丘陵を利用した和賀氏の居城跡
北上工業団地近く、八幡宮の長い石段を登ると飛勢城跡公園があります。
ここは二子城の詰城の跡と考えられ、西側に空堀、東側には3~4段の腰郭がめぐらされています。
西側の道を挟んだ丘は二子城の西の物見で、現在は秋葉神社が建っています。
城跡公園北側の北上川沿いの段丘上には、城主和賀氏や重臣の居館が堀で区画されて配され、その範囲は現在のしみず斎園から永明寺にかけて約1㎞に及ぶ大規模な城郭となっています。
和賀氏の居館は、現在の白鳥宮境内地である100m四方ほどの平地にあったとされています。
岩手県立図書館所蔵の「二子村古城図」には本丸と記され、空堀と土塁、北上川の断崖に囲まれたもっとも堅固な所です。
腰廓と見られるところは遊歩道となっています。
八幡宮から遊歩道を進んでいくと、高村光太郎詩碑に出会います。
飛勢城跡公園頂上には、展望台があり雄大な北上川の流れを一望できます。
白鳥宮南側の道を挟んでの民家や山の神神社が建つ区域が二の丸であったと云われています。
和賀氏の居館跡には白鳥神社や金毘羅様が祀られています。
白鳥神社本殿は北上市の文化財に指定されています。
さらに南の、遍照寺と城跡公園の間を通る道が和小路と呼ばれ、両側に武家屋敷が並んでいました。
和小路の東側には堀状の湿地があり、そこを隔てて宿と呼ばれる城下集落が形成されていました。
現在、バス停のある辺りです。位置は特定できていないものの、この付近から和小路の間に二子城の大手門があったと考えられています。
大手門は江戸時代初期に花巻城に移築され、現在は花巻市の鳥谷崎神社にその姿を残しています。
【和賀氏とは・・・】
城主の和賀氏の祖先は、現在の埼玉県熊谷市の豪族中條氏で、承久の乱の後、地頭として和賀郡に入り、和賀氏を名乗ったと考えられています。
「吾妻鏡」建長八年(1256)六月二日の条、奥大道の夜盗警備を命じられた地頭名簿に「和賀三郎兵衛 尉、同五郎右衛門 尉」という記述がみえます。」
南北朝の合体後、あらたに奥羽をも管轄することになった三代鎌倉公方足利満兼は、応永六年(1399)に弟の満直・満貞を派遣して奥州支配の強化を図ると、それに反発した伊達氏・大崎氏らは、鎌倉府の強大化を抑えようとする室町幕府の支援を受けて対抗し、再び戦乱状態になったのです。
「鬼柳文書」によると、和賀氏の庶流鬼柳氏と思われる和賀下総入道が足利満貞から和賀郡一円の惣領職を安堵されています。
飛勢城跡公園の整備のため詰城の発掘調査が行われましたが、出土品は15世紀のものが中心でした。
北上川東岸の黒岩や更木に居館をおいていた和賀氏が、このころから西岸地区での支配権強化のため、二子に拠点を移したことが考えられます。
天正十八年(1590)、和賀義忠が豊臣秀吉による奥州仕置で所領を没収されるまで、南北1㎞、東西500mに及ぶ広大な二子城は和賀氏の拠点となったのです。
同年秋、義忠は二子城奪回の一揆をおこしますが、失敗に終わります。
和賀郡を領有した南部信直は、「南部大膳大夫分国之内諸城破却共書上」を秀吉に提出し、二子城の破却を提出しています。
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【飛勢城跡公園MAP】
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