○ グーグルで地球をぐるぐる回しおればガザの街路に車行く見ゆ (柏市) 秋葉徳雄
グーグルアースの画面で「地球をぐるぐる回し」ていたところ、たまたまその画面に、問題の地、パレスチナの「ガザ」地区が映り、その一廓の「街路」に自動車が走って行くのが見えたというのである。
グーグルアースの画面に映るのは、今のところ静止画像だけであるから、作中の「車行く見ゆ」という表現は<勇み足>的な表現だと言わざるを得ないが、「街路」を走っている自動車そのものは映るし、角度によっては運転者の顔形なども見えたりすることは確かである。
ガザ地区の広さは約三百六十平方キロメートル、その狭い中に約百五十万人の人々が犇いていて、その三分の二はパレスチナ難民及びその子孫であると言う。
したがって、作中の「車」の中にはパレスチナ難民が乗っているかも知れなく、その頭上には、イスラエルのロケット弾がいつ降って来るかも分からないのである。
本作の作者・秋葉徳雄さんは、そのことを充分に想定なさった上で本作をお詠みになったのであり、そうしたことをリアルに想像させるからこそ、この作品が朝日歌壇の入選作となっているのであり、また、この私がそれについての云々を記しているのである。
〔返〕 ガザ地区の街路に停めし車から今しも降りむブルカの娘 鳥羽省三
○ この次は生きて居るかはわからんと言うも明るく御柱曳く (飯田市) 草田礼子
諏訪大社の御柱祭は六年に一度の神事である。
したがって、次の「御柱曳」きは、今から六年後ということになる。
作中の「この次は生きて居るかはわからんと言うも明るく御柱曳く」人物は、なかりのご高齢者であるにも関わらず、「ここ一番、お諏訪様の氏子の気概を見せん」として、御柱曳きに参加したのでありましょう。
〔返〕 この次もそのまた次も生きていてお諏訪大社の御柱曳け 鳥羽省三
○ 喪の家の窓より見ゆる漁火のひとつも消えて通夜も終りぬ (八戸市) 山村陽一
「ひとつも消えて」という措辞が味噌である。
「喪の家の窓」からは、日が暮れると同時に、幾つもの「漁火」が見えていたのであるが、やがて夜が更けるにつれて、それらが次々に消えて行き、最後に残った「ひとつも消えて」しまった頃には、「通夜」の行事も終りになってしまった、というのである。
明日には黄泉路へ旅立とうとする人の亡骸の番をする遺族たちにとっては、「家の窓より見ゆる」幾つかの頼りない漁火だけが心の支えであったに違いない。
やがて、時間の経過と共に、「通夜」の客たちも次第に少なくなり、それに伴って「漁火」の数も少なくなって行き、今となっては、最後まで残っていた「漁火のひとつ」も消えてしまい、死者の縁者だけ数人が闇の底に取り残されてしまったのである。
消えて行ってしまった人間の命と窓からの見えていた漁火との対比であり、赤と黒の世界である。
〔返〕 不釣合いなドレス纏ひて訪れし通夜の客へと注げる視線 鳥羽省三
○ 「孤独とはこんな物か」とため息し痛める肩に膏薬を貼る (箕面市) 田中令三
「膏薬」という言葉は、前時代の遺物とも思われる。
したがって、その「膏薬」を「痛める肩に」「貼る」時に、「『孤独とはこんな物か』とため息」を吐くというのも、充分に納得が行く。
〔返〕 「吉野とはこんなとこか」とふらつきて西行庵への山坂登る 鳥羽省三
去る4月21日、私は、折りからの雨の中を吉野山の西行庵を詣でて来ました。
下千本、中千本、上千本、奥千本と、吉野山名物の桜も既に葉桜。
篠突く雨の中を泥濘に足を取られながら、桜を見ないで馬鹿を見て来ました。
〔返〕 これはこれはとばかりの雨の吉野山 桜は見ずに足元を見る 鳥羽省三
○ かたくりは踏みしだかれて哀れなり山菜とりはぜんまい目当て (小山市) 内山豊子
今は亡き釈迢空の作「葛の花 踏みしだかれて、 色あたらし。 この山道を行きし人あり」は、人も知る近代短歌の名作である。
本作は、その名作から、二句目だけを借用し、その趣きを抒情から、社会批評歌風、狂歌風に転換した作品である。
「かたくり」と言えば、都会人にとっては幻の花といった感じの花ではあるが、「ぜんまい目当て」の「山菜とり」にとっては、ぜんまいの生えている場所に急ぐ時に、踏みしだいて行くしかないあだ花なのである。
〔返〕 踏みしだくシラネアオイに見惚れつつ山菜採りは道に迷ひぬ 鳥羽省三
○ ぜったいに腐らぬものを日々食べて腐った味を知らぬあやうさ (鎌ヶ谷市) 正治伸子
現代社会の子供たち、いや、立派な大人まで、彼ら彼女らは、「腐った味」というものを知らない。
そうした彼らの知識と経験の浅さは「ぜったいに腐らぬものを日々食べて」いることから必然的に生じたものであり、それは、彼ら、彼女らの生活に「あやうさ」を与えていると言うのである。
さもありなん。
〔返〕 低カロリー甘さ控えの菓子求めデパ地下売り場に蝟集する主婦 鳥羽省三
○ 白梅にひらひらと雪降ってゐる進む時間にとどまる時間 (熊谷市) 内野 修
「進む時間にとどまる時間」という下の句を解釈する際に、「白梅にひらひらと雪降ってゐる」という上の句の措辞とそれとを必要以上に接近させて解釈してしまうと、この一首に詠まれた世界を誤解してしまうことになる。
この一首の内容は、話者が「白梅にひらひらと雪」が「降ってゐる」風景の中に佇みながら、時間の進行に流されているような、静止した時間の底に取り残されているような不思議な感覚に陥っている、といったところで充分なのである。
〔返〕 木蓮がちらちらと散る昼下がり死へと私は急かされている 鳥羽省三
グーグルアースの画面で「地球をぐるぐる回し」ていたところ、たまたまその画面に、問題の地、パレスチナの「ガザ」地区が映り、その一廓の「街路」に自動車が走って行くのが見えたというのである。
グーグルアースの画面に映るのは、今のところ静止画像だけであるから、作中の「車行く見ゆ」という表現は<勇み足>的な表現だと言わざるを得ないが、「街路」を走っている自動車そのものは映るし、角度によっては運転者の顔形なども見えたりすることは確かである。
ガザ地区の広さは約三百六十平方キロメートル、その狭い中に約百五十万人の人々が犇いていて、その三分の二はパレスチナ難民及びその子孫であると言う。
したがって、作中の「車」の中にはパレスチナ難民が乗っているかも知れなく、その頭上には、イスラエルのロケット弾がいつ降って来るかも分からないのである。
本作の作者・秋葉徳雄さんは、そのことを充分に想定なさった上で本作をお詠みになったのであり、そうしたことをリアルに想像させるからこそ、この作品が朝日歌壇の入選作となっているのであり、また、この私がそれについての云々を記しているのである。
〔返〕 ガザ地区の街路に停めし車から今しも降りむブルカの娘 鳥羽省三
○ この次は生きて居るかはわからんと言うも明るく御柱曳く (飯田市) 草田礼子
諏訪大社の御柱祭は六年に一度の神事である。
したがって、次の「御柱曳」きは、今から六年後ということになる。
作中の「この次は生きて居るかはわからんと言うも明るく御柱曳く」人物は、なかりのご高齢者であるにも関わらず、「ここ一番、お諏訪様の氏子の気概を見せん」として、御柱曳きに参加したのでありましょう。
〔返〕 この次もそのまた次も生きていてお諏訪大社の御柱曳け 鳥羽省三
○ 喪の家の窓より見ゆる漁火のひとつも消えて通夜も終りぬ (八戸市) 山村陽一
「ひとつも消えて」という措辞が味噌である。
「喪の家の窓」からは、日が暮れると同時に、幾つもの「漁火」が見えていたのであるが、やがて夜が更けるにつれて、それらが次々に消えて行き、最後に残った「ひとつも消えて」しまった頃には、「通夜」の行事も終りになってしまった、というのである。
明日には黄泉路へ旅立とうとする人の亡骸の番をする遺族たちにとっては、「家の窓より見ゆる」幾つかの頼りない漁火だけが心の支えであったに違いない。
やがて、時間の経過と共に、「通夜」の客たちも次第に少なくなり、それに伴って「漁火」の数も少なくなって行き、今となっては、最後まで残っていた「漁火のひとつ」も消えてしまい、死者の縁者だけ数人が闇の底に取り残されてしまったのである。
消えて行ってしまった人間の命と窓からの見えていた漁火との対比であり、赤と黒の世界である。
〔返〕 不釣合いなドレス纏ひて訪れし通夜の客へと注げる視線 鳥羽省三
○ 「孤独とはこんな物か」とため息し痛める肩に膏薬を貼る (箕面市) 田中令三
「膏薬」という言葉は、前時代の遺物とも思われる。
したがって、その「膏薬」を「痛める肩に」「貼る」時に、「『孤独とはこんな物か』とため息」を吐くというのも、充分に納得が行く。
〔返〕 「吉野とはこんなとこか」とふらつきて西行庵への山坂登る 鳥羽省三
去る4月21日、私は、折りからの雨の中を吉野山の西行庵を詣でて来ました。
下千本、中千本、上千本、奥千本と、吉野山名物の桜も既に葉桜。
篠突く雨の中を泥濘に足を取られながら、桜を見ないで馬鹿を見て来ました。
〔返〕 これはこれはとばかりの雨の吉野山 桜は見ずに足元を見る 鳥羽省三
○ かたくりは踏みしだかれて哀れなり山菜とりはぜんまい目当て (小山市) 内山豊子
今は亡き釈迢空の作「葛の花 踏みしだかれて、 色あたらし。 この山道を行きし人あり」は、人も知る近代短歌の名作である。
本作は、その名作から、二句目だけを借用し、その趣きを抒情から、社会批評歌風、狂歌風に転換した作品である。
「かたくり」と言えば、都会人にとっては幻の花といった感じの花ではあるが、「ぜんまい目当て」の「山菜とり」にとっては、ぜんまいの生えている場所に急ぐ時に、踏みしだいて行くしかないあだ花なのである。
〔返〕 踏みしだくシラネアオイに見惚れつつ山菜採りは道に迷ひぬ 鳥羽省三
○ ぜったいに腐らぬものを日々食べて腐った味を知らぬあやうさ (鎌ヶ谷市) 正治伸子
現代社会の子供たち、いや、立派な大人まで、彼ら彼女らは、「腐った味」というものを知らない。
そうした彼らの知識と経験の浅さは「ぜったいに腐らぬものを日々食べて」いることから必然的に生じたものであり、それは、彼ら、彼女らの生活に「あやうさ」を与えていると言うのである。
さもありなん。
〔返〕 低カロリー甘さ控えの菓子求めデパ地下売り場に蝟集する主婦 鳥羽省三
○ 白梅にひらひらと雪降ってゐる進む時間にとどまる時間 (熊谷市) 内野 修
「進む時間にとどまる時間」という下の句を解釈する際に、「白梅にひらひらと雪降ってゐる」という上の句の措辞とそれとを必要以上に接近させて解釈してしまうと、この一首に詠まれた世界を誤解してしまうことになる。
この一首の内容は、話者が「白梅にひらひらと雪」が「降ってゐる」風景の中に佇みながら、時間の進行に流されているような、静止した時間の底に取り残されているような不思議な感覚に陥っている、といったところで充分なのである。
〔返〕 木蓮がちらちらと散る昼下がり死へと私は急かされている 鳥羽省三