ブログ「黒田英雄の安輝素日記」の去る8月11日の記事は、「『短歌人』八月号・会員欄秀歌選」であったので、気の赴くままに寸評を試みてみたい。
○ あたたかい暗闇われはうつとりと死をば思へり死はあたたかい 大室ゆらぎ
「あたたかい暗闇」というショッキングな詠い出しで以って、作者の大室ゆらぎさんは、選者の黒田英雄氏を彼女自身が敷いた陥穽に転落させてしまったのである。
しかし、この場合、私たちは、黒田英雄氏のうかつさを必ずしも責めてはなりませんし、それよりも、むしろ大室ゆらぎさんの敷いた陥穽の完成度の高さを誉めるべきである。
かくして、「死」への誘いは、必然的に温かさを伴うのでありましょうか?
〔返〕 温かい暗闇われは一本のマッチを購ひて秘処見つめをり
○ 老いたれば老いたるままに友歌う「マイボニー」の唄に惻惻として 榊原トシ子
作中の「マイボニー(My Bonnie)」とは、元々はスコットランド民謡であるが、ドイツの人気歌手「トニー・シェリダン(Tony Sheridan)」が、デビュー前の「ザ・ビートルズ」をバックバンドにして現代風にアレンジして歌い、1962年にポリトールレコード社からリリースされた、とのこと。
本作の作者・榊原トシ子さんは、ご自身の「老いたる」「友」が「老いたるままに」「歌う」この曲に、「惻惻として」胸に迫る思いを感じながら耳を傾けたのでありましょう。
ところで、彼の黒田英雄氏が、この一首を秀歌選に加えたのは、その物語的な内容もさる事ながら、元々は地味なスコットランド民謡に過ぎなかった「My Bonnie」を、デビュー前の「ザ・ビートルズ」をバックバンドとして従え、ドイツ人のトニー・シェリダンが歌ったという、題材となったこの曲、即ち「マイボニー(My Bonnie)」の来歴に興味を持ったからでありましょう。
〔返〕 老いたれば老いたるままに耳にするフォレスタ歌う「故郷の廃家」
○ 気取り屋の猫のミミコもいなくなり窓はいちめん夕焼けになる 橋本明美
いわゆる「歌人ちゃん」の詠んだ軽口めいた作風ながらも、一首全体に物語の奥行きが感じられる佳作である。
「気取り屋の猫のミミコもいなくなり」などと、いきなし橋本明美さんに言われると、件の「猫のミミコ」と彼女との抜き差しならぬ関係さえも想像されて、評者の私は、パソコンのキーを叩く手を休め、しばし呆然として「窓」「いちめん」に映える「夕焼け」空を眺め入ってしまうのである。
〔返〕 爾後美女は猫飼ふ事も無かりけり窓一面に映ゆる夕焼け
○ ミルクティーのミルクは薄い膜となる君は静かに怒りを語る 野上 卓
「『君』が『静かに』私に向けて『怒り』の思いを『語る』ので、私としては卓上の『ミルクティー』に手を出す訳には行かなったのであるが、その間に、件の『ミルクティーのミルクは薄い膜』を作ってしまったが、その始末を『君』はどう付けて呉れるのだ!」という訳でありましょうか?
否、あの人格者の野上卓さんのことであるから、「その始末を『君』はどう付けて呉れるのだ!」とまでは言わなかったのかも知れません?
ところで、「ミルクティーのミルク」が「薄い膜」になってしまうのは「ラムスデン現象」と言って、40℃以上に熱せられたミルクが空気に触れることに拠って、表面の水分だけが蒸発し、ミルクの主成分であるタンパク質や脂肪分が固まって膜状になるのである。
こうした現象は、大豆を擂り潰して作った生呉を温めて湯葉を作る際にも生じる現象であり、その皮膜自体は毒ではありませんから、本作の作者の野上卓さんに於かれましては、京都の老舗旅館で湯葉料理を食するつもりで、ご賞味なさったら如何でありましょうか(笑)
但し、相手の女性から、「私がこんなにも怒りを感じているのに、作者の貴方は、ミルクティーのミルクの皮膜を舌なめずりして食べているなんて許せない!私はこの劇の主役から下りさせていただきますから、野上さんも覚悟しておきなさいよ!」などと逆襲される恐れもありますから、何卒、お覚悟の程を!
それにしても、戯作者稼業も決して楽ではありませんね。
〔返〕 ミルクティーのミルクの皺の如くにも目尻の皺の目立つ女優よ
作者の野上卓さんは、恐らくは頑健に否定されることでありましょうが、本作に示されている人間関係は、老残の劇作家と年増女優との醜悪な関係であり、その醜悪性の度合いは、彼と彼女とが目前にしている、冷え切ってしまい、表面のミルクが固まってしまった、卓上のミルクティーよりも濃いのかも知れません。
○ この顔で永らく生きて来たのかとしみじみ鏡の前に立つ朝 中島敦子
前掲の野上卓さん作に登場する「君」を巡っての後日談でありましょうか?
〔返〕 この顔でこの面相で主役など張れる訳など無かったはずだ
○ 元気だと子に電話する慣習をいつしか忘れ子も忘れをり 中島敦子
それで宜しいのです。
親子関係とは、常にそうした冷ややかで静かな関係にならなければ本物とは言えません。
〔返〕 子も忘れ親も忘れてしまったら「おれおれ詐欺」に遭う事は無し
○ 自販機に何度入れても出てきちゃう十円玉は僕なんですよ 木嶋章夫
必ずしも贋物では無くても、「自販機に何度入れても出てきちゃう十円玉」というものは存在するものである。
本作の作者の木嶋章夫さんは、自らの行状を省みて、その「十円玉は僕なんですよ」と迄、情け無い事を仰るのである。
木嶋章夫さんよ、件の「十円玉」みたいな存在は、決して決して貴方だけに限った事ではありませんよ!
かく申す私だって、時には「自販機」にさえも受け入れて貰えない「十円玉」のような心境になってしまうのですよ!
〔返〕 自販機が受け入れ拒否する十円玉君こそ時代の良きテロリスト
○ 白きゆえしろき暗部のだそちゆく入道雲に真向いており たかだ牛道
本作の作者のたかだ牛道さんは、物事の本質を良く弁えて居られる御仁である。
本作の前半部の「白きゆえしろき暗部のだそちゆく」の叙述こそは、まさしく達観とも謂うべきものである。
〔返〕 黒きゆえ黒き仲間を寄せたがる安倍内閣の改造人事
○ 人生に遅刻はあらずベランダの苦瓜観察日記したたむ 清郷はしる
でも、こんなにまで秋風が涼しく感じられるのでは、これからの収穫を期待する事は出来ないと思われますが、如何でありましょうか?
我が家の表庭の苦瓜の棚は先日撤去してしまい、その後に法蓮草の種でも蒔こうかと思って、私はその下準備として、今朝、苦土石灰を散布したところでありました。
〔返〕 人生を早退せむと思ひしもしがらみ多くて決断出来ず
○ ちりんちんキャンデー売りの通る道三年通ひし分校もない 工藤重雄
今どき、あんた、「キャンデー売り」など来るわけ無いでしょう!
それに「緊縮財政」の必要性が声高に叫ばれている昨今に於いては、三年通ったって、六年通ったって、「分校」など在るわけがないでしょう!
時節柄を弁えて居りさえすれば、そんな事はいとも容易く解るわけでありましょう!
懐旧に耽っている輩は、安倍内閣の時勢下に於いては、生きて居られませんよ!
反省しなさい!反省を!
〔返〕 一度でも勝ったこと無きチンチロリン キャンデー売りでもしようかしらん
○ あさぼらけ名残りの月に夢をみしこのかぜもまた森へつながる 宮澤麻衣子
選者・黒田英雄氏の学識コンプレックスが因を為しての選歌ミスかも知れませんが、「あさぼらけ」という先人の手垢に塗れた発語で以って歌い起こされた一首が、「あさぼらけ⇒名残りの月に⇒夢をみし⇒このかぜもまた⇒森へつながる」と、綿々として繋がって行く点に着目すれば、それなりの物語性が感得され、作者の宮澤麻衣子さんの為すところの無き暮らし向きが覗われるのである。
〔返〕 あさぼらけ名残の夢も見厭きたり古い急須で新茶を煮るな
○ 怠けると決めた日曜午後五時半一番搾りの喉ごし足りず 羽入田美雪
「一番搾り」と言えば、一応はビールである。
〔返〕 怠けると決めた日曜なればこそ一番搾りの喉越しの悪し
○ ロバにしか通れぬ道の数多あり重き荷を負い人に沿い行く 村井かほる
「重き荷を負い人に沿い行く」を「重き荷を負い安倍に沿い行く」としたら、満点官房相の悪口を言った事になりましょうか?
〔返〕 馬鹿にしか通れぬ道も数多あり解釈改憲絶対反対
○ 米粒詰草十センチほどの草がゆれとかげの通る道があるらし 田平子
作中の「米粒詰草」とは、「マメ科シャジクソウ属の一年草で、ヨーロッパから西アジアが原産の帰化植物であり、我が国には明治末期に渡来した」とか。
本作の作者は、その「米粒詰草」のわずかに「十センチほどの草」が揺れているのを見て、「とかげの通る道があるらし」と、突拍子も無い推測をしているのである。
〔返〕 草の葉が揺れたら其処に風がある蜥蜴の通る道では無いよ!
○ 思ふさま耐へたら天を仰げよと夢にでて死者は明日を語れる 佐藤綾華
「天を仰ぐと、其処にお迎えの雲が浮かんでいる」とでも、言いたいのでありましょうか? 〔返〕 遠天を流れる雲に命無く斎藤茂吉とそっくり同じ
○ 痩せてゆく家族三人 見てくれで落とすということ確かにあらん 栄田一平
今更に何を仰るんですか?
民放でもNHKでも、女性アナウンサーは、「見てくれ」が悪ければ、頭がいくら良くたった採用されないのですよ!
〔返〕 痩せている力士序二段「光源治」体重69kgしか無い
肥えている力士「大露羅」最巨漢体重271kg
○ 踏み場もなく散らばつてゐる悲しみにたたずむほかはなくなりし部屋 桑原憂太郎
本作の作者は、「題詠マラソン」でお馴染みの桑原憂太郎さんである。
桑原憂太郎さんと言えば、昨年度末まで、北海道の特別支援学校で児童生徒の教育指導に当られていた教育者である。
その教育者・桑原憂太郎先生が、「踏み場もなく散らばつてゐる悲しみにたたずむほかはなくなりし部屋」と悲しげにお詠みになって居られるのであるが、是は、桑原憂太郎先生のマンションに、かつての教え子さんたちが勝手に上がり込んでいたという事実に取材した作品でありましょうか?
〔返〕 先生のマンションなれば上がり込み滅多矢鱈に散らかす児童
○ 三間(サンマ)とは時間、空間、仲間なり子どもの巡りに欠けて久しく 長田貞子
本作も亦、教育の荒廃を嘆き悲しんでいる一首であるが、前述の桑原憂太郎さん作とは異なり、児童生徒に注ぐ教育者としての温かい眼差しはあんまり感じられず、ただひたすらに我が国の学校教育の無策振りに対して、慨嘆の眼差しを注いでいるだけの作品である。
〔返〕 三間とは間抜け、間男、間借り人、間抜け亭主は間男される
間男をする奴決って間借り人 間抜け亭主の妻に間男
○ 目を閉じて耳に入りし鳥の声同じ調べはないと思えり 田所 勉
黒田英雄氏の選歌力に疑問を感じざるを得ない一首である。
先ず何と言っても、二句目の一字足らずに拠って生じたリズムの悪さである。
次に、「耳に入りし」の「し」、「ないと思えり」の「り」と、肝心要の場面に於いては、文語の助動詞を用いながらも、一首全体を「歴史的仮名遣ひ」で表記しなかった点である。
また、その発想にも「耳に入りし鳥の声」に「同じ調べはない」と指摘した点以外には、格別に目新しさは感じられません。
斯くの如き三拍子揃っての凡作を敢えて「秀歌選」の一首として選定した、選者・黒田英雄氏の選歌力が問われる場面でありましょうか?
〔返〕 今朝われの耳朶に浸み入る鶯の同じ調べに鳴くことは無し
○ ペディキュアの似合う素足のしろじろと梅雨の歩道に赤き爪冴ゆ 伊藤直子
一首の意は「『ペディキュアの似合う素足』が『しろじろ』として『梅雨の歩道』を渡って来るのであるが、その『しろじろ』とした『素足』の先には、『赤き爪』が冴え冴えと輝いているのである」といったところでありましょうか?
だとしたら、本作の作者の伊藤直子さんは、「素足」の同性と言うよりも、むしろその「素足」そのものにすっかり惚れてしまったのかも知れません。
「ホモセクシュアリティ(homosexuality)」、即ち「同性愛」という言葉は、こうした事態を指摘する際にも、用いる事が可能な言葉でありましょうか?
世の識者諸氏に訊ねたい場面ではある。
〔返〕 「生足」と言うべき場面で「素足」と言う作者の語感はかなり古いぞ!
○ 表情を読むロボットが現れてつぎ現れるだろう空気読むのが 小林惠四郎
そうかも知れませんし、そうでないかも知れません。
と言うのは、相手の「表情を読む」場合とは異なり、その場の「空気」を「読む」場合は、また一段と高等な知能とテクニックを要するからである。
その段差は、幾何級数的なレベルのものであり、せいぜい算術頭でしかない、現代社会の「ロボット」製作者たちの頭では対応する事が不可能なことと思われるのである。
〔返〕 表情を読むロボットは一次元空気を読むロボットは異次元に住む
○ いつしかに人間嫌ひさう云へば嫌はれてゐるほつとして老々 坂井あゆみ
高齢者特有の「僻み根性」乃至は「開き直り」から出た一首でありましょうか?
〔返〕 最初から嫌われているお婆さん僻み言葉も休み休み言え
○ あたたかい暗闇われはうつとりと死をば思へり死はあたたかい 大室ゆらぎ
「あたたかい暗闇」というショッキングな詠い出しで以って、作者の大室ゆらぎさんは、選者の黒田英雄氏を彼女自身が敷いた陥穽に転落させてしまったのである。
しかし、この場合、私たちは、黒田英雄氏のうかつさを必ずしも責めてはなりませんし、それよりも、むしろ大室ゆらぎさんの敷いた陥穽の完成度の高さを誉めるべきである。
かくして、「死」への誘いは、必然的に温かさを伴うのでありましょうか?
〔返〕 温かい暗闇われは一本のマッチを購ひて秘処見つめをり
○ 老いたれば老いたるままに友歌う「マイボニー」の唄に惻惻として 榊原トシ子
作中の「マイボニー(My Bonnie)」とは、元々はスコットランド民謡であるが、ドイツの人気歌手「トニー・シェリダン(Tony Sheridan)」が、デビュー前の「ザ・ビートルズ」をバックバンドにして現代風にアレンジして歌い、1962年にポリトールレコード社からリリースされた、とのこと。
本作の作者・榊原トシ子さんは、ご自身の「老いたる」「友」が「老いたるままに」「歌う」この曲に、「惻惻として」胸に迫る思いを感じながら耳を傾けたのでありましょう。
ところで、彼の黒田英雄氏が、この一首を秀歌選に加えたのは、その物語的な内容もさる事ながら、元々は地味なスコットランド民謡に過ぎなかった「My Bonnie」を、デビュー前の「ザ・ビートルズ」をバックバンドとして従え、ドイツ人のトニー・シェリダンが歌ったという、題材となったこの曲、即ち「マイボニー(My Bonnie)」の来歴に興味を持ったからでありましょう。
〔返〕 老いたれば老いたるままに耳にするフォレスタ歌う「故郷の廃家」
○ 気取り屋の猫のミミコもいなくなり窓はいちめん夕焼けになる 橋本明美
いわゆる「歌人ちゃん」の詠んだ軽口めいた作風ながらも、一首全体に物語の奥行きが感じられる佳作である。
「気取り屋の猫のミミコもいなくなり」などと、いきなし橋本明美さんに言われると、件の「猫のミミコ」と彼女との抜き差しならぬ関係さえも想像されて、評者の私は、パソコンのキーを叩く手を休め、しばし呆然として「窓」「いちめん」に映える「夕焼け」空を眺め入ってしまうのである。
〔返〕 爾後美女は猫飼ふ事も無かりけり窓一面に映ゆる夕焼け
○ ミルクティーのミルクは薄い膜となる君は静かに怒りを語る 野上 卓
「『君』が『静かに』私に向けて『怒り』の思いを『語る』ので、私としては卓上の『ミルクティー』に手を出す訳には行かなったのであるが、その間に、件の『ミルクティーのミルクは薄い膜』を作ってしまったが、その始末を『君』はどう付けて呉れるのだ!」という訳でありましょうか?
否、あの人格者の野上卓さんのことであるから、「その始末を『君』はどう付けて呉れるのだ!」とまでは言わなかったのかも知れません?
ところで、「ミルクティーのミルク」が「薄い膜」になってしまうのは「ラムスデン現象」と言って、40℃以上に熱せられたミルクが空気に触れることに拠って、表面の水分だけが蒸発し、ミルクの主成分であるタンパク質や脂肪分が固まって膜状になるのである。
こうした現象は、大豆を擂り潰して作った生呉を温めて湯葉を作る際にも生じる現象であり、その皮膜自体は毒ではありませんから、本作の作者の野上卓さんに於かれましては、京都の老舗旅館で湯葉料理を食するつもりで、ご賞味なさったら如何でありましょうか(笑)
但し、相手の女性から、「私がこんなにも怒りを感じているのに、作者の貴方は、ミルクティーのミルクの皮膜を舌なめずりして食べているなんて許せない!私はこの劇の主役から下りさせていただきますから、野上さんも覚悟しておきなさいよ!」などと逆襲される恐れもありますから、何卒、お覚悟の程を!
それにしても、戯作者稼業も決して楽ではありませんね。
〔返〕 ミルクティーのミルクの皺の如くにも目尻の皺の目立つ女優よ
作者の野上卓さんは、恐らくは頑健に否定されることでありましょうが、本作に示されている人間関係は、老残の劇作家と年増女優との醜悪な関係であり、その醜悪性の度合いは、彼と彼女とが目前にしている、冷え切ってしまい、表面のミルクが固まってしまった、卓上のミルクティーよりも濃いのかも知れません。
○ この顔で永らく生きて来たのかとしみじみ鏡の前に立つ朝 中島敦子
前掲の野上卓さん作に登場する「君」を巡っての後日談でありましょうか?
〔返〕 この顔でこの面相で主役など張れる訳など無かったはずだ
○ 元気だと子に電話する慣習をいつしか忘れ子も忘れをり 中島敦子
それで宜しいのです。
親子関係とは、常にそうした冷ややかで静かな関係にならなければ本物とは言えません。
〔返〕 子も忘れ親も忘れてしまったら「おれおれ詐欺」に遭う事は無し
○ 自販機に何度入れても出てきちゃう十円玉は僕なんですよ 木嶋章夫
必ずしも贋物では無くても、「自販機に何度入れても出てきちゃう十円玉」というものは存在するものである。
本作の作者の木嶋章夫さんは、自らの行状を省みて、その「十円玉は僕なんですよ」と迄、情け無い事を仰るのである。
木嶋章夫さんよ、件の「十円玉」みたいな存在は、決して決して貴方だけに限った事ではありませんよ!
かく申す私だって、時には「自販機」にさえも受け入れて貰えない「十円玉」のような心境になってしまうのですよ!
〔返〕 自販機が受け入れ拒否する十円玉君こそ時代の良きテロリスト
○ 白きゆえしろき暗部のだそちゆく入道雲に真向いており たかだ牛道
本作の作者のたかだ牛道さんは、物事の本質を良く弁えて居られる御仁である。
本作の前半部の「白きゆえしろき暗部のだそちゆく」の叙述こそは、まさしく達観とも謂うべきものである。
〔返〕 黒きゆえ黒き仲間を寄せたがる安倍内閣の改造人事
○ 人生に遅刻はあらずベランダの苦瓜観察日記したたむ 清郷はしる
でも、こんなにまで秋風が涼しく感じられるのでは、これからの収穫を期待する事は出来ないと思われますが、如何でありましょうか?
我が家の表庭の苦瓜の棚は先日撤去してしまい、その後に法蓮草の種でも蒔こうかと思って、私はその下準備として、今朝、苦土石灰を散布したところでありました。
〔返〕 人生を早退せむと思ひしもしがらみ多くて決断出来ず
○ ちりんちんキャンデー売りの通る道三年通ひし分校もない 工藤重雄
今どき、あんた、「キャンデー売り」など来るわけ無いでしょう!
それに「緊縮財政」の必要性が声高に叫ばれている昨今に於いては、三年通ったって、六年通ったって、「分校」など在るわけがないでしょう!
時節柄を弁えて居りさえすれば、そんな事はいとも容易く解るわけでありましょう!
懐旧に耽っている輩は、安倍内閣の時勢下に於いては、生きて居られませんよ!
反省しなさい!反省を!
〔返〕 一度でも勝ったこと無きチンチロリン キャンデー売りでもしようかしらん
○ あさぼらけ名残りの月に夢をみしこのかぜもまた森へつながる 宮澤麻衣子
選者・黒田英雄氏の学識コンプレックスが因を為しての選歌ミスかも知れませんが、「あさぼらけ」という先人の手垢に塗れた発語で以って歌い起こされた一首が、「あさぼらけ⇒名残りの月に⇒夢をみし⇒このかぜもまた⇒森へつながる」と、綿々として繋がって行く点に着目すれば、それなりの物語性が感得され、作者の宮澤麻衣子さんの為すところの無き暮らし向きが覗われるのである。
〔返〕 あさぼらけ名残の夢も見厭きたり古い急須で新茶を煮るな
○ 怠けると決めた日曜午後五時半一番搾りの喉ごし足りず 羽入田美雪
「一番搾り」と言えば、一応はビールである。
〔返〕 怠けると決めた日曜なればこそ一番搾りの喉越しの悪し
○ ロバにしか通れぬ道の数多あり重き荷を負い人に沿い行く 村井かほる
「重き荷を負い人に沿い行く」を「重き荷を負い安倍に沿い行く」としたら、満点官房相の悪口を言った事になりましょうか?
〔返〕 馬鹿にしか通れぬ道も数多あり解釈改憲絶対反対
○ 米粒詰草十センチほどの草がゆれとかげの通る道があるらし 田平子
作中の「米粒詰草」とは、「マメ科シャジクソウ属の一年草で、ヨーロッパから西アジアが原産の帰化植物であり、我が国には明治末期に渡来した」とか。
本作の作者は、その「米粒詰草」のわずかに「十センチほどの草」が揺れているのを見て、「とかげの通る道があるらし」と、突拍子も無い推測をしているのである。
〔返〕 草の葉が揺れたら其処に風がある蜥蜴の通る道では無いよ!
○ 思ふさま耐へたら天を仰げよと夢にでて死者は明日を語れる 佐藤綾華
「天を仰ぐと、其処にお迎えの雲が浮かんでいる」とでも、言いたいのでありましょうか? 〔返〕 遠天を流れる雲に命無く斎藤茂吉とそっくり同じ
○ 痩せてゆく家族三人 見てくれで落とすということ確かにあらん 栄田一平
今更に何を仰るんですか?
民放でもNHKでも、女性アナウンサーは、「見てくれ」が悪ければ、頭がいくら良くたった採用されないのですよ!
〔返〕 痩せている力士序二段「光源治」体重69kgしか無い
肥えている力士「大露羅」最巨漢体重271kg
○ 踏み場もなく散らばつてゐる悲しみにたたずむほかはなくなりし部屋 桑原憂太郎
本作の作者は、「題詠マラソン」でお馴染みの桑原憂太郎さんである。
桑原憂太郎さんと言えば、昨年度末まで、北海道の特別支援学校で児童生徒の教育指導に当られていた教育者である。
その教育者・桑原憂太郎先生が、「踏み場もなく散らばつてゐる悲しみにたたずむほかはなくなりし部屋」と悲しげにお詠みになって居られるのであるが、是は、桑原憂太郎先生のマンションに、かつての教え子さんたちが勝手に上がり込んでいたという事実に取材した作品でありましょうか?
〔返〕 先生のマンションなれば上がり込み滅多矢鱈に散らかす児童
○ 三間(サンマ)とは時間、空間、仲間なり子どもの巡りに欠けて久しく 長田貞子
本作も亦、教育の荒廃を嘆き悲しんでいる一首であるが、前述の桑原憂太郎さん作とは異なり、児童生徒に注ぐ教育者としての温かい眼差しはあんまり感じられず、ただひたすらに我が国の学校教育の無策振りに対して、慨嘆の眼差しを注いでいるだけの作品である。
〔返〕 三間とは間抜け、間男、間借り人、間抜け亭主は間男される
間男をする奴決って間借り人 間抜け亭主の妻に間男
○ 目を閉じて耳に入りし鳥の声同じ調べはないと思えり 田所 勉
黒田英雄氏の選歌力に疑問を感じざるを得ない一首である。
先ず何と言っても、二句目の一字足らずに拠って生じたリズムの悪さである。
次に、「耳に入りし」の「し」、「ないと思えり」の「り」と、肝心要の場面に於いては、文語の助動詞を用いながらも、一首全体を「歴史的仮名遣ひ」で表記しなかった点である。
また、その発想にも「耳に入りし鳥の声」に「同じ調べはない」と指摘した点以外には、格別に目新しさは感じられません。
斯くの如き三拍子揃っての凡作を敢えて「秀歌選」の一首として選定した、選者・黒田英雄氏の選歌力が問われる場面でありましょうか?
〔返〕 今朝われの耳朶に浸み入る鶯の同じ調べに鳴くことは無し
○ ペディキュアの似合う素足のしろじろと梅雨の歩道に赤き爪冴ゆ 伊藤直子
一首の意は「『ペディキュアの似合う素足』が『しろじろ』として『梅雨の歩道』を渡って来るのであるが、その『しろじろ』とした『素足』の先には、『赤き爪』が冴え冴えと輝いているのである」といったところでありましょうか?
だとしたら、本作の作者の伊藤直子さんは、「素足」の同性と言うよりも、むしろその「素足」そのものにすっかり惚れてしまったのかも知れません。
「ホモセクシュアリティ(homosexuality)」、即ち「同性愛」という言葉は、こうした事態を指摘する際にも、用いる事が可能な言葉でありましょうか?
世の識者諸氏に訊ねたい場面ではある。
〔返〕 「生足」と言うべき場面で「素足」と言う作者の語感はかなり古いぞ!
○ 表情を読むロボットが現れてつぎ現れるだろう空気読むのが 小林惠四郎
そうかも知れませんし、そうでないかも知れません。
と言うのは、相手の「表情を読む」場合とは異なり、その場の「空気」を「読む」場合は、また一段と高等な知能とテクニックを要するからである。
その段差は、幾何級数的なレベルのものであり、せいぜい算術頭でしかない、現代社会の「ロボット」製作者たちの頭では対応する事が不可能なことと思われるのである。
〔返〕 表情を読むロボットは一次元空気を読むロボットは異次元に住む
○ いつしかに人間嫌ひさう云へば嫌はれてゐるほつとして老々 坂井あゆみ
高齢者特有の「僻み根性」乃至は「開き直り」から出た一首でありましょうか?
〔返〕 最初から嫌われているお婆さん僻み言葉も休み休み言え