砂鉄川を望む薄衣城の背後を守る城
県道282号線沿い、一関市東山町松川地区。
この内舘(うちだて)の築城は南北朝時代のころと云われています。
内館は、松川の平坦地帯を北と南に二分する丘陵の上にあり、館から領内を一望することができます。
西は砂鉄川に臨む断崖、東は山地につづいて用水の取り入れ口になっていました。
丘陵の北半分が本丸跡で南北100メートル、東西60メートルほどの楕円形の平場になっています。
二の丸の東に面したあたりに、今は墓地になっているところがあり、その辺に大手門があったろうと云われています。
西は砂鉄川に臨む断崖、松川の平地を二分するような丘の上にあって、薄衣の後方を守る要害の地だったということがうなずかれます。
公園の周囲を回るように道路が続いています。
本丸と二の丸の間を道路が続いています。
館山地蔵尊というお堂が建てられています。
本丸跡には川口稲荷神社が祭られています。
本丸跡周辺には、さまざまな木々が植えられていて四季折々の情景を堪能できます。
二の丸には空堀跡があります。
この内館の特徴は、現在も二の丸・三の丸などの曲輪との間の空堀跡がはっきりと残っているところです。
二の丸跡から三の丸方面を見る
三の丸は、なだらかな傾斜地となって、所々に空堀跡らしきものが見受けられます。
【松川千葉氏とは】
薄衣に城館を構えていたのが薄衣氏で、関東から下った千葉氏の一族でありました。
葛西氏の有力武将で、北上川に臨む要害にの地にいて、近隣ににらみをきかせていました。
第三代清純(清堅・清胤ともいう)に四人の男子がありましたが、次男が門崎(一関市川崎町)に、三男が金沢(一関市花泉町)に分封され、四男の正村が松川の地に居館を構えることになったのでありました。
清純の父は葛西氏の宗家(本家)から入った人であり、正村も葛西太守に仕えていたが、興国四年(1343)二十九歳のとき、松川その他二百余町を賜って、内館を築いたのです。
二代正胤は、応永七年(1400)三の迫(栗原市)の戦いに出陣しています。
この戦いは「奥州探題」の宇都宮氏広と「関東管領代」の足利満兼との争いで、世に言う「三迫合戦」であります。
正胤は葛西軍の先鋒として足利方に属し、大いに戦功をあげたと伝えられています。
この合戦には、薄衣城主や藤沢城主も出陣していました。
正胤の子の胤栄もこの合戦に出陣して勲功をたてたと云われています。
四代胤基は、永享十年(1438)篠川鎌倉合戦に、足利持氏に従って戦い、武勲をたてた。また、永享十二年には、葛西持信に従って大崎軍と戦い、戦功があったと伝えられています。
足利の一族である斯波家兼が、足利幕府から奥州探題任じられて大崎氏を称し、本拠を志田郡師山(宮城県大崎市)に置き、葛西領と境を接していました。このため、両者の争いがしばしば起きたのです。
五代胤滋のときは、桃生郡深谷の大野邑(宮城県)で戦いがあり、胤滋は葛西朝信に従って、先陣の将として奮戦しました。
胤滋には男の子がなかったので、奥玉の一族千葉氏から滋吉を迎えて嗣子としました。
七代胤広の代、永正四年(1507)、流の郷にさわぎがおこった。
「流」はいまの一関市花泉町で、藤原時代には「高倉荘流」と呼ばれ、富裕な土地たっだらしい。
金沢の朝日館主の金沢冬胤が日形の峠城主の寺崎時胤と あらそいがありました。
冬胤には熊谷直時・奈良坂信里が加勢し、時胤には松川胤広・千葉秀胤が味方したのです。
いずれも同族で、一族間のあらそいでありました。
胤広はこの戦いで討ち死にしたと云われています。
胤広が亡くなったとき、その子の胤康はまだ三歳であったため、松川家の所領は半分に削られてしまいました。
しかし、胤康は長じて八代内館主として葛西太守に仕え、武功衆にすぐれて、松川家再興に力があったとつたえられています。
九代信康は、葛西太守の晴胤・晴信に仕えて忠勤を励み、晴信の「信」の一字をもらったと伝えられています。また、命によってもとの千葉の姓に復し、領地半減で一時は傾きかけた家運も、次第に回復していった。
十代信胤も、晴信に仕え、「信」の一字を賜っているが、病身であったので、戦いには弟の胤好が主に出陣していました。
天正十八年の奥州仕置きの際には、内館の人々は薄衣甲斐守の手に属し、森原山に布陣したが、武運つたなく佐沼城に引き上げ、葛西軍の解散とともに郷里に潜んだのでした。
天正十八年 八月、奥州仕置きの戦が終わると、葛西・大崎の旧領は、木村吉清父子に与えられました。
しかし、一躍大領地を与えられた吉清父子には、これを統治する能力に欠け、領民の反感をかったのです。
ここに、葛西・大崎の残党の立ち上がる隙があったのです。
早くもその年の十月なかば、胆沢郡から火の手があがり、磐井・気仙・本吉郡と拡がり、ついに佐沼城を手中にしたのでした。
天正十九年早春、南部領にも九戸政実 が起きたのです。
京都の秀吉は、再び奥州仕置き軍を発したのです。このときの軍勢は、三万とも六万とも伝えられ、六月下旬に会津を進発したのです。
葛西・大崎の軍は一万余で佐沼城を最後の砦としたのです。
松川内館の千葉胤好・胤治の兄弟もこの城に籠もっていました。
佐沼城は川と沼と堀に囲まれた、葛西領内随一の堅固な城でした。
伊達軍は七月一日(一説には八月)総攻撃を開始しましたが、城兵はよく戦ってこれを退けました。
二日目も伊達軍には利あらず、三日目にしてやっと攻撃の効果が出始め、夜に入っても休まず攻め、明け方にやっと攻め落とされたという大激戦であったといわれています。
千葉胤治は討ち死にし、兄胤好はからくも逃れ松川に帰ったのです。
それから間もなく、伊達政宗の命が諸方に伝えられてきました。
「奥侍残りなく、八月十四日(十五日とも)槍一本ずつに相詰め候様に」
それは胤好にも届いたのです。
集合場所は深谷(宮城県石巻市)でした。
伊達家は葛西氏の縁者なので葛西旧臣の間では、こんなことがあるかもしれないと、前々から囁かれていました。
途中、伊達勢にとがめられることなく、深谷に集合した者の数は数十人とも百人近いとも云われています。
薄衣城主千葉常雄、大原城主千葉重光(竹千代丸十五歳)、大原城客分鳥畑堅時、鳥畑堅俊(堅時の叔父)、それに内館の胤好ら。
葛西の旧臣たちは、伊達政宗を信頼して深谷に集まりました。
しかし戦国の世は甘くなかった。仕置軍の命令は厳しかったのです。
深谷の須江山に集まった葛西の旧臣たちは、やがて伊達政宗のおびただしい軍勢を迎えることになったのです。
鉄砲が撃ち込まれ、喚声が山谷にこだましたのです。
あまりの出来事に驚きながらも、旧臣たちは防戦にしのぎをけずったのです。
しかし、それもほんの一刻の間のこと、なんの備えもなく多勢に無勢、山をおりて東浜街道の糠塚まで退いたころ、そこにも伊達勢の伏兵がいたのです。
退路は断たれ、片側に渺々たる沼地。これまでと、小川に沿って沢を登りました。
集まった旧臣たちは、各地の城館主、沢の奥にたどり着いた武者たちは、あるいは刺し違え、あるいは腹を切り、ことごとく地に果てたのです。
松川内館の千葉胤好もこの地で果てることになったのです。
(出典 東山町の歴史)
【館山公園案内MAP】
岩手県一関市東山町松川字館
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