臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

今週の朝日歌壇から(7月28日掲載・其のⅢ・月曜特大版)

2014年08月04日 | 今週の朝日歌壇から
[高野公彦選]

(東京都・上田結香)
〇  時を隔てひめゆりの少女少女のまま対馬丸の子ら子どものままで

 [ひめゆり部隊の悲劇」、即ち「沖縄戦に傷付き倒れてしまった兵士の看護活動に当たっていた沖縄県立第一高等女学校の健気な女生徒たちの多くが自ら沖縄戦の犠牲となってしまった」のは、大戦末期の昭和45(1945)年6月の事であり、「対馬丸の悲劇」、即ち「沖縄から九州本土に疎開しようとした学童たちを乗せた学童疎開船の対馬丸が、長崎港を目前にして米国の潜水艦・ボーフィン号の魚雷攻撃を受けて撃沈した」のは、その前年の昭和44(1944)年8月の事であるから、その時間差は約1年である。
 本作の詠い出しの5音は「時を隔て」となっているのであるが、その「時を隔て」た差、即ち「時間差」とは、二つの悲劇の間に横たわっている約一年間という時間差を表しているのでありましょうか?
 それとも、二つの悲劇が発生した第二次世界大戦時と現在との空白の時間差を表しているのでありましょうか?
 善意を以って解釈すれば、「時を隔て」ての「時間差」とは、前者に非ずして後者である事が何と無く理解されるのであるが、日本語表現としては極めて曖昧であると言わなければなりません。
 こうした曖昧な表現を伴った作品を、選者の高野公彦氏が、敢えて第一席入選作品として称揚しようとしたのは、本作の表現を佳しとしたからでは無くて、本作が朝日新聞の「解釈改憲反対キャンペン」の趣旨に添った作品であるからでありましょう。
 今週の「高野公彦選」は、第一席から第五席まで、自公連立政権に拠る「解釈改憲」という暴挙に反対するという政治的なテーマに取材した作品であり、表現面に於いても発想的にも、格別に称揚するべき点は認められません。
 それにつけても思い出されてならないのは、斎藤茂吉を肇とした歌壇の大家たちが、その当時のマスコミの求めに応じて太平洋戦争開戦時の感慨を詠った短歌と終戦時のそれとが、殆ど同じような発想、同じような詠風の作品でしか無かったという事実である。
 朝日歌壇への投稿者の多くは、ご自身が被災者であると否とに関わらず、阪神淡路島大震災が発生すれば、それに即応した短歌を詠んで投稿し、米国で同時多発テロが発生すれば、それに即応した短歌を詠んで投稿し、今また、自公民連立政権に拠る「解釈改憲」なる暴挙があからさまになると、それに即応した短歌を詠んで投稿したりして、我が国に於いては、短歌という極めて安易な形式に拠る文芸作品は、日常茶飯事の如くに大量に生産され、そして消費されて行くのでありましょう。
 〔返〕  山百合もカサブランカも食はれたり長嶋米屋に巣くふ鼠に
 私が田舎暮らしをしていた当時、自宅の隣りには「長嶋〇〇商店」なる米穀販売業者の倉庫が在った。
 彼・長嶋〇〇氏は、地域の水道組合にも所属せずに、自宅の炊事や入浴や樹木の灌漑に供する水一切を秘密裏に賄う(盗水)など、地域では名の知れた強欲因業極まりなき人物であった。
 彼の倉庫では、毎年鼠が鼠算式に大量に発生し、その一部が我が家の狭庭にも侵入して跳梁跋扈して、我が家の狭庭に植えられているカサブランカなどの百合の球根・数百株を始めとして、チューリップの球根や葡萄や桃や無花果やプラムの木の根際の部分まで、凡そ口に入るものは何でも食い捲るのであった。

  
 (大分市・児玉直)
〇  原発も戦争も許すこの国を知らで園児ら七夕飾る

 昨今は七夕の時期になると、街のスーパーや銀行の店内にも、葉の萎びれた笹竹が立て掛けられていて、その傍らには、五色の短冊と水性筆記用具やボールペンなどの筆記用具が用意されていて、「ご来店の皆様にお願いします。特にお子様方にお願いします。この短冊に、ご自身が日頃から願っている言葉を書いて笹竹の枝に吊るして下さい。笹竹に吊るす時は、必ずきつく縛って下さい。そうで無ければ、あなた様の願い事が風のまにまに何処かに飛んで行って、空しくなってしまいますから」なんて書いてあったりし、立て掛けられている笹竹の枝に縛られている五色の短冊には、いかにも子供らしい丸文字で、「たなばたの神様、どうかお姉ちゃんを第一志望の〇〇学院中学に合格させて下さい」とか「神様にお願いしますが、お父さんとお母さんが夫婦けんかをしないように仲良くさせて下さい」などと書いてあったりするのである。
 そうした習慣が、何時頃から始まったのかは私としては関知しないのであるが、今から数えて四年前のある夏の日のこと、私は退屈しのぎに横浜市内のとあるスーパーに立ち寄ったところ、例に拠って例の如く、店内に件の笹竹が立て掛けられていて、件の五色の短冊と筆記用具が用意されていたから、私は思わず知らずのうちにその短冊を手に取り、持ち前の仮名釘流の文字で以って「田舎のお家が売れますように!出来るだけ高い値段で売れますように!」と書いて、笹竹の一番高い所にきつく縛ったところ、それから一週間もしない中に、私の言う「田舎の家」が売れてしまったのである。
 尤も、その値段たるや、私の予想していたものよりは遙かに低額で、思わず、目から涙を流してしまったのではあるが、とにもかくにも私の願い事の半分は叶って、私の「田舎の家」は、売れるには売れたのである。
 閑話休題。
 本作の歌い出しは「原発も戦争も許すこの国を」となっている。
 私の手元に置かれている辞書『大辞林』の記するところに拠ると、「許す」とは「罪や過失もとがめだてしないことにする」という事であり、この語の使い方を具体例を以って説明すると「愛娘を殺した犯人を許すのは忍びないけれど、判決が出てしまった以上は許すしか無い」とか「私だってまんざらでも無かったのだから、あの場合は、彼に体を許すしか無かったのである」といった事になる。
 と、言う事になれば、誰かの書いた文章の中に「許す」という言葉が使われている場合は、書き手の心の中に、必ず「不本意ながら」という気持ちがあり、「許す事に対しての罪の意識を伴った切なさ」をも伴われているという事になる。
 「この国」の何方様が「原発も戦争も許す」と決めてしまったのか、という点に就いては、今の私としてはあまり深く考えたくは無いのであるが、「許す」とは、とにもかくにもそういう意識を伴った言葉であるから、本作の作者が「原発も戦争も許すこの国を知らで」と詠んだ時の心の中には、必ずや「不本意ながら」という気持ちが在ったはずであり、それと共に、自公連立政権に拠る「原発の再稼働」方針や「解釈改憲に伴う自衛隊の海外派兵」に対しては「罪悪感」すら抱いていたはずである。
 折しも、七月七日の七夕の日である。
 そうした思いを抱きながら沈思黙考する作者の傍らには、いたいけな「園児」らが居て、今しも「七夕飾り」作りの真っ最中なのである。
 〔返〕  笹竹に平和の二字の隠れなし七月七日は七夕祭り
           <注>   七夕竹惜命の文字隠れなし  石田波郷(『惜命』昭24刊)
 


(加賀市・敷田千枝子)
〇  いざ出兵往くのは誰ぞ誰が往く、往きて帰れぬいくさに往くは

 「万葉集」(巻20)の4425番歌は「防人に行くは誰が背と問ふ人を見るが羨しさ物思ひもせず」という「防人の妻」の作である。
 ところで、今の我が国には「往きて帰れぬいくさ」に、自ら進んで「往く」者は誰一人としていないと思われる。
 その理由の一つは、我が国では国民の全てに人権思想が行き渡ってしまった点にある。
 「人間誰しも健康に生きる権利がある」という素晴らしい思想が国民全般に行き渡ってしまった現在に於いては、誰一人として、「自分から進んで戦争に行って天皇陛下の為に死のう」などと思う人はいないのではなかろうか?
 で、人権思想という何よりも尊い思想の保持者たる彼ら国民をして、戦場に赴かしめる為に必要なのは、「法律という名の暴力」乃至は、「暴力団以上の無法の暴力」或いは「経済力」であり、「経済力」もまた暴力の別名なのである。
 安倍晋三氏を先頭にした自由民主党が「経済の立て直し」を旗印しにして総選挙に打って出ようとした際、私たち世界平和と自然環境の保護を実現を図ろうとする日本国民は、自由民主党が首尾良く政権の座に就いた暁には、憲法を改正して海外出兵を目論んでいる事に気が付かなけれはならなかったのであり、原発の再稼働や原発施設の輸出を目論んでいる事にも気が付かなければならなかったのである。
 マスコミの主たる役割は、「情報の正しい伝達」と共に「国民世論の誘導」にある。
 この二つは、ともすれば矛盾しがちであり、マスコミ人も亦、それに拠って衣食住に備える経済力を獲得し、自分の信じる正義の実現を果たさんとしている者である事には違いが無いから保証の限りではないが、マスコミの究極的な役割は、前述の二つの役割を巧みに使い分けて、人類の永遠なる福利厚生を実現し、宇宙環境の恒久的な保護を実現する事でなければなりません。
 この遠大なる役割を果たす為に、私たちの詠む短歌は、果たして如何程の貢献をすることが出来るのでありましょうか?
 〔返〕  いざ出兵させんとするも兵士居ず斯くなる上は徴兵制度
 自民党幹部の某議員が「徴兵された兵士よりも志願兵の方が格段に優秀であるから、我が国に徴兵制度が復活する事は絶対在り得ない」などと、心にも無い事を口にしているのではあるが。  
 

(高松市・菰渕昭)
〇  中東に戦乱あれば潮位増すごとくガソリン値上がりをする

 「潮位増すごとく」という直喩だけが取り得の報告的内容の作品である。
 〔返〕  アメリカが風邪を引いたら咳をして真の風邪かと思って寝込む
      燃料が値上がりすれば比例して電気料金即値上がりす


(島田市・水辺あお)
〇  ヨヤトウノギインショウヨハアガルノニショミンハサガルアベノマジック

 試みに、本作を「漢字交じりのひらがな」で書き表すと、「与野党の議員賞与は上がるのに庶民は下がる安倍のマジック」となり、是が何の変哲も無い凡作である、という事が明白になってしまうのである。
 毎週毎週、朝日新聞の「反政府キャンペン」に迎合するが如き作品が大挙して朝日歌壇に押し寄せる今日、テーマが何であろうと、発想や表現に選者のハートを射るような工夫が為されていなければ、到底、入選作品として紙面に掲載される事は無いはずである。
 三十一音の全てをカタカタ書きにした本作は、作者なりの工夫が凝らされているのでありましょうが、その「工夫」とやらがあまりにも貧弱過ぎるのである。
 なお、国会議員に支払われる歳費(給料)は、今年の5月分から月額26万円、年間421万円引き上げになったそうであるが、本作の作者は、是を何故か「ヨヤトウノギインショウヨハアガルノニ」と言っているのである。
 こうした点は事実に基づいて言わなければなりませんから、「ヨヤトウノギインサイヒハアガルノニ」と言わなければなりませんし、更に言えば、詠い出しの「ヨヤトウノ」という5音は、単なる音数合わせとして使われているに過ぎませんから、更なる推敲が望まれるのである。
 〔返〕  我が国の国民全てに見限られ安倍首相の辞任表明
      与野党の議員全てに見限られ安倍宰相の辞任表明


(三原市・岡田独甫)
〇  後先はわからないのに婆さんが葬式してねと僧の吾に言う

 「婆さん」とは、作者のお大黒様を指して言うのでは無くて、作者が住職をしているお寺さんの檀家総代の家の女性高齢者を指して言うのでありましょう。
 ところで、いつぞや岡田独甫さんは、「忘るるな不戦誓うは三百十万人の犠牲のすえぞ」といった、朝日新聞の「解釈改憲反対キャンペン」に迎合するが如き一首を投稿し、首尾良く「馬場あき子選」の入選を果たしていましたが、岡田独甫短歌の本領はそうした迎合精神の発露に在るのでは無くて、本作に見られるような諧謔性と飄逸味に在るのである。
 〔返〕  後先は判らないのにトイレでは前後諸出し不時に備える


(鎌倉市・小島陽子)
〇  どんぶりに薩摩芋置き陽に当てて発芽楽しむアパート暮らし

 「持たない者には、何一つとして悩みはありません」といったところでありましょうか?
 でも、この暑さ盛りの「アパート暮らし」も決して楽ではありません。
 少しでも油断をしていたら、窓際に置いている薩摩芋が干上がってしまい、忽ち焼き芋になったりしちゃってね!
 〔返〕  割烹着姿でラットに注射しておぼちゃん今頃なかなか難儀


(鹿嶋市・加津牟根夫)
〇  イチローは決してバットを投げ捨てず優しく置きて走り行くなり

 仮にそんな事があるとしたら、それはイチローが一年に一度くらい、打った瞬間にスタンド入りだと感じられるような一打を放った時だけの事でありましょう。
 足の速さが売り物で、三本間に転がした打球をヒットにしてしまうイチローが、「バットを投げ捨てず優しく置きて走り行くなり」なんて悠長な事をしていたら、「日米通算四千本安打」なんて狙える訳が無いでしょう!
 鹿嶋市にお住いの加津牟根夫さんよ、いくら田舎者だからとて、そんな出鱈目なことばっかり言ってたら、友達に嫌われますよ!
 「鹿嶋の天一坊」とは、鹿嶋市民が貴君に奉った渾名ではありませんか?
 〔返〕  イチローも打ったらバットを投げ捨てて一塁目掛けてひたすら走る


(松阪市・こやまはつみ)
〇  胡瓜もみに刻んで入れる青じそを庭下駄つっかけ摘みにゆく夏

 人間誰しも一生に一度ぐらいは、このような他愛ない夢を胸に抱いたりして、田舎暮らしに憧憬を抱いたりするものである。
 だか、夢はあくまでも夢であり、現実には「胡瓜もみ」よりも野菜サラダの方が美味しくて、仮に「胡瓜もみ」が食べたくなったとしても、それに入れる青紫蘇は、近所のスーパーに行けば夏冬構わずわずか百円足らず買える、という事にもなったりして、結局は都会暮らしのままで終わってしまうものである。
 〔返〕  胡瓜揉み好めるならむ未だ逢はぬ松阪住まいの女性なれども  
      胡瓜揉み食せぬ児らにこの国の未来託して死なねばならぬ


(富山市・松田わこ)
〇  水色のバジャマで眠る夜だから涼しい夢を予約しておく

 中一の少女のこの傑作に、「水色のパジャマで眠る夜ならば涼しい夢は予約されてる」という鸚鵡返しの返歌を付け、幼い彼女の遊び心を刺激したり、弄んで遣ったりする事は、七十過ぎの耄碌爺としては、いとも容易いことである。
 だが、七十過ぎの耄碌爺はあくまでも耄碌爺であるから、しばらくすると彼の妄想は益々膨らんで行き、やがては「おピンクの透け透けパジャマで眠る夜は夢路に彼が忍び寄らなむ」なんちゃったりしてしまうのである。
 このようになってしまうと、この真夜中に彼が遣っている試みは「短歌鑑賞」といった性質のものでは無くなり、むしろ「短歌玩弄」といった性質のものになってしまうのでは無かろうか?
 しかも、「玩弄」される対象が自作の短歌ならまだしも救いがあるが、他人の作品、それも中一の少女の作品であるから、彼の試みの何処にも救いが見い出せないのである。
 彼とは、私であって私で無い存在、あくまでも、本作の作者の松田わこさんが「水色のバジャマで眠る夜」に「予約して」おいた「夢」の中に登場する人物である。
 〔返〕  水色のパジャマを着て寝る中一の少女の見るゆめ他愛ない夢

今週の朝日俳壇から(8月4日掲載・其のⅣ・暑中手抜き版)

2014年08月04日 | 今週の朝日俳壇から
[金子兜太選]

(高岡市・野尻徹治)
〇  大の字に夏の月見る共白髪

 〔返〕  大の字に寝るに狭きや三畳間
      大の字に寝ては見えない大文字


(松戸市・大谷昌弘)
〇  静けさや蛍が川に落ちる音
 
 〔返〕  手花火が馬穴の水にジュと消えつ
      川になど落ちるもんかい蛍なら


(松江市・三方元)
〇  白玉も母の襷も久し振り

 〔返〕  腰巻の紐を襷に母の蕎麦
      白玉の我が子が食べる白玉餅


(芦屋市・北井真有美)
〇  一瞬と言ふ時遠し原爆忌

 〔返〕  一瞬の隙に唇盗まれぬ
      一分間黙禱したり原爆忌


(ドイツ・ハルツォーク洋子)
〇  一面にひまはり笑ふ地平かな

 〔返〕  どう見てもイタリア映画のワンシーン
      いつか観た映画のシーンに似ているな


(松阪市・奥俊)
〇  滴れる岩ひとりごと何を恋ふ

 〔返〕  滴るは滝の水のみ岩黙然
      強かに巌から骨落滝壺に


(福岡市・加藤秀則)
〇  滝を背に我があつけなき尿かな
 
 〔返〕  滝壺に我が長々のゆまりかな
      滝を背に写真一枚撮りにけり


(伊賀市・福沢義男)
〇  炎昼やひとりぼつちの大東京

 〔返〕  炎昼の二人袴は熱かろう


(船橋市・川崎英彦)
〇  大声を残すに似たり梅雨の鳥

 〔返〕  今一つ釈然とせぬ一句かな
      どう見ても訳の判らぬ一句かな


(東大和市・板坂壽一)
〇  ひきがへる来世は捕手かキーパーか

 〔返〕  蝦蟇蛙来世は保守か革新か
      ひきがえる死者に口無し語る無し