中世稗貫氏居城から近世南部氏の城へ
JR花巻駅からほど近い街の中心部に鳥谷ヶ崎公園があります。
(花巻城早坂御門跡)
花巻城の前進は鳥谷ヶ崎(とやがさき)城と呼ばれ、室町・戦国時代には稗貫郡を領した稗貫氏歴代の居城でした。
稗貫氏の始祖は源平時代の豪将畠山重忠で重忠が平泉攻略の功で、稗貫郡葛岡村以下八重畑、矢沢、亀森などに所領を得たことから、その子孫が稗貫氏を称するようになったとされています。
南北朝初期の建武元年(1334)に戸貫出羽前司、興国二年(1341)に稗貫出羽権守の名が確かな史料に出てきます。
早くから足利方に属して所領を確保し、室町期にも稗貫郡主としての立場を保っていました。
天正十八年(1590)、稗貫広忠は豊臣秀吉の命による小田原攻めに参加の意志を示さず、婚姻関係にある和賀信親とともに伊達政宗に自家の存亡を託すという消極路線を選択し、その結果、奥州仕置きにおいて稗貫・和賀両氏は所領を没収され、稗貫郡は浅野長政の預かりとなり鳥谷ヶ崎城には浅野重吉が配置されました。
この処置に不服な稗貫・和賀両氏は葛西・大崎氏ら同じ運命をたどった戦国大名と結び、伊達政宗の支援を得て反乱を決行、手薄な豊臣軍を駆逐して城の奪回に成功。
緊迫した軍事情勢は南部信直ら親豊臣派を脅かし、九戸政実の蜂起に発展する事態になりました。
しかし、翌年六月、秀吉は奥州再仕置きを発動、八月末稗貫氏は再び鳥谷ヶ崎城を追われました。
稗貫・和賀氏の没落後、両郡は南部信直の領有となりました。
この地は、北上平野の中心にあり北は盛岡、南は黒沢尻(北上)、東は釜石地方に通じる地にあり、伊達藩との藩境にも近いため、要衝の地となったのです。
そこで、鳥谷ヶ崎城には重臣である北秀愛が入城します。
秀愛は城名を「花巻城」と改め、稗貫郡の拠点城郭として普請に着手するが慶長三年(1598)に没し、父の信愛がそれを継承して城下町の整備に尽力したと伝えられています。
北信愛(松斎)の死後、盛岡藩2代藩主南部利直の2男政直が城主となり、稗貫・和賀郡に2万石を領有しました。
しかし、1624年(寛永元年)、後嗣がないまま25歳で政直は没し、所領は藩の蔵入地に戻りました。
盛岡藩の南の重要防衛拠点であった花巻城には、その後も郡代が派遣され、稗貫・和賀郡を管轄しました。
稗貫氏時代のこの城の本丸には稗貫氏の菩提寺として「瑞興寺」が建てられていましたが、南部氏の居城となってからは移転し、現在の位置(花巻市坂本町)になりました。
花巻城の概要は標高20mほどの丘陵に築かれた平山城です。
(花巻城城壁)
城地はかつての北上川本流の瀬川と豊沢川の南北間に位置し土塁と水堀によって本丸・本丸西曲輪・二の丸・三の丸が明確に区画されています。
(花巻城縄張り)
南部氏の城郭といえば九戸城や七戸城・八戸根城など館屋敷型城郭が著名ですが、花巻城ははるかに進化した梯郭式縄張りを採用しています。
本丸の周囲の太鼓塀の総延長は203間に及び、その東端には天守に相当する菱櫓が上げられていました。
(花巻城本丸入口)
(鳥谷ヶ崎公園 花巻城本丸内)
(鳥谷ヶ崎公園 花巻城本丸内)
本丸内は公園として整備されています。
(鳥谷ヶ崎公園 本丸 御武具蔵跡)
(鳥谷ヶ崎公園 本丸 御台所前御門跡)
(御囲穀御蔵前御堀跡)
本丸 周辺には堀や土塁が今も残されています。
慶長五年(1600)八月、南部利直は四千の手勢を率いて最上合戦に参陣しましたが、その利直の留守を狙って和賀忠親が蜂起したのです。
蜂起した和賀勢は九月中旬、和賀郡の安俵城、田瀬城、稗貫郡の大迫城、鳥谷ヶ崎城などを一斉攻撃しました。
主将の和賀忠親が兵五百で鳥谷ヶ崎城本丸御台所前御門までに迫りますが、鳥谷ヶ崎城主北松斎(信愛)が奮戦してこれを退けたのでした。
(本丸 お堀)
虎口は西と南側の2カ所にあり総石垣造りのくい違い虎口となっています。
本丸内には盛岡藩主南部氏の宿館が設けられ、城代屋敷と蔵屋敷は二の丸に置かれました。
隅櫓6ヶ所、櫓門5棟を数え、三の丸には花巻御給人の武家屋敷が設けられました。
(中御門跡 花巻小学校)
現在、二の丸跡には小学校や幼稚園、「武徳殿」という柔剣道場などの施設が建てられています。
(二の丸跡 花巻小学校グラウンド)
(二の丸跡 武徳殿)

(花巻城三の丸跡 鳥谷ヶ崎神社鳥居)
(鳥谷ヶ崎神社 拝殿)
(早坂稲荷神社)
(花巻城 大手門跡 花巻市役所)
花巻城の大手門(追手門)跡は花巻市役所となっています。
花巻市役所前の花巻城大手門跡にある時鐘は、正保三年(1646)盛岡藩三代重直が盛岡城につくりましたが、鐘が小さかったため盛岡城下には響かず、花巻城に移されました。
当初、二の丸の御台所御門の南(花巻小学校校庭の北東隅)に置かれていましたが、明治期に現在の地に移されました。
(花巻城 西御門)
花巻城は南部氏の抱城で、江戸幕府に対しては御古城と届けられましたが、城郭建築物の修復や石垣普請が行われ、古城としては異例の扱いを受けました。
(本丸 西御門)
市街地開発で城地は破壊されましたが、本丸西御門と石垣が復元され、本丸・二の丸周辺の土塁や堀跡も良く保存されています。
(花巻城 円城寺御門)
(花巻城 円城寺御門 鳥谷ヶ崎神社 社務所)
花巻城は明治6年(1873)に取り壊され、現在その遺構は円城寺御門と時鐘だけとなってしまいました。
円城寺御門は、稗貫氏の居城であった飛勢城(北上市二子町)の大手門を慶長十九年(1614)に三の丸搦め手の円城寺坂に移築したもです。
(出典 国別 城郭・陣屋・要害・台場事典
岩手県の歴史散歩
)
【花巻城(鳥谷ヶ崎城)跡MAP】
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