亀掛川氏一族の居城跡
岩手県一関市千厩町国道284号線~県道267号線で、一関市東山町松川へ向かう途中の市道にはいると、「新浪神社」の標柱を見ることができます。
規矩馬城は濁沼城とも呼ばれた小高い丘に建つ城で、亀掛川氏が居城していました。
標柱脇の道路を登っていくと、一段高いところに新浪神社が祀られています。
新浪神社は元暦元年(1184)に源義経が勧請したと云われています。
新浪神社と並ぶような丘が規矩馬城の頂部となっています。
標高120~150メートルの丘陵に位置し、北と南に西から東に走る沢があります。
規矩馬城は「仙台古城書上」によると城主は亀掛川兵部 本丸縦二十間、横二十間、二の丸縦十四間、横十六間と記されています。
また、安永四年の「濁沼村風土記」には城主は亀掛川下総守、館縦三十間、横十四間」と記されています。
本丸の東西で空堀によって丘陵から独立している
西端は新浪神社脇の下礼田に超える掘割り付近です。
新浪神社前の低地も防御的役割を担っていたものと考えられています。
本丸の下位には帯状の平場が巡り、南には舌状に張り出した平場があります。
南側は農地の造成が進み、旧形状が失われています。
本丸は公園として利用され、三島山を眺望することができます。
亀掛川氏は大原新山城主の亀掛川氏の一族と考えられています。
築城の年代は不明。葛西氏の没落とともに、廃城となったものと考えられます。
(出典 千厩町史)
【規矩馬城(濁沼城)跡MAP】
岩手県一関市千厩町磐清水古舘14 ?
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中世千葉氏の居館跡
一関市千厩町清田地区にある中世の城跡です。
城主は千葉相模と伝えられています。
丘陵上を二つの大きな空堀によって切り離し各部を独立させています。
三つの曲輪に区分され、本丸全体が馬蹄形を呈していて、内側に小さい平場をもっています。
現状は畑で、長年の耕作によって旧形状は部分的に失われています。
東方に空堀によって区切られた二つの曲輪を持っています。
本丸の東には土塁上の高まりが見られ、二重の空堀が巡り、北側の崖に落ちています。
(出典 千厩町史)
【清水馬場城跡MAP】
一関市千厩町清田字東沢
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中世 門崎氏開基の寺院
門崎城主 門崎安芸守胤盛を開基とする常堅寺です。
寺号は、門崎氏の法名「固山常堅大居士」にちなんだもの伝えられています。
常堅寺は門崎氏の加護により繁栄してきましたが、文政二年(1819)、火災にみまわれ、現在の鐘楼堂を残して、本堂その他を焼失しました。
開創当時のたたずまいを残す鐘楼堂にある梵鐘は、元禄十年(1697)鋳造されたと云われています。
口径61.5㎝、高さ108.5㎝、重量175㎏もある梵鐘は一関市の文化財に指定されています。
檀信徒会館・開山堂 施工
菅原木工
【菅原木工寺院施工例】



一関市藤沢町の保呂羽地区から県道218号線藤沢津谷川線で一関市室根町まで向かう途中、金越沢ダム近くに当寺が建てられています。
開山は文明元(1469)年で、現在の宮城県高清水町の龍泉町(昭和初期に廃寺)三世西雲全柏和尚です。
当寺は金山との関わりがあり、文禄三(1594)年の金山一揆の功労者として保呂羽村の小野寺伊賀の名があり、保呂羽村御本判(砂金採掘者に与える許可証)肝入として御給判三枚を与えられています。
本堂は昭和三十(1955)年に改築、平成十年に屋根を銅板葺き替えています。
その際に降ろした三州瓦の鬼瓦は参道沿いに祀られています。
本堂屋根改修工事や鬼瓦を祀る堂宇の施工を菅原木工は行いました。
【菅原木工寺院施工例】


