臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

今週の朝日歌壇から(4月26日掲載分)

2010年04月30日 | 今週の朝日歌壇から
○ グーグルで地球をぐるぐる回しおればガザの街路に車行く見ゆ  (柏市) 秋葉徳雄

 グーグルアースの画面で「地球をぐるぐる回し」ていたところ、たまたまその画面に、問題の地、パレスチナの「ガザ」地区が映り、その一廓の「街路」に自動車が走って行くのが見えたというのである。
 グーグルアースの画面に映るのは、今のところ静止画像だけであるから、作中の「車行く見ゆ」という表現は<勇み足>的な表現だと言わざるを得ないが、「街路」を走っている自動車そのものは映るし、角度によっては運転者の顔形なども見えたりすることは確かである。
 ガザ地区の広さは約三百六十平方キロメートル、その狭い中に約百五十万人の人々が犇いていて、その三分の二はパレスチナ難民及びその子孫であると言う。
 したがって、作中の「車」の中にはパレスチナ難民が乗っているかも知れなく、その頭上には、イスラエルのロケット弾がいつ降って来るかも分からないのである。
 本作の作者・秋葉徳雄さんは、そのことを充分に想定なさった上で本作をお詠みになったのであり、そうしたことをリアルに想像させるからこそ、この作品が朝日歌壇の入選作となっているのであり、また、この私がそれについての云々を記しているのである。
  〔返〕 ガザ地区の街路に停めし車から今しも降りむブルカの娘   鳥羽省三 


○ この次は生きて居るかはわからんと言うも明るく御柱曳く  (飯田市) 草田礼子

 諏訪大社の御柱祭は六年に一度の神事である。
 したがって、次の「御柱曳」きは、今から六年後ということになる。
 作中の「この次は生きて居るかはわからんと言うも明るく御柱曳く」人物は、なかりのご高齢者であるにも関わらず、「ここ一番、お諏訪様の氏子の気概を見せん」として、御柱曳きに参加したのでありましょう。
  〔返〕 この次もそのまた次も生きていてお諏訪大社の御柱曳け   鳥羽省三


○ 喪の家の窓より見ゆる漁火のひとつも消えて通夜も終りぬ  (八戸市) 山村陽一

 「ひとつも消えて」という措辞が味噌である。
 「喪の家の窓」からは、日が暮れると同時に、幾つもの「漁火」が見えていたのであるが、やがて夜が更けるにつれて、それらが次々に消えて行き、最後に残った「ひとつも消えて」しまった頃には、「通夜」の行事も終りになってしまった、というのである。
 明日には黄泉路へ旅立とうとする人の亡骸の番をする遺族たちにとっては、「家の窓より見ゆる」幾つかの頼りない漁火だけが心の支えであったに違いない。
 やがて、時間の経過と共に、「通夜」の客たちも次第に少なくなり、それに伴って「漁火」の数も少なくなって行き、今となっては、最後まで残っていた「漁火のひとつ」も消えてしまい、死者の縁者だけ数人が闇の底に取り残されてしまったのである。
 消えて行ってしまった人間の命と窓からの見えていた漁火との対比であり、赤と黒の世界である。
  〔返〕 不釣合いなドレス纏ひて訪れし通夜の客へと注げる視線   鳥羽省三 
 
 
○ 「孤独とはこんな物か」とため息し痛める肩に膏薬を貼る  (箕面市) 田中令三

 「膏薬」という言葉は、前時代の遺物とも思われる。
 したがって、その「膏薬」を「痛める肩に」「貼る」時に、「『孤独とはこんな物か』とため息」を吐くというのも、充分に納得が行く。
  〔返〕 「吉野とはこんなとこか」とふらつきて西行庵への山坂登る   鳥羽省三

 去る4月21日、私は、折りからの雨の中を吉野山の西行庵を詣でて来ました。
 下千本、中千本、上千本、奥千本と、吉野山名物の桜も既に葉桜。
 篠突く雨の中を泥濘に足を取られながら、桜を見ないで馬鹿を見て来ました。
  〔返〕 これはこれはとばかりの雨の吉野山 桜は見ずに足元を見る   鳥羽省三


○ かたくりは踏みしだかれて哀れなり山菜とりはぜんまい目当て  (小山市) 内山豊子

 今は亡き釈迢空の作「葛の花 踏みしだかれて、 色あたらし。 この山道を行きし人あり」は、人も知る近代短歌の名作である。
 本作は、その名作から、二句目だけを借用し、その趣きを抒情から、社会批評歌風、狂歌風に転換した作品である。
 「かたくり」と言えば、都会人にとっては幻の花といった感じの花ではあるが、「ぜんまい目当て」の「山菜とり」にとっては、ぜんまいの生えている場所に急ぐ時に、踏みしだいて行くしかないあだ花なのである。
  〔返〕 踏みしだくシラネアオイに見惚れつつ山菜採りは道に迷ひぬ   鳥羽省三


○ ぜったいに腐らぬものを日々食べて腐った味を知らぬあやうさ  (鎌ヶ谷市) 正治伸子

 現代社会の子供たち、いや、立派な大人まで、彼ら彼女らは、「腐った味」というものを知らない。
 そうした彼らの知識と経験の浅さは「ぜったいに腐らぬものを日々食べて」いることから必然的に生じたものであり、それは、彼ら、彼女らの生活に「あやうさ」を与えていると言うのである。
 さもありなん。
  〔返〕 低カロリー甘さ控えの菓子求めデパ地下売り場に蝟集する主婦   鳥羽省三


○ 白梅にひらひらと雪降ってゐる進む時間にとどまる時間  (熊谷市) 内野 修

 「進む時間にとどまる時間」という下の句を解釈する際に、「白梅にひらひらと雪降ってゐる」という上の句の措辞とそれとを必要以上に接近させて解釈してしまうと、この一首に詠まれた世界を誤解してしまうことになる。
 この一首の内容は、話者が「白梅にひらひらと雪」が「降ってゐる」風景の中に佇みながら、時間の進行に流されているような、静止した時間の底に取り残されているような不思議な感覚に陥っている、といったところで充分なのである。
  〔返〕 木蓮がちらちらと散る昼下がり死へと私は急かされている   鳥羽省三

『NHK短歌』観賞(米川千嘉子選・4月25日放送)

2010年04月30日 | 今週のNHK短歌から
○ 「をんなです」「母子家庭です」ある時は弱き女の顔して生きる  (仙台市) 花木ゆう

 下の句に「ある時は弱き女の顔して生きる」とあるが、上の句を構成している二つの会話はその内容を具体的に示したものである。
 そこの辺りのことをもう少しリアルに説明すると、本作の話者(=作者?)が、居住町内の自治会長などから、「あんたもこの町内の住民の一人であることには違いないから、今度の自治会役員改選時に会計監査ぐらいは引き受けて下さいよ。この町内で未だ一度も自治会役員になっていないのは、あんたんちぐらいのもんだから」と言われたとする。
 そんな時に、その自治会長の要請を断ろうとして彼女が口にする言葉が、「をんなです」「母子家庭です」という二つのセリフなのである。
 「ある時は」という三句目の措辞も何やら気に掛かる。
 彼女は、「ある時は弱き女の顔して」生きているのであるが、また別の「ある時は」「をんな」であることや「母子家庭」の主婦であることなどの弱みを隠しながら、男たちと張り合って堂々と世渡りをしているのではないだろうか?
 お題の「顔」を、一首の中に効果的に取り入れている点などに於いては、特選一席にランクされるに相応しい作品でありましょう。
 とは言え、口語的発想に立って創作した短歌作品の中の「女」という語を、作者は何故、「女」や「おんな」としないで「をんな」としたのだろうか、と、評者の私は、この作品の表記に大きな不満を覚えている。
 「女」という語をひらがな書きする場合に、「おんな」と書かないで「をんな」と書くことによって生じるメリットは、「私は<古典仮名遣ひ>を知っている教養ある女性です」といった、馬鹿げた見栄だけである。
 星の数ほどにも在る有象無象の短歌結社の中には、「本誌へのご投稿は<古典仮名遣ひ>を原則とする」などという時代遅れの規定を誌面に掲げているものも在るが、そんな短歌結社は、絶滅危惧種ならぬ絶滅奨励種に属するに違いない結社であるから、後ろ砂でも引っ掛けて脱退すればいいだけのことである。
 国営放送局たるNHKが放映している<NHK短歌>は、正しい国語表現を推進するという立場から、この種の作品を門前払いにすることを勧める。    
  〔返〕 女だと母子家庭だと侮るなおんなの細腕巨象をも牽く   鳥羽省三


○ 「寅さん」も「釣りバカ日誌」も完結す さよなら大きな顔したヒーロー  (埼玉県) 房野明美

 そう言えば、渥美清さんのご尊顔は大きかった。
 彼が「釣りバカ日誌」の「寅さん」役を演じている時の顔は、特に大きかったような気がする。
 「釣りバカ日誌」の「寅さん」は、生前も死後も国民的英雄に違いないから、本作の「さよなら大きな顔したヒーロー」という表現は、極めて適切な表現と言えましょう。
 やや軽めの内容の作品ではあるが、国民的な「顔」・「寅さん」を、お題として巧みに折り込んだ点などを評価すると、特選ニ席も当然かと思われる。
 大雑把に申し述べると、<NHK短歌>の四人の選者のうち、私は、米川千嘉子さん及び東直子さんの選に信頼を置いているが、他の二人の方の選には全く信頼を置いていない。
 あのお二人のお顔と選評とは、私にとっては想像するだに虫唾が走る代物である。
  〔返〕 東横線代官山で逢ったのは意外に美男の寅さんだった   鳥羽省三
 今から三十年ほど前、私が骨董漁りのために青山の骨董通りから代官山駅周辺を歩き回った挙句、そこそこの収穫物を抱えて、東急東横線・代官山駅の改札口をくぐろうとしたら、私と入れ違いに改札口を出ようとしている男性に出会った。
 その男性の風貌は、普通のサラリーマンなどとは明らかに異なっていたので、私が彼の方に視線を向けてきょろきょろしていたら、東急の駅員の方が、私に、「今のお客様のお顔をご覧になりましたか。あの方は、俳優の渥美清さんですよ。渥美さんのお住いは、この駅の近くにお在りなのです」と教えて下さった。
 私は、渥美清さんの顔と言えば、あの大きな「寅さん」の顔しか知らなかったから、彼の素顔の意外な美男振りには驚いた。    


○ 一人にはなりたくないと思いつつひとりにしたくない顔見つむ  (江戸川区) 渡登茂郎 

 ご高齢に達したご夫婦のうちの夫が、奥さんの顔を見詰めているのだろうか?
 簡潔な表現の中に、話者の切ない思いをよく表わしているから、特選三席も当然かな?
  〔返〕 見たくない顔と思ったこともある顔に見惚れて暮らす晩年   鳥羽省三


○ 眠剤を口に含めば寂しくてこの世かの世のいづこにねむる  (福岡市) 下田朝子

 評者も、手術後の数日間を睡眠薬に頼った経験を持つ者であるが、あれを口する時の気持ちは、「私はそのまま目覚めないのかも知れない」などといった複雑なものであった。
 「眠剤を口に含めば寂しくて」の「寂しくて」が宜しい。
 下の句の「この世かの世のいづこにねむる」は、「眠剤」を飲む時の浮遊感を言い表わそうとしたものであろうが、上の句との連絡に欠けているような気もするし、上の句と付き過ぎているような気もする。
 つまり、そこの辺りの浮遊感が、この一首の魅力なのかも知れない。  
  〔返〕 一目千本万本の春に出会わんと一日ニ錠のハルシオン服む   鳥羽省三


○ 船霊を抜かれし船は赤々と燃されてけぶる昼顔の浜  (下関市) 大見光昭

 一艘一艘の漁船に、「船霊」という名の守護神が祭られていることは知っていた。
 その船が漁船としての役目を終えて廃船処分にされる時には、その「船霊」を抜く行事が行われるのであろうか?
 そのことはともかく、漁船としての役目を終えて「船霊」を抜かれた「船」が、「昼顔」の咲く「浜」で「赤々と燃されてけぶる」風景を詠んだのが、本作である。
 「船霊」「赤々」「燃」「昼顔」「浜」といった漢字が、具体的な光景をイメージさせて効果的である。
  〔返〕 肝玉を抜かれた吾が海に来て漁船の焼けるをしみじみ見てる   鳥羽省三
 

○ 横顔の他は知らないいつまでも憂いを帯びた太宰治の  (橿原市) 雨宮 司

 一首全体、「そう言えば、そうも思えるな」と思わせ、かなりの説得力を備えた作品である。
 真正面から映した太宰治の顔は、その気になって探せば何枚も在るのだが、私にとっての太宰治の顔と言えば、やはりあの有名な頬杖をついた憂い顔や、東京銀座の酒場<ルパン>で、写真家・林忠彦さんが撮った顔など、その全てが「憂いを帯びた」「横顔」なのである。
 その酒場<ルパン>で撮った太宰治の顔について、写真家の林忠彦氏は、その著『カストリ時代―レンズが見た昭和20年代・東京』(朝日文庫)に於いて、次のように述べて居られる。

 当時銀座の文春画廊の横町にある酒場「ルパン」が僕の仕事の連絡場所でもあった。
 ある日(中略)僕が織田作之助を撮っていると、反対側で(坂口)安吾さんと並んで座っていた男が突然わめき出した。
 「おい、俺も撮れよ。織田作ばっかり撮ってないで俺も撮れよ」べろべろに酔っぱらっていた。
 僕はちょっとむっとして「あの男はいったい何者ですか」
 「君、知らないのかい。あれが今売り出し中の太宰治だよ」(中略)
 ところがもうフラッシュバルブが残りたった一個しかない。
 さっそく便所のドアをあけて、便器の上に寝そべるようにして太宰治を撮った。
 この時から一年半あとには入水自殺をとげたから、本当に貴重な一枚になった。
  〔返〕 便所から撮られた太宰の憂い顔入水自殺の一年半前   鳥羽省三


○ 透明な箱に小鳥を一羽入れ困った顔で夫が来る夢  (神戸市) 野中智永子

 「困った顔で」というところが味噌。
 話者の「夫」は、どんな理由で困り顔をしていたのだろうか?
 フロイト的、精神分析学的な解明を要する作品である。
  〔返〕 透明な皿にヨハネの首を載せ歩み出でたりヘロディアの娘   鳥羽省三


○ 今日くらいしかめっ面はやめなさい妻に言われて定年の朝  (鈴鹿市) 村上英明

 「定年の朝」に限らず、朝っぱらから愛する夫の「しかめっ面」を見せ付けられなければならなかった「妻」の苦しみはいかばかりであったのでしょうか?
 定年離婚という言葉は、この夫婦のために用意されているのだ、と皮肉を言って、筆を擱こうか。
  〔返〕 あの日から今朝まで続くしかめっ面これで見納め定年離婚   鳥羽省三


○ ボクはまだ恋はしないと十歳は真顔なり湯船に向き合ひながら  (名古屋市) 藤掛宏子

 韻律の悪さが大きなマイナス。
 短歌というものは、内容が軽ければ軽いほど確かな韻律が要求されると、評者は思っている。
 そこで、
  〔返〕 ボクはまだ恋はしないと十歳は真顔で言いぬ湯船に浸り   鳥羽省三


○ 口の端に歯磨き残る君の顔を忘れむとして白き三日月  (蒲郡市) 酒井賀代

 人間同士は、どんなに好き合っていたとしても、排尿や排便、それに歯磨きなどの仕草を見たくないものである。
 私事ではありますが、私の連れ合いは歯ブラシを加えながら、家中をやたらに歩き回る。
 歯ブラシを銜えたままでやりかけの家事に手をだしたり、私にものを言いかけたりもする。
 そうした妻の有様を見ていると、私は本当に「百年の恋も~~~」といった気持ちになってしまうので、再三に亘って注意をしているのだが、その性癖は未だに直らない。
 かと言って、それを理由に離婚を申し出る気にもなれず、本当に困ったものである。
  〔返〕 歯ブラシを口に銜えたとこ以外全部好きです愛する翔子   鳥羽省三


○ 朝七時鼻で戸を開け顔を出す犬と人との今日のはじまり  (北杜市) 平山三郎

 愛犬と愛犬家とが一体となって暮らす、現代社会の定年退職後の人々の生活の一端が活写されている。 
 この一首とは別に、先週一週間を大阪で生活してみて気が付いたことであるが、都心部を除いた大阪市一帯に於いては、愛犬家が愛犬を散歩させる際に、排便を処理する道具、例えば、不透明のビニール袋、箸、移植鏝といった道具を所持しない風習のように見受けられた。
 私は、大阪滞在中に毎日のように外出したが、その途中で出会った愛犬家の誰一人として、そうした道具を所持している者は見掛けなかった。
 そして、彼ら、彼女らは、私の見ている前で堂々と愛犬に排便をさせ、その処理もしないままに平気で現場を立ち去ってしまうのであった。
 敏腕にして頭脳明晰で有名な、大阪府知事・橋下徹氏は、この困った現状にどのようにご対処されるおつもりなのでしょうか?
  〔返〕 愛犬に妻と同じな名前つけ妻を呼ぶとき<翔子Ⅱ>と呼ぶ   鳥羽省三


○ 洗顔の湯たんぽの湯を分け合ひし同胞四人逝きてしまひぬ  (前橋市) 工藤庫男

 「同胞」を「はらから」と読ませている。
 あの頃は、給湯器といった便利な道具も無かったから、冬の寒い朝などの「洗顔」の際は、「同胞」と「湯たんぽの湯」を分け合うといったことは、むしろ豊かな暮らしをしている人たちの風習であった。
 あの頃に「同胞四人」と分け合った「湯たんぽの湯」の温かさを思い出すにつけても、今となっては「逝って」しまった「同胞」たちの心の温かさが偲ばれるのであろうか?
  〔返〕 湯たんぽの代わりに使うペットボトルたまには漏れておねしょみたいだ   鳥羽省三 

今週の朝日歌壇から(4月19日掲載分)

2010年04月28日 | 今週の朝日歌壇から
○ 戻れない道のかなたに一本の白樺の木と風の棲む家  (福島市) 美原凍子

 本作の作者・美原凍子さんの元の居住地は北海道夕張市である。
 したがって、作中の「戻れない道」とは、あの財政破綻の街・夕張市に通じる「道」でありましょう。
 作者は、その「道のかなた」に在る「一本の白樺の木」と「風の棲む家」とに懐かしさを感じつつも、今となっては其処には永遠に「戻れない」との万感の思いを込めて、この一首を成したものでありましょう。
 ところで、選者の高野公彦氏は、この一首を評して、「かつて住んでいた夕張の家を思う。空家を『風の棲む家』と言ったのが詩的で哀しみが漂う」と述べて居られる。
 高野公彦氏の評言には私も全く同感ではある。
 しかし、私は短歌以前に現代詩に携わり、若気の至りとは言え、四季派などの抒情詩の類を、乱暴にも切り裂き破り捨てて来た者である。
 そんな私が、現代詩と短歌との違いがあるとは言え、同じ芸術ジャンルに属する文芸作品としての短歌を、「詩的で哀しみが漂う」などといった言葉で以って評さなければならないのは、いささかならず面映い心持ちがしてならないのである。
 私にとって短歌とは「戻れない道」、いや、「踏み入ってはならない道」だったのも知れない。
 因みに、本作の作者・美原凍子さんの夕張市在住時の歌を転載してみよう。
 これら二首は、いずれもかつての朝日歌壇の入選作である。
     花ひらき花ちり川はせんせんとさつきみなづきふみづきはづき
     逝くものを逝かしめ月はゆるゆると山より出でて山に沈みぬ
 こうしてみると、今となっては永遠に「戻れない道のかなた」に在る夕張という街も、雪月花という情趣に恵まれ、「川はせんせん」として流れ、「さつき」「みなづき」「ふみづき」「はづき」と歳月が美しく移り行く街であったようだ。
 その美しい街が、醜い政治屋どもの利権争いの餌食となった挙句、財政破綻に陥ってしまい、歌人・美原凍子さんの帰郷を永遠に拒む街と成り果ててしまったのである。
  〔返〕 踏み入るな戻って来るなと責め立てる白樺の木と風の棲む家   鳥羽省三
      春は花 夏せんせんと川流れ 秋は月照り 冬は粉雪       々
 

○ 栄転の送別会と歓迎会幾春経ても拍手する側  (和泉市) 長尾幹也

 前掲作品の作者・美原凍子さんと共に、本作の作者・長尾幹也さんも又、朝日歌壇の常連中の常連である。
 毎年の年度始めに行う、栄転者の為の「送別会」や「歓迎会」の場に於いての、「幾春経ても拍手する側」の人間としての長尾幹也さんの両掌が発する「拍手」の音は、格別に大きくて手馴れたものでありましょう。
 しかし、それもさることながら、「栄転の送別会と歓迎会幾春経ても拍手する側」という、この一首もまた、実に手際よく、格別に手馴れた作品である。
 そのあまりの手際の良さに痴れてしまい、評者としての私は、ただ見惚れているだけであり、拍手する術すら忘れてしまうのである。
  〔返〕 送るため迎えるためと理由変え昨日に続く今日の祝宴   鳥羽省三 


○ 祖母山の源流ちかき沢水に若葉もえたつクレソンを摘む  (大分市) 岩永知子

 「祖母山」と「源流」、「源流」と「沢水」、「沢水」と「クレソン」、「クレソン」と「若葉」、「若葉」と「摘む」とは、それぞれ縁語関係にあると思われる。
 また、「祖母山」の「祖母」と「若葉」の「若」とは、反意語的な関係にあるとも言えましょう。
 本作は、そうした縁語や反意語的な言葉を連ねての技巧的な作品ではあるが、一首の趣きはむしろ淡白であり、類想歌を指摘することも容易い作品である。
  〔返〕 翁ぐさ口あかく咲く安曇野を爺ケ岳へと憧れて行く   鳥羽省三


○ 月さして波打際となる窓辺かひがらのやうにねむりゐる母  (東京都) 岩崎佑太

 「月さして波打際となる窓辺」という上の句は隠喩であり、「かひがらのやうにねむりゐる母」という下の句は直喩である。
 隠喩と直喩とから一首が構成されている作品はそれほど珍しくは無いが、本作の場合は、上の句の隠喩の適切さもさることながら、下の句の直喩が特に適切かつ新鮮であり、そこに作者の歌才の素晴らしさが窺われる。
  〔返〕 身を透かしさくら貝のごと眠りたる母のかんばせ月に照り映ゆ   鳥羽省三
 

○ 腹掻いて猫は欠伸す見直しにぎくぎくゆれる郵便局前  (鳥取県) 中村麗子

 新聞歌壇への投稿作などを記したハガキを投函直前になってから見直ししているといった光景は、ごく普通に見受けられる光景である。
 本作の面白さは、「郵便局前」で全身を「ぎくぎく」揺らしながら、一所懸命になってハガキの見直しをしている話者の傍らに、「腹掻いて」「欠伸」をしている「猫」を配した点である。
 話者がハガキの「見直し」に夢中になっていればいるほど、いつものように「腹掻いて」「欠伸」をしている「猫」の姿は皮肉であり、話者からすれば、人間たる自分の一所懸命なる行為が、畜生たる「猫」に小馬鹿にされ、笑われているようにも感じられるのであろう。
 「ぎくぎく」という擬態語の使用が、適切な表現として、読者に受け入れられるかどうかが問題である?
  〔返〕 簡易局の扉ぎくぎく揺らしつつ締め切り間際のハガキ見直す   鳥羽省三


○ 音もなく島の椿のくずれ落つ戦艦陸奥の眠る瀬戸内  (神戸市) 内藤三男

 「戦艦陸奥」は、1943年の6月8日、原因不明の爆発事故を起こして、瀬戸内海の柱島沖で沈没した。
 本作は、その「戦艦陸奥」の爆沈の有様を、「音もなく島の椿のくずれ落つ」という、客観的かつ象徴的な措辞で以って想像させているのである。
 優れた歌人は、その一部始終を見ていたような嘘を、象徴という手法で以って吐くものである。
  〔返〕 柱島の赤い椿も語らざる戦艦陸奥の爆沈の謎   鳥羽省三


○ 響き来るトランペットの下手もよし園にれんぎょう、ぼけ、こぶし咲く  (東京都) 狩集祥子

 「れんぎょう」は黄色く、「ぼけ」は赤く、「こぶし」は乳白色に、「園に」咲いている。
 その静けさと美しさを破るようにして、今しも金管色の音もけたたましく、「トランペットの下手」な音が、話者の耳に「響き来る」のである。
 しかし、本作の作者は、その「トランペットの下手」な音を、けたたましいとも喧しいとも言ってはいない。
 猫ならずとも眠気さすような、美しく静かな春の午後には、「響き来るトランペットの」音は「下手もよし」なのである。
  〔返〕 昼寝から覚めたら庭でお茶します<MADAME SHINCO>のカフェのつもりで   鳥羽省三


○ バイバイを繰り返す子ら別れさえ楽しめる日が我にも在りき  (郡山市) 畠山理恵子
 
 「バイバイを繰り返す子ら」を見て、「別れさえ楽しめる日が我にも在りき」と言える作者の畠山理恵子さんは、私には、極めて幸せな人生を歩んでいる女性と思われる。
 たとえそれが、遠い過去の出来事であったとしても。
  〔返〕 サヨナラサンカクまた来て刺客豆腐の角に当たって死ねよ   鳥羽省三


○ 快晴の火曜も雨の祝日も靴屋は靴の匂いしており  (名古屋市) 杉 大輔

 このおおらかで拘りの無い一首に接して、私は、現代の日本社会の明るさと平和とをつくづくと感じた。
 「鳩山不況だ」「デフレだ」「国家財政破綻の危機だ」などと言われながらも、今の日本社会は、ひと時代前の日本よりも、他の国々よりも、ずっとずっといい社会なのである。
 この一首の存在は、そのことの意味を如実に示しているのである。
  〔返〕 魚屋に魚の匂ひ鍛冶屋には火の匂ひするとて卑しめき   鳥羽省三
  

○ 訪ねたる寺の親しも飼猫の出で入る障子のひと目を貼らず  (久慈市) 三船武子

 訪ねて行った「寺」の「障子のひと目」が、「飼猫の出で入る」ために貼られていないことを目にしたことは、歌人としての作者にとっては、たいへん僥倖かつ貴重な発見であつたに違いない。
 しかし、その類い希な発見を、「訪ねたる寺の親しも」という歌い出しの一首にしか仕立て得なかったことは、極めて悔やまれることである。
 何故なら、「~~の~~親しも」、「~~の吾に親しも」という、気楽なパターンの類想歌は、今や巷に掃いて捨てるほど堆積しているからである。
 せっかくの好材料を活かし切れなかった作者の努力の足りなさと、それを知りつつも、イマイチのこの作品を入選歌とした選者の怠慢とが惜しまれる。
  〔返〕 方丈の障子の隅のひと桝は猫のためとか紙を貼らざる   鳥羽省三


○ 卒業の列を見送りつつ立てば背に黙深き職員室あり  (相模原市) 岩元秀人

 同じ作者の、過去の朝日歌壇の入選作・七首を列挙してみよう。
    ① 雨の日の窓近く立ち教師という監視カメラの眼球暗し
    ② 風邪のわれ気づかう母のそばにいて電話に出ない父というもの
    ③ ガラス器にはげしく水を吸いながら沈黙深くヒヤシンスあり
    ④ 切られゆく百歳の樹は喘ぎつつああ幾度もさよならを言う
    ⑤ この星の六十億のほとんどに知られず六十億は生きゆく
    ⑥ 窓窓が窓語でひそひそする夜の会話をこわさぬように秋来る
    ⑦ 地上には合わなくなりて消え去りし種のあるというその種愛しき

 本作と旧作①を参照するに、作者・岩元秀人さんの職業が教員であることが判る。
 また、旧作七首及び本作を参照すると、岩元秀人さんのご性格が、繊細で感受性に富み、極めて傷付き易いものであることが覗われる。
 岩元秀人さんと同じように、評者もまた神奈川県内の教壇に立っていた者の一人であるから、この作品の詳細については、これ以上のことは申し上げないが、この繊細で傷付き易いご性格の岩元秀人さんの、教師としての日常が、如何に耐え難いものであったかは、何人たりとも、想像するに難くないものでありましょう。
 「黙深き職員室」を「黙深き職員室」としか言えないところに、短歌という文学の限界を感じる。
  〔返〕 赤ままの歌を歌うな黙深き職員室のドアを蹴飛ばせ   鳥羽省三


○ 春日浴び重なりている泥亀に守られる秩序整然たりき  (横浜市) 竹中庸之助

 つい二週間前ほどに、私は自宅の近所の古刹の池で、この一首に詠まれているものと瓜二つの光景を目にしたばかりである。
 本作の作者は、この一首に詠まれている光景を過去の出来事として回想して詠んでいるのでは無く、嘱目の光景として詠んでいるのでありましょう。
 だとすれば、五句目の「整然たりき」の「き」は余分であろう。
  〔返〕 親亀の横で小亀が甲羅干しその横で孫亀が甲羅干し   鳥羽省三 


○ わが小店揺るがすほどに湯気立てて泣くみどり児よ春は来にけり  (周南市) 小池世子

 作者の小池世子さんは、どんなご商売を営んでいるのでありましょうか?
 作中には、「わが小店」とあるばかりで、その実態を知る手掛かりとて無いが、察するに、店番かたがたみどり児のご養育も可能なようなご商売、例えば、煙草販売店とか、小規模な惣菜店とかのような気がする。
 その「わが小店」を「揺るがすほどに湯気立てて泣くみどり児よ」とあるが、どんなささやかな店構えであったとしても、「みどり児」が「湯気立てて泣く」声で以って、店を「揺るがす」ことは不可能でありましょう。
 したがってこれは、店番の最中に「みどり児」に泣き喚かれた時の、母親としての驚きの気持ちと、みどり児の元気さとを強調しての表現でありましょう。
 三句目から五句目に渡る「湯気立てて泣くみどり児よ春は来にけり」という措辞が抜群に優れている。
 そう、春はすぐそこまで、「わが小店」の軒下まで訪れているのである。
  〔返〕 抱きたるみどり児にまで靴履かせ春の野に出で若菜摘みせむ   鳥羽省三


○ 座る位置で心の距離がわかっちゃう心理学など取るんじゃなかった  (東京都) 上田結香

 今年、大学生になったばかりの本作の作者は、それほどの興味を感じないまま、卒業に必要な単位合わせの一つとして、一般教養科目の「心理学」を履修することにしてしまったのである。
 講義自体は思っていたよりも難しくはなかったが、この科目を履修したお蔭で、最近彼女は、かなりややこしい事態に陥ってしまって、困惑しているのである。
 彼女と一緒に「心理学」を履修している学生の中に、彼女のタイプの男性がいて、彼は彼女のことを爪の垢ほども意識していないのであるが、彼女は彼にすっかり熱を上げてしまったのである。 
 そこで彼女は、彼への接近策の一つとして、心理学教室での座席を彼の最寄りの席にすることにしてしまった。
 と言っても、それなりの家庭教育を受け、教室でのマナーらしきものを心得ていると思っている彼女のことであるから、いくら一目惚れをしたからと言っても、彼の隣りの席を占領して、上の空の状態で講義を受けるようなことはしたくなかった。
 そうは言っても、彼女とて世間並みの若い女性であるから、同じ教室に好きで好きで堪らない男性が居るのに、わざわざ彼から離れた座席で身に入らない講義を受けるほどに遠慮深くも無かったのである。
 心理学教室の座席配置は、五人掛けの長机セットが横に三列、その三列がそれぞれ十二組ずつ並んでいる。
 そこで彼女は、出来得るならば彼の隣りにぴったりとくっ付いて講義を受けたいという本音を隠し、彼が座る席の後ろの席に座り、それもばっちり真後ろの席というわけでは無く、彼の席の斜め後ろかその隣り辺りに座ることに決めてしまったのである。
 最初のうちはその作戦も上手く行っていた。
 何故なら、学期初めの頃は、受講生たちも小まめに講義に出席していたから、真面目タイプの学生と見受けられ、いつも教室の中央・最前列の席に座る彼が着席するのに合わせて、その斜め後ろに当たる席に座れば、講義の始まる頃には、彼の席の隣りにも、彼女の席の隣りにも、いつの間にか二人ないし三人の学生が座ることになり、彼を意識している彼女の存在がそれほど目立たなかったからである。
 ところが、五月の大型連休明けの頃になると、教室に現れる学生が急激に少なくなり、気が付いてみると、教室の中央列の座席には、最前列の真ん中に彼が一人、その斜め後ろの席に彼女が一人だけといった事態になってしまい、彼と彼女以外の学生の座席は、教室の左右列の机、それも三列目から後ろの方に決まってしまい、彼と彼女は、彼と彼女以外の学生たちから監視されるようにして受講しなければならなくなってしまったのである。
 そうなれば、心理学の講義の内容にも在る、「座る位置で心の距離がわかっちゃう」というような羽目にもなってしまい、彼と彼女以外の受講生たちの間に、彼女が彼のストーカー紛いの行動をしているという噂が広まってしまったのである。
 「座る位置で心の距離がわかっちゃう心理学など取るんじゃなかった」と言っても、後の祭りである。
 この恋の結末は一体どうなることやら。
  〔返〕 斜めからあなたを見てるの好きだからこの席わたしの指定席なの   鳥羽省三   
 

○ 人と人交わすがごとく手をあげる和尚は犬にごくさりげなく  (飯田市) 草田礼子

 いる。いる。
 そんな気さくな和尚さんは、私が八年間住んでいた北東北の田舎街にも二人ほど居たし、日本全国、至る所の町や村にも、必ず一人や二人は居るような気がする。
  〔返〕 住職は犬猫にまで挙手をしてワンともニャンとも答礼されず   鳥羽省三       

『NHK短歌』観賞(東直子選・4月18日放送)

2010年04月18日 | 今週のNHK短歌から
○ 会う度に武骨な顔がすりへってラッコのようになりて父死す  (秋田市) 佐々木昇一

 特選一席。
 表現された言葉からすると、本作の作者は「父」の臨終の場面に遭遇しているのだが、病床に臥しながら次第に死に傾斜しつつあった頃の「父」のことをも回想しているのである。
 父と離れて暮らしている作者は、父が病床に臥して以来、幾度と無くお見舞いに訪れたのである。
 だが、父の持ち前の「武骨な顔」は作者と「会う度に」次第に「すりへって」行き、その挙句に、「ラッコ」の顔のようになって死んで行ったのである。
 優れた作品であるとは思うが、好みの問題からすると、本作は私好みの作品ではない。
 その理由は二点。
 第一点は、「ラッコのようになりて父死す」という言い方、捉え方が非常に、いや、非情に冷たくて好きになれないのである。
 この点は本作を貶して言うものでは無く、むしろ誉めて言うと受け止めていただきたい。
 何故ならば、「ラッコのようになりて父死す」という表現は、私に嫌悪感を催させるほどリアルな表現だからなのである。
 第二点は、本作は一首全体としては口語的発想に立ちながら、下の句を「ラッコのようになりて父死す」とした点が不用意と思われるからである。
 この句は、口語と文語をごちゃ混ぜにしないで「ラッコのようになって父死ぬ」とした方が宜しいのである。
 なまじっか短歌を作り慣れた作者だけに、その安易な姿勢がこのようなささやかなミスを引き起すのであろう。
 口語短歌を本旨とする歌人たちの間にも、「ラッコのようになりて父死す」という表現が、「ラッコのようになって父死ぬ」という表現よりも芸術的かつ文学的な表現だ、と信じているような雰囲気がある。
 そうした自己矛盾を抱えた作者の存在を許容していることが又、文語派と口語派とが鬩ぎ合いをしている、現代歌壇の抱えた自己矛盾なのである。
 本作の表現について、敢えて蛇足を述べるならば、この作品は、発語が「会ふ」では無く、「会う」であった時点で、それ以下の表現も口語的表現であることが要求されるのである。
 「NHK短歌」の選者たる者は、そうした細かな点にまで心を配って、選に当たらなければならないと思う。
 誤解の無いように言うが、私は文語派でも口語派でも無く、また文語と口語の融合をむやみに退けようとする者でも無い。
 口語は文語を母胎として生まれたものであり、文語から口語を生み出す試み、或いは、文語を口語表現の中で生かす試みは、日本語の表現を豊かにするために、明治初期のみならず現代でも積極的に行われるべき試みであるから、積極的、自覚的意図に基づいて行うのならば、そうした試みはこれからも大いに歓迎されるべき試みである、と私は思っている。
 しかし、その前提となるのは、中古語を中心とした文語についての知識である。
 高校の文法教科書を通読する程度の努力をすれば獲得される、そうした知識も自覚も持たないままに、一首の作品の中で首尾一貫しない表現をすることが私には許せないのである。
  〔返〕 見る毎に透けし体がなほ透けて吾妻の母はみまかりにけり   鳥羽省三

 
○ 雨に会うそのためだけに作られた傘を広げて君を待ってる  (横浜市) 木下侑介

 初句の「雨に会う」は、その後の「そのためだけに作られた傘」に係って行くのであるが、それと同時に、この句はそれだけで切れるのでもある。
 以下、その趣旨に添って本作の大意を述べると、「私は君とこの雨の中で会う。この雨の中で、私は君と会うために、雨と出会うことを目的として作られた傘を広げて、君を待っているのである」ということになる。
 選者の東直子さんは、本作の作者のそうした創意をご理解なさったうえで、この作品を特選ニ席にお選びになったのでありましょうか?
 ゲストとの会話は、「傘というものが雨に会うためだけに作られたものだという発想が素晴らしい」というだけのものであったから、私としては、その点には疑問を残している。
 「傘という道具が、雨に会うために作られたものである」という思い付きは、それだけで誉められるべき素晴らしい思い付きであることは勿論である
 だが、それだけに、作者・木下侑介さんが創意を込めて詠んだこの一首は、「雨に会うためだけに作られた道具である傘を広げて、私は君の来るのを待っている」などとばかりに解釈されてお終いにされてしまうこともあり得るのである。
 選者・東直子さんが、そうした理由だけでこの作品を特選ニ席に選んだのだとしたならば、本作とその作者に対してあまりにも気の毒なことである。
  〔返〕 僕が着るそのためだけに作られたユニクロを着て銀座を歩く   鳥羽省三
 

○ 「俺ぢやない」叫びたくなる老け顔の私に出会ふ男便所(トイレ)の鏡  (桜井市) 中嶋隆雄

 本作こそは、口語と文語の融合を図ろうという意図に基づいて、積極的、自覚的に創られた作品なのであろう。
 しかし、会話の中で「俺ぢやない(俺じゃない)」などと言うのは、現代人のみならず、江戸時代の、横丁のご隠居や熊さん八さんなどの口からも発せられた言葉なのである。
 「男便所」を「トイレ」と読ませたアイディアを、選者の東直子さんが気の利いた読ませ方だとして誉めていた。
 この措置は、「男便所」を文字そのままに読んでしまったら、音数が合わないからとの措置とも受け止められるが、それはどうでもいいことである。 
 特選三席に相応しい作品である。
  〔返〕 「見違えた?」と言わんばかりの顔つきで美容院から出て来る妻よ   鳥羽省三   


○ 泡のごと浮かぶ出会いの悔恨に甘さ残してジャムを煮てゆく  (大牟田市) 執行和子

 本作中の「彼女」は、失恋したのであろうか?
 それとも、彼との出会い方に不満を感じたのであろうか?
 作中の表現からは、其処の辺りの事情がよく分からないが、その分からない点がこの作品の欠点なのではない。
 ともかくも「悔恨」は「悔恨」、その「悔恨」に「甘さ」を「残して」彼女は、「ジャムを煮てゆく」のである。
 「泡のごと」という表現がいささか曲者だが、「甘さ残して」という表現から、この「出会い」が必ずしも不首尾に終わったのではないことが理解される。
  〔返〕 濃霧(ガス)のごともやもやとして初めての彼とのキスは記憶もおぼろ   鳥羽省三 


○ 別々に散歩に出でて海に会ふ近寄り難き夫の背みる  (赤穂市) 根来玲子

 本作の作者の根来玲子さんとは、数年前からいろんな所で出会っている。
 と言っても、その頃の根来さんは未だ大学生で、一方の私は還暦を過ぎた老耄だから、お互いに名前も名乗らず、話し掛けもせずの、無関係という関係であった。
 あの根来玲子さんが、その後ご結婚なさり、この頃は愛するご夫君と「別々に散歩に出で」たりもするのでしょうか?
 しかし、それが確かだとしても、もともとは趣味を同じくするお二人なのであるから、結局は「海に会ふ」ことになるのでありましょう。
 それにしても、「近寄り難き夫の背みる」という下の句は、いささか気になる。
 根来玲子さんの今に幸あれ。
  〔返〕 潮鳴りの音に紛れて聞こえずも夫は背(せな)で何をか語る   鳥羽省三
   

○ 七階で出会ひ地階でまた逢ひきともに手ぶらよ古妻と我  (金沢市) 前川久宜

 若いカップルも若くないカップルも区別無く、この頃の流行りは、別々に家を出てする散歩とお見受けする。
 でも、こちらの若くない方のカップルは、散歩先のデパートの「七階で出会ひ」、そして「地階」でも「また」出会ってしまったのである。
 ばつが悪いったらこの上無い。
 「七階」の瀬戸物売り場で出会った時も、「地階」の食料品売り場で出会った時も、お互いに「手ぶら」だったからである。
 「私はこれから家に帰ってテレビで巨人の応援でもするが、私の愛する古妻よ、お前はこのまま閉店一時間前まで粘って、五十パーセント割引となった晩飯のおかずでも買って来なさい。私のことは気にしないでいい。私は八階の物産展で試食して腹一杯になっているから」と、本作の作者としての夫は「古妻」に優しく言っているのである。
  〔返〕 晩餐のおかずは輪島の干物です大根おろしをたっぷり添えて   鳥羽省三


○ 人に会う会いたい人に会う時はぶら下げて行く会いたい顔を  (八王子市) 菊地威郎

 面目も無いことを仕出かして謝罪に行く時には、周囲の者たちから、「どの面下げて行くのか」などと言われたりする。
 本作の場合は、それとは異なって、「会いたい人に」会いに行くのであるから、どの面もこの面も下げては行かない。
 「会いたい顔」を「ぶら下げて」、堂々と真正面から訪ねて「行く」のである。
 ところで、「会いたい顔」とはどんな「顔」だろうか? 
 多分、それは彼にとっての最高の「顔」であるだろう。
 「ぶら下げて行く」という、くだけた表現が効いているのである。
  〔返〕 願わくば貴女にとっても会いたいと思える顔であればいいけど   鳥羽省三


○ 会へるかと思ひて来たる堤防に犬ひく影を遠く見出でつ  (大田区) 須敏士

 「影」に、やや疑問有り。
 「影」とは「姿」のことでは無いだろうか?
 完了の助動詞「つ」の意味に留意してこの一首を解釈すれば、「あの堤防の辺りで今日もまたあの人に会えるかと思ってやって来た。だから堤防に行き着く前からあの人の姿を見つけようとしていたのであるが、案の定、いつもの堤防で犬をひいて歩いているあの人の影(姿)を、堤防に行き着く前に見つけてしまった」ということになる。
  〔返〕 曳かれてか曳いてかどうかは分からねど吾より大きな犬連れて行く   鳥羽省三


○ たまさかに上京せし時友と会う神田神保町交差点前  (群馬県) 真下忠男

 「神田神保町交差点前」と共に、「たまさかに上京せし時」にも留意しなければならない。
 要するに、彼と「友」とは共に本好きで、彼は「たまさかに上京」した時でさえ「神田神保町」に行くのであり、都内に住む「友」もまた、ほとんど毎日のように「神田神保町」に行くのであるから、彼らの再会は必然的であったのである。
 彼らの再会は、時間と空間を総べる神様に祝福されての再会であった。
  〔返〕 たまさかに上京せし時寄る店は半ちゃんラーメン名物さぶちゃん   鳥羽省三


○ 杖ついてとぼとぼとぼとぼ遠い日を歩けば会えるはたちのひとに  (つくば市) 村上次郎

 「はたちのひと」とは、「遠い日」の作者自身のことでしょうか?
 「杖ついてとぼとぼとぼとぼ遠い日を歩けば」という表現には、今となっては年老いてしまった者の、遠い過去への遡及感が感じられる。
  〔返〕 杖つきて散歩せし日に出会ひしは二十歳の頃の吾にあらずや   鳥羽省三


○ 君と吾が初めて会った日のことを蕗むいてると話したくなる  (岩沼市) 山田洋子

 「蕗」を剥く時は、台所の床にどっかりと腰を据えて家族総出で剥くのである。
 したがって、蕗剥きをしている者同士が何か話をしたくなるのは人情の常というものであろう。
 本作の場合は、作中の「吾」と一緒に蕗剥きをしている者が「君」であり、その「君」と「吾」とは夫婦なのである。
 夫婦が台所の床にどっかりと腰を据えて話す時の内容は、必然的に「君と吾が始めて会った日」のこと、つまりはそもそもの馴れ初めの頃の苦労話になる。
 「君と吾が初めて会った日のことを蕗むいてると話したくなる」という一首は、格別な技巧を凝らした作品でも、新しい発見が在る作品でも無いが、いかにもがっしりとしていて、宮城県の岩沼市に居住する熟年女性が詠むのに相応しい作品と思われる。
 と、言うことは、この作品のリアリティーに言及していることになる。
  〔返〕 そもそもの馴れ初め言へば春の野の蕨狩りにて手を触れしこと   鳥羽省三

  
○ お父さんしてる上司にひょいと会う巨人が負けた夜の地下鉄  (三沢市) 佐々木千絵子

 つい数刻前まで、私は妻と一緒に、自宅界隈を散歩していた。
 その一刻は、私が「夫をしてた」時間とも言えよう。
 そしてその一刻が過ぎた今、私は「『NHK短歌』観賞(東直子選・4月18日放送)」の記事を書くためにパソコンのキーを懸命に叩いている。
 この数刻は、私が「鳥羽省三をしてる」時間である。
 この作業が終わって、ひと風呂浴びて、寝床に入って、明日の朝、目を覚ましたら、私と妻とは、大阪に単身赴任している長男の住いを訪ねて行くのである。
 と言うことは、明日・四月十九日から四月二十六日までは、私と私の妻とは、「大阪の息子の両親をしてる」ことになるのである。
 そういうわけで、「お父さんしてる上司にひょいと会う巨人が負けた夜の地下鉄」という一首は、今の私の気分にとても適った作品なのである。
 そのことは、この作品の優れた特質であるとも言えましょう。
 そう言えば、今日のディゲームで巨人が負けた。
  〔返〕 明日からはお父さんする覚悟にて妻と一緒に旅支度する   鳥羽省三
 「お父さんする」には、お金も要るし、体力も要るから、覚悟も要ります。

一首を切り裂く(022:カレンダー)

2010年04月17日 | 題詠blog短歌
 異常とも言えるこの気象条件の中、また、今さら口にするのも忌まわしいこの不景気の中、この年頭に「題詠2010」への参加表明を華々しくなさった方々は、一体何をなさっていらっしゃるのでありましょうか。
 ここ数十日、「題詠2010」への投稿スピードが急激に弱まり、私が今回採り上げようとしているお題「022:カレンダー」への投稿作品などは、未だ百首にも達していない状態である。
 私は、公平さや後々の煩わしさなどを考慮して、「一首を切り裂く」を執筆するタイミングを、それぞれの<お題>への投稿作品が少なくとも百五十首に達してから、可能ならば二百首に達してからと思っていたのであるが、こうした状態では、いつまで経ってもパソコンのキーを叩くことが出来ない。
 そこで、先日から、そのレベルを百首に切り下げた次第である。
 レベルを下げざるを得なくなったのは、執筆時期を計る目安だけではない。
 投稿作品の減少に伴ってなのか、それとは関係無いのかどうかは判らないが、投稿作品の質の低下も目に余るものがある。
 私がこんなことを申し上げると、「短歌の評価は人さまざまであり、一首の短歌に百人の鑑賞者が寄れば、百通りの評価が生まれるものである。それなのに、そうした常識も弁えないで、他人様の掌中の珠たる作品を貶すとは、鳥羽省三の思い上がりも甚だしい。切り裂かれなければならないのは、投稿作品ではなく、鳥羽省三自身である」などとのメールが殺到するかも知れないが、「ゲゲゲの鬼太郎」の作者・水木しげる氏の無い左手は使えぬと同様に、駄目な作品は所詮駄目なのである。
 そこで今回は、これまでのやり方とは少し変え、私の観賞意欲を刺激する作品に加えて、観賞意欲を刺激するわけでは無いが、推敲の手を加えれば少しは良くなると思われる作品なども選んで、観賞することにしたのである。
 それぞれの作品が、私の観賞意欲を刺激した作品なのか、しない作品なのかは、観賞文をお読みになれば容易に判断がつくように書くつもりでありますから、読者の方は、その旨、ご承知置き下さい。


(飯田和馬)
   一月に戻ってしまうカレンダー日暮れつつぎの十三月経て

 「カレンダー」というものは、一年経ってしまえば、また最初の「一月」に戻ってしまうのであるが、その一年とは、旧暦の閏年という例外を除いては、一月から十二月までの十二ヶ月なのである。
 それなのにも関わらず、本作の作者は「十三月経て」と言っている。
 これは、この「十三月」を修飾している「日暮れつづきの」と合わせて考えるべきであり、作者は、「日暮れつつぎの十三月経て」という表現を通じて、自分自身の生存の辛さ、耐え難さを訴えようとしているのでないだろうか。
 だとすれば、本作の作者・飯田和馬さんは極めて不満足な青春の日々を送っていることになる。 
 そうした彼の青春に一片の花を咲かせるのは、私如き老爺では無く、彼と同じ年輩の女性ということになる。
 「恋人募集中。趣味は短歌創作と読書。特に短歌創作方面での将来性は有望。但し、お金にはならず。お相手さまの美醜及び結婚歴は問わず。どなたかご奇特な女性はございませんか?」
  〔返〕 一月に戻ってしまうが嬉しくて一日ニ度もカレンダー捲る  


(アンタレス)
   カレンダー医師看護婦とマッサージ麻酔の医師やヘルパーで埋まる

 病気療養中の作者の「カレンダー」が、病院関係や介護関係の書き込みでいっぱいになっている、と述べたいのでありましょうが、いくらなんでもこれではあんまりです。
 <五七五七七>三十一音という形式の短歌に盛り込めるものは限定されているはずです。 何が重要で、何がそれほど重要で無いのか、よくよく考えて整理して詠まなければいけません。 
  〔返〕 診察日・検査・点滴・介護師と書き込み目立つ我がカレンダー   鳥羽省三


(原田 町)
   年明けてカレンダー買ふ今までは貰ひものにて済ませをりしが

 それまでは「貰ひもの」で済ませてきた「カレンダー」であるが、退職と同時に何処からも貰えなくなり、それでもなお且つ、年の暮れや元旦の挨拶に何方かが訪れ、お歳暮やお年始の品々と一緒に、豪華なカレンダーも貰えるのではないだろうかと期待するのは人情の常というものである。
 しかし、そうは問屋は卸さない。
 その期待も空しく、結局は松の内を過ぎた辺りに、投売りのカレンダーを買ってしまうことの悔しさよ。
 原田町さんの切ないお気持ちは、この鳥羽にもよく解りますよ。
  〔返〕 年明けの七日に買ったカレンダー表紙の図柄が富士・鷹・茄子   鳥羽省三


(理阿弥)
   叔父の部屋の淡い矩形はカレンダーかけた日の色事故より五年

 「淡い矩形」は、この「五年」の間に「叔父」様の「部屋」に射し入って来た陽射しの関係で、そうなったのでありましょうが、強ちそうとばかりは言い切れない。
 本作の作者は、その<方形>ならざる「淡い矩形」という表現を通じて、「叔父」の事故死を容易に受け入れ難い、ご自身の気持ちを表そうとしているのである。
  〔返〕 うす蒼き矩形残して色褪せたこの部屋の壁あの日の記憶   鳥羽省三


(斉藤そよ)
   神無月、霜月、師走、昨年のカレンダーから陽が漏れて 春

 語呂はなかなか宜しいが、「昨年のカレンダーから陽が漏れて 春」の意味がかなり不分明である。
  〔返〕 神無月・霜月・師走と捲らざる去年(こぞ)のカレンダー色褪せて春   鳥羽省三


(水絵)
   カレンダー薬飲む日に印しつけ 一病息災開き直りて

 作者ご当人がそのように思ったのなら仕方が無いが、作品の出来としては「一病息災開き直りて」が面白くない。 
 このままでは、病気持ちのお婆さんの応援歌みたいではありませんか?
  〔返〕 薬飲む朝ごと宵ごと記し付け一病息災わがカレンダー   鳥羽省三 


(いさご)
   あかまるをここのつつけたカレンダー 5がつうまれがこんなにおおいの

 本作の作者<いさご>さんは、保育所の保母(或いは、保父)さんかしら?
  〔返〕 赤丸を五つもつけたカレンダーなんであなたは危険日おおいの   鳥羽省三


(砂乃)
   もう少し雪に逢いたい冬よまだ行かないでねとカレンダー伏せ

 とか何とか仰いますが、四月の中旬というのにこの悪天候。
 かくなる事態を本作の作者・砂乃さんは予測されて、この作品をお詠みになったのでしょうか?
 野菜の値上がりも馬鹿になりません。
 「雪」なんて、もううんざりです。
  〔返〕 「この責任、誰が取るの」と詰め寄れば又も降り来る四月の雪が   鳥羽省三


(ひじり純子)
   今月の心の中のカレンダー しるしをふたつつけておきます

 「今月の心の中のカレンダー」に付けた「ふたつ」の「しるし」は何の記しでありましょうか?
  〔返〕 今月の私の体のカレンダー連続三個の<しるし>付けます   鳥羽省三


(橘みちよ)
   三月のカレンダーを剥ぎ残酷な月はめぐり来よるべなき身に

 二句目で切り、それ以降の語順を替えてみました。
  〔返〕 三月のカレンダー剥ぐ寄るべ無き我に残酷月はめぐり来   鳥羽省三


(さと)
   接吻の記憶反芻するためのカレンダー春の窓に白く

 三句目までの韻律は順調なのですから、四、五句に於いて、突然それに乱れが生じるのは、とても残念なことです。
  〔返〕 接吻の記憶を反芻する如く春の窓辺にカレンダー貼る   鳥羽省三


(越冬こあら)
   月々に君が剥ぎ取るカレンダー生き急ぐかに見ゆる背中の

 毎月毎月、自分に与えられた使命のようにしてカレンダーを剥ぎ取っている「君」を、「生き急ぐ」人に見立てたのは宜しいかと思います。
  〔返〕 生き急ぐ者の如くにカレンダー剥ぎ取る君の背中視ている   鳥羽省三


(珠弾)
   今月のカレンダーにも三連休 嬉しくもあり悲しくもあり

 「嬉しくもあり悲しくもあり」という下の句が、江戸時代の「ものは付け」みたいで軽く感じられますが、最初からそれを狙っていたのだとしたら、文句の付けようがありません。
  〔返〕 今月も三連休在るカレンダー金の掛かるの覚悟の上田   鳥羽省三
 「上田」とは、真田幸村ゆかりの長野県の観光地である。
 

(ふみまろ)
   双六のようにはゆかずカレンダーのひとますのみを今日も寂しむ
 結婚式までのカレンダーの日数が一日ずつしか進まないのを悔しがっているのでしょう。
 全体的な語調の悪さと意味の不明確さが惜しまれる。
  〔返〕 双六の八艘跳びは叶わなく今日もひと桝カレンダー跳べ   鳥羽省三  

 
(青野ことり)
   来年のカレンダーにはきみのこと書けるだろうか 天気雨降る

 本作の「カレンダー」はメモ代わりに書き込みの出来るカレンダーなのである。
  〔返〕 来年は君とのことを書けるのか? 日記代わりの我がカレンダー   鳥羽省三


(高松紗都子)
   カレンダーやぶく季節の裂け目から未来のようなものの手ざわり

 月末になって、カレンダーを破る時は、去り行く月の空しさを嘆き、めぐり来る月へのほのかな期待を感じるもの。
 私などは、翌月への期待感の余りに、三日も四日も前から破ったりするのである。
  〔返〕 三月と四月の裂け目の穴からはエイプリルフールが顔を覘かす   鳥羽省三


(秋月あまね)
   誤って昨日と今日をもろともに破かれてしまうカレンダーはや

 どうでもいいくらい代わり映えのしない生活を表現しようとしているのでしょうか?
 だとしたら、「誤って」は不要でしょう。
  〔返〕 日めくりの昨日と今日をもろともに破いてしまうカレンダーはも

あなたの一首(貞包雅文さんの作品・其のⅡ)

2010年04月16日 | あなたの一首
 「あなたの一首(貞包雅文さんの作品・其のⅡ)」として、短歌誌「百合の木(2008・第9号)」に掲載されている、連作「鳴らぬ一音」の十五首を観賞させていただきたい。


○  遥かなる馬頭青雲その青きたてがみのごときらめけ言葉

 作中の「馬頭青雲」は、正確には「馬頭星雲」と記すべきところでありましょうが、作者の貞包雅文さんは、それにある意志を込めて、敢えて「馬頭青雲」と記したものでありましょう。
 左様、「馬頭青雲」の「青雲」とは、<青雲の志を抱いて>などと言う時の、あの「青雲」なのであり、そこから「その青きたてがみのごときらめけ言葉」と言う壮大な下の句の措辞も導き出されるのである。
 それはさて置いて、「馬頭星雲」とは、オリオン座にある暗黒星雲の名称であり、地球から約1500光年の距離に在るこの星雲は、馬の頭の形に似ていることからそのように名付けられたのであると聞くが、仏教者としての本作の作者は、ご自身の関係する<馬頭観世音>との関わりからこの星雲に着目し、この星雲の青く輝いている部分を「たてがみ」に見立て、「その青きたてがみのごときらめけ言葉」と、僧職とは別に自分が携わっている言葉の世界、即ち、短歌という文学形式の益々盛んならんことを祈願したものでありましょう。
 だとすれば、この一首は、連作「鳴らぬ一音」の冒頭に相応しい傑作である。
  〔返〕 遥かなる罵倒青雲その禍き意志そのままに燃え行け青春   鳥羽省三


○  ことだまの在す暗き水底に降りゆかんいざ真裸となりて

 連作冒頭の作品と比較してみる時、それと対照を為す内容や表現が素晴らしい。
 本作の作者は、連作の冒頭で「遥かなる」宇宙の煌きに思いを馳せ、自己の携わる短歌表現の成就を祈願したのであったが、それに続いてこの二首目に於いては、それとは逆に、裸一貫となって「ことだまの在す暗き水底に降りゆかん」と述べ、歌人としての、「ことだま」の漁師としての、ご自身の志と覚悟の程を語っているのである。
 この一首に接して、私は、『古事記』の<海幸彦伝説>を思い出したが、さて、「ことだま」の漁師・貞包雅文さんの水底探訪の収穫や如何に?
  〔返〕 釣り針を失くして終はる水底の豊玉媛と交はひもせず   鳥羽省三


○  夏爛けていよよ煩悩熾盛なりはるか虚空を巡る冥王

 2006年8月に行われた<国際天文学連合>の総会で、「冥王星」は1930年以来維持してきた惑星の座から滑り落ち、惑星でない<矮惑星>という位置に退けられてしまった。
 著名な天文学者・野尻抱影氏によって日本語で「冥王星」と名付けられたこの天体は、ローマ神話で冥府の王とされる<プルート>に由来するものであって、太陽系の最深部の暗闇に存在することから、いかにも「冥王星」と呼ぶに相応しく、怪しく謎の多い星である。
 「冥王星」の見かけ上の等級は14等級以下であるから、これの観測には、口径30cm程度の望遠鏡が必要となると言う。
 また、この天体の軌道は、太陽系の他の惑星とは異なって、真円では無く、歪んでいるが故に離心率が大きく、その軌道の一部が海王星よりも太陽の近くに入り込んでいることなどもあって、太陽からの距離を巡って海王星と比較されたり、その大きさを巡って学者の間で論争が交わされるなど、「冥王星」は、惑星の位置に在った頃からいろいろと取り沙汰された、不思議な天体であった。
 本作は、その不思議な落第星「冥王星」と、「夏」が「爛け」るにつれて「いよよ」「熾盛」となる作者ご自身の「煩悩」とを取り合わせ、冥府を総べる邪神<プルート>に魅入られたように「煩悩」の多いご自身の精神状態を慨嘆したものでありましょう。
 作者・貞包雅文さんは、連作「鳴らぬ一音」の冒頭に於いて、遠い天体への憧れと共に、<ことだま>としての短歌に賭けるご自身の昂揚した気分を歌ったのであったが、冥王星が惑星の座から滑り落ちた今となっては、そうした昂揚した気分も消え失せ、「煩悩」の塊と成り果ててしまったのでありましょう。
  〔返〕 冥界を総べゐる禍きプルートよ汝が剣もて我を突き刺せ   鳥羽省三


○  絶望と歓喜の間で鳴く鳥よ化粧うがごとく夕陽に染まれ

 実景としては、夕陽を浴びて身体全体を真っ赤に染めて大空を翔けて行く鳥を詠んだものであろう。
 しかし、本作の「鳥」はあくまでも「鳥」であって、雀だとか鴉だとか鳩だとか鷹だとか、と、特定の鳥に還元出来るものではない。
 その幻の「鳥」に向かって、「絶望と歓喜の間で鳴く鳥よ」と呼び掛け、「化粧うがごとく夕陽に染まれ」と、この天地を総べる王者の如く指令するのは、何よりも、作者ご自身の絶望と歓喜の余りに昂揚した気持ちの表れであって、如何に幻の「鳥」と言えども、あの鳥たちが「絶望」したり「歓喜」したりするわけでは無いだろう。
 下の句「化粧うがごとく夕陽に染まれ」という表現に接して、私は、往年の春日井建の作品の世界とこの作品の世界とを重ね合わせて、しばし遊んだ。 
  〔返〕 装ひて天地のはざま翔け行けば歓喜の如き夕陽射し来る   鳥羽省三


○  「この星の血の色は青」口角を歪めて叫ぶアストロノーツ

  ごく普通のアメリカ人に「血の色は?」と問い掛けると、即座に「青」という答が返って来る確率はかなり高い、という話を耳にしたことがある。
 また、今年の時点でアメリカ人の宇宙飛行士の数は既に三百数十名に達し、その後にも、宇宙に旅立とうとして訓練を受けている宇宙飛行士候補生たちが目白押し状態なのだそうだ。
 だとすれば、現代のアメリカ社会に於いては、宇宙遊泳中に「地球の色は?」ならぬ「血の色は?」と問われて、「口角を歪めて」「青」と「叫ぶアストロノーツ」が居たとしても、それほど不思議なことでは無いという結論に達する。
 本作の趣旨は、「旧ソ連の宇宙飛行士ユーリイ・ガガーリンは『地球は青かった』と言ったが、それに対してアメリカの宇宙飛行士なら、口角を歪めて『この星の血の色は青』と叫ぶだろう」という内容のギャグであり、そのギャグは、単なるギャグのままで終わらず、早晩起こり得ることが充分に予想される内容のギャグなのである。
 本作の作者・貞包雅文さんは、十五首連作「鳴らぬ一音」の創作に当たって、その一首目から四首目まで、比較的に中身が濃く、メッセージ性の強い作品を並べて来たが、五首目に至って、その緊張を解いて一休息する必要を感じ、このような軽い味の作品を詠んだのである。
 「この星の血の色は青」というセリフの軽さやくだらなさに比べると、そのセリフを口にしたアストロノーツの「口角を歪めて叫ぶ」様子が余りにも大袈裟で滑稽であるが、その滑稽さと軽さこそ、作者が狙いとしたものであろう。 
  〔返〕 体内を流れゐる血は日めくりの土曜の如き<青>なのである   鳥羽省三 


○  早馬が着きしにあらず弛緩したメールで届くいくさのしらせ

 「早馬」は、近世までの重要な通信手段の一つであり、戦国時代などに於いては、その早馬で以って、遠くで行われている「いくさのしらせ」が届けられたことも実際に在ったに違いない。
 本作は、そうした「早馬」と、その「早馬」に替わる現代の「早馬」たる「メール」を題材にし、それに、近頃アメリカ人などがその主役となって頻繁に起している戦争の話題なども付け加えて、現代の世相を皮肉ったものである。
 「早馬」に較べれば、「メール」という通信手段は遥かに進歩していて、その通信可能な範囲は比較にならないほど広くなり、その担い手も大衆化している。
 したがって、戦争好きな現代社会のあちこちで起きている「いくさのしらせ」が、「早馬」ならぬ現代の早馬「メール」で届くことも充分に考えられるし、現に、国家機密として厳重に報道管制が布かれている某国の辺境で頻発している「いくさのしらせ」などは、その「メール」で以って、国家首脳より先に、民間人が入手している事態となっているのである。
 そのように考えると、この一首の趣旨は単なるギャグの範囲を越えたものになり、その意味も、直前の作「アストロノーツ」とは、比較にならないほど重くて深いものとして観賞しなければならないものとなる。
 作者の貞包雅文さんは、連作中の遊びのため(或いは、繋ぎのため)の作品をたった一首で止めたのである。
 連作も五十首や三十首などの大作の場合は、気分転換のための遊び(或いは、繋ぎ)の作品が二首も三首も続くことがあり、中には、連作全体が<遊びに続く遊び>、<繋ぎに続く繋ぎ>といった弛緩した状態で終わってしまう駄作だらけの連作も在る。
 だが、本作は、連作と言ってもたった十五首の連作であり、また、本作の作者は、見せ掛けとは裏腹に、本質的には、一首で以って現代社会の世相を鋭く抉るといった内容の作品を得意としている歌人であるので、この作品は、直前の作品に続いてギャグ風の作品に見せ掛けながら、その本質は、非常に重くて深い内容を含んだ作品なのである。
 この地球上のあちこちから、「メール」で以って「いくさのしらせ」が行き交いする事態になることが充分に予測される現代である。
 某国からのグーグルの撤退は、「メール」という通信手段の敗北を示すものでは無い。
 むしろその逆で、現代の早馬「メール」で以って「いくさのしらせ」が異国に届けられたならば、国家転覆の危機をも招きかねないことを警戒した、某国為政者の短慮から起こった緊急的かつ本末転倒的事態を示すものなのである。
  〔返〕 情報の重さに耐えぬツイーターは現代社会の痩馬早馬   鳥羽省三 


○  いとけなき乙女子わたりゆく橋のかなたにおぼろ菊の紋章

 あのお嬢ちゃんの御祖父に当たるお方を国家の象徴として仰がなければならない立場の一人としては、本来は「愛子様」と敬称付きでお呼びしなければならないのでありましょう。
 でも、過ぎし年の彼女の通学校での運動会に於けるリレー選手としての彼女のご奮闘振りが余りにも健気で可愛らしいものであったから、私は、彼女のことを「様」付きで呼ぶことは止めにしようと思う。
 そして、愛子ちゃん、いや、事の序でに「子」も取って、単に「愛ちゃん」と呼ぶことにしようと思う。
 私は、この一首を目にした瞬間、在ろうことか、あの健気な<愛ちゃん>が、通学校での手痛い虐めに遭遇し、一人だけ教室を逃げ出し、守衛さんの手を振り切って校門を潜り抜け、校外に出て、涙を堪えながらとぼとぼと自宅の門前の二重橋を渡って行く様を想像してしまった。
 その門には、あの御一家の象徴である「菊の紋章」が刻されているのだが、涙で曇った<愛ちゃん>の目には、それが「おぼろ」にしか見えないのである。
 この鈍感な私に、そういった非現実的な想像を許すのは、本作の持っている緊迫した現実感である。
 人によっては、本作のテーマを、たちの良くないブラークユーモアと捉える向きもありましょう。
 しかし、その<ブラックユーモア>のブラックの度合いが余りにも大きい時には、それを<ブラックユーモア>を越えた、ヒューモア劇の傑作として捉える人も居りましょう。
 私は、そうした人の一人なのかも知れないが、作者の向けた鉾の先に在るのは皇室制度なのかどうかは私にも判らない。
  〔返〕 卓球とテニスとモーグル我が姉と 君ら「愛ちゃん」いずこにも居て   鳥羽省三


○  観覧車まわれよまわれモノクロのハリー・ライムが笑ってやがる

 詠い出しの「観覧車まわれよまわれ」は、本作の作者ご自身も所属する「塔短歌会」の幹部同人である栗木京子さんの初期の代表作「観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生」から剽窃したものである。
 だが、本作の内容のほぼ全体は、1950年度の<アカデミー賞>及び19490年度の<カンヌ国際映画祭大賞>を受賞した往年の名画『第三の男』に取材している。
 作中の「ハリー・ライム」とは、名優オーソン・ウェルズが出演して話題となったこの映画の登場人物であり、映画の題名となった「第三の男」とは、この人物を指すのである。
 この人物は、主役・脇役という区別からすると脇役の一人に過ぎないが、この映画の中では、ジョセフ・コットン扮する主役のホリー・マーチンス以上の存在感を示し、映画の題名にもなった主要人物である。
 下の句に「モノクロのハリー・ライムが笑ってやがる」とあるが、彼<ハリー・ライム>は、この映画の中で主人公の<ホリー・マーチンス>に向かって、「スイスの同胞愛、そして五百年の平和と民主主義はいったい何をもたらした? 鳩時計だよ」という名セリフを吐くのであるが、このセリフと「モノクロのハリー・ライムが笑ってやがる」とを考え合わせる時、その表現の深みが明らかになり、短歌作者としての貞包雅文さんのレベルに驚嘆せざるを得なくなる。
 この映画の舞台は、第二次世界大戦後、米英仏ソの四ヶ国による四分割統治下にあったオーストリアの首都ウィーン。
 そのウィーンの名物の大観覧車の中で、主人公のホリー・マーチンスは、死んだはずの親友・ハリー・ライムの姿を見かける。
 そこで、追いかけるホリーと逃げるハリー。
 やがて逃げるハリーは、大戦後のウィーンの貧しさを象徴する地下下水道の中に逃げ込んで行く。
 そこで、追いかけるホリーもまた、その地下下水道に入って行く。
 地下下水道の中に、逃げる者と追いかける者との靴音が響く。
 追いかける者と追いかけられる者は旧友である。
 その靴音にかぶさるようにして、アントン・カラスの演奏するツィターの音が物悲しく鳴り響く。
 再度言うが、下の句の「モノクロのハリー・ライムが笑ってやがる」が宜しい。
 「モノクロの」は、単に、この映画が「モノクロ」映画であったことを説明しているのではない。
 主人公のホリー・マーチンスにとっては、親友だったはずのハリー・ライムという存在そのものが「モノクロ」なのである。
  〔返〕 株の値よあがれよあがれユニクロの柳井正が笑ってやがる   鳥羽省三


○  クラスター爆弾(ボム)が炸裂する朝ぼくらは蝶のはばたきを聞く

 主題は「戦争と平和」である。
 深読みすれば、その「朝」に「ぼくら」が聞いた「蝶のはばたき」は、「クラスター爆弾が炸裂する」予兆なのかも知れないし、余韻なのかも知れない。
 この一首に接して、どこかの国の総理大臣の弟の趣味が「蝶」の蒐集で、その趣味を通じて知り合った「友だちの友だちがアルカイダである」という旧聞を思い出した。
  〔返〕 長崎にピカドンが落ちたその刹那 蝉はいつものように鳴いてた   鳥羽省三
      広島にピカを落とした飛行士がいつも着ていた擦れた革ジャン      々     


○  赤錆びし物見櫓の鉄塔にのぼれば見ゆるわれを焼く火が

 「赤錆びし物見櫓の鉄塔にのぼれ」た者とは、生きている者である。
 その生きている者の目に「われを焼く火」が見えるはずが無いから、この一首は、「赤錆びし物見櫓の鉄塔」という、前時代の象徴のような物を目にした瞬間、その余りの荒涼とした感じに驚いて、「あの赤錆びた物見櫓の鉄塔にのぼれば、この自分を焼く業火が見えるはずだ」と、直感的に感じたのであろう。
  〔返〕 赤錆びた火の見櫓に登ったら不知火海の漁り火が見ゆ   鳥羽省三

 
○  反戦歌とうに忘れてかき鳴らすギターのついに鳴らぬ一音

 「反戦歌」の流行が終末を遂げようとしていた頃の巷には、<カレッジフォーク>と称する、人参や玉葱が腐れて行く時に発する音のような、匂いのような、生ぬるく臭い歌が流行していた。
 あの生ぬるく臭い歌どもの伴奏をする時に「かき鳴らすギター」には、「ついに鳴らぬ一音」が在ったのであろうと、今にして私はつくづく思う。
 本作の作者もまた、この私と同じ思いなのでありましょう。
  〔返〕 マイク真木・ガロに森山・フォークルにカレッジフォークの聴くに耐えなさ   鳥羽省三
 

○  向日葵の種がひとつぶあれば良い握り拳の中の荒野に

 人も知る、寺山修司の「一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき」を典拠とした作品である。
 <本歌取りの歌>と呼ぶには、余りにも寺山に付き過ぎているし、かと言って、模倣歌とも言えないし、歌詠み上手の貞包雅文さんの作品としては、何ともかんとも評言に困る、実に始末の悪い作品である。
 いっその事、<無くもがな>の作品とでも述べておきましょうか?
 著名な歌に寄り掛かった、こうした作品を自分の作品として作る場合の最低の条件としては、典拠となった作品に無い独自な要素を、一点だけでも良いから自分の作中に盛り込むことである。
 本作には、寺山の作品に在って本作に無い魅力は沢山在るが、本作に在って寺山の作品に無い魅力は、ただの一点も無い。
 それでも尚かつ、作者としては、「ひとつぶあれば良い」や「握り拳の中の荒野に」辺りを寺山作に無い要素として、自信を持って創り、自信を持って発表されたのでありましょうが、一読者としての私の立場で言わせていただければ、それは作者ご自身の自己満足、自己欺瞞に過ぎないと思われるのである。
  〔返〕 無くもがな在らずもがなの歌も在りそれのみ惜しむ「鳴らぬ一音」   鳥羽省三


○  ありあけの月まなうらにとどめつつついに空席のまま父の椅子

 本作に関しては、短歌誌「百合の木」の<代表>たる塘健氏が、同誌に卓越した評言を著していらっしゃるので、無断ながらその全文を転載させていただき、私の観賞文に代えさせていただきたい。

 シッダールタ、後のシャカは十六才で結婚する。妻の名はヤソーダラ。二十九才の時に第一子が誕生し、彼はその子にラーフラ(悪魔)の名を与へ、そして妻子を捨てて家出する。妻子を捨てたシャカは生老病死からの自己解放、すなはち悟りを目指す。捨てられたラーフラ(悪魔)にとって、父は永遠の不在であり、空席であった。         (転載終り)

 作者が僧籍に在られることを考慮して、仏教の祖・釈迦の事績を作中の表現と関係付けるなど、極めて示唆に富む論評ではありますが、敢えて、一言を添えさせていただきますと、「父」の不在(空席)の背景として、「ありあけの月」を配したのは、実に見事な表現と言う他は無い。
  〔返〕 父は月 母は日にして その月の無きを照らせる有明の月   鳥羽省三 


○  踵から海になりゆく水際の君に打ち寄す無限の叫び

 「水際」に佇む「君」の「踵」を打ち寄せる波が濡らすことを、「踵から海になりゆく」と言い、打ち寄せる波の音と、「君」に寄せる作者ご自身の思慕の情を、「無言の叫び」としたのである。
 「踵から海になりゆく」という表現の、言うに言われない表現の見事さよ。
  〔返〕 眼窩から暮れ行く渚に佇みて歌はぬ君の歌を聴いてる   鳥羽省三


○  無果汁のジュースの甘さ嘘っぱちだらけのまるでぼくらのように

 「無果汁のジュースの甘さ」とは、ただ単に売らんがための「甘さ」であり、ただ単に飾らんがための「甘さ」である。
 僧侶であり、教師であり、歌人であり、人間である本作の作者・貞包雅文氏と言えども、時に無意識に、時に意識しつつ、「無果汁のジュースの甘さ」のような笑みを顔面に湛えることがあるに違いない。
 「嘘っぱちだらけのまるでぼくらのように」という下の句の措辞が目に耳に胸に痛い。
  〔返〕 戦時下の八紘一宇を思はせて亜細亜に広がる味の素かも   鳥羽省三  

あなたの一首(貞包雅文さんの作品・其のⅠ)

2010年04月14日 | あなたの一首
 「あなたの一首」と言いながら二首も三首も、時と場合によっては十首も二十首も採り上げてしまうのが私の悪癖である。
 いや、一応はしおらしく「悪癖」などと言ってはいるが、その実は、悪癖どころか親切心だと思っているから、「切り裂き」の被害者たる作者としてはたまらないのであろう。 
 これから私があれこれと申し述べようとする短歌の作者・貞包雅文さんは、私とは一面識も無い方であり、一言の会話を交わしたことも無い歌人である。
 私が彼の作品に注目し、それについて触れさせていただこうという気持ちになったのは、今年の初春に佐賀市にご在住の歌人・今泉洋子さんからご恵送いただいた短歌誌「百合の木(2008・第9号)」に掲載されている、「鳴らぬ一音」というタイトルの十五首の連作を読んだことが発端である。
 私は、その連作に接して大いに感銘を受け、それについての感想をこのブログに書かせていただこうと思ったのであるが、その前に、その作者についての予備知識を仕込んでおこうと思い、インターーネットのあちこちを検索したところ、彼についての若干の知識と共に、その作品として、下記の数首を読むことが出来たので、ひとまずはそれらについての感想を述べさせていただこうと思う。


○  新しき物語その胎内に抱きてしずか産院の午後

 佐賀県白石町が主催して行っている「歌垣の里しろいし・三十一文字コンクール」に於いて、平成十五年の「歌垣賞」を受賞した作品であるが、本作の作者・貞包雅文さんは、その後、そのコンクールの選者の一員としてご活躍中とか。
 若者たちの独身志向が増大し、我が国の先行きが危ぶまれている昨今であるが、そうした中で、自らの「胎内」に新しい生命を宿して「産院」を訪れる若い女性が居るが、そうした女性の胎内に宿った新しい命と産院の雰囲気に取材して詠んだ作品である。
 表現上の優れた点を指摘すれば、母親たる女性の「邸内」に宿っている尊い生命を、その将来まで展望して「新しき物語」と言い切った隠喩の働きが、この一首のポイントと言えようか。
 その「新しき物語」が、一旦、母親の「胎内」から生まれ出た後にどのような展開を遂げるのかについては、胎児やその母親をも含めて、今のところはこの世の誰にも分からないのである。
 彼を巡っては、この世界、いや、この宇宙に大きく羽ばたいて行くといったような偉大な「物語」が展開されるかも知れないし、それとは全く逆の「物語」が展開されるかも知れないのである。
 それ故に、「新しき物語」の主人公たる胎児の母親も、それを見つめている作者も、その「物語」の順調なるを祈るしか無いのである。
 そうした期待や不安、或いは祈るような気持ちとは別に、彼らを容れたその「産院の午後」は、今のところは全く「しずか」なのである。
 その静寂の中で、新しい命の息吹きを感じ、その「物語」の実り多かれと感じている作者の姿を彷彿とさせる一首である。
  〔返〕 はぐくめる母の祈りのそのままに大きく育て汝が物語   鳥羽省三 
  

○  皺あまた迷路のごとく混じり合う脳の模型を見つつかなしき

 本作及び次の作品は、「佐賀県文学賞2003年・第41回作品集」なる冊子に掲載された作品とか。
 作者の貞包雅文さんは、佐賀県神崎市千代田町に在る浄土宗の名刹「浄覚寺」の住職であり、『後期唯識学論書に於ける″外小破″の研究 <成唯識論>と<大乗広百釈論>を中心として』というタイトルの、私たち俗人には到底理解し得ないような仏教哲学関係の論文をも著している仏教学者でもあるのだが、本作の観賞に当たっては、そうした知識も少しは必要なのかも知れない。
 作者が、題材となった「脳の模型」を目にしている場所は何処であろうか? 
 インターネツトで接した情報によると、貞包雅文さんは、かつて佐賀県内の高校の教員を務めていらっしゃったということであるから、もしかしたら、その場所は、作者ご自身の勤務先の高校の生物準備室であるかも知れない。
 「皺あまた迷路のごとく混じり」合っている「脳の模型」を目前にしながら、作者は、そうした「脳」を持った人間の一人である自分という存在に、ある種の<やりきれなさ>を感じ、<かなしさ>を感じているのである。
 自分という存在のどういう点が、彼に<やりきれなさ>を感じさせ、<かなしさ>を感じさせたのであろうか?
 「脳の模型」に「皺」が「あまた迷路のごとく混じり合」っているように、作者の生存や人生にも、多くの「皺」が在り、その「皺」は「迷路のごとく混じり合」っているのである。
 僧職も教職も一口に<聖職>と言われているが、その聖職に身を置きながら、彼は身過ぎ世過ぎのために銭勘定もしなければならない。
 生徒や保護者、死者やその遺族の立場に立って仕事をする聖職者を標榜しながら、結局のところ、彼の為していることは、自分自身や自分の家族の生活を維持するための仕事に他ならない。
 そうした理想と現実との違いが彼の心に刻まれた「皺」なのであり、彼の踏み迷ってしまった「迷路」なのである。
  〔返〕 時折りは脳の模型のそれに似て気働きする心の皺よ   鳥羽省三 


○  半島の歴史学べば黒々と濃さを増しゆく”恨”の一文字    (同上)

 作者が教職に在った頃の専門は「世界史」なのかも知れない。
 「黒々と濃さを増しゆく”恨”の一文字」という措辞が、強烈であり、印象的でもあるが、その「”恨”の一文字」が、他ならぬ作者もその構成員である<日本>及び<日本人>に対する「恨」であることを思うと、教壇に立ってそれを教える立場の者としての作者は、安閑としては居られないのである。
  〔返〕 その「恨」を辿れば遠き三韓の新羅を攻めし神功皇后   鳥羽省三


○  洋梨のくびれを器用に剥く人と通りすがりの雨を見る午後

 結社誌「塔」の二千七年の九月号に掲載された作品中の一首とか。
 「洋梨のくびれを器用に剥く人」という表現は、聖職に在る者に相応しからぬ隠微で怪しい観察眼の証明であり、その女性(にょしょう)と共に「通りすがりの雨」を見た「午後」の記憶は、その後永く作者の脳裡に残っていて、ある時は、仏教者としての彼の修業の妨げとなり、ある時は、歌人としての彼の心を潤していたに違いない。
 私は、この一首から『にわか雨』というタイトルの短編小説を創作するヒントを得たので、今ここに、その梗概を示すと次のようなものである。
 「<虹の松原>を散策して数首の短歌を詠み得た後、唐津の街に入った途端に突然のにわか雨に見舞われた。そこで、雨傘の一本も拝借しようと思って、知り合いの唐津焼の仲買業者の店の扉を開けた。するといきなり、『いらっしゃいませ。おや、鳥羽さんではございませんか。長らくのお見限りでございましたね。主人ですか。あいにく主人は、この雨の中を軽トラであちこち跳び回っておりますが、ここにこうして私という者がおりますよ。なに、私では不足なんですか。この私を恐がって、鳥羽さんはこの雨の中を逃げ出そうとなさるんですか。それは余りにもにもつれないというもの。そんな所でもじもじしてないで、なんでしたら、お上がんなさいましな。雨傘はお貸し出来ませんが、お昼寝の膝ぐらいはお貸し出来ましょうから』と立て板に水の如き歓迎の言葉に見舞われた。そうした次第で、怖々曰く付きの年増女房の家の居間に上がり込んだ私であったが、その女房は、それまで自分の敷いていた三階松の座布団をさらりと裏返しにして私に無理矢理敷かせると、どこから持ち出して来たのか分からなかったが、右手にみるからに鋭そうな包丁を持ち、左手に胴中のくびれた洋梨を持って、すらすらと鮮やかに、その洋梨のくびれた辺りを剥いているのだ。その手さばきの鮮やかなこと。それを目にした瞬間、私は、去年の<唐津おくんちの夜>に、主人の留守を狙ってこの家を訪れた私の下帯を解く時の、この女房の手さばきを思い出し、その後に展開された房事の際に目にした、この女房のくびれた腰回りをも思い出してしまって、思わずあそこを堅くしてしまったのだ。危ない危ない、今度あのようなことになってしまったら、あの鋭利な包丁で、私の大事なものはちょん切られてしまい、<とんだ色男よ>と、佐賀新聞の記事にされてしまうだろう。あの女は二代目<阿部定>なのだ。<君子危うきに近寄らず>と、一瞬逃げ出そうとして腰を浮かしたのであるが、時すでに遅く・・・・」といったことになる。
  〔返〕 洋梨のくびれを器用に剥く人の腰のくびれを解いてみたし   鳥羽省三


○  会葬の人もまばらな斎場に落ち目の歌手のごとく経読む
 
 結社誌「塔」の二千九年・一月号に掲載された作品中の一首である。
 この作品については、私にこの作品の存在をお示し下さった、鬼才・黒田英雄氏が、ご自身のブログに掲載している卓越した観賞文が在るので、先ずはそれを、黒田英雄氏のご許可を得ないままに転載させていただき、その後、拙い私見などを述べさせていただきましょう。

 一読、大爆笑した。作者の職業はおそらく僧侶であろう。確かに、読経というのも、僧侶にとっては歌かもしれない。そして彼らも、会葬の人数が多ければ、気合を入れて歌うだろうし、あまりお客がいないときは気合が入らないのだろう。なんせ、そのメインイベントの主役は、はなから聞いちゃいないのである(笑)。下句の直喩がめちゃくちゃおかしい。僧侶の歌、っていうのも珍しいよな。ぜひこの作者には、こういう歌をどんどん作っていただきたい。同じ作者の、「しろがねの髭ふるわせて爵位など持っていそうな太い猫行く」も抜群にいい。(引用終り)

 アンギラス流のくだけた表現の中に、言うべきことは全て言い尽くしているような感じの文章である。
 この一首の観賞としては、この一文で充分なのであるが、今の私の立場で、敢えて、言葉を添えさせていただくとすれば、本作の作者が、「会葬の人もまばらな斎場」にて為したご自身の読経を、「落ち目の歌手のごとく」とネガティブに捉えているのは、黒田英雄氏のお述べになって居られる理由に加えて、文学を志す者としての、歌人としてのご自身の、仏教に対する身構え方、特に「葬式仏教」と呼ばれる、我が国の仏教の在り方に対する貞包雅文師ご自身の厳しい姿勢の反映とも思われるが、その点については、何よりも作者ご自身にお聞きしなければならない。
 作者に対して失礼にならない程度に私見を申し述べれば、貞包雅文さんは、僧侶としてのご自身と、歌人としてのご自身とのバランスを、適当に計りながら日々をお過ごしになって居られる、そこそこの<生臭坊主>なのではないだろうか、と私は拝察する。
  〔返〕 洋梨のくびれの如き腰を抱き時には歌手の真似などもする   鳥羽省三 


○  しろがねの髭ふるわせて爵位など持っていそうな太い猫行く

 そこそこの<生臭坊主>貞包雅文師ならではの観察眼と表現である。
 その「太い猫」が「爵位など持っていそうな」らば、貞包雅文師もまた、権大僧正ぐらいの僧位と文学博士という称号ぐらいは持っていそうな感じである。
  〔返〕 しろがねの髭ふるはせて歌ふとき腰のくびれを揺りつつぞ笑む   鳥羽省三 「歌ふ」のは貞包雅文師、「笑む」のは、あの「洋梨のくびれを器用に剥く人」である。
 

○  野に置かれし故に誰にも拝まれぬ野仏本読むごとくに静か

「毎日歌壇」の河野裕子選に入選し、二千九年四月二十二日の毎日新聞朝刊に掲載された作品とか。
 この作品については、私に貞包雅文さんの作品を注目させる発端をお作りになって下さった今泉洋子さんが、ご自身のブログ「SIRONEKO」に、次のような一文をものされておられるので、先ずはそれを引用してみよう。
 以下の一文を、無許可のままに引用することをお許しになられるに違いない、今泉洋子さんには篤く篤く御礼申し上げます。
 
 去年から、お付き合いで佐賀新聞に短歌を投稿するようになった。
 4人の選者に二人ずつ隔週で選をしていただいている。ことし四月から園田節子氏にかわり貞包雅文氏が選者になられた。
 貞包氏もこの文芸欄に永らく投稿されていた。私も彼の作品を読むのが 愉しみだった。初期のころは、高校の先生をされていて生徒のことを詠んだ歌も多かったと記憶している。 その後も文芸欄ではきらりと光る存在で、彼の作品を読んで、それに憧れて投稿をはじめた人もいたくらいだ。
 16~7年間位だろうか今年三月まで投稿されていた。他の三人の選者の先生と同様に丁寧な選をされて、丁寧な評を書いていただいている。
 先日お会いしたときに選の舞台裏を根掘り葉掘りお尋ねしてみたが、色々気を使われていて想像を絶するものだった。いい歌を投稿しなければと思った。  
 佐賀新聞は三席まで評が頂ける。
      (中略)
 貞包氏の歌が読めなくて寂しいと思っていたら10月22日の毎日新聞の河野裕子選に入選されていた。久々に貞包氏の作品が読めてうれしかった。
   ☆  野に置かれし故に誰にも拝まれぬ野仏本読むごとくに静か   (引用終り)
 
 今泉洋子さんの一文に、付け加えるべきものは何物も無いのであるが、敢えて一言申し添えるならば、この作品は、僧俗を巧みに使い分けていらっしゃる貞包雅文さんの作品に相応しく、「野に置かれし故に誰にも拝まれぬ野仏」の湛えた<静寂>を、「本読むごとくに静か」とした直喩が効いている。
  〔返〕 野に置きし故に言葉を発し得ぬウルフの如き少年の眼よ   鳥羽省三


○  約束は果たされぬものしろがねのバターナイフが一瞬陰る  

 結社誌「塔」の二千九年・六月号に掲載された作品とか。
 「洋梨のくびれを器用に剥く人」が、この度は、「しろがねのバターナイフ」を手にとっているのであろうか?
 その「バターナイフ」が何かの拍子に「一瞬陰る」のであるが、それは、この年増女房との「約束」を未だ果たしていない、作者ご自身の被害感によって生じた幻視なのかも知れない。
  〔返〕 約束は果たすべきものくろがねの刺身包丁一瞬光る   鳥羽省三


○  感情の沸点なかなか見せぬなり真中朋久理系のゆえか   
 
 結社誌「塔」の二千十年・三月号に掲載された作品とか。
 「真中朋久」氏と言えば、<塔短歌会>同人中有数の理論家として知られている。
 本作は、その「真中朋久」氏の論評文の冷静さを称揚したものであろう。
  〔返〕 詠風の軽さを時折り見せたふり貞包さんは歌詠み巧者   鳥羽省三

『NHK短歌』観賞(加藤治郎選・4月11日放送)

2010年04月12日 | 今週のNHK短歌から
 今週の選者は加藤治郎氏であり、ゲストはその師の岡井隆氏である。
 三十分から二十五分に短縮された「NHK短歌」の時間が、どのように展開されるのかと注目していたが、案の定、選者の解説は例によって例の如く、ゲストの岡井隆氏の話も弟子の加藤治郎氏に相槌を打つようなもので、師弟庇い合いの出来レースといった感じで、取り立てて耳を傾けるべきものでは無かった。
 先ずは、特選一席から順番に入選作を見て行こう。


○ 谷あいに仔犬と暮らすわたくしは「愛ちゃんのばあちゃん」という名前です  (宍粟市) 高路ひろみ

 「仔犬」の名前が「愛ちゃん」なのだろう。
 他に取り立てて言うべきこと無し。
  〔返〕 自らを「ばあちゃん」などと名付けてる ひろみばあちゃん私は嫌い   鳥羽省三


○ 言葉なら沢山持ってる心なら確かに持ってるただそれだけだ  (大阪市) 鷲家正晃

 「『貴女が好き』という言葉を、私は百万遍並べ立てることも厭わないが、私はその言葉以上に、自分の心で以って貴女を確かに愛している。ただそれだけだ」という意味でありましょう。
 「ただそれだけ」の作品ではあるが、特選二席である。
  〔返〕 お金ならしこたま持ってるわたくしは愛の証しに八億積もう   鳥羽省三


○ 砂はただ波の愛撫にとらわれてあなたとわたしの境目もない  (江戸川区) 鈴木美紀子

 「砂」は「わたし」、「波」は「あなた」という訳でありましょうか?
 「砂」が「波」に優しく洗われているように、「わたし」の身体も「あなた」の優しい愛撫の手に委ねられているばかりで、もう何がなんだか分からなくなってしまった。
 何処までが「わたし」の身体で、何処からが「あなた」の身体なのか、もうその「境目」さえもつかなくなってしまった、ということでありましょう。
 特選三席、勝手にせい!
  〔返〕 鮫肌を砂に例えてわたくしはあなたの波に洗われている   鳥羽省三


○ くせっ毛がきらいと泣く子を膝にのせ生まれた朝の話などする  (福岡市) 藤田美香

 「泣く子」の「くせっ毛」と彼の「生まれた朝」とは、直接に関係するわけではあるまい。
 それでも尚かつ、その「子を膝にのせ」「生まれた朝の話など」を「する」のである。
 「泣く子」にはスキンシップが大切というところか?
  〔返〕 くせっ毛のパーマは大変難しく三割増しの料金取られる   鳥羽省三 


○ 小児科でもらう薬の袋にはうさぎの笑顔と「おだいじに」の文字  (神戸市) 南野真由子

 加藤治郎選の入選作は、どれもこれも軽い。
 これではまるで、風邪薬の薬包紙みたいだ。 
 飲み終わったら、ウサギを折って、病室の窓から吹き飛ばしてしまえ。
  〔返〕 小児科の薬包みの紙で折るミッフィーちゃんの耳の大きさ   鳥羽省三


○ 君の手がくるりと返す砂時計過去は未来へひらりと変わる  (愛知県) 河合育子

 「砂時計」の砂が全部落下したら、それを「くるりと」ひっくり返してまたやり直しをする、ということを「過去は未来へひらりと変わる」と、洒落て言ってみせただけのことである。
 その仕組みは、恰も三途の河原での亡者の石積みに似ている。
  〔返〕 積み上げた石をがちゃりと崩されて未来永劫解放されず   鳥羽省三


○ 好きだったあいつも見てる空だから褪せることなき愛なのだろう  (横浜市) 貝澤駿一

 「この空は、私の好きだったあいつも見ているに違いない空だから、この空の色は、永久に褪せることの無い愛(藍)なのだろう」と訳であろうか。
 論理的に説明付けられるのは、「好きだったあいつも見てる空」までであり、「だから」以降は、砂の上に砂を積み上げた楼閣である。
 「論理の飛躍がいけない」という話をしているのではない。
 「論理の飛躍は、巧みで美しいものでなければならない」という話をしているのである。
  〔返〕 憎らしきあいつが汚した海だから捕れた魚も食べる気がせぬ   鳥羽省三


○ 愛情を図る定規が違っててややちぐはぐな二人なのです  (相模原市) 山城秀之

 加藤治郎選の入選歌の魅力は「思い付きの妙」なのである。
 一般的に言うところの<価値観の違い>を、「愛情を図る定規が違ってて」と言い替えた思い付きに「妙」を感じるか否かが、この作品を傑作とするか否かの違いを生むのである。
  〔返〕 愛情を測る定規が折れたからただ無茶苦茶に愛してるだけ   鳥羽省三
 

○ ホームにて上り下りと別れるをせつなすぎると君もきづいて  (相模原市) 林田ふみ

 本作の作者は、「君もきづいて」という結句の後に、格別な読点(、)を施しているわけではない。
 それでも尚かつ、本作を熟読した者は、一首の後に<余情>を感じるに違いない。
 後記の樋口幸子さん作についての、加藤治郎氏の「この作品は句読点の使い方が巧みだ。特に、下の句の『時々おいしいお茶を入れて、』の『、』が巧みだ」という趣旨の評の眉唾性が本作を以って証明される所以である。
  〔返〕 ホームにて上り下りと別れたが永の別れとなりし半島   鳥羽省三 


○ ここにある空気を愛と名づけたら息苦しくなることが見えます  (杉並区) 平岡淳子

 「ここにある空気」の実態は、「愛情を測る定規を失ってただ無茶苦茶に愛されている」といった「空気」であったに違いない。
 それならば、愛されている女性としては、「息苦しくなることが見えます」と言いたくなるのも道理である。
  〔返〕 此処に在る空気を<憎>と名付けたら少しは過ごし易くなるだろ   鳥羽省三     


○ 嫁さんのおめでたの知らせありし日は草の芽さえも愛しかりけり  (町田市) 雀部信夫

 そうしたもんですよ。
 これを言い換えると、「惚れてしまえば痘痕も笑窪」ないしは「惚れて通えば百里も一里」とも言う。
 格別な傑作と言うには値しないが、ご妻女の懐妊の「知らせ」と「草の芽さえも愛しかりけり」の取り合わせに見るべきものがある。
  〔返〕 ご妻女を「嫁さん」などと呼んでゐてまだ若かりき雀部信夫は   鳥羽省三  

○ 「愛してる」なんて無理にいわなくていい。時々おいしいお茶を淹れて、  (北広島市) 樋口幸子

 テレビの解説で、選者の加藤治郎氏は、「この作品は句読点の使い方が巧みだ。特に、下の句の『時々おいしいお茶を入れて、』の『、』が巧みだ」という趣旨の発言をしていた。
 一首の末尾表現の後に余情を残す手段は、末尾語の後に読点(、)を施さなくても可能なことであろう。
 加藤治郎氏の発言は、後々に禍根を残すような発言かも知れない。
  〔返〕 句読点などを施すことは無い 短歌は韻文 散文でない   鳥羽省三 

今週の朝日歌壇から(14)

2010年04月12日 | 今週の朝日歌壇から
○ 申告に控除項目多多あるも負けてやるぞの上から目線  (岸和田市) 西野防人

 「上から目線」が目新しいのか?
 とは言うものの、その「上から目線」も以前と較べるとかなり改善されて来たようだ。
 先ず何よりも、税務署の役人どもがあまり威張らなくなり、かなり人間らしくなったことである。
 かつての私たち庶民と税務署の役人との唯一の接点は、時折り町にやって来て、夫に死なれてドブロク作りを唯一の収入源として暮らしている未亡人の家を、血も涙も無いような態度で家探しする光景であった。
 少年時代の私が住んでいた町内に、「佐渡島」と呼ばれる家が在り、佐渡島出身の配偶者に戦死されたその家の後家は濁酒造りの名人で、それを唯一の収入源として一家七人の貧乏所帯をやりくりしていた。
 その後家の家に狙いをつけて、暇を持て余している税務署の役人どもは、ほとんど毎週のように、私たちの町内に泥足を踏み入れるのであった。
 町内の人々は、そうした彼らのことを「鬼っこ」と呼んで毛嫌いし恐れていた。
  〔返〕 「鬼っこ来る。鬼っこ来るど」と泣き叫ぶ濁酒造りの佐渡島の後家   鳥羽省三


○ ふりむく牛ふりむかぬ牛どちらをも送りて友はしばし動かず  (高崎市) 野尻ようこ

 「ふりむく牛」は、飼い主への情愛と命への未練を断ち切れない牛で、「ふりむかない牛」は既に諦め切り、冷め切っている牛である。
 それらの牛を数年間、分け隔て無く愛情を注いで育てて来た「友」は、「牛」たちのそうした思いを痛いほど知っているから「しばし動か」ないのである。
  〔返〕 振り向くも振り向かざるものろのろと牛牛牛の牛歩戦術   鳥羽省三


○ 現身のわが内にある苦しみは他言できない<過去>の出来事  (アメリカ) 郷 隼人

 作者が終身刑囚として獄舎に繋がれる原因となった「<過去>の出来事」については、朝日歌壇の読者ならたいてい知っている。
 したがって、本作で言う「<過去>の出来事」とは、作者の胸の奥底に隠している別の「苦しみ」でありましょうか?
 だとしても、それはやはりあの一件に繋がるものであり、かくして、作者の郷隼人さんの胸中では、「あの時、あの場面で、ああすれば良かった、こうすれば良かった」との堂々巡りが始まり、結局は、短歌に託してそれを告白し、贖罪するしか無くなるのでありましょうか?
 だとすれば、郷隼人さんのお詠みになる短歌は、「他言できない」告白であり、贖罪である。
 「他言できない」告白や贖罪は、本来は成立し得ない告白であり贖罪であるから、それは本質的には自問自答に過ぎないのかも知れない。
 郷隼人さんの短歌は果てし無い自問自答なのかも知れない。
 しかし、もう少し考えてみると、この果てし無い自問自答としての詠歌という行為は、郷隼人さんのみならず、私たち歌詠みが例外無く日夜行っている行為ではないだろうか?
 いや、果てし無い自問自答は何も詠歌に限らない。
 私たちが日常生活で行っていることの全てが、本質的にはそうした行為でありましょう。
 一例を挙げれば、私のこうした空しい試み、即ち「臆病なビーズ刺繍」はその最たるものの一つに他ならない。
  〔返〕 余人には窺ひ知れぬ苦しみの現身ゆへの過去の出来事   鳥羽省三
      しょぼしょぼと時間下請けして我は人の短歌を人に説き居り   々
      しょぼしょぼと時間孫受けして我は我の言いわけ我にして居り   々


○ 柳川の花嫁舟が強風に押し戻されつ岸にぶつかる  (福岡県) 北代充明

 疑問点一つ。
 本作の作者及び選者には、四句目「押し戻されつ」の「つ」が完了の助動詞であって、「押しつ押されつ」といった場合を除いて、「~~しながら」という使い方をすることが出来ない、という意識があるのだろうか?
  〔返〕 強風で舟が戻され柳川の花嫁さんは輿入れ出来ず   鳥羽省三


○ 北帰行真近の鴨は群れをなし川の真中に集まりており  (柳井市) 沖原光彦

 着眼点が宜しい。
 「北帰行」を「真近」にして「川の真中」に集まっている「鴨は群れ」は、借金のかたに取られた家を明け渡す前に、住み慣れた家の真ん中の部屋に集まって肩を寄せ合っている<さだまさし>さん一家や、修学旅行の日程を終えて上野駅のホームに集まっている北東北地方のある町の中学生たちなどを思わせて興味深い。
  〔返〕 床の間の軸を巻きつつ母は言う嫌な思い出残して行こうと   鳥羽省三
      思い出はボストンバックに満ち溢れまた来る駅にさよならをする   々


○ 砂の町にいぶりがっこ三本と雪の匂いを連れて友来る  (アメリカ) 中條喜美子

 「砂の町」とは米国の砂漠地帯のある「町」のこと。
 作者がその「砂の町」にやって来たのは、「いぶりがっこ」や「雪」の「匂い」に象徴される、日本の田舎の因習に凝り固まった生活から逃げ出したかったからであろう。
 それなのに、その「砂の町にいぶりがっこ三本と雪の匂いを連れて」「友」が「来る」ことの皮肉を、「連れて」という一語句が見事に表わしている。
  〔返〕 三本のいぶりがっこの一本を酒の肴に久闊を序す   鳥羽省三


○ 蜘蛛の糸くりゆく如く地底より大江戸線のエスカレーターに乗る  (亀岡市) 長岡洋子

 東京都内の地下を縦横に貫く地下鉄の線路は、創業年度の古い線ほど地表に近く、新しい線ほど地中深く潜って敷設されているのである。
 したがって、つい先年敷設されたばかりの「大江戸線」の乗降車ホームは、地下というよりも「地底」という感じの地点に設置されている。
 この一首は、そうした地下鉄「大江戸線」の降車ホームから地上に上がるために「エスカレーター」に乗った時の感じを詠んだものである。
 特に留意すべきことは、「蜘蛛の糸」は直線的に連続したものでは無く、或る時は湾曲蛇行し、或る時は直線的に折れ曲がっているということである。
 「大江戸線」の「地底」ホームから「エスカレーター」に乗って地表に出る場合もそれと同じことであり、地下通路を行きつ戻りつしながら、幾台もの「エスカレータ」を乗り継いで行かなければならないのである。
 「蜘蛛の糸くりゆく如く」とは、その間の事情を直喩的に説明したものである。
  〔返〕 捩れたる糸を解ける思ひにて大江戸線の地表に出でぬ   鳥羽省三


○ 朝市に初めて並ぶ葉生姜の薄紅色は春の体温  (浜松市) 桑原元義

 「朝市に初めて並ぶ葉生姜の薄紅色」こそは正しく「春の体温」なのである。
 この一首については、これ以上の解説を要しないと思われる。
  〔返〕 初物の薄紅色の葉生姜を口に含めば春の味する   鳥羽省三


○ 飛び石を正しく踏んで歩むあり石の配置にこだわらぬあり  (坂戸市) 山崎波浪

 真に世は様々、人も様々なのである。
 その様々な人の生態の一部を観察して活写したのが本作の手柄である。
  〔返〕 飛び石を一つとばしに跳ぶ友と古希の記念のお寺巡りに   鳥羽省三


○ 両膝にそれぞれ乗せる子がいればなかなかはけぬフレアスカート  (高槻市) 有田里絵

 「フレアスカート」の「フレア」とは「朝顔形の張り」のことであるから、「フレアスカート」とは、裾の方が朝顔形に自然なウエーヴのかかったスカートのことである。
 その「フレアスカート」を穿いて「両膝」にそれぞれ一人ずつの「子」を「乗せる」のは、とても無理というもの。
 そんな無謀なことを考えずに、ユニクロから九百八十円のジーンズを買って穿きなさい。
  〔返〕 諸膝にそれぞれ乗せた子が毟るアサガオ型のスカートの張り   鳥羽省三


○ かたばみの実のような子ら 気をつけて触れてもふいに感情爆ぜて  (赤穂市) 内波志保

 よほど「気をつけて触れても」直ぐに切れて「爆ぜ」てしまう昨今の「子ら」を「かたぱみ」に例えた直喩が秀逸である。
  〔返〕 かたばみの抜くもならずにはびこりて直ぐに切れちゃう近頃の子ら   鳥羽省三


○ 生みたての卵はケージに落とされて動かぬ鶏は遠き目をする  (糸島市) 大江俊彦

 採卵用に飼育されている鶏の無機質に似た生態が、実に見事に表現されている。
 特に、「動かぬ鶏は遠き目をする」という下の句の表現は、本来は子孫繁栄のために行われるはずの排卵という行為が、当該者の鶏にとっては、それとは関わらない日常的な無意味な行為と化してしまったことを言い表しているのであろう。
  〔返〕 鶏の動くもならず産み落とす白き卵をケージより採る   鳥羽省三  


○ 逆向きに流されてゆく鴨もいて春の川面に日射し煌めく  (鹿角市) 柳澤裕子

 これまた、観察の行き届いた一首である。
 下流に顔を向けた鴨も、上流に顔を向けた鴨も、そのままの姿勢で、雪解け水で勢いを増した川の流れのままに「流されてゆく」のである。
 北国の春の兆しは、川面の日射しの煌めきと雪解け水から始まるのである。
  〔返〕 番えるも一羽のままの鴨も居て思いのままに水に浮かべる   鳥羽省三


○ 不揃いのトンボ鉛筆筆箱に数本ありぬ春寒き朝  (塩釜市) 佐藤幸一

 「春寒き朝」が、単なる数字合わせのための付け足しのような感じである。
 「筆箱に」「数本」残っている「不揃いのトンボ鉛筆」は、かつてこの家の子供の誰かが使ったものであり、その誰かは今はこの家に居ない。
 そこで、本作の作者は、その空白を言い表すために、結句として「春寒き朝」を置いたのであろう。
 だが、この句はあまりにも唐突過ぎて、作者の表現意図が充分に読み取れない恨みが在る。
  〔返〕 三菱にトンボにヨットにコーリンに長さ異なる鉛筆残し   鳥羽省三 


○ 敗者より言葉なければ投了ののちの静寂しばらくつづく  (ひたちなか市) 篠原克彦

 普通は、「この度は」とか「及びませんでした」とか、「敗者」の口から何か一言漏れるはずなのであるが、今回に限っては、その一言が無かった。
 そこで、勝者も立会人も彼の一言を待つような気分になっているので、「投了ののちの静寂」が「しばらくつづく」のである。
 意地っ張りの敗者は、それでも尚、「負けました」の一言を発しない。
 この一首は、その「しばらく」の間の、何か白けたような、気の抜けたような会場の気分を描いているのである。  
  〔返〕 しばらくの静寂の後かさこそと音立て両者は駒を仕舞ひぬ   鳥羽省三


○ 夫も息子(こ)も続けて逝きしを知らされず叔母は施設でにこにこ生きる  (前橋市) 荻原葉月

 「施設」とは、認知症患者を介護する施設でありましょう。
 つい先日、評者の連れ合いの母が亡くなったが、彼女の場合は、その種の施設と病院との行き来をくり返している間に、二人の甥を含めた数人の親類縁者が亡くなったのであるが、彼女は、その一切を知らず知らせられずに、その者らの後を追うようにして黄泉路へと旅立って行ったのであった。
 それに反して、本作の「叔母」の場合は、「夫も息子も続けて逝きしを知らされず」に「施設でにこにこ」笑って生きている。
 そうした現実を、作者は、喜ばしいとも悲しいとも述べていないのである。 
  〔返〕 逝く者も逝かざる者も悲しくて介護施設の叔母の笑顔よ   鳥羽省三


○ 傘を杖にしずしず渡る歩道橋この世の他に何があらうか  (大分市) 長尾素明

 「傘を杖にしずしず渡る歩道橋」を、一旦は三途の川に見立てたのであろうが、自意識の強い作者は、再度熟慮してそれを拒否し、「私が今、傘を杖代わりに突いて渡っているのは、ただの歩道橋に過ぎなくて、地獄へと渡る三途の川などではない。私はまだまだ元気だ。だからこうして、今日もこうして、この歩道橋を渡って、街へ買い物に出かけるのだ」と、自分で自分に言い聞かせているのである。
  〔返〕 歩道橋渡ればあの世 笠と杖頼りに後はとぼとぼと行く   鳥羽省三 


○ 切る側より切られん側に移行しぬ社歴三十年まことシンプル  (和泉市) 長尾幹也

 「切る側より切られん側に移行しぬ」とあるが、「社歴三十年」の間に、なんらかの事情が在って、本作の作者はそうした事態に陥ったのであろう。
 表現上の細かい部分に拘ると、「切られん側」を「切られる側」としてはいけないのだろうか?
 「切られん側」とは、「切られるかも知れない可能性を秘めた側」のことであって、「確実に切られる側」を意味する「切られる側」とは異なるのである。
 だとすると、この事一つを以ってしても、「社歴三十年まことシンプル」という下の句の表現が、多分に皮肉を込めた言い方であることが理解されるのである。
  〔返〕 切る側より切られん側に移行せし時に始めた短歌創作   鳥羽省三

あなたの一首(ひいらぎさんの作品)

2010年04月10日 | あなたの一首
○  幼子を成長させてゆくらしい絵本とボールと冬の陽だまり   ひいらぎ

 第十回「歌垣の里・白石─三十一文字コンテスト」に於いて、目出度く「一般の部・秀作」に選定された、ひいらぎさんの快心の作である。
 ひいらぎさん、おめでとうございます。
 この快挙を、私は心からお喜び申し上げます。
 そして、嫉妬も少々。
 私は、たまたま開いたひいらぎさんのブログでこの報に接し、急遽、「歌垣の里・白石─三十一文字コンテスト」のホームページで、その事を確認したばかりであるが、同コンクールは、著名な歌人の塘健氏らを選者として、佐賀県白石町の主催で行われる短歌コンクールであり、第十回の今年は、「愛」をお題として日本全国から、数多くの作品が寄せられたとのことです。
 この作品について、作者御自らがご自身のブログで、「我が子の成長を詠んだ歌です。/つい最近まで絵本を読んで聞かせていたのに、気が付けば、一人で読めるようになっています。/息子もサッカーを始めようと考えているみたいで、自分からお父さんをボール遊びに誘ったり。/知らない間にどんどん大きくなっていくなぁ…と感じます。/子供の成長を思うときに、温かな穏やかな陽だまりのイメージでした。/辛いことも沢山あったとは思うのですが、今、目の前で笑ってくれる子供達を見ていると、たいしたことなかったと思えます。/でも息子はただ今、反抗期(いや、ずっとかも!?)/まだまだ大変なことが待っていると思いますが、私自身も、冬のひだまりみたいに優しく温かな気持ちで子育てしていきたいなぁと思います。」と、そのお喜びのお気持ちを語っていらっしゃるが、その文章は、他に代え難い、本作の解説となっていると思われますので、これ以上の詮索は無用と思います。
 この作品は、作者・ひいらぎさんのご本名で発表されたものでありますから、本来ならば、作者欄に、そのご本名を記すべきでありますが、この場はあくまでも、「題詠2010」の投稿作の批評を中心とした場であり、私とひいらぎさんとのお付き合いも、「題詠2010」への参加者同士という関係に過ぎませんので、この際は、本作の作者名を、敢えて「ひいらぎ」さんとして掲載させていただきます。
 その旨、お許し下さい。
 ひいらぎさんには、重ね重ねおめでとうございます。
 お祝いと申し上げるよりは、お笑いに私も一首、唱和させていただきます。
  〔返〕 パチンコとお酒と煙草それに妻 駄目な亭主を更に駄目にす   鳥羽省三

一首を切り裂く(遅刻して来た元・少女<ひいらぎ>さんの歌)

2010年04月10日 | 題詠blog短歌
 昨年の「一首を切り裂く」の標的の一人であった<ひいらぎ>さんが、去る三月半ばに、遅れ馳せながら「題詠2010」への参加表明をなさり、今のところ「001」から「003」までのわずか三首だけではあるがご投稿なさって居られる。
 私は昨年同様に今年もまた、彼女の歌を切り裂くことを密かな楽しみの一つとしていたのであったから、彼女の大幅な遅刻には、何か特別なご事情(例えば、娘さんのご出産とか、いや失礼、ご本人のご出産とか)でもお在りなのかと思って、少なからぬ心配をしていたのであったが、それが杞憂に終わったので今のところ一安心という心境である。
 つきましては、大変異例のことながら、「遅刻して来た元・少女<ひいらぎ>さんの歌」と題して、彼女の作品三首の観賞を試みてみよう。
 後厄も過ぎた女性を掴まえて「元・少女」でもないでしょうと、老妻には叱られるが、あのジャリ・タレ集団「嵐」の歌と踊りに痺れて、時折りは家事も詠歌も忘れてしまう<ひいらぎ>さんのことであるから、何よりもご本人が「元・少女」どころか、現役の少女という意識から脱却なさって居られないことと思われます。
 したがって「元・少女ひいらぎさん」という私の言い分も許容されて然るべきであろうと思われるのである。


(ひいらぎ)
   ときめいた気持ち抱えて桜咲くいつもと違う春の訪れ

 「001:春」への投稿歌である。
 のっけから悪口を言うようではあるが、「ときめいた気持ち抱えて桜咲く」は良くない。
 この上の句の何処が良くないのかと言うと、詠い出しの語「ときめいた」が良くないし、「気持ち」も良くないし、「抱えて」も良くないのである。
 このままだと、「さあ春が来るぞという期待で、既に一週間も前からどきどきしていたが、今となってはその緊張の余りに少し疲れ気味になってしまった。そうした気持ちを内部に抱えて桜が咲く」ということになってしまうのである。
 これを何か別のことに例えれば、「えい、破れかぶれだ。泣いても笑っても明日は結婚式だぞと、既に彼女の全てをいただいてしまった男性が、半ば以上冷め切った気持ちで結婚式に臨む」というような按配となってしまうのである。
 助動詞の「た」は、過去の助動詞であり、完了の助動詞でもあるが、ひいらぎさんのように、豊富な文法知識を持って居られる方ならともかく、一般的には、これを過去の助動詞としてのみ捉え、「ときめいた」即「期待感などでひとしきりどきどきしたが、その後」という感じに解釈してしまうのである。
 文法知識は、ご自身がそれを持っているというだけでは駄目で、それに基づいて作った作品を人前に晒した時に、人様がそれをどのように受け取るか、というレベルまで到達した上で、発揮しなければならないのである。
 詠い出しの語「ときめく」に拘るならば、「ときめいた」と過去形にしないで、「ときめける」と存続形にするか、「ときめきの」にした方が遙かに宜しいかと思われる。
 また「気持ち抱えて」という言い方は、伺い知ることの出来ない桜の気持ちを外側から消極的に撫でているような感じの弱い言い方になってしまうから、それをもっと大胆に、作者と桜とがぐいと近寄って、春の到来を喜ぶお互いの心を覗かせ合うような気分を込めて、「気分覗かせ」或いは「心覗かせ」とする方が、この作品を数倍も良くすることになるのではないでしょうか?
 作者・ひいらぎさんは、自分自身が春の訪れを強く願望しているから、季節の花である桜もまた、自分と同じような気分になっていると思っているのでありましょう。
 もしそうならば、その気持ちが第三者にも解るような表現をしなければならないのでありましょう。
  〔返〕 ときめきの思い覗かせ桜咲くいつもと違う春訪れつ   鳥羽省三 
      ときめける心覗かせ桜咲く去年(こぞ)と違へる春訪れつ       々
      春若くひいらぎ未だ若ければ今年の春も花は開かず      々


(ひいらぎ)
   暇だった自分を忘れるほど今は君の笑顔を探してばかり

 好いて好かれて結婚した二人が、もう倦怠期に入ってしまったのでしょうか?
 お互いに弛緩してしまい、似たような気分になってしまったこの頃なのであるが、結婚当時の充実した気持ちを失ってしまった度合いは、本作の作者よりも、本作の作者の連れ合い(去年は好きな旦那さま)の方が、より顕著なような感じである。
 その証拠は、本作中の「今は君の笑顔を探してばかり」という表現に在ると思われるが、この表現中の「君」が、連れ合いとは異なった男性であるならば、作者夫婦は、もう既に取り返しのつかない泥沼に足を突っ込んでいることにもなりましょう。
  〔返〕 暇だった去年懐かし本年は君の笑顔を覗うばかり   鳥羽省三
      横顔を眺めて笑める過去ありき今年の君は渋面ばかり    々
 追伸
 熱烈な「嵐」ファンのひいらぎさんのことでありますから、作中の「君」が、「嵐」のメンバーの一人の大野智くんだったり、櫻井翔くんだったりすることも充分に考えられ得る。
 でも、いくら何でも、御年三十四歳のひいらぎさんと二十歳にも満たない「嵐」のメンバーとでは、不釣合いもいいところでありましょう。
 その恋諦めましょう。


(ひいらぎ)
   公園に春の匂いが溢れ出すように君へと溢れる想い

 この一首から窺い知れるように、本作の作者<ひいらぎ>さんの心は、もはや戸籍上のご夫君から離れてしまっているようだ。
 いや、本作の「君」もまた、「嵐」なのかな。
 だとすれば、「花に嵐の例えもあるぞ、さよならだけが人生だ」、その恋あきらめな。
 作中に「公園に春の匂いが溢れ出すように」とあるが、この匂いとは「春の匂い」と言うよりも「晩春の匂い」なのであり、その本質は、「嵐」に蹂躙されて地面に散り敷いた桜の花びらの腐敗した匂い、即ち「死臭」なのである。
 表現上の問題点を指摘するならば、お題「公園」に縛られているばかりで、お題を生かし切っていない恨みが在る。
 お題は作者の味方であって、決して敵ではない。
  〔返〕 公園に春のざわめき満ち溢れ君への思い募るばかりぞ   鳥羽省三
 不倫の恋に思いを馳せるのは、息子さんが子供手当てを貰えなくなってからにしましょう。

一首を切り裂く(021:狐)

2010年04月07日 | 題詠blog短歌
(みずき)
   ややあつて「狐の嫁入り」笑む母は着ぬまま逝きし羽織縫ひゐし

 三十一音の中に盛り込めないような内容を強引に盛り込んで仕立て上げた作品と見受けられ、この一首には、作者の創作意図が読者に充分に伝わらない恨みが在る。
 そこで、これに込めた作者の創作意図や情念を充分に汲み取ったうえでこの一首を解釈すると、「私の母は優しく我慢強くいつも笑顔を絶やさない母であった。その母が、久しく手にすることの無かった縫い針を手にして、自分自身が着るためにと羽織を縫っていたが、それが出来上がるや否や、せっかくの羽織の袖に一度も手を通さないまま、黄泉路へと旅立って行った。今日はその母の初七日。私たち遺族はそれぞれに都合をつけて、母を亡くした父のもとに集まって母の思い出に耽ったが、その語らいが始まってからしばらくして、突然のお天気雨がひとしきり降り、母の思い出の庭を濡らして行った」ということになるのでしょう。 
 しかし、この一首からこのような意味を感じ取ることは出来ても、これを完成した作品として誉めることは、私には到底出来ない。
 仮にこの作品を私が誉めたとしたら、それは即ち、私が作者の力量を見限ったことの証しになるのでありましょう。
 本作の作者は、原作中のどの語をいちばん大事と思い、どの語をそれほど大事で無いと思っているのだろうか、と、評者としてはあれこれと考えざるを得ない。
 しかし、そうした評者の詮索は、作者としてはありがた迷惑なことであり、「私は、この作品中の全ての語を必要な語と思ったのであり、その結果として、この作品はこのような形となったのである。それなのに、作者でも無いお前が余計なことは言うな」などと仰られるかも知れない。
 かほど然様に、短歌創作やその解釈は難しいものである。
  〔返〕 羽織縫ひ着ぬまま逝きし母の日に狐の嫁入りややあって晴る   鳥羽省三
 冒頭の「ややあつて」は、本作の作者としては、どうしても使いたい言葉であったと思われるから、敢えて無理して使ってみたのである。
 「母の日」は、カレンダー上の<母の日>と解しても宜しいし、母の葬儀の日や母の命日と解しても宜しいでしょう。
 とは言え、これではまだ欲張り過ぎで、内容があまりにもごたごたとしている。
 そこで、
  〔返〕 召さむとて仕立てし羽織も召さぬまま母は黄泉路に旅立ちにけり   鳥羽省三
 としてみた。
 しかし、これではせっかくの「ややあつて」も「狐の嫁入り」も捨ててしまうことになる、と思ったら、次の一首を付け足せばいいことである。
  〔返〕 初七日の読経聞こゆる ややあって狐の嫁入り庭面を濡らす   鳥羽省三
 とかなんとか申し上げたが、私の論は、あくまでも、お題「狐」を離れた論である。
 失礼。 


(穂ノ木芽央)
   衣擦れの脚のあひだに狐の尾憶えたばかりのふたりあそびに

 覚えたてのラブゲームを「ふたりあそび」と言っているのでしょうか?
 だとすれば、それは穂ノ木芽央さん一流の文学的修辞であり、突き放した冷たい言い方でもある。
 それはどうでも、その「ふたりあそび」の最中に、その遊びの片割れの男が、もう一方の片割れの女の「衣擦れの脚のあひだに狐の尾」があるのを見つけてしまったのである。
 こうした場合、「これはしまった大変だ」と思うのは、見つけられてしまった女の方であると思われるのだが、本作の場合はまるで逆。
 「見なければ良かったものを見てしまった」と驚き悲しみ嘆き、挙句の果には、「これは見なかったことにしよう。見なかったことにして、このまま『ふたりあそび』を続けよう」と思って、その女の「衣擦れの脚のあひだ」から覗いている「狐の尾」をかなり気にしながらも、やがては彼女の股の間に手を突っ込もうとしたのは、あの気の弱い男だったのである。
 この果敢なく哀しく怪しい「ふたりあそび」の成り行きは、その後、一体どのように展開するのでありましょうか?
 コンコン狐の尾話、後は明日のお楽しみ。
 お代は木の葉一枚。
  〔返〕 尻尾持つ女狐とは知る さりながら落ちるとこまで堕ちて行こうか   鳥羽省三


(壬生キヨム)
   ツギハギはセロハンテープでくっつけろ ある晴れた日の狐の嫁入り

 「狐の嫁入り」を「お天気雨」の意と解釈するならば、「ある晴れた日の」という四句目は過剰表現で不必要な句となろう。
 したがって、本作の「狐の嫁入り」は、昔話の世界の「狐の嫁入り」と解釈しなければならないことになる。
 しかし、昔話の中の「狐の嫁入り」は、本来は闇夜に行われるものであり、提灯の灯りで以って、「ああ、あそこで狐の嫁入りが行われているなー」と人間どもに感じさせるものであるから、この点からしても、本作の四句目「ある晴れた日の」は、矛盾した表現となる。
 そこで思うに、本作の作者は、「『ある晴れた日』に『狐の嫁入り』が行われたが、その花嫁行列の最中に、突然、お天気雨(狐の嫁入り)が降って来て、せっかくの花嫁衣裳が『ツギハギ』だらけとなってしまって馬脚を現しそうになってしまった。 そこで、それではいけないとばかりに、『ツギハギはセロハンテープでくっつけろ』という次第になってしまったのである」という意味を込めて、この「ツギハギ」だらけの一首を創作したのではなかろうか。
 二通りの意味を持った「狐の嫁入り」というロマンチックな言葉も、語源から遊離してしまえば、こういう使われ方をされることにもなるのである。
 評者としては、「狐につままれた」という気持ちで聞いているしか無い。
  〔返〕 親泣かせ花嫁泣かせの天気雨濡れた衣装は木の葉継ぎ接ぎ   鳥羽省三
 

(れい)
   半月がおぼろにかすむ秋の夜を母待つ子狐クンクンと鳴く

 ごく平凡な狐親子の昔話である。
 人間に化けて子供を産んだ女狐が、化けの皮を剥がされてしまい、泣く泣く森の中に帰ってしまった後、残された子狐が母狐を恋しがって「クンクンと鳴く」のである。
 「半月がおぼろにかすむ秋の夜を」という舞台設定が月並みなのである。
  〔返〕 満月が光り輝く春の夜を娘を置いて宇宙に旅立つ   鳥羽省三 


(珠弾)
   じゃんけんに始まり狐、野球拳 すっぽんぽんになっておしまい

 「じゃんけん」の種類としての「狐拳」と「野球拳」を挙げて、その多種多様な「じゃんけん」の全てに負けて「すっぽんぽん」にされてしまって、これで「おしまい」というわけなのである。
 本作の作者の意図としての「おしまい」は、<万事休す・一件落着>という意味の名詞であろうが、私は、この「おしまい」を、女が金切り声を上げて自分の子や夫に向かって言う、「そんなに勉強が嫌いだったら、学校なんか辞めておしまい!」「そんなに辛かったら、会社なんか辞めておしまい!」と言う場合の「おしまい」と解釈する手もあると思った。
 この場合の「おしまい」は、口語動詞「しまう」の命令形「しまえ」に、尊敬の意味を込めて言い替えた形「おしまい」なのである。
  〔返〕 鳥羽などにからかわれてるくらいならいっそ短歌をやめておしまい   鳥羽省三


(如月綾)
   あれはきっとすっぱい葡萄と諦めた狐みたいに君を忘れる

 「すっぱい」作とは言いながら、それなりの味わいのある作品である。
 お腹を空かした狐が居て、バラ線で囲まれた葡萄園の葡萄を狙っている。
 しかし彼女は生まれついての臆病狐だから、そのバラ線を飛び越えたり破ったりしてまでその葡萄畑の中に四足を踏み入れるまでの決心はつかないのである。
 挙句の果に彼女は、「ああ、あの葡萄はすっぱい葡萄なのだ。私が臆病だからあの葡萄畑の葡萄を食べられないのでは無い。あの葡萄がすっぱい葡萄だから私はあの葡萄畑の葡萄を食べないのだ」と、自己欺瞞の屁理屈をこね回すのである。
 その自己欺瞞の「狐みたい」に適当な理屈をつけて、本作の作者の如月綾さんは、恋しくて恋しくてならない「君を忘れる」ふりをするのである。
 自分用の羽織を縫い上げたとたんにあの世行きとなった母、セックスフレンドの女性を尻尾持ちの女狐と知りながらも入れ揚げている男、ツギハゲだらけの花嫁衣装を着て嫁入りしなければならない花嫁、母狐に置き去りにされた子狐、野球拳で負けて素っ裸にされてしまったビジネスマン、あれは酸っぱい葡萄のような男だと無理矢理に思い決めてしまって、恋しくてならない男を諦めてしまう女。
 かほど然様に、この世の中には不幸な生き物ばかりが満ち溢れているのである。
  〔返〕 恋しくてならぬ男を諦める女の食べぬ酸っぱい葡萄   鳥羽省三

 
(鮎美)
   神様の前のくちづけ 灯籠に照らされてゐた狐のおもて

 村の鎮守のお稲荷さんの神前での結婚式風景である。
 時あたかも村祭りの真っ最中。
 「灯籠に照らされて」怪しく光る「狐」の面が、花婿と花嫁の「くちづけ」を見つめているのである。
  〔返〕 その夜の花嫁御寮は処女のまま狐おもてが気になり燃えず   鳥羽省三


(リンダ)
   商売の繁盛まつる鳥居よこ舌出す狐二匹が座る

 「商売の繁盛まつる鳥居よこ」とは、<伏見稲荷大社の大鳥居の横>という意味なのか?
 もしそうだとすると、そこに狛犬代わりに鎮座している「二匹」の「狐」は「舌」を出していることになる。
 私は来週、関西旅行に行く予定であり、その途中に伏見人形の製造元にも寄るつもりであるから、この際じっくりと、実地に検証してみるとしよう。
 事と次第によっては、私は本作の作者を、嘘吐きのリンダ狐と決め付けなければならないことにもなってしまう。
  〔返〕 岩国の今津神社の境内で白蛇様がぺろり舌出す   鳥羽省三 


(畠山拓郎)
   現れし狐タイプの細身の子 狸タイプと入れ替わりして

 最近、私は銀座は勿論のこと、新宿であれ、横浜であれ、社交女性を置いている場所には、足を踏み入れないようにしている。
 その理由は他でも無く、お足が無いからである。
 私が全盛だった頃の新宿の酒場には、<欧陽菲菲>紛いの「狸タイプ」の社交女性がうようよしていて、その女性たちの胸乳を掻き分け掻き分けしながら、私は浴びるようにドンペリを飲んだものであった。
 それも今となっては昔のこと。
 今の私は、「狐タイプの細身」の老妻に介護されている毎日である。
  〔返〕 現れぬ狐タイプの細身妻 私のしもはそろそろ替え時   鳥羽省三


(理阿弥)
   暮れの春トロット習う子狐ら黒靴下の二匹三匹

 <ズンチャッチャ、ズンチャッチャ…>と三拍子の「トロット」を「習う」小娘たちが、あの理屈屋の理阿弥さんの周囲にも徘徊するのだろうか?
 だとすれば、「これはびっくり玉手箱、虫をも殺す理阿弥さん」である。
 しかし、その小娘どもを「暮れの春トロット習う子狐ら黒靴下の二匹三匹」と決め付けているのは、さすが理阿弥さん、その面目の躍如たるものが感じられる。
 「暮れの春」佳し、「子狐ら」佳し、「黒靴下の二匹三匹」佳し。
 佳いことだらけの「暮れの春」の一首である。
  〔返〕 暮れの春「黒靴下の子狐を一匹分けて呉れ」の春かな   鳥羽省三


(のわ)
   穀物に雨があたってほどけゆく狐の親子が山から降りる

 穀雨は二十四節気の一つであり、太陽暦の四月二十日頃がその日にあたる。
 その意味は「百穀を潤す春雨」ということであるから、その頃ともなると、「穀物に雨があたってほどけゆく」ことにもなり、「狐の親子が山から降りる」ことにもなるのであろう。
 本作は、暖かくて温くて明るい。
 人間様が大切にしている種籾を狙って「山から降りる」のであろうが、この「狐の親子」は憎めない。  
  〔返〕 お腹空き山から下りて来た狐 兵十さんの銃に当たるな   鳥羽省三


(南葦太)
   姪っ子よ幸せであれ 着ぐるみのパジャマ(狐)につつまれている

 「姪っ子よ幸せであれ」などと、南葦太さんという方は、インテリに似合わず単刀直入な物言いをなさる方である。
 これでは身内びいき丸出しではありませんか。
 少しは慎まなければ、女性が寄り付きませんよ。
 この分では、可愛い姪っ子さんが「包まれている」「狐」の「着ぐるみのハジャマ」も、昨年のクリスマスプレゼントとして、葦太叔父さんが買ってあげたものと思われる。
 姪っ子さんは、狐の着ぐるみハジャマに包まれて、愛くるしい眼差しで叔父さんにウインクなどするから、これからも葦太叔父さんは、この姪っ子さんに再三化かされて、いろんなフレゼントをしなければならない破目になってしまうことでしょう。
 そして、その挙句には、ご自身の婚期まで逸してしまうことでしょう。
 と、ここまで書いて来たのではあるが、この四月に、その南葦太さんがご結婚なさると言う。
 おめでとうございます、南葦太さん。
 本当におめでとう。
  〔返〕 これからは子作り専念葦太さん。姪っ子なんぞ糞喰らえだね。   鳥羽省三

 
(飯田和馬)
   小肥りは人間であり金色の狐ガールは畜生である

 同じ年頃の青年でも、南葦太さんと飯田和馬さんでは、どうしてこんなにまで違うのだろうか?
 これは明らかに飯田和馬さんの方が良くない。
 「小肥りは人間であり金色の狐ガールは畜生である」とは、人間憎悪の感情を丸出しした、反社会的な考え方ではありませんか、少しは慎みなさい。
 「狐ガール」とて女性。
 飯田和馬さんとて、そのうちに「小肥り」小父さんとなるのである。
 この両者がくっ付いて、子供作ったとしても、それに何の不都合がありましょうか。
  〔返〕 書を捨てて狐ガールと遊びなよ彼女の胸の底にも血潮   鳥羽省三


(高松紗都子)
   母の手がつくる狐のかげを見た白い障子はあたたかかった

 右の掌を左の掌の四本の指で握り、両手の親指を立てれば、耳の尖った狐の顔になる。
 そして、その右手の中指と人差し指の間を少し空ければ、その狐が口を空けた姿となる。
  〔返〕 冬の夜の影絵遊びのきりの無や狐も兎も障子に映る   鳥羽省三


(斉藤そよ)
   ふかぶかと雪降る町へ狐火をたよりにいつか向かう日がくる

 今から半世紀以上昔の事。
 都会生活に憧れて、北東北のとある田舎町の駅から夜行列車に乗って、上京した一人の女が居た。
 その女は、首尾良く東京の一廓で職を得、それから間も無く恋人も得て、めでたくゴールインとはなった。
 しかしながら、その幸せの日も長くは続かず、離婚して失意の人となったその女には、「ふかぶかと雪降る町へ狐火をたよりにいつか向かう日がくる」ことになったのである。
 評者は、この話を人伝に聞いたのではない。
 評者自身の従姉の一人から、実体験として聞いたのである。
 本作を目の当たりにした瞬間、私は、その従姉の昔語りを思い出した。
  〔返〕 やがて来る別離の日々を恐れつつ従姉・奈津子は身を開きにき   鳥羽省三

今週の朝日歌壇から(13)

2010年04月05日 | 今週の朝日歌壇から
○ ドア閉ずる。春は曙囚人の調理師(クック)ら房を出でゆく気配  (アメリカ) 郷 隼人

 冒頭に「ドア閉ずる。」とあるが、「閉ずる」は宜しくない。
 「ドアを閉じる」の「閉じる」は、文語ならば「閉づ」であり、口語ならば「閉じる」である。
 本作の作者は、昭和六十一年七月一日に、内閣から告示された「現代仮名遣い」の手引きに「タ行濁音の<ぢ・づ>は、特定の場合を除いて<じ・ず>と書く」という趣旨の決まりが在ることを誤解し、更には文語と口語とをごちゃ混ぜに考えていたりもして、「ドア閉じる」或いは「ドア閉づ」とするべきところを「ドア閉ずる」などという言い方をしたのであろう。
 昨今の歌壇の一部には、こうした出鱈目な言い方を野放しにする向きも見掛けられるが、それは当事者たちの見識とおつむの程度の問題であるから問題にするにも値しないが、他ならぬ馬場あき子さんが彼らと同列であってはいけない。
 また、この「ドア閉ずる。」という句点を伴った一句は、それ以降の句とどのような関わりを持っているのかもはっきりしない。
 あれこれと考えてみるに、この一首の意は、「春の明け方に、看守らが朝食の準備をさせるために囚人の中の調理師らを収容している房の扉を開けたので調理師の囚人らがその房から出て行った。その気配を同じ獄舎内の別の房にいた本作の作者が感じ、その後に、その房の扉が閉じられた」というものであろう。
 「春は曙」という思わせ振りな表現も衒学趣味みたいで嫌味である。
 調理師を「クック」と読ませるのも嫌味である。
 表記上のミスが在り、表現上にも曖昧な点の在るこの作品について、ここまで理解することはなかなか難しい。
 詠い出しに「ドア閉ずる。」という句を置いた作者の意図や、それに続いて「春は曙」を置いた意図も理解し難い。
 獄窓の内側から投稿された作品であろうと、外側から投稿された作品であろうと、良くない作品は良くない作品である。
 国外から投稿された作品であろうと、国内から投稿された作品であろうと、良い作品は良い作品である。
 新聞歌壇の選者は、間違いを間違いとして正し、曖昧を曖昧として指摘する者でなければならない。
  〔返〕 朝まだき調理師獄舎の扉開き囚人調理師(クック)ら出で行く気配   鳥羽省三


○ 窓に見る古墳の木々の芽吹き来て埴輪の馬の目覚むる気配  (岸和田市) 南 与三

 本作は、鬱蒼と茂った「古墳の木々」の辺りに朝が訪れ、その「木々の芽吹き」も次第に明らかになる時刻のロマンチックな雰囲気を詠ったのであろう。
 「埴輪の馬」は眼前に在るのか無いのか判らないが、それはそれでこの作品の優れた点なのであろう。
 もう少し想像を逞しくして言えば、「埴輪の馬」はその「古墳」の主の副葬品として埋まっている(かも知れない)ものとして、作者の心の中に存在するものである。
  〔返〕 芽吹き来て埴輪の馬を目覚ましむ古墳の木々の今朝のふくらみ   鳥羽省三


○ 落書きを消して教室明け渡す終わる三月始まる四月  (枚方市) 小島節子

 年度末と年度始めの端境期たる春休みともなれば、全国至る所の学校で見られる光景である。
 この教室で過ごした過去一年間の思い出に浸りつつ、この教室に来週から入って来る新入生たちへの期待感を覚えつつ、教師・小島節子さんは、この教室の備品たる机や教卓や本棚や時計や黒板や黒板消しの果まで、ぴかぴかに洗い立て、磨き立てているのである。
 悪ガキ山田大智君の書いた「コジマ伝奇」という記念碑的な落書きも惜しみつつ消す。
 その隣りに、学級委員の花村茉莉さんの書いた「落書き禁止」という落書きも彼女の清楚な顔を思い出しながら心を込めて消したのである。
 一年間ご苦労様でした。
 次年度も頑張って下さい。
 極めて具体的かつ稚拙めかした言い方ではあるが、「終わる三月始まる四月」は大変宜しい表現である。
 評者・鳥羽省三は作者・小島節子さんに「はなまる」を差し上げます。
  〔返〕 消さないでおきたい落書き一つあり明日からここに新入生が   鳥羽省三


○ 地方紙のおくやみ欄に載る名前知らぬ人なし奥飛騨の町  (高山市) 松田繁憲

 「地方紙」の目玉記事は、「おくやみ欄」と「お誕生おめでとう欄」である。
 そのうちの「お誕生おめでとう欄」に記載されているお名前の大半は、漢字の音訓とそのお名前の<よみ>とが一致しない、まるで国籍不明のようなお名前なのであるが、「おくやみ欄」に見られるご氏名は、例外的な少数を除いて、漢字の音訓表に則った古典的なご氏名であり、地付きの人々にとってはすっかりお馴染みのご氏名なのである。
 思うに、本作の作者の松田繁憲さんは、地元の名士であり、生き字引なのかも知れません。
 だとすればこそ、「おくやみ欄に載る名前」の中で、松田繁憲さんが「知らぬ人」は「なし」なのである。
  〔返〕 知らぬ名も読めぬ名も無き<お悔やみ欄>だけに身を入れしみじみと読む   鳥羽省三


○ 雑貨屋も書店も消えしこの島にコンビニが来て夜を連れ去る  (西海市) 原田 覺

 「夜を連れ去る」が宜しい。
 それまでは安息の時間帯であったものが、終夜営業のコンビニの灯りによって奪われてしまうのである。
  〔返〕 煌々と夜を灯せるコンビニの中に紛れて鬱を飼ひ居り   鳥羽省三


○ 大荒れの春一番に雪崩たる三角山は山肌さらす  (湯沢市) 佐藤亮子

 一首全体が、ただの説明に終始しているなど、とり立てて優れた箇所が在るわけでも無い作品ではあるが、作者の居住地「湯沢市」と、作中の「三角山」に馴染みを感じたので選ばせていただいた。
  〔返〕 きぞ一夜吹き荒れにける春一番 三角山は雪崩れ曝せる   鳥羽省三


○ 学生と間違へられてしまひけり講師としてはなほぎこちなく  (奈良市) 杉田菜穂

 それなりの努力はしているが、「なほぎこちなく」なのである。
 学期始めの講義では、新米女性講師の、その「ぎこちなさ」が意外に好評を博すものである。
 しかし、その「ぎこちなさ」のままでは、そのうちに性質の良くない学生たちになめられてしまい、授業妨害やポイコットどころか、セクハラまでされてしまう危険性がある。
 今が肝心。
 ただ今が肝心要のカンカン肝臓なのである。
 その「ぎこちなさ」を愛情と威厳に変え、良い講義をするようになって下さい。
  〔返〕 学生と間違えられるのも手の内だ幼顔して実のある講義   鳥羽省三


○ 弥生十三日今朝の原発霧ふかくコミュニティバス客なく走る  (福井県) 大谷静子

 乗客無しの「コミュニティバス」を、「霧」が「ふかく」かかっている早朝から走らせているのは、いかにも「原発」の町ならではの事である。
 「今朝の原発霧ふかく」と言うのも、何やら謎めいていて深みがある。
 「弥生十三日」は金曜日なのかも知れない。
  〔返〕 霧深く未だ見えざる原子炉の方より響く怪しい霧笛   鳥羽省三


○ 毎日が旅立ちだから通勤のホームで向かいの夫に手を振る  (枚方市) 神原佳代子

 夫婦共働きとは言え、「毎日が旅立ちだから」は少し大袈裟。
 しかし、その大袈裟がこの作品の魅力なのである。
 本作の作者・神原佳代子さんは、熱々の新婚カップルの片割れなのか?
 だとすれば、もう一方の片割れが向かい側のホームに居て、片割れ同士がお互いに暗号めかして「手」を振り合うのであるか?
  〔返〕 毎日が熱々だから別々は昼間だけとは言えど旅立ち   鳥羽省三


○ アナログとテレビ画面に表示あり地デジ買わぬと非国民みたい  (阿南市) 西田晴彦

 「非国民みたい」とは、これまたかなり大袈裟です。
 でも、NHKもかなりしつっこいことは事実である。
  〔返〕 パソコンでBSを視る手も在って地デジ元年恐くはないぞ   鳥羽省三  


○ 闇という字にも暗いという字にもある部首の音(おと)その音(ね)聴きたし  (京丹後市) 木下 務

 「闇という字」の「部首」は「もんがまえ」であり、「暗い」という語の「暗」の「部首」は「ひへん」である。
 うろ覚えの知識で短歌を作る作者も愚か者であるが、それを入選作として、天下の朝日新聞に掲載した選者は天下の大馬鹿者である。
  〔返〕 「恥を知れ、恥を」と叫ぶ父祖の声「心の花」の水枯れにけり?   鳥羽省三


○ ポシェットのひとつも持たず白鳥は大陸めざし日本海越ゆ  (鳥取県) 長谷川和子

 作者の長谷川和子さんは、バス一本で行ける鳥取市に出掛ける時でさえ「ポシェットのひとつ」や二つは持って行くのでありましょう。
 それなのに、「ポシェットのひとつも持たず」「大陸めざし日本海」を越えて行く、あの「白鳥」は何たることか、というわけでありましょう。
 「ポシェットのひとつも持たず」という上の句は、余人にはなかなか思いつかない優れた表現かと思われる。
  〔返〕 ポシェツトを首にぶら下げ北帰行 白鳥さんの優雅な旅路   鳥羽省三


○ バレンタインのチョコを頬張り雛僧は托鉢へ発つ涅槃会の朝  (東根市) 庄司天明

 「バレンタインのチョコを頬張り」と「托鉢へ発つ」とのミスマッチで笑いを取ろうとした作品のようにも思われるが、現代社会に於いては僧侶の子弟たる「雛僧」と雖も、バレンタイン・チョコを貰えたとか貰えなかったとかで一喜一憂する少年の一人に違いないから、「さもありなん」というところでありましょう。
  〔返〕 師の僧は般若湯など召し上がり雛僧連れて托鉢へ発つ   鳥羽省三 


○ みどり児を光背のごと背に負ひて寒のひと日のほのぼの温し  (佐賀市) 古賀ゆき

 「光背のごと背に負ひて」が抜群である。
 合計特殊出生率が<1・3>以下の数字で推移する、昨今の日本社会なればこその一首なのである。
  〔返〕 みどり児を後輩の如く扱ってビンタ食わせて平気な母も   鳥羽省三

 
○ 投げきれず棋士は天井を見上げたり五十九秒まで読まれ指す  (横浜市) おのめぐみ

 「天井を見上げた」としても、天井には何も書いてない。
 それに、残り時間一分中の「五十九秒まで読まれ」たのに尚「指す」というのは、未練以外のなにものでも無い。
  〔返〕 一分の五十九秒まで読まれても尚かつ指すとは馬鹿な棋士だよ   鳥羽省三


○ 早咲きの桜は不思議な場所に咲く倉庫の脇や資材置き場や  (東京都) 野上 卓

 「早咲きの桜」が「倉庫の脇や資材置き場」などの「不思議な場所に咲く」という発見が素晴らしい。
 そう言われてみればその通りであるような感じで、極めて説得力のある表現と思われる。
  〔返〕 甲州の身延の寺の汲み取りのトイレから見た枝垂桜よ   鳥羽省三 


○ 神様に借りたるものをひとつづつ返すことなり老いるというは  (大和市) 水口伸生

 「神様に借りたるもの」の中でも、その最たるものは寿命である。
 死への階梯は、その最たるものを年賦償還して行く階梯であろうか?
  〔返〕 神様に借りたる物の一つにてこの清冽な我の面貌   鳥羽省三


○ 老いるとは春の無辺にあそぶことゲートボールの人々しずか  (和泉市) 長尾幹也

 これもまた真なり。
 「春の無辺」の中を「人々」が「しずか」に「ゲートボール」に興じている光景は、通院の帰りなどに、私もしばしば目にする光景である。
  〔返〕 見とれてるばかりでやれぬ光景の一つとしてのゲートボールよ   鳥羽省三


○ ひそやかに位牌伴う船旅と海に入りゆく夕陽見て言う  (岡山市) 小林道夫

 「海に入りゆく夕陽」を見ながら、本作の作者に「ひそやかに位牌伴う船旅」と言った人は、どんな人だったのでしょうか?
 女性だろうか?
 男性だろうか?
 「位牌」に記されている戒名は?
 物語的な奥行きと広がりを備えた傑作である。
  〔返〕 胸元に位牌抱えて瀬戸内に沈む夕陽を見入る船旅   鳥羽省三


○ きっかけを逃せば二度と訊けないということもある 春に降る雪  (横浜市) 原田彩加

 「きっかけを逃せば二度と訊けないということもある」という上の句と「春に降る雪」という下の句とのバランスが絶妙である。
 この両者は、関わりがあるとも無いとも思われる、希薄にして濃厚な関係である。
 短歌観賞の楽しみは、そのバランスを計り、その間隙を埋めて行く楽しみである。
  〔返〕 きっかけを逃したままで逢えぬ人 春降る雪にしみじみ思う   鳥羽省三


○ 排卵は五百余といふヒトの女(め)の一生(ひとよ)に吾子をふたり賜はる  (神奈川県) 加藤三春

 女性の排卵個数が「五百余」でしかないとは、私にとっての新知識である。
 その「五百余」でしかない卵子に精子を的中させることは、まさに神業である。
 となると、私も私の二人の子供たちも神業によって生まれた、ということになる。
 生まれた命を大切にしなければならない所以が此処に在る。
  〔返〕 吉凶のいずれの神かは知らねども五百に一個の命なりけり   鳥羽省三
 

○ 蝶々の標本のごと飾られて火野葦平の従軍手帳  (福岡市) 松尾あのん

 「芥川龍之介展」や「斉藤茂吉展」などの文学者展で、対象作家の通信簿などが見開き状態で展示されているのを数回見たことがあるが、そのいずれもが、「蝶々の標本のごと飾られて」いたので、私は、本作の表現を極めてリアルに感じたのである。  
 「火野葦平」と言えば『麦と兵隊』などで名を馳せた作家である。
 その彼の「従軍手帳」というのは、将に圧巻至極の見ものである。
  〔返〕 浪人か御家人の如き顔をして徳川慶喜のスナップ写真   鳥羽省三  


○ 通勤のバスに異例の客一人若き力士の春場所通い  (高槻市) 奥本健一

 ごく希には、ママチャリに乗って本場所入りする力士もいると言う。
 可愛そうなのは、体重百五十kg超の力士に乗られたママチャリである。
  
  〔返〕 登戸の川崎市立病院で出会った力士は時天空だ   鳥羽省三
 この返歌に詠んだ内容は、実体験に基づいたものです。
 それ以来、我が家では時天空を「登戸山」と名付けてテレビ桟敷で応援しています。  

『NHK短歌』観賞(今野寿美選・4月4日放送)

2010年04月04日 | 今週のNHK短歌から
○ 砂浜の半ばに草はとだえたりここより先は潮の領分  (徳島市) 荒津憲夫

 波打ち際ぎりぎりまで草が生えているのであろう。
 私もこの作品に詠まれたのと同じような風景に接したことがあるが、渚ぎりぎりに生えている草も、他の場所に生えている草も似たような草であった。
 とすると、この一首には、一口に雑草と呼ばれる種類の草たちの環境適応能力の高さが詠われていることにもなるのだ。
 草が「ここより先が草の領分」と主張すれば、潮は潮で「ここより先は潮の領分」と主張して、互いに一歩も譲らないのである。
 「ここより先は潮の領分」とは、言いも言ったり。
 本作の作者の荒津憲夫さんは、砂浜で展開されている、草と潮との陣地争いを詠んでいるように見せ掛けてはいるが、その実、人間界のそれを皮肉っているのかも知れない。
 特選一席に相応しい傑作である。
  〔返〕 砂浜を草と潮とが棲み分けてここからこっち草の領分   鳥羽省三


○ 学校の帽子を質草(かた)に貸しくれし質屋もありて昭和は遠き  (大阪市) 池田芳昭

 特選ニ席の作品である。
 昭和が終わって十年を過ぎた辺りから、「五七五七七」の最後の「七」に、「昭和は遠き」とか「昭和なつかし」といった常套句を置いて済ますような作品が頻繁に詠まれるようになり、今となっては、寄席の「大切り」のような様相を呈して来た。
 そうした事実に目を瞑ると、この作品はそれなりの情趣と懐古の味を備えた作品であると言えるが、他に隠れるようにして、こそこそと行われている田舎の短歌会の場ならともかく、ここは「NHK短歌」という国民全体に公開されている場である。
 こうした類想歌の目立つ作品を投稿するのは、そろそろ打ち止めにしなけれはならないし、それを選ばないのが、選者の見識というものでもありましょう。
 「質草」を「かた」と読ませるのも、ふりがなの範囲を超えていると思われる。
 「かた」なら「かた」で宜しいのではありませんか?
 「質草」の別称として「かた」という言葉が在ることを知らない者にまで、この作品を理解させようとしても、それは所詮無理なのである。
  〔返〕 学帽をかたに質屋で金借りた友も居りにき昭和の青春   鳥羽省三


○ 冬ぬくく豌豆青く茂るなりジョン万次郎この地に生まる  (浅口市) 青木富子

 難破した漁師がアメリカ船に救われたというだけの話はジョン万次郎以外にも数例あるが、救われた後に渡米して英語を習得し、帰国して幕府の通弁となり、対米外交に貢献したのはジョン万次郎だけであろう。
 当時としては非常に珍しい、進取の精神と創意に富んだジョン万次郎の行動の源は、彼の心身の若さにあったのであろう。
 「冬ぬくく豌豆青く茂るなり」という上の句は、「ジョン万次郎」の生地の土佐清水を象徴すると共に、ジョン万次郎の若さと逞しさをも象徴するものであろう。
 特選三席の作品である。
  〔返〕 いさなとり土佐の清水の万次郎陸に上がりて通弁となる   鳥羽省三 
 

○ 野うさぎが右へ左へ高く跳び一瞬後は草ばかりなり  (高知県) 宮橋敏機

 「野うさぎ」の動きは素早いから、「右へ左へ高く跳び」「一瞬後は草ばかりなり」という運びとなるのである。
 動きの素早く、あっという間に姿を隠してしまう、「野うさぎ」に翻弄されている様子が、「一瞬後は草ばかりなり」に、よく表現されている。
  〔返〕 野兎は右へ左へ高く跳び跳べない人に草を掴ます   鳥羽省三  


○ よく歩き野末にねころび一服す草臥れるとはただしき言葉  (福津市) 曽有宮

 作者は、「草臥れる」という言葉の意味を実践を以って知ったのである。
  〔返〕 名代なる草餅茶屋で休息し道草食って旅程はかどらず   鳥羽省三


○ 木にあらず草なる独活は大樹への夢より覚めて身の程を知る  (佐世保市) 中元静毅

 「独活の大木」という言葉が在る。
 その独活の大木が、「木にあらず草なる」ことを「夢より覚めて身の程を知る」のであれば、それはそれで<めでたし、めでたし>という場面でありましょう。
 年の程も省みず、安物の市松人形紛いのおかっぱ頭をテレビ画面に晒している者が、何かのジャンルの選者であるならば、そのお方もまた、「夢より覚めて身の程を知る」べきではないでしょうか?
  〔返〕 受賞せし『午後の章』時は若かりき午後は午後でも今は亥の刻   鳥羽省三
 

○ かっとばせ!少年たちの草野球ここまで飛ばせと雲も待ってる  (名古屋市) 伊藤由美子

 最近の少年野球は、草一本生えていないスタンド付きの球場でやっていることもあるが、それを草野球と呼ぶのには何か違和感を感じる。
 とり立てて優れたところも無い一首ではあるが、選者も作者も女性である点を考慮すると、詠い出しを「かっとばせ!」としたあたりに幾分かの新味が感じられるのかも知れない。
  〔返〕 痩せガエル負けるな一茶ぶっとばせ!鎮守の杜の湧く草相撲   鳥羽省三 


○ 雑草のない隣の芝生なぜだろう朝の光が背中を照らす  (明石市) 上野克已

 「隣の芝生は青い」とも言う。
 その隣の芝生の青さに訝しげに見とれ、「なぜだろう」と頭を捻っている話者の「背中」を「朝の光が照らす」のである。
 自分が意識しないうちに、何かに見つめられ、何かに照らされていることを知ったときの居心地の悪さよ。
  〔返〕 「なぜ青い。芝生ばかりか妻までも」見とれる彼の頭まる禿げ   鳥羽省三  


○ 春の日を浴びて草食む反芻の牛は全く仏の顔だ  (稚内市) 藤林正則

 「春の日を浴びて草食む」と「牛は全く仏の顔だ」とを結ぶ「反芻の」が問題である。
 その前後がスケッチであり、間に挟まった「反芻の」だけはスケッチでは無く、知識によるものであろう。
 本作の作者は、「仏の顔」した「牛」が「春の日を浴びて」「草食む」様子があまりにもゆったりとしているから、「反芻の」という言葉を思いついたのではあろうが、牛のゆったりとした様は「仏の顔」という言葉で以って充分に理解されるから、スケッチから外れた「反芻の」という余計な言葉を挿入する必要は無いのではなかろうか?
  〔返〕 「反芻」が「仏」に係れば意味もある「牛」に係っただけでは無駄だ   鳥羽省三  


○ 木材に打ち込み終はる釘どれも納得の音立ててゐるなり  (横須賀市) 丹羽利一

 いわゆる「認識の歌」である。
 金槌で釘を打っている時の音が「納得の」いく「音」を「立ててゐる」のだとしたら、「終はる」とまでは言う必要が無いのかも知れない。
  〔返〕 それぞれに納得出来る音を立て釘は頭を打たれてばかり   鳥羽省三


○ 〔くさかんむり〕の下に早いと書くからに夏には我が背越えて居るらむ  (富士市) 古舘秀雄

 雑草の成長の速さを読んだ歌であり、「草」という文字の<偏>と<旁>から思いついた「認識の歌」でもある。 
 原作の冒頭に、部首としての<くさかんむり>が置かれ、その直後に、そのふりがなとして(くさかんむり)と書かれているのであるが、ブログ上では<部首>を記すことが出来ないので、〔くさかんむり〕としたので、その旨ご了解下さい。
  〔返〕 <りっとう>に<害>加えたら<割>である刀で以って害することだ   鳥羽省三
 

○ 店いっぱいタンポポの葉の売られいてギリシアの春はタンポポサラダ  (安城市) 内川 愛

 タンポポの葉が食べられるということは、『食べられる山野草』といったタイトルの書物を読んで知っていたことではあるが、日本国内に居て、「店いっぱいタンポポの葉の売られいて」という光景に出会うことはあり得ない。
 折も折、ギリシャの財政破綻が世界中の話題となっているだけに、この一首は、ギリシャという国の貧しさを詠ったものとして誤解される向きもあるだろう、などと言ったら、それは笑い話となってしまうだろう。
 要するに、「所変われば品変わる」というだけのことである。
  〔返〕 タンポポはキク科植物、キク・ヨモギ・ゴボウ・ブタクサみんなお仲間   鳥羽省三   

義母・田中禎子を悼む

2010年04月02日 | 我が歌ども
 一昨、三月三十一日の早朝、我が妻の母・田中禎子が冥界の人となった。
 宗旨寺の木翁山香最寺(曹洞宗)から賜わった法名は「娟徳院祖綴春挺大姉」である。
 享年九十一歳、法名に相応しく、焦らず迫らず、常に優しく温かく美しい生涯であった。
 ここ数年は、自宅と病院と介護施設とを往復する日常であったが、その間、我が屋に於いても、再三に亘る私の病気入院、長男の大阪への単身赴任、次男の体調不良とそれに伴っての私たち夫婦の首都圏へのUターン等など、思うだにしなかった緊急切迫した事態ばかりが続いていて、唯一の親たる者への孝行も出来得なかった。
 由って此処に、我が歌稿から彼女に関わる短歌数首を転記して、以って孝心に代えたいと思うのである。
 平成二十二年四月二日、亡き義母・田中禎子の葬儀に際して。  鳥羽省三

 ○ 挽く豆のキリマンジャロに死すべくもなき身に苦き通夜の珈琲

 ○ CDを「シイデイ」などと言ひながらバッハ聴いてたバッパも居たね

 ○ 次男坊がノラと名付けし野良猫の日がな日向に居て鳴き止まず

 ○ 春逝くや義母の手沢の小箪笥に片袖もげし裾濃縮緬

 ○ 花は風きみ鞦韆に揺られゐて義母にひと世の春闌けにけり

 ○ かくなると知らざりし故かなしかる家へと戯れし義母の彼の日は

 ○ 冥途行は突然急行 丑三つのファミリーマートの香典袋

 ○ 火葬場に骨上げを待つ一刻の心解くる閑雅な時間

 ○ 火葬場に骨上げを待つ二時間の心遣らるる懺悔の時間

 ○ 喪の家を抜けて卯月の闇に入る川瀬の音に心遊ばせ

 ○ 梅花藻の清き小花はひれ伏して役内川の水澄みにけり

 ○ 音も無く一夜降りたる春雨の上りし庭の清しさに佇つ
 
 ○ 鬼として誰にぞ義母は「かくれんぼもういいかい」と呼び掛けてるか

 ○ 年毎に人が少なくなり行きていつ訪ねてもふるさとは鄙 

 ○ 「阿ー阿ー」と声引き弱く言ふ時は下の始末を頼むの訴へ

 ○ 現世の耐へ得ぬ辛さ忍ぶごと義母の禎子は口を歪むる   

 ○ 庭見ゆる縁にしばらく休らひて長く息引き其ののち義母は

 ○ 有態に申せば頗る温かく生木に煙る炉端の如し

 ○ パンジーの花咲く庭を見下ろして今朝も二錠の鎮痛剤飲む

 ○ 小安とふ温泉の村を過ぎりにき帰省の折に義父母と共に

 ○ 胴巻きに預金通帳隠し持つ義母の秘密は妻にも言はず

 ○ みめのよき娘二人が嫁ぎ去り残る一人が病母看取れる

 ○ 娘三人次女に付けたる名は翔子われにぞ嫁して鳥羽翔子とふ
 
 ○ 病む義母のめぐりはさびし窓に置くひと鉢の花なほ散らずあれ

 ○ 病む義母のめぐりはわびし籠に盛るメロン一顆のなほ熟れずあれ

 ○ 歳月のかなた微笑むものありて吾を待てると義母は言ひにき

 ○ サチ・キミヰ・ヨネ・ハナ・ケサヨの病む部屋で義母の名前は漢字の禎子

 ○ 秋分の午後を出で来て介護所に義母らの歌ふ『ふるさと』を聴く

 ○ 蒲の穂の綿毛舞ひ飛ぶバイパスを通ひ介護の送迎車ゆく

 ○ 薔薇剪りて蚕豆炊きて経詠みて麗しきかな義母の水無月