中世、大崎氏と葛西氏の国境に位置する拠点
宮城県栗原市金成町の中心部沢辺地区、三迫川沿いにある丘陵地に沢辺館跡があります。
(臥牛館公園 全景)
臥牛館公園として整備されているこの丘陵地は、沢辺館または臥牛館とも呼ばれ、鎌倉時代に葛西家家臣二階堂常信の居城でした。
(沢辺館跡 臥牛館公園 本丸周辺)
本丸下には鳥居が建てられています。
(本丸跡)
本丸には石の小さな祠が祭られています。
丘陵地に建てられたこの館は、東西130メートル、南北250メートルの敷地にあり、現在本丸には土塁跡、二の丸に経塚があります。かつて西側の台地には根小屋と称した家来の屋敷があったといわれています。
(二の丸跡 経塚)
(沢辺館跡 二の丸経塚)
(臥牛館公園 沢辺館二の丸跡)
館の北側は崖と三迫川を背負い、南側は丘陵となり二条の空堀が巡らせてあったそうです。
空堀跡は沢辺中学校敷地造成のため、見ることはできなくなっています。
二の丸からさらに下へ降りると、所々に曲輪跡のような平坦なところがあります。
公園として整備されているため、東屋が建てられています。また四季の花々、木々が植えられています。
沢辺館主二階堂常信は1200年ごろ衣川村(岩手県奥州市)よりこの地に移り住み、城を築き以来代々沢辺氏を名乗るようになったといわれています。
しかし、沢辺氏は近隣の大崎氏との戦いの中、この地追われ、旧黒沢村(一関市)霞館、下油田村(一関市花泉町)蒲沢館と移り住み、のちに葛西領となって十二代重光の代に沢辺館に戻ることができました。
その後、天正十八年の豊臣秀吉による奥州仕置きによって、葛西・大崎両氏は滅亡を迎え、沢辺館はその後伊達領となり、旧葛西家家臣であった小野寺氏が伊達家家臣として、小野寺道行、道重、道貞の三代にわたって居城となったのでした。
【沢辺館跡MAP】
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