臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

今週の朝日歌壇から(8月4日掲載・其のⅢ・痛み万策版)

2014年08月07日 | 今週の朝日歌壇から
[永田和宏選]

(福島市・稲村忠衛)
〇  線量を忘れかけてた三年目除染作業の通知が届く

 何を言いたいのでありましょうか?
 ①  行政の過剰サービス。
 ②  除染作業などというものはほんの形式だけの事であるからどうでも宜しい。
 ③  私たち福島市民は、あの原発事故のショックから完全に立ち直っている。
 ④  私は原発事故のショックから立ち直っている訳では無いが、それでもあの日の事を忘れ掛けていた。
 ⑤  その他。
 〔返〕  そう言えば原発事故もあったかな三年前の事は忘れた

 
(大船渡市・桃心地)
〇  瓦礫とは地球の欠片うれしくもかなしくもなくそこにあるだけ

 この作品も亦、何を言いたいのでありましょうか?
 そもそも「瓦礫とは地球の欠片」とする前提自体がつまらない。
 〔返〕  瓦礫とは地球の伊丹十三か戸籍の上では池内義弘
      本作は全く言葉の無駄遣い永田選に入選しただけ


(アメリカ・悦子ダンバー)
〇  窓ガラスの傷夕焼けに反射してバスは傷ごと日没に入る

 一見すると、感性に富んだ女性の詠んだヨーロッパの街の夕景色の描写のように感じられるのであるが、その実、我が国の近現代歌人の作品の中にも類想歌が山積しているのである。
 その一例を示すと、近藤芳美作の「降り過ぎて又くもる街透きとほる硝子の板を負ひて歩めり」、「水銀の如き光に海見えてレインコートを着る部屋の中」、「まれにして架構のあひを落つる鋲人なき床に桃色に燃ゆ」などがそれであり、また、岡部桂一郎作の「まさびしきヨルダン河の遠方(おち)にして光のぼれとささやきの声」、「数条のレール光れる暁の薄明のなか紙ひとつとぶ」、「空気銃もてる少年があらわれて疲れて沈む夕日を狙う」、「うつし身はあらわとなりてまかがやく夕焼け空にあがる遮断機」、「幽暗の一カットにて板ガラス背負いし人はふり返るかな」、「手のひらを反せば没り陽 手のひらを覆えば野分 手のひら仕舞う」、また、田谷鋭作の「昏れ方の電車より見き橋脚にうちあたり海へ帰りゆく水」、「シャワーを浴む男のからだ窓よりの陽にきれぎれの虹まとふ見つ」、浜田到作の「桶水の眩しき反射はこぶべくは母に昧爽(よあけ)の坂はじまるや」、「ふとわれの掌さへとり落す如き夕刻に架橋をわたりはじめぬ」、安永蕗子作の「街上にさるびあ赤きひとところ処刑のごとき広場見えゐる」、山中智恵子作の「めつむれば天山北路一枚の青き硝子に巫医はは入りゆく」等など、枚挙に暇が無い程に思い浮かべられるのである。
 総じて言えば、「硝子や金属や光」と「傷や痛みや悲しみ」との取り合わせは、それだけで抒情性に優れた短歌のように思われるのである。
 〔返〕  ガラス戸の罅の没り日に輝きて我が十字架を負ひて帰り来


(秦野市・福島健太郎)
〇  カフェオレのマグカップ置く傍らに空爆されてガザの街燃ゆ

 「カフェオレ」なんて格好付けちゃってるが、インスタントコーヒーに牛乳を入れただけの代物ではありませんか!
 「マグカップ」なんて、これも格好付けてるのであるが、これもどうせ、ハートのマークなんかを印刷した安物の磁器ではありませんか!
 「カフェオレのマグカップ置く傍ら」に「空爆されてガザの街燃ゆ」なんて聞いて呆れますよ!
 どうせ、テレビの画面で見ただけの代物ではありませんか?
 〔返〕  秦野市の煙草祭りは止めちゃった?水無川の水は枯れたか?


(東京都・十亀弘史)
〇  沈黙を同意とみなす政権にもの言わざるは恐ろしきこと

 「Speech is silver,silence is golden」という言葉は、十九世紀イギリスの思想家「トーマス・カーライル(1795/12/4~1881/2/5)」の著作『衣装哲学』に見られる金言であり、それを日本語訳すると、「雄弁は銀、沈黙は銀」となり、彼「トーマス・カーライル」の生前から我が国に在った庶民哲学(格言)と合致するから、「主張することを戒める」といった考え方は、大英帝国や我が日本国に限らず、世界中に在ったものと思われるのである。
 事の序でに、「トーマス・カーライル」の残した金言の数々を記すと「健康な人は自分の健康には気付かない。病人だけが健康を知っている」、「一度でも心から全身全霊をもって笑ったことのある人間は、救いがたいほどの悪人にはなれない」、「人の天性は、良草を生ずるか雑草を生ずるかいずれかである。したがって、折を見て良草に水をやり、雑草を除かなければならない」、「失敗の最たるものは、失敗を自覚していないことである」、「変化は苦痛を伴う。しかしそれは常に必要なものだ」、「理想は我々自身の中にある。同時にまた、理想の達成を阻む様々な障害も、我々自身の中にある」、「名声は人間の偶発的な出来事であって、財産ではない」、「人間とは何か。人間とは愚かな赤子だ。無為に努力し、戦い、いらだち、何でも欲しがりながら、何ものにも値せず、ちっぽけな一つの墓を得るだけだ」、「財産は火のようなものである。非常に有能な従僕であるかと思えば、一番恐ろしい主人でもある」、「現在というものは、過去のすべての生きた集大成である」、「沈黙は口論よりも雄弁である」、「お前が実行することによって獲得した以外の知識は、所有しているとは言えないだろう」、「大多数の人々は保守的であり、新しいものをなかなか信じようとしない。しかし、現実の多くの失敗には辛抱強い」、「この世に於ける最後の福音は、<お前の仕事を知り、そしてそれを成せ>である」、「ジャーナリズムの力は大きい。世界を説得し得るような有能な編集者はすべて、世界の支配者ではなかろうか」、「争いの場合、怒りを感じるや否や、我々は真理のためではなく怒りのために争う」、「人は、人間を着ているものを通して洞察せねばならない。そして、その人が着ているものを無視することを学ばなければならない」等など、それこそ枚挙に暇が無い程である。
 ところで、本作の作者・東京都にお住いの十亀弘史さんは「沈黙を同意とみなす政権にもの言わざるは恐ろしきこと」などと、「今更乍ら」とでも言うべき事を仰って居られるのであるが、是を鳥羽省三流に謂うならば、「遅かりし由良之助」ならぬ「遅かりし十亀さん」といったところである。
 脚の鈍いのが亀という爬虫類の特質であり、取り柄でもありましょうが、こと、自公連立政権を相手にしている場合は、脚が鈍かったり気付くのが遅かったりすることは、何の取り柄にもなりませんから、以後、十分に注意されたし!と言っても、今から注意したからとて、それこそ「遅かりし十亀さん」でありましょうか?
 〔返〕  寡黙なる評者を信じること勿れ彼は単なる追従者なり


(三郷市・岡崎正宏)
〇  銭湯にラムネが売ってゐた時代弾ける如く九条ありき

 「<銭湯><に>於いて<ラムネ><が>何を<売ってゐた>のでありましょうか?」などと揶揄されると、「トサカに来た!」などと言って怒る方も居られましょうが、「銭湯でラムネを売っていた時代弾ける如く九条ありき」と言えば済むところを、殊更に「銭湯にラムネが売ってゐた時代弾ける如く九条ありき」などと窮屈な言い方をする必要はありません。
 格助詞「に」の用法としては、「時を指定する用法」などと共に「場所や範囲を指定する用法」も在りますから、「銭湯にラムネ(が置かれていた)」という言い方をしても、格別に文法的な誤りとするべきはありません。
 しかしながら、この「に」が格助詞の「が」と共に用いられて「銭湯にラムネが売ってゐた時代」などと言われて仕舞うと首を傾げ、一言、二言苦言を呈さざるを得ません。
 と言うのは、格助詞「が」には、「体言及び体言に相当する語に付いて主格を表す用法」と共に「体言及び体言に相当する語に付いて希望や能力や好悪の対象になるものを表す用法」、即ち「林檎が食べたい」「あの女が好きだ」といった言い方もありますが、「ラムネが売ってゐた時代」という言い方は、明らかに是とは異なる言い方であり、格助詞「が」の用法の誤用である、と認定せざるを得ないからである。
 そもそも、「林檎が好きだ」とか「あの女が好きだ」とかという言い方自体、「林檎が何を好きなのか?」とか「あの女が何を好きなのか?もしかしたら、セックスかも?」などとからかいたくもなってしまうのである。
 〔返〕  銭湯でラムネを飲んでいた時代 憲法九条キラキラしてた


(舞鶴市・吉富憲治)
〇  この狭き町にも折に徘徊のうわさ流れて紫陽花盛る

 我が国は世界有数の老人大国であるとか?
 だとしたら、面積が狭かろうが広かろうが構わずに、高齢者の徘徊する姿が見られるはずである!
 それにも関わらず、かつてはアメリカ大陸を股に掛けて闊歩していた吉富憲治さんが、こんなクダラナイ歌を詠むなんて、一体全体、どうしたことでありましょうか?
 〔返〕  この狭き町にも折に俳諧師来たりて弟子と歌仙など巻く


(埼玉県・酒井忠正)
〇  遠泳の列に舟寄せ口あくる生徒はげまし飴放りやる

 水泳教室の先生方も「飴と鞭の使い分け」をしなければならなくなったのでありましょうか?
 埼玉県には海がありませんから、本作の題材となった光景は、九十九里浜か何処かで行われた水泳合宿での一風景でありましょう。
 〔返〕  ダ埼玉、海も無ければ金も無し最寄りの海と言ったら房総


(東京都・上田結香)
〇  「友達に戻ろうか」とは世界一むずかしいことをさらりと言うね

 今週の「永田和宏選」中の白眉とも言うべき傑作である。
 口語短歌は、さらりとした味わいが取り柄である。
 こんな傑作を東京都にお住いの上田結香さんは、よくも「さらり」と詠み上げたもんだ!
 おら魂消た!
 〔返〕  友達に戻れたならば苦労せぬ処女の私に帰してお呉れ


(アラブ首長国連邦・湯浅理乃)
〇  見えないぞ砂が舞っててビル群がそろそろ暑くなる季節かな

 砂漠のど真ん中の人工都市である、アラブ首長国連邦のドバイ下んだりまでのこのこと出掛けて行って、「見えないぞ砂が舞っててビル群が」などと言ったって、どばい無理な話ではございませんか?
 それに「そろそろ暑くなる季節かな」なんてことは、まるで無駄言である!
 この日本国だって、連日連夜の猛暑日なんですから!
 安倍ちゃんに暑さ防衛対策を講じて貰おうかしらん!
 〔返〕  見えないぞ我らの孫の将来が!徴兵制度の復活かしらん!

今週の朝日歌壇から(8月4日掲載・其のⅡ・木曜特大版)

2014年08月07日 | 今週の朝日歌壇から
[高野公彦選]

(行方市・鈴木節子)
〇  茹でたてのトウモロコシを横かじり戦後の夏を引き寄せながら

 今もなお「戦後」でありましょう。
 憲法第九条で以って武器を持って戦う事を放棄した我が日本国民には、「戦後」という意識が永遠に着いて回るのであり、それを片時も忘れてはいけません。
 「集団的自衛権を行使できる普通の国」になるなんて胡乱な事を考えてはいけません。
 〔返〕  末成りの皮西瓜を丸齧り糖度15度以下出荷不可能


(諫早市・麻生勝行)
〇  みちのくの風鈴くれし友もなしやさしき音をひとり聞くのみ

 「みちのく」の来たら、それだけで月並みである。
 「みちのく」を馬鹿にしてはいけませんよ!
 〔返〕  不知火の諫早湾に萌ゆる藻のぬめりも知らに君を抱けり


(大阪市・安良田梨湖)
〇  この夏もきみも私のものじゃない 本の背表紙押し戻すゆび

 就活に失敗して大阪の陋屋住まいであれば、海水浴にも行けず、恋人を持つこともままならず、図書館から借りて来た「本の背表紙」を細い「ゆび」で「押し戻す」だけの毎日でありましょうか?
 安良田梨湖さんお得意の貧乏話の一巻終り。
 〔返〕  この夏は君と私のものなると二色の浜に繰り出しにけり
 『青砥稿花紅彩画』の二幕目第一場(雪の下・浜松屋の店先の場)での女装の美男子・弁天小僧菊之助の名乗り口上の如き名調子でお読み下さい。


(宮崎市・南栄子)
〇  離任の日少年にもらいしハンカチをあご当てにしてバイオリンを弾く

 佐佐木幸綱選の五席として既出。
 〔返〕  離任の日餞別に貰った金券で飛魚出汁買って饂飩の汁に


(八尾市・水野一也)
〇  戸袋の奥で雛鳥待ちおるか尾を振りながら鶺鴒出入りす

 古民家の「戸袋の奥」に小さな鳥や獣などの生き物が営巣している、という事はよく聴く話である。
 それが身の丈一丈もある青大将だったり、土蜂だったり古狐だったりするとその措置が甚だ厄介なものになるが、本作の場合は「鶺鴒」であるから可愛い話である。
 そのまま放りっぱなしにしておいて、雨戸の開け閉てだけは少し慎重になさったら如何でありましょうか。
 下の句に「尾を振りながら鶺鴒出入りす」とありますが、「鶺鴒」の親はこの家の店子として、家主の水野一也さんにお辞儀をしながら「出入り」しているのかも知れませんよ?
 〔返〕  江戸期より我が家の梁を蛇が這ふ屋敷守りと雖も怖し


(霧島市・久野茂樹)
〇  カブトムシ肩に這はせて六歳が東京行きのゲートをまがる

 九州民謡に「鹿児島おはら節」という名曲があり、その歌詞は「♪花は霧島、煙草は国分。(ハ、ヨイヨイ、ヨイヤサ)燃えて上がるは、オハラハー、桜島。(ハ、ヨイヨイ、ヨイヤサ)」で始まるのである。 
 私は、寡聞にしてこれ迄存じ上げなかったのでありますが、本作の作者がお住いの鹿児島県霧島市は、鹿児島おはら節の歌詞のにも出て来る「(旧)国分市と姶良郡溝辺町・横川町・牧園町・霧島町・隼人町・福山町の1市6町が合併して誕生した、鹿児島県で2番目の人口規模を有する市であり、市域内に鹿児島空港もあり、東京や大阪へ向かう飛行機が1日に幾便と無く飛び立つ」とか。
 本作の作者のお孫さん(六歳)は、恐らくは、鹿児島県の県花にもなっている「ミヤマキリシマ」の花の蜜を吸って育った「カブトムシ」を「肩に這はせて」、鹿児島空港の「東京行きのゲート」を曲がったのでありましょう。 
 ところで、「まがった」とか「まげる」とか言う言葉は、通常「盗癖のある子供が何かを盗んだとか、彼に何かを盗まれた」という場合に使う言葉であるが、本作の末尾に置かれている「まがる」は、そうした意味で使われているのでは無くて、ただ単に「六歳」の子供が、空港の「ゲートをまがる」という意味で使われているのでありましょう、との説明は、読者受けする為の付け足しであるが、この動詞「まがる」の存在に拠って、本作の描写がよりリアルなものになっている事は、間違いない事実である。
 〔返〕  桜島の灰を被った麦藁帽被って孫は東京さ行った


(下野市・若島安子)
〇  ウインドーの衣架の紬の脇役にディスプレーされし山蚕の孤独

 これは亦、手が込んでいる割には田舎っぽくてセンスの良くない「ディスプレー」であることよ!
 本作の叙述に拠ると、栃木県下野市のとある衣料品店では、「(ショー)ウインドー」に飾られた「衣架の紬」の着物の「脇役」として、「山蚕」が「ディスプレー」されている、とか?
 「所変われば品変わる」とはよく言いますが、ついこないだ迄、集落の里山に行けば「山蚕」がうじゃうじゃと群がっていた下野市あたりで、選りも選って、何も「山蚕」を「(ショー)ウインドー」に「ディスプレー」する必要は無いだろうと思われるのであるが、読者の皆様方に於かれましては、その点に就いてのお考えは如何でありましょうか?
 でも、本作に登場する「ディスプレーされし山蚕」は「孤独」ながらも、確実に一つの役割を果たしているのである!
 その役割とは、何の変哲も無いこの短歌を、朝日歌壇の入選作にまで押し上げたという意味の役割である!
 ところで、たった今、気が付いた事でありますが、作者の若島安子さんは、本作の五句目に「山蚕の孤独」という七音を置いているのでありますが、これは、斎藤茂吉の著名な連作「死に給ふ母」の中の「ひとり來て蠺のへやに立ちたれば我が寂しさは極まりにけり」、「日のひかり斑らに漏りてうら悲し山蠺は未だ小さかりけり」といった作品、或いは、同じ『赤光』所収の「ゴオガンの自画像みればみちのくに山蚕殺ししその日おもほゆ」といった作品を、多分に意識した上での表現かと思われるのである。
 と、いうことになりますと、一見すると、「着眼点が宜しい」とか「田舎町の素朴な衣料品店のディスプレーに、夏特有の哀愁を感じさせる佳作」といったように褒めたくなったりもするこの作品は、「シヤッター通りの中で唯一灯りが点っている衣料品店の素朴なディスプレー風景に、斎藤茂吉を配しただけの凡作」になってしまうのであるが、その点に就いての、作者及び当ブログの読者の皆様方のご意見をお聴きしたいと思いますが、如何でありましょうか?
 話が急転直下逆回転しますが、私・鳥羽省三は、根が正直と言うよりも偏屈なものですから、他人様の作品を評するに当たって、心にも無い悪口雑言を並べ立ててしまうような性癖を持っているのでありますが、本音では、この作品の出来栄えも「なかなかのもの」と思っているのである。
 〔返〕  初夏の生田緑地を訪ぬれば出羽の山蚕の碧さ思ほゆ  


(長野県・沓掛喜久男)
〇  ラーメン屋の前に並びし人の顔智恵はあらざり吾もそのうち

 本作の作者も亦、私と同様のなかなかの偏屈者のように思われるのである。
 「ラーメン屋の前に並びし人の顔智恵はあらざり吾もそのうち」などと仰いますが、余人の「顔」はともかくとして、かく申すご自身の「顔」だけは「人一倍の智恵者の顔だ!」と思っているのでありましょう!
 ところで、私・鳥羽省三は人一倍のラーメン好きでありますから、かつての横浜市横浜市都筑区の「くじら軒」のラーメンや神田の「さぶちゃん」の半ちゃんラーメンを食べる為だったら、何時間でも並んだものでしたよ。
 その「くじら軒」は東京駅構内に出店を開いたりして、観光客相手に碌でもないラーメンを食わせ、「さぶちゃん」は「さぶちゃん」で閉店してしまいましたが・・・・・・。
 そう、そう、今思い出しましたが、私の故郷・湯沢の仲見世の中にあったラーメン屋「長寿軒」の、かつての「ぎとぎとラーメン」の味もなかなかのものでありましたよ!
 是も今となっては、懐かしい昔話となり果ててしまいましたが!
 〔返〕  ラーメン屋の前に並んだ人の中で訳知り顔した本屋のご隠居  


(君津市・眞田花梨)
〇  リスってさ毎日毎日のんびりでいいなと思う宿題多い日

 佐佐木幸綱選の末席として既出である。
 〔返〕  りすってさ、胡桃ばっか食べててさ、脂肪過多にならないかなあ!


(君津市・本間夏美)
〇  鉛筆を握ってからの時間がねすごく長いよ短歌作り

 五句目の字足らずがとても惜しまれる!
 或いは、・・・・・。
 〔返〕  鉛筆を握ってからの時間がねすごく長いよ短歌創りは
 或いは、・・・・・。
      鉛筆を握ってからの時間がねすごく長いよ短歌詠むのは

今週の朝日歌壇から(8月4日掲載・其のⅠ・木曜朝刊再訂版)

2014年08月07日 | 今週の朝日歌壇から
[佐佐木幸綱選]

(奥州市・及川和雄)
〇  母見舞い大の字で見る雲の峰明日はタオルを持って行こうか

 今日のお見舞いで以って息子としての責任の一端は一応果たしたという安心感と充足感とが、奥州市にお住いの及川和雄氏をして、「大の字」に寝て「雲の峰」を眺めるという気持ちにせしめるでありましょう。
 その気持ちは「雲の峰」を眺めているうちに更に大きく柔らかなものになり、軈ては「明日はタオルを持って行こうか」という優しい気持ちを引き起こさしめるのでありましょう。
 〔返〕  母を訪ふ前に立ち寄る縄のれん五合くらいで酔ふはずは無し


(佐渡市・小林俊之)
〇  山深き島にして船の待合室登山届の用紙の置かる

 作中の「山深き島」とは、「高山植物の棲息地として有名な利尻島」或いは「縄文杉で名の知れた屋久島」かと思われる。
 まさか、「山形県は酒田沖の飛島」では無かろう。
 だとしたら、利尻岳への登山届の用紙は、稚内港から出るフェリーボート内で入手出来るのでありましょうか?
 また、宮之浦岳への登山届の用紙は、鹿児島港から出る高速船内で入手出来るのでありましょうか?
 〔返〕  山の無き孤島にあれば飛島に往くひと誰も登山はせずも

 
(渋川市・中村幸生)
〇  少なくも選者四人が読むからは送り続けん反戦の歌

 中村幸生さんのこの度の投稿作品は、ご立派に入選を果たしましたから、「選者四人」だけでは無く、約八百万人に及ぶ朝日新聞の読者の殆どの方が「読む」ことと思われます。
 という訳でありますから、これからも何卒、蛮勇を奮われて「反戦の歌」を沢山詠んで投稿して下さい。
 でも、テーマが「反戦」と固定されている場合は、知らず知らずのうちに「自己模倣」に陥りがちですから、その点に就いては十二分にご留意されたし!
 〔返〕  少なくとも鳥羽省三は読みました中村さんの追従短歌


(名古屋市・福田万里子)
〇  全盲の君はこっそり脇役の我の背中の釦を触る

 本作の題材となっている場面は、「特別支援学校の在校生と職員に拠る演劇舞台の一場面」でありましょうか?
 〔返〕  脇役と言えどセリフが二個もありそのうち一個を忘れてしまった


(宮崎市・南栄子)
〇  離任の日少年にもらいしハンカチをあご当てにしてバイオリンを弾く

 「離任の日」に「少年にもらいしハンカチをあご当てにしてバイオリンを弾く」くらいなら、南栄子さんという女性は、たいしたバイオリニストではありませんな?
 もしかしたら、「宮崎シティフィルハーモニー管弦楽団」に所属しているのかも知れませんが?
 間違っていたら勘弁して下さい。
 〔返〕  離任の日生徒が呉れしハンカチが皺苦茶になり棄てたくなりぬ


(東京都・上田国博)
〇  負け試合に相手の校歌長かりき起立して聴く「白雲なびく」

 「白雲なびく」と言ったら、相手校は明治系列の高校なのかしらん?
 〔返〕 罷めてより音信なきを案じゐし部員を早稲田の応援席に見つ


(高松市・桑内繭)
〇  対岸に蝉声響くお茶亭の池滑らかに蛇泳ぎ来る

 蛇は気持ちが悪くて苦手ですから、鑑賞はパスさせていただきます。
 〔返〕  対岸に蝉声響く栗林の池しゃあしゃあと蛇の泳げる


(小山市・泉洋一郎)
〇  ゲレンデに中学生が百合植えぬ七十五万株の花咲く

 本作の作者・泉洋一郎さんは栃木県小山市にお住いであるが、同じ栃木県の「那須塩原市湯本塩原のスキー場・ハンターマウンテン塩原の『ゆりパーク』では早咲きの百合が見ごろを迎え、訪れた人を楽しませている」とか。
 「国内最大級の規模を誇る同パークでは、約10万平方メートルのゲレンデに約50種、400万輪の百合が咲き、7月28日現在で早咲きの品種が八分咲き、パーク全体では二分咲き程度で、今月末から8月上旬にかけて最盛期を迎える」とか。
 また「全長約1キロのリフトの下に咲き誇る赤や黄色、ピンクなど色とりどりの大輪のユリは、濃緑のゲレンデを鮮やかに彩る花火のようであり、眼下に広がる美しい風景と高原の爽やかな風を感じながら、約10分間の空中散歩を楽しむ事が出来る」とか。
 本作の記述と、前掲の説明文との間には、百合の株数に就いての数字になかり大きな隔たりが見られるが、本作の題材となっている「ゲレンデ」とは、恐らくは「那須塩原市湯本塩原のスキー場・ハンターマウンテン塩原のゆりパーク」を指して言うのでありましょう。
 〔返〕  ゲレンデに4000000輪百合が咲く数えた訳ではありませんけど


(横浜市・江連夏帆)
〇  公園のむき出しの土をお気に入りのスニーカーで行く梅雨が晴れた日

 「スニーカーで行く」と言えば、なかなか格好がいいが、一昔前までは「ズック靴」と言っていたのである。
 〔返〕  雨上がりどろどろびっちょのズック履きジャガイモ畑の草取りに行く


(君津市・眞田花梨)
〇  リスってさ毎日毎日のんびりでいいなと思う宿題多い日

 のんびりしているように見えて、あれでなかなか大変なんですから!
 狐や鼬や鷹などの外敵は多いし、それに餌を探すのもなかなか難儀なんですよ!
 〔返〕  栗鼠ってさ自由気儘に交尾する羨ましいね栗鼠になりたい