深堀氏の居館跡
一関市藤沢町黄海二日町の黄海公民館の裏手にある標高約100mほどの丘陵に深堀氏が居を構えた黄海城(深掘館)跡があります。深堀氏は文亀元年(1501)から天正十九年(1591)までの90年間、黄海城主、また、葛西氏の重臣として黄海の地を治めていました。
城跡は東西750m、南北600mです。
本丸、二の丸、物見台、搦沢、刑場の地名が残っています
4本の大きな沢が丘陵に入って、天然の空堀を呈しています。この空堀で三つの大きな廓に独立させています。
【深堀氏とは】
本姓は千葉氏とされています。
深掘新左衛門慰武虎は黄海七館(深掘館・金山沢館など)の将の一人で、「岩崎の陣」に参陣。
豊臣秀吉の奥州仕置きの際には、葛西氏家臣として、桃生郡深谷(宮城県石巻市)に出陣し、討ち死にしたといわれている。
【深堀館跡MAP】
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大船渡線摺沢駅の東約1㎞のところ、国道456号線沿いの丘陵先端部に居館跡があります。
八町館は数流沢館、屏布館、臥牛館とも呼ばれる中世の居館跡です。
標高70~100mの丘陵で幅6mほどの空堀によって尾根を切っています。
本丸(40m×68m)を頂部にして、二の丸(70m×50m)、三の丸(22m×15m)、四の丸(15m×12m)とL字型に連なっています。
本丸、二の丸、三の丸までをとりまく帯郭があります。
登り口を登る途中、二の丸の下には、「馬かくし」と呼ばれるところがあります。
二の丸跡は現在、雑草が生い茂っています。
二の丸下には、三の丸跡、出丸跡があります。
三の丸跡も草木が生い茂っています。
出丸跡は現在は畑地になっています。
三の丸跡を進んでいくと、秋葉神社を見ることができます。
秋葉神社前方(本丸背後)は、急峻な崖地となっています。
築城は前九年の役の頃とされていますが、詳細は不明です。
「仙台古城書上」には「山八丁城東西十八間、南北十九間、二の丸東西三十二間、南北三十六間、城主岩渕大炊」とあります。
【八町館跡(秋葉神社)MAP】
岩手県一関市大東町摺沢字但馬崎
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横沢氏の居城跡
一関市中心部と気仙沼市を結ぶ国道284号線(気仙沼街道)。
一関市室根町の室根西小学校と国道を挟んだ向いの小高い丘、松山寺の墓地が並んでいるところが城跡です。
中世、横沢氏の居城跡です。
横沢氏は、建久年間頃よりこの地に住み、以後葛西氏滅亡まで居城したと云われています。
小高い丘陵に建つ城跡です。
頂部には平場がありますが、周辺は墓地となっています。
浜横沢城跡脇には神社があります。
横沢氏は、葛西氏の家臣で「葛西奉賀張」には「二貫文横沢平重持、同宗重」と花押を見ることができます。
また、中尊寺に大永五年奉納の「横沢又次郎平碑広持」の巡礼札が見られます。
記録によると、明応七(1498)年、葛西氏の家臣であった薄衣城主の薄衣氏は大崎探題側に立ったため、周辺の葛西家臣大原肥前守、本吉信濃守、小泉備前守、世田米伊豆守、鱒沢越前守など諸将に攻め立てられ、薄衣美濃入道の籠城した薄衣城は風前のともしびとなり支援と要請したのです。
応援を要請したのは領主葛西氏ではなく大崎教兼(義兼)や伊達成宗でした。
これは「薄衣状」と呼ばれる書状として残されています。
薄衣氏は、細川三河守、数流沢摂津守、横沢式部大輔と共に大崎探題側にとして対戦したものの、伊達成宗は動かず、ついに降伏したものとみられています。
【浜横沢城跡MAP】
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貝塚にみる古代の歴史
油島駅から県道183号線を東北本線を線路沿いに南下し、本線の跨線橋を渡り登米市石越町方面へ行くとすぐ小丘陵地の小道に標柱が建てられています。
この地域は、仙台平野の北端に位置し、かつては、無数の湖沼が広がっていました。
貝鳥貝塚(蝦島貝塚、県史跡)は、内陸部淡水貝塚で、1956(昭和31)年から1969(昭和44)まで4回にわたる発掘調査が行われました。
淡水産貝類、鳥獣類の骨、縄文時代中期から弥生時代にかけての土器・石器のほか、抜歯を施した約90体の人骨が屈葬の形で出土しました。
人骨の調査から、平均身長約160㎝、生活の中で蹲踞の姿勢が多かったことなどが分かりました。
貝鳥貝塚は昭和41年に岩手県の文化財(史跡)に指定されています。
(出典 岩手県の歴史散歩 )
【貝鳥貝塚MAP】
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