まぼろしの覚鱉城と河崎の柵の二重遺跡
北上川と支流の砂鉄川が合流する岩手県一関市川崎町。
県道168号線沿いにこの記念碑が建てられています。
前九年の役で、安倍貞任が兵4,000人を率いて金為行の拠る河崎の柵に赴き、ここを拠点として一関市藤沢町黄海に出撃したとされています。
河崎の柵が攻略されたのは、源頼義が反撃に転じた康平五年(1062)8月から9の初めと思われるが、河崎の柵攻略に大功をたてた秩父二郎は、源頼義から一字を賜り秩父二郎基家と称し、その縁から河崎冠者基家ともいって、以後川崎氏を名乗ったのです。
現在の河崎の柵跡は田畑や宅地となって、当時を思わせるものはありません。
この地の遺跡が発掘されたという「河崎の柵」の標柱だけが建っているだけとなっています。
【覚鱉城とは・・・・?】
宝亀十一年(780)、胆沢の蝦夷を討つために造られた城。
築城主は、陸奥按察使兼鎮守副将軍紀広純。
『続記』の記載しているところには、
「近年来、甚だしい寒さで河は凍り、船を通すことはできない。ところが賊が来て侵すことがやまないので、これを止めるには、攻め寄せ来る道を塞がなければならない。兵士三千人を発し、三、四月の雪が消え川水増す時直ちに城を造りたい」
という陸奥の国からの奏上に対して、
「山道の賊は居が近いので、隙を伺っては侵すことであろう。賊を征するべく城を造れ!」
ということであった。
しかし、この時、俘囚の長であった伊治郡の大領(郡司の長官・郡の蝦夷の首長)伊治公呰麻呂(いじのきみあざまろ)が反乱を起こし、伊治城を襲撃し、紀広純を殺してしまった。
この事件で覚鱉城は中途に挫折してしまったのであります。
北上川河川工事に伴い、平成12年から16年に河崎の柵擬定地の発掘調査の際、河崎の柵の遺構より、1m~2m深い地層で8世紀後半~9世紀初頭の住居等の遺構や、和同開珎や蕨手刀などの遺物が発掘されたため、この地が覚鱉城の有力な候補地の一つであると思われます。
覚鱉城の場所については諸説あり、奥州市前沢町明後沢や一関市山目赤萩字中条などがあります。
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