臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

今週の朝日歌壇から(8月25日掲載・其のⅠ・日曜夕刊・超早刷版)

2014年08月31日 | 今週の朝日歌壇から
[馬場あき子選]

(東京都・井ノ川澄夫)
〇  夏山に食草あまたありたるに故郷の山の痩せし野兎

 選者の馬場あき子氏は、この作品に就いて「第一首の夏山はかつての日の夏山。いまの故郷の山は兎の食草も乏しく痩せた野兎をみる。悲しい現実である。」と記しているが、この寸評は、文意不鮮明な本作を好意的にお読みになられてのものであり、結社誌「かりん」の主宰として、長年、多くの作品に接して来られた馬場あき子先生ならではの優しい読解ではあるが、本作を語義通りに解釈した場合に加えられるべき寸評とは思われません。
 然らば、本作がどのようになっていた場合に、その内容が馬場あき子先生の寸評と正しく対応するかと言うと、それは、本作が「夏山に食草あまた在りにしも故郷の山の痩せたる野兎」となっていた場合である。
 即ち、馬場あき子先生が「第一首の夏山はかつての日の夏山」と仰る「夏山」は、「夏山に食草あまた在りにしも」と、直接体験の過去回想の助動詞「き」の連体形「し」を用いて表現された「夏山」、即ち、作者に拠って回想的気分で述べられた「夏山」でなければならないのであり、原作通りに「夏山に食草あまたありたるに」であった場合は、「ありたるに」の「たる」は、「動作・状態の完全な終了を表す」助動詞の連体形、即ち「完了」の助動詞の連体形、乃至は「動作・状態の継続を表す」助動詞の連体形、即ち「存続」の助動詞の連体形であるから、「夏山には食草が沢山あったのに」乃至は「夏山には食草が沢山あったし、今も継続してあるのに」といった、漠然としていて曖昧模糊とした解釈しか成り立たないのであり、其処には、本作の作者・井ノ川澄夫さんの回想的情調や詠嘆的な気分が少しも示されていないのである。
 然らば、かつては都立高校の国語教師としての立場で文法教育に当たられたはずの馬場あき子先生ともあろうお方が、曖昧模糊とした内容の本作に対して、何が故に前掲のような好意的な寸評を与えたのかと言うと、それは、「新聞歌壇の投稿者の作品に限らず、昨今の短歌作者の作品の多くが、このような好意的な読み方をしない限り解釈不可能な作品、即ち国語表現上、疑義の在る作品である」が故の已むを得ざるご措置でありましょう。
 その点に就いての識者のご意見を伺いたく、何卒、宜しくお願い申し上げます。
 但し、私・鳥羽省三が腰を低くして「ご意見を伺いたく」とお願いしているのは、あくまでも「識者のご意見」であり、「識者に非ざる者のご意見」や「単なる馬鹿者の戯言」ではありませんから、その点に就いては、拙文を熟読なさった上で宜しくお願い申し上げます。
 本作の鑑賞に当たっては、前述の見解と共に、もう一点申し添えて置くべき点があり、それは用語上の問題点である。
 即ち、植物学的な観点、乃至は料理学的な観点に立った場合ならばともかく、「野兎等の野生動物が食べる草を『食草』と、極めて硬直した呼び方で呼ぶのは、短歌表現として相応しい表現であるか否かという問題」であり、更にもう一言申し添えるならば、「(夏山に食草)が沢山あったのに」と、率直かつ素朴に言えば済む場面で、「(夏山に食草)あまたありたるに」などと、作者ご自身、その意味も定かでない文語の助動詞「たる」を用いて、敢えて硬直した言い方で言わなければならなかった理由は「奈辺に在りや?」という点である。
 昨今の歌壇に於ける短歌表現の傾向は、文語表現から口語表現へ、「歴史的仮名遣ひ」に基づいての表現から「現代仮名遣い」に基づいての表現へと、漸進的に変化しているのであり、馬場あき子先生を肇とした、「文語文法」や「歴史的仮名遣ひ」に習熟した歌人の方々が黄泉路を辿る人になってしまえば、後は、口語短歌一色となるだろう事は、既定の事実と思われるのであるから、「馬場あき子先生を肇とした新聞歌壇の選者の方々は、その橋渡し的な役割りを果たすべきお立場の方々である」と、私・鳥羽省三は理解しているのであるが、その点に就いての識者のご意見をも併せてお伺い致したく、何卒、宜しくお願い申し上げます。
 〔返〕 いにしへは食べ草山に多かりき故郷の野兎の痩せたる様よ
     山は荒れ食べ草既に枯れたれば野兎どもの痩する他無し


(蓮田市・斎藤哲哉)
〇  黒蝶は凌霄花の蜜を吸い忌中の家はしんと静まる

 「黒蝶」と「忌中の家」との対比、そして「凌霄花」の紅さと「忌中の家」の暗さとの対比、更には「黒蝶」の黒さと「凌霄花」の紅さとの対比、対比の上に対比が重なる作品構成の見事さよ!
 但し、「黒蝶」と「凌霄花」と「忌中の家」との三つ巴の対比構造は、あまりにも付き過ぎるものとして、嫌われる懼れもありましょう。
 〔返〕  黄揚羽の泊らんとして狼狽へぬ喪家の軒の忌中の札に


(前橋市・荻原葉月)
〇  この世にて逢はざりし孫今在らばいかに詠みしか河野裕子は

 今は亡き、歌人・河野裕子氏のご長女は、同じく歌人の永田紅さんであり、その永田紅さんは、短歌総合誌「短歌研究」の三月号に、「フラミンゴ」というタイトルで次のような七首の作品を発表していた。

  お母さんですよと言えばお母さんになりゆくわれか腕まくりして
  耳つけてしっぽつけたら可愛かろうあたまとお尻の丸さを撫でる
  言い過ぎし言葉 塩酸数滴で越えてしまいしpHのごとし
  フラミンゴもミルク飲むって知っていた?雑学は誰かに言いたくて
  十年後などと思えば足元が風草のごとかなしくなりぬ
  豆餅のふたばの列に並びつつ君が抱くとき子は小さく見ゆ
  戦前と戦後の境は明白で戦後と戦前とのあいだに今はいるのか  (法成立)

 才媛・永田紅さんも四十路を目前にして、今や一児の母である。
 何分、高齢出産でもあり、「風草」の如く危なっかしい「お母さん」振りではありますが、何はともあれ、「ご出産おめでとうございます」と言わなければなりません。
 七首目「戦前と戦後の境は明白で戦後と戦前とのあいだに今はいるのか」の内容及び、それに付せられた「法成立」という詞書は、彼女が朝日歌壇の輝かしい選者・永田和宏氏のご長女である事の、何よりの証しでありましょうか?
 掲歌、即ち荻原葉月さんの作品に就いて申せば、相変わらず手慣れた詠風であり、題材が題材だけに、入選を確信してのご投稿であったのでありましょう。
 鳥羽省三の文章は、何を言っても皮肉交じりになってしまう。上掲の鑑賞文中の「何分、高齢出産でもあり、『風草』の如く危なっかしい『お母さん』振りではありますが、何はともあれ、『ご出産おめでとうございます』と言わなければなりません」と謂う件、及び「題材が題材だけに、入選を確信してのご投稿であったのでありましょう」という件が、それに相当するから削除した方が宜しいとの、蔭の声が「無きにしも非ず」ではありますが、敢えて思うがままに記させていただきました。
 話は、突如として私事に変りますが、昨8月30日は、私の二人目の孫娘が、過日行われた所属ピアノ教室のピアノ発表会での名演奏(?)が認められて選抜され、横浜市内の某ホールで行われた連合ピアノ発表会に出場したのであり、本来ならば、祖父母たる私たちも大きな花束を携えて会場に駆け付けるべき場面ではありましたが、思うところが有って欠席しました。
 私としては、私たちのたった二人しかいない孫娘の中の一人が、大勢の観客を前にして、如何なる演奏振りを示すか、今頃は失敗してケチョンとなって居はしないかなどと、いろいろと心配したのであるが、かと言って、つい、一箇月前のピアノ発表会に続いて、またまた、私たちが孫娘の演奏振りを誉めたりすると、天狗になりはしないかなどとも思って、今回は欠席した次第でありました。
 朝日歌壇の入選者諸氏に於かれましても、何卒、天狗になったりせずに、これからもご精進、ご努力なさいますようにお願い申し上げます。
 〔返〕  一箇月前に花束上げた孫にまた花束上げたら天狗になるだろう
  
  
(本庄市・佐野静子)
〇  仕留めんと髪切り虫を捕らえしがチュミチュミチュミチュ チュミチュと泣きぬ 

 「チュミチュミチュミチュ」「チュミチュ」との擬音が抜群の効果を発揮している。
 〔返〕  仕留めんと吉良の屋敷に踏み入りて見事遂げたり主君の仇を
      仕留めんと本所吉良邸襲撃し見事上げたり吉良の素っ首
      チュミチュミチュチュチュチュチュミチュミチュミチュミチュ≪ダルビッシュ有がガムを噛んでる≫
      チュミチュミチュチュチュチュチュミチュミチュミチュミチュ≪イチロー選手もガムを噛んでる≫
      チュミチュミチュチュチュチュチュミチュミチュミチュミチュ≪黒田投手もガムを噛んでる≫
      チュミチュミチュチュチュチュチュミチュミチュミチュミチュ≪上原投手もガムを噛んでる≫
      チュミチュミチュチュチュチュチュミチュミチュミチュミチュ≪デレク・ジーターもガムを噛んでる≫
      チュミチュミチュチュチュチュチュミチュミチュミチュミチュ≪メジャーリーガーはガムを噛むのだ≫


(石川県・瀧上裕幸)
〇  この星の涙の歴史にガザの涙イラクの涙ウクライナの涙

 それを言うならば、次のようなケースも有り得ましょうか?
 〔返〕  本年の涙のページに記そうか原監督の悔し涙を


(名古屋市・諏訪兼位)
〇  おののくもたたかうもまた同じ漢字戦も同じおぞましきもの

 動詞「おののく」の語幹も「たたかう」の語幹も、漢字で表記すれば「戦争」の「戦」の字であることを指摘し、「戦」の字で表記される言葉は「おぞましきもの」であると、自公連立政権に拠る「解釈改憲」に反対するご自身の立場を披歴したのではありましょうが、科学短歌のご本尊様たる諏訪兼位さんの御作としては、やや不出来な作品として拝見させていただきました。
 〔返〕  人間は風に戦げる葦なるも智恵ある葦ぞよく考えよ  


(東京都・大村森美)
〇  鳥海の山ふところを八十年くぐりて湧きし水を玩味す

 意味がやや不分明な箇所在り?
 即ち、三句目の「八十年」は、「鳥海山麓に湧く湧水が、雨として鳥海山の広大な橅林に降り注いでから『八十年』もの長期間、地下水となって地の底を流れていたのであるが、八十年後の今日、湧水として地上にその姿を現した」という、その期間を表すものでありましょうか?
 それとも、「作者ご自身が『鳥海の山ふところ』で暮らしていた期間」を指すものでありましょうか?
 恐らくは、前者の意で読み取るべきでありましょうが、それにしても曖昧であるから、語順を替えるなどの一工夫が必要かと思われる。
 〔返〕  鳥海の山ふところに湧き出でし湧水なるぞ心して飲め
      鳥海の山ふところに湧いていたとても冷たいミネラルウォーター


(徳島市・磯野富香)
〇  原爆に逝きし父の忌めぐり来も墓参叶はずホームに病む身

 そうです。
 今は病気療養専一になさって下さい。
 〔返〕  ミンダナオに眠れる従兄の忌日なるも今は金無く墓参も出来ず


(長野市・祢津信子)
〇  ほとんどが卒寿を越えた証言者被爆六十九年の今

 「卒寿」とは、「九十歳」の意である。
 とすれば、広島に原爆が投下されたのは今から六十九年前の事であるから、被爆当時の年齢は、二十歳以上という事になり、被爆体験を記憶している高齢者であり、その体験を語る事も可能でありましょう。
 彼らが亡くなってしまえば、被爆体験を語る事の出来る者が居なくなってしまうのであり、世界で唯一の被爆体験国としての我が国の「戦争反対運動」は風化してしまうのでありましょうか?
 それに就けても憎悪するべきは、我が国民の大多数の反対意見を無視して、解釈改憲を遣らかした徒輩であり、その取り巻きどもである。
 〔返〕  ほとんどが還暦前後の若造で被爆の悲惨さ知らない輩


(福井市・三武光子)
〇  いかばかり生きたかりけむ戦死せし父の慰霊にパラワン島に来ぬ

 「生きたかりけむ」程度は、今の私たちには、到底推し量る事が不可能な程のものでありましょう。
 〔返〕  烏賊刺しを食べたかりけむ我が従兄 八戸暮しが長かりし故
      烏賊刺しを食べたかりけむ伊調姉妹 八戸産れの女性なりせば
      烏賊刺しを食べたかりけむ羽仁もと子八戸産れのジャーナリストなれば
      烏賊刺しを食べたかりけむ響矢は八戸生まれの力士にあれば
      烏賊刺しを食べたかりけむさぶちゃんは 函館生まれの男なりせば
      烏賊刺しを食べたかりけむ神彰 函館生まれの男なりせば
      烏賊刺しを食べたかりけむ巴潟 函館生まれの力士なりせば
      烏賊ばかり食べていったっけあの頃は烏賊刺し塩辛烏賊の煮付けと 

今週の朝日歌壇から(8月25日掲載・其のⅡ・土曜夕刊)

2014年08月30日 | 今週の朝日歌壇から
[佐佐木幸綱選]

(川崎市・中堀きみ子)
〇  みすずかる信濃の国の佐久平浅間立あり蓼科立あり

 「みすずかる」、即ち「水篶刈る(水薦苅る)」は、「信濃」に係る枕詞であるとされているのであるが、「水篶(水薦)」とは「篠竹」の意であり、信濃の国には篠竹が多く生えていることから、「水篶刈る(水薦苅る)」と言えば、すぐさま、国名としての「信濃」が連想されるので、「水篶刈る(水薦苅る)」が「信濃」を導き出す枕詞となったのでありましょう。
 一方、名詞としての「水篶(水薦)」は、本来的には「みすず」では無く、「みこも」と読むべきなのであるが、これを江戸時代の著名な万葉学者の賀茂真淵が「みすず」と誤って読んでしまった事から、「信濃」の枕詞としての「水篶刈る(水薦苅る)」が「みすずかる」と読まれる事になってしまったとする異説も在る。
 それはともかくとして、本作は、万葉以来の遠大な時空間を連想させる、「みすずかる」という枕詞で以って詠い起こし、「みすずかる信濃の国の佐久平」と、いにしえから肥沃の地とされている「佐久平」を中心とした「信濃の国」を、悠久かつ雄大に把握して紹介し、真夏にその地に降る「夕立」には、浅間山方面から降り始める「浅間立」と、蓼科方面から降り始める「蓼科立」との二種類が在る事を述べ、併せて「佐久平は、真夏に、その二種類の夕立が降るが故に気候風土に恵まれた悠久な大地である」と褒め称えているのである。
 〔返〕  水篶刈る空母信濃の排水量「六万八千六十総頓」


(館林市・阿部芳夫)
〇  蝶を追う虫取り網が大空をゆっくり密かに捕まえにゆく

 「虫取り網」そのものが、「大空をゆっくり密かに」「蝶」を「捕まえにゆく」のでは無くて、「蝶を追う」昆虫採集者が、自ら手にした「虫取り網」を、「大空をゆっくり密かに」「蝶」に近づけて行って、結果的には「蝶」を捕まえる事に成功したのである。
 しかしながら、朝日歌壇の常連中の常連たる阿部芳夫さんともなれば、そうした事実をそのままに表現したのでは入選も覚束ないと計算したのか、敢えて、「虫取り網」を擬人化して、「蝶を追う虫取り網が大空をゆっくり密かに捕まえにゆく」としたのでありましょう。
 私は、本作に接した瞬間、まるで無声時代の映画を観ているように感じたのであるが、この歌読み上手(?)の私をして、そのような異様な感覚に陥れたのも、本作の作者・阿部芳夫さんの優れた技巧でありましょうか?
 〔返〕  蝶を追う虫取り網の如くしてアンパンマンを捕らえた安倍ちゃん
 前掲の返歌中の「アンパンマン」とは、あの方を指して言うのである。
 

(さいたま市・佐藤治男)
〇  シベリアの墓標に共にぬかづきし友ははや亡し我も老いたり

 いわゆる「シベリヤ墓参」がその途に就いたのは、1992年5月のことである、とか。
 だとすれば、前年にソビエト連邦が崩壊して、あの巨大な北の大地が「ロシア連邦(Российская Федерация)」に生まれ変わったものの、未だに混乱状態にあった最中の事であった。
 それ以来、彼の酷寒の大地に、戦友や肉親を葬らなければならなかった方々は、彼の国の政治家諸氏の顔色を覗いながらも、営々として「シベリア墓参」を繰り返して来たのではある。
 しかしながら、彼の酷寒の地の墓標の前に額づいて、今は亡き戦友や肉親などの極楽往生を願って人々も、歳月の流れと共に年老い、死に絶えてしまって、次第に数が少なくなってしまったのであるが、本作の作者・佐藤治男と共に遠くシベリヤまで足を運び、「墓標に共にぬかづきし友」も亦「はや」亡くなってしまって、佐藤治男さんご自身も亦、年老いてしまったのである。
 〔返〕  哀しきは北の大地の墓標かな鳥羽何某の「何某」見えず


(飯能市・高橋節子)
〇  戦争を語らず父は骨になる頑固一徹憲兵のままに

 元「憲兵」の方々が、敗戦後「戦争を語らず」じまいで亡くなってしまったとは、よく聴く話であり、亦、その方々が、敗戦後「頑固一徹」を装っていた、という話もよく耳にします。
 思うに、かつての「憲兵」の方々は、国家機密に触れる機会も多くあったのであり、一般の兵士の方々とは異なった仕事をなさっていたので、敗戦後は「頑固一徹」を装い、世間様に目立たないように暮らすのが得策だったのでありましょう。
 〔返〕  戦争をせざる為さざる戦争に関はらざるを佳しとするべし


(福島市・美原凍子)
〇  烈日のなか八月の貨車が来る過去の闇乗せ重き貨車来る

 作中の「貨車」を単なる「貨車」とせずに、「八月の貨車」とした事に拠って、詠い出しの「烈日のなか」及び「過去の闇乗せ」という四句目の措辞がより生かされる結果になったのであるが、作者の意図としては、「特定秘密保護法の施行」や「集団的自衛権の行使」に反対する作者自身の姿勢を、「八月の貨車」を中心とした一首全体の表現を通じて、象徴的に述べたかったのでありましょう。
 それにしても、「八月の貨車」とはよく思い付いたものである。
 これが、一箇月前の「七月の貨車」や、一箇月後の「九月の貨車」であったり、同じ八月の乗り者でも「八月の電車」だったり「八月のバス」だったり「八月のジェット機」だったりしていたのでは、様になりませんからね?
 〔返〕  八月の最終バスの乗客は「降りますランプ」を押すことも無し


(札幌市・藤林正則)
〇  整然と一万千七百五十の椅子並ぶ平和記念公園雨降り続く

 本年の「広島市原爆死没者慰霊式」に於いては、主催者の広島市当局が予め列席者数を「一万千七百五十」名と想定していて、その分だけの「椅子」を雨降る会場に並べて置いたのでありましょうか?
 本作の作者・藤林正則さんは、NHKのテレビ中継などで、列席者の正確な員数を耳にしていて、それをそのまま本作の表現に採り入れたのではありましょうが、それにしても「一万千七百五十の椅子」とはあまりにも語呂が悪く、藤林正則さんの詠歌力を以ってしても、是が一首の短歌として成立するか否かの境目の数字と言うべきであり、作者ご自身がその数字に拘るならば、更なる推敲を要求したい場面である。
 〔返〕  整然と並べられたる一万余雨に降られて椅子も涙す
 ところで、彼の慰霊式に於ける安倍総理の挨拶が、前年度の「コピペ」であるとか無いとか、マスコミでいろいろと取沙汰されているのであるが、次に本年度のそれと昨年度のそれとをそのままに、下記の通り、無断転載させていただきますから、心ある方々にはご一読賜りたく、お願い申し上げます。

≪平成26年全文≫
 広島市原爆死没者慰霊式、平和祈念式に臨み、原子爆弾の犠牲となった方々の御霊に対し、謹んで、哀悼の誠を捧げます。今なお被爆の後遺症に苦しんでおられる皆様に、心から、お見舞いを申し上げます。
 69年前の朝、一発の原爆が、十数万になんなんとする、貴い命を奪いました。7万戸の建物を壊し、一面を、業火と爆風に浚わせ、廃墟と化しました。生き長らえた人々に、病と障害の、また生活上の、言い知れぬ苦難を強いました。
 犠牲と言うべくして、あまりに夥しい犠牲でありました。しかし、戦後の日本を築いた先人たちは、広島に斃れた人々を忘れてはならじと、心に深く刻めばこそ、我々に、平和と、繁栄の、祖国を作り、与えてくれたのです。緑豊かな広島の街路に、私たちは、その最も美しい達成を見出さずにはいられません。
 人類史上唯一の戦争被爆国として、核兵器の惨禍を体験した我が国には、確実に、「核兵器のない世界」を実現していく責務があります。その非道を、後の世に、また世界に、伝え続ける務めがあります。
 私は、昨年、国連総会の「核軍縮ハイレベル会合」において、「核兵器のない世界」に向けての決意を表明しました。我が国が提出した核軍縮決議は、初めて100を超える共同提案国を得て、圧倒的な賛成多数で採択されました。包括的核実験禁止条約の早期発効に向け、関係国の首脳に直接、条約の批准を働きかけるなど、現実的、実践的な核軍縮を進めています。
 本年4月には、「軍縮・不拡散イニシアティブ」の外相会合を、ここ広島で開催し、被爆地から我々の思いを力強く発信いたしました。来年は、被爆から70年目という節目の年であり、5年に一度の核兵器不拡散条約(NPT)運用検討会議が開催されます。「核兵器のない世界」を実現するための取組をさらに前へ進めてまいります。
 今なお被爆による苦痛に耐え、原爆症の認定を待つ方々がおられます。昨年末には、3年に及ぶ関係者の方々のご議論を踏まえ、認定基準の見直しを行いました。多くの方々に一日でも早く認定が下りるよう、今後とも誠心誠意努力してまいります。
 広島の御霊を悼む朝、私は、これら責務に、倍旧の努力を傾けていくことをお誓いいたします。結びに、いま一度、犠牲になった方々のご冥福を、心よりお祈りします。ご遺族と、ご存命の被爆者の皆様には、幸多からんことを祈念します。核兵器の惨禍が再現されることのないよう、非核三原則を堅持しつつ、核兵器廃絶に、また、世界恒久平和の実現に、力を惜しまぬことをお誓いし、私のご挨拶といたします。
           平成二十六年八月六日  内閣総理大臣・安倍晋三
≪平成25年全文≫
 広島市原爆死没者慰霊式、平和祈念式に臨み、原子爆弾の犠牲となった方々の御霊に対し、謹んで、哀悼の誠を捧げます。今なお被爆の後遺症に苦しんでおられる皆様に、心から、お見舞いを申し上げます。
 68年前の朝、一発の爆弾が、十数万になんなんとする、貴い命を奪いました。7万戸の建物を壊し、一面を、業火と爆風に浚わせ、廃墟と化しました。生き長らえた人々に、病と障害の、また生活上の、言い知れぬ苦難を強いました。
 犠牲と言うべくして、あまりに夥しい犠牲でありました。しかし、戦後の日本を築いた先人たちは、広島に斃れた人々を忘れてはならじと、心に深く刻めばこそ、我々に、平和と、繁栄の、祖国を作り、与えてくれたのです。蝉しぐれが今もしじまを破る、緑豊かな広島の街路に、私たちは、その最も美しい達成を見出さずにはいられません。
 私たち日本人は、唯一の、戦争被爆国民であります。そのような者として、我々には、確実に、核兵器のない世界を実現していく責務があります。その非道を、後の世に、また世界に、伝え続ける務めがあります。
 昨年、我が国が国連総会に提出した核軍縮決議は、米国並びに英国を含む、史上最多の99カ国を共同提案国として巻き込み、圧倒的な賛成多数で採択されました。
 本年、若い世代の方々を、核廃絶の特使とする制度を始めました。来年は、我が国が一貫して主導する非核兵器国の集まり、「軍縮・不拡散イニシアティブ」の外相会合を、ここ広島で開きます。
 今なお苦痛を忍びつつ、原爆症の認定を待つ方々に、一日でも早くその認定が下りるよう、最善を尽くします。被爆された方々の声に耳を傾け、より良い援護策を進めていくため、有識者や被爆された方々の代表を含む関係者の方々に議論を急いで頂いています。
 広島の御霊を悼む朝、私は、これら責務に、旧倍の努力を傾けていくことをお誓いします。
 結びに、いま一度、犠牲になった方々の御冥福を、心よりお祈りします。ご遺族と、ご存命の被爆者の皆様には、幸多からんことを祈念します。核兵器の惨禍が再現されることのないよう、非核三原則を堅持しつつ、核兵器廃絶に、また、恒久平和の実現に、力を惜しまぬことをお誓いし、私のご挨拶といたします。
       平成二十五年八月六日  内閣総理大臣・安倍晋三
 〔返〕  なるほどな是ではまるきしコピペだよ小保方さんを責められないよ


(北海道・斉藤洋子)
〇  午前5時コンブ漁は始まりぬ長き汀はあめ色の帯

 「長き汀はあめ色の帯」との、隠喩を用いた把握が宜しい。
 〔返〕  彼の国は採り放題のコンブ漁午前5時からいよいよ開始


(坂戸市・山崎波浪)
〇  靴箱の隅に一足下駄ありて一度も履きし覚えなきかな

 それを言うならば、私の場合は次の通りである。
 〔返〕  靴箱の隅に半足靴在りて誰のか判らぬガラスの靴だ


(東京都・上田結香)
〇  少々の筋肉と多く友を得てスポーツクラブも二年目の夏

 それを言うならば、私の場合は次の通りである。
 〔返〕  僅かだが贅肉減らして疲れ果て朝の散歩を終わって帰る


(船橋市・武蔵義弘)
〇  ステテコに腹巻姿の我を見て似合いすぎると妻は苦笑す

 それを言うならば、私の場合は次の通りである。
 〔返〕  猿股は褌よりも涼しくて夏の下穿きもってこいだぞ

今週の朝日歌壇から(8月25日掲載・其のⅢ・土曜朝刊・再訂版)

2014年08月30日 | 今週の朝日歌壇から
[高野公彦選]

(和泉市・長尾幹也)
〇  手柄盗ってそのうえわれを能無しと評する人にお中元贈る

 選者の高野公彦氏の寸評に「世の中は理不尽なことが多い。長い物に巻かれる悔しさ」とあるが、高野公彦氏と言えば、時には「愚直」とも評されるくらいの真っ正直なご性格の方であるから、氏は、本作を現実の出来事を詠んだ作品として捉え、前述のような寸評を述べられたのでありましょう。
 然るに、和泉市にお住いの長尾幹也さんと言えば、朝日歌壇の常連中の常連として知られた、極めて著名な歌人であり、彼の作品がほぼ毎週のように当歌壇に掲載されているという事は、彼のご家族やご親戚の方々は勿論、彼と同じ和泉市内にお住いの方々、彼と同じ大阪府内の歌詠みの方々、更には、彼の勤務先の方々など、大勢の方々がご存じのはずである。
 したがって、本作の内容が、仮に現実の出来事に取材したものであったとしたならば、彼・長尾幹也さんから「手柄」を盗んだ挙句に、彼を「能無し」と決め付けた人物、即ち、朝日歌壇の常連歌人たる長尾幹也さんが、屈辱感と重ね重ねの恨みに耐えながらも「お中元」を送らざるを得なかった人物は、必ずや、彼と職場を共にする人物であり、彼の上司である事は、殆ど間違い無いはずでありましょうし、もしもそれが本当の事であるならば、彼・長尾幹也さんの是からの職業生活に於いても、多大なる影響を与えるはずであり、その影響とは、彼、長尾幹也さんを失業させてしまうような質の影響であるはずである。
 といった事柄に基づいて判断すれば、本作は、才人・長尾幹也さんが、サラリーマン社会に取材した短編小説でも書くつもりになって詠んだ「フィクション短歌」であると、断定せざるを得ない事にもなりましょうし、また、敢えて言うならば、この作品を首席に選んだ選者の寸評、即ち「世の中は理不尽なことが多い。長い物に巻かれる悔しさ」は、この作品に与えた寸評と言うよりも、むしろ、この「フィクション短歌」のテーマに就いて触れた短文として捉えた方がより適切な捉え方という事にもなりましょう。
 〔返〕  生ハムに毒針刺してのお中元食えば忽ち冥途特急    


(京都市・古川やす子)
〇  「みんなで」じゃなくて「ふたりで」見たいのと言えずに想い浴衣としまう
 
 京都市にお住いの古川やす子さんは、この夏のせめてもの想い出として、彼と「ふたりで」映画を見たかったのであるが、気の利かない彼は、在ろう事か「映画なら、友達の友達も連れて、みんなで行こう」などと、凡そ、女心の「お」の字を知らないようなことを言い出したので、結局のところは、彼と二人で映画を見る事は勿論、彼への「想い」さえも「浴衣」と一所に箪笥の底にしまってしまわなければならない事態になってしまったのである。
 〔返〕  「イントゥ・ザ・ストーム」この夏彼と二人で見た映画!恐かったから彼の首にしがみ付いたの!


(調布市・水上香葉)
〇  言霊の幸う国の木に止まり法・崩・不穏とふくろう鳴くよ

 せっかく「言霊の幸う国」とまで言っているのだから、どうせなら「鶯が法、法、法華経と鳴く」と言って欲しかったのである。
 入選したさに朝日新聞の「解釈改憲反対キャンペン」に迎合するのも宜しいが、大概の所で止めておかないと、逆に言霊様の祟りに遭うかも知れませんよ!
 〔返〕  言霊の栄える国の木に止まり仏法僧と鳴く鳥がいる 


(大阪市・石田貴澄)
〇  手作りの暑中見舞いの暴れ文字そうか元気か僕も元気だ

 そのC調振りには感心する他ありません!
 〔返〕 パソコンで表も裏も書けるから暑中見舞いは容易いもんだ!


(東京都・上田結香)
〇  「恐い事件あったね」「どの?」と言うような恐い世の中になってしまった
(徳島市・上田由美子)
〇  卵抱くキジバトの見る空の続き爆弾により子らが死にゆく

 本当に怖い世の中になってしまいましたが、私にとっては、易々と朝日新聞社のキャンペンに迎合する歌人ちゃんたちの方が、それよりもずっとずっともの凄く怖い存在なのである。
 〔返〕  防衛省の予算請求四兆円これじゃ益々軍事大国


(岐阜県・野原武)
〇  乗り組みし人みな鬼籍に入りてなおエノラゲイの名消ゆる事なし

 戦争体験の無い若造どもが「憲法九条」を云々している時代であれば、それも致し方無しとしなければなりません。
 〔返〕  エノラゲイとはどんな芸お笑いの芸人こまつのよく遣るゲイだ
 即興で詠んだ拙作ではありますが、「エノラゲイ/とはどんな芸/お笑いの/芸人こまつの/よく遣るゲイだ」と、音数だけは「五・七・五・七・七」の三十一音に納まっているのである。 


(平塚市・風花雫)
〇  感じよく挨拶をして踏み込まず空気のようにこの街に住む

 そうした心掛けでは、「いざ、鎌倉!」という事態に遭遇しても、誰からも助けて貰えませんよ!
 〔返〕  人間は空気のようには住めません食事もするしオシッコもする
      感じ良く挨拶をして通り過ぐ!「あの人油断のならない人だ!」
 いつもいつも、ご近所の方々に「感じよく挨拶」をしているからと言っても、必ずしも、ご近所の方々からの評価が高いとは限りませんぞ!
 私の今は亡き長姉は、居住地・秋田県羽後町の新町長を評して「今度の町長は、私のような皺苦茶婆さんにまで、丁寧なお辞儀をするから、なかなか油断がならないぞ!」などと言っていたのであり、同じ町内の同年輩の方々の殆どが、これと似たような事を口にしているのである。  

(横浜市・松村千津子)
〇  四本の矢を射終へれば弓道着汗ばみ肩で息する八月

 弓道なんて他のスポーツと比較すれば、どうせ老舗の御隠居様の芸妓遊びみたいなものですから、「四本の矢を射終へれば弓道着汗ばみ肩で息する」のも、当然の事なのかも知れません。
 作者の意図からすれば、本作を通して、今年の夏の異常な暑さを強調して言いたかったのかも知れませんけど!
 〔返〕  通し矢でその名馳せたる紀伊国(きのくに)の和佐大八郎の矢数八千
 紀州藩士・和佐大八郎が京都・三十三間堂に於いて命中させた矢数を正しく言えば、「13,053
射中の命中数が8,133本」であり、その命中率は六十二%であったとか?
 横浜市にお住いの松村千津子さんは、同じ道を志す武芸者として、彼の和佐大八郎の締めていた褌に集っていた虱の爪の垢でも煎じて飲んでみたら如何でありましょうか?

 
(富山市・松田梨子)
〇  人間の言葉をしゃべる猫かもね風かもね桃かもね妹

 松田家に於ける話題は、専ら松田家の家族の自慢話である。
 こんな事では、子供たちの社会性が育つはずも無く、視野を狭めるだけでありますから、先ずは、長女の梨子さんが率先して広く世間に目を向けなければなりません!
 〔返〕  ご家族のことしか詠まない歌人かも松田梨子さん視野広く持て

鳥羽省三歌集(其の2~独り狂言<或いは、去にし世に>~)

2014年08月29日 | 鳥羽省三歌集
     『去にし日に<或いは、藤原紀香讃>』


〇  六十二吋のテレビ画面で出逢ひたる紀香愛しく身も世もあらず

〇  お笑ひのあんな野郎の何処が佳い早く別れよ藤原紀香

〇  ぐいと抱き「紀香」と呼べば「今は駄目、主人が寝たら」と紀香言ふ夢

〇  まぐはへる紀香の極みの声により夢の覚めたり紀香憎しも

〇  遅かりし紀香とばかりに抱きたれば「今日は止して」と紀香は云ひき

〇  鬱を病む夫を「つれ」と呼ぶ役の藤原紀香を吾は許さじ

〇  笑む時のえくぼが少し通ひゐて紀香かはゆし妻もかはゆし

〇  蝶を追ふ紀香の仕草を夢に見て覚めてみたればゴキブリ追ふ妻

〇  ゴキブリを叩く音にて目覚めつる紀香とまぐはふ夢の覚めたり

〇  往にし世にソ満国境越ゆるとき紀香は我にしがみ付きなむ

〇  往にし世のソ満国境越えて行き紀香と吾の夢に彷徨ふ

〇  縊られしアナスタシアに似たるかな紀香目覚めよウィーンは遠し

〇  二子玉川(にこたま)は隈無く電飾されてゐて背徳紀香を拒める如し

〇  街はみなジングルベルに包まれつ紀香も吾も背中窄めぬ

〇  アウトレットのミンクのコートは何のその肩寄せ合へば寒くはないさ

〇  お笑ひと外人好きの紀香なれ我は好いちょる紀香を好いちょる

〇  宵ごとも夢に顕ち来る紀香なれ我老いたれば毫も起たざる

〇  身の丈があまり高くて荒妙の藤原紀香は我に不似合ひ

〇  「先に逝く不幸許せ」と云ひたれば紀香はただに首振るばかり

〇  世は無常つね無きものと知りたれば紀香の不倫を我は恨まじ

〇  黒革の手帖に我が名記されり「鳥羽省三=狂言廻し」と

  

今週の朝日歌壇から(8月25日掲載・其のⅣ・金曜夕刊・超早刷版)

2014年08月29日 | 今週の朝日歌壇から
[永田和宏選]

(舞鶴市・吉富憲治)
〇  崩壊のガザの瓦礫の道路を行く負傷者積みし小型TOYOTO車

 作者の吉富憲治さんは、ご自身が長い間海外生活をしていただけにテレビなども海外のニュース番組を視る機会が多いのでありましょうか?
 だとしたら、本作は、過日たまたま目にしたNHKテレビのニュースの中で件の「小型TOYOTO車」を目にして、深く考えるところがあったのでありましょう。
 選者の永田和宏氏は、本作に就いて「砲弾の止むことにないガザの街、活躍する日本車に複雑な思いも」という、如何にも朝日歌壇の選者らしい寸評を加えて居られる。
 〔返〕  パレスチナは神が与へし約束の地 聖典タナハは説くのであるが


(東根市・庄司天明)
〇  法の字を「灋」と正字で書きてみし解釈改憲なりし夕べに

 本作に登場する「灋」の字は、「さんずい」に十八画をプラスした文字であり、私の手元に在る『新版・漢語林』には、「法の古字」とのみ記されている。
 本作で以って、作者の庄司天明さんが云わんとするところは「解釈改憲に反対」という意志でありましょうか?それとも「解釈改憲に賛成」という意志でありましょうか?
 その点に就いては、評者の私としては大いに気になる場面ではある。
 例えば、「愚息・金之助と中根重一・豁子様ご夫妻のご長女・鏡子さんとの婚約が成りし朝に詠める一首」との詞書を持った短歌が在ったとするならば、その内容は必然的に「愚息・金之助の婚約成立を慶ぶ」という内容で無ければならないのであるが、それと同様に、本作の四、五句目の表現、「解釈改憲なりし夕べに」という文言は、明らかに「解釈改憲が成就しておめでたい」とか「解釈改憲が上手く行って気持ちが爽やかになった」という気分に拠る文言であると、判断せざるを得ないからである。
 選者の永田和宏氏の寸評には、「こんな難しい字で書かれるべき法が蔑ろにされてはという思いもあろう」と在るのではあるが?
 私の思うところを忌憚なく述べさせていただきますと、「本作の作者の庄司天明さんは単なるディレッタントに過ぎない」と、私は思っているのである。
 〔返〕  「さんずい」に十八画の「灋」の字は老眼我にはとても書けない!


(東京都府中市・日高詩織)
〇  成人し私はこれより責めを負う此の国の負う血の責めまでも

 本作の作者の日高詩織さんは、「成人し私はこれより責めを負う此の国の負う血の責めまでも」などと、神がかり的な事を仰っているのであるが、「血の責め」という言葉の何たるかを知った上で、斯くの如き悲愴な覚悟を示して居られるのでありましょうか?
 アメリカ軍の戦闘機「B29」から投下される爆弾から逃げようとして、終戦前夜に、故郷の山中の闇の中を逃げ回った経験を持つ私としては、大いに気になる場面ではあるが?
 〔返〕  戦争は詩でも夢でもありません血で血を洗う現実である
 昭和20年8月14日の夜に、私の故郷の町にもアメリカ軍の戦闘機「B29」が飛来して、隣町・横手の旅館に爆弾数発を投下した後、その当時、我が国唯一の石油精製施設の在る土崎港を目指して飛んで行った。
 闇の中にサイレンが鳴り響き、我が家の上空を行く「B29」の爆音とサイレンの音に怖れ慄いた我が家の家族は、自宅から徒歩10数分の距離に在る、防空壕代わりの山中の小屋に退避しようとしたのである。
 その折、私より2歳年下の双子の弟たち(当時、数えで3歳)は、それぞれ年上の姉たちに背負われて退避して行ったのであるが、私は、それに遅れること10数分後に、家中の戸締りをした父親の背中に背負われて退避しようとしたのであるが、その途上の山坂で、私の父親は木の切株に足を取られて崖の下に転落してしまったのである。
 これは、爾後に姉から聴いた話であるが、その折、当時5歳の私は、健気にも崖の中まで降りて行って、肋骨を三本も骨折して苦しんでいる父親を、何とかして崖の上まで引っ張り上げようとして草の根に摑まって懸命に手を伸ばしていた、ということである。
 ところで、私たちの母親は、終戦の日に先立つこと1ケ月前に病死していたのである。
 

(金沢市・前川久宣)
〇  我が祖父は色が黒くて酒飲みで玉音放送に肩震はせき

 「我が祖父は色が黒くて酒飲みで玉音放送に肩震はせき」とは、第二次世界大戦当時の大多数の国民感情を把握し、偽りなく述べた表現かと思われ、件の「祖父」は、日本全国孰れの村にも見られる、平均的な高齢者なのであり、それだけに、戦争というものの恐ろしさが強調されるのである。
 〔返〕  戦争は人のこころを闇にする何が何でも戦争反対!
 そう!
 施行された当時の憲法9条の精神は、「何が何でも戦争反対!」という点に在ったのであり、自衛権云々は、戦争というものの悲惨さを知らない者の、後世の付け足しに過ぎないのである。


(熊本市・近藤史紀)
〇  語るより語らぬことの豊かさを知った十八祭りの夜に

 熊本市にお住いの青二才、近藤史紀さんはいつもの調子でいつものような戯言を言ってるのである。
 「十八」の「祭りの夜」に「知った」という「語るより語らぬことの豊かさ」とは、どうせ、惚れた腫れたというぐらいのレベルの些事でありましょう!
 〔返〕  語るより語らぬことの豊かさは惚れた腫れたのレベルの些事だ


(名古屋市・杉大輔)
〇  君の頬紅く染まってホームから車内の僕を負けじと見ていた

 今週の永田和宏選は、一席から四席までが「解釈改憲」関連であったが、五席、六席、七席と連続して、それまでとは趣きを異にして、若者の色恋沙汰から取材した作品を入選作としているのである。
 こうした点は、選者の永田和宏氏なりの見識に基づいての事でありましょうが、これらの三首の作品を前にしている私・鳥羽省三の偽らざる気持ちとしては、「馬鹿馬鹿しくて遣ってらんない!」といった投げ遣りな気持にもなってしまうのである。
 残り少ない人生を安心立命の気持ちで生きようとしている私にとっては、昨今の若者たちの勝手気儘な色恋沙汰は目の毒なのかも知れません。  
 〔返〕  ホームにて君は小さな肩震わせて去りゆく僕に手を振ってたね
 伊勢省三作詞・作曲の『なごり雪』は、そんな想い出を抱えた私にとっては、永遠の記念碑のような歌なのであり、必ずしも美女とは言えない「イルカ」が、大きなギターを爪弾きつつ、「汽車を待つ君の横で/ぼくは時計を気にしている」と囁くようにして歌った時の記憶を、七十四才になった私は未だに忘れられないのである。
 『なごり雪』は、作詞・作曲者の伊勢省三の歌唱で聴くのも宜しいが、伊勢省三と較べれば、孰れが女性か判らないようなイルカの歌唱で聴くのも、また一段と趣きを異にしたものがあり、私はどちらかと言うと、イルカの歌唱で聴きたいと思うのである。
                          
 汽車を待つ君の横で ぼくは時計を気にしている
 季節はずれの雪が降っている
 東京で見る雪はこれが最後ね と
 淋しそうに君がつぶやく
 なごり雪も降る時を知り
 ふざけすぎた季節のあとで
 今 春が来て
 君はきれいになった
 去年よりずっときれいになった

 動き始めた汽車の窓に顔をつけて
 君は何か言おうとしている
 君の唇が「さようなら」と動くことが怖くて
 下を向いていた
 時が行けば
 幼い君も大人になると気付かないまま
 今 春が来て 君はきれいになった
 去年よりずっときれいになった

 君が去ったホームに残り
 落ちては溶ける雪を見ていた
 今 春が来て 君はきれいになった
 去年よりずっときれいになった


(岡山市・深井克彦)
〇  学生の街を夏日が照らすとき君は日傘を少し傾げる

 「学生の街」と言えば、私にとっては、即「御茶ノ水」から「神田神保町」に至る、あの坂道かと思ってしまうのであるが、岡山にも「学生の街」らしき地が存在するのでありましょうか?
 それにしても、「学生の街を夏日が照らすとき」「君は日傘を少し傾げる」などと仰るとは、岡山市にお住いの深井克彦さんは、田舎者のくせして、何とセンスが宜しいのでしょうか!
 同性ながら、今の私は、岡山市にお住いの深井克彦さんに、激しい嫉妬の情を覚えているのであり、殊更に「岡山市にお住いの」という修飾語をお名前の前に置いたり、「田舎者のくせして」などと言ったりするのは、その所為かも知れません。
 〔返〕  青春が今であるとも気付かずにチャペルの鐘に耳傾けてた


(横浜市・森秀人)
〇  冥界に出入りしたとう篁の井戸覗き見る盂蘭盆会近し

 作中の「篁の井戸」は、「京都嵯峨の福生寺(生の六道、明治期に廃寺)と京都東山の六道珍皇寺(死の六道)に在った」とされていて、「小野篁は、夜毎、件の井戸を通って地獄に降り、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていた」という伝承が在る。
 表現に就いて、一言申し添えますと、一首全体が文語調であるから、「冥界に出入りしたとう」は「冥界に出入りしたとふ」とした方が宜しいかも知れません。
 〔返〕  冥界に出入りしたとふ篁の井戸見に往かむ来年の夏 


(熊谷市・内野修)
〇  蜥蜴の尾青くきらきら光りけり巻機山の橅の根元に

 「巻機山の橅の根元」に棲息して居ようが、越後国一宮・弥彦神社の拝殿の床下に棲息して居ようが、私は「蜥蜴」や「イモリ」や「守宮」の類が大嫌いであり、あれを目にした瞬間,身の毛がよだってしまいます。
 したがって、大変失礼ではありますが、本作の鑑賞はパスさせていただきます。


(摂津市・内山豊子)
〇  命日を書きおくせめて夫と父母かかねば忘れる歳とはなりて

 此れも亦、「終活」の類でありましょうか?
 〔返〕  ケータイに自宅の電話番号を登録せむとす忘れないうちに

今週の朝日俳壇から(8月25日掲載・其のⅠ・木曜夕刊)

2014年08月28日 | 今週の朝日俳壇から
[金子兜太選]

(三郷市・岡崎正宏)
〇  水底の青の如くにかなかなかな

 日がな一日「かなかなかな」と鳴いている蜩の声を「水底の青の如く」と色彩感覚で捉えているのである。
 通常、蝉の鳴き声などを知覚するのは耳の働き、即ち「聴覚」に拠るのであるが、本句の場合は、目の働き、即ち視覚に置換して知覚しているのであるが、こうした手法自体は格別に目新しい手法ではありません。
 ところで、私の音感からすれば、蜩の声を文字で表す場合は「かなかなかな」と「ひらがな」で表すよりも「カナカナカナ」と「カタカナ」で表す方がより実感を伴った表現であると思うのであるが、で、いざ、掲句を「水底の青の如くにカナカナカナ」と書き変えてみると、蜩がただ徒に喧しくけたたましく鳴いているだけの感じになってしまい、結果的には原作のままの方が宜しいのである、という事に気付かされました。
 一句の御教示、大変有り難く拝受させていただきます。
 〔返〕  水底の青を切り裂き岩魚釣る
 澄み切った渓谷の水底から、二尺余りの岩魚を釣り上げる時は、恰も碧い鏡の鏡面を切り裂くような、視覚と触覚を伴った特異な感覚を味わったものでありました。
 私は、少年時代に父と一緒に郷里の最高峰・三本槍という山の麓の渓谷に出掛けて岩魚釣りを遣った事がありましたが、上掲の返句は、その時の経験に基づいて創作したものである。


(清瀬市・峠谷清広)
〇  熱帯夜昔の私と怒鳴り合い

 選者・金子兜太氏の寸評に「若き日も今も不甲斐なきわが身よ」とあるが、あの金子兜太氏にして、「わが身」を省みて「不甲斐なき」と感じる事が在るのでしょうか?
 〔返〕  熱帯夜わが身の裡の情熱し


(埼玉県皆野町・宮城和歌夫)
〇  体験の黙殺さるる敗戦忌

 そう、戦争体験も無い若造の胸先三寸で以って、私たちの可愛い孫世代が戦場に駆り出されようとしているのでありますから・・・・・・・。
 〔返〕  老い耄れは死ねとばかりの福祉行政


(八王子市・額田浩文)
〇  太陽の真下に地球ヒロシマ忌

 あの夏は、日本全国ただの一日として雨が降らず、私たちの狂った頭の天辺に太陽光が燦々と降り注いでいたように記憶しておりますが、勿論、是は私の記憶違いではありましょうが?
 〔返〕  太陽の熱に増されるピカの熱


(島根県邑南町・高橋多津子)
〇  病床の母照らすやも夏の霜

 今年の夏に、島根県邑南町では霜が降りたのでありましょうか?
 竜巻が起きたというニュースや雹が降ったというニュースには度々接したように記憶しておりますが、島根県で夏霜が降りたというニュースには接したという記憶が無いのであるが、是は私が呆け老人になってしまったからの事でありましょうか?
 〔返〕  頭髪に霜を戴く齢なれば鳥羽もトンビも否異剽露と鳴く


(八幡市・小笠原信)
〇  白鳥や貴族といふは首の長さ

 「貴族といふは首の長さ」という事は、昭憲皇太后や大正天皇や大正天皇の御生母の二位の局や、貞明皇后などの高貴な方々のお写真を拝するに付けてもよく理解されるのであるが、最近の皇室の方々、皇太子殿下やお妃の雅子妃殿下及びそのご夫婦のご息女様、更に申せば皇太子殿下の御妹様などは、孰れの御方も「貴族といふ」程の「首の長さ」には達していないとも思われますが、それは私の視力が衰えている所為でありましょうか?
 〔返〕  鶴首と名付けられたる瓶在りて今朝は二輪の黄薔薇活けたり


(京都市・山口秋野)
〇  花火の間うなじ見られている気配

 本8月28日の早朝、私は、東京都小金井市にお住いの上条多恵さんの御句(長谷川櫂選の七席)「桃の実はよろこびながら熟れにけり」を鑑賞させて頂くに当たり、かなり冗談気味に「しよってる」、即ち漢字書きにすれば「背負ってる」という動詞の意味や使用例などを解説させて頂いたように記憶しているのでありますが、その「しよってる」という動詞に因んで申し上げますと、本句の作者、即ち京都市にお住いの山口秋野さんも亦、かなり「しよってる」類の女性のようにお見受けしなければならないのである。
 山口秋野さんは、脳天気にも「花火の間うなじ見られている気配」などと平気の平左で仰って居られますが、それはご自身を美人だと思っている女性によく見られる傾向の現象、即ち「自意識過剰」と言うべき現象であり、誰が好き好んで、花火見物の最中に年増女の「うなじ」なんかを見るもんですか!
 増上慢もこれぐらいに達すると地獄の閻魔様の前に呼び出されて、キツイお仕置きをされましょう。
 今からでも決して遅くはありませんから、反省して下さい。
 (なんちゃったり)してしまいましたが、「花火」見物の間は、ともすれば、視線が前方にばかり集中し勝ちになりますから、どうしても、後方が無防備な状態になってしまいます。
 其処を突け狙うのが痴漢や掏摸の常套手段でありますから、出来得るならば、見目良き女性は花火見物などに出掛けないのが賢明でありましょう。
 〔返〕  横に掏摸うしろに痴漢の玉屋かな


(狭山市・清野綾子)
〇  あの人も汗ふく顔は写楽かな

 それを言うならば、
 〔返〕  鳥羽さんも汗ふく貌は写楽かな


(高松市・高城美枝子)
〇  子育ての頃には買へた西瓜かな

 そう!
 高松市にお住いの高城美枝子の仰る通りです!
 我が家に於いても、子育てに真っ最中の頃は、「西瓜」を三十個も買って来て、隣近所の子供達を集めて、豪勢な西瓜割り大会を催した事がありましたが、年金暮らしで二人暮らしのこの夏は、絶えて西瓜の面を拝んだ事がありません。
 「西瓜、西瓜、スイカ丸いか?酸っぱいか?そが肌を、ポンポンと叩くのが子育てしていた頃の私の癖なりき!」
 〔返〕  鳥羽さんもこの頃すっかり丸くなり


(千葉市・牛島晃江)
〇  シヤワー浴び昼寝を誰に詫びましよう

 今週の「金子兜太選」の白眉とも謂うべき傑作である。
 「シヤワー浴び昼寝を誰に詫びましよう」との、飄々とした物言いこそは、俳聖・松尾芭蕉の謂うところの「軽み」であり、小林一茶の句風に通じる「庶民性」でありましょう。
 何を隠しましょうか、私・鳥羽省三も亦、この夏は、暑さ凌ぎに「シヤワー」を「浴び」、誰に詫びる事も無く「昼寝」を楽しみました。
 〔返〕  シャワー浴び水割り一杯昼寝かな

今週の朝日俳壇から(8月25日掲載・其のⅡ・木曜夕刊)

2014年08月28日 | 今週の朝日俳壇から
[長谷川櫂選]

(豊中市・西京二郎)
〇  老残の忘恩の身に風死せり

 豊中市にお住いの西京二郎さんは、自らの半生を省みて「老残の忘恩の身」と断じ、「その『老残』かつ『忘恩の身』である私の為には、この暑さ盛りに『風』さえも死んでしまったのだ」と、猛暑続きの今年の夏を生き抜いて行く事の辛さを嘆いているのである。
 〔返〕  忘恩の徒輩(ともがら)なりと難じつつ安倍に楯突く小泉元総理  


(東京都・松村登美子)
〇  蝉時雨老いて従ふ子を亡くす

 「老いては子に従え」とはよく言うが、その従うべき「子」にさえも先立たれてしまった身の上であるならば、東京都にお住いの松村登美子さんにてっては、この夏の「蝉時雨」はさぞかし身に沁みる事でありましょう。
 〔返〕  初七日の日がな一日蝉時雨


(伊万里市・田中南嶽)
〇  夏痩せて更に父似となりし貌

 元々の「父似」の「貌」が「夏痩せ」して、また一段と「父似」の「貌」となってしまったと言いつつも、伊万里市にお住いの田中南嶽さんは、今は亡き父親の「貌」を懐かしく思い出し、「父似」の痩せこけた我が「貌」を「まんざら捨てたものでも無いな!」などと思っているのでありましょうか?
 〔返〕  夏痩せの貌も仕草も父似かな
      夏痩せのまた一段の男振り


(八王子市・中里信司)
〇  老妻の泥手や今朝の花茗荷

 朝の味噌汁の具として入れた「花茗荷」の香りは、八王子市にお住いの中里信司さんにとっては、何物にも替え難く、まるで自らが王侯貴族にでもなったかのような気分に浸っているのでありましょうか?(少々遣り過ぎではありませんか、との蔭の声あり)
 「それに付けても愛しくてならないのは、この『花茗荷』の香りを私に嗅がせる為に、朝も早よから裏の畑に出掛けて藪蚊に刺されながらも、裏の畑で働いて来た我が妻の泥塗れの節くれだった『手』てある!」とは、本句の作者・中里信司さんの偽らざる気持ちである。
 〔返〕  老妻の泥手愛しく玉茗荷


(福岡市・松尾康乃)
〇  颱風の道なき道を来たりけり

 「『颱風』に一定の通路が在って、いつもいつも中国大陸に上陸してひとしきり暴れ回り、ロシアの方に吹き抜けて行くのであったならば、さぞかし気分がいい事だろう」などと、科学的知識に疎い、私・鳥羽省三などは思ってしまうのであるが、この世の中の事の運びは、そんなに都合良くばかりは行きません。
 「颱風」の颱風たる所以は、「いつ発生し、どのような速度で、どのような進行方向を辿るのかが、予め判っていない点」に在るのであるから、私たち、颱風大国・日本に生れてしまった人々は、颱風発生のニュースに接する度ごとに右往左往してしまうのである。
 本句の作者、即ち福岡市にお住いの松尾康乃さんと仰る女性も亦、颱風大国・日本の国民の一人として、突如として襲来した「颱風」に右往左往しているのでありましょうか?
 〔返〕  颱風の軌道最中の博多湾  
      颱風の軌道逸れたり博多湾
 その昔の元寇の砌、我が国が彼のフビライ・ハーンの配下の元軍に屈服する事を逃れ得たのは、一重に大型颱風が博多湾に襲来したが為である事は、私たち日本人は、この際、肝に銘じて置くべきである。


(東京都・小玉正弘)
〇  敗戦日娘のスカートの寝押しなど

 あの「寝押し」という、さほど効果の無いお洒落を、中学生時代の私もよく遣らかしたものでありましたが、寝相が極端に悪い私の「寝押し」であるから、翌朝起きて見たら、新品のズボンが皺だらけになってしまっていた、などという事もありました。
 敗戦直後の物不足の頃に、本作の作者は、毎晩毎晩、可愛くてならない娘さんの「スカート」を「寝押し」なさったのでありましょうか?
 〔返〕  敗戦日背戸の渋柿食べし事


(小金井市・上条多恵)
〇  桃の実はよろこびながら熟れにけり

 「しよってる」、即ち漢字書きにすれば「背負ってる」と書く言葉は、「うぬぼれている・いい気になっている」という意味で使われ、私たちは日常生活の場面で、少しは見栄えのする女性の言行に対する悪口として、「あの女は確かに美人であるかもしんないけど、この頃ずいぶんとしょってるわねえ!」などと口にする事が多い。
 はけの里・小金井市にお住いの上条多恵さんも亦、かなり「しょってる」女性の一人でありましょうか?
 澄まし顔して「桃の実はよろこびながら熟れにけり」などと仰ってるけど、「桃の実」は何も貴女のルージュ塗れの口に入る為に「熟れ」て行くのではありませんよ!
 「桃の実」が、季節の変化と共に熟れて行くのは、自然の摂理と神の意思に拠るものであり、私たち人間は、老若男女・美醜に関わらず、一切合財、その進行に関わることが出来ません。
 貴女のような美しい女性は、世の助平な男性どもから、その艶やかな立ち居振る舞いに付けても、「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花、も一つおまけに唇は桃」などと持て囃されたりするかも知れませんけど、それで以って、物事の判断を狂わせて「桃の実はよろこびながら熟れにけり」などと、傲慢この上無い事を口にしてしまったら、持ち前の美貌が台無しになってしまいましょう。
 これからは言行によくよく注意しなければなりませんよ!
 〔返〕  川中島白桃といふ晩生種(おくて)在り 秋立つ街に購はれて行く


(越谷市・伊藤とし昭)
〇  大文字火を焚く人は熱からん

 「当たり前田のクラッカー」とは、昭和37(1962)年5月6日から同43(1968)年3月31日まで朝日放送(ABC)で制作され、TBS系列で放送されたテレビコメディ番組『てなもんや三度笠』の主役を演じた「藤田まこと」の決まり文句であったが、埼玉県越谷市にお住いの伊藤とし昭さんの入選句「大文字火を焚く人は熱からん」も亦、「当たり前田のクラッカー」の如き言辞を弄した迷句と言うべきでありましょうか?
 それを言うならば、「かき氷 氷掻く人涼しからん」「銭湯の釜を焚く人熱からん」「南極の越冬隊員寒からん」「泥鰌鍋煮られる泥鰌は熱からん」「イヌイット登校するとき寒からん」「寒修行鉦叩く僧冷たからん」「脱法‎ハーブ吸ってみたけりゃ吸ってみな」「STAP細胞在ると言うのは本当か?」などと、幾らでも詠めるではありませんか?
 とは申せ、本句は必ずしも駄作というべき程のクダラナイ作品ではありません。
 歌人の奥村晃作氏の第一歌集『三齢幼虫』に「次々に走り過ぎ行く自動車の運転する人みな前を向く」という作品が在り、これが奥村晃作氏ご自身の謂うところの「気付きの歌」即ち「認識の歌」として大いに評価されている事は、短歌ファンならば、何方でも知っている事実である。
 短歌に「気付きの歌・認識の歌」が在る事が許されるならば、俳句にも「気付きの句・認識の句」が在る事が許されても当然の事でありましょう。
 本句こそはまさしく「気付きの句・認識の句」でありましょう。
 〔返〕  愛妻に死なれた夫は泣くならむ
      クワガタに逃げられた児も泣くならむ
      撮る花が無くて北さん泣くならむ
      日本が沈没したなら我泳ぐ
  

(川崎市・しんどう藍)
〇  水桶に浮きつ沈みつ玉茄子

 文部科学省所管の「科学技術・学術審議会」の下部組織、「資源調査分科会」から平成17年1月24日に出された「報告書」、即ち「五訂増補日本食品標準成分表」の記載するところに拠ると、「茄子に含まれている水分量は全体量の93.2%である」とのこと。
 したがって、「水桶」の中で「玉茄子」が「浮きつ沈みつ」する訳はありません。
 仮にでも、そういう現象を川崎市にお住いのしんどう藍さんが御目文字なさったとしたならば、それは「玉茄子」を入れた「水桶」に水道水を流しっ放しにしている状態にしている場合に限られましょう。
 この暑さ盛りで、節水が叫ばれている砌に、水道水の流しっ放しはいけませんよ。
 それともう一点、本句の表現に就いて注目するべき点は、「玉茄子」という単語に就いてである。
 「玉茄子」の「玉」は、それに下接する名詞をより美しいものとして印象付ける為の言葉、即ち「美称」であって、例えば「玉葱」や「お玉杓子」の「玉」とも異なり、「玉ころがし」の「玉」とも厳然として異なり、むしろ「玉人・玉杯・玉砕・玉座・玉楼・玉屑・玉の輿・玉手箱」などの「玉」と共通したものなのであり、この世の中に「玉茄子」と称する野菜は存在しないのである。
 したがって、本句中の「玉茄子」という語は、斎藤茂吉作の「最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも」(『白き山』所収)という短歌の中の「逆白波」と同様に、本句の作者の造語として捉える他はありません。
 という事は、本句の作者・しんどう藍さんは、夏の風物詩である「茄子」に「玉」という美称を冠せれば「玉茄子」という、茄子の円さや独特の色艶などをより印象的かつ美しく見せる事が出来る「新語」を発明して、その新語をより有効的に活用する為に「水桶に浮きつ沈みつ玉茄子」という、現実には在りもしない現象を多くの読者の方々の前に現出せしめた、という事にもなりましようか?
 と言っても、私は、何も、本作を真っ向から否定しようとしている訳ではありません。
 否、むしろ、本作は夏の風物詩の「茄子」を「玉茄子」と捉える事に拠って、よりその特質を美しく見せる事が出来たのであって、本作の成功は、作者のしんどう藍さんが、「玉茄子」という新語を思い付いた瞬間から約束されていたものとして、称揚しているのである。
 〔返〕  玉茄子の玉なる藍に焼き明礬まぶして漬ければ色佳く漬かる


(横浜市・込山正一)
〇  信州の山に谺す夏のうた

 本句の作者、即ち、横浜市にお住いの込山正一さんは、「信州」という土地柄に、特別な文学性が備わっているものと信じているのでありましょうか?
 そうで無ければ、「信州の山に谺す夏のうた」などと言う、凡そクダラナイ俳句を詠んだ訳が判りません。
 ものは試しと思って、日本全国到る所の山々に「夏のうた」が「谺」するという内容の俳句を、この私が詠んでみましょうか?
 〔返〕  利尻島の峰に谺す夏のうた
      日高峰に谺せるらむ夏のうた
      大雪の峰に谺す夏のうた
      お岩木の峰に谺す夏のうた
      猊鼻渓の巌に谺す夏のうた
      鳥海の高嶺どよもす夏のうた
      故郷のお御岳山は気高いな
      山形の山に谺す夏のうた
      山形の初孫甘くて旨くない
      松島の島に谺す夏のうた
      福島の廃墟に谺す夏のうた
      安達太良の峯に谺す夏のうた
      みちのくの山に谺す夏のうた
      白河の関に谺す夏のうた
      下野の那須に谺す夏のうた
      上野の山に谺す夏のうた
      房総の巌に谺す夏のうた
      袋田の滝に唱和す夏のうた
      奥多摩の峰に谺す夏のうた
      丹沢の峯に谺す夏のうた
      山梨の富士に谺す夏のうた
      静岡の富士に谺す夏のうた
      八ヶ岳の峰に谺す夏のうた
      奥飛騨の山に谺す夏のうた
      新潟の山に谺す夏のうた
      新潟の八海山は旨い酒
      黒部なる峡に谺す夏のうた
      奥能登の千枚田に谺す夏のうた
      永平寺の塔に谺す夏のうた
      鈴鹿なる御在所岳の夏のうた
      琵琶の湖のミシガン号の谺かな
      那智の滝の巌に轟く夏のうた
      吉野なる青根ケ峯の夏のうた
      大阪の道頓堀の夏のうた
      比叡峯の根本中堂夏のうた
      六甲の颪に負けぬ夏のうた
      岡山に山は無くても夏のうた
      広島のキノコ雲にも夏のうた
      大山の山に谺す夏のうた
      隠岐の島赤禿山の夏のうた
      萩の出の吉田松陰夏のうた
      粟島の紫谷山(しっきゃ)に谺す山のうた
      徳島の祖谷の名物「山の芋」
      徳島の剱山どよもす山のうた
      愛媛なる石鎚山の山のうた
      土佐国瓶ヶ森に谺す山のうた
      筑豊のボダ山に谺す山のうた
      九重なる低き山脈夏のうた
      阿蘇山の峰に谺す夏のうた
      高千穂の峰に谺す夏のうた
      長崎の街を見下ろし夏のうた
      鍋島の化け猫出づる経ヶ岳
      鹿児島は桜島かも夏のうた
      屋久島の杉に谺す夏のうた
      沖縄で於茂登岳が最高峰  

今週の朝日俳壇から(8月25日掲載・其のⅢ・水曜朝刊・超早刷版)

2014年08月27日 | 今週の朝日俳壇から
[大串章選]

(札幌市・樋山ミチ子)
〇  病葉や弖爾乎波ちぎれ落ちゆけり

 吹く風に「ちぎれ落ち」行く「病葉」の一枚一枚を、「弖爾乎波」即ち古典文法の「助詞」に見立てているのであるが、もう一つ見落としてはならないのは、「弖爾乎波(てにをは)ちぎれ落ちゆけり」と読む場合の語呂の良さである。
 そうした場合の「弖爾乎波(てにをは)」には、「津波てんでこ」の「てんでこ」のような意味、即ち「めいめいばらばらに」「てんでに勝手な方向に」といった意味が付与されているものと思われる。
 と言うことになると、この一句は「枯れて命の無くなった木の葉が、風のまにまにめいめいばらばらに勝手な方向へとちぎり落ちて行くことであるよ」といった意味に解釈する事も出来ましょうか?
 〔返〕  病葉や散りぬるを我が世こそ常なれ


(松戸市・大谷昌弖爾乎波・弘)
〇  尺蠖のようにランボー読みにけり

 「ランボー」とは、即ち「ジャン・ニコラ・アルチュール・ランボー(1854/10/20~1891/11/10)」であり、19世紀フランスを代表する象徴主義詩人であるが、彼の残した散文詩集は、『地獄の季節』にしろ『イリュミナシオン』にしろ、尺蠖虫が1センチ刻みで歩行して行くようにして、即ち「辞書を引き引きゆっくり読んで行かなければ解らないような難解なもの」では決してありません。
 と言っても、それは読者諸氏の学力程度に因りましょうか?
 つい、うっかり、自分の学力をひけらかすような事を口にしてしまってご免なさい。 
 〔返〕  ランボーを一瀉千里に読み終へつ


(長崎県小値賀町・中上庄一郎)
〇  夕凪の島に帰れば声若し

 本句の作者・中上庄一郎さんがお住いの長崎県小値賀町は、「五島列島北部の小値賀島及びその周辺の島々を行政区域とする町」であり、今年の6月末日現在の総人口は二千七百四人、世帯数は千三百十二世帯であるから、日本全国各地の農山漁村がそうであるように、「限界集落」とでも言うべき典型的な過疎地である。
 総人口と世帯数との比率がほぼ「2対1」である事から推して解る通り、同町の福祉行政上の第一番の悩みは、高齢者の一人暮らしとそれに就いての対応策である。
 また、小値賀町の主産業は、ブリやイサキなどの一本釣りを初めとして、曳縄、延縄、刺網などの小規模な漁業であるが、本句の作者の中上庄一郎も亦、ご家族の毎日の暮らしを支え、小値賀町の乏しい財政をも支える為に、海に出て働いている漁民の一人でありましょう。
 ところで、本句は「夕凪の島に帰れば声若し」となっているのであるが、当日の彼の漁獲量は、近頃では絶えて無かった程の大漁であったが為に、一日の仕事が終わって「夕凪」に静まる我が島の港に入港した時に発した声、即ち、仲間の漁師さんたちに大漁を報告した時の彼の声は、高齢者たる彼に相応しくない程の若々しい声であったのでありましょう。
 〔返〕  朝凪の浜の鎮もり老いの声


(東京都・菊地一彦)
〇  マルクスの生涯偲ぶ夜長かな

 本作の作者・菊地一彦さんは、秋の夜長を「光文社・古典新訳文庫版」の『賃労働と資本/賃金・価格・利潤』(森田成也訳)でも読みながら、起伏に富んだ「カール・ハインリヒ・マルクス(1818/5/5~1883/3/14)」の「生涯」を想い偲んでいるのでありましょうか?
 〔返〕  血塗れの一代(ひとよ)なりけむレーニン忌


(日南市・岩満まち子)
〇  雲の峰一直線の道の果て

 「一直線の道の果て」とした点から「雲の峰」の雄大さが覗われて非常に宜しい。
 〔返〕  東山魁夷描ける道の果て虹の彼方に雲の峰出づ


(青森市・小山内豊彦)
〇  炎昼の一人に一個影法師

 「影法師」が「一人」に二個もあったら事件である。
 しかしながら、本句の最大の魅力は「一人に一個影法師」と大胆に、かつ面白可笑しく言い切ったところに在り、こうした大胆な表現が、季題の「炎昼」をも、より生かす結果となったのでありましょう。
 〔返〕  自(し)が影と共に下校や夜学生
      自(し)が影を追って下校や夜学生


(加古川市・森木史子)
〇  夜濯ぎの異国の水の硬さかな

 仮にでも、一流商社の海外赴任社員の若奥様ともあろう方が、「夜濯ぎ」なんて事を遣らかして居てはいけません。
 人の噂に拠ると、「彼の地は人件費がものすんごく廉い!」とのことでありますから、明日の朝に現地で雇った家政婦さんに遣らせたら如何でありましょうか?
 〔返〕  アブダビの水の硬さよ夜濯ぐ


(船橋市・斉木直哉)
〇  蝉時雨我が俗塵の朝洗ふ

 「蝉時雨我が俗塵の」の迄は宜しいが、それに続けて「(蝉時雨我が俗塵の)朝洗ふ」としたのは、如何なる理由が在っての事でありましようか?
 或いは、「『朝』そのものが『俗塵』に塗れている」との事でありましょうか?
 だとしたら、本句の作者は、「昨夜、翌朝の空気や雰囲気を穢すような何事かを仕出かした」という事になりましょう。
 と言うのは、軽い冗談ですから、気にしないでやって下さいませ。
 〔返〕  蝉時雨我が俗塵の村洗ふ
      蝉時雨我が俗塵の耳朶洗ふ
      蝉時雨俗に塗れし魔羅洗ふ


(久慈市・和城弘志)
〇  浦まつり潜水服の歩きをり

 本句の作者が岩手県久慈市にお住いの方である事を考慮すれば、作中の「浦まつり」とは、
ネット上の久慈市観光物産協会のホームページに、「600年以上の歴史がある県北最大のまつり/道幅いっぱいの大きな山車と活気あふれる神輿が、久慈市内の目抜き通りを通ります。その華やかさは県北一を誇り、毎年多くの観光客が訪れる恒例のまつりとなっています。初日(お通り)と3日目(お還り)は山車と神輿の合同運行、2日目(中日)は郷土芸能大パレードとなっており、3日間存分に楽しめる内容となっています。まつり好きなら前夜祭もおすすめ。一同に揃った山車組の運行者が次々と放つ音頭は、山車運行者も一番熱くなる瞬間です」と記載されている「久慈秋祭り」、乃至は、同じホームページに、「歩行者天国もある、夏を代表する七夕祭り/歩行者天国も登場して、地域全体が祭り一色になる夏祭り。途切れなく続くイベントやたくさんの夜市は、華やかさをますます盛り上げます。大きな七夕飾りは、地元商店街の手づくり。ひとつひとつがアイデアあふれる工夫とデザインで、あっとおどろく傑作も飾られていますので、七夕飾りにも注目を」と記載されている「ヤマセあきんど祭り」の何れかが其れに該当するかと思われるのであるが、しかしながら、一口に久慈と言っても「かなり広うござんしょう」から、或いは、久慈市内の海端の集落に「浦まつり」と称する、それほど規模の大きくない夏祭りが在り、あの大震災から三年経った今年のそれには、「潜水服」姿の漁師さんが特別出演し、海端の街道をお練りするという運びになったのかとも思われる。
 〔返〕  観客が潜水服を着てたのだ!鳥羽さんほんとに察しが悪い!

 
(立川市・松尾軍治)
〇  人類は発明しすぎ原爆忌

 東京都下立川市にお住いの松尾軍治さんは、「人類は発明しすぎ原爆忌」などと脳天気な事を仰るのであるが、STAP細胞が怪しくなった現在時点に立って判断すれば、まだまだ不十分だと私は思います。
 〔返〕  国民は辛抱し過ぎ安倍政権

今週の朝日俳壇から(8月25日掲載・其のⅣ・火曜朝刊・早刷版)

2014年08月26日 | 今週の朝日俳壇から
[稲畑汀子選]

(神戸市・岸田健)
〇  蜩の声は孤独に添ふ様に

 カナカナカナカナカナと鳴く蜩はいつも私たち高齢者を孤独地獄の底に誘うのである。
 〔返〕  蜩や隣家のおきな燈を点し


(東京都・丹羽ひろ子)
〇  汗を掻き戻る体調旅三日

 旅先での暮らしも三日目ともなれば、「今日は少し足を延ばして大英博物館まで行って来よう」という次第にもなり、それと共に現地時間にも馴れ、併せて体調も回復するのでありましょう。
 〔返〕  人間は汗を流して一人前 


(伊万里市・田中南嶽)
〇  蝉時雨一気に鎮め山雨急

 つい先刻まで耳に付いて離れなかった蜩の声が、山からの雨が激しくなるや急に止んでしまったのである。
 〔返〕  紫陽花の彩り濃くて山雨急


(金沢市・高田俊彦)
〇  茫々とある妻の辺のたゞ涼し

 妻との二人暮らしも友白髪を抱く頃ともなれば、常に茫々としたものになりがちである。
 私の暮らしにはクーラーも扇風機も必要としない。
 ただひたすらに「茫々とある妻の辺」に在ればこそ涼しい顔をして居られるのである。
 〔返〕  茫々と風立つ午後や山頭火


(大阪市・友井正明)
〇  山の端を掠め闇切る夜這星

 清少納言の著『枕草子』に「星は、すばる。彦星。夕づつ。よばひ星、すこしをかし。尾だになからましかば、まいて・・・・」とある。
 本句中の「夜這星」とは、「流れ星」の別名であり、本句の作者は、「流れ星が闇夜を真っ二つに切断するようにして輝いたかと思うと、忽ち山の端を掠めて消えて行った様を遠望して」本句を詠んだのでありましょう。
 〔返〕  夜這とふ佳き習俗や隠れ里
 

(神戸市・日下徳一)
〇  知らぬ間に妻が後に遠花火

 「暑さ凌ぎに、神戸港で揚がる遠花火でも見ようとして浴衣姿で庭に出ていたところ、何時の間にか年若い妻も亦、すっぴんぴんの顔して私の後ろに居たのである」といった意でありましょうか?
 作者の日下徳一さんにしてみれば、すっぴん顔の若妻が可愛くて可愛くてならなかったのでありましょうよ!きっとよね!
 〔返〕  愛妻の名は「江莉菜」とふ我の名は「日下徳一」釣り合ひ取れず


(芦屋市・酒井湧水)
〇  長崎の蝉山に鳴き坂に鳴き

 長崎市は山と海とに囲まれ、市街地は擂鉢の底のような形態を成しているのである。
 「山」が多ければ、必然的に「坂」も多いという事になり、結果的には「長崎の蝉」は「山に鳴き坂に鳴き」という理屈になるのである。
 いささか四角張った解説をしてしまいましたが、如何でありましょうか?
 〔返〕  熱風は山に囲まれ冷めもせず焼死者忽ち十五万人 


(浜田市・田中由紀子)
〇  動くより動かぬ暑さありにけり

 「動くより動かぬ暑さありにけり」とは、真然り、私は猛暑日には思い切って生田緑地まで足を運び、岡本太郎美術館を参観することに決めています。
 〔返〕  動いても動かなくても暑いのだ


(富津市・三枝かずを)
〇  木蔭出て瑠璃の光となる揚羽

 「木蔭出て瑠璃の光となる」と言うからには、作中の「揚羽」は定めし「紫揚羽蝶」でありましょう。
 〔返〕  物蔭に居て輝かず揚羽蝶


(横浜市・松永朔風)
〇  物忘れ歳か病か秋思かな

 「物忘れ」の原因は「歳」の所為か「病」かは定かでありませんが、この際はより文学的に「秋思」の所為としておきましょう!
 〔返〕  朔風の激しき頃や物忘れ  

川添英一作『流氷記60号・夢徒然』を読む(其のⅠ・改訂版)

2014年08月25日 | ブログ逍遥
 去る8月20日、大阪府高槻市にお住いの歌人・川添英一さんより思い掛けなくも当ブログ宛てにご丁重なるコメントを頂戴した。
 その記すところに拠ると、「個人歌集『流氷記』の60号を刊行したので、私・鳥羽省三の現住所を知りたい」とのことであった。
 早速、川越さん宛てにメールにて、当方の現住所などをお知らせ方々、個人歌集『流氷記』60号の刊行のお祝いを申し上げた次第であるが、それに伴って、この一年間、久しく拝見させて頂いた事の無かった、川添英一さんのホームページを開いてみたところ、『流氷記』60号の全貌を知り得たので、本日よりしばらくの間、「『流氷記60号・夢徒然』を読む」と題して、川添英一さんの最新作の鑑賞に当たらせて頂きますので、作者の川添英一さん並びに本ブログの読者の方々には、宜しくお願い申し上げます。


①  図書室の本積み上げて流氷記束ねて圧縮されし数日
②  バカ犬は吠えてばかりと教えればやや大人しくなる生徒あり
③  聞き耳を立てては上司に悪く言うこの鼻糞のような人あり
④  本当につまらぬ人を気に留めて悩む自分が馬鹿らしくなる
⑤  なぜこうもつまらぬ人が限られた残り時間を邪魔ばかりする
⑥  世間とは外れた見方ばかりする我こそつまらぬ人かもしれぬ
⑦  時折は触らぬ神にたたりなき用心もして今日も暮れゆく

 上掲の七首は、歌人・川添英一さんの中学校教師としての生活に取材した作品である。
 私は、川添英一さんが既に定年退職なさり、悠々自適の生活を送って居られるとばかり思っていたので、前述の川越さん宛てのメールの文面に於いても、「川添様に於かれましては、恐らくは教員生活をご退職なさった事と拝察しますが、如何でありましょうか?」などと記してしまった次第ではありましたが、これらの七首の作品から推して知るに、川添英一さんは未だに大阪府下の中学校にご勤務なさって居られるご様子で、この度の『流氷記』60号の「編集後記」にも、「この四月に茨木市立東雲中学校から南中学校へ転勤。めまぐるしい異動である。一年間で学校を変わるというのは初めての体験だが、その分接する生徒が増えて楽しい面もある。二年生と三年生の二クラスずつ教科を受け持つことになったが生徒も僕も楽しい充実した時間を過ごしている。生徒もみなが集中して僕の話を聞いてくれるので自然成績も良くなり、或るクラスは一回目の定期テスト九十点台が十二人、八十点台が七人でクラスの丁度半分が八十点以上になった。生徒の感想も授業が楽しかったというのが多かったのが嬉しい」と記されている。
 私の感じるところに拠ると、「公立学校に於いては、あまりにも研究熱心、教育熱心、知的レベルが高く、問題意識の高い男性教師は、県教委(市教委)や管理職などから警戒され、嫌悪され、管理職に登用されることが無く、平教員のままに定年退職の日を迎える」という傾向がありますから、定年退職の日を目前にして、未だに教科担任としての仕事に情熱を燃やして居られる、川添英一さんの教師としての日々は、必ずしも満ち足りた日々とは言えないものだろうと、勝手に憶測しているのである。
 前掲の「②・③・④・⑤」の四首は、川添英一さんのそうした満ち足りない日々を覗い知るに充分な作品と思われ、「⑥・⑦」の二首は、そうした苦労の多い立場に立たせられている川添英一さんが、ふと漏らしてしまった溜め息のような趣が感じられる作品である。
 前掲の「①」、即ち「図書室の本積み上げて流氷記束ねて圧縮されし数日」は、この度、ご刊行なさった60号を初めとした、川添英一さんの個人歌集『流氷記』の成り立ちを説明していて、私にとっては真に興味深く、趣き深い一首である。
 一首の意は、「私は、私自身の個人歌集『流氷記』を刊行するに当たって、この数日間、勤務校の図書室の分厚い本を、件の歌集の上に幾冊も積み上げて、正しく折り目が付くように圧縮しているのである」といったところでありましょうが、このような難しい手順を経て仕立て上げられた中の一冊が、川添英一さんがお住まいの高槻市の郵便ポストに投函されて、はるばると我が家の郵便受けまで運ばれて来るのでありましょうか。
 なお、同歌集には、「三千円歌集は一円でも売れず溶かされてまた紙となりゆく」並びに「目録に高価な歌集並びおり我楽多となる定めも知らず」という、歌人と名乗る他の方々の歌集への皮肉たっぷりな二首も掲載されているのであるが、これらの二首こそは、主宰と称し、選者と称する有象無象の輩に雁字搦めに呪縛された、現在歌壇の歌人たちに対する痛烈な批判とも思われる作品である。

 尚、本日、二日振りに我が家の郵便受けを覗いたところ、川添様からの「クロネコメール便」の封書が入って居りました。
 就きましては、早速開封させていただきましたところ、私にとっては初見の「流氷記」の第五十九号と第六十号が現れ出でましたので、今晩でも拝見させていただきました上で、近日中に「一首評」なども電子メールにて述べさせていただきますので、何卒、宜しくお願い申し上げます。  八月二十五日  鳥羽省三

「黒田英雄の安輝素日記」より(其の2・月曜別冊付録)

2014年08月25日 | ブログ逍遥
 ブログ「黒田英雄の安輝素日記」の去る8月11日の記事は、「『短歌人』八月号・会員欄秀歌選」であったので、気の赴くままに寸評を試みてみたい。

    
○  あたたかい暗闇われはうつとりと死をば思へり死はあたたかい  大室ゆらぎ

 「あたたかい暗闇」というショッキングな詠い出しで以って、作者の大室ゆらぎさんは、選者の黒田英雄氏を彼女自身が敷いた陥穽に転落させてしまったのである。
 しかし、この場合、私たちは、黒田英雄氏のうかつさを必ずしも責めてはなりませんし、それよりも、むしろ大室ゆらぎさんの敷いた陥穽の完成度の高さを誉めるべきである。
 かくして、「死」への誘いは、必然的に温かさを伴うのでありましょうか?
 〔返〕  温かい暗闇われは一本のマッチを購ひて秘処見つめをり


○  老いたれば老いたるままに友歌う「マイボニー」の唄に惻惻として  榊原トシ子

 作中の「マイボニー(My Bonnie)」とは、元々はスコットランド民謡であるが、ドイツの人気歌手「トニー・シェリダン(Tony Sheridan)」が、デビュー前の「ザ・ビートルズ」をバックバンドにして現代風にアレンジして歌い、1962年にポリトールレコード社からリリースされた、とのこと。
 本作の作者・榊原トシ子さんは、ご自身の「老いたる」「友」が「老いたるままに」「歌う」この曲に、「惻惻として」胸に迫る思いを感じながら耳を傾けたのでありましょう。
 ところで、彼の黒田英雄氏が、この一首を秀歌選に加えたのは、その物語的な内容もさる事ながら、元々は地味なスコットランド民謡に過ぎなかった「My Bonnie」を、デビュー前の「ザ・ビートルズ」をバックバンドとして従え、ドイツ人のトニー・シェリダンが歌ったという、題材となったこの曲、即ち「マイボニー(My Bonnie)」の来歴に興味を持ったからでありましょう。
 〔返〕  老いたれば老いたるままに耳にするフォレスタ歌う「故郷の廃家」


○  気取り屋の猫のミミコもいなくなり窓はいちめん夕焼けになる  橋本明美

 いわゆる「歌人ちゃん」の詠んだ軽口めいた作風ながらも、一首全体に物語の奥行きが感じられる佳作である。
 「気取り屋の猫のミミコもいなくなり」などと、いきなし橋本明美さんに言われると、件の「猫のミミコ」と彼女との抜き差しならぬ関係さえも想像されて、評者の私は、パソコンのキーを叩く手を休め、しばし呆然として「窓」「いちめん」に映える「夕焼け」空を眺め入ってしまうのである。
 〔返〕  爾後美女は猫飼ふ事も無かりけり窓一面に映ゆる夕焼け


○  ミルクティーのミルクは薄い膜となる君は静かに怒りを語る  野上 卓

 「『君』が『静かに』私に向けて『怒り』の思いを『語る』ので、私としては卓上の『ミルクティー』に手を出す訳には行かなったのであるが、その間に、件の『ミルクティーのミルクは薄い膜』を作ってしまったが、その始末を『君』はどう付けて呉れるのだ!」という訳でありましょうか?
 否、あの人格者の野上卓さんのことであるから、「その始末を『君』はどう付けて呉れるのだ!」とまでは言わなかったのかも知れません?
 ところで、「ミルクティーのミルク」が「薄い膜」になってしまうのは「ラムスデン現象」と言って、40℃以上に熱せられたミルクが空気に触れることに拠って、表面の水分だけが蒸発し、ミルクの主成分であるタンパク質や脂肪分が固まって膜状になるのである。
 こうした現象は、大豆を擂り潰して作った生呉を温めて湯葉を作る際にも生じる現象であり、その皮膜自体は毒ではありませんから、本作の作者の野上卓さんに於かれましては、京都の老舗旅館で湯葉料理を食するつもりで、ご賞味なさったら如何でありましょうか(笑)
 但し、相手の女性から、「私がこんなにも怒りを感じているのに、作者の貴方は、ミルクティーのミルクの皮膜を舌なめずりして食べているなんて許せない!私はこの劇の主役から下りさせていただきますから、野上さんも覚悟しておきなさいよ!」などと逆襲される恐れもありますから、何卒、お覚悟の程を!
 それにしても、戯作者稼業も決して楽ではありませんね。
 〔返〕  ミルクティーのミルクの皺の如くにも目尻の皺の目立つ女優よ
 作者の野上卓さんは、恐らくは頑健に否定されることでありましょうが、本作に示されている人間関係は、老残の劇作家と年増女優との醜悪な関係であり、その醜悪性の度合いは、彼と彼女とが目前にしている、冷え切ってしまい、表面のミルクが固まってしまった、卓上のミルクティーよりも濃いのかも知れません。


○  この顔で永らく生きて来たのかとしみじみ鏡の前に立つ朝  中島敦子

 前掲の野上卓さん作に登場する「君」を巡っての後日談でありましょうか?
 〔返〕  この顔でこの面相で主役など張れる訳など無かったはずだ


○  元気だと子に電話する慣習をいつしか忘れ子も忘れをり  中島敦子

 それで宜しいのです。
 親子関係とは、常にそうした冷ややかで静かな関係にならなければ本物とは言えません。
 〔返〕  子も忘れ親も忘れてしまったら「おれおれ詐欺」に遭う事は無し


○  自販機に何度入れても出てきちゃう十円玉は僕なんですよ  木嶋章夫

 必ずしも贋物では無くても、「自販機に何度入れても出てきちゃう十円玉」というものは存在するものである。
 本作の作者の木嶋章夫さんは、自らの行状を省みて、その「十円玉は僕なんですよ」と迄、情け無い事を仰るのである。
 木嶋章夫さんよ、件の「十円玉」みたいな存在は、決して決して貴方だけに限った事ではありませんよ!
 かく申す私だって、時には「自販機」にさえも受け入れて貰えない「十円玉」のような心境になってしまうのですよ!
 〔返〕  自販機が受け入れ拒否する十円玉君こそ時代の良きテロリスト 


○  白きゆえしろき暗部のだそちゆく入道雲に真向いており  たかだ牛道

 本作の作者のたかだ牛道さんは、物事の本質を良く弁えて居られる御仁である。
 本作の前半部の「白きゆえしろき暗部のだそちゆく」の叙述こそは、まさしく達観とも謂うべきものである。
 〔返〕  黒きゆえ黒き仲間を寄せたがる安倍内閣の改造人事


○  人生に遅刻はあらずベランダの苦瓜観察日記したたむ  清郷はしる

 でも、こんなにまで秋風が涼しく感じられるのでは、これからの収穫を期待する事は出来ないと思われますが、如何でありましょうか?
 我が家の表庭の苦瓜の棚は先日撤去してしまい、その後に法蓮草の種でも蒔こうかと思って、私はその下準備として、今朝、苦土石灰を散布したところでありました。
 〔返〕  人生を早退せむと思ひしもしがらみ多くて決断出来ず


○  ちりんちんキャンデー売りの通る道三年通ひし分校もない  工藤重雄

 今どき、あんた、「キャンデー売り」など来るわけ無いでしょう!
 それに「緊縮財政」の必要性が声高に叫ばれている昨今に於いては、三年通ったって、六年通ったって、「分校」など在るわけがないでしょう!
 時節柄を弁えて居りさえすれば、そんな事はいとも容易く解るわけでありましょう!
 懐旧に耽っている輩は、安倍内閣の時勢下に於いては、生きて居られませんよ!
 反省しなさい!反省を!
 〔返〕  一度でも勝ったこと無きチンチロリン キャンデー売りでもしようかしらん


○  あさぼらけ名残りの月に夢をみしこのかぜもまた森へつながる  宮澤麻衣子

 選者・黒田英雄氏の学識コンプレックスが因を為しての選歌ミスかも知れませんが、「あさぼらけ」という先人の手垢に塗れた発語で以って歌い起こされた一首が、「あさぼらけ⇒名残りの月に⇒夢をみし⇒このかぜもまた⇒森へつながる」と、綿々として繋がって行く点に着目すれば、それなりの物語性が感得され、作者の宮澤麻衣子さんの為すところの無き暮らし向きが覗われるのである。
 〔返〕  あさぼらけ名残の夢も見厭きたり古い急須で新茶を煮るな


○  怠けると決めた日曜午後五時半一番搾りの喉ごし足りず  羽入田美雪

 「一番搾り」と言えば、一応はビールである。
 〔返〕  怠けると決めた日曜なればこそ一番搾りの喉越しの悪し


○  ロバにしか通れぬ道の数多あり重き荷を負い人に沿い行く  村井かほる

 「重き荷を負い人に沿い行く」を「重き荷を負い安倍に沿い行く」としたら、満点官房相の悪口を言った事になりましょうか?
 〔返〕  馬鹿にしか通れぬ道も数多あり解釈改憲絶対反対


○  米粒詰草十センチほどの草がゆれとかげの通る道があるらし  田平子

 作中の「米粒詰草」とは、「マメ科シャジクソウ属の一年草で、ヨーロッパから西アジアが原産の帰化植物であり、我が国には明治末期に渡来した」とか。
 本作の作者は、その「米粒詰草」のわずかに「十センチほどの草」が揺れているのを見て、「とかげの通る道があるらし」と、突拍子も無い推測をしているのである。
 〔返〕  草の葉が揺れたら其処に風がある蜥蜴の通る道では無いよ!


○  思ふさま耐へたら天を仰げよと夢にでて死者は明日を語れる  佐藤綾華

 「天を仰ぐと、其処にお迎えの雲が浮かんでいる」とでも、言いたいのでありましょうか? 〔返〕  遠天を流れる雲に命無く斎藤茂吉とそっくり同じ


○  痩せてゆく家族三人 見てくれで落とすということ確かにあらん  栄田一平

 今更に何を仰るんですか?
 民放でもNHKでも、女性アナウンサーは、「見てくれ」が悪ければ、頭がいくら良くたった採用されないのですよ!
 〔返〕  痩せている力士序二段「光源治」体重69kgしか無い
      肥えている力士「大露羅」最巨漢体重271kg


○  踏み場もなく散らばつてゐる悲しみにたたずむほかはなくなりし部屋  桑原憂太郎

 本作の作者は、「題詠マラソン」でお馴染みの桑原憂太郎さんである。
 桑原憂太郎さんと言えば、昨年度末まで、北海道の特別支援学校で児童生徒の教育指導に当られていた教育者である。
 その教育者・桑原憂太郎先生が、「踏み場もなく散らばつてゐる悲しみにたたずむほかはなくなりし部屋」と悲しげにお詠みになって居られるのであるが、是は、桑原憂太郎先生のマンションに、かつての教え子さんたちが勝手に上がり込んでいたという事実に取材した作品でありましょうか?
 〔返〕  先生のマンションなれば上がり込み滅多矢鱈に散らかす児童


○  三間(サンマ)とは時間、空間、仲間なり子どもの巡りに欠けて久しく  長田貞子

 本作も亦、教育の荒廃を嘆き悲しんでいる一首であるが、前述の桑原憂太郎さん作とは異なり、児童生徒に注ぐ教育者としての温かい眼差しはあんまり感じられず、ただひたすらに我が国の学校教育の無策振りに対して、慨嘆の眼差しを注いでいるだけの作品である。
 〔返〕 三間とは間抜け、間男、間借り人、間抜け亭主は間男される
     間男をする奴決って間借り人 間抜け亭主の妻に間男  


○  目を閉じて耳に入りし鳥の声同じ調べはないと思えり  田所 勉

 黒田英雄氏の選歌力に疑問を感じざるを得ない一首である。
 先ず何と言っても、二句目の一字足らずに拠って生じたリズムの悪さである。
 次に、「耳に入りし」の「し」、「ないと思えり」の「り」と、肝心要の場面に於いては、文語の助動詞を用いながらも、一首全体を「歴史的仮名遣ひ」で表記しなかった点である。
 また、その発想にも「耳に入りし鳥の声」に「同じ調べはない」と指摘した点以外には、格別に目新しさは感じられません。
 斯くの如き三拍子揃っての凡作を敢えて「秀歌選」の一首として選定した、選者・黒田英雄氏の選歌力が問われる場面でありましょうか?
 〔返〕  今朝われの耳朶に浸み入る鶯の同じ調べに鳴くことは無し


○  ペディキュアの似合う素足のしろじろと梅雨の歩道に赤き爪冴ゆ  伊藤直子

 一首の意は「『ペディキュアの似合う素足』が『しろじろ』として『梅雨の歩道』を渡って来るのであるが、その『しろじろ』とした『素足』の先には、『赤き爪』が冴え冴えと輝いているのである」といったところでありましょうか?
 だとしたら、本作の作者の伊藤直子さんは、「素足」の同性と言うよりも、むしろその「素足」そのものにすっかり惚れてしまったのかも知れません。
 「ホモセクシュアリティ(homosexuality)」、即ち「同性愛」という言葉は、こうした事態を指摘する際にも、用いる事が可能な言葉でありましょうか?
 世の識者諸氏に訊ねたい場面ではある。
 〔返〕  「生足」と言うべき場面で「素足」と言う作者の語感はかなり古いぞ!
 

○  表情を読むロボットが現れてつぎ現れるだろう空気読むのが  小林惠四郎

 そうかも知れませんし、そうでないかも知れません。
 と言うのは、相手の「表情を読む」場合とは異なり、その場の「空気」を「読む」場合は、また一段と高等な知能とテクニックを要するからである。
 その段差は、幾何級数的なレベルのものであり、せいぜい算術頭でしかない、現代社会の「ロボット」製作者たちの頭では対応する事が不可能なことと思われるのである。
 〔返〕  表情を読むロボットは一次元空気を読むロボットは異次元に住む


○  いつしかに人間嫌ひさう云へば嫌はれてゐるほつとして老々  坂井あゆみ

 高齢者特有の「僻み根性」乃至は「開き直り」から出た一首でありましょうか?
 〔返〕  最初から嫌われているお婆さん僻み言葉も休み休み言え

今週の朝日歌壇から(8月18日掲載・其のⅠ・日曜夕刊早刷版)

2014年08月24日 | 今週の朝日歌壇から
[永田和宏選]

(群馬県・小倉太郎)
〇  殺すこと殺されること抜きにして国益守るただにそう言う

 「殺戮を抜きにしては『国益守る』は不可能である」という理屈なのでありましょうか?
 だとしたら、「外交という手段に訴えて国益を守るべし」などという、朝日新聞社を初めとしたマスコミ各社の主張などは、「児戯にも等しい」という事になってしまいましょう。
 〔返〕  安倍ちゃんが可愛い孫を持ってたら解釈改憲遣ったか否か?


(前橋市・荻原葉月)
〇  妻も子も親もうからも憂ふらむ自衛隊員本音語らず

 私が秘密裏に接した情報に拠ると、現在の「自衛隊員」の7割以上は現行憲法の改正に反対しているとか?
 〔返〕  誰よりも自衛隊員本人が海外派兵を恐れているぞ


(名古屋市・諏訪兼位)
〇  パレスチナのガザはガーゼの語源の地人間の業深しいまも血塗られて

 「高野公彦選」の首席として既出。
 「パレスチナのガザ」地区に於いては、互いに対立する民族間の利害が因を為して古代から血みどろの戦闘が繰り返されて来たが故に、血を拭い、血を止める為の「ガーゼ」が大量に消費されていたものと思われる。
 「パレスチナのガザはガーゼの語源」という説は、そうした事情に因って成立した流説でありましょうか?
 〔返〕  血塗られてガーゼ壱枚風に舞ふ逝きにし子らは何も語らず

 
(八王子市・坂本ひろ子)
〇  手術より乳房に生れし片笑窪かかえてわれにほほえみのあり

 「片笑窪」と仰り、「われにほほえみのあり」とまで仰っているのであるが、その真実は、夜な夜な疼くような痛みを抱えて生きているのでありましょう。
 〔返〕  彼の日より胸に抱へし空洞が夜風に吹かれすすり泣きせむ


(清瀬市・石井孝)
〇  全英の八番ホールに雉出でて松山英樹の前を横切る
 
 どうせ、テレビ画面で視ただけの事でありましょう!
 ところで、大英帝国の国鳥は「ヨーロッパコマドリ」であるが、本作の作者の石井孝さんは、まさか其れと「雉」とを間違えているのではないでしょうね!
 〔返〕  全英の8番ホールに雉出でて松山英樹のボール転がす
      全英の8番ホールに雉が居てボールみたいな卵を産んだ


(東京都・上田結香)
〇  「お母さん」が私の天職なんだけど期間限定の仕事だからね

 「期間限定の仕事」を「天職」と言い張ってはいけません。
 「お母さん」業が上田結香さんの「期間限定の仕事」だとしたら、それは、昨今のマスコミの話題となっている「代理母」みたいなものではありませんか?
 〔返〕  「お母さん」は死んだ後でも「お母さん」掛け替への無き天職なるぞ
      「お母さん」は離婚した後も「お母さん」掛け替への無き天職ならむ


(廿日市市・上谷美智代)
〇  どんなにか辛き時でも空腹を知る悲しさよ飯をほおばる

 生き物としての人間の生理の哀しさを述べた作品でありましょうが、何しろ食べなきゃ死んでしまいますから、どんなに辛い時でも我慢して食べなきゃなりません。
 ところで、本作の詠い出しの「どんなにか辛き時でも」という言い方は、日本語の表現として、極めて変則的な言い方である。
 作者の意図としては、「どんなに辛き時でも」と言たかったのでありましょうが、それでは初句が字足らずになってしまうので、仕方が無くて「どんなにか辛き時でも」と言ってしまったのではありませんか?
 〔返〕  死ぬほどに辛き時でも空腹を覚ゆる吾はやはり生き物


(横浜市・折津侑)
〇  「おいちょっと寄ってくか」なんてお気軽にも誘(おび)けんね 柩を担ぐ

 死んでしまったらお酒を飲む事が出来ませんから、「『おいちょっと寄ってくか』なんてお気軽にも誘けんね」という事にもなりましょうか?
 〔返〕  「おい、ちょっと」寄ってくつもりが深酒に挙句の果ては脳卒中死
      「わい、ちよっと遣ってみたい」が深い仲挙句の果ては腹上死する


(日南市・宮田隆雄)
〇  もう二度と会うことのないあなたゆえもう一度だけさよならと言う

 宮崎県日南市と言えば、かつては新婚旅行のメッカとして知られた町である。
 その日南市にお住いの宮田隆雄さんは、彼女に振られたのでありましょうか?
 それとも振ったのでありましょうか?
 仮に「振られた」のであるとしたら、「もう二度と会うことのないあなた」に「もう一度だけさよならと言う」のは、あまりにも未練がましくはありませんか?
 そういう所が宮田隆雄さんの性格上の欠点であり、彼を袖にした彼女は、彼のそういう性格を嫌っているのでありましょう。
 〔返〕  もう二度と会うこと無いと決めたなら後振り向かず帰宅しなさい


(横浜市・敷田千尋)
〇  夏休み全部で三十八日なのにおなかをこわして一日ムダに

 選者の永田和宏先生の寸評に拠ると、本作の作者の敷田千尋さんは、「夏休みの自由研究」として、「毎日一首」短歌を詠むとのこと。
 短歌というものは足で詠むものではありませんから、「おなかをこわして」寝ていたって一日に一首くらいは楽に詠めますよ!
 私、鳥羽省三などは一日に百首くらい詠むのは、屁とも思いません。
 〔返〕  定年後来る日も来る日も夏休み一日百首も短歌詠んでる

今週の朝日歌壇から(8月18日掲載・其のⅡ・日曜朝刊早刷版)

2014年08月24日 | 今週の朝日歌壇から
[馬場あき子選]

(北広島市・軽部進)
〇  シシウドの花の白さよ熊も来る昆布干しおる知床番屋
 
 「シシウド」ぐらいならば、知床半島に限らず、日本全国あらゆる所の野山に自生していますから、格別に珍しくもありません。
 でも、「熊も来る」土地は、そんなに多くはありませんな?
 〔返〕  シシウドの花の白さに似ているな!儂の頭は白髪だらけだ!


(福島市・澤正宏)
〇  枝に似た鰓を頭の後に立て深山の山椒魚(ハンザキ)鰐のごと育つ
(狭山市・小塩慎介)
〇  かぶと虫孫から預かる二十匹夜闇に背を割り荒ぶるいのち

 福島市にお住いの澤正宏さんの作品は「『山椒魚』通称<ハンザキ>の生態的特徴をよく捉え得た一首である」が、狭山市にお住いの小塩慎介さんの作品は「かぶと虫の生態をよく捉え得た作品である」と評する以外に、評者の私としては何も言いたい事がありません。
 〔返〕  お祭りの夜店で買える甲虫 山椒魚は何処でも買えぬ


(横浜市・飯島幹也)
〇  遊園地コーヒーカップに一人乗る初老の男に夕立が降る
 
 「件の『初老の男』の正体は、もしかしたら<幼女誘拐犯>かも知れませんよ?」と、言いたいばかりの内容の一首である。
 〔返〕  浅草の雷門の下に立ち初老の男が思案気な顔


(西宮市・室文子)
〇  お母さんと新潟に帰省した夜に田舎の味の豆ごはん食う

 「お母さんと新潟に帰省した夜に田舎の味の豆ごはん食う」、以上報告終り、といった内容ではありませんか!
 いくら何でも、これでは酷過ぎますよ!
 〔返〕  新潟に母と一緒に行った夜父は会社で夜勤をしてた


(富山市・松田わこ)
〇  パパ似ともねえちゃん似ともママ似とも言われる私どれもうれしい

 此処まで手放しで言われると、唖然として聴いている他ありません。
 〔返〕  パパ似でもねえちゃん似でもママ似でも松田わこちゃん松田家の子だ


(館林市・阿部芳夫)
〇  さわやかな風をこの身にまき起こす自販機で買うふるさとの水

 いわゆる「水」とは、本来的には「H2O」という化学式で表現出来るものの全てを指して言うのであり、その実質的内容が固体のそれ(氷)であろうが、気体のそれ(水蒸気)であろうが「H2O」即ち「水」なのである。
 したがって、その採集地が富士山麓であろうが多摩川水系であろうが、「水」は水以外の何者でも無いのである。
 然るに、本作の作者・阿部芳夫さんは、「自販機で買うふるさとの水」をして「さわやかな風をこの身にまき起こす」などと、革命的な事を仰るのである。
 阿部芳夫さんの「ふるさと」なる土地が「孰れの土地であるか?」を私は存じ上げません。
 とは言えど、その「ふるさと」から採集して来たと称し、百円玉一個を入れるとゴロリと音を立てて飛び出す「自販機で買う」「水」が、「さわやかな風をこの身にまき起こす」事は絶対に有り得ません。
 私の知るところに拠ると、本作の作者の阿部芳夫さんは教育に携わる人物とか?
 だとしたら、教育者たる人物が、前述の如き非科学的かつ反社会的に言質を弄してはいけません。
 〔返〕  百円玉一個で買える故郷の水は冷えててとても美味しい 


(安中市・入沢正夫)
〇  行き先はカムチャッカなり百名山踏破の後の妻の旅立ち

 年金生活をも顧みずに、無謀にも、名にし負う「カムチャッカ火山群」の踏破を企てようとしているご婦人は、作中に「後の妻」とあるところから推して知るに、恐らくは、本作の作者・入沢正夫さんの「後妻」さんでありましょうか?
 〔返〕  後の妻後の月見てクシャミせむ


(豊橋市・鈴木昌宏)
〇  まほろばに照る月白くしんしんと風力計を回してをりぬ

 「まほろば」とは、「素晴らしい場所・住みやすい場所」という意味の古語であり、この語を用いた具体例として、私たち日本人は「倭は国のまほろばたたなづく青垣山隠れる倭しうるはし」という古歌を記憶しているのである。
 ところで、『古事記』(中巻)の「景行天皇帝紀」は、件の古歌の作者として倭健命の名を挙げているのであるが、『日本書紀』には景行天皇の望郷歌として記録されているのである。
 その事はともかくとして、この耳触りの良い言葉は、今となっては日本全国あらゆる土地の美称として用いられているのであり、北は北海道から南は沖縄の島々まで、日本全国到る所「まほろば」に非ざる所は無し、という頻度で用いられているのである。
 その具体例の一つを挙げるならば、私は私自身の親友の<北さん>の流謫地、即ち「香川県三豊市詫間町粟島」を挙げたいと思う。
 彼の地は、世帯数が二百世帯足らず、人口総数が三百人足らずの離島であり、しかもその大半は高齢者であるが、私の親友の北さんを初めとしたこの島の住民たちは、「この地上に我が故郷・粟島よりも住み良い土地は無かろう。この地上に咲く花の中で最も美しい花は、我が粟島の住民の信頼の花であろう」との幻想に燃えているのであり、隣家が空家となれば、破れた垣根を乗り越えて行って、凡そ一尺余りの身の丈にも及ぼうとする蠍や藪蚊などをものともせずに草刈りをして遣り、その亦隣りの家の寡婦の婆様が足腰立たなくなれば、三度三度の食事の世話や雨漏りのする屋根の修繕に至るまで、ありとあらゆる家事手伝いを住民全員が競い合うにして遣っているのである。
 したがって、この島・即ち讃州讃岐の粟島こそは、真実の意味での「まほろばの島」であろうと、不肖・鳥羽省三さえも秘かに思っている次第なのである。
 思うに、本作の作者・鈴木昌宏さんの故地も亦、「まほろば」たらんとしているのでありましょうが、件の地は、前述の粟島と比較すると月と鼈ほどの隔たりが在るので、一日も早く「まほろば」の金看板を下されたら如何でありましょうか?
 〔返〕  まほろばの島の魚は美味しそうそのうち俺も出掛けようかな!


(八王子市・相原法則)
〇  四千名四段に刻む戦死者名パゴダに在りて忘れられゆく

 ミャンマー連邦共和国のマンダレー管区のザガインヒルに在る日本パゴダに取材した作品と思われる。
 〔返〕  援蒋ルート断たむとせしに空しくも此処に眠れる兵士四千

「黒田英雄の安輝素日記」より(其の1)

2014年08月23日 | ブログ逍遥
「黒田英雄の安輝素日記」(№2477)に、「『塔』八月号・陽の当たらない名歌選1」と銘打って、結社誌「塔」の会員の方々の傑作25首が掲載されていた。
 黒田英雄さんと言えば、「短歌というものは、如何に詠むかという事よりも、何を詠むかという事が大事である」という、独自の短歌観に基づいて偏向的な選定をしている方であるが、彼の選定になる、結社誌「塔」及び「短歌人」からの選出作品には、私にとっては少なからぬ魅力を感じるのであり、就きましてはこの機会を利用して拙い寸評などを述べさせていただきます。

○  誰にでもさみしいと言ふ癖のあるこの娘は存外満たされてゐる  毛利さち子

 「誰にでもさみしいと言ふ癖のあるこの娘は存外満たされてゐる」という、本作の作者の認識は、人間心理の一側面に就いて述べたものとしても、ある程度、妥当と言える認識なのかも知れません。
 とは言えど、それは当該者たる「娘」の生い立ちや現在の境遇などに応じて様々なるケースがありますから、一方的にそうとばかり決め付けていてはいけません。
 その事を具体的かつ卑近的な例を上げて説明しますと、「誰にでもさみしいと言ふ癖のある」件の「娘」は、本作の作者・毛利さち子さんの娘さんでありましょうか、それとも、行き付けの酒場の莫連女でありましょうか?
 私の少ない経験から述べさせて頂きますと、昨今の場末の酒場などには、この種の言葉を口にして男たちの関心をそそり、しこたま飲ませ、有り金全部をふんだくろうとする莫連女が居るのであり、今から五年前のある秋の一夜の事であるが、私もその当時滞留していた埼玉県川口市青木町の飲み屋で此の手の莫連女の口車にまんまと乗せられ、財布の中身・十数万円を残らずふんだくられたことがありますから、世の男性諸君はよくよく注意して事に当たらなければなりません。(事に当たるとはどんな意味ですか?蔭の声)
 仮に、件の「娘」さんが作者の娘さんであった場合に於いても、母親としての毛利さち子さんは、「この娘」の普段からの行状によくよく注意しておく必要があり、「此れもかねてよりの母親としての私の愛情の賜物でありましょう」などと安心して居てはいけません。
 この手の娘さんの帰宅時間が午後10時を回っていたりすると、彼女が援交に走っている可能性が大であり、更に想像を逞しくして申せば、彼女の援交の相手が毛利さち子さんよりもずっとずっと高齢の独身男性であったりして、その裡に娘さんから「お母さん、私はあのお爺さんと結婚する事に決めましたから、来月から高校を中退して、この家から出て行きたいと思ってます」などと打ち明けられたりする可能性だって無きにしもあらずなのである。
 〔返〕  母の愛に満たされているはずなるが耄碌爺の魔羅に満たされ


○  この子はもう帰って来ない 仕送りをすればメールで礼を言いくる  宮地しもん

 「メール」でも何でも「礼を言いくる」だけでも「善し」としなければなりません。
 〔返〕  「金送れ!心配無用!」とメールあり心配せずに居られるもんか


○  父の日も母の日も無いあの頃は父の座があり母の座があり  坂上民江

 生きている事を、今の暮らしがある事を、誰に感謝されないまでも、あの頃の狭い家の中には、確かに「父の座があり母の座」が在ったのである。
 それなのに、今は行政主導の「父の日も母の日」も在るが、肝心要の「父」や「母」を老人福祉施設のベッドの中に閉じ込めておくのである。
 〔返〕  母の日は確かに在るが父の日は在ること在るが贈り物無し


○  関西の男は使はぬ「俺たち」を応援歌なら声合はせをり  朝井さとる

 関東の男たちならば「俺たち」と言って意気がって見せる場面を、「関西の男」たちは「おいら」と言うそうですが、そもそも「おいら」では男性の自称の単数を指す言葉であり、意気がるも意気がらぬも無い事ではありませんか?
 〔返〕  おまいらに八尾の男の意気の好さ知らしたらんか掛かって来いよ


○  窓伝ふ雨に景色は歪みをり汁のわかめを箸におよがす  筑井悦子

 「汁のわかめを箸におよがす」という、下の二句に生活の匂いを感じて、黒田英雄さんは、この一首を選んだのでありましょうか?
 この下の句から察するに、作者の筑井悦子さんは病気療養中かとも思われる。
 〔返〕  窓伝う蠅の歩みのおろおろと我が療養も二年目の冬


○  眠りいるあいだに癒えるかなしみのひとつと思いまた眠るなり  永田 愛

 仰る通り、「眠りいるあいだに癒えるかなしみ」というもの確かに在るように思います。
 でも、そのように感じた場合は、私ならば却って眠れなくなってしまいますが、永田愛さんともなれば、「また眠るなり」となってしまうのであるから、長年の短歌修行も決して無駄ではなかったという事にもなりましょう。
 〔返〕  湯治場の二泊三日の素泊まりで恋の病も既に癒えたり


○  一瞬を不安よぎれり卓の上の息子の名前に社長とあれば  福政ますみ

 「今どきの社長と来たら、碌な事をしない筈だ」と、母親としての福政ますみさんは、直感的に思ったのでありましょうか?
 〔返〕  我が腹を痛めて生んだ子であれば真面な社長になれるはず無し 


○  借り部屋の更新の春うつぶせに六畳を抱くかたちに眠る  沼尻つた子

 掲載歌中、第一番の出来栄えの作品として、感動を覚えながら読ませていただきました。
 それにしても今どき、わずか「六畳」一間のアパートに寝起きしているとは、本作の作者の沼尻つた子さんの哀しい境遇を思って、私は不覚にも涙を流してしまいました。
 「うつぶせに六畳を抱くかたちに眠る」という下の句の表現に拠ると、作者の沼尻つた子さんは、件のアパートの家主さんから「間代の値上げに応じなければ退去せよ」との恐喝めいた言葉を押し付けられたのでありましょうか?
 〔返〕  一夜のみ今宵限りのアパートで涙で濡れた枕抱き寝る


○  カーテンが「し」の字になつたと子の言へり南風吹く春は来にけり  杉本潤子

 「カーテンが『し』の字になつた」程度では、まだまだ庭の梅が綻ぶ程度の微風でありましょう。
 その裡に、カーテンが吹き飛ばされてしまう春一番の風が遣って来ますから、窓を開けっぱなしにしていてはいけません。
 〔返〕  カーテンが濡れてしまってぐじゃぐじゃになってしまった二百十日の夜


○  娘を守ることが一番 よそ者はよそ者でもいいよその土地では  片山楓子

 「他所者は可愛くない子もお出迎え」との一句もありますから、知らない土地での母子の二人暮らしは、「娘を守ることが一番」です。
 「よその土地」に馴染み、その土地の人々から愛され、可能ならばしよう、などと思ったりしてはいけません。
 住み厭きたり、何かのトラブルに巻き込まれそうになったら、母子ともども、また別の土地に行って住めばいいだけのことでありますから(なんちゃったりして。笑)
 それにしても「よそ者はよそ者でもいいよその土地では」とまで開き直るとは、本作の作者の片山楓子さんは、只の母親ではありません。
 〔返〕  他所者は他所者なりのお賽銭旅路の神は頼むに足らず


○  「オルガドロン」核ミサイルのやうな名の目薬がいつもポケットにあり  苅谷君代

 本作の作者は苅谷君代さんである。
 苅谷君代さんと言えば、かつては神奈川県立橋本高校の国語科の教師として、新米教師の俵万智教諭と妍を競った女性歌人でありますが、その後、お身体のお加減は如何でありましょうか?
 「塔21世紀叢書」の一冊としてご刊行なさった、歌集『初めての<青>』所収の次のような作品に拠ると、ご在職中に強度の「眼疾」にお悩みのご様子ですが、件の歌集のタイトルから察するとご全快なさってご様子。
 先ずはご全快おめでとうございます。
○ 執刀の医師の握れるメスの先ほのかに見えて切り開かるる目
○ 水晶体の濁りを砕きしのちの眸に映る空あり初めての<青>
○ 答案用紙に目を擦りつけて採点すかかる姿勢は人には見せず
○ 白杖の先をゆつくり辷らせてわが掌に伝はる舗道の窪み
○ 少女は見えぬ目を光の方にむけて「春の匂ひ」とよろこびてをり
○ 夢の中に本を読みたるときめきよ目覚めてなほも動悸はやまず
○ 指先に「読む」六点の凹凸が無機質の塊の如くに並ぶ
○ 活字なき日々はつらかりこの夏を本一冊も読まず逝かしむ
○ 他人(ひと)の表情(かお)わからぬゆゑに丁寧に物言へばつけこむ人もありたり
○ 手探りに廊下を伝ひくる少女、魚の跳ねる動作に似たり
 〔返〕  初めての青の匂ひに泣きをらむ眼疾全快先づはめでたし


○  人生のある一点などといふものの我にはなくて土手の蒲公英  松木乃り

 「『蒲公英』の花は、『土手』の道沿いに点々として生えているのであるが、『人生のある一点などといふ』曖昧で気休め的な『もの』は『我にはなくて』」という意でありましょうか?
 〔返〕  気休めであるも亦佳し土手沿いに蒲公英のはな点々と咲く


○  病棟のエレベーターは一階の茶房の香りつれて来たりぬ  園田昭夫

 入院中の患者が「一階の茶房」まで足を運んで、熱いコーヒーの香りをさせて「エレベーター」に乗って戻って来るとは、この女性は近々退院をするのでありましょうか?
 〔返〕  ぷんぷんと死臭浸み入る病院のエレベーターに乗りたくはなし


○  眼鏡かけうつむくひとよ光りつつ滴る痛み耐へてゐるのか  新井 蜜

 「光りつつ滴る痛み」という三、四句目の十二音は、仮に実景としても、その意味が分りません。
 或いは、「眼鏡かけうつむくひと」の独特の目配せに、作者の新井蜜さんが、殺意にも通じる痛みを感じたのでありましょうか?
 〔返〕  眼鏡掛け俯く時の汝が顔の父親殺しの犯人に似る


○  脇役のようにたたずむ 地下鉄のホームの隅で咳をしながら  工藤吉生

 「地下鉄のホームの隅で咳をしながら」佇んで居れば、誰でも芝居の「脇役」に見られる訳はありませんよ!
 要は容貌次第。
 苦み走ったいい男でなければ、せいぜいのところ「お笑い」ぐらいにしか見られませんよ!
 〔返〕  風邪ひいて咳をするにもポーズ取る劇団「雲」の大根役者 


○  今がもう思い出だから痛くない 噛みしめて踏みしめて働く  吉岡昌俊

 本作の作者・吉岡昌俊さんは、いわゆる「ブラック企業」と呼ばれる職場で不当労働行為を強いられている労働者と思われるのであるが、「乞食も三日やれば止められない」という俚諺どおりに、今となっては、全てが「思い出だから痛くも痒くもない」という心境に達しているものと思われる。
 三ヶ月休み無しの不当労働をも「噛みしめて踏みしめて働く」という訳なのである。
 〔返〕  すき屋にて二十四時間眠らずに働いたことさえ今は思い出

 
○  猫の足がそつと近づくやうなあめ春にはそんな雨をこぼして  加藤 紀

 「猫の足がそつと近づくやうな」という語句は、「春雨」の直喩として用いられているのであるが、その観察眼の細やかさと発想の目新しさが買われての黒田英雄選への入選でありましょう。
 〔返〕  春雨が我が家の屋根を濡らすごと二匹の猫が忍び足にて寄る  


○  絶対に焼いてないよな3分を過ぎさせカップ焼きそばを食う  相原かろ

 「カップ焼きそば」も、その名が「焼きそば」であるからには、カップの中に熱湯を注いでから「3分」を過ぎると焼いたことになる、という理屈なのかしら?
 だとしても、この屁理屈だけの作品は面白くも可笑しくも無いから、選者の黒田英雄さんの選出ミスと言うべきである。
 〔返〕  絶対に焼いてないよな振りをして人の恋路に邪魔立てするな!


○  うみがめのような子らなり這い上がる夜明けの部屋を布団の上へ  矢澤麻子

 「布団」を積み上げた上に乗って遊ぶ事は、旅行先の旅館や帰省先の母の実家に於いて、子供たちがよく遣らかす遊びである。
 それを以って、生れた砂浜から海へと夜明け前に巣立って行く「うみがめ」の子に見立てたのは、なかなか新鮮なる見立てではある。
 〔返〕  猫の仔が炬燵に潜り込む如く母親我を慕える子らよ


○  結婚はまだですかなんて聞かないで息子より私が傷ついてます  石井久美子

 三十代も半ば過ぎになるのにも関わらず未だ独り身の「息子」を持てば、他人様から「結婚はまだですか?」なんて訊ねられれば、息子本人よりも母親である私の方が「傷ついてます」から、そんな事は訊ねないで欲しい、という訳なのである。
 〔返〕  初孫を抱いてみたいと思えどもその前提の結婚もまだ  


○  学校ではとても元気で良い子ですと言ふ担任の揺れるピアス見る  花 凜

 お子様の学級担任の若い女教師から「学校ではとても元気で良い子です」と言われた花凜さんご自身は、残念ながら、耳たぶに「揺れる」ような「ピアス」を付けるような年限を過ぎている母親なのかも知れません。
 最近の母親はさんざん独身生活を楽しんだ後、四十才近くになってから結婚し、出産したりする例が多いから、本作の作者の花凜さんもお名前には似合わず、その一例なのかも知れません。
 〔返〕  名は「花凜」、何と読むかは知らねども五十路半ばで小二の母だ


○  母親の前にてわれは泣きはらすことあらざりき この娘のように  黒沢 梓

 近頃の娘たちは、さんざんぱら親不孝をしているくせして、これぞという場面になったら、恥も外聞も気にせずに、大袈裟のポーズで泣きたい放題に泣きますからね!
 「私もその半分くらいは母親の前で泣いてみたかった!」というのが、我が儘娘の母親たる黒沢梓さんの本音なのかも知れません。
 〔返〕  泣きたくば泣きたい放題泣くがいい泣いたからとて小遣い遣らぬ


○  住みにくさつらつらこぼす女将ありそを聞きたくて訪なふ京都  竹井佐知子

 首席入選の毛利さち子さん作に登場する娘さん同様に、本作に登場する「京都」の老舗旅館の「女将」も亦、「存外満たされてゐる」のかも知れません。
 〔返〕 住みにくさつらつらこぼす女将にて板に付きたる色里言葉  


○  手術着はこんなに冷たきものか暖房効きし部屋に着替へる  藁科山女

 本作の作者・藁科山女さんは女医さんならぬ患者さん、即ち「俎板に載せられた山女」なのである。
 「手術着」が藁科山女さんにとって予想外に冷たいのは、これから手術台に載せられて執刀されるからという気持ちの現れなのでありましょう。
 〔返〕  手術着が死出の旅路の衣装にはなる訳ないから安心しなさい


○  病む夫に怒る力のあることに安堵しており 爪切りてやる  相馬好子

 未だ「怒る力のある」「夫」に引っ掻かれたりすると痛い思いをするから、「病む夫」の妻たる相馬好子さんは「爪」を切ってやるのであるが、「病む夫」にすれば、妻が自分の「爪」を切って呉れるのは、愛情の表れだろうなどと思っているのでありましょう。
 〔返〕  病む夫に怒る力のあることは目出度くも在り目出度くも無し
      保険金たんまり掛けているからに死んでしまうも困らぬ夫