GO! GO! 嵐山 2

埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

昭和二十四年の日記から 根岸・小沢スミ

2010年01月06日 | 自分史

昭和二十四年実行
一、常に明るく明朗であるべき事
二、質素にして廉潔なるべき事
三、温和にして容儀をととのうべき事
四、言葉使いは丁寧に何時もやさしくある事

一月八日 晴
 洋裁学校のお友達、青梅の田中さんが遊びにきた。背広の理論や色々な事を教えてくれた。二晩とまって帰った。
 こんな淋しい田舎で一生を暮すの何て言はれてしまった。

二月十六日 晴
 母のモンペが出来たので家に届けに行った。丁度玉川会館で母という映画があったので母と隣の人達と見に行った。何時になっても母っていゝものです。
 一晩とまって次の朝帰った。

二月二十日 晴
 今日は観音様。朝から掃除で忙しかった。ウドンをぶって居ると春代と巡子と和田の母が歩いてきた。巡子が恥しがりやなので中に入ってきなかった。ようやく家に入れた。お昼食を食べさせた。お芝居も見ないで帰ってしまった。
 後をついて行きたかったけどお客様で忙しく行く事が出来ないで残念だった。

四月二十三日 小雨
 雨降りて何故かゆうつになりし我
  出でし夫をしばし恨めり

四月二十五日 晴
 人の為出でし夫を我は又
     淋しく帰りを待ちわびる

四月二十六日 晴
 何となく夫の留守の淋しさに
     涙こぼるる今日の我かな

四月二十七日 小雨
 我が心知ってか知らぬか春風よ
     そ知らぬふりで今日も出で行く

四月二十八日 晴
 今日も又早十一時過ぐものを
     夫の帰りを待ちわびて眠る

四月二十九日 晴
 草や木も芽ばえてうれし春の宵
     まけないと自分の心と朝に勝つ

四月三十日 晴
 映画みに夫とつれ立つ春の宵

五月一日 晴
 北風の寒さいとはず茶畑の
     手入にはげむ夫ぞうれしき

五月二日 晴
 ウラウラと照れる春日に今日も又
     心悲しき一人思えば

 牛洗う夫の顔もどろだらけ

五月三日
 雨雲り風さわやかに吹ききたる
     寒さゆるみてミシン踏む我

五月四日
 今日も又夫の心こめ
     つくろう我の幸はいかなり

五月五日
 床の間にお花をいける我が胸に
     ふと夫の唄流れくる朝

五月八日
 幾日か帰りそこねて我が夫の
     静かに待てる眼差にあう

五月九日
 春の日や病みし母上縁(えん)に出て
     服ぬう我れをじっと見つめる

五月十日
 はだ着にて春のかをりをまんきつし
     白雲うかぶぽかぽかようき

五月十一日
 病む姉のリンゴ買い行く病室に
     我が健康をしばしよろこぶ

五月十五日
 病院の姉の看護も早五日
     退院の日をしばし祈らん

五月二十五日
 久方に夫と二人でくはかたげ
     耕す土も夕陽に終(お)えて

五月二十六日
 かろやかにいで行く夫を見送りて
     我母上とお茶をつむなり

五月二十七日
 行く春になごりをおしむ木のみどり

五月二十八日
 種まきを終りてほっとながむれば
     太陽大きく今しづみゆく

五月二十九日
 静かなる心を持ちし我が夫と
     畑に行くのもたのしかりけり

五月三十日
 昼を持ちて被害調査に行く夫を
     我は淋しく見送りにけり

五月三十一日
 今日も又被害調査に行く夫を
     送りてなぜか涙流るる

六月一日
 何時の間に早六月になりにけり
     農繁期をば一人思えり

六月二日
 汗流し鍬ふる我をいたわりの
     言葉になほも我ははげみぬ

六月三日 晴
 畑仕事今日も暑さに疲れはて
     夫の後をば重足運ぶ

六月四日 晴
 麦刈をやうやく終えて何時しかに
     夕日しずかに流れ行くなり

六月五日 雲
 よき夢にさめたる朝は何時よりも
     やゝお白粉も濃くなじみけり

六月六日 小雨
 俵あみ時計見つつあむ夫

六月七日 雨
 雨降りて今日も俵をあむ夫

六月八日 雨
 雨降りて子が集りし観世音

六月九日 雨
 降り続く雨もいとはず畑仕事
     出で行く夫を見つつ悲しき

六月十日 雨雲
 久方に我が古里の父母の家
     帰りて見ればあまえて見たき

六月十八日 晴
 雨あがりさあ働かん土の香(カオリ)と

六月十九日 晴
 すこやかに働く身には憂あり
     朝な夕なに喜びのわく

六月二十日 雨
 やむべくも見えず降り行く外の雨
     なぜか悲しく泣きたくもなる

六月二十三日 雨
 灯を消せば静かにきこゆる雨の音
     夫と二人の枕辺に

六月二十四日
 今日も又夫と農事にはげまんと
     モンペのひもを固く結びぬ

六月二十五日
 雨やみて雨戸をゆする風強し
     じっと見つめる夫の寝顔を

六月二十七日
 一日の疲れもしばし忘れつゝ
     明るき夫の言ばうれしい

六月二十八日
 夫と二人で黙しつゝ帰る道に
     夕風涼しく日は落ちにけり

七月一日
 今日も又一日過ぎぬ日めくりに
     母となる日を我はかぞえる

七月二日
 川上で苗をゆすぎし田植時の
     流れは早くにごりけるかな

七月三日
 疲れたる身を休めつゝ思はるる
     今日治療せし夫のオデキを

七月九日
 我が夫の明るき日々をしみじみと
     心うれしく仕事にはげむ

七月十日
 よみあきて顔を上げれば観音堂
     かねの音ひゞく淋しくきこゆ

七月十三日
 つつがなく今日も終りぬ有難き
     夕日おがみて感謝捧げる

七月二十日
 すこやかな身を喜びて今日も又
     心明るく畑に出で行く

八月六日
 苦しみも悲しみもみなたへゆかん
     今日此の頃の我の生活

野菊によせて
 美しき花にあらねど
 つつましくやさしく
 田の畦道に咲きにほう
 うすむらさきの野菊よ
 この花を何ともすきだった
 南京時代の友達よ
 はげしきいくさに傷つきし
 勇士の看護を共にした
 南京時代が今日も又なつかしく
 思い出されて悲しくもなる
 きよらかな赤十字旗の下に
 むすんだ縁の思い出は
 何時までも続く果しなく
 又美しく
 野菊をながめてやさしき
 友の姿浮びぬ


昭和二十三年の日記から 根岸・小沢スミ

2010年01月05日 | 自分史

 スミさんはこの年3月、小沢長助さんと結婚。玉川村和田(わだ)から菅谷村根岸(現・嵐山町)に嫁いで来た。3月3日の式当日、婚家が「どの辺なのかなと心配しながら歩いた」というような、当時では珍しいことではない状況の中での新婚生活が記されている。
 根岸の子育て観音で知られる観音堂が4月14日の火災で焼失したことも日記よりわかる。

昭和二十三年
二月十三日 木曜日 昭島(あきしま)にて
 とりの鳴く声に目を覚ました。時計を見ると六時。支度をしたがまだ早いので、お部屋の掃除して出かけた。
 立川へつくとお友達と一つ所になった。私今日は弟のズボンの型紙をしいた。
店に帰ってみるとまだ姉はきて居ない。大急ぎで店を開けてお掃除をした。
 姉がきたのでお花のおけいこに行った。今日はつばきの生花竹筒に生けた。残りを小さな花瓶に生けた。店にかざってお店番。昼間は相変わらず日間でした。一人ぼっちのお店番、なぜか遠い昔を忍ばせるどこからか流れくるレコードの音に淋しい気持でいっぱいでした。ようやく姉がきて二人でお店をやりました。
 お店と言ってもやたいの小さな居酒屋でした。戦後でしたから何かと大変でした。十時頃店をかたづけて昭島の家へ帰りました。
 立川には若い娘パンパン女をつれたアメリカ兵がたくさん居ました。

三月一日 晴
 住みなれた昭島を最後に朝一番の汽車で家に帰った。
 帰って見ると母が忙しく働いていた。明後日は結婚式だと言うのになぜもっと早く帰ってきなかったと叱られてしまった。何もお家のお手伝いをしないで自分勝手に暮してきた私。色々支度を整へてくれる父母に有難く感謝した。
 午後北風が吹いて寒いのにミシンがほしいと言ったので父と二人小川へ行った。岡崎のミシンも余り上等なのはなく、丁度長島先生に逢い、川越によいミシン屋さんがあるからとの事。明日川越に行く事にして家に帰った。

三月二日 晴
 今日は風が吹いて寒い日でした。朝一番で弟にミシンを買いに行って戴いた。父は隣組を廻った。母は使をしたり勝手仕事で忙しさう。私は午後髪結に行った。なつかしい土手を通って学校時代の思いでを胸に秘め嫁ぐ日の限りない空想に更っていた。
 家に帰ると一年生の巡子が間もなく学校から帰ってきた。しまだを結った私をみると、こっけいな顔で何を思ったかふふんふふんと何とも言えぬ可愛い顔で笑っていた。母も私も思はずふき出して笑ってしまった。
 無邪気な可愛い巡子ともお別れと思うと今迄叱るのではなかったと思った。
 今日も忙しく暮れた。

三月三日 晴
 とうとう嫁ぐ日がきました。朝から隣組の人達が手伝いにきてくれた。十一時頃髪結さんがきたので支度をしていると兄と姉がきた。色々と過去を帰りみると泣きたい気持でいっぱいでした。姉と髪結さんにつれられて春日様へお参りに行った。帰ってみるとみんなお祝いをしてくれていた。私も席についた。組の人達に挨拶をしてその後妹達と一所に夕食を食べて父母に別れを告げて我家を後にした。弟達が荷車にのせた荷物をひいてくれた。どの辺なのかなと心配しながら歩いた。
 ようやく小澤家についた。席にやっとすわった。なぜか悲しくなってにげ出してしまおうかと思った。父母の事を考えるとにげ出すわけにも行かず、がまんして居た。式がすんで送ってきてくれた皆様が帰ると急に淋しくなって涙があふれた。涙何か流して見つかったら笑はれると思って人目を盗んでふきとった。もう泣くまいと思っても泣けてきた。一人ぼっちになって淋しかった。
 かたづけがすんで朝方近く床についた。中々眠れなかった。

三月四日 晴
 朝食をすまして木島先生に支度をして戴き仲人さんに案内されてお参りした後隣組を回った。そのあと里帰り。我が家に帰った。
 帰ってみると義兄と姉もまだ居た。義兄は私が田舎に嫁ぐのを反対した。一年半もお世話になって居ながら今更どうしてよいかわからず悲しくなって泣き出してしまった。まあ嫁いだ者は仕方がないからそんなに反対しないで励ましてやってくれと言ってくれた。食糧難だから仕方ないよと言ってくれた。いざと言ふと何時も力になってくれる弟でした。
 余り泣いたので見苦しい顔になったので姉がお化粧をなをしてくれました。嫁先へ帰りました。

三月五日 晴
 今日は静かなよいお天気でした。丁度和田の久子さんのおばあさんが帰るので私と三人で髪洗いに一緒に行った。私がゆくと間もなく昭島の義兄と姉は帰った。やうやくみんな帰って家の人ばかりになった。
 その晩は早く床について色々とお話をしながら休んだ。六日母校の学芸会に妹がやるから是非みにくるやうにと言うので髪結の帰りに玉川会館によった。一年はもうすんでしまったやうでした。少し見て居ると妹の春代の組のリヤ王物語りが始まった。無邪気な春代たちのげきを見て居ると感傷的になってしまって涙が出るのできまりがわるくなってそれが終ると帰った。

三月七日 晴
 ようやく落付いて家の人だけになった。みんなよい人なのでやうやく安心した。
 九時頃始めて田に出た。麦の間のつぶてこはし、私は初めてでした。お父さんと長助さんは上の田のおじゃがの所をうなってうねを作って居た。

三月九日 晴
 今日はお姉さんと三人で麦踏みをした。上の畑がすむと私は実家へ異動を取りに行った。すぐ帰るつもりだったけど、つい話が長くなって暗くなってしまったので弟に送ってもらった。観音様のまがり口坂道まがりなのでブレーキをかけたけど、急に走り出してしまった。中西の物置の西の大きな木に勢よくつき当ったのではねとばされてしまった。鼻血は出るし鼻のあたまに傷は出来るししばらくおきられなかった。弟に自転車をおこしてもらって居ると前の家の人がびっくりしてきてくれた。きまりが悪いので痛いのを我まんしておきて池の所まで歩いた。そこで弟に自転車をなをしてもらった。
 家に帰ってあやまると自転車はいいが、けがをしなければと言ってくれた。弟はすぐ帰った。夜おそくなってしまった。

三月十日 晴
 今日は家の人が折角たのしみにして箭弓様なので私は余り気が進まなかったけど顔中傷だらけなのでマスクをして一緒に出かけた。駅で長助さんのお嫁さんてみんなが見るので苦痛でならなかった。映画をみて夕方家に帰った。やくざの靴なをしがいてぼんやり歩けなかった。

三月十一日 雨
 今日は朝から小雨が降り出したので長助さんの半ズボンをぬった。

三月十三日 晴
 田黒の方にたのまれてズボン二こと学生服をぬった。

三月十四日
 三吉さんのズボン、割烹着をたのまれた。

三月二十日
 家の人の服とジャンパーをなをした。

三月二十五日
 田黒のズボンと服を仕上げた。三百円戴いた。

三月二十九日
 三吉さんのズボンと服を仕上げた。

四月三日
 お節句で実家へ帰った。父がおひな様を持ってきてくれた。

四月六日
 母と春代と巡子に送ってもらって私は小沢家へ帰った。

四月十四日 晴
 午後二時二十分中西の物をきから火事が起った。二軒と観音様を全焼した。弟が心配してかけつけてくれた。お蔭で家は助かった。

五月七日 晴
 今日は和田のお父さんが仕事にきてくれた。苦労して居るので年よりずっとふけて見える。心配ばかりかけてすみません。

五月十日 晴
 今日は父の屋根職すっかり終えた。全部すけて戴いた。

六月十一日
 身もとける暑さの夏の夕暮を
  すづしかれとてひぐらしの鳴く

六月十二日
 野も山もきらきら光る夏の午後
  セミの泣く音になを暑さます

六月十三日
 馬(マ)草刈る夫のかごに一本の
     姫百合のぞく赤い姫百合

六月十五日
 夫によく似た人の面影に
     その後したい庭先まで出でぬ

六月十六日
 くりかへし幾年の昔しのぶれど
     幼き頃に帰る術なし

六月二十日
 一日のつかれを流す我家の
     お湯にひたりて今日も無事なり

六月二十五日
 家の為出で行く夫の見えるまで
     心淋しく我は見送る

七月十五日
 暑さにも負けずにくわをふる夫に
     負けるものかと我もふるなり

八月九日
 水そこの落葉にごしてこいおよぐ

八月二十日
 我が夫帰りくるまで待ちわびて
     一人淋しく夕暮に立つ

九月一日
 我が夫元気ない日は腹だちし
     又悲しくもわびしくもなる

九月二日
 我が家に帰る我をば見送りて
     やさしまなざし嬉しく思う

九月十二日
 愛らしく瞳をなげし夫の顔
     今は嬉しく思ひ出すなり

九月十九日
 我が夫変らぬ心我は今
     身にしみじみと幸おぼえけり

九月三十日
 雨風につけても我は祈るなり
     歩みゆく道楽しみ多しと

 窓近くそよぐ木の葉のすさまじき
     二百十日のせまる夕暮

十月三日
 あの虫も母がいないのかいじらしや
     露の葉かげにチチと泣き泣く

十月十四日
 我が夫何を思うか首かしげ
     机に向ひて我を見つめる

十月十五日
 コスモスの小雨に煙る母の家

十一月十日
 初霜やコスモスの茎まだ青し

十一月十三日
 おやすみのしばしを夫田に行きて
     みのれる稲穂のめぐみたのしむ

十一月十五日
 投げ入れし秋の草花ながむれば
     今年もわずか心わびしく

十二月三十一日
 昭和二十三年もかずかずの思い出を後に過ぎて行きます。来年からはしっかりやりましょう。輝かしい希望の一歩をふみ出すべく出発点におくれぬやう心の洗たくに忙しい時です。
 来年からはよき妻となって夫の為、我が家の為につくしましょう。


小林秀吉『随筆 海と洋』(1982年) 目次

2009年02月06日 | 自分史

   『海と洋』1982年(昭和57)8月20日 編集・発行:小林秀吉

   前書き
 現在の私の生活圏は現住所東松山市を中心にした近い町村で、どんな意味でも市を代表する人間でも、勿論比企郡、埼玉県を代表する人物でもない。又、そうありたいともしない無名の一市民である。だから人にこうしろとか自分のようにしろとか、倫理規範を垂れる意図も皆無である。更に私如き無名人の自叙伝は、一種の精神的マスターベーションである事も承知し乍ら、敢えてペンを取ったのは、死が近づいた事を感覚する本能的衝動によるものと自覚している。従って之は〝死出の旅〟への御挨拶でもあるので、お世話になった内外各層有縁の方々にだけ差し上げる意図で計画し、そして出版した。
 プロの物書きでない私が、忙しい暮しの合間に三年がかりで纏めたものであるから、内容表現法共稚拙である。又ナンフイクションであるから、自分の恥部を隠蔽する心算はないが、他人のプライバシーを侵害する権利はないので、その条件下で記述した。若し事実と相異する内容があるなら、それは記憶力の衰退と資料蒐集不足に由因するもので、絶対に故意図的でない事をご了承いただきたい。【以下略】

   目次
 第一話                3
     ジョセフィンと宇良      3
 第二話                13
     自由作文           16
 第三話                22
     Red School-一教室学校    27
 第四話                33
     お祝い   小林清子     36
     鍋糞とKKK          37
 第五話                42
     雲雀の巣           45
     手紙   手塚広次      46
     ゼネ拾い業          51
     秀   鈴木ヤス       57
 第六話                58
     白いスーツ   荒井さと   64
     初任給五十五円をめざした頃   高橋子之吉  65
     古稀有情   屋代広司    66
     レッドウドの吊し柿      67
     手紙   レッドウド市長   75
 第七話                77
     神詣で   戸井田さだ    85
     古稀を祝う   市原弥太郎  86
     二秒の小林先生   玉木宏  86
     小林さん古稀お目出度う   穴沢養一  88
     活動写真           89
     ウエットバック        93
 第八話                94
     告別の言葉          95
     哲っあんの手紙       100
 第九話               105
     パリのわる         110
     第三砂町小学校在勤の頃   中里英夫  120
 第十話               122
     「あれた生活」の話   (故)関根考三  126
     本間権右衛門家の由来   藤田覚典  128
     ビー・ジーのぼやき     129
     公人が見た野人の私     136
     信念を通す大先輩   堀口真平  136
     CROSS家との出会い   木村嘉正  137
     哲人小林先生とのこと   小久保太郎  138
     足跡をさらに大きく   小沢禄郎  139
     アメリカでの出合い   関根茂章  140
     在野の文化人   芝崎亨  142
     「海と洋」の出版によせて   山口敏夫  143
 第十一話              145
     サムライのHOBO   ジョウ 150
 第十二話              159
     一枚の通知簿から   大滝利尚  163
     バイブル床屋        164
 第十三話              178
     ATTIC-屋根裏部屋-の一夜  178
     サカクラ          185
 第十四話              186
     テキサスのお茶       193
     けつ曲がりの弁       202
     小林のおじさん   甲野妙子  203
     ご挨拶   内藤あさえ   204
     お祝い   本間幸子    205
     ぼくのおじいちゃん   本間一樹  206
     ぼくのおじいちゃん   本間希樹  207
     弟の古稀に寄せて   村田ふみ  208
     弟について一言   吉田ヨネ  208
 第十五話                209
     小林先生   根岸一美   215
     我武者羅   甲斐弥    216
     先生との今昔   酒井友二  217
     ロウティション       218
     お祝い   大西俊治    229
 第十六話              230
     (故)田辺慶治先生をしのんで  232
     権右衛門家   本間靖   240
 第十七話              241
     吹雪の夜          247
     黄禍            252
 第十八話              253
     デンマークのハナ子     256
     オーデンス市長からの祝辞  267
     ハナ子からの手紙      273
 第十九話              275
     ピープル ツウ ピープル  281
     小林君に対する友情の短信   ジェンタイル  287
     小林君と私   瀬川泰次郎  288
     ホウム スティング     290
     トーケルさん   福田状水  291
     ホスト ファミリーとして   深沢秋雄  291
     小林先生と我が家   伊藤五郎  292
     小林先生と私との出合い   小林茂夫  293
     家庭滞在   大川浩一郎  295
     家庭滞在について   小沢博  296
     東秩父教室満八年を迎えて   鶴川次作  296
     家に泊まったデンマーク人   馬橋登志子  298
 第二十話              299
     小さな飛行機の旅      302
     自ら教える事に意義を知る  305
     私と英語   青木啓子   306
     小林英語塾   岩渕渟   307
     海外勤務   宮沢信一   307
     It's up to you.   嶋宜一郎  309
     Tur-chan(ターチャン)   根岸武美  311
     小川塾から都幾川塾へ   大沢正美  311
     思い出   清水俊男    312
     先生のハンカチ   関口正徳  313
     シャーリー校長先生   田端裕之  314
     前科六犯   富田達彦   315
 第二十一話             316
     小林先輩と私   塚越正佳  322
     もう一人の小林君   山崎秀雄  324
     小林君とクラス会   柳下良二  325
     P・T・P   林隆而      327
     小林先生との出合い   劉濶才  328
     祝辞   胡濤静之        329
 第二十二話                330
     象先生との思い出   小林清作  330
     相川の小林先生   安岡俊夫   331
     秀吉先生   安岡克巳      332
     私の観た小林君   山本洋一   337
     非コールド ビスケット      338
     お祝い   M.サッチャー    341
     〝所詮は借物〟では済まぬ     342
     雑記録              345
     言いてえ放題・やりてえ放題    349
     村長・町長と市長         366
     弔辞   桑山良演        368
 第二十三話                369
     ゼネの話             377
     あい。おう。ゆう         380
     英語仲間             383
     英語の道   青木節子      383
     英会話サークルの思い出   江野祐一郎  384
     祝古稀   福島文        385
     英会話   河田弘子       387
     小林先生と比企の英語教育   黒崎辰雄  388
     小林先生と私   中島芳夫    390
     英語グループの思い出   大寺知章  392
 第二十四話                394
     ASHTONの無言劇          404
     カーディングリー看護婦からの手紙 413
 第二十五話                414
     グランド キャニオンの女     416
     英会話講習会とアメリカ旅行   青木裕子  426
 第二十六話                428
     小林秀吉君の古稀を祝いて   大原儀作  432
     サリーの捕虜           433
 第二十七話                444
     サニイとカイゼル         452
 第二十八話                457
     ロウズ モア           464
     エグゼキューティヴ クラス    470
 第二十九話                474
     再会               482
     フェニックス市長の手紙      488
     アーサー大佐の手紙        488
 第三十話                 490
     組曲 カルメン          493
     学生時代の戻る   江野暁子   501
     英会話教室に学んで   榎本正子  502
     英会話教室に参加して   伊藤洋子  502
     いつまでもお若く   広瀬ヨウ子  503
     新しい町民   三浦絹代     504
     英会話教室に参加して   大野菊江  505
     英会話教室に参加して   塩見美千代  506
     英会話講座   田島明子     506
     英会話受講記   塚田清秀    507
     学友バブ             508
     中島組奨学金会の由来   小林嘉重  509
 謝意                   510
 むすび                  512

       辞世の狂歌

        閻魔君、
          答えてもええ 英語なら
           娑婆で 咲かせた
                 うら話まで



新設高校へのわが課題 長島喜平 1975年

2009年01月17日 | 自分史

 畑知事さんが「ベテラン知事になりたくない」と題して、随想だろうと思うが発刊したと聞く。
 私はそれに肖(あや)かったわけではないが、「ベテラン校長になりたくない」と思う。
 知事さんは、埼玉県の知事というだけでなく、法学政治学の大家であり、到底私の及ぶところではない。
 だが、知事さんは県民のことを熱心にお考えで、私は新設高校の校長として、学校と生徒のことを真剣に考えている。
 ただ知事さんは県全体を考え、私はその末端の一底辺を考え、強いて言えば、対象面積の差であろうと思う。
 私は三十年来の教員生活に、その時その時私なりに生徒のことを考えてきたことは確かだったと、今にして思う。授業のことも、クラブ指導のことも、そして卒業期の進路指導についても、走馬灯のように思い浮かんでくる。
 やがて何時しか高校の教頭になっていた。
 その学校は大変忙しい学校で、朝六時半頃家を出て、帰るのが殆んど夜の九時か十時だった。時には一晩じゅう帰れないことも何度かあった。
 そんな忙しいなかで、校長になろうなどと考える暇もなかったのに、時の教務主任が、半ば冗談に「教頭さん、この学校からは直接校長に出られませんよ。今まで出たものもないのです」とジンクスめいたことを話され、私にとっては、どうしてこんなことを話されたのか不思議であった。
 ところが、一昨年(1973)十二月の年末休暇に入り、教育局から急に呼びだされた。
 なんのことかわからないので、時の校長さんに「校長さん、また呼びだされて注意されるのですか」とただした。
 実はこのことより二週間位前、校長と私が教育局へ呼びだされて注意されたばかり、そのくらい大変な学校であった。
 ところが寝耳に水と言った校長を拝命、ジンクスを私は破ったのかと思った。
 さて校長になったが、授業の自習のクラスへ出て、授業をやった。やはり教師は授業が生命なのだと強く感じた。
 私はある校長に「校長になっても、授業をするのは楽しいですね」と話しかけたら「長島さん、校長は教諭ではないのだから、授業しなくもよいのだ」そうかと思って、しばらくすると、校長一年生も忙しくなり、書類の検印<ハンコ押し>来賓の応接、翌日は出張また出張、授業もそうそう出られなくなった。
 所謂ベテラン校長は、もっともっと多忙でハンコと応接と出張の連続で明けくれてしまうのだろうと、同情したくなった。
 また私の学校では、度々教職員総出で生徒とソフトやバレーなどの球技試合をする。私は下手ながら何時も参加する。
 或る教師が「校長さんもやるのですか」と私にただした。その先生のいい分は、転任した先々の各学校の校長さんは、殆んど球技の試合など出たことがないという。でられないのであろう。やがて私もこうなるのかと思うと淋しい。こうなりたくない。
 私が自習のクラスへ授業に出たら、四月に転任して来た教師が「校長さんは校長室に一人でいるのが淋しいのでしょう」と想像し同情してくれた。やがて授業へも出ていけなくなるかも知れない。
 昔の校長さんを思うと、松高旧松中時代の恩師の山本洋一先生や木原元三先生、また埼玉師範の三田主市先生、教頭の別所千賀照先生方は、よく授業に出てきて指導してくださった。そのことは感銘深い思い出である。
 その頃は、今のように校長は多忙でなかったこともあろう。今日では書類一つをとっても、毎日山ほどある。それを校長はいちいち検印する。なにかといえば会議会議の出張の連続である。
 今の校長は余程自分を見つめない限り、機械の歯車となり、出張やハンコ押しで自分を見失って滔々と押し流されてしまう。
 ある学校の卒業式に、あの人が俺達の学校の校長先生だったのかと言った生徒がいたというが、殆んど生徒の前に顔をださない校長さんもいる。ださないのではない。だせないのだ。そうなりたくないものである。
 一年たっても小説一冊も読めないと言った校長さんがいた。教育雑誌を読もうと思っても、カバンに入れておくが、やがて次の号が発売され、入替えるだけで目次すら読めないと、ぼやいた校長さんがいた。
 もうこうなったら教師としての校長ではない。
 私はある教師から「校長さんの生徒への訓話は変っていますね」と言われた。
 私は月並のことや抽象的なことを、長くだらだら話すのは嫌いだ。そんな訓話をしても今の生徒には、なかなかうけない。私は何時もこれを警戒している。
 どうかして生徒の心に何か訴えたい。生徒に何か課題的なものを持たせたい。何時もこう思う。
 そこで生徒一人一人に、これだけは自分のものだというものを、しっかり持たせたいと思っている。
 私がかつて教えた生徒に、修学旅行に行っても、ほかの生徒より朝早く起きてその町の中を駈歩して来た生徒がいた。その生徒は毎日走らないではいられないという。
 また私の友だちに、一年間に本を高さ一メートル読んだというものがいた。この努力はすばらしい。
 更に現在、私の学校(日高町高萩下車)に秩父の野上町から朝六時十分の電車に乗ってかよってくる生徒がいる。私はこの生徒と話して勇気づけた。
 「容易でないが頑張りな。あなたは、この学校で誰もしないことをやってのけているのだ。やがて卒業の喜び以上、何事にも負けない自信がつきますよ。」
 涙をたたえて去っていったその生徒は、寒い日でも遅刻もせず頑張っているので、陰ながら私は喜んでいる。
 いくつか例をあげたが、こうした者達は、何かにつけて自信がわいてくるだろうし、生き甲斐を感ずることでしょう。
 どんなことでもよい。クラブ活動でも単なる趣味でも、生徒達が、本気で青春をたたきつける場所を私は教えて行きたい。
 これが私の考える生徒への課題である。   (埼玉県立日高高等学校長)
     筆者は1974年(昭和49)4月-1979年(昭和54)3月埼玉県立日高高等学校初代校長。