臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

今週の読売歌壇から(8月16日掲載・そのⅣ)

2010年09月10日 | 今週の読売歌壇から
[俵万智選]

○ 両指を額縁にして夏の湖見ればヨットは絵から消えゆく  (土浦市) 大竹淳子

 「両指を額縁にして」とあるが、より正確を期して言うならば、<両手の親指と人差し指とを額縁にして>と言うべきであろう。
 かくして「夏の湖」を「見れば」、其処に浮かんでいた「ヨット」は間も無く「額縁」の範囲から「消え」て行ってしまった、と言うのである。
 写実的、古典的絵画描法からヒントを得た着想や表現が、高く評価されての入選作一席の栄誉であろうが、評者としては、この児戯めいた着想に諸手を上げて讃美するわけにはいかない。
  〔返〕 炎熱の霞ヶ浦の上空を白き翼のヨット翔け行く   鳥羽省三


○ 橅の木は大地に広き影敷きて夏の子供らしばし休ます  (池田市) 今西幹子

 「広き影」を「敷きて夏の子供ら」を「しばし」休ませる程の「橅の木」は平地には無く、かなり山奥に分け入らなければ見られないものである。
 したがって、作中の「子供ら」は、かなりの時間を掛け、山の奥地に分け入ったものと思われる。
 その山行の途中に「橅」の巨木が在り、その巨木は、「夏の子供ら」を「しばし休ます」ほどの「広き影」を地上に落としていたのであるが、本作の作者は、それを<広き影落とす>と言わずに「広き影敷きて」と言っているのである。
 要するに、本作の作者・今西幹子さんにとっては、「橅」の巨木が地上に落とした「影」は、ただの「影」では無く、「夏の子供ら」を「しばし」休ませる、魔法の絨毯かビニールシートなのである。
  〔返〕 天地の恵みの水を吸ひ上げて橅の巨木は枝葉潤す   鳥羽省三 


○ 清水飲む青みがかった感覚が葉群のように輝いてくる  (青森市) 滝野沢弘

 山行で疲れ果てた体内に、岩間から滴り落ちる冷たい「清水」を注ぎ入れた時の感覚を詠んだものでありましょう。
 「青みがかった感覚が葉群のように輝いてくる」という措辞は、まさにその時に味わった感動を巧まずに表わしたものと思われる。
  〔返〕 喉笛を一筋太き導管となして身体に清水を注ぐ   鳥羽省三


○ 最後まで隠れおおせた代償に独りで帰る夕暮れの蝶  (高島市) 宮園佳世美

 昆虫狩りの子供たちの手から逃れ、網の目から逃れて「最後まで隠れおおせた」「蝶」は、その「代償」として、「夕暮れ」の空を「独り」で山の塒に帰らなければならないのである。
 今頃、他の仲間たちは、子供たちの手によってホルマリン注射を打たれて甘ーい甘ーい夢に浸って居られるのに、「最後まで隠れおおせた」頑固な「夕暮れの蝶」の、何と可哀想なことよ。
  〔返〕 最後まで隠れおおせたつもりにて此処を先途と最後の勝負   鳥羽省三
 「此処を先途と最後の勝負」と出たのは、あの小沢一郎さんではありませんか?


○ 「じいさん」と孫に呼ばれて笑みたるに孫の友より言われむかつく  (福山市) 黒部
良三

 同じ「じいさん」でも、血の繋がる「孫」の口から出た「じいさん」と「孫の友」の口から出た「じいさん」とでは、その価値に雲泥の差が在るのである。
  〔返〕 「じいさん」と呼んでいるのは祖父の前ほかの場所では「糞じい」と呼ぶ   鳥羽省三

今週の読売歌壇から(8月16日掲載・そのⅢ)

2010年09月09日 | 今週の読売歌壇から
[栗木京子選]

○ 熟さずに落ちしざくろの小さき実を蹴ってジャンケンからり梅雨明け  (高槻市) 佐々木文子

 「熟さずに落ちしざくろの小さき実」を石蹴りの<石>に見立てて「蹴って」行き、一人の子供が「蹴り」終わると、そこで「ジャンケン」をして勝った者が「蹴る」。
 そうして目的地までその「ざくろ」の「実」を無事に運び終えた段階でゲームの終了となるのであろう。
 「蹴ってジャンケンからり梅雨明け」という、<七七>の語呂の良さとスピード感がこの一首の生命であろう。
  〔返〕 眠らずに居た子集めて肝試しキャンプ初日の深夜のゲーム   鳥羽省三


○ 土用前かならず団扇を貰ひたる食糧品店の閉まるは淋し  (水戸市) 笹嶋千代

 暮れには<暦>、「土用前」には「団扇」を配るのが、スーパーマーケットにお客を奪われて、個人経営の商店が軒並み閉店に追い込まれるまでの、古き佳き商習慣であった。
 作中の「食糧品店」もまた、こうしてお客の信頼を得ていた店に違いないが、閉店間際までその店を見放さず、毎年毎年の「土用前」には、「かならず団扇」を貰っていた顧客としては、その「食糧品店の閉まる」のはとても淋しいことでありましょう。
  〔返〕 濃紺の前掛け締めたご主人が死んで間も無く閉まったお店   鳥羽省三


○ 梅雨明けてははに施すマニキュアは八十九歳の夏越しの祈り  (旭市) 山田純子

 万葉の昔からの習慣である「夏越しの祈り」と「マニキュア」とを結び付けたのは、本作の作者・山田純子さんの人並み優れた教養と感性の賜物である。
 それにしても、「八十九歳」にして、愛娘の前に指を差し出す「はは」の何と可愛いことよ。 
  〔返〕 土用前三里にお灸を据へるのは十年来の私の夏越(なご)し   鳥羽省三


○ 汗を拭くわれを眺めて「暑い中大変ですね」とイルカ目で言ふ  (町田市) 風間良冨

 五句目の「イルカ目で言ふ」は、<イルカが目で言う>とも、<イルカのような目で言う>とも解釈できるが、それらを統合して、私は、<イルカがいかにもイルカらしい涼しい目をして言う>と解釈したい。
 イルカシヨーで有名な江ノ島水族館での嘱目でしょうか?
  〔返〕 襟巻きは中国製の本物とキツネ目をした女店員言う   鳥羽省三


○ 縁ありて失恋同士で結ばれし夫と辛苦の四十年経る  (長野県) 藤沢照美

 その「辛苦の四十年間」には、<同床異夢>の状態が再三に亘ったかも知れません。
 抱いた「夫」も抱かれた<妻>も、それぞれに違った異性のことを夢見ている。
 それはそれでロマンチックなことではありませんか?
  〔返〕 縁薄き恋に破れた者同士添って築いた愛の家なり   鳥羽省三     


○ 炎天に看板を持つ人のいて看板よりもその人に見入る  (船橋市) 田中澄子

 「炎天に看板を持つ人のいて」とは、何時か何処かで観た油絵のような光景である。
 「看板を持つ人」は、紅毛碧眼の美女に違いありません。
  〔返〕 天空に布を放れる美女の居て布は時折り虹の輪となる


○ 能楽堂出て駅までの十五分歩いてこの世の私に還る  (篠山市) 清水矢一

 「駅までの十五分」の間に、本作の作者は<幽玄境>の「私」から「この世の私」に還ったのである。
  〔返〕 時折りはオーデコロンも漂はせ見合ひの席の歌舞伎座に居り   鳥羽省三


○ 梅雨の日の夕焼け空がうれしくてごきぶり一匹横切らせたり  (東京都) 成田周次

 「梅雨」の合間の「夕焼け空」に免じて、「ごきぶり一匹」に情け容赦をかけた本作の作者の目には、やがてやって来る酷暑の夏は映らなかったに違いありません。
 <真夏日新記録>の今年の夏の酷暑は、本作の作者・成田周次が「横切らせた」「ごきぶり一匹」が齎したものに違いありません。
 「ごきぶり」は、目にしたら最後、必ずその場で叩き殺さなければなりません。
  〔返〕 久方の雨の滴が嬉しくて傘も差さずに駅まで歩く   鳥羽省三      

今週の読売歌壇から(8月16日掲載・そのⅡ)

2010年09月08日 | 今週の読売歌壇から
[小池光選]

○ 一日で関東五県を歩くすべ我みつけたり皆は知るまい  (千葉市) 木谷 論

 <小池光選>の首席にランクされた作品であり、選者の評言に「一日で30キロ歩くとして五県通過できるか。さっきから地図とにらめっこしている。四県なら行けそうだが。それにしてもふしぎな発見をし、ふしぎな歌を作られた」とある。
 小池光氏はいかにも元教員らしく、地図とにらめっこしたりして大真面目に考えておられるが、表現に欠陥の在るこの一首を、このままで解釈すると、「一日で関東五県を歩く」ことは実に簡単なことである。 
 そもそも「関東」地方とは、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、茨城県、神奈川県の各県及び東京都の一都六県を指して言う。
 その中の「五県」を「一日」で歩けばいいのだが、東京都は<県>で無いから対象外とし、また、その西隣りの神奈川県は他の五県と地を接していないからこれも除外して、「一日」で「歩く」県を、栃木・群馬・埼玉・千葉・茨城の「五県」とする。
 そして、これら「五県」のどこかの県の何処かの土地。
 例えば、栃木県の県庁所在地の宇都宮市の駅前付近のホテルを起点として、ホテルから駅まで歩いて<JR東日本>の在来線に乗って次の県の駅まで行く。
 次の県の駅に着いたらその付近を軽く散歩して、また<JR東日本>の在来線に乗って次の県の駅まで行く。これを繰り返して、最後は茨城県の県庁所在地の水戸駅からホテルまで歩く。
 こうして、栃木・群馬・埼玉・千葉・茨城の「五県」の何処かの駅付近を散歩して乗り継いで行けば、本作の作者の注文通り、「一日で関東五県」を全て歩いたことになるのである。
 本作中の「我」は、「関東五県」を「一日」で「歩くすべ」を「見つけたり」と言い、その「すべ」を「皆は知るまい」と大威張りしているのであるが、その「すべ」は誰でも知っていることなのである。
 短歌表現は、わずか三十一音の中で、自分の思っていることを破綻無く述べなければならない。
 微妙なところは、一種のテクニックとして、読者の想像に委ねるとしても、表現に<穴>が在っては短歌とは言えない。
 そういう意味では、この作品は、<読売歌壇>の入選作にするに足らない駄作なのである。
  〔返〕 一日で関東五県を歩くすべ餓鬼も知ってる自慢にならぬ   鳥羽省三


○ 質量に光の速度を二度掛けるエネルギーとはさういふものさ  (瑞穂市) 渡部芳郎

 「さういふものさ」とすまして仰るが、科学的知識に欠けたこちとらには、何のことか、ちっとも解りません。
  〔返〕 素うどんに醤油ぶっかけ啜り込む<讃岐うどん>はさういふものさ   鳥羽省三


○ 買い物はネットで食事は冷凍で動かざること山の老人  (伊勢崎市) 萩原亜季子

 とは、<高齢化社会>に対応する<武田流軍學>である。
  〔返〕 買い物はネット通販サプリだけそれで身体がいつまで持つか?


○ 全頁隈なく見ても欲しいもの無かった良かったカタログ閉じる  (逗子市) 金谷恵美子

 無料で送られて来る「カタログ」をも、人の良い本作の作者・金谷恵美子さんは、一種の義務感を覚えながら見ることになるのである。
 「全頁隈なく見ても欲しいもの無かった良かった」とは、そういうご性格の金谷恵美子さんらしい、実に素朴なお気持ちを吐露したものである。
  〔返〕 全店を隈なく見ても試食する箇所は無かったお腹が空いた   鳥羽省三


○ 何もかもそれを試した人がいてその恩恵に生きておりけり  (茨木市) 瀬戸順治

 「何もかも」が効いている。
 と言うのは、昨今は結婚という一大事さえ、前もって誰かに試されていたり、誰かと試していたりして、その後に結ばれることが、ごく普通に在ることなのだからである。
  〔返〕 瀬戸君のお蔭で初夜が無事済んだ瀬戸君ありがと今後宜しく   鳥羽省三


○ 本当に大丈夫かと犬に聞く犬に問ふべきことにあらねど  (市原市) 井原茂明

 「これから生田緑地の日本民家園まで歩くのだぞ。一時間半はゆうに掛かるよ。『本当に大丈夫か』」と、愛犬クロに聞いているのである。
 「犬に問ふべきことにあらねど」と思っているのに、「問ふ」ているのだから、これは一種の自問自答なのである。
 妻の妹が無類の愛犬家なので、彼女を観察していると解るが、愛犬家とその犬とは、互いに支え合い、庇い合って生きているのであり、愛犬家にとっての愛犬は、自分の肉親以上に親しい存在なのである。
  〔返〕 本当に大丈夫かと脚に聞くフルマラソンは真実辛い   鳥羽省三


○ 五百万歩あるきし靴の捨て時を考へてゐる靴に内緒で  (匝瑳市) 椎名昭雄

 「五百万歩あるきし靴」と言えば、かなり高価でかなり磨り減った靴のように思われるが、なんのことは無い。
 ごく普通の通勤靴で、まだまだ履ける靴だと思われる。
 散歩を日課にしている私は、平均して一日一万歩歩くから、「五百万歩」と言えば五百日、わずか二年足らずの歳月で「五万歩」を歩けることになる。
 本作の作者・椎名昭雄さんは、その「靴の捨て時を考えてゐる」と言う。
 しかもその「靴に内緒で」だと言う。
 一足の「靴」のお蔭で二年間を皆勤したサラリーマンが、まだまだ履けるその「靴」に、名誉の除隊をさせてやろうと思っているようなものである。
  〔返〕 「表彰状、靴殿あなたは二年間・・・・」まだまだ続くが以下を省略   鳥羽省三


○ 薔薇という迷路のような字の中に何が潜むかルーペにて視る  (館山市) 山下祥子

 何画かの直線で構成されている「薔薇」という文字は、まさに「迷路のような」ものである。
 「何が潜むかルーペにて視る」とあるが、「何が潜むか」は冗談としても、「ルーペにて視る」は、評者ぐらいの年の者ならば、何方もしているに違いないことである。 
  〔返〕 薔薇城に囚われている姫様を変態男の手から救助す   鳥羽省三


○ リハビリは歩幅十センチたどたどと今朝もなじみの小石に蛞蝓  (坂戸市) 神田真人

 いよいよ明日から新しい土地での生活が始まるが、私が今日までの一年二ヶ月の月日を過ごしたこの辺りには、「リハビリ」の為に「歩幅十センチ」で「たどたどと」歩く人々が幾人も居る。
 本作の作者・神田真人さんと同様に、その人たちも「今朝もなじみの小石に蛞蝓」がしがみ付いているのを発見することであろう。
  〔返〕 リハビリは医者の勧めで僕もやる僕の歩幅は五十センチ余り   鳥羽省三


○ 牧水や茂吉の歌に目を通しオペの不安をしずめつつおり  (大阪市) 大城正武

 本作の作者・大城正武さんは医者か患者か?
 患者のみならず医者もまた、「オペの不安をしずめ」る為に、「牧水や茂吉の歌に目」を通したりするに違いない。
  〔返〕 牧水のいかなる歌に勇気得て患者はオペに向かうのだろうか   鳥羽省三
      牧水の白鳥の歌に励まされ外科医はオペに臨むのだろうか      々       

今週の読売歌壇から(8月16日掲載・そのⅠ)

2010年09月05日 | 今週の読売歌壇から
[岡野弘彦選]

○ 夜のふけを長くうねりてゆく貨車のひとつ光れり青竹を積む  (茅ヶ崎市) 若林禎子

 評者が子供の頃の昭和二十年代には、貨物列車が真昼の国鉄の本線を走っていたが、この頃は人々の寝静まった真夜中に走っているようだ。
 本作の作者は、「夜のふけを長くうねりてゆく貨車」にたまたま接し、それを闇路を往く長い長い大蛇に見立てているのではないだろうか?
 「青竹」を積んでいて「ひとつ光れ」る「貨車」は、その大蛇の目玉なのである。
 それにしても、夜間を走る貨物列車の一車両全体に「青竹」が積まれているとは、珍しく興味深い話である。
 その「青竹」は何処の駅で積み込まれ、何処の駅まで運ばれて行くのだろうか?
 何処かの駅で下された後、その「青竹」は何方の手に渡り、その何方かは、その「青竹」を何に使うのだろうか?
 「ひとつ」光れる「貨車」の積荷を「青竹」だと感じた、本作の作者・若林禎子は、その<眼力>のみならず<感受性>も大変素晴らしい。
 彼女は私と同じように、近代詩の完成者である萩原朔太郎に心酔しているのでは無いだろうか?
  〔返〕 地面から引き抜かれても青竹は青く光って夜汽車に乗って   鳥羽省三


○ 命終の時をさとれる象のごとく胸に手を置き梅雨の夜を寝る  (大牟田市) 小川 研

 文脈に拘れば、「命終の時をさとれる象」は「胸に手」を置いて「寝る」ということになるのであるが、「象」は四足であって人間並みの「手」が無いからそのようなことは有り得ない。
 思うに、「命終の時をさとれる象のごとく胸に手を置き」「寝る」という直喩は、「命終の時をさとれる象」が、人間ならば「胸に手」を置いて自然に身を委ねて眠っているようにして「寝る」姿を想像しての直喩でありましょう。
 それにしても、本作の作者は、「梅雨の夜」を「胸に手を置き」「命終の時をさとれる象のごとく」に「寝る」と言う。
 その無防備、無抵抗な姿こそ、人間の究極的、根源的な姿ではないだろうか。
  〔返〕 死期悟る野生の象は何処へ行きどんな姿勢で眠るのでしょうか   鳥羽省三


○ 息子(こ)と母の無口なくらし仕事場に心を置きて帰り来るらし  (さいたま市) 山村紫洸

 上の句に「息子と母の無口なくらし」とあるが、作中の「母」と「息子」とは、格別に不仲なのでは無いだろう。
 いや、むしろ、お互いに相手の気持ちと立場を理解して居ればこその、「無口なくらし」なのであろう。
 仕事に追われ、「仕事場」に「心を置き」ながらも、夜ともなれば「息子」は「母」の待っている家に帰って来る。
 「母」は母で、疲れて帰って来る「息子」を「無口」ながらも温かく迎えるのである。
  〔返〕 口閉じて話さぬ息子の胸中を母はいつでも知っているのだ   鳥羽省三


○ 妻はまづ屑の薯から食べはじむひもじく過ぎし身の習ひあはれ  (糸魚川市) 田鹿静夫

 「妻はまづ屑の薯から食べはじむ」とあるが、私の妻もまた、「薯」に限らず食べ物全般に於いて、そのような食べ方をしている。
 収入の安定した自営業者の娘として何一つ不自由なく育った女が私の妻となり、私や二人の息子にはいかにも美味そうな桃をまるごと食べさせ、自分は傷んだ桃の食べられない部分を包丁で削って食べている姿を見ていると、いかに非情な私とて、心が動かないわけでも無い。
 だが、それでもなお且つ、私は息子たちと一緒に、そ知らぬふりをして、一個三百円もする桃をむしゃむしゃ食べて、卸し立てのTシャツに桃の汁をこぼし、それをそのまま洗濯機に放り込んでしまうのであった。
  〔返〕 春告げる鰊を妻は嫌と言う小骨の多い尾の身が嫌と   鳥羽省三

 いつであったか、私が「小骨の多い尾の身が嫌であったら、私に尾の身を食べさせ、自分が頭の方を食べたらどうだ」と言ったら、妻は黙って笑っていたが、その後は、鰊という魚が我が家の食卓に載ることは無くなった。


○ 手をひろげ風抱きて立つ妻の脇みぎわにひかる入り日まぶしき  (八王子市) 皆川芳彦

 「みぎわにひかる入り日」だけが眩しいのでは無い。
 「手をひろげ風抱きて立つ妻」の、健康で美しい姿が眩しいのである。
 本作の作者・皆川芳彦さんは、この世の幸せを一心に背負っているような人だ。
 そして、その幸せを隠そうともせずに、堂々と歌に詠む人だ。
 そういう人には、私もかなわない。
  〔返〕 背を丸め傷んだ桃を食う妻を傍らに置き我は酒飲む   鳥羽省三


○ 道をゆく散歩の犬をうらやみて二階の犬が今日も吼えゐる  (横浜市) 寺畑多都子

 本作の作者・寺畑多都子さんの家の向いのマンションの二階に住む、小沢一郎さんが飼っている「犬」は、飼い主の小沢一郎さんが多忙な上に無理解な為に、散歩にも連れ出してもらえない可哀想な「犬」なのである。
  〔返〕 鞭を執る主の仕草を怖がって鳴くに鳴けない小沢家の犬   鳥羽省三


○ わが住まず空家となりし庭古りて百日紅は咲きゆれてゐむ  (所沢市) 小野まつ

 私もまた、大金を叩いて建てた家を、泣きの涙のはした金で人手に渡して来たばかりの者である。
 先般、妻の友人から掛かって来た電話によると、彼女がたまたま私の元の家の前を通った時、その駐車場には、僅かばかりの材木を積んだ大工さんのトラックが停まって居たと言う。
 察するに、私たちがあの家に注ぎ込んだお金の四分の一にも満たないお金で、首尾よくあの家をせしめた新しい住人たちは、あの家の二階の二十畳に余る板の間を、二つか三つの小部屋に仕切って使うつもりなのだろう。
 彼らが、私の依頼した不動産屋にあの家の購入価格を値切ろうとした時の口実に、「室内をいろいろと手直ししなければならないので。それにストーブの位置も移動しなければならないので」とあったのも気に掛かる。
 今どき、百万円以上もする薪ストーブを設置している家は、あの横手市内を探しても二軒と無いことであろう。
 あの家のあのストーブは、吹き抜けの在る一階のあの位置に在ってこそのストーブなのである。
 それなのに、今更、下手な大工に粗末な材料を使わせて、あれこれと小細工するのだとすれば、実に馬鹿げていて、実にけち臭い話なのだ。
 あの家の表庭の三種類の葡萄は、間も無く実を熟す頃であろう。
 裏庭の七本のブルーベリーの大木からは、ほろほろと熟した実が毀れていることだろう。
 今年のプルーンの出来はどうであっただろうか?
 百株余るカサブランカと、五百株以上の水仙は今年も咲いただろうか?
 アケビの実や山法師の実やユスラ梅の実は今年もなっただろうか?
 毎年現れていた体長一メートル余りの屋敷神の大蛇は今年は現れたであろうか?
  〔返〕 葡萄棚の葉陰に棲める蛙らをぺろり飲み込むあの青大将はも   鳥羽省三
      逝きし児の年を数ふる如くして捨てたる家をあれこれ思ふ      々


○ 梅雨ふかく老い人がひたすら習ふ部屋墨の香りのほのかに満つる  (横浜市) 赤塚初江

 詠い出しの「梅雨ふかく」が効いている。
 じっとりと湿った「梅雨」の季節の空気の中に、「墨の香り」が「ほのかに満つる」「部屋」で、「老い人」は「ひたすら」お習いに励んでいるのである。
  〔返〕 お習ひは良寛のうた薄墨の香り漂ふ暗き部屋にて   鳥羽省三


○ さっぱりと坊主頭にして泳ぐふるさとの海友の命日  (笠間市) 北沢 錨

 「ふるさとの海」で「さっぱりと」した「坊主頭」で泳いだ後は、しんみりとした気分で、「友」の墓参りをするのである。
  〔返〕 さっぱりと坊主頭で参りますお供え物はビール二缶   鳥羽省三

今週の読売歌壇から(8月10日掲載・そのⅢ)

2010年08月25日 | 今週の読売歌壇から
[俵万智選]

○ 新宿で小田急線にのりかえて旅のおわりをかみしめている  (海老名市) 玉川伴雄

 その昔、小田急江ノ島線・長後駅付近の高層住宅に住んでいた頃、私は教員仲間の一人と一緒に、新宿二幸前に集合して、山梨県の勝沼近辺のワイナリー巡りに参加したことがあった。
 その頃は長男がやっと幼稚園に入ったばかりであったが、私が電車やバスに乗って、桃の花咲く遠くの村まで行くと言うと、この幼稚園児が「僕も行きたい、僕も行きたい」と言い出して聴かなくなったので、已む無く主催者の<ワインアカデミー>に電話をしたら、「お子様の座席はご用意出来ませんが、バスの中では、お父様のお膝の上にお乗せになられるんでしたらどーぞ」という次第と相成りましたので、お子様をお膝の上にお乗せになられてのワイナリー巡りとは相成りました。
 現地では、行く先々のワイナリーで、自家製のフランスパンやチーズやソーセージをつまみにしてのワイン試飲会が開かれ、一杯二杯と試飲するうちに、大人の大半はワイン漬けになってしまったのであるが、子供向けに葡萄液や他のジュース類を用意しているワイナリーが多く、我が家のお子様もそれなりにご満足のご様子でありました。
 最終訪問先の某大手醸造会社の見学コースで盛大なワインパーティーが開かれた後、帰路はあちこちの桃の花畑などを横目で見ながら、新宿二幸前に到着して解散という運びと相成ったのでありましたが、私と教員仲間の某氏とは、共に小田急江ノ島線沿線の住人であったので、「新宿」でバスから「小田急線にのりかえて」の帰宅となったのであるが、その頃になると、すっかり旅行気分が身についてしまった我が家のご長男は、「小田急線に乗ってしまうと、もう旅行もお終いか。僕つまんない。お家に帰りたくない」などと言い出した。
 すると某氏は、「旅行はまだまだ続くんだよ。新宿から君のお家の在る長後駅までは、この旅行の最終コースさ。もうワインは飲めないけど、チュウインガムでも噛んで、旅行の最終コースを楽しみなさい」と言って、私とお子様の口にガムを一枚づつ入れ、小田急線の車中に居るのにも関わらず、いきなり「ガムで乾杯。今日の勝沼ワイナリー巡り、お疲れ様でした」と言い出して、私たちばかりでは無く、周りの乗客たちまでびっくりさせたのであった。
 そういう訳で、「新宿で小田急線にのりかえて旅のおわりをかみしめている」という、この一首は、私の思い出とも重なって、大変興味深く観賞させていただきました。
  〔返〕 二幸にてピロシキ買ってお土産に小田急線は旅の途中だ   鳥羽省三 


○ 海女たちの数だけ桶が波にゆれ海の底にも夏が来てをり  (愛西市) 坂元二男

 「海女たちの数だけ桶が波にゆれ」という表現は、ただ単に「波にゆれ」ている「桶」の数だけ「海女たち」が海中に潜っていることを説明しているだけでは無く、「桶」を揺らす「波」が、夏の暖かく柔らかい「波」であることをも示しているのである。
  〔返〕 桶の数だけの海女らが素潜りで真夏の海にあわび採り居り   鳥羽省三


○ 死んでから三年経ちし弟が夢の中にて初めて話す  (群馬県) 斎藤祐史

 本作の作者・斎藤祐史さんと「死んでから三年経ちし弟」さんとは、「弟」さんの生前から、あまり親しく話さない仲だったのでありましょうか?
 「死んでから三年経ちし弟」さんが、「夢の中にて」お兄さんに「初めて」話した話の内容は、一体いかなる話だったのでしょうか?
 作者より年齢の少ない「弟」さんが、「三年」も前にお亡くなりになったのは、いったい何が原因だったのでしょうか?
 「弟」さんの早逝に、本作の作者はどのように関わっていたのでしょうか?
 或いは、関わっていなかったのでしょうか?
 本作に具体的に描かれていない、斎藤祐史さんご兄弟の謎はまだまだ多い。
  〔返〕 殺(や)ってから七年過ぎた被害者が夢枕に立ち俺は眠れぬ   鳥羽省三 


○ 駐車券を入れろと連呼し呑み込めばとたんにしずまりバー上がりたり  (沼津市) 森田小夜子

 ホテルやデパートや大型スーパーマーケットや遊戯施設などの駐車場での出来事をおもしろ可笑しくお詠みになったのでありましょうが、実際の駐車場の<駐車券入れ嬢>の話し方はもっともっと優しく、「駐車券をお入れ下さい」「駐車券をお入れになりますと出口のバーが上がりますから、どーぞお通り下さい」などと、美人女性の涼やかな声で言うのである。
  〔返〕 「注射針さっさと刺せ」と駄々を捏ね刺せば刺したで「痛い」と怒る   鳥羽省三
 とは、病院風景と言うよりも、白いお粉を必要とされる方がお集まりになって居られる場所の風景でありましょう。


○ 幾つかの島に立ち寄り人は皆レジへと向かふ船のごとくに  (所沢市) 鈴木照興

 「幾つかの島」とは、スーパーマーケットのそれぞれの売り場のことであろう。
 買い物に訪れた人々は、<野菜売り場>、<食肉売り場>、<魚売り場>、<お菓子売り場>、<果物売り場>、<レトルト食品売り場>などに思い思いに「立ち寄り」、買いたい品物を籠に入れたら、港に「向かふ船のごとくに」「レジへと向かふ」のである。
  〔返〕 幾つかの島に立ち寄り荷を積んで連絡船は消息を絶つ   鳥羽省三


○ 抜け殻となったじょうろをぶら下げて濡れて輝く植物を見る  (高島市) 宮園佳代美

 草花に水をやる為に、水をたっぷりと入れた「じょうろ」はかなり重いから、作者が、水をやり終えて空になった「じょうろ」を「抜け殻となったじょうろ」と形容して言うのは、無理の無い表現であると思われる。
 「濡れて輝く植物を見る」という下の句は、単独に見てもなかなかの表現であるが、頭に「抜け殻となったじょうろをぶら下げて」という上の句を置いて読むと一層素晴らしい。
  〔返〕 抜け殻になった夫婦が連れ立って札所巡りの懺悔の道行き   鳥羽省三

今週の読売歌壇から(8月10日掲載・そのⅡ)

2010年08月24日 | 今週の読売歌壇から
[小池光選]

○ 選手らの笑顔撮らんと携帯を差し上げる腕腕フラミンゴの群  (熱海市) 岸 浩子

 野球やサッカーが終わったばかりのグランドで、<ヒーローインタビュー>を受けている「選手らの笑顔」を「撮らん」として、スタンドを埋めた人々が、一斉に「携帯を差し上げ」ている場面は、現代社会の風俗として既にお馴染みである。
 だが、誰よりも素晴らしい写真を撮ってやろうとして「差し上げ」た大勢の人々の「腕腕」を「フラミンゴの群」に例えたのは、本作の作者・岸浩子さんの大手柄である。
 彼や彼女らの「腕腕」こそはまさしく、アフリカのビクトリア湖の朝空けに、一斉に飛び立たんとしている、百万羽の「フラミンゴ」の長い首そのものである。 
  〔返〕 さだまさし歌うは『風に立つライオン』我らファンの腕はしびれて   鳥羽省三


○ 扇風機首を回して右を向き少し考えまた振り返る  (仙台市) 岩間啓二

 「扇風機」と言えば、一時代前に活躍した送風器具のようにも思われるが、今年の夏は、その昭和の夏のヒーローたちに沢山お目にかかった。
 「首を回して右を向き少し考えまた振り返る」という描写は、活躍中の「扇風機」の様子を、実に鮮やかに捉えた表現である。
 それとは別にこの措辞は、政治や思想上の<右向き・左向き>などということをも思わせて面白い。
  〔返〕 思索する者の如くに扇風機少し右向きまた振り返る   鳥羽省三


○ 木漏れ日の流れのうへにゆれてをり井上成美の余生おもへり  (市原市) 井原茂明

 
 上の句は少し分かり難いが、「夏の午後の『木漏れ日』が、小川の水の『流れのうえ』に『ゆれて』いる」というわけである。
 本作の作者・井原茂明さんは、その夏の静寂の中で、大日本帝國・最後の海軍大将「井上成美の余生」のことを思っているのである。
 親英米派の米内光政や山本五十六の人脈に属した「井上成美」は、日独伊三国軍事同盟や日米開戦に強硬に反対したが、立場上、日本軍の重慶無差別爆撃の実施やガダルカナルに飛行場の建設を提言するなど日本の戦線拡大にも関わってしまったので、終戦後は、贖罪の為に人前にはほとんど出ることが無かったから、<沈黙の提督>とも呼ばれた。
  〔返〕 夏の陽に井上成美思ひ居り笠智衆に似しあの提督を   鳥羽省三


○ 二十八で逝きたる森の石松の墓石はあはれすこぶる小さし  (群馬県) 丸山錦一

 たかがヤクザに過ぎない男の「墓石」が、大きかろうと小さかろうと、私たち堅気の者の生活には何ら関係無さそうにも思われるのだが、その「すこぶる」小さい「墓石」が、他ならぬ「森の石松の墓石」とあらば、私たちの心の中にも、少しぐらいは、ものの「あはれ」を催すのである。
  〔返〕 二十五で逝きにし兄の墓石の前に生ひたる川原撫子   鳥羽省三


○ 淡赤き山桃の実は梅雨の空に君の乳首のごとく愛しき  (川口市) 大塚叶人

 一見、生易しい内容の歌のように思ってしまいそうな歌ではあるが、実のところはかなり生々しい内容の歌なのである。
  〔返〕 山桃の赤き実はめば偲ばるるあの日あの時酸ゆき思ひ出   鳥羽省三

 
○ 階段でふらつく我を支えしは腕にタトウの黒き人なり  (小金井市) 酢谷啓示

 「黒き人」の心の温かさは人も知るところである。
 「タトウ」の「腕」に一瞬慌てたが、やがては、その親切をありがたく受け止めたのでありましょう。
  〔返〕 泡風呂でふらつく我に与へしは胸にタトウの白き美女なり   鳥羽省三   


[栗木京子選]

○ 心臓から遠いところに若さ見ゆ冷房部屋の素足サンダル  (伊丹市) 山崎清子

 「心臓から遠いところ」とは、手足の指先であり、身体中で最も冷え易い「ところ」である。
 したがって、「冷房部屋」での「素足サンダル」は、若くなければやれないことでありましょう。
  〔返〕 心臓に最も近い心臓が冷えたといふのは冷めたといふこと   鳥羽省三


○ ついでにと不祝儀袋求めたり花の扇子をえらびしあとに  (浜松市) 藤田文子

 「不祝儀袋」の買い置きをするのは縁起が悪いという理由で、普通はしないことであるが、どうしてもということで、「花の扇子」を選んで買った「ついでに」という理由をくっ付けて買ったのでありましょう。
  〔返〕 ついでにと買い置きしていた不祝儀の袋は今もあの時のまま   鳥羽省三


○ 津和野駅降りし頃よりゆっくりと時間溶けだす鳶の鳴く声  (吹田市) 鈴木基充

 「津和野駅」には、私も過去三回「降り」立った。
 レトロなSLから降りて、あの小さな駅頭に立つと、確かに「時間」が「溶けだす」ような感覚に捉われた。
 五句目に「鳶の鳴く声」とあって、やや安易な結び方とも思われるが、街空に「鳶の鳴く声」がする風景にも、今となってはなかなか出会えないから、これはこれで致し方無いことであろうか?
  〔返〕 こくのある刺身醤油と酒・魁龍 橋本本店津和野駅最寄り   鳥羽省三 


○ 大方のテナント去りし雑居ビルに燦と灯ともる法律事務所  (下関市) 磯辺喜佐子

 何処も同じシャッター通りの「大方のテナント去りし雑居ビルに」、「燦と灯」を灯して「法律事務所」が頑張っているのだが、その「法律事務所」は、他の「テナント」とは異なって、採算が取れるだけの顧客を掴んでいるので、頑としてその「雑居ビル」から動こうとしないのであろうが、考えようによっては、「法律事務所」が法律を楯にとって、建て替え計画の進んでいる、その「雑居ビル」に居座っているようにも思われる点が面白い。
  〔返〕 法律で四角四面を囲いして賃借ビルに居座る事務所   鳥羽省三


○ 麦二升三里の道を背負ひ来てパンと換へたる十二歳の夏  (埼玉県) 小林 実

 数字合わせの短歌としてはなかなかの出来である。
 それは、作者ご自身の過去の生活体験に基づいて詠んだ作品だからでありましょう。
  〔返〕 小糠一斗二畝の畑にばらまいて三里の山道歩いて帰る   鳥羽省三

今週の読売歌壇から(8月10日掲載・そのⅠ)

2010年08月23日 | 今週の読売歌壇から
[岡野弘彦選]

○ 首すぢのたしかな気配わが肩に死神を負ふ夏のゆふぐれ  (高槻市) 長沢英治

 くされ縁で繋がるある女の話に拠ると、「首すぢ」は、やがて「肩」に掛かって来たり背中に背負わなければならなくなったりする、霊類の「気配」を感じる身体の重要な箇所なのだそうだ。
 彼女は、苦難に満ちた彼女自身の人生の中で、そうした「首すぢのたしかな気配」を数回感じ、その都度何か現実のものとは異なる重いものを背負わされたが、そのものに対する彼女自身の適切かつ真摯な対応を通じて、人生の苦難を脱して来たのだと言う。
 高槻市在住の長沢英治さんは、「夏のゆふぐれ」に「わが肩に死神を負ふ」「首すぢのたしかな気配」を感じたと仰る。
 人間が走行中の自動車の前に飛び出したり、山道を歩いていて首吊りに手ごろな枝を探していたりする瞬間は、そうした瞬間ではないでしょうか?
 長野県在住の作家・某氏の作品を読むと、一見、科学的判断に長け、知性の塊のような彼でさえ、そうした死への衝動に駆られたことが何度かあったそうだ。
 彼も又、「わが肩に死神を負ふ」「たしかな気配」を感じる、敏感なる「首すぢ」の所有者なのかも知れません。
  〔返〕 首筋に膏薬貼った老嬢が女風呂から突然消えた   鳥羽省三


○ 疎開の寺訪へばかの日の僧は亡く楠の大樹に湧く蝉しぐれ  (神戸市) 足立伴子

 大変失礼なことを申し上げるようではありますが、今から六十五年以上も前に学童疎開の一員としてお世話になったことのある田舎の「寺」を、ひょっとしたら「かの日の僧」にお逢いすることが出来るのではないかという期待を、ほんの少しでも抱いて訪れたのだとしたら、本作の作者・足立伴子さんは、なかりの程度、老耄の世界に足を踏み入れられた方ではないか、と思われます。
 「かの日の僧」がお亡くなりになっていたのは当然のことであり、その「寺」の境内に生えている昔懐かしい「楠の大樹」とその「大樹に湧く蝉しぐれ」とが出迎えてくれたことは、遙々と訪れた彼女にとっての何よりの慰めだったに違いありません。
  〔返〕 昨日来たマクドナルドにまた行くと目当てのバイトは既に辞めてた   鳥羽省三


○ 曇天に鳶なきめぐるあたりより次第に空のあをさ広がる  (我孫子市) 原美佐子

 本作を漢字書きを多めにして、「曇天に鳶鳴きめぐる辺りより次第に空の青さ広がる」としたら、如何なものでありましょうか?
  〔返〕 晴天を二分割する飛行機雲その白きより悲しみの湧く   鳥羽省三


○ お互ひに腰が痛いとかこちつつ畦の草刈る老いたる二人  (東京都) 森田 厚

 「お互ひに腰が痛いとかこちつつ」今日も田圃の「畦」に出て「草」を刈らねばならないところに、この「老いたる二人」の楽しみがあり悲しみも在るのでしょう。
 昨今流行りの<肩掛け式草刈り機>を用いての作業ならともかく、旧式の<草刈り鎌>を用いての作業の場合は、作業している間中、中腰にならなければなりませんから、とてもじゃないがたまりません。
  〔返〕 痛むなら腰揉み器械を買えばいい土地持ち百姓余裕あるはず   鳥羽省三


○ 笹百合にちなみて祖父がつけしならむ母の名早百合老いてすこやか  (白井市) 毘舎利道弘

 他の百合に先駆けて咲き、そして萎む「早百合」が、「老いてすこやか」とは、真に解せないことでありましょう。
 それよりも何よりも、本作の作者・毘舎利道弘さんの<毘舎利>という姓が、私にとってはとても珍しく感じられました。
  〔返〕 毘舎利氏は三代続きの易者にて黙って座ればびしゃりと当たる   鳥羽省三 

○ 霧しろく流るる暁のはちす田に茎立つつぼみなべて天向く  (西条市) 山本美知子

 「茎立つつぼみ」が「なべて天」を向いているのは、夜明けを待って開花する準備をしているのである。
 やがて霧が晴れ陽が昇れば、パチンと弾けるようにして花が開くのである。
 「茎立つつぼみなべて天向く」という表現に、崇高な意志のようなものが感じられる。
  〔返〕 霧低く流るる暁のはちす田はものみななべて柔らかに見ゆ   鳥羽省三 


○ 臥してみる窓一面の蠍座は身をよぢりつつ移りゆくなり  (志摩市) 近藤きみ子


 「蠍座」は、日本では夏から初秋にかけて、宵のころ南の地平線上に見える雄大なS字型の星座である。
 「臥してみる」とは、この星座が宵の南天の地平線上ぎりぎりに見えることから、視線を低くして視なければならないことを指して言うのであろうが、この星座の一等星である赤星・アンタレスに対する畏怖心や、この星に因んで<蠍座の女>という言葉があることから、その言葉に対する忌避感などをも表わしているのだろうと思う。
 また、「窓一面の蠍座は身をよぢりつつ移りゆくなり」という表現は、この星が南天に現れてから消えて行くまでの実態を表わすとともに、<蠍座の女>と呼ばれる性悪のダンサーが、男性を魅惑し陶酔境に誘う為に、自分の自慢の肉体をくねくねと「よぢり」ながら舞台で踊る様などを思わせていて面白い。
  〔返〕 性悪で魅惑的なる蠍座は舞台の下にひれ伏して見よ   鳥羽省三
 

○ 満潮に獲物くはへて月の夜のなぎさを低く五位鷺はとぶ  (鴨川市) 落合とほる

 「五位鷺」という水鳥の生態をよく観察して詠んだ作品である。
  〔返〕 干潮に獲物探せるウミガラス朝の渚をどよもして鳴く   鳥羽省三


○ 足腰のうごく幸せありがたし老いのひと日がけふもくれたり  (日立市) 鈴木良平

 「老いのひと日」が「足腰のうごく幸せ」を「けふもくれたり」と、老後の一日に健康で居られることに感謝している、といった内容の作品かと思ったが、どうやら早とちりの誤読であったようだ。
 誤読を防ぐ為には、せめて「けふもくれたり」を、「けふも暮れたり」と表記して欲しかったと思う。
  〔返〕 好き放題言へる幸せありがたし減らず口叩き今日も暮らしつ   鳥羽省三

今週の読売歌壇から(8月2日掲載・そのⅢ・改定版)

2010年08月17日 | 今週の読売歌壇から
[栗木京子選]

○ おにぎりの天辺に光れ塩の粒富士山頂に今日立つ娘  (東京都) 三輪祐子

 本作の作者の三輪祐子さんは、富士山行に出掛けた「娘」さんに手作りの「おにぎり」を持たせたのである。
 「富士山頂に今日立つ」のは自分では無く、自分の「娘」さんなのに、つい力を入れてしまって、「おにぎりの天辺に光れ塩の粒」などと言ってしまうのは、相も変わらぬ親心というものである。
 「おにぎりの天辺に光れ塩の粒」とは良くぞ言ったり。
 三角形の頂点の「富士山頂」に、三角「おにぎり」を持った「娘」さんが立つ。
 そして「娘」さんが手に持った三角「おにぎりの天辺」で、「塩」の結晶が<母の愛の結晶>とばかりに光り輝いているのである。
  〔返〕 おにぎりを巻いたる海苔は故郷の佐賀の鹿島の最上の海苔  鳥羽省三
 三輪祐子さんの故郷は佐賀県で無いかも知れません。
 だが、私の友人の峰松三四男・雅子さんご夫妻は、お二人とも佐賀県鹿島市のお生れで、「海苔と言えば佐賀の鹿島。佐賀県鹿島産以外の海苔は、やたらにごわごわしているばかりで、不味くて食べられないばってん」と仰るのが口癖だから、この返歌に於いては、敢えて<故郷・佐賀鹿島>を強調させていただきました。 


○ 夕暮れの施設は船のように見え母の部屋にも明かりのともる  (小平市) 栗原良子

 「施設」と言っても、<高齢者介護施設>に限らずさまざまの「施設」がある。
 例えば、東京ドームや日産スタジアムなどのような競技場も<スポーツ施設>という名の「施設」なのである。
 然るに、昨今の世の中では、「施設」と言えば<高齢者介護施設>ばかりを指して言うことの不思議さよ、哀しさよ。
 評者の少年時代には、「施設」と言えば<母子寮>や<授産場>などの<母子家庭救護施設>を指していて、私の小学校時代の級友のK君は、ある<母子寮>から通学していた。
 彼の母親はご主人との間にK君とその弟さんの男子二児を得た後、戦後間も無くご主人に先立たれ、その<母子寮>に付設されていた<授産場>で働いて、K君とその弟さんを養育していた。
 そんな気の毒な事情も省みずに、私の通っていた小学校の児童のほとんどと先生の中の数名は、K君兄弟のことを<施設の子>という別称で呼んでいました。
 <施設の子>は貧乏だから、うかつに遊んだりしたら学用品やお金などを盗まれるかも知れない、という訳です。
 そういう次第で、「施設」のという言葉の中身は時代と共に変化して行くのでありましょう。
 ところで、本作の作者・栗原良子さんは、「夕暮れ」になって、「母の部屋にも明かりのともる」高齢者介護施設を、別世界を見るような、まどろんだ眼差しで見ているのである。 「こんな海に浮かぶ『船』のような不安定な施設にも、『夕暮れ』ともなれば世間並みの家のように『明かり』いうものが灯って明るくなるのだ」と思って、ほっと胸を撫で下ろすような気持ちで、<施設>という言葉を受け止めているのである。
  〔返〕 あの<施設>卒業した後K君は東京・恵比須の寿司屋に就職   鳥羽省三
 

○ この路を通ったはずの自死をせし彼の心に思いを馳せる  (糸魚川市) 猪又久子

 「自死」をした「彼」が「通ったはず」の「路」を、通勤か通学の都合で毎朝・毎夕必ず通らねばならないとしたら、彼女の「こころ」には、一体どんな「思い」が「馳せる」のだろうか?
 私事ながら、少年時代の評者は<糸魚川>という地名に憧れを抱いていた。
 渓谷に<万葉翡翠>がごろごろ転がっている<糸魚川>。
 そこはまさしく夢の国、別天地に違いなかった。
 そういう訳で、成人して教員になったある年の夏、その憧れの地<糸魚川>まで出掛けようとして、東京から夜行列車に乗って、信濃大町まで行ったのはいいが、折悪しく、突如、大糸線が不通となり、<別天地・糸魚川>まで行こうとする宿願は、未だ果たせないままで終わっている。
 本作に接して私は、その<別天地・糸魚川>にも、「自死」をしなければならない青年が居たと知り、この地上には憧れるに足る土地は無いような思いがして愕然とした。
  〔返〕 万葉の翡翠輝く糸魚川その聖地にて自死する若者   鳥羽省三


○ 筍はごみになる量多いとて茹でて届けてくるる優しさ  (相模原市) 荒井 篤

 新百合ヶ丘の<スーパー・SATY>の火曜市に行くと、入り口近い野菜売り場でいきなり異様な光景に出くわす。
 お客の多くは一本九十八円の玉蜀黍の売り場に群がり、その皮剥きに余念が無く、他のお客が其処を通って別の売り場に行こうとしても、容易には行かれないのである。
 玉蜀黍の皮剥きに熱中している人たちは、同じ一本九十八円の玉蜀黍でも、実入りの良いのと良くないのがあることを知っていて、また、玉蜀黍は「ごみになる量」が「多い」ことをも知っていて、まるで熱中症に執り付かれたようにして、玉蜀黍の皮剥きに熱中しているのである。
 本作の場合は、新百合丘のスーパーの場合とは異なって、自家生産の「筍」を、わざわざ茹でた後、皮を剥いて「届けてくるる」知人の気持ちの「優しさ」を述べたのである。
  〔返〕 ゴミになる玉蜀黍の皮剥いて売り場に捨てる主婦の優しさ   鳥羽省三
      実入り良き玉蜀黍を買いたくて皮剥く面の皮の厚さよ       々


○ 爆音を閉ざして低き梅雨空の下連なりて遍路バス行く  (西条市) 一原晶吾

 昔気質の評者にとっては、そもそも「遍路バス」という存在自体が気に食わない。
 徒歩で行ってこそ価値もご利益もある「遍路」を、「バス」を連ねて行くとは何たることか!
 「爆音を閉ざして低き梅雨空の下」「連なりて遍路バス行く」とは、間然する所が無い詠風であるが、「遍路バス」の乗客たちには、お大師様は何一つご利益をお与えになられないかと思われる。
  〔返〕 鉦鳴らし八十八箇所行く時は草鞋を履いて徒歩立ちで行く   鳥羽省三


○ 門灯の下に蛙の住みをりて日毎に太る鳴くこともなく  (下野市) 川中子とよ子

 「門灯の下」に「住みを」る「蛙」は、「門灯」に群がる夏の虫を食べて「日毎に太る」のである。
 「鳴くこともなく」なったのは、彼の欲望が、目下性欲を忘れて食欲だけに集中しているからである。
  〔返〕 飛んで灯に群がる虫を食べ過ぎて胃腸カタルを起した蛙   鳥羽省三 



[俵万智選]

○ リビングのテレビを消してめいめいの部屋で見ている同じ番組  (伊丹市) 山崎清子

 家族と言えども、家中の者が同じ部屋に集まり、同じ番組に見入り、お互いに馬鹿面を曝して居られるほど、人間の面の皮は厚くないのである。
  〔返〕 リビングのテレビに虚ろな眼を向けて家族一同待ってる出前   鳥羽省三


○ 隣家の枇杷はたわわに実りたり我も小鳥になりたく思う  (東京都) 森田 厚

 評者としては、「『なりたく思う』のなら、なればいいじゃん」と言うしかない。
 単なる思い付きに過ぎない、この程度の作品が<読売歌壇>の、しかも<俵万智選>の二席とは呆れ返ってしまう。
 新聞歌壇に投稿して、入選して掲載される場合でも、いい入選の仕方と悪い入選の仕方との二つのケースがあるようだ。
 本作のような入選の仕方は明らかに後者の場合であり、この作品が入選したからといって、それ以後の本作の作者には、なんら益するところが無いどころか、単なる思い付きに過ぎない作品を入選させた、<読売歌壇>とその選者とを舐めてしまうことも充分に考え得るのである。
 選者の俵万智さんは、他でも無くご自分が<読売歌壇>の選者をやっている意味について、この際、じっくりと考えるべきでありましょう。
 ところが、その選者の俵万智さんの選評には、「つぶやくような思いがピタッと七七に乗った下の句がいい。豊かに実った枇杷に対して、これ以上の賛辞はないだろう」とある。
 「これ以上の賛辞はないだろう」とは、この一首に対する選者の評言のことだろうか?
  〔返〕 白桃のたわわに実る夜の園二顆捥ぎ採りて心遣らなむ   鳥羽省三


○ 捨てようと手に握っていたぼろ布が涙を拭くのにちょうど良かった  (土浦市) 樋口直子

 選者の評言に、「一首全体が、ある状況の比喩なのだろう。身近すぎて疎ましくさえ思っていた存在が、辛い出来事に出会ったとき、思いがけない支えになってくれることがあるものだ」とある。
 評言中の「一首全体が、ある状況の比喩なのだろう」というところまでは大変宜しい。
 ところが、「身近すぎて疎ましくさえ思っていた存在」という語句が、「捨てようと手に握っていたぼろ布」の解釈として適切かどうかについては大いに疑問であるのである。
 とは言え、「当たらずと言えども遠からず」と言うべき評言かとも思われるから、評者としては、余計困ってしまうのである。
  〔返〕 堕ろそうと思ってた子であったけど今の私を支えてくれる   鳥羽省三


○ 苦瓜の葉の間より仰ぐ空犬の形の雲走りだす  (佐倉市) 薄井 隆

 この夏に流行っている、団地のベランダなどに日除けとして植える一方、収穫も期待できる、あの「苦瓜」のカーテンの「葉の間より仰ぐ空」から「犬の形の雲」が見え、見えたと思ったら途端に雲行きが変わったことを、「犬の形の雲」が急に「走り」出した、と言ったのでありましょう。
 語と語の取り合わせ及び着眼点がすこぶる宜しい。
  〔返〕 虫除けと日除け代わりの苦瓜の棚に咲いたる花も可愛い   鳥羽省三


○ 缶入りのサクマのドロップばらまいたようにきらきら咲くポーチャラカ  (京都市) 五十嵐幸助 

 真夏の庭に数多の極彩色の小さな花をつけて、「きらきら咲くポーチャラカ」の様子は、まさしく「缶入りのサクマのドロップばらまいたよう」である。
 取り合わせと見立てが宜しい。
  〔返〕 ユザワ屋で買ったビーズの粒粒のポーチャラカの花 真夏の座布団   鳥羽省三

今週の読売歌壇から(8月2日掲載・そのⅡ)

2010年08月16日 | 今週の読売歌壇から
[小池光選]

○ 真剣に「読売歌壇」を読む人を驚きて見るマクドナルドに  (春日部市) 土屋和子

 Jリーグファンや阪神ファンやパチンコファンなどに逢うことはよくある。
 また、芸術・芸能方面に於いては、団十郎ファンや韓流ドラマファンや美空ひばりファンや喜久扇ファンなどに逢うことは勿論、ごく希には俳句ファンにだって逢うこともある。
 しかしながら、歌会の席上以外の場所で、短歌ファンに逢ったことは山田かつて無いし、そうした傾向は、評者のみならず、日本社会の一般的、普遍的傾向であるに違いない。
 ところが、本作の作者・土屋和子さんは、事もあろうに、あの「マクドナルドに」於いて、「真剣に『読売歌壇』を読む人」に出逢ったのだと言う。
 その「驚き」や、一体如何ばかりであったのでありましょうか?
 表現上の細かな点について申せば、「読売歌壇」を括った括弧は<無くもがな>という感じであるし、五句目の「マクドナルドに」は「マクドナルドで」にした方が佳かったかな、という感じもしないでもありません。
  〔返〕 キンキラの伊太利屋好みのカップルにいつも出逢うよ日比谷スタバで   鳥羽省三


○ 見るからに草食系の青年が声絞り出す教育実習  (京都市) 峰尾秀之

 よくぞ詠んだり。
 教育実習生のみならず、学校現場で出会う「青年」の多くは「草食系」男子そのもので、「苧の腐ったような、こんな軟弱なやつらに、日本の未来を担う子供たちを預けられるか?
」と思うのは、再々である。
 とは言うものの、評者もかつては、北山たけし張りのなよなよとした教員として教壇に立っていたものであった。
  〔返〕 見るからに肉食系の美少女がダンプ転がす246号線(ニーヨンロク)で   鳥羽省三


○ スポーツ紙ひらき読む時朝陽射し琴光喜の躰袈裟切りにする  (常総市) 渡辺 守

 「スポーツ紙」の三面にて「射す」「朝陽」に「袈裟切り」にされた後の、元不人気大関「琴光喜の躰」いまいずこ。
  〔返〕 そのうちに女子プロレスの司会者として頑張るか田宮なにがし   鳥羽省三


○ 手から肘口から顎へ滴らせ丸かじりするから旨い桃  (国分寺市) 大沢早苗

 評者は、「手から肘口から顎へ滴らせ丸かじりする」という「桃」の食べ方が嫌いである。
 一顆三百円以上もするあの「桃」を、「手から肘口から顎へ」果汁を「滴らせ」、台所の洗い場の上で、上半身裸で「丸かじり」しなければならないのは、あの果物の最大の欠点であると思われる。
  〔返〕 薄皮を剥かないままで八つ割りにして食べるのが好きよ白桃   鳥羽省三


○ 雨の中週に一度の休日は競輪場に行かねばならぬ  (青梅市) 増田 正

 「行かねばならぬ。行かねばならぬ。どんなに雨が降ろうが、槍が降ろうが、週に一度の休日は競輪場に行かねばならぬ」というところでしょうか?
 久々に『天保水滸伝』の平手造酒を思い出しました。
  〔返〕 平塚の競輪場の場内で予想売ってた髭面いずこ   鳥羽省三   


○ 古写真捨てる作業が滞るスコットランドの野薔薇の刺に  (福井市) 佐々木博之

 一首の背景となった場所は、日本国内の北陸のとある町のとある民家の庭である。
 本作の作者・佐々木博之さんは、その庭で、身辺整理の一環として、「古写真」を破り、焼き「捨てる」「作業」に熱中していたのであるが、ふと気がついてみたら、庭に生えている「スコットランドの野薔薇の刺に」指を刺されていたのである。
 その時の作者の頭の中には、「いくら『古写真』とは言え、青春の思い出がいっぱいに詰まった写真は破り捨てたくない、焼き捨てたくはない」という思いが在ったに違いない。
  〔返〕 古写真破る作業の手を休めイングランドの薔薇に見入りぬ   鳥羽省三


○ 亡き夫がときどき家へ帰り来て旅の本出し見ている茶の間  (稲敷市) 磯山豊子

 本当のような嘘の話。
 いや、嘘のような本当の話かも。
 今日は8月16日。
 旧盆の<送り盆>に当たります。
 本作は、旧盆に読むのに相応しいミニ怪談でありました。
  〔返〕 亡き父の愛用してた古時計・RADOの針が時々進む   鳥羽省三


○ 一匹になった金魚は取り立ててする事も無く水槽の中  (筑紫野市) 二宮正博

 「一匹になった金魚は」「取り立ててする事も無く」「水槽の中」を泳ぐとも無く泳いでいるばかりである。
 連れ合いに死なれて一人になった者は、一通り泣き疲れた後は「取り立ててする事も無く」、家の中に居て、あれこれ細々としたことをしているばかりである。
 蓋し名作である。
  〔返〕 泳ぐ気の無くなったあと琉金は夕陽の向こうに眼をやるばかり   鳥羽省三


○ 学習効果持たぬ夏の蚊のかなしさよ追へども追へども死線に挑み来  (横浜市) 折津 侑

 「学習効果」を「持たぬ」ことは、必ずしもマイナスばかりとは限らない。
 あの阪神タイガースが、巨人戦になると死に物狂いの闘いを挑み、五試合に一試合ぐらいは勝つことがある。
 それは何よりも、「学習効果」という余計なものを持たぬ「夏の蚊」が、フマキラー噴射という「死線」の前に、果敢に「挑み来」るようなものではないだろうか?
  〔返〕 学習効果持たぬ相撲の稀勢の里負けても負けても愚直に当たれ   鳥羽省三


○ サイレンを鳴らさず走る消防車洗車のあとの如く濡れをり  (北九州市) 末次奎司

 本当は火事場からの帰りでありましょうが、この暑さの中ですから、筑紫川の川原にでも行って、水浴び方々「洗車」をして来たのではないか、とも考えられましょう。
 一首全体、なかなかの表現であるが、特に「洗車のあとの如く濡れをり」という下の句が秀逸である。
  〔返〕 サイレンを鳴らして走るパトカーがモテルの前で突如停まった   鳥羽省三    

今週の読売歌壇から(8月2日掲載・そのⅠ・決定版)

2010年08月15日 | 今週の読売歌壇から
[岡野弘彦選]

○ かぞいろは逝きてひさしも井戸古りてむかしのごとく雪の下さく  (前橋市) 矢端桃園

 「かぞ」は<父>の意であり、「いろは」は<母>の意である。
 本作を詠んだ作者の意図の一つは、「かぞいろは」という古色蒼然たる語を現代短歌中に採り入れ、細々として消え入りそうなその命を甦らせようようとした点にある、と評者は理解している。
 それでは、作者・矢端桃園さんが、「かぞいろは」というこの言葉を敢えてお使いになった意図なども汲み取ったうえで、拙いながらも、先ずは本作の口語訳を試みてみよう。
 即ち一首の意は、「ああ今は亡き父よ、母よ。私に<命>を与えて下さった父母がお亡くなりになってから久しく時が経ってしまった。そして、父母がご在世当時は我が家の唯一の生活用水源としてお使いになっていた庭の釣瓶井戸も、今ではお使いになる人も無く、使用する必要も無くなり、すっかり古びてしまった。しかし、昔懐かしいその井戸の周りには、父母のご在世当時と同じく、『雪の下』の花が小さくて目立たないながらも美しく咲いている。ああ、この『雪の下』の花を見ると、父母のご在世当時のことがしきりに思い出されることだ。ああ、今は亡き懐かしい父母よ」といったところでありましょうか?
 かくして、この一首の重みのほとんどは詠い出しの「かぞいろは」という古語にかかっているのである。
 作者が、この一首を敢えて、読売歌壇の岡野弘彦選にご投稿になったのは、極めて適切かつ意義あるご判断であった、と評者は思う。
  〔返〕 過ぎ逝きて還らぬものはかぞいろは匂ほへど散りぬる花も還れよ   鳥羽省三


○ ものの芽の萌えたつひかりやはらかしすくすく癒えよ妻の病も  (秋田市) 渡辺五郎

 上の句の「ものの芽の萌えたつひかりやはらかし」という季節の把握とその表現が素晴らしい。
 本作の作者・渡辺五郎さんにとっては、本作の創作意図は、この素晴らしい上の句よりも、「妻の病」を「すくすく癒えよ」と願う、下の句の方に傾いていたのではないか、とも思われるが、この上の句の表現の素晴らしさは、ごく平凡な発想から生まれた下の句の表現とは比較するべくも無い。
  〔返〕 ものの芽の萌え立つ今を赤々と妻よ命の炎を燃やせ   鳥羽省三


○ 年ごとに過疎となりゆくわが村に家あたらしく建ちて灯ともる  (胎内市) 小泉 長

 八年間の田舎住まいから逃れて来た評者にとっては、本作は、作者の「かくあれかし」という願望が込められている一首のように思われてならない。
 国体開催に伴っての国道拡張工事の恩恵を受けて、かつての評者が居住していた市のごく限定された地域に於いて、ほんの一時期、本作に詠まれたような現象が見られたが、その最中もそれ以後も、市全体としての人口の急激な減少傾向は止まず、それは滅びの前に咲いた徒花のようにも思われたのである。
  〔返〕 年ごとに道路新設され行けど走る車はその度に減る   鳥羽省三 


○ 物置のかげより今年もあふれいで咲ける十薬梅雨に入りたり  (福津市) 大庭愛夫

 「十薬」は、あの匂いや棲息する場所などを考えると、およそ風情の対象にされるに相応しい植物とも思われないが、感性細やかな歌人たちからは、あの白い花の趣きが存外に愛されているご様子で、それを題材にした作品は多い。
 本作も亦、そうした傾向の一首であり、「物置のかげより今年もあふれいで咲ける十薬」
という着眼点はなかなかであるが、五句目を「梅雨に入りたり」と常套句で逃げたのは宜しくない。
 新聞歌壇の常連クラスの歌人の投稿作品には、こうした傾向の作品が多く見られるが、こうした安易な詠風の作品を投稿することを止めて、ご自身の本来のご創意とご力量をを充分にご発揮なさった作品をお詠みになられ、ご投稿なされることを願う。
  〔返〕 物置のど真ん中にぞ座を占めて石油ストーブはやスタンバイ   鳥羽省三
 福津市は、津屋崎土人形のふるさとの福岡県津屋崎町と周辺地区とが合わさって誕生した市かと思われる。
 私が<津屋崎土人形>の蒐集の為に、かつて同地を訪れた時は、もう二月半ばなのに積雪が見られた。
 本作の作者・大庭愛夫さんも、いつもの手馴れたお手並みで、本作のようなどうでも良い作品ばかりを投稿し、入選して悦に入っていると、もう直ぐ日本海から激しい北風が吹いて来て、石油ストーブのお世話になったりしますよ。
 ご油断召されぬように。


○ 街川に鯉はぬる音たかくして雲の裏ゆく月しらみ照る  (稲城市) 山口佳紀

 材料を多く詰め込み過ぎた点や声調などに着目し、「明治初期の<御歌所派>歌人の作品のような趣きあり」として退けられる危険性無きにしもあらずではあるが、幅十メートル足らずの「街川」が通りの片側を流れる田舎町の暗い夜の雰囲気が醸しだされていて、それなりの風情が感じられる。
  〔返〕 月見んと路地を出づるも折からの風に煽られ軒端にぞ寄る   鳥羽省三


○ 終戦日かちたる国は勝利の日平和いのるは負けし国のみ  (国分寺市) 森田 進

 作者は、本作の短歌作品の完成度の低さを充分に認識しつつも、述べたいと願ったことを十二分に述べたので、それなりの満足感を覚えているのでありましょう。
 即ち、十二分に述べたというその内容とは、主として「平和いのるは負けし国のみ」の部分でありましょう。
  〔返〕 負けてこそ平和を祈る終戦日あの日の空の青さ忘れず   鳥羽省三
 敗戦の日の正午の空の青さを知っている評者は、今や絶滅歓迎種に属するのでありましょうか?   


○ 絶えまなく竹群かぜになびく夜を祖母はしきりにふるさとを恋ふ  (東京都) 鈴木えり子

 背戸山が「竹群」になっていて、「かぜ」が吹くと、その「竹群」が「なびく夜」ともなれば、作中の「祖母」ならずとも「しきりにふるさとを恋ふ」こともありましょう。
 「道具立ての一語一語に風情があり、一首を成さぬ前から既に<詩>となっているのを、名人上手のお手並みによって、よく<三十一音>にまとめた」という積極的な評価が下されることも在る一方、「ひと昔もふた昔も前の詩歌に登場する語を連ねただけの、常套的手法に拠る、既視感在り在りの作品である」という消極的な評価が下されることも在り得ましょう。
  〔返〕 竹群を撫でて秋風さやぐ夜を我は手習ふ良寛の書を   鳥羽省三


○ 訃報きぬ小暗き庭にしろじろと灯のごとしくちなしの花  (志木市) 吹雪雪乃介

 「死人に口無し」などという世俗的な格言を持ち出したら、作者・吹雪雪乃介さんに対しては、あまりに失礼なことでございましょう。
 「くちなしの花」は、初夏の「庭にしろじろと」咲くものである。
 「訃報きぬ」という時が時だけに、その「しろじろと」咲く「くちなしの花」が、喪家の「庭」に「しろじろと」ともる「灯」の如く見えたのでありましょう。
 「天の時を得、地の利を得た作品」などと、またまた大変失礼なことを申し上げたくなりました。
 「見立ての興」は、短歌作品を評価する基準の一つでありましょう。
  〔返〕 弔家出ず 真昼の庭をしらじらと染めて空しき梔子の花   鳥羽省三


○ 胡瓜トマトそだちいまだしと言ひながらああまた妻が畑みにゆく  (下妻市) 神郡 貢

 「我が家の孫がいちばん可愛く、我が畑の胡瓜トマトがいちばん美味しい」とは、本作に接しての評者の即興の格言である。
 「『胡瓜トマト』の育ちが見事」と言っては「畑」を見に行き、「胡瓜トマトそだちいまだしと言ひながら」「畑みにゆく」のが、家庭菜園のオーナーシェフならぬ、オーナー主婦たる「妻」君殿の日課なのである。
  〔返〕 水遣りが足りなかったと言いながら我が家で採れた捻り茄子食う   鳥羽省三


○ 離農してむなしき日々を癒やされしつばめ巣立つを夫と見おくる  (堺市) 寺内千寿

 今年の晩春の一日、私は大阪に単身赴任中の長男に案内されながら、境市内を自転車で見物して来た。
 与謝野晶子の生家が目抜き通りのど真ん中に在ったり、千利休がその水でお茶を立てた井戸がビル裏に在ったり、鉄砲鍛冶の屋敷が棟割り長屋みたいだったり、市内のいたる所に古墳が在ったりして、見どころは色々様々であったが、私にとっての最大の見どころは、市内のいたる所に張り巡らされた、参議院議員・谷川秀善氏のポスターであった。
 私はかねがね、あの容貌魁偉な政治家に注目して居り、大変失礼ながら、「『秀れて善を為す者は、秀れて悪を為す者である』と言うが、あの悪たれ坊主め、いったい何処に根を張っているからといって、いつもあんなに威張りくさって居られるのか」などと、半ば畏敬し、半ば嫌悪していたのであったが、たまたま訪れた堺市が、谷川秀善氏の強固な地盤の一つであったことを確認し、その底力の凄さに恐れ入ったことであった。
 ところがごく最近、その彼が、自民党の参議院議員会長に一旦は決まり掛けたのに、若手議員らの反乱に遭ってなり損ねてしまったのである。
 本作の作者・寺内千寿さんは、あの谷川秀善氏の選挙地盤の堺市の住民ながら、「離農してむなしき日々を癒やされしつばめ巣立つを夫と見おくる」などという、優しい歌をお詠みになって居られる。
 本作の作者が「離農してむなしき日々」を過ごさなければならなくなったのは、かつての自民党政治の貧弱な農業政策にも、その責任の一端が在るとも思われる。
 <参議院議員・谷川秀善>のポスターが隈無く張り巡らされた、あの堺市の一廓で、「離農」した後の「むなしき日々」を「つばめ」に「癒やされ」、その「つばめ」が「巣立つ」のを「夫と見おくる」女性歌人がいらっしゃるのである。
 さすが<百万都市・堺>。
 堺市は広い。
 参議院議員・谷川秀善氏のご武運とご舌鋒のなお尽きざることを願い、併せて、寺内千寿さんのご文運のますます盛んならんことを祈念し、本日の筆納めとさせていただきたい。
  [返] 票数は同数ながら抽選で負けた谷川秀善あわれ   鳥羽省三  

今週の読売歌壇から(7月26日掲載・そのⅣ)

2010年08月13日 | 今週の読売歌壇から
[俵万智選]

○ 検針に来たるバイクのおばさんの勝ちましたねと大声にいふ  (市原市) 井原茂明

 私は常々、電気・ガス・水道の「検針」の方のご苦労の程は並大抵のものではないと思っている。
 以下の事柄は、最近、我が家に東京ガスの「検針」に訪れた男性の方からお聞きした話である。
 彼は現在のお仕事に就く以前に関東地方のある田舎町の水道局にお勤めになられ、上下水道使用料の「検針」のお仕事をなさって居られたそうである。
 彼は「検針」のお仕事を効率良く進めるために、担当地域のご家庭の犬や猫は勿論のこと、時には屋敷の守り神の青大将をも手懐けていらっしゃったと仰るのである。
 彼の勤務していた町の水道局では二ヶ月に一回ずつ「検針」を行うそうだが、ある大きな御屋敷に彼が「検針」に訪れると春から秋に掛けての期間は、水道のメーターボックスの扉の上に、毎回、彼の訪問を予期していたようにして、そのお屋敷の守り神かと思われる身の丈六尺に余る青大将がとぐろを巻いているのだそうだ。
 彼はその地区の「検針」を担当するに当たって、前任者から事務引継ぎの一環としてそのこととそれへの対応策を聞いていたので、最初はとても気味が悪かったのであるが、前任者からご教授された通り、「お屋敷の守り神様。今月もお世話になりますので宜しくお願いします」と小さな声で挨拶すると、守り神様は彼の言葉の意味がお解りになると思われ、メーターボックスの陰の草原にするすると退いて行かれ、「検針」のお仕事には何ひとつ支障を与えなかったそうである。
 さて、本作は<ワールドカップ南ア大会>関連の一首と思われ、件の「検針」の「おばさん」は、仕事道具の「バイク」のエンジンを止めるや否や、訪問先のご家族の方に「(岡田ジャパン)勝ちましたね」と「大声にいふ」のだと思われる。
 しかし、いくらお仕事大切、お口上手の「バイクのおばさん」と言えども、軒並みに「(岡田ジャパン)勝ちましたね」と言いまくっている訳ではあるまい。
 前述の「お屋敷の守り神様・・・・(後略)」と同じように、この「「バイクのおばさん」は、それぞれの場合に応じた言葉を予め用意しているのであって、本作の作者・井原茂明さんちの場合は、ご主人の井原茂明さんがすこぶる付きのサッカーファンであることを、ある情報筋を通じて知っていたから、「おはようございます」という挨拶を交わすような気分で、「(岡田ジャパン)勝ちましたね」という言葉を掛けたのだと思われる。
 「バイクのおばさん」のこうしたご努力は、彼女の勤務先の責任者にも大いに評価して頂かなければならないし、私たち短歌創作者と言えども、彼女の行動から何らかの学ぶべき点があるはずだ、と私は思うのである。
  〔返〕 「ジャイアンツ昨日も負けた」とお隣りの意地悪婆さん減らず口きく   鳥羽省三


○ 青空に攻め入るごとくぐんぐんとゴーヤの蔓は我が丈を越す  (東京都) 小菅暢子

 「ゴーヤ」の成長期の勢いは、まさに「青空に攻め入るごとくぐんぐんと」と形容するに値する。
 察するに、本作の場合は、団地の中層住宅の一軒のお宅が日除け代わりにベランダにネットを張って植えた「ゴーヤ」ではないだろうか?
 たかが「ゴーヤ」。
 されど、その「ゴーヤの蔓」が「青空に攻め入るごとくぐんぐんと」伸びて「我が丈を越す」という段階に至っては、本作の作者・小菅暢子さんは、この夏を「ゴーヤ戦争」の夏と位置づけていらっしゃるのではないだろうか?
  〔返〕 今未明ゴーヤ三顆を採り得たり豚肉及び豆腐ご用意   鳥羽省三


○ 白菜の葉の一枚を天下とし青虫はをり昨日も今日も  (広島県) 荒巻武子

 詠い出しは大仕掛けであるが、末尾の一句を「昨日も今日も」で逃げたのは、俵万智選の入選作としてはやや安易とも思われる。
  〔返〕 白菜の葉の四、五枚を塩漬けに晩餐準備これでOK   鳥羽省三 


○ 見なかったことにすると言ふをみなごをのせて心を揺らすぶらんこ  (東京都) 三輪祐子

 「見なかったことにすると言ふをみなご」とあるが、この「をみなご」は、一体何を「見なかったことにする」と言うのでしょうか?
 一首の中に不明の箇所が一箇所ぐらい在るのは、その作品の世界に鑑賞者を誘い、その作品の深みを増すことになったりするのであるが、本作の場合は、「いくらなんでも」という感じがする。
 選者のお考えや如何に。
  〔返〕 見なかったことにするとふ思ひにて処女(をとめ)の漕げる鞦韆の前   鳥羽省三


○ 掘り出した卒業記念えんぴつの芯のやわさが脳に伝わる  (名古屋市) 杉 大輔

 タイムカプセルに「卒業記念」」の「えんぴつ」を入れていたのであろうが、そのタイムカプセルを何年ぶりに「掘り出した」のだろうか?
 「芯のやわさが脳に伝わる」という<七七>は、やや硬直に過ぎるだろうか?
  〔返〕 掘り出した卒業記念の鉛筆で生まれ来る子へ手紙を書いた   鳥羽省三
 この返歌の場合のタイムカプセルは、小学校の校庭に埋めた二十五年前のタイムカプセルである。


○ アヤメユリアジサイキスゲタチアオイ久美浜湾の岸を彩る  (生駒市) 宮田 修

 開花時期がわずかに異なる花が並べられているのではないか、との疑問は残るが、春から夏に掛けて咲く花を順序よく羅列しているようにも思われる。
 作中の「久美浜湾」は、京都府京丹後市久美浜町に在る観光地で、四季を通じて整然と植えられた草花が美しいと聞いている。
  〔返〕 ハギキキョウクズブジバカマオミナエシオバナナデシコアキノキリンソウ   鳥羽省三


○ 全盲の妻が干しゐる洗ひ物ぼくが指示する右30度  (鹿児島市) 松本清展

 「右30度」と「指示する」前に自分がやればいいと思うのであるが、それなりの事情があってのことだろうとも思う。
 所詮、夫婦のことは夫婦に任せるしか無いのだろう。
  〔返〕 全盲の妻女が干せるハンカチの白きが涼し梅雨の晴れ間に   鳥羽省三


○ 南天の緑あせたる古き葉もガラスに揺らぐ影は美し  (池田市) 今西幹子

 冬越しをした「南天」の葉は色が褪せ、「古き葉」としか言えないくらい貧弱である。
 しかし、その「南天」の貧弱な「古き葉」も、「ガラス」に「影」を映して「揺らぐ」時は美しい、と作者は言うのである。
  〔返〕 帰国後の松井秀樹はボロボロで打率二割も当てに出来ない   鳥羽省三


○ 去年の今日つらいことでもあったかな五年日記が空欄のまま  (東村山市) 高野珠遥

 かれこれ二十年にもなるが、ある年の暮れに妻が<五年連用日記>を買って来た。
 彼女に日記を付けるような殊勝な習慣があるとは聞いていなかったし、その日までただの一度たりとも、彼女が日記帳を買いたいという話をしてはいなかったから、私は不思議なことがあるものだと思ってその理由を問い質してみた。
 すると彼女は、「来年からは人生の終盤戦に入るから、一日一日の生活を大切にして生きて行きたい。だから、年が明けたら毎日毎日日記を付けることに決めたのです」と、尤もらしい顔をして話すのであった。
 そして年明け早々に彼女は日記を付けることを始めた。
 ところが、その日記付けはものの十日と持たなかった。
 未だ松が取れない頃、私と妻との間に些細なことが原因で口争いがあった。
 彼女が、日記を付けることを止めたのはその日からであった。
 年の初めの数日間だけの天候や来客や食事の内容などについて記し、それ以後の数百日間は空白のままの日記は、その後の数ヶ月、彼女の机の引き出しに入れていた様子だったが、一年余り経ってからその行方について訊ねてみたら、あのまま書かずに捨ててしまった、ということであった。
 「五年日記」の「去年の今日」の分が「空欄のまま」になっていることを理由に、「去年の今日」、何か「つらいことでもあったかな」と思い返してみるのは、尤もなことである。
 人間というものは例外無く弱い。
 人間は弱いが故に、堅く決意してやっていたことでも、些細な事をきっかけにして、簡単に止めてしまったりするものである。
 本作は、人間一般に普遍的に備わっている<弱さ>を、やや軽く優しいタッチで詠んだものである。
 〔返〕 そう言えば去年の今日はカナダにて山井茂が自殺したっけ   鳥羽省三 


○ はじめての携帯電話を前に置き自分で自分に電話してみる  (東久留米市) 中里正樹

 かなり前のテレビ番組に「はじめてのお使い」という番組があって、ほとんど毎回視ていたように思うが、若者社会がケータイ無しには成り立たなくなっている今日、初めて携帯電話を購入した高齢者を出演させる、「はじめての携帯電話」と番組をレギュラー番組として放送したら、老若男女を問わず、かなりの視聴率を稼げるに違いない。
 七十歳になって、生まれて初めて携帯電話を買い求めた鳥羽省三という男が、購入先のNTTドコモの店から出るや否や、自分のケータイの番号を記したカードを<たまプラ駅>前の街頭に立って配ろうとするのだが、なかなか受け取って貰えない。
 ごくたまに、手を出す年寄りがいるので、その手に強引に押し込むのだが、「ちえっ、ティツシュかと思ったのに」と舌打ちされて捨ててしまわれる。
 そうしたことで、悲しみにうち暮れて家に帰った鳥羽省三は、さんざん考えた末に、自分のケータイ番号を押して、自分で自分に電話しようとする・・・・・・などなど、話は尽きようとにも無い、といった内容の番組である。
 着メロは、「おれは死んじまったど。おれは死んじまったど。天国行きだど」というあの名曲である。
  〔返〕 初めての携帯電話に驚いて産気づきたるお隣りのタマ   鳥羽省三 

今週の読売歌壇から(7月26日掲載・そのⅢ)

2010年08月12日 | 今週の読売歌壇から
[栗木京子選]

○ 病院の近くを走る路線バスつり皮空いても握り棒混む  (高槻市) 上辻正七郎

 「路線バス」の中のあの「棒」の存在と用途は知っていたが、「握り棒」という即物的かつ散文的な名称で呼ばれているとは知らなかった。
 私は私なりに自分の年齢を自覚しているので、バスに乗車する場合はなるべくならば座席に腰掛けるようにしているが、それが叶わない時には、「つり皮」では無く「握り棒」の厄介になることにしている。
 何故ならば、バスが急停車したような場合は「握り棒」の方が「つり皮」より安全だからである。
 したがって、「病院の近くを走る路線バス」は「つり皮」が「空いて」いても「握り棒」が「混む」のは、ごく当然のことと思われる。
 それにしても、「路線バス」の車中を題材にした歌に「握り棒」が登場したのは珍しい。
 何よりも、本作の作者・上辻正七郎さんの着眼点の良さに注目したい。
  〔返〕 病院に通へるバスは病院の送迎バスで料金無料   鳥羽省三


○ あら草は手の感触で引いてゆく日々の暮らしにどこか似ており  (旭市) 服部恒子

 逆から言えば、「日々の暮らし」は「あら草」を「引いてゆく」ように、「手の感触」を頼りにして営んで行かなければならない、ということになる。
 <歌は読むもの、暮らしはしてみるもの>という感じである。
 いいことを教えていただいた。
 歌を詠む場合や歌を鑑賞する場合も、結局は同じことであろうと思う。
 最初はあまり細かな点には拘らず、大まかなレイアウトを決めて詠む。
 すると、その後は、庭の「あら草」が、それを「引いて」いる者の「手」に付いて来るように、自然と纏まった形になるのである。
  〔返〕 家計簿も磁石も地図も不要なりこの手頼りに日々を過ごさん   鳥羽省三


○ イケメンの孫にバイオリン贈りたりこの子の未来まだ楽しめる  (千葉市) 中田節子

 一読すると、あまり出来の良くない息子夫婦への当て付けめいた内容の作品かと思われる。
 しかし、よくよく考えて読むと、あまり出来の良くない息子夫婦の息子である「孫」を「イケメン」と呼び、その「イケメンの孫」に、高価な「バイオリン」を贈ろうと言うのだから、本作の作者・中田節子さんとその息子夫婦との仲は、それほど険悪化したものではないらしいし、その上、その「イケメンの孫」に寄せる期待度も、「この子の未来まだ楽しめる」と言うのだから、この「イケメンの孫」もそのうちに馬脚を現すこともあるだろうが、今のところは可愛がれるだけ可愛がっておこう、といった程度のものであり、決して全面的な「バーバ馬鹿」振りを発揮しているわけでは無いと思われるのである。  
  〔返〕 イケメンの孫の親父もイケメンで元を糾せば我の腹から   鳥羽省三


○ 子供手当もらえぬ我が家に三枚の投票所入場券届く  (福岡市) 今橋和徳

 その「入場券」を持って「投票所」に行き、「子供手当」支給に反対している政党の候補者に投票するのだろうか、とは思うが、その実は?
  〔返〕 七人の息子娘は独立し今では孫が三十五人   鳥羽省三


○ 冷汗を拭ひつづけし先週のハンカチまとめアイロンかけぬ  (八王子市) 皆川芳彦

 先週は亭主の私が<ぎっくり腰>を起したり、私の田舎の境港から両親が訪ねて来たり、長女の愛子が、突然「幼稚園に行きたくない」と言い出したりして、妻の扶美江も「冷汗」を掻き続けだったのである。
  〔返〕 露台にて洗濯物を取り入れる妻の扶美江の背丈の高さ   鳥羽省三


○ 栗の木は実となる花の鮮やかに盛りあがり来て厨まで匂ふ  (幸手市) 新井佐和江

 観察眼が細かいばかりでは無く、嗅覚まで利かしているが、必ずしも客観写生という感じの作品ではない。
  〔返〕 栗の木は雌花盛り上げ咲き香り厨の窓に虻を誘ふ 鳥羽省三


○ 川風が音運び来る遠花火消灯過ぎし病床に聴く  (久喜市) 深沢ふさ江

 遥か昔、未だ中学二年の頃、私も「遠花火」の「音」を「病床」で聴いたことがあります。
 未だ国民健康保険制度も確立していなかった頃のことですから、その「遠花火」の「音」が、私を病院のベットから何処かへ追い立てる為の「音」のように聴こえたものでした。
  〔返〕 工場の煙と共に昼花火 中二の我は涙して聴く   鳥羽省三


○ 退院は沙羅のわかばに風清くじゃがいもの花白きこの日に  (桜川市) 友常満里子

 「沙羅のわかばに風清くじゃがいもの花白き」風景は、退院を予定していた「この日」の、病室の窓から見えた風景でしょうか。
 それとも、退院して行く途中の道端の風景でしょうか。
 いずれにしても、どんなに嬉しく、どんなに印象深かったことかと、しみじみと観賞させていただきました。
 この作品と前後の作品とに、選者・栗木京子さんの配列の妙を感じました。
  〔返〕 『沙羅の花咲く峠』とふ名画での主役・三船は偽医者なりき   鳥羽省三


○ あれこれと不安を問ふに若き医師はすべて老化と一刀両断  (ひたちなか市) 広田三喜男

 本作に登場して「すべて老化と一刀両断」する「若き医師」は、言葉を知っていると言うべきでしょうか、知らないと言うべきでしょうか。
 いずれにしても、その「若き医師」に命を預けた患者としての本作の作者・広田三喜男さんの「不安」と戸惑いが、実にリアルに感じられます。
  〔返〕 あれこれと不安はあるが結局は一刀両断己が責任   鳥羽省三
      あれこれと迷い悩むが人生で一刀両断出来はしないさ   々 


○ 夏の朝昨日と何も違はねど恐竜柄のネクタイ選ぶ  (瑞穂市) 渡部芳郎

 いや、「昨日」と「何」か違ったことがあった筈である。
 例えば、朝刊に「ハマコー逮捕」の記事が載っていたとか?
  〔返〕 夏の夕昨日と少し気分変えバタフライにてひと泳ぎする   鳥羽省三 

今週の読売歌壇から(7月26日掲載・そのⅡ)

2010年08月11日 | 今週の読売歌壇から
[小池光選]

○ どう見ても紛ふかたなき八十の顔になりたり万歳三唱  (横須賀市) 竹山繁治

 人間の心理は複雑である。
 年齢一つを例にしてみても、一人の人が、ある時は出来るだけ若く見られたいと思い、また別のある時は実年齢以上の年輩の者に見られたいと思ったりもするのである。
 自分の顔を鏡に映して見て、「どう見ても紛ふかたなき八十の顔になりたり」と思い、「万歳三唱」を叫ぶ、という本作の作者は、極めて温厚な性格で品行方正な男性ではないだろうか、と私には思われる。
 三十三歳の女性が三十三歳の女性に見られたくないからこそ、インチキな化粧品訪問販売業者に騙されるのであり、六十歳の禿げ頭が六十歳の禿げ頭に見られたくないからこそ、誇大広告を専らにする鬘販売業者や毛生え薬輸入業者に騙されもするのである。
 したがって、八十歳の竹山繁治さんがご自分のお顔を鏡に映して見て、「どう見ても紛ふかたなき八十の顔になりたり」と喜び、「万歳三唱」を唱えていれば、其処には何一つの問題も発生せず、世界平和の思想は竹山繁治家を起点として、この地球上に瞬く間に拡大普及するに違いない。
 万歳三唱。
  〔返〕 三十のママさん議員が一重なる黒帯巻いて戦えるのか?   鳥羽省三
      中日の山本昌が四十四で勝利投手になり万歳す         々


○ ケーキの上のいちごとかシューマイの上のグリーンピースって感じ  (奈良市) 杉田菜穂

 ある女性が、「わたしって、『ケーキの上のいちごとかシューマイの上のグリーンピースって感じ』?」って言えば、男性にとっては、その女性のことが急に可愛くなるものである。
 だが、その同じ女性から、「あなたって、『ケーキの上のいちごとかシューマイの上のグリーンピースって感じ』!」って言われれば、とたんに憎たらしくなるものである。
  〔返〕 眼めぐりの付け睫とか目の上の描き眉って言う感じの役割り   鳥羽省三


○ この客は降りると賭けた次の駅そのまた先も座れず仕舞い  (小田原市) 安見 潤

 そういうことはよくあることですが、それにしても、「賭けた」って言うのは少し大袈裟ですね。
 野球賭博とは違うから、犯罪として罰せられたりはしませんが、かなり大袈裟ですよ。
 それに、あなたは何方と何を賭けるんですか?
 座席を賭けるんですか。
 小田急線の<新宿>から<相模大野>か<本厚木>辺りまでは、確かにとても混んでいますからね。
 それこそ、「賭け甲斐のある」ってやつでしょう。
 それから先はがらっがらっですがね。
  〔返〕 酔っ払いおじん寝転ぶ隣席はいつも空いてて誰も座らぬ   鳥羽省三


○ 病まざれど湿気を吸へる古畳のごとく重たし梅雨のわが身は  (稲城市) 山口佳紀

 「梅雨のわが身は」「湿気を吸へる古畳のごとく重たし」程度のことなら、誰にでもあることですよ。
 それに何よりも、詠い出しの「病まざれど」が羨ましい。
  〔返〕 治らねば瘴気を吸へる猫のごと廊下うろうろ歩むばかりぞ   鳥羽省三


○ ひさかたの光あかるきベランダに布団三枚他人の暮らし  (小平市) 栗原浪絵

 この「ひさかたの」は宜しい。
 手放しに宜しい。
 「ひさかたの光あかるきベランダに」とあるが、その「光あかるきベランダ」は、勝手知らない「他人」の家の「ベランダ」。
 その「他人」の家の「ベランダ」を手放しで見上げたところ、その手擦りに「布団三枚」が干されていた。
 その「布団三枚」を目にした途端、作者は、其処に「他人の暮らし」が営まれていることを知ったのである。
 その「布団三枚」から、本作の作者・栗原浪絵さんは、その「他人」たちの家族構成などを推測したりはしない。
 「他人の暮らし」はあくまでも「他人の暮らし」に過ぎなく、自分の暮らしでは無いからである。
  〔返〕 ひさかたの光り輝くステージに歌い踊るは他人のAIKO   鳥羽省三
 かつては自分のものであったアイドル歌手たちも、今では他人のものになってしまったのである。


○ 会釈して過ぎたる後をふり向ればまなこかち合ふばつの悪さよ  (二本松市) 内藤四郎

 こういうこともよく経験する。
 お互いに「会釈して過ぎたる後」に、お互いに「ふり向」くことはよくあるし、お互いに「ふり向」いたので、お互いの「まなこ」が「かち合」って、お互いに「ばつの悪さ」を感じることもよくある。
 その「ばつの悪さ」を、いかにも「ばつが悪」いようにして詠んでいる手際が宜しい。
  〔返〕 眼付けし通り過ぎたが恐くなり後振り向けばやつも振り向く   鳥羽省三   

○ 何十年振りだろう!泥鰌見たのは?急いで帰り妻に教える  (厚木市) 石井 修

 昨今の厚木では「泥鰌」が珍しいのでしょうか?
 私が住んでいた頃の厚木では、「泥鰌」どころか<蛞蝓>さえも珍しくなく、かえって自動車の方が珍しかったのに、とまで言ったら、冗談が過ぎるでしょうか?
 それはともかくとして、私が陸稲(おかぼ)を炊いて作ったご飯を、生涯たった一度だけ食べたのは、厚木の在の住人の同僚教師の家を訪問した晩であった。
 それにしても、本作の作者・石井修さんも冗談が好きな方らしい?
  〔返〕 何十日振りだろうか牛肉は? 宮崎牛はやはり美味しい!   鳥羽省三


○ 可愛らしきおばあちゃんになりたしと言へば即座に友は否定す  (海老名市) 栗原恭子

 「可愛らしきおばあちゃんになりたし」と言うような類の中年女性がこの頃多い。
 古希を越えた私からすれば、まるで女子高生みたいな年齢であり顔立ちであるのだが、娘や息子がある程度の年頃になると、彼女らは恥じらいも躊躇いもせずに、そんなことを言い出すのである。
 七十歳を過ぎたのにも関わらず、二人の孫に未だ「省ちゃん」と呼ばれている私は、この一首に関する限り、「可愛らしきおばあちゃん」になることを「否定」する「友」の側に立ちたいのである。
 しかし多勢に無勢、可愛らしいかどうかは他人の判断に任せるにしても、遠からず私も妻も、「おじいちゃん」「おばあちゃん」の位置に追い遣られるに違いない。
 何故ならば、年齢には全く不足が無いからである。
  〔返〕 省ちゃんがお爺ちゃんになった日に沢の田螺は阿弥陀被りす   鳥羽省三
 

○ 浦島のお伽は生きてはやぶさの戻れば首相は六人目なり  (常陸大宮市) 久下沼満男

 敢えて入選作とするにも及ばないような、平凡な発想に基づいた平凡な作品である。
 逆から数えて、「菅・鳩山・麻生・福田・安倍」と五人の名前は挙げたが、最初の一人の名前は挙げることが出来なかった。
  〔返〕 心魂を擦り減らしつつ戻ったが是といったるお土産は無し   鳥羽省三
      小泉は一人で五人分もやりそれでも懲りず息子に託す       々


○ ハンカチに欠伸を包む女(ひと) 見惚れいる間に我に移れり  (竹原市) 岡元稔元    
 「ハンカチに欠伸を包む」と言うが、言われてみれば確かに、そのような人に出会ったことが私にもある。
 そのような動作をする人の全てが必ずしも美人とは限らないが、仮に美人だったとしたら、私も亦、人並みにその人に「見惚れ」、彼女の「欠伸」が私に移ったとしたら、その匂いを香水を嗅ぐようなつもりで嗅ぐに違いない。
  〔返〕 昼日中ティッシュで欠伸を噛み殺し事のついでか鼻をかむ人   鳥羽省三

今週の読売歌壇から(7月26日掲載・そのⅠ)

2010年08月11日 | 今週の読売歌壇から
[岡野弘彦選]

○ 田植にはすこし寒いと思いつつ口出しできぬ齢となりぬ  (胎内市) 小泉 長

 「口出し」したら最後、「そんなこと言うんなら、自分でやってみたらどうだ。やれもしないくせに『口出し』ばっかりして」と言われてしまうから、体力に自信の無い高齢者は、うかつには「口出し」出来ないのである、とは一応の理屈である。
 それとは別に、水稲の品種改良や農機具の発達普及などのさまざまな点で、本作の作者が農家の担い手であった頃と今とでは大きな違いがあるから、本作の作者は、自分が出る幕では無いことを自覚しているのでもありましょう。  
  〔返〕 隠居にはかなり早いと思ひしに隠居せざるを得なくなりもし   鳥羽省三   

○ 棲む鳥のなき籠ひとつ昏れのこり野ばら咲きたり売り家の庭  (明石市) 中條節男

 夕方、「この家売ります」という立て札が立っている「売り家の庭」に、「棲む鳥のなき籠」が「ひとつ」置き残されていて、其処だけが何故か奇妙に明るかったのであろう。
 下の句に「野ばら咲きたり売り家の庭」とあるが、住む人が居なくなって、庭の手入れをしなくなると、真っ先に生えるのが「野ばら」やススキの類である。
 そのまま三年も経つと、塀の破れから<犬・猫・狐・狸>の類が出入りするようになり、挙句の果てには、庭の古木の洞に<木霊>などという異界の者まで棲むようになる。
 私は昨年の初夏(実質的には一昨年の晩春)、退職金のほとんどを叩いて建てた家を縁戚の者に託して首都圏での生活を再度始めたのであるが、その間、最も気になったのは、その家の始末についてであった。
 私たち夫婦が信頼して自宅を預けた縁戚の者が、間違いなく管理してくれるだろうか?
 常識外の低価格で譲渡する約束を交わしているが、果たして代金を払ってくれるだろうか? などなどである。
 しかし、こうした経験を通して今回解ったのは、持ち主不在の空き家に自由に出入りする<犬・猫・狐・狸>の類や<木霊>といった異類も恐いが、それ以上に恐いのは、私たちの心の間隙をついて、持ち主に無断で空き家を転売しようと画策した人間である、ということであった。
  〔返〕 住み慣れし家も人手に渡しけりふるさと横手は捨つるに如かず   鳥羽省三


○ 登校をこばみ自室にひき籠り四年目の児が金魚にもの言ふ  (名古屋市) 浅井清比古

 最初は、引き篭もっている「自室」に時折り出入りする、<アリ>や<トンボ>や<蝶>といった小動物の類。
 そのうちに、自分を含めた家族の者が愛玩している<金魚>や<犬・猫>の類にも話し掛けるようになる。
 やがてはその範囲が人間にまで及び、知らず知らずのうちに自室の外側の世界にも興味を示すようにもなる。
 かくして、「ひき籠り」への対応策は、まさに心理戦、神経戦、長期戦である。
  〔返〕 琉金は互みに尾鰭重ね合ひ花に藻草に戯れて居り   鳥羽省三


○ 倒産の会社の社長あいさつに来て期限切れの食品を置きゆく  (新潟市) 渋谷まこと

 例え「(賞味)期限切れの食品」であっても、自社製品を持って「あいさつ」に訪れたのは、「倒産」した「会社の社長」としては、精一杯の誠意の示し方であったのでありましょうか?
 一首全体、本来は笑っては済ませられない出来事を、独特のユーモアセンスで詠い上げ、飄々とした味わいさえ醸し出している。
  〔返〕 出がらしの煎茶など淹れ倒産の会社社長に最後のもてなし   鳥羽省三


○ 長生きができますよとの先生の言葉になごみ青葉路かへる  (千葉県) 酒井朝子

 「医者は知識よりも技術よりも先ず<心>が大事。医者として備えていなければならない要件は<温かい心と優しい言葉>。それ以外のものは、二の次、三の次です」とは、医者ならぬ石頭の我が連れ合いが常に口にしている言葉である。
 本作の作者・酒井朝子さんは、掛かり付けの病院の「先生」から「長生きができますよ」との、宝石のような「(お)言葉」を戴いて、どんなに嬉しかったことでしょうか。
 行く時は枯葉路に見えた道を「青葉路」と感じながら帰宅したのでありましょう。
  〔返〕 「わたくしもあなたと同じ病ひです」相も変はらず南木佳士言ふ  鳥羽省三
      「これからがあなたの実りの時です」と村の代診味なこと言う     々


○ もの食ぶるときわが唇を噛むことも老いし故かとひとりさびしむ  (福津市) 大庭愛夫

 「もの食ぶるとき」に、自分で自分の「唇を噛むこと」があったとしたら、それは確かに、自分が老境に入ったことの徴かも知れません。
 しかし、その事に限らず、自分で自分の「老い」を自覚しなければならないことは、とても辛く寂しいことであると、近頃は評者も亦、痛切に感じております。
  〔返〕 高からぬ石段にさへ躓きて己の老ひを己で知りぬ   鳥羽省三


○ 道路修理の使役終えきて地下足袋をぬぐにもくるし夕暮れの土間  (鳥栖市) 高尾政


 「道路修理の使役終えきて」とあるが、「使役」という硬直した言葉の意味に拘って解釈すると、本作の作者・高尾政彦さんは、作中の「道路修理」に土木会社などの従業員として有給で携わったのでは無く、居住集落などの構成員の義務として、一種のボランティアとして無給で携わったものと思われる。
 集落の年中行事の一つとして行われる小規模な「道路修理」だから、遊び半分で参加するという訳には行かない。
 集落で毎年一回程度行われる「道路修理」は、大型の土木機械などを使わずに鍬やスコップなどを使っての力仕事であるから、かえって疲れてしまい、一日の「使役」から逃れて家に帰り、いざ「地下足袋」を脱ごうとしても、脱ぐに脱げないほどの状態になってしまっているのである。
 「地下足袋をぬぐにもくるし夕暮れの土間」とあるが、「地下足袋」を脱ぐにも脱げず、「夕暮れの土間」に、ぐったりとへたり込んでしまっている一人の男の姿が、私たち鑑賞者の胸に迫ってくる。
 日本全国が<高齢化社会>に成り果ててしまった今、村落共同体の秩序を維持することは容易なことでは無い。
  〔返〕 「どこそこのお父(とう)はとんだ怠け者」村の噂は百里を走る   鳥羽省三


○ にくき人もいとしきものも皆遠し長寿むなしき日だまりに居る  (志摩市) 野村そのえ

 「長寿むなしき日だまりに居る」という下の句、真に然りと思われ、がっくりと来ました。
 と言うのは、私の周辺を見回して、「長寿」と言われるまでに長生きをした結果、それで栄耀栄華を満喫した、などと言う人はただの一人として居ないからなのです。
 大抵の人は、「あの人は五年も早く死んでいれば、あんな辛い思いをしないで居られたのに。なまじ長生きしたばっかりにあんな眼に遭って可哀そうでならない」などと、せっかくの「長寿」を空しいものに思われているのである。
 表現上の細かい点について言えば、「にくき人もいとしきものも皆遠し」という上の句は、「にくき人もいとしき人も皆遠し」、或いは「「にくきものもいとしきものも皆遠し」にする手もあった筈である。
 それなのにも関わらず、そのように杓子定規に統一しなかったところに、本作の作者の工夫が感じられる。
 また、最終句の「日だまりに居る」もなかなか宜しい。
 敢えて、欠点と言えないようなささやかな欠点を指摘すれば、一首全体を口語調で統一するならば、「皆遠し」の「遠し」を嫌い、評者なら「にくき者もいとし人も皆はるか長寿むなしき日だまりに居る」としたい。
  〔返〕 鳩山も小沢も菅もみな間抜け覇権争いしてる場合か   鳥羽省三 


○ 夕月のかげほのぼのと水面にゆれ峡の代田は田植日を待つ  (仙台市) 勝 美彰

 「代田」とは、<代掻き>の済んだ田のこと。
 通常は、田植の前日に<代掻き>を行う。
 したがって、「田植日」は明日なのである。
 「田植日」の前夜、「代田」の「水面」には「夕月のかげ」が「ほのぼのと」映り、僅かばかり吹いている風に「ゆれ」ているのである。
  〔返〕 峡の村 月は代田にかげ落とし早乙女たちは明日を夢見る   鳥羽省三


○ 昨日刈りし草の香しきり匂いたつ土手の草生をふみしめて行く  (東京都) 根本亮子

 本作に使用している単語の中で、唯一例外的に口語とは言えない語が、「昨日刈りし」という<初句>中の過去の助動詞「し」である。
 そこでこれを嫌って「た」とすれば、一首全体は「昨日刈った草の香しきり匂いたつ土手の草生をふみしめて行く」となるが、恐らくは、作者としても鑑賞者としても、この改作を良しとしないであろう。
 と言うことは、この作品は一首全体として、文語的発想に基づいて詠まれた作品と言うことになる。
 だとすれば、「匂いたつ」の「匂い」を、何故「匂ひ」にしなかったのだろうか?
 ささやかで目立たない欠点ではあるが、評者としては、その点が惜しまれる。
  〔返〕 今朝刈ったばかりの草が匂い立つ畦に腰掛け小昼など食う   鳥羽省三