兵検査の事である。私達奉公人はその準備として着て行く着物であるが、私は友人の柿沼君と二人で作る事にした。彼を一寸紹介すると今の滑川町出身である。島子さんと云って長野から来た人。現在の奥さんと一所になり、今も熊谷でトラック会社を経営して立派に過ごして居られる様子。御無沙汰して居るけれどね。当時会社に出入していた八木橋店で買う事にした。反物は丈物とか云って、着物と羽織の出来るもの。そこで二人の中、一枚は下を作れば、一枚は羽織と云った具合で春物と冬物を作った。長ジバンも作った。家に心配掛けないつもりで作ったのである。これで検査準備も出来る。当時の八木橋店をも思い出してみる事にする。現在の位置ほぼ同じ所で大きな呉服屋だった。その前に甘納豆を安く売る店もあって、あみだくじを引いて、買いにも行った(笑)。熊谷と云えば八木橋と云われたほどの店である。発展して、今も大きなビルになっているのが印象的だ。熊谷は思い出の地でもある。
 徴兵検査時の様子を思い出してみる事にする。お揃いで作った「セル」【セル地】の着物で先ず下検査に行くのである。彼、柿沼君とは別の日で、私達七郷村の者は小川小学校で検査を受けた。先ず驚いた点であるが、卒業時最も背の低い自分であったのに、此の頃の私は他の同級生より大きくなっていた。とにかく男子の本懐とする軍人になるのは五尺二寸五分以上(今の百六十センチ位かな)ないと甲種合格になれないのである。こうなると(軍国日本の時代)私は五尺二寸以上あり、先ず待望の甲種に希望を持つようになった。
 検査も無事終了。会社に戻ったが愈々気持ちにも変動感じるようになった。そこで軍隊に入るなら機械科部隊に入りたい。そう思ったので会社を止めて、同じ熊谷市内八百屋兼運送業店に就職した。トラック二台あり、後に一台は新型フォード車に入替えられる。当時の助手の給料は月七円。但し出かける時は毎日弁当代十五銭が貰えたと思う。牛丼が一パイ十銭位だったと記憶する。今の志村坂上に食堂があってよく立寄った。仲仙道のトラックの留り場のような所で交番もあった。最近の様子は余り知らない。此の店の運送業は主として深谷方面から、ねぎ、スイカ、瓦等東京に運んだ。当時の東京田園調布辺りも瓦を運んだが、ほとんど畑が多かった。帰りの荷は横浜まで行って鳥の餌を積んで帰る。こうした仕事のくり返しである。私が同乗した車の運転手は山梨の人だったが、奥さんは東京の蓮沼と云って今の高島平に実家があって、よく立寄ったのを覚えている。昼食を馳走になれば十五銭助かる(笑)。だが其の度、奥さんが運転台に入って、私達は後の荷台で荷物の上乗り。これが一番いやだった。気候の良い時は別だがさ。
 門前の小僧習わぬ経を読む。車も少しは動かせるようになる。しかし免許取得は決して楽でなかった。今のように○、×でなく、問題の解答は全文を文書で提出である。私の頭では入隊前、免許だけは間に合う努力は出来なかった。山田自動車講義録なるものを早くから取り寄せて居たが、実地運転は出来ても、学科が不合格だった。とにかく暗記して置かねばだめなんだから、法律、構造、今でも頭に浮ぶ所もあるね。
 免許の話が長くなったが、要は本検査時迄の職業を検査の時に知って貰い、甲種になったら希望の機械化部隊に入りたい。入れて貰いたい。勝手の思いかも解からんがそう思って、自分で下検査以来行動して来たのである。入隊出来たら運転も覚え、免許も欲しかったからである。此のようにして私自身の本検査に臨む準備は出来たのである。

   権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 20頁~22頁

参照:『中村写真館』さんの「熊谷の街並」。


吾が「人生の想い出」12 少年時代 権田本市 1989年

2010年01月20日 | 権田本市『吾が人生の想い出』(1989)

 学校卒業後ドラマのように過した二年有余、再度厳しい親元での日々が続き始めた。そんな時誰かの声で熊谷の片創製糸工場に是非との話があった。声かけた人、今は記憶にない。仕事は庭仕事で若い人を三、四人位ほしいとの事。そして話に出た人は近村で知人二人と私、他に一人居た。結局四人で入社する事になる。此の頃の私の親は年も老いて、私達の育ち盛りの時とは大分変って来ていた。さらに卒業後の東京での出来事もあって、それが影響したのか、此の時の就職の条件には余りこだわる様子はなかったと思う。月九円の日給月給と云った事は覚えている。若しお金が必要な時は直接、事務長さんに話して伝票を貰い、会計で現金を貰う仕組だった。前借が無ければ勿論全額が手に入るわけである。
 それでは工場内の様子と吾々の仕事など思い出してみる事にする。製糸工場と云えば全盛期で、蚕の繭(まゆ)をを糸にして、その多くが輸出されて居た時代だった。一日の作業で糸にしたものをそのつど荷作りする人も居て、夕刻にはトラックで熊谷駅まで運ばれた。その運ぶ手伝いが私達の夕刻の仕事であった。当時、トラックはT型フォードと新フォード車の二台。私達は此の頃運転手にあこがれたのである。運転手になれば乙種運転免許でも二十円から二十五円、甲種運転免許だと三十円以上の給料と記憶している。
 日中の作業は交代で、終日庭掃除。これが特にいやだった。少々色気も出る頃、彼女達に見られたくない。そんな時期でもあった。他は職人など入るとその手伝いなどだった。監督も居た。朝集合すると、その日の作業の指示をする。ボイラーも大きいのが二基もあり、二人のボイラーマンが居た。燃料は石炭だから忙しい。寒い冬でも汗を流しての作業である。常時来て居た近くの人、老いても仕事がベテランだった。職場も色々あり、鍛冶屋、パイプ類等蒸気にかかわる修理などあり、その手伝いもさせられた。
 そして愈々糸の原料となる繭の買入れ時期になると戦場のように忙しくなる。季節労務者も数多く見える。又乾燥機もフルに運転され、それ等の修理に私達が当る。時折チェーンの脱線、故障などあって苦労したものだった。乾燥機から出る繭の選別には女の人が近くから数十人、今で云うパートの人達である。時給に関しては知らなかった。知ろうとも思わぬ年頃でもあった。当時、会社で働く女工さんは長野県と新潟方面の人が最も多く、近くの人は少なかった。人員数に覚えはないが三百人位は寄宿舎に居たのかも知れない。正月になると一旦全員帰郷するのだが、駅から郷里に送り出す行李(こうり)の荷物が多くあり、休みが終って会社に戻る時は駅から寄宿舎に運ぶ。運送で忙しい時期であった。会社には大きい病室も完備されて居り、看護婦さんも居た。一寸きれいな人、私達と入社した友人で年上だった一人は、その看護婦さんに片思いした。彼の事一寸思い出した。仕事が大変のためか常時病人も居た。とにかく終日立ち通しの仕事で身体にかなり無理が生じた重労働であったからだとも思う。今の高校時代、昔の女の人は女工さんで働かされた。今思うに随分の違いである。映画説明の文句でもないが時世は移るである。専属の医者も居て毎日薬を取りに行く人もいたが、薬の数もかなりあったようだった。健康そうに見えた彼女達もいかに大変な重労働の毎日であったのか、今改めて知る余地もない。
 さて私達の仕事もなかなか容易でない仕事もあったが、会社と云う所は休日がある。私が初めて経験した事で、又楽しくも思えた。子供の頃から盆と正月、そして物日以外、遊べると云う事もなく過して来たからである。今思い出すにね。花見時期など熊谷の桜堤は当時有名だった。見世物小屋など多く出た。会社でも休日が続くと映画、見世物など入場券を全員にくれて、自由に見物出来た。又御馳走も出た事などとても楽しかった。そして夏になると盆休みあり、新潟娘の彼女達が佐渡おけさなど教えてくれ、踊り明かした一夜もあった事、今は昔の思い出に過ぎない。
 今一つ私の思い出がある。人員も多いだけに精米所もあり毎日米をつく人もいた。吉野さんと云って近くの村の人で、早くから入社して居た人だ。昼休みになると同期入社の若い四人で話に行く。たまたま吉野さんが米俵をいとも軽々と持ち上げるのを見てよしと云う事になり、自分達でも試してみようと思った。担(かつ)げるかどうか四人で争うようになり、結局、昼休みになると精米所通いである。最初は動かすのも大変だったが、練習を重ねる度にかつげるようになった。しかも狭い一升マスの上から「せーのう」と云って俵のはじを持ってである。十八才の十一月半ばと記憶する。力だけでなくテコの応用とでも云う事になる。やろうと思えば出来ない事はない。先ず実行が一番大切。自ずと知った良い経験が勉強になったのである。
 その冬休みに帰郷した折、たまたま米の検査日であった。農家で出来た米を俵にして並べ、検査をして等級をつけて、初めて米の売買になる仕組である。そんな時で近所の人も集って居た。私は米俵をかついでみせた。みんな驚いたと云う訳。其のはず、普通の人ではうまく担ぐのは容易でない。運送屋でもあれば別なのであるが。私は鼻も高かった。やれば出来ると云う事を知って貰いたかったのである。念のため書いておくと、米俵一俵は六十キロ、十八貫だった。

   権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 17頁~20頁


吾が「人生の想い出」11 少年時代 権田本市 1989年

2010年01月19日 | 権田本市『吾が人生の想い出』(1989)

 やがて此の年(1930)の春、四月だったと思う。野には蓬(よもぎ)が青々としていた頃、たまたま一通の郵便が配達された。これが東京の人から私が欲しいとの文面。「いやー、困ったなあ」と心を痛めたが、と云って、親の前に弁解する程の勇気もなかった。悲しさである。実は私が東京に居た時、店に箸(はし)を卸しに来た人だった。母は見込まれての手紙だからと云った。いやいやながら納得して再度行く事にした私の気持ちは、正に断腸の思いでもあった。
 愈々出発の日。当時田舎の土産と云って特別に無く、草餅を持って約束の日一人で嵐山駅から汽車に乗った。小遣いは汽車に乗る片道に二銭、足りない程だった。八時頃出発したと思う。当時は二時間もかかった池袋-嵐山間である。十時頃池袋に着いたように記憶する。暫らく待ったが迎えらしい人は見えない。どう云う事なのか。今のように電話がある訳でなし、私にこれと云って案の浮ぶ余地もなかった。嫌々(いやいや)で上京したのである。むしろ来なければいいと思う程だった。当時池袋駅東口に平和館と云う活動写真館があり、子守りしながら入場した事など今でも思い出す。そんな池袋のホームに茫然(ぼうぜん)として昼すぎまで居た。昼食抜き。持参した餅に手を付ける事なく。大事な土産物である。此の位義理の親子は厳しく育てられた。精神教育がいかに悲しい限りであったにせよ、今の子供達には話にもならない程である。
 愈々私なりに行動開始。やむを得ず家に帰る事にした。しかし来る時持たされた小遣いは、片道の汽車賃に二銭足りないお金でしかない。「よし一区間も歩けば足りる」、そう思った。精神教育は受けたが、考えはまだ幼稚であった。長い区間なんて解るすべもない。だからどの区間でもと思ったから。取りあえず上福岡まで切符を買った。そこで下車。重い土産の餅を手に下げて歩き始めた。履物はセッタ草履りと云ってたたみのようにあまれている。下に木があり金具が打ちつけてあるもので歩くと音もした。歩きにくい事此の上なし。しかし帰りたい一心。疲れるのも忘れ、ようやく新河岸駅までたどり着く。運賃表を見たがまだ二銭足りない。今度は川越まで区間も短いので再度歩く事にした。辺りはたっぷり暮れていた。川越寄りの踏切を通って少し行った時、犬に鳴かれた。私の支度は鳥打ち帽子に縞柄の着物。他から見れば一目で何処かの丁稚小僧という事が解かる。たまたま主人らしい人が出て来て声かけられた。「今時分どうしたのか」と尋ねられた。実はこれこれと話した所、十銭のお金を下さった。うれしさの余り何もかも忘れて、再度新河岸駅にもどり、嵐山駅まで無事に帰れた。
 そして家にもどる足は又重くなった。何と云われるかである。空腹も忘れて今日一日の行動をどう話そうか考える暇もなく、夜遅くなって家の戸を叩いた。第一声が母親の声である。「もとか」、「うん」、低い声で答えた。眠らずに、私の帰りを待ちわびるた母である。実は、私が汽車に乗って出発した後、郵便が配達された。小僧さんは間に合ったからと断わりの文面だったとか。帰りの運賃を持たせず私を送り出した家ではかなり心配して居た様子だった。急に空腹を思い出し、一日持ち歩いた草餅を初めて口にした。
 今考えると只のドラマ位にしか思えぬが、当時の私の心境からすれば……。今も忘れ切れずに思い出されたのである。川越の恩人の情けにお返しする事が出来ないのは非常に残念だが、その代りと云っては申し訳ないが、私から他の方への心遣い(情け)を忘れないよう心がける事こそ、幾分かのお返しになるのではないかと、後に思った。今も思い出す次第である。私の生い立ちの状況から判断しても、当時すぐにお返し出来る可くも無かったのである。

   権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 15頁~17頁


吾が「人生の想い出」10 少年時代 権田本市 1989年

2010年01月18日 | 権田本市『吾が人生の想い出』(1989)

 それでは私が店に馴れて来た頃の様子を今少し思い出してみる事にする。当時そばは、もり・かけ十銭時代。安い店では八銭。又支那そばも此の頃多く出始めた。中には日本そばを止めて目白通りに支那そばの夜店で出た人もいるほど。一パイ三十銭。これが一夜に二十、三十と出るのだから店を止めて夜店になる人も出る筈。場所の悪い私の店では少ない時は一日、三円、四円と云う商い。一寸考えられない程の違いである。そこで私の店でも支那そばを作り始めた。材料も当時は自分で作ったから知って居たが今では余り記憶にない。とにかく食べて、うまい・まずい位で終ってしまえばそれまでだが、実際に自分でそばを作ってみるといかに大変かよく解かる。自分がうまければいいのではなく、来る客に喜ばれなければならない。何時の世でも変りないが、研究心がなければ進歩はあり得ないと思う。同じ材料を使って作るそばも叔父さんと私が作ったものでは大分違う。言葉に云い現わす事の出来ない何かがあるのだ。自分なりに考えさせられた。私も意地張りの方である。とにかく作る度に聞いたり、又自分なりの工夫もしてみた。その中何時しか腕の方も少しは上達して来たように思えた。
 そんな頃、店によく来た子供つれ。三才位の男の子と四十位の女の人で細かい事は知らなかったが未亡人らしい人だった。此の頃、流行っていた歌に、「一目見た時好きになったのよ 何が何だかわからないのよ 日暮れになると涙が出るのよ……」*、その子供が可愛い声で歌ったのが印象的だった。奉公に出されてさびしく、夕暮れに泣いた思い出が胸にこみ上げ感情にもろかった。私にはその子の生い立ちに何か通ずるものがあったように思えた。
 上京した年の、十一月か十二月。一寸忘れたが其の人が池袋常盤通りに新しくそばやを開店する運びになり、私も手伝いに行かされた。実は叔父さんが援護者の関係でもあった。私も少しは仕事が出来るようになった頃、小母さんも気分的にゆとりが出来たのか、赤んぼをねかすので二階に上るとね込んでしまう。そうなると外から帰った叔父さんが上って行き一戦が交される事しばしば。小母さんも気の強い方だったように思えた。叔父さんは外出と云えば赤提灯に出かけ、留守にする事たまたまだった。又用事のある人がよく来ていたのも覚えている。こんな家の中を知るようになってからは新箱根で料理を食べさせてくれた事もうたがわしく感じ、私の心は傷つき、動揺するようになった。せっかくあこがれて来た東京である。それからは毎日の仕事に面白味も無くなって来たようだったと思う。
 半ばあきらめようかとさえ思って居た矢先、突然叔父さんが倒れ帰らぬ人となる。酒の呑み過ぎらしかった。昭和四年(1929)十二月に入ってからの出来事だった。一大事件となる。とにかく葬式は済ませられたものの、残されたのは借金だけだったようだ。店によく見えた人は結局、金を貸した人だった。早速、両方の田舎から上京、親族会議となる。とにかくこの年の年越しそばだけは商売して店をたたむ事にきまり、其の準備に取りかかった。子守りは私の従妹が田舎から来て居た。そば作りは小母さんと私で作り、出前は小母さんの弟が来て手伝った。私も出前もした。弟分は以前にも年越しには来て手伝って居り、馴れて居た点大いに助かった。年越しそばと云えば東京では当時なくてはならない縁起ものの食べものでもあったようだ。帳場の方は田舎の伯父さんがやった。こうして忙しさに追われて大晦日の一夜も終る頃は翌朝の三時すぎだったと思う。かたづけて元旦、これが最後のそばやになるとは到底考えられる可くもなく、新年からは店も開けられる事なく、全員で鴻巣のおばさん宅に一旦引上げた。私達は自分の家にもどった。学校卒業後、第一歩の社会生活がこのようにして終るとは、私なりの心に動揺は大きかった。二度と東京には行きたくないと心にきめた。しかし家には厳格の親が健在、それからの毎日は非常に長く感じられたのである。

   権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 13頁~15頁

*:『愛して頂戴』。作詩:西条八十、作曲:中山晋平、歌唱:佐藤千夜子、1929年(昭和4)発表。


吾が「人生の想い出」9 少年時代 権田本市 1989年

2010年01月17日 | 権田本市『吾が人生の想い出』(1989)

 学校生活も終り愈々社会に第一歩の時期が訪れた。当時叔父さんが東京の椎名町で日本そば店をやっていた。たまたま田舎に来た時である。私の母の弟であった関係で立寄り、私を小僧にほしいと話が始まり、早速まとまってしまったと云う訳である。条件は前に話した仕着(しきせ)の他に、月七円との事。小遣いも幾らか下さる由。当時田舎の者にして見れば此の上もない、いい条件であり、冨五郎さんも遂に承諾したと云う次第である。しかし行くのは私である。厳しい毎日を送るより離れた所で働くのもいいと思った。それだけしか考えは浮かばなかった。又東京は初めてで、心が引かれたのも事実である。早速、田舎の母の実家の伯父さんにつれられて上京となる。店には臨時に来て居た兄貴分が居り、出前から言葉遣いなど色々と指導受けた。「いらっしゃいませ」はなかなか出なかったね。又片手にそばを持って自転車に乗るなど、当時にすれば軽業師(かるわざし)にしか思えなかった。それを現実に私がやらねばならない。いやいやながらの毎日。でもどうにか出来るようにはなった。
 当時椎名町辺りは畑と田んぼが大部分であったが、日々新築される家が多くあり、上棟には必ずもりそばが使われた。人数も多く四十、五十人分。そんな時は叔父さんが肩にかついで自転車で走った。私にもあの高さに積んで出来るようになるのかなあと思った事、度々だった。それが今の出前はサランラップなるものかけ、つゆがこぼれない。しかも車で配達と来る。時代は正に移るである。
 此の頃、田舎のいとこが麻布連隊に行って居り、しかもあこがれの上等兵で店によく来たのも思い出す。要するに小遣いがほしかった事にある。後で解った思い出の一つである。私は学校卒業当時同級生より小さくとても軍人にはなれないと思っていた。そんな頃、店で働く可愛い小僧さん位に思われていた。だから誰云うともなく近隣の人達から「小僧さん、小僧さん」でとても人気があった。そんな頃、私にも小さな「ロマン」が感じられた。と云うのは近くに風呂屋があり毎日行くのだが、風呂屋の下足番をして居た小娘が私の履物を必ずかくしてしまい、何かと時間を取らされた。初めは馬鹿にしていると思ったが、長い月日の中、くやしくも無くなった。風呂屋の前に店があり欲しかった引出しのついた箱わけて貰った。今は宝のようなその箱が今でも家にある。思い出も深しである。
 こうして何事にも馴れて一年が過ぎる頃、叔父さんは私を連れてお酉様などを案内してくれた。帰りに大塚に初めて出来た「新箱根」と云う大きな料理屋にも案内し、生まれて初めての料理も食べさせてくれる。東京ってすごい所だなあと思うだけだった。そして叔父さんてお金もあるんだなあ、こんな立派な所に来られるのだからと子供心に思った。此の店の話になるが実は私の店の近くで何時も親しくして居た家があった。その家の女主人が「新箱根」で働いていたのである。だから叔父さんは度々立寄ったらしい。私も良く知って居た家でもある。此の一家は特にいい人達だった事、今も記憶にある。

   権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 11頁~13頁


吾が「人生の想い出」8 少年時代 権田本市 1989年

2010年01月16日 | 権田本市『吾が人生の想い出』(1989)

 軍国の日本はすでに此の時期から軍事訓練をさせた。指導員は在郷軍人と云って現役から退いた予備のパリパリ上等兵と大尉位の教官【吉野巌大尉】が居た。兄貴達は何時までも家に置かないで期限付きの奉公に出された。菅谷村内であったので夕刻からの補修には出られたように思う。私は兄達より三年遅れて昭和三年(1928)三月二十八日卒業である。
 此の期を前に愈々修学旅行の件である。事前に私なりに考えた。どうしても行きたい。しかし家庭事情からすれば到底行かしてくれるはずがない。兄達も行っていない。そこでどうしたら行かれるか考えた。旅費は嵐山~江の島、一泊二日で一円五十銭だったと記憶する。先ず資金作り。子供心にうさぎを飼育して売る事にした。母親には話して置いたと思う。しかしそんなに甘いものでは無かった。卒業近くになるも一円はおろかやっと五十銭そこそこ。どうして間に合う訳がない。次の思い付きは着物の代りに旅費をねだること。と云うのは今と違って着物は年二回、盆と正月に買って貰っていた。要する仕着(しきせ)と云って主人が奉公人に季節に応じた衣類を与えることと同じ事で、私達も奉公人のように着物、それから足袋、下駄などを買い与えられていた。あてがいぶち(宛行扶持)で、今の世のように、子供の欲しいものを親が買い与えていたのではない。世が世だからと云ってしまえばそれまでだが、腹のへった時のまずい物なしとは、育ち盛りに云われたことわざ、教訓である。冨五郎さんの訓示の中にもよく出た言葉で、今でも忘れる事は出来ない。今、孫達に云った所で一笑にふされてしまうだろう(笑)。
 さて話は大分脇にそれたが、愈々修学旅行費を作る件。勇気を持って云った。着物を作って(買って)くれなくもいいから、その代りとして修学旅行に行かして下さらないでしょうか。言葉を使うにもお伺いのように話さないとその場ですぐやられる。たとえば、「誰が金を出すのだ。」などなどとね(笑)。持ちかけた自分としては最後の願いでもあった。とうとうあの厳格な親も私の願いを受け入れてくれた。此の時の私の気分は。想像して貰いたい。そしてようやく修学旅行の当日が訪れた。「作ってくれなくも」と云った着物も縞柄のものではあるが作ってくれた。兄妹四人中只一人、私は旅行に行かれたのである。若い時の親と違って気持ちの方にも優しさが出たのか、入学前の一年子守り奉公の事も考慮してくれたのかとも思えた。それと私は負けずきらいもあったがやる事もやったつもり。こうした点は決してマイナスではなかったように思う。そして楽しい思い出の修学旅行。写真は残せなかったが無事終了卒業となる。
 話は一寸もどるが先に着物の話が出たので一言。昔の女の人は学校は六年で卒業させられ、なかなか高等二年(今の中学二年である)まで行く人は少なかった。義務教育が六年だった事もあってだと思う。でも私達の頃は高等二年に行く女生徒も増えて来た。時代もそろそろ変りつつあったのかもしれない。尚、卒業した女の人も補習学校に通い、その中で裁縫など学んだ。しかし貧しい家庭に育つと補習はおろか小学六年卒業で子守り奉公に出されてしまい、雇われた主人宅がいい人でもあれば教えてくれた程度。でも女として覚えなければならなかった事を与えられた使命かのようにして、その人ひとなりに着物を作る事を身につけて来た。裁縫は明治、大正の女の人達が立派に受け継いだ技術ではないかと私なりに思った次第である。私の愛妻もその一人。今ではやらないが、終戦直後暫らくは着物作ったり、編物のつくろいなどすべてを受持ってくれた。「使い捨て」が流行の昨今だが尊い昔の技術も受け継いでほしいと思う。

   権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 9頁~11頁


吾が「人生の想い出」7 少年時代 権田本市 1989年

2010年01月15日 | 権田本市『吾が人生の想い出』(1989)

 再度、学校時代にもどって話を続ける事にする。家庭での厳格教育は読み、書き、そろばんだけでない。精神訓話もある。始まると長い。特に一パイ入った時など大いに困った。又仕事では自分で絹織りもしたほどの人、なんでもやらせる。前に縄ないの話も出たが、他にぞうり、わらじ、みの、俵あみ等なんでも出来ないと人間は役に立たないとの話である。私は勝ち気。要するに意地張りの所があり。だからお前は寅年生れ【大正3年(1914)は五黄(ごおう)の寅年。九星(きゅうせい)の五黄土星と干支(えと)の寅年が重なった年。】とで強情だとよく云われた。しかしやる事も人に敗けたくない。だから仕事の上でも実行したつもりである。例をあげれば俵あみの時普通では一日幾らも出来るものでない。しかし私は高等科一、二年生(現在の中学校一、二年生)の頃、人の数倍も俵をあんで鼻を高くし気分を良くした事、今も記憶にある。
 又夏は朝食前に草刈り、冬は山の落ち葉掃き等、力仕事も随分とさせられ、これ等の仕事は堆肥(たいひ)を作る準備作業と燃料の薪(まき)用などの仕事である。
 次に養蚕の話が前に出たが、此々で飼育時の様子を述べてみる事にする。私達の手伝いは蚕が大きくなってからだが、掃立て数日後には、蚕は大きくなり愈々忙しくなる。桑の摘み取りから、その桑を蚕に与える仕事。夜も必ず一回は起きて蚕に桑くれ。欲のない子供には誠にねむい作業で非常に苦痛を感じたものだったが、此の頃の陽気も良く、蚕を台に広げる関係で家の中は開け放しにされている。だからホタルは家の内まで飛んで来るようになる。そして私達の苦痛を忘れさせてもくれた。今思うと自然環境の美、只々懐しくも思い出されるのである。
 さて学校には夏休みもあるが。何処かへ出かけるなんて今と違ってとんでもない話。田の草取りなど重労働の毎日。だからお盆休みの楽しかった事、忘れられない思い出も記憶の一つである。
 忙しい夏が終ると次は秋の収穫期に入る。此の辺りは二毛作と云って稲を刈り取った後の田へ、麦を蒔く仕事があり、一時も息を抜く暇もないのである。
 冬の夜は長い。前に述べたが夜なべ仕事が始まる。此の頃の作業は今と違って原始的だったから如何に大変だったか。一例を述べれば、稲を刈るのも鎌、籾摺(もみす)りは「カラウス」と云って樫(かし)の木を薄くした板を歯とし、粘土で固めたものでする。カラウス職人が居て作ったもの。そして上から吊したサオ竹を廻転させ籾を米にするのだが実に重く数人の人でないと廻せない。今思うと昔の人はどうして進歩がなかったのだろうか。疑いたくも感じられる。機械が出来て居たならなあ? 私達子供時代は随分変った生い立ちではなかったろうか? こうした作業のくり返しで幾年かが過ぎ、愈々「高等小学校」二学年の卒業期が訪れたのである。兄貴達は卒業後、実業補修学校(青年学校)などへ、昼間の仕事済ませた夕刻、今の十八時頃から二時間位だったと思うが通ったのを覚えている。

   権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 8頁~9頁


吾が「人生の想い出」6 少年時代 関東大震災 権田本市 1989年

2010年01月14日 | 権田本市『吾が人生の想い出』(1989)

 話は前後するが大正十二年(1923)九月一日、関東大震災時の様子を述べてみる事にする。前文で話したが私の家は二棟になって居り、母屋(おもや)の方には蚕が台に広げられて居り、別棟(以前絹織りした所)にいた。暑い日だったので戸、障子は全部はずされていた。昼食時でおかずは粕漬けのナス。おじいさん自慢の漬け物で特に美味しかった。折りも折り突然ゆれだしたので外に出ようと思ったが歩けない。やむを得ずひきいにしゃがんでしまった。ながーいゆれである。早く納まってくれないかと思いながら辺りを見た。家の前にある青田は波を打って居り、電線はなわ飛びで廻すなわのように、家の中に吊るされた絹糸のわくはぶらんこのように、屋根は瓦(かわら)で重く、ぐらりぐらり、今にも倒れんばかり。飛び出ようかどうしようかと子供心ながら考えた。とにかく家の倒れようによって行動しよう。今でも忘れない恐いながらの教訓であった。
 夜になって誰云うとなく何処か火事だ。私の家から見て東南に当る東松山、川越方面であった。真赤と云うより異様な雲のようにも見えた。そして翌朝初めて東京が火事だと知った。こうなると又大さわぎが起きた。近所から東京に行って居る家族の安否である。交通機関は熊谷まで行かないと汽車がない。大人がむすびとか色々の食糧を持って出かけた話を聞かされた事、今も記憶にある。
 これ等の火災は地震に依るものだが、こんな時誰云うとなく朝鮮人が火をつけたとか、井戸に毒物を入れるとか、地震後二、三日して此の辺りは又大さわぎとなる。なぜならば当時東上線敷設(ふせつ)工事で、嵐山町附近はその真最中。たまたまこれらの人夫として多くの朝鮮の人が働いていた。宿泊所は今の中島旅館の土蔵の中だったとか子供心に聞かされたのを覚えている。この騒ぎで朝鮮の人はみんな何処かへ連れ去られたとの事?…【在郷軍人分会・消防組により松山警察署に保護された】。こうした中で職人支度して歩こうものなら朝鮮人と間違えられ、中には袋たたきにされた人も居た。
 とにかく消防団、在郷軍人は制服姿で刀、竹槍など持って警戒に当たり正に戦々恐々としていた。子供心に恐いとも思ったが、又制服姿が勇ましくも見えた。軍国主義絶頂時、日本男子として心を引かれたのかも。いや奪われたのでもある。
 その後フィルム(「活動写真」と云った)で、東京の災害の様子も知った。今のように鮮明に写し出された訳で無いが、東京は焼けのが原と化し、多くの犠牲者が出たり、親兄弟別れ別れなど、こうした悲劇を目の当り知らされたのである。嵐山町でも古い土蔵が倒れたり道路にひび割れした所もあったと聞く。

   権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 7頁~8頁


吾が「人生の想い出」5 少年時代 家庭教育 権田本市 1989年

2010年01月13日 | 権田本市『吾が人生の想い出』(1989)

 今までは作業の様子を話したが、これからは家庭教育の内容の一端を述べる事にする。
 おじいさんと云う人は昔の人で、学校に行った話は聞かない。だが十露盤(そろばん)、珠算に関しては抜群と云うが、九九算、要するに二一天作の五(にいちてんさくのご)は今の塾の先生級であった。その人の教えが夕食後、夜なべ作業開始前数十分、兄二人を前に始まる。私は一年生の時、二の段を半分までやらせられた。兄達は二~三の段、順次教わる訳だが少々頭の良くなかった長男は十露盤(そろばん)でなぐられた。その早い事。余り感心することでもないが、そこへ行くと私は少々要領が良かった。早くから他人のめしを喰ったお蔭か、それとも恵まれて居たのかも知れない。人は十人十色と云う事も、一を知って十を悟(さと)ることも、子供心ながら機転をきかせないと怒られるんだと常に心がけて居たように思う。知らずしてことわざ通りになったのかも知れない。
 その冬、寒げいことして私は二十一日間、家族の者より先に起床、飯炊きをした。それから湯も沸かし、お茶の支度。又おじいさん、おばあさんの洗面にも湯を入れて出した。私は「勝ち気」と人からも云われた。しかし人の喜びは自分のためにもなる。子供心ながらそう思った。後にこうした気持ちが役に立った時があった。
 しかし子供である。時折失敗した事も起きた。兄弟三人で他人の畑に入りいたずらし、持ち主から苦情云われものすごく怒られた。その時の制裁は次の如くである。
 両足をゆわかれ梁(はり)から逆に吊るされるのである。その頃本家に年老いたおばあさんが居たので、母が頼みに行き、謝って貰い、梁から降して貰った事など。また他でも怒られて家を出て行けと云われ、夜兄弟三人で少し離れた畑にあったサツマイモの床に入って夜を明かそうとした。その時母は心配して、提灯(ちょうちん)を持って探しに来た。今も思い出すが母が良く見当つけたものと。このようにして数年、私が四年生になった時、学校で同級生に怪我をさせてしまった事件があった。説明すると余り長くなるので一時ペンを置く。でも私一人が悪い訳ではない。原因はあった。そのため八十日近く学校を休まされた事を記憶している。要するに厳格なおじいさんである。謹慎(きんしん)の刑であったのかもしれない。当時とすればね。今世紀なら義務教育がやかましく云われてこんなに休まされる事も無かったと思う。
 そして何時も口にする言葉に人間は読み書き十露盤(そろばん)が出来れば良い。他の事は必要なしと云い切っていた。此のような方針に対して子供ながら「ウソ」を云わなければならなかった。学校の授業で図工のある時は綴りかたの紙買うからと云って金を貰う。こうした時の言葉使いも話しようが悪いと、とたんに怒られる。たとえば昔の言葉で綴りかたの紙買いたいのだが買ってもいいでしょうかお伺いをたてる訳。そして許可が下り、初めて金が渡された。こうした数年の学校生活は誠に長く感じた。

   権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 5頁~7頁


吾が「人生の想い出」4 少年時代  手伝い 権田本市 1989年

2010年01月12日 | 権田本市『吾が人生の想い出』(1989)

 それでは入学時にもどって。
 一年の奉公も終って花の四月。気候も良く気分も大きく成長したようなつもりで登校が始まる。道路は砂利路。しかも曲りくねった狭い所を毎日3キロ以上も往復した。でも当時は余り苦にならなかったように思う。上級生に兄二人が居った事もある。
 四月、五月、農繁期。そろそろ忙しくなる頃となる。少しの田畑といえ、機械がある訳でも無く、総てが人の力と牛馬など利用した程度。しかし私が小さい頃は家には牛馬も居らず全部人の力で耕したのである。ただ田植時の田かき(馬や牛を使って土を細かく砕き、苗の植え易いようにする)仕事は他人を頼んだ。従って出費は大きかった事になる。私が一年生の頃から兄二人は多忙時、猫の手も借りたい時ともなれば、学校から暇(ひま)を貰って来るよう、半ば命令的のようでもあったように思う(後に自分にもその時期が訪れる)。こうした事も実の親なら違っていたのかもしれない。とにかく勉強の方は二の次位しか考えて貰えなかったのである。私も学校から帰れば何やら手伝いさせられたものである。物日(ものび)以外は絶対に遊びに出されないので、奉公人と同じようである。今の子供達の日々はどうだろう。到底考えられもしない事である。
 畑の方はほとんど桑畑で、桑は蚕の飼料である。蚕の出る時期、五月頃からは益々多忙になる。私が小学校に入学した頃から絹織りの方は余りやらなくなり、田畑に力を入れたように思う。しかし農閑期には機織りもした。当時、養蚕が盛んになり、製糸工場も多くあって、繭(まゆ)の売れ行きが良く、農家にとっては最高の収入源でもあった。
 いよいよ、七月、八月ともなれば、今と違って田圃一面は青々として来る。暑い日の田の草取り、年に数回飼育する養蚕、桑畑の草取り等、実際に経験した者でないと解からない事でもある。その頃は田畑に除草剤など使わないため、雷雨で大雨の時など、ウケ(タニシなど入れた篭)を水の流れに置くと、短時間でたくさんのどじょうが捕れた。正に栄養満点のどじょう汁が出来たと云う訳である。
 夏から秋、養蚕の方は一段落するが、米の収穫時期が訪れる。そして米を入れる俵作りと縄(なわ)ない作業。米の売買時に俵装の検査があり、規格に反すると売買が出来ないのである。この作業は時期的に寒い夜の頃となる。
 軍国教科書時代の文部省唱歌の一節
   囲炉裏(いろり)の端に縄なう父は
   過ぎしいくさの手柄を語る
 寒い冬の夜の作業の様子が今も思い出される。しかし実際に自分で縄をなって見ても、なかなか多く出来るものでない。十メートル、二十メートル。これも検査が通るよう努力のいる作業である。

   権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 3頁~5頁


吾が「人生の想い出」3 子守り奉公に出される 権田本市 1989年

2010年01月11日 | 権田本市『吾が人生の想い出』(1989)

  大正九年(1920)三月だったと思う。私は子守り奉公に出される事になった。入学一年前の事、今の滑川町に出された。後で知ったのだが人間は他人の飯を喰わないと立派な人にはなれない。要するに冨五郎さんの教育はこれが正に鉄則的な方針であったのかも知れない。子守りに出される時の条件等、あの時の言葉は今も忘れていない。小学校に入る時、カバン、靴、そして自転車まで買ってくれる約束だった。おばあさんに連れられて他人の家に行った。早速赤んぼを背に乗せられる。その時は「重たい、重たい」と云った。子守りを止めさせてくれるかと思った幼な心の、要するに「デモンストレーション」でもあったが、雇い入れる方では「じきに馴れますから」と云って相手にしてくれなかった。
 一方私を見送った母親はどの位心配して涙を流した事だったか。今は遠い昔のドラマに終っている。しかしNHKドラマ「おしん」を見て再度自分でも涙をいや出してしまった。
 やがて一年は彼のフィルムに映じられるがままの如く過ぎて、私にも春が訪れたのである。七郷尋常高等小学校一年入学。約束のカバンと靴。自転車は買って貰えなかった。でも登校の気分は奉公に出た時とは想像に余りあるものがあった。
 話は前後するが奉公中の一端を思い出し紹介してみる事にしよう。私の仕事は勿論子守りだが、たまたま中学校に通っている兄貴分が居た。日中は子守り。夕刻その兄貴分が帰ると赤んぼは彼に見させ、私は風呂焚き。薪で焚くので暫くすると炭火が出来る。そこで焼きいもなど始める。しかし幼い自分には焼け具合が解からなかったのか、生焼けを食べて遂に胃痙攣(いけいれん)の病になってしまった。一時我が家にもどされた。当時鍼(はり)の治療が良いと云うので松山まで通った。交通機関は自動車。菅谷の中島旅館前~松山に初めて乗る自動車である。治療は辛かったが車に乗るのは楽しみであった。病のお蔭で大正時代、車に乗る事が出来たと云う訳である。幾日位か記憶にないが良くなって再度子守りにもどった。でも、あばれ盛りの私も、幼な心に、時折トイレの中や夜の蒲団の中で涙のこぼれた事も幾度か。夢中に過した一年でもあった。

   権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 2頁~3頁