臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

今週の朝日俳壇から(8月25日掲載・其のⅠ・木曜夕刊)

2014年08月28日 | 今週の朝日俳壇から
[金子兜太選]

(三郷市・岡崎正宏)
〇  水底の青の如くにかなかなかな

 日がな一日「かなかなかな」と鳴いている蜩の声を「水底の青の如く」と色彩感覚で捉えているのである。
 通常、蝉の鳴き声などを知覚するのは耳の働き、即ち「聴覚」に拠るのであるが、本句の場合は、目の働き、即ち視覚に置換して知覚しているのであるが、こうした手法自体は格別に目新しい手法ではありません。
 ところで、私の音感からすれば、蜩の声を文字で表す場合は「かなかなかな」と「ひらがな」で表すよりも「カナカナカナ」と「カタカナ」で表す方がより実感を伴った表現であると思うのであるが、で、いざ、掲句を「水底の青の如くにカナカナカナ」と書き変えてみると、蜩がただ徒に喧しくけたたましく鳴いているだけの感じになってしまい、結果的には原作のままの方が宜しいのである、という事に気付かされました。
 一句の御教示、大変有り難く拝受させていただきます。
 〔返〕  水底の青を切り裂き岩魚釣る
 澄み切った渓谷の水底から、二尺余りの岩魚を釣り上げる時は、恰も碧い鏡の鏡面を切り裂くような、視覚と触覚を伴った特異な感覚を味わったものでありました。
 私は、少年時代に父と一緒に郷里の最高峰・三本槍という山の麓の渓谷に出掛けて岩魚釣りを遣った事がありましたが、上掲の返句は、その時の経験に基づいて創作したものである。


(清瀬市・峠谷清広)
〇  熱帯夜昔の私と怒鳴り合い

 選者・金子兜太氏の寸評に「若き日も今も不甲斐なきわが身よ」とあるが、あの金子兜太氏にして、「わが身」を省みて「不甲斐なき」と感じる事が在るのでしょうか?
 〔返〕  熱帯夜わが身の裡の情熱し


(埼玉県皆野町・宮城和歌夫)
〇  体験の黙殺さるる敗戦忌

 そう、戦争体験も無い若造の胸先三寸で以って、私たちの可愛い孫世代が戦場に駆り出されようとしているのでありますから・・・・・・・。
 〔返〕  老い耄れは死ねとばかりの福祉行政


(八王子市・額田浩文)
〇  太陽の真下に地球ヒロシマ忌

 あの夏は、日本全国ただの一日として雨が降らず、私たちの狂った頭の天辺に太陽光が燦々と降り注いでいたように記憶しておりますが、勿論、是は私の記憶違いではありましょうが?
 〔返〕  太陽の熱に増されるピカの熱


(島根県邑南町・高橋多津子)
〇  病床の母照らすやも夏の霜

 今年の夏に、島根県邑南町では霜が降りたのでありましょうか?
 竜巻が起きたというニュースや雹が降ったというニュースには度々接したように記憶しておりますが、島根県で夏霜が降りたというニュースには接したという記憶が無いのであるが、是は私が呆け老人になってしまったからの事でありましょうか?
 〔返〕  頭髪に霜を戴く齢なれば鳥羽もトンビも否異剽露と鳴く


(八幡市・小笠原信)
〇  白鳥や貴族といふは首の長さ

 「貴族といふは首の長さ」という事は、昭憲皇太后や大正天皇や大正天皇の御生母の二位の局や、貞明皇后などの高貴な方々のお写真を拝するに付けてもよく理解されるのであるが、最近の皇室の方々、皇太子殿下やお妃の雅子妃殿下及びそのご夫婦のご息女様、更に申せば皇太子殿下の御妹様などは、孰れの御方も「貴族といふ」程の「首の長さ」には達していないとも思われますが、それは私の視力が衰えている所為でありましょうか?
 〔返〕  鶴首と名付けられたる瓶在りて今朝は二輪の黄薔薇活けたり


(京都市・山口秋野)
〇  花火の間うなじ見られている気配

 本8月28日の早朝、私は、東京都小金井市にお住いの上条多恵さんの御句(長谷川櫂選の七席)「桃の実はよろこびながら熟れにけり」を鑑賞させて頂くに当たり、かなり冗談気味に「しよってる」、即ち漢字書きにすれば「背負ってる」という動詞の意味や使用例などを解説させて頂いたように記憶しているのでありますが、その「しよってる」という動詞に因んで申し上げますと、本句の作者、即ち京都市にお住いの山口秋野さんも亦、かなり「しよってる」類の女性のようにお見受けしなければならないのである。
 山口秋野さんは、脳天気にも「花火の間うなじ見られている気配」などと平気の平左で仰って居られますが、それはご自身を美人だと思っている女性によく見られる傾向の現象、即ち「自意識過剰」と言うべき現象であり、誰が好き好んで、花火見物の最中に年増女の「うなじ」なんかを見るもんですか!
 増上慢もこれぐらいに達すると地獄の閻魔様の前に呼び出されて、キツイお仕置きをされましょう。
 今からでも決して遅くはありませんから、反省して下さい。
 (なんちゃったり)してしまいましたが、「花火」見物の間は、ともすれば、視線が前方にばかり集中し勝ちになりますから、どうしても、後方が無防備な状態になってしまいます。
 其処を突け狙うのが痴漢や掏摸の常套手段でありますから、出来得るならば、見目良き女性は花火見物などに出掛けないのが賢明でありましょう。
 〔返〕  横に掏摸うしろに痴漢の玉屋かな


(狭山市・清野綾子)
〇  あの人も汗ふく顔は写楽かな

 それを言うならば、
 〔返〕  鳥羽さんも汗ふく貌は写楽かな


(高松市・高城美枝子)
〇  子育ての頃には買へた西瓜かな

 そう!
 高松市にお住いの高城美枝子の仰る通りです!
 我が家に於いても、子育てに真っ最中の頃は、「西瓜」を三十個も買って来て、隣近所の子供達を集めて、豪勢な西瓜割り大会を催した事がありましたが、年金暮らしで二人暮らしのこの夏は、絶えて西瓜の面を拝んだ事がありません。
 「西瓜、西瓜、スイカ丸いか?酸っぱいか?そが肌を、ポンポンと叩くのが子育てしていた頃の私の癖なりき!」
 〔返〕  鳥羽さんもこの頃すっかり丸くなり


(千葉市・牛島晃江)
〇  シヤワー浴び昼寝を誰に詫びましよう

 今週の「金子兜太選」の白眉とも謂うべき傑作である。
 「シヤワー浴び昼寝を誰に詫びましよう」との、飄々とした物言いこそは、俳聖・松尾芭蕉の謂うところの「軽み」であり、小林一茶の句風に通じる「庶民性」でありましょう。
 何を隠しましょうか、私・鳥羽省三も亦、この夏は、暑さ凌ぎに「シヤワー」を「浴び」、誰に詫びる事も無く「昼寝」を楽しみました。
 〔返〕  シャワー浴び水割り一杯昼寝かな

今週の朝日俳壇から(8月25日掲載・其のⅡ・木曜夕刊)

2014年08月28日 | 今週の朝日俳壇から
[長谷川櫂選]

(豊中市・西京二郎)
〇  老残の忘恩の身に風死せり

 豊中市にお住いの西京二郎さんは、自らの半生を省みて「老残の忘恩の身」と断じ、「その『老残』かつ『忘恩の身』である私の為には、この暑さ盛りに『風』さえも死んでしまったのだ」と、猛暑続きの今年の夏を生き抜いて行く事の辛さを嘆いているのである。
 〔返〕  忘恩の徒輩(ともがら)なりと難じつつ安倍に楯突く小泉元総理  


(東京都・松村登美子)
〇  蝉時雨老いて従ふ子を亡くす

 「老いては子に従え」とはよく言うが、その従うべき「子」にさえも先立たれてしまった身の上であるならば、東京都にお住いの松村登美子さんにてっては、この夏の「蝉時雨」はさぞかし身に沁みる事でありましょう。
 〔返〕  初七日の日がな一日蝉時雨


(伊万里市・田中南嶽)
〇  夏痩せて更に父似となりし貌

 元々の「父似」の「貌」が「夏痩せ」して、また一段と「父似」の「貌」となってしまったと言いつつも、伊万里市にお住いの田中南嶽さんは、今は亡き父親の「貌」を懐かしく思い出し、「父似」の痩せこけた我が「貌」を「まんざら捨てたものでも無いな!」などと思っているのでありましょうか?
 〔返〕  夏痩せの貌も仕草も父似かな
      夏痩せのまた一段の男振り


(八王子市・中里信司)
〇  老妻の泥手や今朝の花茗荷

 朝の味噌汁の具として入れた「花茗荷」の香りは、八王子市にお住いの中里信司さんにとっては、何物にも替え難く、まるで自らが王侯貴族にでもなったかのような気分に浸っているのでありましょうか?(少々遣り過ぎではありませんか、との蔭の声あり)
 「それに付けても愛しくてならないのは、この『花茗荷』の香りを私に嗅がせる為に、朝も早よから裏の畑に出掛けて藪蚊に刺されながらも、裏の畑で働いて来た我が妻の泥塗れの節くれだった『手』てある!」とは、本句の作者・中里信司さんの偽らざる気持ちである。
 〔返〕  老妻の泥手愛しく玉茗荷


(福岡市・松尾康乃)
〇  颱風の道なき道を来たりけり

 「『颱風』に一定の通路が在って、いつもいつも中国大陸に上陸してひとしきり暴れ回り、ロシアの方に吹き抜けて行くのであったならば、さぞかし気分がいい事だろう」などと、科学的知識に疎い、私・鳥羽省三などは思ってしまうのであるが、この世の中の事の運びは、そんなに都合良くばかりは行きません。
 「颱風」の颱風たる所以は、「いつ発生し、どのような速度で、どのような進行方向を辿るのかが、予め判っていない点」に在るのであるから、私たち、颱風大国・日本に生れてしまった人々は、颱風発生のニュースに接する度ごとに右往左往してしまうのである。
 本句の作者、即ち福岡市にお住いの松尾康乃さんと仰る女性も亦、颱風大国・日本の国民の一人として、突如として襲来した「颱風」に右往左往しているのでありましょうか?
 〔返〕  颱風の軌道最中の博多湾  
      颱風の軌道逸れたり博多湾
 その昔の元寇の砌、我が国が彼のフビライ・ハーンの配下の元軍に屈服する事を逃れ得たのは、一重に大型颱風が博多湾に襲来したが為である事は、私たち日本人は、この際、肝に銘じて置くべきである。


(東京都・小玉正弘)
〇  敗戦日娘のスカートの寝押しなど

 あの「寝押し」という、さほど効果の無いお洒落を、中学生時代の私もよく遣らかしたものでありましたが、寝相が極端に悪い私の「寝押し」であるから、翌朝起きて見たら、新品のズボンが皺だらけになってしまっていた、などという事もありました。
 敗戦直後の物不足の頃に、本作の作者は、毎晩毎晩、可愛くてならない娘さんの「スカート」を「寝押し」なさったのでありましょうか?
 〔返〕  敗戦日背戸の渋柿食べし事


(小金井市・上条多恵)
〇  桃の実はよろこびながら熟れにけり

 「しよってる」、即ち漢字書きにすれば「背負ってる」と書く言葉は、「うぬぼれている・いい気になっている」という意味で使われ、私たちは日常生活の場面で、少しは見栄えのする女性の言行に対する悪口として、「あの女は確かに美人であるかもしんないけど、この頃ずいぶんとしょってるわねえ!」などと口にする事が多い。
 はけの里・小金井市にお住いの上条多恵さんも亦、かなり「しょってる」女性の一人でありましょうか?
 澄まし顔して「桃の実はよろこびながら熟れにけり」などと仰ってるけど、「桃の実」は何も貴女のルージュ塗れの口に入る為に「熟れ」て行くのではありませんよ!
 「桃の実」が、季節の変化と共に熟れて行くのは、自然の摂理と神の意思に拠るものであり、私たち人間は、老若男女・美醜に関わらず、一切合財、その進行に関わることが出来ません。
 貴女のような美しい女性は、世の助平な男性どもから、その艶やかな立ち居振る舞いに付けても、「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花、も一つおまけに唇は桃」などと持て囃されたりするかも知れませんけど、それで以って、物事の判断を狂わせて「桃の実はよろこびながら熟れにけり」などと、傲慢この上無い事を口にしてしまったら、持ち前の美貌が台無しになってしまいましょう。
 これからは言行によくよく注意しなければなりませんよ!
 〔返〕  川中島白桃といふ晩生種(おくて)在り 秋立つ街に購はれて行く


(越谷市・伊藤とし昭)
〇  大文字火を焚く人は熱からん

 「当たり前田のクラッカー」とは、昭和37(1962)年5月6日から同43(1968)年3月31日まで朝日放送(ABC)で制作され、TBS系列で放送されたテレビコメディ番組『てなもんや三度笠』の主役を演じた「藤田まこと」の決まり文句であったが、埼玉県越谷市にお住いの伊藤とし昭さんの入選句「大文字火を焚く人は熱からん」も亦、「当たり前田のクラッカー」の如き言辞を弄した迷句と言うべきでありましょうか?
 それを言うならば、「かき氷 氷掻く人涼しからん」「銭湯の釜を焚く人熱からん」「南極の越冬隊員寒からん」「泥鰌鍋煮られる泥鰌は熱からん」「イヌイット登校するとき寒からん」「寒修行鉦叩く僧冷たからん」「脱法‎ハーブ吸ってみたけりゃ吸ってみな」「STAP細胞在ると言うのは本当か?」などと、幾らでも詠めるではありませんか?
 とは申せ、本句は必ずしも駄作というべき程のクダラナイ作品ではありません。
 歌人の奥村晃作氏の第一歌集『三齢幼虫』に「次々に走り過ぎ行く自動車の運転する人みな前を向く」という作品が在り、これが奥村晃作氏ご自身の謂うところの「気付きの歌」即ち「認識の歌」として大いに評価されている事は、短歌ファンならば、何方でも知っている事実である。
 短歌に「気付きの歌・認識の歌」が在る事が許されるならば、俳句にも「気付きの句・認識の句」が在る事が許されても当然の事でありましょう。
 本句こそはまさしく「気付きの句・認識の句」でありましょう。
 〔返〕  愛妻に死なれた夫は泣くならむ
      クワガタに逃げられた児も泣くならむ
      撮る花が無くて北さん泣くならむ
      日本が沈没したなら我泳ぐ
  

(川崎市・しんどう藍)
〇  水桶に浮きつ沈みつ玉茄子

 文部科学省所管の「科学技術・学術審議会」の下部組織、「資源調査分科会」から平成17年1月24日に出された「報告書」、即ち「五訂増補日本食品標準成分表」の記載するところに拠ると、「茄子に含まれている水分量は全体量の93.2%である」とのこと。
 したがって、「水桶」の中で「玉茄子」が「浮きつ沈みつ」する訳はありません。
 仮にでも、そういう現象を川崎市にお住いのしんどう藍さんが御目文字なさったとしたならば、それは「玉茄子」を入れた「水桶」に水道水を流しっ放しにしている状態にしている場合に限られましょう。
 この暑さ盛りで、節水が叫ばれている砌に、水道水の流しっ放しはいけませんよ。
 それともう一点、本句の表現に就いて注目するべき点は、「玉茄子」という単語に就いてである。
 「玉茄子」の「玉」は、それに下接する名詞をより美しいものとして印象付ける為の言葉、即ち「美称」であって、例えば「玉葱」や「お玉杓子」の「玉」とも異なり、「玉ころがし」の「玉」とも厳然として異なり、むしろ「玉人・玉杯・玉砕・玉座・玉楼・玉屑・玉の輿・玉手箱」などの「玉」と共通したものなのであり、この世の中に「玉茄子」と称する野菜は存在しないのである。
 したがって、本句中の「玉茄子」という語は、斎藤茂吉作の「最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも」(『白き山』所収)という短歌の中の「逆白波」と同様に、本句の作者の造語として捉える他はありません。
 という事は、本句の作者・しんどう藍さんは、夏の風物詩である「茄子」に「玉」という美称を冠せれば「玉茄子」という、茄子の円さや独特の色艶などをより印象的かつ美しく見せる事が出来る「新語」を発明して、その新語をより有効的に活用する為に「水桶に浮きつ沈みつ玉茄子」という、現実には在りもしない現象を多くの読者の方々の前に現出せしめた、という事にもなりましようか?
 と言っても、私は、何も、本作を真っ向から否定しようとしている訳ではありません。
 否、むしろ、本作は夏の風物詩の「茄子」を「玉茄子」と捉える事に拠って、よりその特質を美しく見せる事が出来たのであって、本作の成功は、作者のしんどう藍さんが、「玉茄子」という新語を思い付いた瞬間から約束されていたものとして、称揚しているのである。
 〔返〕  玉茄子の玉なる藍に焼き明礬まぶして漬ければ色佳く漬かる


(横浜市・込山正一)
〇  信州の山に谺す夏のうた

 本句の作者、即ち、横浜市にお住いの込山正一さんは、「信州」という土地柄に、特別な文学性が備わっているものと信じているのでありましょうか?
 そうで無ければ、「信州の山に谺す夏のうた」などと言う、凡そクダラナイ俳句を詠んだ訳が判りません。
 ものは試しと思って、日本全国到る所の山々に「夏のうた」が「谺」するという内容の俳句を、この私が詠んでみましょうか?
 〔返〕  利尻島の峰に谺す夏のうた
      日高峰に谺せるらむ夏のうた
      大雪の峰に谺す夏のうた
      お岩木の峰に谺す夏のうた
      猊鼻渓の巌に谺す夏のうた
      鳥海の高嶺どよもす夏のうた
      故郷のお御岳山は気高いな
      山形の山に谺す夏のうた
      山形の初孫甘くて旨くない
      松島の島に谺す夏のうた
      福島の廃墟に谺す夏のうた
      安達太良の峯に谺す夏のうた
      みちのくの山に谺す夏のうた
      白河の関に谺す夏のうた
      下野の那須に谺す夏のうた
      上野の山に谺す夏のうた
      房総の巌に谺す夏のうた
      袋田の滝に唱和す夏のうた
      奥多摩の峰に谺す夏のうた
      丹沢の峯に谺す夏のうた
      山梨の富士に谺す夏のうた
      静岡の富士に谺す夏のうた
      八ヶ岳の峰に谺す夏のうた
      奥飛騨の山に谺す夏のうた
      新潟の山に谺す夏のうた
      新潟の八海山は旨い酒
      黒部なる峡に谺す夏のうた
      奥能登の千枚田に谺す夏のうた
      永平寺の塔に谺す夏のうた
      鈴鹿なる御在所岳の夏のうた
      琵琶の湖のミシガン号の谺かな
      那智の滝の巌に轟く夏のうた
      吉野なる青根ケ峯の夏のうた
      大阪の道頓堀の夏のうた
      比叡峯の根本中堂夏のうた
      六甲の颪に負けぬ夏のうた
      岡山に山は無くても夏のうた
      広島のキノコ雲にも夏のうた
      大山の山に谺す夏のうた
      隠岐の島赤禿山の夏のうた
      萩の出の吉田松陰夏のうた
      粟島の紫谷山(しっきゃ)に谺す山のうた
      徳島の祖谷の名物「山の芋」
      徳島の剱山どよもす山のうた
      愛媛なる石鎚山の山のうた
      土佐国瓶ヶ森に谺す山のうた
      筑豊のボダ山に谺す山のうた
      九重なる低き山脈夏のうた
      阿蘇山の峰に谺す夏のうた
      高千穂の峰に谺す夏のうた
      長崎の街を見下ろし夏のうた
      鍋島の化け猫出づる経ヶ岳
      鹿児島は桜島かも夏のうた
      屋久島の杉に谺す夏のうた
      沖縄で於茂登岳が最高峰